まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

mixi ミクシーにみる王陽明の「学」

2009-12-30 10:51:49 | Weblog


友人に誘われてミクシーに参入してみた

みな素晴らしい考察を以って持論を展開している良質なトピックである。

ただ「何々学」云々が散見するが、筆者のような官制学では無学の部類に入る者が知としての古典を観照して人物をみることに幾分科の抵抗がある。

利他の増進に活学として己の意思を表明するとき、確かに当てはまることもあり、あるいは師の説かれた古典の応用活学に吾が意を確認する事はあっても、似て非なる民族の情緒から発生した言辞をマニュアルの如く用とする事は馴染まない。

勇ましい行動論や人間の至る処を明らかにするものであっても、あるいは世相を鑑みて幕末の大塩平八郎や松陰をはじめとする志士の思想形成なり、事跡を回顧するものだとしても、それが「何々学」によって行なわれたとする客観的視点は、ときに客観的という位置がが内包する依頼心や受動的願望に陥らないかと不安になる。

勇まして部分の突破力、問題意識と構想力、肉体的衝撃を恐れない確固とした意志は学ぶとともに習慣化、肉体化されて自身を治められるものだ。

まず己を治めることだ。
「異なることを恐れない勇気と意思」
そのようなことで場違いのような駄論を書き込んだ。

以下、転載する





≪当時の碩学は「・・・学」はともかく、肉体化され習慣化され、なによりも「・・・学」の到達点である「我何人(ナニビトゾ)」に向かって躍動していた。

経過や客観視することの、つまり理解の背景に「・・・学」であろうと観るが、明治の彼等にとってはごく普通の趣だった。

もし驚愕の姿を倣って吾が身を修学すれば、「学」以前の誰にでも潜在するであろう良心なり徳心を内観すれば、同様な人間の姿として映るでしょう。

(内観)・・・(五臓、あるいは五内ともいう自身の肉体と心の内と今までの経過を観る)

陽明の倣いに観れば、科挙試験に落ちた友の嘆きと恥の覚えに、「落ちたことは恥ずかしいことではない、それが恥ずかしいと考えることが恥を悟ることだ」と、また教師が学問をすれば立身出世ができると督励したところ、「私は聖賢のようになるのが望みです」との幼少の逸話がある。

聖賢とは学を修めた賢者ではなく、存在するだけで人の倣いになるような人物です。

とはいえ陽明は長寿全うしています。

あくまで似て非なる文化を持った人々から説かれた唐学です。西洋の解明システムも同様ですが、独立でも折衷でも此処に棲み分けられ生を継続し、かつ複雑な要因を以って形成された社会なり国家の一員として、臨機、臨度に潜在するものを唐学、洋学に照らし合わせることが必要です。





             




大分後になって安岡氏が在学中に「王陽明研究」という書を著した。
大変評判になった、そこで筆者は問うた
「明治初頭の人物は修学していたが、先生のころの官制学では忌諱されたカリキュラムだったのですか・・」

「大学の教科には学ぶべきものがなく、いつも図書館に通っていた。とくに立身出世の具になると文字は読めても意味が解らない官吏軍人が多くなった。勇ましいことを言っているが行動は一過性だ。人間の在るを知らずして格も別もない。
組織や戦略に長けても、吾が身の始末もつけられないことには学は知の飾りでしかない。知には識という道理が伴わない口舌や文は軽薄な人々をつくり、堕落する・・」


「聖賢の教えは聖賢の書に記されている。真の読書人(知識人)は聖賢の教えを学び、そして実行することこそ、真の読書人たる由縁である」

清末の読書人、梁巨川の言を結びとして駄論を閉じたい≫
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  小沢君 清規と陋規  決め事は二つある

2009-12-21 10:08:38 | Weblog
            「竹本」 増田忠彰



清規は法律であり、陋規は掟、習慣である。

清規は時と都合によって書き換えたり、加えられたりしながら煩雑になり、三百代言ならぬ法律代弁者である弁護士の詭弁を借りなければならぬ、一つの世界を司る、ある意味では食い扶持にもなる規(法)のことである。

たとえば交通法規などは飲酒運転が増えれば法によって罰金などを変え、高齢者が増えれば賦課金や税金を増やし、それの事務従事者や取締り警察官および補助者も増えて予算も増大する。

ただ、困ったことに法も予算も人員も増えるだけで減らない。

立法府を構成する議員でさえ歳費、特権は増え定数さえ与野党馴れ合いの状態で、行政府にものを云うことも出来ず、゛国民がこう云っているから・・・゛と大衆の嫉妬や怨嗟を利用して素餐を貪っている。

大衆とて子供は一度手にした小遣いや携帯は手放さないしい、また大人も味わった放埓自由や権利意識を手放すことは無い。ただ民間の貰い扶持は倒産や破産の困窮もあり議員は落選があるが、官吏は法に守られて安住している。これが国家の法の現況であり、遍く照らすことはない。



           

         
            あの時の仲間    左端 「竹本」 筆者撮影



一方の陋規にいう掟、習慣だが、広く明文化されるものではないが人の常識や観念、心根におかれている。またこれが怠惰に崩壊すると幾ら官制スローガンを唱えても浸透せず、元通りになるには三代、約百年かかるといわれている。

過日も会社で云えば専務ら当たる若頭が親分を脅したということがあった。会社でも議論でやられたといっても法には触れないが、個人的に脅せば脅迫罪がある。近頃は口もきたなく行儀が悪い社員も増えたが、あくまで法の庇護にある。

他方、法の庇護を受けないような独特の矜持を習慣化している稼業の世界においては法の代わりに「掟」がある。そこには罰がある。指つめ、破門がそれだが、これが厳格に行なわれないと「掟」が弛緩(しかん・・ゆるむ)して集団が保てなり弱体化する。一般には理解できないものだが、教室の子供が騒いだり、モンスターペアレントなどといわれた保護者の横暴が止め処も無い圧力となった場合を想定するといい。

やたら法を振り回して警察官を呼んだり、裁判所に訴えだす教師、親もいるが、「なじまない」ことでもある。この場合は尊敬と畏怖、信頼と感謝、それを元とする慈愛と社会性の教育が前提となるが、職分はともかく人間性の問題になるようだ。あの麻生さんが言っていた「さもしい」「卑しい」のことでもある。




              

          湯にひたる  銀座にて  「竹本」



単純明快な話がある。
ある稼業の親分は若い組員に
「飯をよくとれ、残さず食べろ、飯も喰えないようでは稼業は勤まらない・・」
稼業は男を売るというが、近頃では見栄とハッタリで身持ちを悪くする者もいるが、飯の分量も分からず、しかも残すようなものまで欲しがる若者に的を得た教導である。

なかには税金もガソリン代も払えずベンツに乗り、女に見栄を張るために借金を重ねて別世界の「法」の厄介になるものもいるが、前記した清規を弄ぶ輩の懐に敢えて入ることの愚を親分は教えているようだ。

また、今どきの「お上」の事情は目を覆うばかりだが、家庭でも組織でも郷でも陋規が衰えている。とくにそれを支える忍耐力、良知(誰にも教えられなくても自覚する智恵)の衰えは親分さえ,‘決まり事‘を多発しなければならなくなってしまう。格好良くて、男らしく、好きなことが出来る、その世界でさえ棲みつらくなってしまう。


「法」を支えるのは陋規であり人情である。

それゆえ「人情は国法より重い」といっている。

それを以てして義理と人情なのである。

何ごとも己の器量に合った゛ほど゛が肝要である。

゛やせがまん゛すらでできない男、詰まるところ、゛格好つかない゛男が増えた。


其の点、昔の女は懐刀を抱いて自らの恥に吾が身を突いた。
相手を突く護身用などとはもってのほかと弁えていた。

刃は人に向けるものではない。それが倭人の趣でもあろう。


{資料写真 竹本より寄贈}
コメント (2)
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