まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

失意のなかの一声 2007 11 再

2014-02-11 12:36:23 | Weblog


 

               津軽弘前の秋

「人間がおるじゃないか」とは弘前の東奥義塾の創設者である菊地九郎の言葉である。
戊辰の役を経て藩籍を消滅させた津軽藩とその民衆は、目立った殖産もない郷土を憂い将来の希望をなくしかけたとき、若干25歳、薩摩の私学校から戻った九郎が憂いを打ち払うごとく発した一声である。

同様に戦火に疲弊し気風が萎えかかった長岡藩でまず第一に行ったことは、有能なる人材を集め家老の小林虎三郎によって行われた論語の講義でした。

ドイツではナポレオンによってベルリンが蹂躙されているとき、フランス軍のラッパがなっているさなかベルリン大学総長リフティはベルリンの指導者に向かって大講演をおこなっています。 この土壇場における勇気と献身はドイツ国民に共鳴と感動を遺し、後の復興に大きな影響を及ぼしました。

昭和20年、敗戦に打ちひしがれたその日、同様に一隅の一声を上げた人物がおります。 疎開先の山梨県岩間村で終戦の報を聴いた下中弥三郎
「教育を高めてさえおけば、その国、その民族は亡びることはない…」と決然として起ち、その信念を基に出版界に身を投じ平凡者を創設し、独特で普遍な世界観を終生、唱えながら平和と教育に全力を傾けています。

その下中が共感し兄弟のように親交したインドの司法家、ラダ・ビノード・パルは日本を裁く極東軍事裁判において一人毅然として無罪を主張し、真正な司法判断のもと西洋によるアジア植民地の歴史をも問うています。 また下中同様の世界観、歴史観から
「時が熱狂と偏見が過ぎ去った暁には、女神は秤の均衡を保ち、賞罰の置く処を変えるであろう」と述べています。

蒋介石総統は戦勝にあたり「恨みに報いるに徳を以ておこなう」と、国父孫文のアジア友誼の祈願を呈して全中国民族に篤声をもって唱えています。
戦争は極端な窮乏と混乱が待ち受けています。 そのため生きる、食う、物を得る、金を儲けるといった目先の生活や、功利、利害に夢中になるようです。

そんなときこそ民族の軽重が問われる時であり、下中翁のような一声と行動が必要です。 学歴による難しい言葉や、財力、力による恫喝、地位による専横などはありません。
稚拙でもいい、先ず「一声」を上げることでした。
勇気もある、知恵もある、しかも自然でたおやかな風義が漂う先達の創った歴史の息吹が懐かしくも思える時節です
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都知事選??

2014-02-03 11:42:32 | Weblog
官選東京知事 後藤新平

このブログで再三取り上げている「五寒」に政外がある。いわゆる政治のピントが外れるということだ。
選挙は候補者、支持政党、応援者の思惑で動くようだが、今回は同床異夢だ。
これは天の邪鬼が想像するだけでなく、都民も真面目な選択もできなくなっている状況だ。

オリンピック、福祉、原発、どれも美辞スローガンにはなっても善良な意志を喚起し、負託に適う問題ではない。時代は代わっても人は変わらず、村の祭りの小屋掛け芝居のカスリ(利権)はどうするのか、沿道の清掃、郷の岡っ引き村役人の出ズラ(賃金)や藩役人のメンツなど、はたまた小屋は丸太にむしろばりか、大工の普請かなど、流れ役者の演目より面白い武蔵ノ郷の騒ぎのようだ。

都民の本音はどこか・・・・、尋ねてみれば一応に頷(うなづく)ことがある。








一つは税の徴収と支出の監視だ。

紙面でも都民版で記者も熟練されていない。先進国の国家予算ほどある予算や支出、行政組織、天下り、外郭団体、などの実態は国政ほど興味がないのか周知されない。また、首長の権限が過大なのか、議員の顔が見えず、勉強もしない喰い扶持議員が官吏に踊らされている地方政治そのままの状況だという。箱モノや理屈が体裁が良いだけ始末が悪い。
オリンピックの準備金が4000億あると猪瀬氏はほざいたが、まずはそんなに有ったのか、という驚きだ。税を出したら最後、官吏の財布になるのは諦観だが、そんなに貯め込んでいたとは驚きだ。一方では代々続いた善良な農家が固定資産税の支払いに困り、不動産屋の甘言にのって相続税対策でマンションを立てたが借り手もなく差し押さえられ銀行に召し上げられ、母屋まで取られた悲劇が数多ある。つまり、税の徴収の問題だ。この人たちは諦めに似た気持ちで選挙を眺めているが、往々にして町の主だった人として御用委員や与党応援の床の間の石にされている。

税は、いくら獲得より、無駄なく有効に使ったかが都民にとっては重要だ
数年前の国の会計検査院の報告に無駄遣い4000億強とあった。10年で4兆円とはあえて増税しなくても復興はまかなえる。自治体とは財布が違うというが、国民の財布は一緒だ。しかも氷山の一角だから驚く。経済効果ならオリンピックでなくても遣り方がある。ただ、巷間いわれている旧来の土木建設の利権は暗黙のうちに縄張りができている。それ以外のIT、文教、スポーツなどに関わるものは新規の利権として、その時に手を付けた勢力のものとなる。よく海外援助と称するもののなかにODAがあるが、所管は外務省、金主もとは財務省、多くは省益がからんでいるが、政治家のそれはお手盛りや便宜供与の類だ。

たとえ四百万超えの支持があっても、威張って慢心した知事ではやりにくいとマスコミも参戦して一斉に引きずり落としにかかった。目の前は7兆円という宝の山だ。要はこの選挙の目的は誰が主導権を握るか、ましてその問題を大げさに取り上げるわけにもいかず、いつもの原発、福祉、安全、という、ありふれたスローガンを叫んでいるだけだ。







道理に合わない!・・と。 小泉進次郎氏



二つ目は政治家の実態だ

この選挙の本当の意味を知らなくてはならないのは都民だが、史上最高で当選して5000万疑惑で崩落、ましてこの世界では人の食い扶持には口を差し挟まないのが彼らの掟だ。
いや、だった。あの郵政選挙までは・・・・。

郵政利権は有り余る資金を公共事業に投下して利権集団を太らせていた勢力との戦いだった。表は郵政改革だが、ハゲタカが預金を狙っていると声も聞こえた。
こんどは原発だ。表は環境と処理問題だが、的は増長した政権が原発を利権化することへの危機感だ。つまり利権構造の変化を読み取ったことによる憂慮だ。

「しばらく野党になったら利権から遠ざかるだろう」とは、小泉氏の言だった。
しかし、行儀の悪い体質は与党の敵失で難なく政権に就いた。しかも、小物になった経済界、マスコミ、より狡猾になった官界、それらに迎合する政界の群れのたどり着く末は、隣国のように外部の敵に耳目を集めることになることは明らかだ。表は脱原発だが、真意は脱現政権の驕慢と弛緩にたいする叱責だ。分からなければ打倒だ。

もとより、この国の民主の「主」は、何を考えて権利の委託をするのだろうか。
外からの体裁はともかく、強権による税の徴収、放漫な予算の執行と無駄使い、官吏の惰性と不作為など、なにも国民を相競わせ、相争わせるような施策に加え、敢えて愚民化するような騒がしい情報を垂れ流すマスコミに乗ずる「主」の問題意識はどうなのだろうか。









三つめは行政の実態だ

普段、都政は耳目を集めない。新聞も都民版で読者も限られているし内容もイベント並だ。しかし、予算規模も膨大で警視庁も消防庁もその行政にあるが、耳目を集めるのは名物知事の言辞が際立っている。石原氏のオリンピック、尖閣諸島購入、以前は青島氏の都市博中止や、鈴木氏の都庁移転だが、知事本来の行政責任者としての功績は都民の耳目には入ることが少ない。とくに国同様、膨大な外郭団体とそれらに対する委託や補助金、行政に滞留する古き陋習、勤務実態など、本来行政責任者が行うべき当然なる管理監督の成果など、知るすべもない。

聖徳太子の十七条ではないが、税が適正に使われ、法を恣意的に用いて罰金を徴収したりせず、公平と正義が行われるよう目を光らせるのが都知事の権限であり、権力の方向性なのだが、まだやんちゃだが大阪の覚醒改革運動のほうが解りやすい。

まだ、志位氏や石原氏や小泉氏が立候補したほうが解りやすい。
格好つけている時世ではないと思うのだが・・・

イメージは参考サイトより転載
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面前教育と譲る心

2014-02-01 14:04:35 | Weblog


教育の手法は、聴く,読む、書くなどかあるが、一方、面前に現れた体験記憶をたどり、現実の事象に当てはめる思索や観照(本質を見極める)がある。前者は、知った、覚えたという「知」に属し、後者はその所以を「識」(道理)として得るものであり、総じて教養とも理解され「知-識-人」と称される。
近ごろでは「知」は数値選別の具となり、「識」の欠けた「知」を偏重した痴病になっている。それゆえ肉体的生育とともに残像として集積された情緒的涵養を知に連動する行動表現において致命的欠陥を生じている。

あの後藤新平の娘婿、父(鶴見祐輔)を評して、「父はエリートだったが、そのために情緒的に部分の涵養がなく、俳句などは作れない・・」といっている。また近代のエリートはその情緒的な部分、たとえば、友人関係の心情、他との情緒的関連性などの欠如なくして現代の学制におけるエリート教育の競争に勝てない切迫感がある。との意をインタビューで述べている。なによりも母親の言う「あなたは後藤新平の孫ゆえ・・・」という慣性訓導は鶴見俊介をして米国逃避させている。だが母への恋慕からは抜けきれなかったという。

何よりも強烈に残るものは肉体的衝撃などとともに、耳目触感や臭覚などの五感にふれる体験が有効な残像集積となる。それゆえ鈍感、敏感を問わず、肉体的浸透が古今の学びに云う修行や経年観察などの様々な学び方として臨機に応用されている。
僧侶の修行は厳しい肉体的制御や衝撃をともない、生産性産業も学問の一如(同様なもの)として良質な習慣性を促している。











トヨタの5Sという就労の仕組みも、技術のみならず異なる職掌の協調と連帯を図るものだ。つまり技術者より技能者の養成を描いたものだ。
部分の作業を次の作業にスムーズに伝えることはアッセンブリー(組立)の連携を効率的に伝え、たとえ部分作業でも前後の関係性を多面的な視野に入れる、つまり技術能力(技能)に高める効果があった。身の回りの整理はケガを防ぎ、工具や部品の欠損や所在確認を促す。

また、部品の整理、完成物の構内運搬の簡素化、受け入れ準備などは敢えて規範、制度化することなく、もともと幼少期の良質な習慣性にあったものだが、教育課程の部分化や成果の数値化を図るあまり、亡失した習慣能力でもある。その劣化と将来の弛緩(ゆるみ)を危惧した事前処置でもある。販売でも当てはまる。トヨタの国内販売は全量の40%、ホンダは10%だが、近ごろの為替投機にみる恣意的にも映る外的影響を受けるのは後者のほうだ。
そこには生産性の背景にあるもの、利益の基にあるものを人間の変化の問題として考える歴史的考察がある。
そのための人の行動に技術を習い、集積された形態に倣う面前教育が重要だった。

その人間だが、標記の面前教育に戻れば面前対応と、面前をスルーした現象の対応があるが、近ごろでは面前にある驚愕、感動、忌避など前記の体験浸透がなくなり、とくに宗教的にも感情的にも隠され、装飾された面前現象で動くことで文化を染めている状況だ。

「愛情をもって栄養のあるエサを与え、ストレスのない環境で大切に育てている牛なので食べたら美味しい・・・」
天邪鬼だが、これがペットの犬や猫ならどうだろう。ときに同居者より愛され寝床も一緒にして墓まで作るほど大切な動物だ。奇談だが、バングラデッシュには犬を飼う風習はないが街を徘徊する野良犬は穏やかで誰彼となくエサを与えて可愛がっている。
ある時、その犬がいなくなった。みな不思議だった。分かったことは韓国からの労働者がエサに引き寄せられたおとなしい犬を食べてしまったのだ。誰の所有物でもなかったが、政府は労働者を国外退去させた。これは人間の都合では良し悪しの問題ではなく、民族的嗜好ゆえ、そぐわない人たちとして排除した。

南欧のソーセージは旨い。直前まで子供たちと戯れていた豚を、その子供たちの面前で殺し、首を切り取り、腹を裂き、腸を引き出し、血は香辛料を混ぜてサラミとなる。肉は切り刻んでソーセージやハムとなる。それを子供の面前で行い、子供も手伝うことが平気になる。
台湾では夜市の後ろで鶏の首をひねっている。肉は焼かれ、骨は良質のスープになり、足は甘辛く煮る。その脇では竹かごに入れられた鳥が声を立てずに凝視している。











人間の世界でもよくある。独裁国家での公開処刑、部族争いでの虐殺や婦女暴行。
武士の社会でも決闘や罪人の磔や拷問などは日常だった。互いに非難しあっているが日本とて現地軍の暴虐は激しいものだった。シナ派遣軍参謀だった(若杉参謀)三笠宮崇仁親王殿下は泥沼の状況を「皇軍が皇軍たり得ておらず、その名に反する行為(暴行略奪など)をしている、これでは現地民から尊敬などされるわけがない。今の皇軍に必要なのは装備でも計画でもない、“反省”だ。自らを顧み、自らを慎み、一挙一動が大御心に反していないかを自身に問うこと」つまり大御心に沿えない日本軍人の行為が原因と派遣軍の行為を叱責している。これも面前ならではの理解と深慮であろう。満州崩壊でもロシア軍は夫や子供の目の前で妻子を強姦した。残酷は男だけの問題ではない。ロシアの屈強なロシアの女兵士はトラックで男狩りに来た。連れ去って陰部を舐めさせ、男は口唇梅毒になった。みな、面前の目撃経験だ。

世俗のことだが、いま高齢者の自動車免許の更新が少なくなっている。一つの理由だが、駐車違反の摘発が簡便容易になったせいか取り締まりが増えていることだ。緑虫と揶揄される職員の捕りものは寸暇の油断もない。とくに高齢者は駐車場の発見もままならず、見つけても高い料金や満車では自動車利用の意味がない。これも面前権力に追い立てられ駐車することもできなくなった利用者の学習結果だ。

口に入るものは動植物の死の形態や尊厳は隠され、異形に装飾される。見るものは架空現実によって事実を隠されている。つまり本物が隠される、いや提供者からは隠さざるを得ない事情を受けても理解しているからだろう。なかには偽装だと騒ぎ立てるが、己とて実生活では嘘の自分を演技しなければならない日常の生活ですら、維持しなくてはならない切迫感でもあろう。
権力は面前で見せる示威的な力が統治の倣いだが、ここまで法が煩雑になり、しかも曖昧な運用という恣意的な使い方がされると、面前でみる姿が法の意味なのかと理解するしかない。

人を見ることも人格や土壇場の所作を推考することができなくなった。
つまり、人の選別が附属性価値である、地位、名誉。学校歴、財力が手っ取り早い評価だが、震災や原発問題、あるいは、いずれ起こるであろう対外的示威行為(外交威圧、戦争)の判断とその信頼性は、あくまで責任当事者の見識と決断に委ねられる。表れるのは一部だが、面前観察で読み解く行為の意志は、日常の面前教育から真の実態をみる習慣性が必要だ。











動植物が生命を絶たれるとき、生命が誕生するとき、他人が肉体的衝撃を受けたとき、それは総ての五感を震わせ残像として集積される。現代人は面前で現れるべき真偽判別の多くを情報宣伝に委ねるが、それが流れとなればなおさら浮動する。ことさら裏を窺ったり、覗き見することを勧めるわけではないが、真の実像があることを知らなくてはならない。
それは生死に臨むときの情感であり、自己の死生観に重ねあわせることでもある。

どこで産まれ、どんな環境で育ち、そして人間種に美味しいといわれる。それは動物に限ることではない。
食べ物の一例だが、せめて、金子みすずさんの詩を想いだしてほしい。
「浜は大漁の祝い、海の底ではお葬式」

敢えて宗教も難解な哲学も必要はない。
畢竟、ここを押さえなければ学びなどない。





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