友人に誘われてミクシーに参入してみた
みな素晴らしい考察を以って持論を展開している良質なトピックである。
ただ「何々学」云々が散見するが、筆者のような官制学では無学の部類に入る者が知としての古典を観照して人物をみることに幾分科の抵抗がある。
利他の増進に活学として己の意思を表明するとき、確かに当てはまることもあり、あるいは師の説かれた古典の応用活学に吾が意を確認する事はあっても、似て非なる民族の情緒から発生した言辞をマニュアルの如く用とする事は馴染まない。
勇ましい行動論や人間の至る処を明らかにするものであっても、あるいは世相を鑑みて幕末の大塩平八郎や松陰をはじめとする志士の思想形成なり、事跡を回顧するものだとしても、それが「何々学」によって行なわれたとする客観的視点は、ときに客観的という位置がが内包する依頼心や受動的願望に陥らないかと不安になる。
勇まして部分の突破力、問題意識と構想力、肉体的衝撃を恐れない確固とした意志は学ぶとともに習慣化、肉体化されて自身を治められるものだ。
まず己を治めることだ。
「異なることを恐れない勇気と意思」
そのようなことで場違いのような駄論を書き込んだ。
以下、転載する
≪当時の碩学は「・・・学」はともかく、肉体化され習慣化され、なによりも「・・・学」の到達点である「我何人(ナニビトゾ)」に向かって躍動していた。
経過や客観視することの、つまり理解の背景に「・・・学」であろうと観るが、明治の彼等にとってはごく普通の趣だった。
もし驚愕の姿を倣って吾が身を修学すれば、「学」以前の誰にでも潜在するであろう良心なり徳心を内観すれば、同様な人間の姿として映るでしょう。
(内観)・・・(五臓、あるいは五内ともいう自身の肉体と心の内と今までの経過を観る)
陽明の倣いに観れば、科挙試験に落ちた友の嘆きと恥の覚えに、「落ちたことは恥ずかしいことではない、それが恥ずかしいと考えることが恥を悟ることだ」と、また教師が学問をすれば立身出世ができると督励したところ、「私は聖賢のようになるのが望みです」との幼少の逸話がある。
聖賢とは学を修めた賢者ではなく、存在するだけで人の倣いになるような人物です。
とはいえ陽明は長寿全うしています。
あくまで似て非なる文化を持った人々から説かれた唐学です。西洋の解明システムも同様ですが、独立でも折衷でも此処に棲み分けられ生を継続し、かつ複雑な要因を以って形成された社会なり国家の一員として、臨機、臨度に潜在するものを唐学、洋学に照らし合わせることが必要です。

大分後になって安岡氏が在学中に「王陽明研究」という書を著した。
大変評判になった、そこで筆者は問うた
「明治初頭の人物は修学していたが、先生のころの官制学では忌諱されたカリキュラムだったのですか・・」
「大学の教科には学ぶべきものがなく、いつも図書館に通っていた。とくに立身出世の具になると文字は読めても意味が解らない官吏軍人が多くなった。勇ましいことを言っているが行動は一過性だ。人間の在るを知らずして格も別もない。
組織や戦略に長けても、吾が身の始末もつけられないことには学は知の飾りでしかない。知には識という道理が伴わない口舌や文は軽薄な人々をつくり、堕落する・・」
「聖賢の教えは聖賢の書に記されている。真の読書人(知識人)は聖賢の教えを学び、そして実行することこそ、真の読書人たる由縁である」
清末の読書人、梁巨川の言を結びとして駄論を閉じたい≫