教育の手法は、聴く,読む、書くなどかあるが、一方、面前に現れた体験記憶をたどり、現実の事象に当てはめる思索や観照(本質を見極める)がある。前者は、知った、覚えたという「知」に属し、後者はその所以を「識」(道理)として得るものであり、総じて教養とも理解され「知-識-人」と称される。
近ごろでは「知」は数値選別の具となり、「識」の欠けた「知」を偏重した痴病になっている。それゆえ肉体的生育とともに残像として集積された情緒的涵養を知に連動する行動表現において致命的欠陥を生じている。
あの後藤新平の娘婿、父(鶴見祐輔)を評して、「父はエリートだったが、そのために情緒的に部分の涵養がなく、俳句などは作れない・・」といっている。また近代のエリートはその情緒的な部分、たとえば、友人関係の心情、他との情緒的関連性などの欠如なくして現代の学制におけるエリート教育の競争に勝てない切迫感がある。との意をインタビューで述べている。なによりも母親の言う「あなたは後藤新平の孫ゆえ・・・」という慣性訓導は鶴見俊介をして米国逃避させている。だが母への恋慕からは抜けきれなかったという。
何よりも強烈に残るものは肉体的衝撃などとともに、耳目触感や臭覚などの五感にふれる体験が有効な残像集積となる。それゆえ鈍感、敏感を問わず、肉体的浸透が古今の学びに云う修行や経年観察などの様々な学び方として臨機に応用されている。
僧侶の修行は厳しい肉体的制御や衝撃をともない、生産性産業も学問の一如(同様なもの)として良質な習慣性を促している。
トヨタの5Sという就労の仕組みも、技術のみならず異なる職掌の協調と連帯を図るものだ。つまり技術者より技能者の養成を描いたものだ。
部分の作業を次の作業にスムーズに伝えることはアッセンブリー(組立)の連携を効率的に伝え、たとえ部分作業でも前後の関係性を多面的な視野に入れる、つまり技術能力(技能)に高める効果があった。身の回りの整理はケガを防ぎ、工具や部品の欠損や所在確認を促す。
また、部品の整理、完成物の構内運搬の簡素化、受け入れ準備などは敢えて規範、制度化することなく、もともと幼少期の良質な習慣性にあったものだが、教育課程の部分化や成果の数値化を図るあまり、亡失した習慣能力でもある。その劣化と将来の弛緩(ゆるみ)を危惧した事前処置でもある。販売でも当てはまる。トヨタの国内販売は全量の40%、ホンダは10%だが、近ごろの為替投機にみる恣意的にも映る外的影響を受けるのは後者のほうだ。
そこには生産性の背景にあるもの、利益の基にあるものを人間の変化の問題として考える歴史的考察がある。
そのための人の行動に技術を習い、集積された形態に倣う面前教育が重要だった。
その人間だが、標記の面前教育に戻れば面前対応と、面前をスルーした現象の対応があるが、近ごろでは面前にある驚愕、感動、忌避など前記の体験浸透がなくなり、とくに宗教的にも感情的にも隠され、装飾された面前現象で動くことで文化を染めている状況だ。
「愛情をもって栄養のあるエサを与え、ストレスのない環境で大切に育てている牛なので食べたら美味しい・・・」
天邪鬼だが、これがペットの犬や猫ならどうだろう。ときに同居者より愛され寝床も一緒にして墓まで作るほど大切な動物だ。奇談だが、バングラデッシュには犬を飼う風習はないが街を徘徊する野良犬は穏やかで誰彼となくエサを与えて可愛がっている。
ある時、その犬がいなくなった。みな不思議だった。分かったことは韓国からの労働者がエサに引き寄せられたおとなしい犬を食べてしまったのだ。誰の所有物でもなかったが、政府は労働者を国外退去させた。これは人間の都合では良し悪しの問題ではなく、民族的嗜好ゆえ、そぐわない人たちとして排除した。
南欧のソーセージは旨い。直前まで子供たちと戯れていた豚を、その子供たちの面前で殺し、首を切り取り、腹を裂き、腸を引き出し、血は香辛料を混ぜてサラミとなる。肉は切り刻んでソーセージやハムとなる。それを子供の面前で行い、子供も手伝うことが平気になる。
台湾では夜市の後ろで鶏の首をひねっている。肉は焼かれ、骨は良質のスープになり、足は甘辛く煮る。その脇では竹かごに入れられた鳥が声を立てずに凝視している。
人間の世界でもよくある。独裁国家での公開処刑、部族争いでの虐殺や婦女暴行。
武士の社会でも決闘や罪人の磔や拷問などは日常だった。互いに非難しあっているが日本とて現地軍の暴虐は激しいものだった。シナ派遣軍参謀だった(若杉参謀)三笠宮崇仁親王殿下は泥沼の状況を
「皇軍が皇軍たり得ておらず、その名に反する行為(暴行略奪など)をしている、これでは現地民から尊敬などされるわけがない。今の皇軍に必要なのは装備でも計画でもない、“反省”だ。自らを顧み、自らを慎み、一挙一動が大御心に反していないかを自身に問うこと」つまり大御心に沿えない日本軍人の行為が原因と派遣軍の行為を叱責している。これも面前ならではの理解と深慮であろう。満州崩壊でもロシア軍は夫や子供の目の前で妻子を強姦した。残酷は男だけの問題ではない。ロシアの屈強なロシアの女兵士はトラックで男狩りに来た。連れ去って陰部を舐めさせ、男は口唇梅毒になった。みな、面前の目撃経験だ。
世俗のことだが、いま高齢者の自動車免許の更新が少なくなっている。一つの理由だが、駐車違反の摘発が簡便容易になったせいか取り締まりが増えていることだ。緑虫と揶揄される職員の捕りものは寸暇の油断もない。とくに高齢者は駐車場の発見もままならず、見つけても高い料金や満車では自動車利用の意味がない。これも面前権力に追い立てられ駐車することもできなくなった利用者の学習結果だ。
口に入るものは動植物の死の形態や尊厳は隠され、異形に装飾される。見るものは架空現実によって事実を隠されている。つまり本物が隠される、いや提供者からは隠さざるを得ない事情を受けても理解しているからだろう。なかには偽装だと騒ぎ立てるが、己とて実生活では嘘の自分を演技しなければならない日常の生活ですら、維持しなくてはならない切迫感でもあろう。
権力は面前で見せる示威的な力が統治の倣いだが、ここまで法が煩雑になり、しかも曖昧な運用という恣意的な使い方がされると、面前でみる姿が法の意味なのかと理解するしかない。
人を見ることも人格や土壇場の所作を推考することができなくなった。
つまり、人の選別が附属性価値である、地位、名誉。学校歴、財力が手っ取り早い評価だが、震災や原発問題、あるいは、いずれ起こるであろう対外的示威行為(外交威圧、戦争)の判断とその信頼性は、あくまで責任当事者の見識と決断に委ねられる。表れるのは一部だが、面前観察で読み解く行為の意志は、日常の面前教育から真の実態をみる習慣性が必要だ。
動植物が生命を絶たれるとき、生命が誕生するとき、他人が肉体的衝撃を受けたとき、それは総ての五感を震わせ残像として集積される。現代人は面前で現れるべき真偽判別の多くを情報宣伝に委ねるが、それが流れとなればなおさら浮動する。ことさら裏を窺ったり、覗き見することを勧めるわけではないが、真の実像があることを知らなくてはならない。
それは生死に臨むときの情感であり、自己の死生観に重ねあわせることでもある。
どこで産まれ、どんな環境で育ち、そして人間種に美味しいといわれる。それは動物に限ることではない。
食べ物の一例だが、せめて、金子みすずさんの詩を想いだしてほしい。
「浜は大漁の祝い、海の底ではお葬式」
敢えて宗教も難解な哲学も必要はない。
畢竟、ここを押さえなければ学びなどない。