まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

伴氏が憂う日本の役人  あの頃も

2024-06-28 07:55:20 | Weblog

 

今は高知の山奥に引っ込んで炭焼きをしたり、ときおり街なかで「夜学会」と称して寺子屋風の勉強会を開いたいる、元共同通信の伴武澄氏のコラムである。人は彼を反骨とか左翼かかっているという。

共同通信の待遇はあの朝日新聞をしのぐ高給だといわれているが、そんな位置から世俗を眺めるブンヤとは異なり、ことのほか浮俗の下座観が豊かな人物である。その第四の権力といわれるマスコミの経済部門に位置して、相手からすればイヤらしい視点で書き綴るコラムは、゛政府は嘘をつき隠す゛ことを赤裸々に表している。

人々は、すねる・嫉妬する・あきらめる。それらは為政者ですら手のひらで戯れさせる狡猾さだが、数多の国民は承知している問題だ。

まずは新年に際して寒気がする初笑いを楽しんでいただきたいと転載します。

 

       

        筆者台湾外交部にて 手前左 伴氏    

 

未成年飲酒防止を名目に酒の安売り阻止を図ろうとした国税庁

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1998年03月06日(金)
共同通信社経済部 伴武澄


 業界紙だからうちは書けないんです

 流通クラブ担当だった1994年10月初め、食品業界紙の知り合いの女性記者から電話がかかった。相談したいことがあるというので、翌日、同僚記者と近くの喫茶店に出かけた。

 「ひどいんです。国税庁は未成年飲酒防止を名目に、お酒に価格破壊に水を掛けようとしているのですよ。この報告書をみて下さい」

 差し出された分厚い報告書には中央酒類審議会・新産業行政部会の名が記され、「アルコール飲料の販売の在り方」と題されていた。当時、酒のディスカウン トショップが日本全国に広がって「酒を定価で買う」長年の習慣が崩れつつあり、業界は既得権益の崩壊に危機感を高めていた。

 「週明けに発表になるんですけど、批判的な立場から書いてもらえませんか。うちは業界紙だからあまり批判めいた記事は書けないんです」。彼女の目は真剣 だった。ぱらぱらめくると確かに「未成年の飲酒防止策」がたくさん並んでいた。「対面販売」「自販機の撤廃」「前払いカード自販機の開発」「容器への注意 喚起表示の義務化」など酒を自由に買えないよう策がめぐらされていた。

 圧巻は「安く大量に手軽に販売すればよいとする在り方は問題が多い」とし、価格破壊を進めていたディスカウントショップやスーパー店頭での「分別陳列」と「レジの分別」を求めた点だった。明らかに新興勢力への嫌がらせである。

 彼女が経済部記者であるわれわれにこの報告書を持ってきたのにはもうひとつの理由があった。国税庁記者クラブは社会部記者が中心になっている記者クラブ で、ふだんは企業の脱税事犯を追う立場にある。社会部記者は常々社会正義を追う使命に立たされているため、「未成年飲酒防止」などの枕詞がつけば、どうし ても「正しい規制」ではないかと考えがちだなのだ。彼女としては「規制緩和に逆行」といった見出しが欲しかったのだ。

 当時、多くの経済部記者は、規制でがんじがらめの日本経済に危機感を抱いていた。再生には価格破壊を含めあらゆる規制を撤廃する必要があるとの認識で一 致していた。われわれも社会的規制で価格破壊の流れを逆行させてはいけないと判断した。この記事は筆者らの独自ダネとして翌朝、多くの地方紙の一面を飾っ た。

 背後に業界団体と族議員、国税庁のトライアングル

 「アルコール飲料の販売の在り方」という名の報告書をまとめた背後には、酒類販売店の業界組織やそこを支持基盤とする自民党族議員の影があった。幸い、 審議会報告はまとまったものの、酒の自販機が街からなくなる事態にはなっていないが、業界組織と族議員そして安定的な酒税収入を確保したい国税庁との「癒 着の三角構造」が仕掛けた策だった。

 「未成年への酒類販売防止」という誰もが反対できない社会的規制を持ち出して、酒類販売店の既得権を守ろうとする姿勢はあまりにも卑劣だと考えた。彼女 の考えもそうだった。「レジを分別せよ」という項目は明らかにスーパーにコストアップを要求したに等しく、「容器への注意喚起表示の義務づけ」は輸入ビー ルに対する嫌がらせだった。

 この社会的規制がうやむやになった理由は、担当が変わったせいもあり追及していない。大蔵省が管轄している業界は金融、証券、保険のほか、酒類とたば こ、塩がある。酒類もたばこも税収は大きい。製品値上げと税率アップを交互に繰り返し、製品に占める税率を一定に保ってきた。両方とも従量制だから安売り しても税収は減らない構造になっているが、製品価格のアップがあって始めて税率をアップできる。ディスカウントショップのおかげで当分の間、酒税は上げら れないということだ。 

1998年02月28日(土)
共同通信社経済部 伴武澄


 2月16日付レポート 「『ご説明』-議員やマスコミを籠絡する官僚の手口」を読んだ感想やご批判を多くいただいた。多くの読者に共通した意見もあると思われるので、匿名で掲載させていただいた。

 

           

         台湾国立中央研究院    右 伴氏              

 

貧困な日本の住宅をつくった「以下の論理」

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1998年02月18日(水)
共同通信社経済部 伴武澄


 以下と以上の議論を知っているか

 これは、最近まで大蔵省の事務次官を務めていた小川是氏が課長だったころの会話である。

 「君は以下と以上の議論を知っているかね」
 夜回り先での会話である。住宅問題を議論していた。
 「知りません。何ですか。それ」
 「つまり、戦後の日本の住宅が貧困な理由なんだが、私がまだ駆け出しの事務官だったころ主計局であった論議だ。住宅金融公庫をつくって国民の住宅取得に安い金利の資金を提供しようということになった。そのとき、融資対象を45平方メートル以下にするか、以上にするかで議論があった。私は以下にしたら貧相な家ばかりになると以上に賛成したんですが、金持ち優遇になるとかで以下になった経緯があるんです。現実も発想も貧しかったんですね」

 45平方メートルは当時の一般的な公団住宅の2DKの広さである。日本はいったん規格や基準が決まると基本路線をなかなか変られない。住宅金融公庫のこ の融資基準も30年来、ほとんどいじくられていない。融資対象物件の上限価格だけは天井知らずに上がった。日本は有数の金持ち国である。国土が狭いから多 少は地価が高くても仕方ない。しかし、狭すぎる。いま首都圏で販売される新築マンションの平均的居住空間は60-70平方メートルである。子供が一人の家 庭ならまだしらず、二人、三人ともなれば窮屈だ。恥ずかしくて人も呼べない。

 そんな空間に35年間ものローンを組むのである。昭和40年代に東京都内で建設されたマンションはそんなに狭くない。少なくとも一回りは広い。役人の発 想が貧困だから国民に対する住宅政策まで貧困になる。実は多くの公務員住宅も狭かった。ほとんどが公団規格だからである。狭い公務員住宅に住んでいた公務 員が「われわれでさえ、こんなところに甘んじているのだから」と以下の発想になったに違いない。またちなみに小川氏は世田谷に、外国人を呼んでも恥ずかしくない一戸建てに住んでいた。「以上の発想」が出てきたのはそういうことである

 足軽長屋に見た公団2DKのプロトタイプ

 新潟県新発田市へ行くと新発田城址に近くに「足軽長屋」が残っていて観光地の一つになっている。つい最近までどこの城下町にもあった長屋だそうだが、老 朽化してみんななくなった。新発田市だけは頑丈だったのか現在に残ったから観光地になった。歴史的遺物ではなく、ここでもつい15年ほど前まで庶民が住ん でいたそうだ。案内を頼んだタクシー運転手が「僕が生まれて住んでいたところ」とガイドしてくれた。少なくとも明治になって100年以上たっているから相 当に古い。

 中をのぞくと、6畳の土間があって、奥に6畳の囲炉裏の間、居間は6畳と4.5畳。一間半の押し入れがついている。つまり6畳間を四つくっつけただけの造りである。「これはまさに究極の2DKだ」とひらめいた。囲炉裏の間はダイニングキッチンそのものだ。煮炊きしながら食べる場でもある。個別に風呂とトイ レを付けた分だけ少々面積が広い。平屋で木造の足軽長屋を鉄筋コンクリート建ての5階にして現代に再現すると公団住宅となる。公団の2DKを設計した人はこんな長屋に住んでいたに違いないと直感した。

 それがどうしたといわれるかもしれない。おっとどっこい。江戸時代の足軽だった人には申し訳ないが、お金持ち国の住宅の基準がいつまでも足軽長屋でいいはずがない。

           

               毎年伴氏と訪れる津軽弘前

 

                 

                 筆者 津軽講話

 

「ご説明」-議員やマスコミを籠絡する官僚の手口

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1998年02月16日(月)
共同通信社経済部 伴武澄


 官僚からかかる突然の電話

 突然、郵政省の某課長補佐から電話がかかってきた。郵政省など担当をしたことはない。面識があろうはずがない。「日本の携帯電話市場についてご説明した い」というのだ。ある雑誌に「世界の携帯電話市場は欧州規格のGSMが席巻している。GSMは欧州、アジアとアフリカのほとんどの国でローミングできるの に、日本のNTT方式は国外に出たとたん使えない」と書いたことがお気に召さなかったようだ。署名入りだったから電話番号を調べてきたようだ。

 来ていただいても自説は曲げないことを何回も電話口で説明したが、相手は「とにかく一回伺いたい」と言う。あまりのしつこさに「じゃあ。1時間だけ話を 聞きましょう」と会う日時を決めた。「近くだから出向きます」といっても相手は固辞して、どうしても自分が出向くという。翌日、汚い共同通信の一室でその 課長補佐と会った。

 正直言って、東大出身の官僚からわざわざ電話をもらうのは悪い気はしない。相手を持ち上げて、いつのまにか自分の土俵に相手を取り込む。これこそが官僚 の人心掌握術なのだ。彼は自分で筆者の名前を見つけたのではない。上司が雑誌で見つけて、彼に「説明」に行くように命じた。ご説明は2時間にわたっても終 わらなかったが、取材予定が入っていたので切り上げてもらった。課長補佐は「近々また来ます」と言って帰ったが、筆者が大阪に転勤してしまった。そして、 課長補佐が置いていった膨大な資料はのどから手が出るほどおいしいものだった。

 確実にインプットされる大蔵の論理

 かなり昔の話だが、消費税導入前夜、参院議員だった野末陳平氏を議員会館に訪ねた。先客がいたため待っていると、大蔵省の薄井税制二課長が出てきた。顔 見知りの記者と場違いのところで出会ったことに一瞬うろたえた様子をみせたが「やあ、どうも」といって去った。野末さんに「お知り合いなんですか」と聞く と「あの人のご説明には閉口している。ようく来るんだ」とまんざらでもなさそうだった。野末陳平氏は二院クラブに属していて税金に関してはかなりの専門家 だった。

 当時、駆け出しの大蔵担当だった筆者は「なるほど。こういう仕組みになっているのか」とひらめいた。大蔵省だけではない。官僚が新しい政策を導入しよう とするときは、局を挙げて課長補佐クラス以上が毎日「ご説明」に奔走する。自民党の幹部はもちろんだ。野党からはてはマスコミまで説明する範囲は想像を超 える。知らない相手であろうが躊躇しない。新聞記者の夜討ち朝駆けと同じである。

 自民党の最高幹部は別として、大蔵官僚がわざわざ自分のところに出向いて「ご説明させていただきたい」と電話がかかってきたら、それこそ悪い気がしない し、断れるものではない。警察や検察の事情聴取は強圧的に相手を呼びつけるから拒否できないが、官僚は自ら出向くという手法を取り、相手のプライドをくす ぐる。こういうときの官僚は実に腰が低い。

 初対面でも心を開いているよう相手に感じさせる術も心得ている。もちろん与党議員と野党議員とでは打ち明ける内容に濃淡がある。しかし、「官僚の論理」 はこうした「ご説明」を経て、相手の脳裏に確実にインプットされる。日本の行政は法律を読んだだけでは分からない。政省令や各種通達に精通した人たちだけ のものとなっている。官僚の「ご説明」を聞くと「なるほどそういうことになっているのか」とその分野の玄人になった気分にもさせられる。一度「ご説明」を 受けた人は政府統計など貴重な資料を定期的に手にすることができるし、気軽に電話での質問も可能になる。政策に通じていない国会議員やマスコミには絶大な るメリットをもたらす。コンピューター用語でいえば、彼らは官僚フォーマットが終わったことになる。

 

             

                     秩父 名栗湖の冬

      

 

京セラよ、おまえもか 中島元主計局次長入社事件

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1998年1月19日(月)
共同通信社経済部 伴武澄

 昨年12月のある深夜のことである。朝日新聞が社会面で「中島義雄氏が京セラ入社」を報じていることが分かり、共同通信社もそのニュースを追いかけた。中島氏といえば、元大蔵相の主計局次長。金融機関からの過剰接待が問題となって辞任した人物である。いつも正論居士として発言してきた稲盛和夫氏の京セラが 「どうして」「なぜだ」。デスクとしての義憤があった。「京セラよおまえもか」という思いが頭をよぎった。

 一般の新聞読者には分からないことだろうが、大手マスコミは翌日の「早版」朝刊を深夜の街角で交換する習慣がある。東京都内や大阪市内には「最終版」と いう紙面が配達される。各紙が特ダネで勝負するのはこの「最終版」であり、早い時間にニュースの掲載を打ち切り印刷された「早版」交換で各社は落とした ニュースがないかチェックするのだ。

 「中島義雄氏が京セラ入社」のニュースはいわば、朝日新聞の独自ダネであった。翌々日、京セラの伊藤社長は要望のあったメディアに対して、釈明インター ビューを受け入れた。取材した記者は夕方興奮した声で「中島が同席したんですよ」と伝えてきた。なんら動じることなく、過去を恥じるようでもなかった。実 に堂々とした様子に記者の方が圧倒されたという。

 伊藤社長は「一般の途中入社の募集に中島氏が応じてきた。過去の経歴や個人の力量を考えて採用した。過ちを悔いるものを受け入れて悪いはずがない」というような内容の発言をした。

 町のチンピラが、長い刑期を終えて過去を悔いたのとは訳が違う。捜査当局の判断次第では刑事被告人になっていたかもしれない人物である。大蔵省の大幹部 だったからこそ、刑事訴追を免れたのは明白である。中島氏が「過去を悔いた」といっても「刑に服した」わけではない。「償い」は終わっていない。

 筆者も1987-88年の間、大蔵省の記者クラブである「財政研究会」に属したこともある。当時、中島氏は主計局の厚生・労働担当主計官だった。向かい の部屋に運輸担当の主計官として田谷氏がいた。この二人はつっけんどんで愛想のない大蔵官僚のなかで新聞記者の人気者だった。いつでも気さくにわれわれの 取材に応じてくれた。田谷氏は自民党が整備新幹線の建設再開を決めたことに対して「昭和の三バカ大査定」と評してマスコミの寵児となった。

 金融機関から過剰接待を受けていたのはこの二人だけではない。ほとんどの官僚の日常生活に接待飲食とゴルフが溶け込んでいた。たまたま名前が浮かんだの は、度が過ぎていたのかもしれなし、運が悪かったのかもしてない。だからといって、京セラが中島氏を中途採用する理由にはならない。

 リクルートの未公開株の譲渡で労働省の事務次官らが逮捕された事件が起きたとき、ある大蔵官僚が「あいつらは脇が甘いんだ。接待慣れしていないんでない か」と言っていたのを思い出す。通産省では「課長にもなって夜の予定が入っていないようでは将来はないな」と豪語する課長もいた。月曜日の午前中、建設省で取材していた時に大手ゼネコン風の人が入ってきて「きのうはどうも」と大声を上げていた光景に出くわしたこともある。

 高度成長時、民間企業に接待費があふれ返っていた。安月給だった官僚がそのおこぼれに預かってなにが悪いという時代もあった。しかし時代は変わったのである。

 われわれ新聞記者の特性は「忘れやすい」ということである。国民も同様だ。昨夜、神戸に出かけて大震災3周年の記念行事に出席して「4年前に国民の目が この阪神・淡路地区に釘付けにされた」ことを思い出した。ゲストの加山雄三氏が「実はいてもたってもいられなくなって家族全員を引き連れて東京駅の街頭に 立って募金活動をした。みんなそうだったでしょう」と打ち明けた。

 官僚の犯罪も風化させてはならない。18日、東京地検特捜部は野村証券にからむ外債発行をめぐる汚職事件で大蔵省OBの日本道路公団理事を逮捕した。

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:憲法と元号 安岡正篤の鎮考する撰文  あの頃

2024-06-26 15:04:11 | Weblog

 

         

 

熱狂偏見が時を経て鎮まりをもった時、女神は秤の均衡を保ち賞罰の置くところを変えるだろう」意訳 

東京裁判のインド選出判事  ラダ・ビノード・バル博士 

※ 世の中の熱狂と偏見が静まり、人々に落ち着いた思考がよみがえり、改めて過去の熱狂と偏見に満ちた群動を想い出し、心の平静を取り戻したとき、当時の正邪、善悪の判断すら変更しなければならない状況になるだろう。

 

以下 旧稿ですが・・・ 

 また、撰文で騒いでいる

いつも浮俗の俎上にのせて様子見眺めをするが,まとまったためしがない。

 

ことは憲法前文のことである

理由は敗戦時に忸怩たる思いで受け入れたという憲法の改正についてである。

近ごろでは張本人の米国識者も、日本の憲法は時節の変わった今、これでは米国の良き協力者にはならない。憲法を変えなくてはならない。

 

もちろんその通りだが、どうも胡散臭い。

何年か前に色々な前文案が出た。中曽根試案というものもあったが、「我々は・・」と団塊の学生運動の臭いがする新聞記者が書いた説明調もあったが、市民革命の熱気がくすぶるような文だった。

 

また憲法九条が争論となっているが、もともと軍閥や硬直した官吏が暗雲として時代を支配していたことが、頸木を除く意味で多くの人々が納得した条文である。当時はその構造転換を憲法に望んでいた。

自衛権だの交戦などはさらさら念頭にはなく、これさえ認めれば鬼(GHQ)の歓心を受けるという阿諛迎合の徒もいたが、この種の人間は往々にして弱きものには四角四面の薄情な態度で応ずる官吏や知識人が多いが、その系列を踏むものが時代や大国に再び迎合している。

 

それらには憲法前文などは、端からつくれない。撰文する情緒もないはずだ。だだ、いたずらに時と知労を稼ぐだけだろう。

 

安岡正篤氏は時節の岐路に多くの撰文や監修を遺している。

古人は「文は経国の大業にして、不朽の盛事なり」と遺した。

もちろん天皇の御詠みになるご意思を含む和歌もそうだろう。

 

よく偽装弟子と称するものの屏風に安岡氏のエピソードが飾られる。

今どきは不朽となるべき公文書の改竄が頻繁に行われている、それも政権の恣意的都合によってだ。

条約にも密約がある。一部の者しか知らない、問題物は廃棄する。政治家や役人は凡そ二年ごとに変われば、知っているのは相手国だけ。

これでは言いなりだ。いくら知恵を絞った文章でも、裏があり、廃棄もあるのでは、意味をなさない。

 

安岡氏のことだが、

終戦の詔勅に朱(添削)を入れた

元号「平成」の起草者

中華民国(台湾)断交に際して蒋介石に親書撰文した

色々あるが、その理由の一つに依頼する側の訳がある。それは「安岡先生なら・・・」という安心と保全だ。

しかし,ご長男は「増幅された印象が独り歩きしていますが、父は教育者です。附属の印象価値をあげつらうのは学問の堕落と考えていました。」

 

   

  吉田茂の岳父 牧野内大臣

 

大久保利通の縁戚で内務大臣だった牧野伸顕にあてた多くの建策がある。そのなかで「天子論、官吏論」が賢読され多くの重臣に紹介された。その縁で宮中派であった近衛首相、そして海軍、大東亜省との関係を築き、終戦工作にもかかわり、牧野の縁戚吉田茂から「老師」と敬重され、その吉田の系列である保守本流の代議士から、゛頼り゛にされ多くの撰文や添削監修を依頼されている。

 

ここに頼めば安全で保全にもなるという安岡ブランドに対する、ある種 安直な考えもあったようだ。

 

だだ、安岡氏は筆者に「代議士は人物二流でしか成れない」「いまは、デモクラシ―変じて、デモ・クレージーだ」と言い聞かせるように呟いたことがあった。

 

あるとき靖国神社出版の「世紀の自決」を案内されたことがあった。

その巻頭は本人が撰文したものだが、戦前戦後の経過を知る当人が数日を要して鎮考した文は何度読んでも新たな感慨が甦る。

恩讐を超えて複(ふたた)縁が甦るとき・・

まさに、終戦の詔勅に「万世のために太平をひらかんと欲す・・」と挿入した継続した意志が読み取れる撰文である。

 

薄学を顧みず縁者の頌徳文をお見せしたことがある。

そのときは安岡氏のことを良く知らなかった。だだ、近所の古老に連れられてきただけだった。「その頌徳文をもってきなさい」と言われただけだった。

 

三回読みなおしていた。十分くらい静寂だった。

なおして宜しいですか

声も出さず頷くだけだったが、傍らの赤鉛筆を手に添削していた。またそれを二回ほど読みなおして頷いた。そして面前の小生を凝視して発した。

 

文書は巧い下手ではない。君の至誠が何十年経て、人物によって目にしたとき、その至誠が伝わり、それによって意志が継続され世の中も覚醒する。文とはそのようなもので時節の知識に迎合したりするものは文でもなければ遺すことはできない

 

虎やの羊羹をつまみながらの応答を取りまとめた内容だが、あの読み直す緊張感と集中力は、些細な対象でも真摯に向き合う厳しさと、初対面に係わらずいとも容易に応ずる優しさは、後日検索した巷間騒がれる氏の印象ではなかった。

傍らの煙草は両切りのピース、「禁煙もよいが、欣煙,謹縁、ホドを知って歓び、謹んでたしなむことで毒にならん」と、洒脱さにも驚いた。

 

    

     郷学研修会     中央 安岡講頭  右 卜部皇太后御用掛

 

そして「郷学を興しなさい」、それには「無名でいなさい」、それは「何よりも有力への途です

嫡男の安岡正明氏が講頭となり「郷学研修会」を発足した。

父が描いたものはこの様なたおやかな集いです。目的をつくり、使命感を養い、そこから嶮しい真剣な学問が自発的に始まるのです」

 

「父は単なる教育者であり、自身は求道者です、ですから教場の掲額には「我何人(われ、なにびとぞ)」と、自身を探究することを目的としたもので、ステータスや名利を獲得する道具にしてはいけません」

 

いわんや、父の説や訓を寸借したり、我利に応用したりする方もおりますが、それこそ学問の堕落だと云うでしょう。父は時局を観照して古典の栄枯盛衰を鑑としましたが、政局は語ることはありませんでした。あくまで人物の姿を見たのです」

 

「時流に迎合するな」「歴史を俯瞰して内省し、将来を逆賭する」

※  「逆賭」将来を想定し、今打つべき策を施す

 

憲法前文はそのようなものだろう。なによりも陛下が声を発せられて御読みになってもおかしくない撰文であってほしい。心を共にするとはそのような深慮が人々にとっても必要なのだ。

 

 

参考《或るときの小会の研修要旨

元号平成は、『内(うち)平らかにして外(そと)成る』、あるいは、『地平らかにして天、成る』という中国古典よりの撰名ですが、この草案作成は小会、郷学研修会の提唱者であり、善き訓導を戴いた安岡正篤先生によるものです。

 大平内閣当時の元号制定法案の成立後、竹下内閣当時、あの小渕官房長官が元号発表会見で掲げた平成を覚えている方は多いと思います。

 当時、昭和天皇在位中の撰文では不敬あろうとの理由と、故人の撰文では不都合と云ことで伏せられてはいましたが、後年、竹下氏総理退任後、安岡先生を偲ぶ日本工業倶楽部での「弧堂忌」で懐古されていたのを筆者は記憶しております。

 

 数人の有識者の案が提出され、しかも誰が考案したかも判らず、キーポイントとなったのは、M明治、T大正、S昭和のアルファベットの頭文字と同じでは関係文書の年号記載の齟齬があるという事でした。

例えば「修文」のSは除外され、そこで「平成」の頭文字はH。そこに会議を仕切るのは竹下の腹心、小渕恵三官房長官。会議の雰囲気が一挙に傾き、選考の流れとなった。もともと、「平成」の草案は起草された後、官房長官室の金庫に保存していたものだ。

 その竹下氏は、地元選挙区の挨拶でも同様なことを述べている。

 

 ここでは、ことさら誰がとか、どんな理由で、とかを云々することではない。

 だた、前記(※)にある小生との応答で厳言した意に沿えば、「記されたものは天皇の権威とその由縁ある人々(邦人)の平和に暮らしを願い、時代の更新を表すものでなくてはならず、かつ世俗の雰囲気に惑わされず、後世に継承するものでなくてはならない」と、撰文考案の真意を察することができなければ、単なる元号騒動や古臭い記号表記としてしか思えない風潮になってしまいます。

元号制定法案は、その消滅を恐れて成文化したものですが、今の機会は、撰文の考案と、その真意や願望を想起する縁(よすが)として考えることが必要なことだと思います。

 

       

 

この平成の意にあります『内、平らかに(治まって)、外、成る』ですが、翻って地域の再開発に関する不祥事に際して賢人にその旨をお話したところ、井上靖著「孔子」の1頁に付箋を付け、一章に赤鉛筆の傍線を記した著書を頂戴した。それは孔子が「まちづくり」の要諦を弟子に問い聞かせている場面の言葉でした。

『近きもの説(よろ)こび、遠きもの来たる』

ならば、できないのはなぜか、と小生の拙問に

『トップリーダーのノンポリシー、とくに名利に卑しい人物では尚更だ』

いつもの問答ですが、根本を観た直言は「人物を得る」ことの大切さを説かれました。

 

今回、講師の説かれる備中板倉藩の改革者、山田方谷の誓詞にも同様なことが記されています。

『・・・あの人は真面目な人で、他人を騙さないから信用ができると、世間から信用されれば財はいくらでも流通する。だから、理財の道はまず信用からであります・・』
 これは単なる議論ではなく、貧乏で風紀も乱れていた板倉藩は山田方谷の改革によって、旅人がひとたび藩内を訪れるとすぐ分るというくらいの事績を上げています。

 当時、口を開けば金、金と言っているばかりか、各種税金は獲れるだけ取り、また各種の節約も数十年になったが相変わらず借金は増大していました。

 果たして理財の運用のミスか、人間の知能の問題かというと、そうではありません。

【国家社会の大事を処理する者は、事件の問題の外に立つて、大事の内側にちぢこまらぬことが大切】、と説く。

これは方谷が説く「理財論」を通じて言わんとする根本的見識なのです。

 

社会は理財の流通がよく、安全で人が集まる、それは改革の当事者トップリーダーの胆識(腹の据わった行動見識)があってこそ可能なことであり、郷土(ふるさと)作興のための指導者像であるといっています。

それは改革に対する勇気と信望が集う清廉、そして鎮まりをもった姿勢なのでしょう。

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天が墜ちるような    

2024-06-24 19:36:42 | ふぞろいの写真館

埼玉県名栗村の夕刻

 


ウイークデーは訪れる人もなく、この日は風もなく鏡のような湖面は上空の雲を鮮やかに映している。
画面を逆さにしても判別がつかないくらい幽玄の趣がある。

1時間ばかり亡羊とした気分に浸ったが、時折フラッシュバックしたかのように世俗の雑踏が蘇ることがある。

なんとも表現しずらい画像だが、その時は無音の中で、足元から脳天に抜ける何かがあったようだ。

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「人間考学」 更生保護行政酔譚 14 11/23 再

2024-06-17 11:55:03 | Weblog

「保護司が処遇対象者によって殺害される」

同僚保護司として深く哀悼の意を捧げます

4,6000人余の保護司、ご家族は思いもよらぬ結果に戸惑いと緊張を強いられている。

 

以下は備忘録として改めて想起し、調べなおして難儀な考察を改めて再編しました。少々感情の入り混じった文体となっておりますが、世上の様子として「眺め読み」をしていただければと再掲載します。

 

 

長々とした備忘録ですが、犯罪者の更生を援けるという目的を掲げた官と民の協働の体験考です。
文中にあるPTAやBBSといった外来の仕組みや運動が如何に変容していったのか、その類似点は国家の形式看板である我が国の民主の実態を如実に顕わしている。それは先のブログに記した「官製の地方創生策」が如何に政策遂行の遡上に馴染まないのかを表し、その隠された民意のブラックホールに吸い込まれ、より弊害を深めるかを推考するのである。
従順にして、かつ、したたかに官と間をおく民意は、為政者の善なる政策すら届きにくくなっている。
つまり、「戦後レジーム」はこの民風だと気が付かなくてはならない。



【本文】

保護司法では人数の上限は全国で52000名とされている。つまり保護観察官の補助員として社会ない処遇を補う保護司は、対象者の増減に関わらず定員を定められている。それは警察庁の統計でも減少している犯罪数と比して適当とする定員なのかどうかの検証さえなされていない。よく他機関でみる既得予算消化のためのお座なり研修や恒例視察経費の員数集めとは違うとは考えるが、全国観察所の積み重ね員数なのか、犯罪件数にスライドする様子もない。

昨今、保護司の増員が図られている。それは減少に伴う定数ラインへの補充の感がある。

そこで保護司の職務に関する研究および発表を保護司法で促されている当職として現況の一考を呈したい。
まず前記した定員と定められている上限と適当人数との問題である。また、あくまで保護観察官の補いとしての保護司だか、保護観察官の定員と担当件数の推移の関連性である。 以前は直担事件もあり少年の場合はBBSのグループワークなどに委ねたりして多くの成果を得ていたが、いまは平均年齢60歳以上の保護司に委ねている現状である。

≪「直担事件」(観察官による直接担当事件)
本来は保護司に委託するが、対象者の状況によって観察官がBBS(兄と姉の年代による更生援助活動団体)に委嘱することがある≫

以前は、守秘義務に関連して保護司の受任すら地域で隠れた存在であった。それは来訪する対象者の人権を考慮するものとして永い間の倣いとなっていた。それが、犯罪防止活動が加味され、活動の社会的認知の一環として「社会を明るくする運動」が法務省主唱で行われるようになると、地域の各種団体との交流や、なかには一人で多くの地域役職を兼任し、ややもするとステータスとも考えられていた保護司の活動周知が「社会参加活動」と称して、多くの関連および重複行事と活動リンクするようになってきた。

現在、青少年健全育成を冠とした施策は、法務省、警視庁、地方紙自治体、教育機関など、数多類似した活動がある。非行防止からアウトドア体験、スポーツなどが官製行事として恒例化され、くわえてボランティアによる特徴ある活動が行われている






朝礼の国旗掲揚 台北



比するも妙だが、以前のBBSもワンマン・ワンボーイといわれたケース活動(対象者を保護司、観察官より受任する)が、善行をしている集団との高揚感なのか、組織拡大、会員拡充を意図して、学域、職域へその掲げる理念の周知活動を始めるようになり、学域では学用に供する少年犯罪および対象者の研究と化し、職域においてはグループ化されたBBSが政治的言行を表すものも出てきた。

たとえば、宗教集団も、゛良い教え゛を己の内観する咎め(内省)に向けず、現世利益を謀り社会の脆弱な部分にリンクして外部を変える、あるいは転覆することを考えるようになる。またそれを使命として信者は掟を作り協働するようにもなる。とくに非行少年を社会の弱者、あるいは格差のゆがみと捉えると体制への疑問、問題意識の芽生えから、「善いことをしている代弁者」の意識に高揚し、組織を運動の衆として考える一部の会員も出てきた。

つまり「善い考え」「好い行い」は得てして外部に影響力を発揮しようとすると軋轢が起きる。そのために多勢の衆を恃んだり、無理な権威づけをして行動を絞め付け、疎外感すら覚えるようになる。悪い風評はまたたく間に伝播するが、善い行いは隠匿された善行としてより人格を照らすのはわが国の情緒にある義狭心ではあったが、それも、近ごろでは、考えを解ってほしいとキャンペーンを張ったりするようになった。

また、成文法(清規)に記されている文言に随って任命されている保護司だが、狭い範囲の地域の掟や習慣(陋規)によって支えられている各々の「地域」に、御上御用の保護司として表面だって地位を確立しようとする動きが組織的行動として表れるようになった。
それが、慇懃な推薦として人々からもったいぶった姿として、「臭う」のである。

一昔前だが、善行を旨と称するBBS会長には法務省OBが就き、出張にはファーストクラス、各地の会合には法務省高官、現地観察所長、自治体首長、現地保護司会会長が参席して、BBSは数十人という珍奇な形式会合が行われる。善し悪しを問うことではなく、それが人の生活する郷の「そうゆうもの」にいう世界の連帯と調和の姿なのだろう。

関東地方5000人の運営を委ねられ、各県各地域に点在するBBS会の集いには、たとえ山海僻地でも訪問した。それは、毎週二回九段の東京保護観察所内にあった関東地方更生保護委員会事務局に机を持ち関東管内の更生保護協力団体の連絡調整を行っていたころだった。
形式だが、書式の問題があった

今ならパソコンで毎月報告書のフォーマットをつくり、ワードなりエクセルで打ち込みネット送信すれば管理も運用も簡便になると思われるが、筆者とて普及とセキュリティーを考えると提案すらはばかる環境がある。とくに、昨今の個人情報厳守の流れは、保護司法の成文に記されているとしても、公務秘密については普遍なコントロールは難しいようだ。








当時、関係省庁との交換文章も法務省は裁判所書式だった。あの手書きの警察調書を想い出してほしい。何段下げて、何行を空けるあの縦書き書式だ。BBSとてそれに随い和文タイプで打ち込んでいた。これでは若者は到底ついてはいけない。だが今まではその様に決められていた。今では警察も検察も調書はパソコン印字だが、昨今は偽造といわないまでも削除や加筆が時系列に関係なく行われるようになった。

当時は記録もできない和文タイプである。その煩雑さと民間篤志の活動普遍性を担保するために、A4横書きに改めたが、何のオトガメもなく受け入れられた。そしてあの巨大なロールでチリチリと刻む電送機のお世話にもなった。あるいは懐の乏しいBBS会員が地方研修に行くときに旅費が支給されたが後清算の手続きが慣れないために未支給が生じることがあり、是正方法が検討され順次、行政と民間ボランティアの風通しを整理もした。

一方、九段の庁舎には東京保護観察所もある。各区担当官も今と違って狭い部屋にかたまっていた。本庁の霞が関と離れているせいか、アットホームな雰囲気だった。みなBBSにとって好い人だったのでそう見えたのだ。

いつ頃からか廊下に組合のスローガンを大書したポスターが増えた。出獄、退院者がまず訪れる観察所の廊下である。外部の気易さか「見えない所に貼ったらどうか・・」と提案した。所長は筆者を呼び、声を押さえて語った。
職場環境と職員の待遇はあくまで職掌にある対象者との関係にある。突然の電話、急遽の出張も大変なことで理解はできる。当初はそうだったが、いまは組合という集団の存在に関わる問題になって来た・・・。
BBSや民間ボランティアに理解があった観察官が、組合未加入職員の電話には出ない、連絡応答もないと聞くようになった。ここでも対象者の顔が見えない世界があった。

関東BBS事務局の責任者としての印象に戻るが、地方はもともと異端者、とくに犯罪者を蔑視もしくは疎外する固陋なセキュリティーがあるせいか対象者も少なく、会員も、゛選ばれたもの゛との認識があり、記念行事には近在の有力者が祝い袋にいくばくかの祝い金を持参して、都会とは異質なコミュニティーを作っていた。
ある意味では深層の国力というべき情緒の共感と連帯であり、科(とが)人を出さない良き環境でもあった。ただ、外来を拒む意識は良き変化の浸透を許さない固陋にもみえたが、煩雑な法規をあてにしない穏やかな環境自治があった。

もちろん保護司も一人多役が多く、僧侶、議会関係者、官吏OB、教員OB、医師等、昔の釈放者保護団体、司法保護委員の古き良き部分の篤志と、御上御用の選民意識が混在し独特な地位を構成している。

BBSの場合は学生、勤労者、地域居住者と様々だが、ワンマン・ワンボーイという一対一のケースワークも基本とされてきたが、スポーツや趣味を通じたグループワーク、あるいは施設訪問などか行われていた。保護司の平均年齢60歳超が示す通り、中学生のように若年との面接は環境報告、面接報告ならまだしも、更生への実質的活動については隔年の理解ということで無理を生じることがあり、その点、一緒に汗を流し、抱き合い歓喜するようなスポーツでの理解と順応にくらべ、更生効果を問うものが少なからずあった。

横文字のBBSは法務省の外郭団体として、保護局所管の保護観察行政の篤志ボランティアとして非行少年の保護更生分野の係わりを深めた。それは独自の大義名目はあっても、存在意味は保護分野への依頼と活動遵守によって多面的な活動を狭めることでもあった。
否めないことは、依頼される対象少年を独自に発見することではなく、また社会内の種々の組織間交流が微かになり、それは会員の社会内の人的交流の希薄さゆえも理由ではあるが、法の監督下にある少年たちを、明確な身分もないBBSには行政としても間(ま)を置かざるを得ない事情があった。つまり、指導や援助の限界があるのだ。

その意味では、怠性化した関係と共に、ステータス意識、狭い範囲の帰属意識を生み、逆に独立性、自立性、柔軟性を失わせ、個の尊重ゆえに連帯意識を失わせ、社会への善行啓蒙運動の基であるはずの組織間の調和も乏しくなり、運動は衰退していった。

なかには、使命感や責任感を問うことではなく、自らの疎外感、孤独感が組織帰属によるささやかな充足感、もしくは学びの対象(学用対象)として交流の場にもなって来た。
なかには婚活紛いやスポーツ同好会のようなものもあった。

つまり、同じ社会内で生活する境遇のことなる子供たちへの柔軟であるべき問題意識が、ややもすると、異なる環境の対象として自己の存在と認識の客観性のみが優先され、一体となり共にする情感が薄れることもあるようだ。集団化した行動によくある個々の目的や責任の在り様が希薄となり問題ともなった。

ここでは、なぜ一対一のワンマン・ワンボーイ活動がなくなったのか。それを社会現象の推移としてみれば、BBSの衰退のみならず、迎合にもみえる外来からの環境順化の問題意識もなく経過、看過してきた社会の情感の変化に注意深く観察しなくてはならないだろう。











以下は林壮一著「アメリカの下層教育現場」関係抜粋を参照

≪生きるうえでのビジョン≫

林壮一著 「アメリカ下層教育現場」より

アメリカには引きこもる部屋もベットも、そして満足な食い物もない貧困層がいる

BBSについて
1902年、ニューヨークの法廷事務員の男性が仕事の合間に戦争孤児、低所得者の子供、親が獄中にいて誰にも相手にされない児童が対象だった。
同時期、ニューヨークでは女子児童のみを対象にサポートするグループもあった。
「ともだち活動」を目標に掲げた。また1904年ペンシルバニア州フィラディルフィアでは、屑籠を漁って食料を得るホームレスの子供たちへの支援団体が誕生した。

目的を同じくする三団体が手を結び、組織化して「ビック・ブラザー&ビック・シスター」とネーミングされた。他地域にもユース・メタリング活動を促し、100年後には全米50州、35か国でユース・メタリング活動が広がった。
※ Youth Mentoring 若者への助言指導

親でもない、教師でもない第三者の大人が、週に一回、一対一(ワンマン・ワンボーイ)で時間を共有した。注目すべきは、一対一という点だ。

活動の条件は、どんな人間かを知る身内以外の3人の人を紹介するのが規則だった。

人種問題と貧困
「小学校では、白人の教師と生徒、マイノリティーはマイノリティーでうまくいくが、そうでなければ絶対にうまくいかない」と説明を受ける。

面接者は「さまざまなデーターを照らし合わせて、あなたと合いそうな子供がいたら連絡します」といった。

≪筆者註 センターの職員はボランティアと子供(対象者)をつなぎ、責任をもって調整する介在人であり、ある意味では管理人、インストラクターともいえる。≫

運営は税金を免除され、寄付金でまかなう。
大事なことは「子供の友人として接する」、愛情を注ぐことはやまやまだが、決して親のようには振る舞わない。

10項目のポイント

⒈ 友人になる
⒉ 明確な目標とプランを立てる
⒊ 互いに充分楽しむ
⒋ 考えて言葉を選び、助言する
⒌ いつも前向きな姿勢を忘れない
⒍ 会話の意味を理解して、意見を押し付けない
⒎ 子供の発言に注意深く耳を澄ます
⒏ メータリングを行う場所を敬う
⒐ 子供との関係を忘れず、親とならない
⒑ 使命と責任を忘れない


それぞれの社会環境でサービスが異なる

アメリカ社会の抱える問題
低所得者のコミュニティーは常識外れの大人が独自の方法で子供と接している。なかには10歳にも満たない子がアルコール・ドラック・喫煙・凶器などの携帯を覚える。
善悪の判断ができないと犯罪に結びつく。貧困エリアではそれらが結びつき、ドラックの売人やギャングになる子供が多くなる。


林壮一氏は教壇に立った経験を活かしてテキサス州ヒューストンのジョウジ・フォアマン・ユースセンターでボランティアをした。
筆者註 ジョウジフォアマン 元ヘビー級プロボクサー ザイールでの行われたモハメド・アリとの試合を最後に引退して、牧師となりボランティア活動を行う≫

問題児や登校拒否児童を集め、人生をやり直せるように支えるセンターである

方法は、リクレーションを通じて整列・挨拶、約束を守ること、などの規律を学ばせた。
ユース・メンターリング(若者への助言や指導) 6歳から19歳までの子供に寄り添う活動
も行った。






台北 六士先生顕彰碑


【再本文】

だだ、保護の三位(み)といわれる保護司、更生保護婦人会(当時の名称)、BBS,の分別した役割とは別の、地位的感覚や視点が上下関係として集約され、一人の処遇対象者をめぐって考察が異なる問題が、老若の軋轢にもなったことも少なからずあった。

多くの保護司は対象者を包み込んだ協働を多としたBBSの考察を報告書に添付して多く成果をあげることができた。逆に若者特有の反発なのか、かつBBSのなかにも長幼の順に馴染まないのか、一人対象を忌避してグループワークや多地域組織、上部組織との関係にある組織運動に向かうものも出てきた。

たしかにBBSは保護司の補助機能もなければ、法的擁護もない。また、法に関わる対象者への係わりに明確なガイドラインもなく、ときどきの個人的理解に委ねる脆弱さもある。だが、老若に関わらず目的の裏付けとなる公機関の依頼が、逆に社会への活動周知において、普段、犯罪者の更生などには関心も持たない世界には「公機関の依頼」が、異質な雰囲気を持たれるのは当然なことである。

その意味では保護司もBBSも個々の指向は対象者にとって有効な立場ではあるが、なかには、いかに組織における立場の維持や社会認知に励むような同質な「臭い」がすることでもある。
あくまで、保護観察官のへの助力であり、犯罪者更生という特殊な目的を持つ組織であることの理解の齟齬が読みとれる姿でもある。

つまり、そのことを理解しつつも上位の促しによる社会啓蒙活動は曖昧な目的と手段によって、どうにか形作られているといってもいい状態がある。それは更生保護従事者による社会参加が敢えてその特徴を発揮できない形式行事になっていると思われる現況である。

一部の若者もそれに倣ったのか、経年すれば役所から授与される感謝状や表彰状を案じたり、組織の置かれている位置関係にある、役位を求める若者らしくない姿も表れてきた。
セレモニーには皇室関係者や政府高官も列席するので応接も法務省の保護局を超えておこなわれ、よりその邦人らしい帰属意識と活動意義を高めたが、役職位置の本義である観察官への補いである対象者への取り組みは変化し、地域への事業周知と自己周知が相俟って「更生と保護」が単なる「報告委託」になってきたと、さる法務官僚の述懐がある。

以前、法務研究所で「権威」について語り合ったことがある。機関紙でも紹介されたことだが、保護司を先生と呼称することについての問題だった。尊称なのか、従前の倣いなのか互いに「先生」と呼び合い、若い観察官も「先生」と互いに呼び合っている。

ことさら切り取らなければ大した問題ではないが、当時は教師が教員や職員となり、それでも生徒が「さんづけ」ではなく先生と言い、庶民から選ばれた議員が先生となり、落選すれば「さんづけ」あるいは、形式的に「先生」と呼ばれるなど、゛そうゆうもの゛と思うものでも議論の題材になったことがある。しかも当局のなかにも疑問視する声も上がった。

なぜなら社会内処遇で民間保護司の助力を得る個々の処遇と、その処遇を容易にする、あるいは社会を浄化するという官製運動が各省、自治体関係機関を通じて勧奨されつつあるなかで、それぞれが協調し時に一体感を以ておこなうムーブメント(運動)に保護司の領域が異質に感じられないよう、その権威の表層にある狭い範囲の呼称である「先生」が、議論になったのだ。

担当を決められ対象者が来訪しても、もともとは互いに市井の人々ゆえ犯罪種別に嫌悪感を覚えたり、ときには憎しみさえ抱くこともないとは限らない。だだ「不幸にして犯罪をおこし・・」とおもいやる保護司受任の前提があるために、保護司とて俗世の感覚とは異なる自制が働かなくては受任の意味をもたないのは当然なことである。

一方、アカデミックでもなく法に含有されない義狭心というものがある。保護局の依頼で多くのテレビ、ラジオの媒体に出演したが、NHKの一時間放送のスタジオで「そうゆう子供の姿を視ると、面倒見たいと思う気持ちが湧きます・・・」と応えたことがある。
つまり、自発性と積極性、そして縁の連帯意識が基となるべきだとの表現だったが、視聴者には更生保護に携わる多くの人々の意志がストレートに解りやすく伝わったとの意見が寄せられた。また、資格などなくても誰でももちうる情感を喚起するという気持ちと、切り口の違う社会資源の活用が、その「特別ではない容易さ」として伝わったようだ。
それ以後の保護局への問い合わせとBBSへの志願は多くなり、BBSのモデル地区設置としてつながった











更生保護に携わる方々への印象は、一種の「匂いと臭い」があるとの感触があった。人を困らせた人をお世話する、疎外された人との交流、まるで村八分のような感情のなかで善行の匂い(薫り)は観えても、ステータス意識、御上御用の臭いも同時に漂うように感じられた。

当時の更生保護婦人会の島津久子氏は当時のBBSに『臭いを消すことが篤志家の善行であり陰徳を有効に重ねることになる』と、善行の本意を伝え、東京保護観察所長の堀川義一氏もBBSの若者と好んで応接していた

当時は各区の保護司会の運営もさることながら、保護司法をもとに個々の保護司を任命して直結した関係が強かったが、昨今は紹介が推薦となり、推薦権が各保護区に与えられるようになり、なかには恣意的な推薦まで行われるようになってきた。

保護司法で無給と定められているが、其の代りなのか他省庁に連なる諸団体と比べ、年次を重ねるごとに賞状が高級になり、官吏の地位に順じた感状、表彰状、大臣の感状、最後は陛下からの褒章や勲位と、役職、組織貢献度、あるいは地区責任者の推薦裁量で要綱を記載された長方形の紙を推し抱いていく。

つまり、その視える作業を通して選ばれた人々の善行と組織が陰徳から周知になり、世間の理解と善意の喚起をふくめて「権威」が徐々に醸成されてきた。しかし、それはあくまで対象者にとっては「虚」だった。その彼らは一生目にすることも、手にすることもできない代物だが、彼らの「不幸にして・・」とある存在由縁であることを忘れてはなるまい。

ある保護司は「君らが真面目になったお陰でこんなものを貰った。祝賀会とやら騒いでいるが君らが一緒に参加すると眉をひそめる人もいるし、普段着では君らもひもじいだろう、祝いの騒ぎはやめて、君たちの仲間を呼んでやろう」と、祝賀会の催しを断っている。
何枚もある四角い感状や褒賞も棚晒しだった。

冒頭の定員数の問題はさておき、定年の増加とともに定員未充足の問題が起きてきた。
永くは定年保護司の紹介だったが、近年はその方法も効果がなく、地域の関係団体の紹介を請うことが選択肢にあがった。手っ取り早いのは地域を構成する町会にお願いしようとする試みである。










この種の受任は事業内容の問題も含んで受ける側の条件も細部にわたる。
なかには「臭い」を維持するものもいる。
実際にあつたある応答を紹介する

保護司が候補者を訪ね
゛保護司をお願いしたいのだが゛
「報酬は幾らくらいもらえるのか」
゛無報酬だが、あなたの若さなら藍綬褒章まで届くはず ゛



もちろん、嬉々として受託する者もいれば、頑として断った人もいる。
ここで注目したいのは、対象者は一生、藍綬褒章など縁のない人たちだ。報酬については社会の認知もあるが、褒章をあてに、あるいはそれを餌に受任を求める心底は一種の社会劣化を助長するような姿である。
なかには五百万を寄付して紺綬褒章をもらい背広を新調して自身で祝賀会案内状をもって参加懇請していた可愛い猛者もいた。もちろん賓客は自治体の長か議員である。人生訓や慈愛を説き、信頼を立て更生を促し、縁の効用を人間関係とした対象者は招かれることはない。もちろん、そう考えるのは天の邪鬼で変人と思う世界なのだ。

面接では、生活の簡素、節約、人に対する思いやりを説くが、腕には金時計と金の鎖、未だゴルフ遊戯も知らない幼い対象者にゴルフを勧める人間もいる。逆に天涯孤児の境遇にいて非行(喧嘩)をした対象者をおもい図ってゴルフを封印した保護司もいる。もちろん生涯の友になったことは言うまでもない。

保護司同士の推薦会議での会話だが、地域は保守系が多い地域だ。
「紹介したい方がいるが元某党の議員で心を砕ける方です」
゛某党、それはまずい゛
「もう退職している方ですよ」
゛それは推薦できない゛
それは共産党や社会党もそうだろう。つまり地域の主だった者、ボス的な者の威圧であり、そりこそ「臭い」の素の感覚なのだろう。


別に個別政党の云々ではない。たとえ応援政党があっても、対象者は元犯罪者であっても宗教、思想を保障された国民だ。ましてや自らの経歴実務や篤志を活かそうと志願する人に対する応答ではない。しかも意図するものは裏に隠れ、善悪も分からない従順な後輩保護司が代りに口を開いている

なかには断られたので次をあたり、断った候補者が「こちらで断ったためにあの人に回った」と、二番手候補者と揶揄されたりもする。

どうも御上御用は妙な意識が働く様だ。あるいは既得権意識なのか、推薦の端緒は根回し、裏話、が多く、しかも妙なところで守秘義務を持ち出し、一部情報で会議を構成する田舎芝居のような雰囲気が滞留している地域もある。よく下話、裏話で決着をつけ、正式会議は形式的な集まりになっている低俗な会もある。これでは有能な候補者や、正論すら閉ざされ、単なるサロンの遊戯にしかならない。

その町会からの照会だが、いつの間にか「町会長の推薦」と錯誤して、町会長を兼任する保護司は既得権、既成事実、専権として考えている保護司も散見する。
あくまで、照会であり紹介でも推薦でもない。いつから町会長が保護司法にのっとり保護司適任者を選択できるようになったのか、あるいは町会長が議員兼職の場合にあった選挙協力者や後援者をPTA役員、民生委員、自治体の各種委員に推薦するような愚を保護法に基づいた保護司が行うことは、将来の禍根をのこす試みにも見える。筆者も将来を危惧するものだが、官も員数合わせに符丁のあった理屈を唱え、地域保護司も何の問題意識もなく員数確保に奔走しているのが現実でもある。










一例として、戦後、GHQの招聘で米国教育使節団が来日してPTAを勧奨した。翌年事後調査に来ると、とんでもない組織になっていた。その構成は学区のボスの集まりだった。つまりGHQ推奨の御用組織だと勘違いし、大仰にも子供のため、教育のためと席を占め、敗戦転化で軟弱になった教員をしり目に、いまのモンスターペアレント顔負けの醜態だった。

また、その珍奇なPTAを選挙人数として与野党そろって影響力の浸透に努めた。多くの篤志家が創立した保育園が左翼政党に乗っ取られたのもその反動だった。ましてや町会長もその類を免れない。それは教育機関以上といってもいい固陋な姿が都市部でも残っている。
もとより、町内会は思想、宗教、国籍、支持政党はさまざまだ。また町内会といっても任意の私的団体であり全世帯数からすれば、お近ごろは未加入、お付き合い参加も増え、決して町民を代表する「町内会」ではなくなってきている。



ある行政区でも保護司の推薦は自治体の長を以てする、という案が出たが、よく調べると首長公選への迎合と保護司会長の女房と首長の郷県が一緒で、たまたま世辞を言ったことを取り巻き保護司が早合点したと笑えない話があった。このときはさすがの保護局も苦言を呈している。
また、それぐらいな位置と利用できる保護司という地域効用を意図するものがいれば、独特な法権威を得ると考えるシロ蟻には恰好な餌にもなるものだと実感したものだ。

また、好奇な目と関心がいたずらに拡大すると、多岐で多様な切り口、ここでは怨嗟と人格否定が多くなるのは必然である。昔は医師、議員、警察官、教員が地域の尊敬対象であり、住民にとっても頼もしい存在だった。だが昨今の情報氾濫で多くの隠された不祥事や優遇が露呈され、それらは却って怨嗟の対象になっている。本来の業務や責任まで疑われ、風評や井戸端談義のタネになって有効かつ永続性を求められる保護司の対象者との関係信頼性も毀損されるようになる。つまり大幹と枝の峻別が半知半解な多勢によってできなくなる危険性がある。

保護司補充も下げ降ろしの政策だが、意図の事情や真意まで探る問題意識は無く、御上御用に慣れた人々によって、部分解消、全体衰退に陥る先見の推考がなされるべきだろう。

なかには、俺の言うことを聴いて、会議にも出席していれば感状、表彰状の推薦をしてやると広言し、それを餌に取り巻きを役員につけて担当官吏に事業を誇示する保護司会の責任者もいる。浜の真砂は尽きぬとも・・・ではないが、それが保護司といえ元犯罪者を観る目であり、姿とは思いたくないが、あくまで「観察官の補い」という官への篤志的援助を忘却してはならないはずだ。

また社会のなかでの更生保護を考えると感ずることだが、あのBBS運動に没頭し生活の一部になっていた活動が、一旦離れて見ると社会生活のなかでどこの位置を占めているのか、どのような関心があるのかが、まるで忘却消滅したように無くなったことがある。

別に嫌気がさして辞めたわけでもなく、おおむね30歳と記載されていたことに随っただけだったが、やり残したこともなく、ただ18歳からの浸透した更生保護の活動を回顧するのみだった。また、20代の後半から警視庁の少年補導員を受任し、保護観察以前の非行の端緒を扱うようになって、保護と同じような「臭い」が充満していたことに「御上御用」と「善い行為」に集う大人世代の疑問に妙な普遍的ともいえる慣性をみるとともに、この国の民癖なのかと諦観を感じたりもした。それは、あくまで下座観からどう考えるかという前提からだ。

その意味では20代の若年ボランティアの社会的効用を認め観察官の直接担当対象者を依頼されたり、更生保護の社会的周知のための端緒であった「社会を明るくする運動」の在り方を提案し企業協賛、運動の骨格作りにまで参画することができた当時の保護局の許容量と柔軟さがあつた。









笑えない話だが、法務官吏とて社会に慣れた職場ではない。

あるとき飲料大手の会長に協賛金のお願いの話があった。其の会長は中央官庁の中堅が来るので大きな額を想定していた。そのとき官吏は恐る恐る50万を提示した。目を丸くした会長だったが額の低さだった。「それなら球団の交際費で・・」と拍子抜けだった。

鈴鹿の交通研修の協賛も本田技研の後の社長が応対だったが、同様な応接だった

その際、提案させていただいたのが鈴鹿サーキットでの交通安全教室でした。ホンダの鈴鹿というだけで少年たちは興味を示してくれた。社名運動は法務省主唱だが、願いは国民運動であり継続性が伴わなければ、単なる官製イベントの人集めしかない。本来は対象とする世代に問題意識を持ってもらい行政や保護司が下支えするものでなくてはならない。予算取りが成果となり、効果もなく恒例化する行事なるものに風穴を作るアイディアは、対象となる世代に委ねることであろう。

貧すれば鈍す(貪す)では恐縮な見方だが、世間と関わりの少ない省で、とくに世間慣れしていない保護行政が社会に参加?しはじめた頃はそんな調子だった。だからマスコミ対応、特に映像は溌剌としたBBSの若者で、当初の広報キャラバンの企画やビラ作り、配布も若い女性BBSだった

しかし、現在にいたっては机上の企画の下げ降ろし、かつ御用意識ゆえに半知半解のようにも思える明確なガイドライもないままに各地域に提示するようになったことで、それぞれの異なる理解が却って混乱を起こしている。地区会でのパソコン導入でも喧々囂々の争論が起こり、就労援助も厚生行政との協調理解不足の混乱、社会参加活動の他機関との類似と参加人数と実質効果など、あの当時と類似した戸惑いがあるようだ。

若い行政官吏と高齢世代の理解齟齬も多分にあるが、変化を厭う職域ゆえ世代間に妙な怨嗟さえ起きる状況がある.

もちろん保護行政としての運用効果や成果を目的としたものだが、およその混乱は対象者処遇ではなく、社会との関係促進と新たな施策(周知)と、多岐にわたる社会サービスなど多様化に起因している。またそこには多くの戸惑いの因が隠されているが、なにぶん処遇効果と善なる周知という大義のもと、為さざるを得ない選択としての現状があるようだ。

一利を興すは、一害を除くにしかず  (元宰相 耶律楚材)

(真の効果は、積層された法や仕組みを整理するだけで、敢えて新しきこと、あるいは職域を拡大させなくても自ずと効果は表れる)

それは情報の流れの姿として、保護司そのものも対象者のための適切な処遇をどのように工夫するのか、あるいは将来をどのように推考するのかという自発的思考や、ときには異なることを恐れず提言するという、官と民の相互提言が乏しくなることでもあった。

それは保護司候補の選任基準にもうかがえる。
本来は法を基にすれば観察官のお手伝いであり、活動を通じた対象者の側に立った提言を行える人材の提供、また曖昧ではあるがそれらしき信頼に値する人物とあるが、以前は地域の主だった者、有力者、どんな形でも肩書を有する者との倣いがあった。またそのような人物は許容量があり、多少の財と時を有し、対象者にも鷹揚な理解と涵養があると考えられていた。

しかし前記した権威と御上御用意識が妙な選別されたステータス意識として候補者を特殊な選良として挙げることによって、組織運営に忙殺され、本筋の目的である対象者処遇に、より窮屈な世界をつくり出してしまう危惧があった。










あくまで保護観察官の補い
当初は対象者の人権を考慮した陰徳した行為が、官側の社会参加の促しによって多方面にリンクする、その混沌とした理解と、あたかも整合性ある社会内処遇の姿として個々が多様な理解をしても、あくまで観察官の処遇のお手伝いとしての保護司の前提となる「本」が易き方向に流れ、民をして、より権威が屏風となるような社会表現や妙な社会的認知が出来上がるのではないか逆賭し、かつ憂慮する。

とくに一般の保護司より、保護区の役職といわれる立場の保護司に見られる傾向のようだが、人事抗争まがいの怪文書や応援者確保の陣取りが行われるようだ。別段一般保護司には関知することではないが、保護区長(会長)が高位官吏の感状推薦権があるとの考えが一部のステータス意識(御上御用)に敏感さをより刺激しているようだ。その弊害は昨今是正されたと聞くが周知はされていない。

いわんや、行政が外郭取り巻き集団として用することは数多あるが、多くの官域で行っている育成や未然防止という茫洋とした運動に混在させることは、その処遇効果を高めることにはならないと顧みて実感するのだ。
自治体や民間団体はもとより、あれもこれもと他省庁との連携や活用を謳うが、国情、世情を俯瞰するとあまり効果の無いようにもみえる。

畢竟、もともと犯罪者の更生は世間では理解の薄いものであり、これを濃くしようとすることは人的にも膨大なエネルギーを要し、国柄や情緒さえ転化しなければならないものだ。いくら人権や平等を唱えようと世間は別世界のものとして、あくまで官域の専権として、それらからの守護を求める側にある。たとえ官制スローガンや巧みな企画を弄しても、俗に言うハナシと行事倒れに終始する。またその印象はとみに峻別に厳しさが加わっている。

筆者の拙い保護分野の40年の体験であり、経年の成長と劣化という勝手な俯瞰視だか、将来の国情と民癖を推考するに、ここは観察官のお手伝いとしての対象者処遇に保護司の活動の重点を置くべきと考える。一時は一万人以上の若者が参加していたBBSも京都の学生の自発的行動だった。それが組織維持と拡大を目標に社会にリンクし、欧米型のケースワークやアカデミックな処遇技術を学び、それを学用として会員の自己学習の充足や自己認知という本末転倒な運動に進むにしたがって組織が停滞衰亡していった経過がある。

かつ若手官僚の現場対応能力や固陋なる習慣を持つ様々な地域観の再考証がなければ、若手保護司の補充など望むべくもないだろう。認知や周知の願望が社会を明るくする運動のなどの社会的認知の高揚感から発したものなら、それは本末転倒な施策であり、保護局内の目新しいと思われる政策立案の方向性への再考が必要だろう。

社明運動のスローガンにある、対象者を同じ世代の若者の「不幸にして」、あるいは「不慮の結果」という、誰にでも起きるであろうという共感をなくしてはならないだろう

余談だが、日本の更生保護のはしりであった鬼平こと長谷川平蔵がおこなった石川島での殖産事業、そして毎度のように訪れて言葉をかける「権力のささやき」を懐かしみ講演したこともある。保護司の集会には別世界の大手通信社の解説員を紹介し多面性と視野拡大を意図した保護局の助力も行ったことがある。


そのころ、世間で流行り、カブレたのは、個性化と国際化、そして自由と平等ではあるが、教育は数値評価と、人格涵養とは何ら関係もない地位、名誉、財、学校歴という附属性価値の競争だった。非行とか犯罪はあくまで外の忌避する世界なのだ。また大人たちはそれを煽り、その附属の価値を権威づけすることに励み、表層に謳われる善なる行為の勧めを我が身の虚飾とするものも増えた。また、「ポランティァ」という言葉も大手を振って喧伝されるようになったが、却って人々は連帯をなくし調和すら衰えた。

それは「人物」を視る目が表層の附属的価値と、曖昧かつ虚偽を含む一過性の風評に人をみるという稚拙で狡猾にもみえる世情となり、思索と観照をなくした情緒は無名でかつ有力という人物観が意味をなくし、有名をもとめ、さらに干渉し、批評するという軽薄な人の見方しかできなくなったことでもある。














保護司は保護司法に随い、かつ護られた一個の人格の為せる作業である。(その意味ではヤクザは稼業の親分の方が効果はある)
そして、複雑多岐な事情をもった行政の補完として助力、提言を行い、その相互連絡の必要性を「会」に求めるものであり、近年に謳われてきた社会参加への易き誘惑の前提に、対象者の更生と保護、それは長谷川平蔵の殖産事業や金原明善の善行を範とした歴史の賢人の意志を顧みて己に問いかけるべきと時代は要請している。

政治の人間関係においても疎外と排他が流行りとなり、人々の離合集散がめまぐるしい時世である。また、それは土壇場の民癖であり、四角四面と阿諛迎合が官と民の関係を支えている陋規(狭い範囲の掟、習慣)だが、あくまで最後は人物の義狭心と和魂は語られる。
いくら清規(成文法)が整っていても煩雑で用をなさない法では社会は整わない。
また、「易き」は進捗するごとに軟弱となり、弛緩し、堕落崩壊する。


複雑な要因を以て構成されている世事としては保護行政も細事だ。だが日本のみならず地球のあらゆる文明に棲み分けられた民族や仕組みを俯瞰すれば、たとえ国家が行う細事な保護行政も価値の優劣を競い、優を有効、劣を無効として切り捨てられる溝の拡大は、「劣が烈と転化」し、「優が遊惰を生ず」という古事の倣いをひくまでもなく政治の要諦として見直されるべきだろう。

大仰だがあるインタビューにこう応えたことがある。
「非行犯罪が増えることは国家が脆弱になる。ただそこに追い込む善良な大衆もいる。求めるものの裏側には自身の鏡となった彼らがいることを忘れてはならない」


2024 12 7  激震ノ夕刻 加筆再記す

説明なきイメージは津軽弘前

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真の言論人と、堕した売文の輩と言論貴族  09 2 再

2024-06-13 01:38:38 | Weblog

 

ひと昔前の拙稿だが、読んでみると今と変わらない。

いや、ますますその傾向が進んでいる。

 

知識人といわれる人々が一見良好と思われる生活の安定や地位保全に陥り、俗に売文の輩,言論貴族と嘲笑されるようになったのは何故だろうか。

あるいは架空な話題や、物珍しい題材を高邁な文書に仕上げるモノ書き職人や文化人の発する言葉によって教育者の如く世の先導者に疑せられる様相は、一過性の社会風潮とはかたづけられない問題であり、集積された社会や心の深層を融解しかねない状況でもある。

よく、戦後教育やGHQ政策をその因として論じるが、 ゛民族の考え゛ を表現する場所やシステムの選択は、その因として論じる処の阿諛迎合性もしくは他因逃避に視点を置かざるを得まい。

その言論出版なりを貫く伝統とか国民意識の発露の場を、どのように培い集積したか、また、それを支える気骨,気概を、どのように養ったかの縦軸思考に心を留め置かなくてはならないだろう。

よく誇りとか矜持が持ち出されるが、人間の言論という職分を超えた表現を観るためには、平板の一過性の情報交差や裏付けと称される一面的錯覚論ではなく、経論,緯論の交差点として人物なり事象を観察しなければ全体鳥瞰は望むべくも無く、また深層の国力と言うべき ゛なりわい゛を観るという下座視の涵養も必要だろう。


            




以前、笹川良一翁が喝破したという『人間,食って、寝て、糞して…・』だが、科学的根拠とか、枝葉末節的な検索議論に疲れると ゛そんなもんだ゛と、妙に開き直ってしまったり,心のご破算から出発点に回帰してしまうことがある。
すると、書くことも、言うことも無駄のように思えるような、まるで深呼吸の峠から吐息に似た落ち着きと鎮まりが訪れる時がある。

いろいろあるが、「皆おなじ」と言うべきだが、それぞれの脳味噌の違いは ゛食い方,寝方,糞の仕方゛に興味や観察が向き、その「仕方」の滑稽さが異物を生み、想像という,あくまで観察者の「想像する人間像」から逸脱すると「事件」という代物が発生する。

そこには哀れで,滑稽な,珍奇且つ偉大な人間像が言葉と書物で表現され、ここでも高邁な論理で『食い方、寝方、糞の仕方』が論じられるが、明々徳を学旨とする「大学」までが格調ある糞真面目な論争を繰り広げている。
そこに風潮というものが作用するとグルメ,インテリア,健康が各論風発され、もちろん手段としての銭論もそうだが,一巡すると゛そんなもんだ゛に振り戻るようだ。

神の子のハルマゲドンは無いが、まさに地球と同様の「自転循環」の生業(なりわい)ではあるが、循環のスタートラインに入れ込んでいる者とっては『食う,寝る,糞する』以前に『人間は…』という冠が痛烈な道筋として圧し掛かる言葉であろう。



           
皇居 御休み処


よく「話題にこと欠き」とはいうが、稀代の言論人といわれ,その世界では重鎮といわれている新聞記者あがりの言論の徒が、その ゛こと欠き゛での聞くに耐え難いエピソードがある。
浮世の人間にへばり付いた付属性価値に地位,名誉,財力,学歴の有無があるが,あるに越した事は無いが、何ら人格を代表するものでないことは、゛敬するに名利に恬淡゛という言葉がある通り、特に評点を押さえる座標軸の厳守には重要な問題でもある。

とくに下座視と鳥瞰視を交互に観察し、生産性社会の栄枯盛衰を賢察したうえで推論なり゛言、平なる゛評論を述べる立場の「貪らざる」重要な部分である。

その言論の徒が陛下にお目にかかりたいと望んだときのことである。
それは、陛下に関する著作の出版にかけての行為であった。
知り合いの侍従にその希望を伝えると、個別の希望では叶うものではないが、たとえば散歩の途中で偶然ということなら゛ ということで、皇居内に点在する御休み処で待つ事になった。

゛陛下 何々が居ります゛と図ったように陛下にお伝えする侍従、そして言論の徒との会話になったが、ここで、゛言うに事欠き゛何を狼狽したか
「陛下、侍従のシャツは私の友人の会社のものです」
日頃,明治の気慨と反骨を売り物にしている放談人だが、応答辞令の稚拙さは立場の異なる相手の威厳を大衆迎合の錯覚した基準によって退き降ろそうとしている所作である。

余談だが、今では当たり前のようになったが、氏が講演を依頼されると、゛人数は,場所は、講演料は゛との前提がつくが、明治生まれの言論人にしては寂しい気もするが、それは筆者が感ずる単なる明治の人間像への愛顧なのだろうか。

よく゛何が正義か゛との問答があるが,正義に正対する人間の姿を活写にするには相当の勇気がいるようだ。
言論出版の表現される範囲での取り組みに興味を示し、言の寸借ならまだしも、流行モノの風に正義が浮遊している状況は、まさに現代知識人の様相に似て言論に見え隠れする゛覚悟゛の欠如を見る思いがする。

商業出版と釜の蓋であるクライアントとの関係のように、覗きこむ飯の量が読者に対して見せる勇気の按配では、正義やそれを堅守するために時には起る肉体的衝撃を回避するような筆質しか望めない。



                



同様に、変化する時々の世界に投げかける勇気の姿は、事象の相関ではなく、自らの信ずるものや、己を知るものとの絶対関係になくてはならない事であると同時に,平常の覚悟の涵養と行動環境の整備に在るといえる。

また,公私の間にある動機は下座鳥瞰の観察のもとに不特定多数の利他や歴史の縦軸に見る特徴ある、゛いとなみ゛に心の道筋を置かなくてはならない。
なぜなら「やらなくてはできない。やればできる」という勇気の発生は、自利と利他に逡巡する欲望の質を信ずるものとの絶対関係のなかで内観するということです。
もちろん立ち止まる事も,進む事もあります。行動学といわれる陽明学も,その到達点は「狂」です。
 

゛言い切りの美学゛として肉体的衝撃や、生活という゛釜の蓋゛の開け具合を云々しない、という考え方がある。
言い切りの、゛切り゛は覚悟ですが、自らは克服と考えるべきでしょう。
 こと、食い扶持と多いか少ないかを維持する地位や学歴,今では触覚の鈍感さが人間観察の域まで錯覚を起こしている、゛組織゛という厄介な荷などは、個人とか個性にいう意味不明な「個」という共通語によって哀れみと排他のコロニーになっていることが多い。

己そのものの半知半解を組織内スタンスで表現しようとしても、あるいはその ゛世界゛特有の語嚢で分かり合えたとしても、釜の蓋とロマンの相関は葛藤、怨嗟,嫉妬の解消には程遠く、本来,組織の一部分を構成すべき特徴を添えた人間力の発露など及ぶべくもない。 



               

          門田隆将こと門脇氏の著書



仲吊り広告を賑わす週刊誌のなかで独特の雰囲気を持つ雑誌に「週刊新潮」がある。
他の雑誌の促販紙面である女性ヌードや漫画もなく、それでいて毎週50万部を売るというが、独特の取材から数々のスクープ記事を連発させ剛筆週刊誌の名を欲しいままにしている。 

とくに少年犯罪に関する精細な特集は神戸事件の被害者、土師淳くんの父,守さんの手記や、京都「てるくはのる」事件の当時小学校2年中村俊希くんの両親、聖志 唯子ご夫妻の手記。 あるいは光市の母子殺人事件の本村洋さんの手記などは、地を這う取材と人間を扱うという真摯な姿勢や意を委ねる人情の交換がければ到底,著わすことができない内容である。

たとえば各地には、それぞれ独特の地に培った気風や恩讐もあるだろう。
あるいは培ったものに似つかわしくない価値を導入した戸惑いは、今までの生き様そのものを異物として忌諱し、地域固有の子育てや金銭消費価値を無理した姿で平準同化させている。 異なるものとの忌諱や対立感情は、些細な出来事を増幅させ、ついには事件の対象を、゛弱き人゛に向けられる。
しかし、事件そのものをスポットとしてスクープしても一過性の紙面飾りにしかならないだろう。


                
                     


ここでは些細なものを、゛蟻の一穴゛として捉え、地を這うような取材によって地域特性や生き様を理解し、より深層の問題意識を検証したうえで、事件そのものを多面的,根本的、あるいは、その影響を考慮しなければ近親の慟哭した手記には辿りつかないだろう。

また、不磨の法のごとく、さまざまな関係者の意図によって動く事のなかった少年法の改正に、一石を投じるきっかけでもあつた記者の視点は、伴食売文とは異なる目的意志の明確を示すものであった。

自ら取材して,自らの責任で記事を書く完結手法は,時として身の危険や家庭生活の妨害に遇う事もある。
ときには永年にわたり夫にも秘匿していた秘密があからさまになったとき、訴訟に晒される被害者と記者の姿もある。
ときには記者自身が、尾行,ゴミ箱漁り,中傷、脅迫,迫害など恐ろしい行為を受けることもあるが、怯む事のない強固な気概で,全てを克服している。

出版界では、彼らを新潮軍団と呼び、その特長ある取材方法と完結手法は他に追従を許さない内容とともに、毎号50万と言う購読者を持続している。
世上,名物編集者としてもてはやされて世情評論をしたり顔で話す御仁もいるが、困難を超え真実を体感直視した記者の一言には敵うものではない。



週刊新潮の新年合併号に興味深い記事を見た。
「世田谷一家惨殺事件 急展開か。捜査本部が隠す犯人と指紋が一致した男」である。
一読して息を呑んだ。そこには地を這うような捜査官たちの戦いが描かれていた。不覚にも,新聞やテレビで大報道しているこの事件の捜査が、これほど熾烈なものであることを知らなかった。

 見落としそうな靴の表面剥離片 鎖を切る際に付着した超微量の金属片から割り出した凶器の種類など、これらは数ヶ月かかって辿りついた、まさに鬼気迫る鑑識捜査員の成果だった。
記事には,これらの驚くべき事実が淡々と記述されていた。



                  


逆取材だがこの記事の執筆者である編集部次長の門脇護氏にその意を伺った。
「取材は対象があるからできる事です。ですから被害者の無念なおもいに心を置き、あるいは日夜、捜査している警察官の頭の下がる努力は、伝達を役割としている週刊誌の記者と謂えど、一時,一語が生涯忘却できない事柄としてのこるものです。 それは終生付き添う人生の回顧なのです

この記事のもう一つの意味は、誰にも報われる事のない捜査員たちの驚愕に値する真摯な姿を表すことでした。
お父さんは頑張っている。家族も犠牲になっても、諦めず結果を出したお父さんの使命感は、おおぜいの人々に役立っていると、警察官の家族にも知ってもらいたい。
素餐を貪る一部のキャリア官僚や組織利権に明け暮れる実態は,多くの国民が知るところですが、その醜悪を、超然独立した気概で尊い仕事をするお父さんを尊敬してもらいたい。
たしかに週刊誌は人の暗部を暴くあまり近親縁者の怨嗟を発生させてしまうこともあるが、被害者の心情,加害者の環境を忖度しながら,真実を伝えることの意義は小さくないはずです。その上に立つての責務は、記者それぞれの人生観に照らしていることは言うまでもありません」

誌面や中吊りでは分らない「週刊新潮」の気概とその職人集団の取材方法は、゛しょせん週刊誌゛とは思えないような読者への教訓でもある。


            

             羯南の生地 岩木山

あの「名山のもとに名士あり」と詠った明治の言論人陸(くが)羯南は、あるとき記者を批評してこう述べている。
それは教師と女給の色恋を゛教育の荒廃゛と大書きしたことに点いてである。

カツ南は「教師と謂えど薄給の身 ときには女子の尻を触ったところで、これを教育の荒廃などと大仰に書くとは何事た゛」と,叱責している。
また,司馬遼太郎は「羯南がいなければ俳句など電池の切れた懐中電灯のようなもの・・」と書いている。また「子規や如是閑のような特異な人材は、いまの入社試験では到底,採用にならなかったであろう」と付け加え、明治言論人の人物観を綴っている。

弘前市在府町の羯南宅の真向かいは、あの辛亥革命に献身した山田良政,孫文の臨終に立ち会った弟、純三郎の生家である。
カツ南の教導がなければ異国の革命に挺身する事もなかったろう。
また、山田兄弟や朝野の有志の活躍がなければ,孫文の革命も成就しなかっただろう。
羯南も山田の義父である菊地九郎が維新の疲弊に打ちひしがれた民衆に向かって
人間がおるじゃないか」と、人間力こそ最大の力だと喝破した覚悟と矜持に影響されたに違いない。
あの伊藤博文もたじろかせた羯南の言辞は、言論人の鑑として語り継がれている。

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輪ゴムで蟻を釣ると津軽を思い出した 10 9/7 再、

2024-06-10 03:24:07 | Weblog




乾いた土に穴を掘り、暑いさなかせっせと何かを運ぶ蟻の行列を見て、童心に戻って蟻と遊びたくなった。道具は輪ゴムである。ひも状にして一方の端をつまんで穴に差し込むと蟻が釣れる。たわいない遊びだが親に叱られて土間に座っていとき考えた遊びだった。
あの頃はナカナカやめられない遊び、いや蟻にとっては迷惑この上ない作業の邪魔だった。

近頃は齢のせいか釣られる蟻を自身に模写したり、世の有様に似せたりするが、ふと津軽のことを想起した。今年の津軽は毎日のようにスコールがあった。決まって弘前から黒石までの弘南鉄道に乗ると着く頃は雨だった。スコールと考えたのはすぐあがるからである。

なにか地軸が北米大陸に移動したかのように、それにつられて偏西風の帯が北上したような敷島の邦がことのほか暑い。
風雨は亜熱帯のように激しくなり、乾いた土地は草木が茶色に変色している。
人の服装も欧風に「着る」のではなく、米風に「はおる」ようになってきた。男は刹那さを通り越して楽天的となり、初秋の庵の黙考や竹風の音も昔の古臭い情緒となっている。

オンナとてうら若きは立て膝や胡座が巧みになり、正座などは大河ドラマでしか見られなくなった。扇情的な服装はか弱き男を圧倒しつつも淫靡な欲情はより男を弛緩させる。ことに暑さのせいか、南洋の政治風土に似て政治家は騒がしくも楽天的になってきた。それは問題意識や危機意識が希薄になることである。

ともあれ、性別が希薄になってきたのである。




              


          津軽平川 ヨシ人形



荀子の「衰亡の徴」にも、男がにやけてオンナのようになり見栄えの服装もオンナのようになり、オンナは烈しくなるといっている。そして世の中は落ち着きがなくなり騒がしくなる。まさに数千年前も人間はそうだった。そして滅んだ。

世俗は未だにゲームセンターと詐称しているパチンコの客の多数は、くわえタバコも見うけるオンナである。ちなみに治安官吏の食い扶持なのかパチンコトイレの数多の首吊りは白書には記されることはない。つまりデーターにも乗らないため政治問題にもならない棄民扱いである。種目は事故死、不審死ではあろうが、青森県弘前市の新開地城東のパチンコ店では多くの首吊りが毎年のようにトイレで行なわれているという。
ちなみに男は岩木、白神、八甲田、死に場所はいたるところにあると。
博打で身を崩すのは男かと思ったが、勝負はオンナのほうがはまりやすい。

これはシャッター通りと化した地方の繁華街ではよく聞く声を潜めた話しだ。そんなところには儲からないのか弁護士もいない。とくに生真面目な東北の人々は困っても縁者にすら語ることが無い。パチンコ屋の敷地なり近隣には必ずといっていいほど消費者金融のATMが用意されている。景気がよくて遊ぶのではない。林檎をはじめとする農作物の不作、店には客も来ない。とくに遊戯台を占めるのは中年のオンナが多い。
ちなみに筆者も時間合わせだったが、たかだか20分で二万円の換金があった。つまりその逆もあるということだ。これが博打場ではなくゲームセンターという簡便な法に守られている。まさに国営にある厳格な法律外の治外官営博打場である。


東京でもそうそう見かけることの無い多くの寺院が立ち並ぶ寺町は、競うように軒並み大伽藍と庫裏を改築している。不作と経済不況、若者は都会に向かい帰郷せず。さしずめ大名は役場の役人、大尽は寺院とパチンコといったところだが、市民は「しかたない」と。
タクシーの乗務員も高齢者が多い。なかには月の歩合が7、8万、それと年金だが、形式離婚して家賃2、3万のアパートを借りて家族は公的手当てを貰っているという。

郊外には売りたくても売れない住居が多い。蔵付古民家で林檎畑が付いて数百万はざらである。近頃は外国人が買占めに入っているともいう。

足かけ20年近くなる津軽だが、四季の彩りは今も変わりがない。また津軽の、゛らしさ
゛のあった頃の事碩も厳然として残っている。
変わったのは都会を模した無計画の町並みと似つかわしくない市民の生活だ。
あの時は駅を降りると岩木山が目の前にあった。旅の帰着を喜び弘前の生んだ多くの偉人を想起した。改札口がおもいを膨らませた。





                  






目の前を高層マンションが遮り岩木山はなくなった。雑居ビルにはサラ金がひしめき、数十台の駅前のタクシーは空車待ち、高層マンションの裏手は都会のコンサルタントにそそのかされたのか回遊遊歩道のようにくねっているが植栽は雑草が生え、人通りもない。一番の繁華街通りも古都には似合わないカラフルさを装っているが人はいない。

あの訪れるものを魅せた、゛らしさ゛はどこに行ったのだろうか。
昔は十三湖には安東水軍が当時は表日本だった日本海を大陸との交易に繁栄した。それ以前は古代遺跡もあった。まさに津軽は別物だった。
その、゛らしさ゛は明治に開花した。人の花が大きく開いた。
東北の俊英が集った東奥義塾、明治の言論人で正岡子規を世に出した陸羯南、珍田捨巳、中国渡って孫文に協力した山田兄弟、ブラジルに渡って後のブラジリアン柔術を広げた前田光世、満州皇帝溥儀の最も信頼する側近だった工藤忠、彼等は本州の北端津軽から普遍的意思をもって海外に向かい、日本人としての信頼を得た先覚者たちである。

津軽には普遍な価値を持つ人物をそだてる気風と土壌があった。
いま津軽では「食べられないから都会に出て、みな帰ってこない」そして、゛しかたない゛と。しかし、あの頃の俊英は帝大を出て津軽に帰ってきた。教師にもなり商売人にもなった。近在には多くの善き相談役としてのエリートがいた。彼等は津軽に厳存している多くの事績を守って伝えた。何よりも人物をつくる教育とは感動と感激をつうじた魂の倣いであることを知っていた。

明治次世代の中国研究の第一人者の佐藤慎一郎、津軽教育界の重鎮鈴木忠雄は明治の先覚者の事績を継承した津軽人である。また宗教家である赤平法導師の文化的提唱は津軽に欠くことのできない郷土の矜持を語り伝えている

筆者も吹雪や熱暑の期に敢えて訪れることにしている。もちろん桜も祭りも温泉もその潤いの種ともなるが、人の変わりなき様子を探すことも愉しみとなっている。
そのなかで息潜む人たちの呟きにある、゛しかたがない゛という原因が、ある座標に立つて俯瞰すると、人々の尊厳を毀損するものと、諦めにも似て阿諛迎合する人々の実相や、多くの善男善女の郷人が陥る無関心と嫉妬心の混在が見て取れるのである。

それらの一部はことさら整理するものでもなければ、大言壮語して人を誘導しても解決したり、あえて直さなくてもいい部分として理解するものもある。それは明治の先覚者の排出した頑なな掟や習慣の土壌は津軽ならずとも、その気風が必要なのだと思えるのである。





                 

               黒石



                
             黒石よされ





ただ直さなければならないのは人間の尊厳を毀損するものである。政治と行政にみる支配機構に携る人間の問題である。これらが覚醒すればたちどころに人々の意識は変化する。とくに地方における市民と官吏の関係は都会にはない溝の深さがある。
しかし、これさえも、゛しかたがない゛と諦めているのである。

昔は、自由だ、民主だ、平等だ、人権だ、と騒がなくても官吏には忠恕と公にたいする謙虚さがあった。いまは慇懃な衣を被った支配である。何処でもそうだが、゛子供は公務員に゛と多くのオンナは子供に勝負を掛ける。地方はそこに農協が加えられる。
だから誰も言わない。与党議員も官吏の言い訳役に終始し、野党は食い扶持を勘案しながら市民の苦情をつまみ喰いする。



明治の初頭、津軽は維新の混乱と不作で疲弊していた。誰もが、゛どうしようもない゛と諦めていた。菊池九郎は「人間がおるじゃないか」と喝破した。
幼少、菊池に可愛がられ長じて薫陶を受けた佐藤慎一郎は勉強会の参加の多少を憂いた筆者に「独りでも少なしといえず、千人でも多しといえず」と、独立した一人の人間の重要さを諭してくれた。叔父の山田良政は革命の戦闘に殉じ、その弟純三郎は孫文側近として孫文末期の水を摂っている。
すべて独りの人間の言であり所作である。

政治も経済も人間が部分化している。そして情や公徳心も薄れているという。
しかし、゛しかたがない゛という言葉のなかには、゛仕方がある゛そして、゛誰か他人が゛という望みが満ちている。それは満を持した溢れる熱い心情だ。

つまり予算も補助金も、それに過度に縛られた市政に迎合する、゛しかたない゛が解き放たれれば津軽は激変する。津軽選挙といわれる陋習も変わるだろう。
それは軽々しい市民扇動運動でもなければ、勇ましい大立ち回りでもない。






                






日露戦争の勝敗の分かれ目は黒溝台の戦闘だった。それは津軽の若い兵士の奮闘だった。あの口うるさい爺さんたちの若かりし勇姿だった。お陰で日本人は青い目の金髪にならなくて済んだ。あの時は津軽兵士が最後の砦だった。寒かった、怖かった。だが負けたら津軽がなくなる。日本人もいなくなる。
手足は霧散し肉体は骸と化す極寒の戦闘に逃げずに立ち向かった。
縁もなく、怨みもないロシアの若者に向かって刃を振り上げた。ロシアの勇敢な兵士は最後の格闘で日本兵の目に指を突き刺し、津軽の兵士は首に噛み付いてそのまま双方絶命した。

寺町の奥に忠霊塔がそびえている。毎年、縁者や師の墓参とともに塔の二階にあるおびただしい無縁の骨壷が幾層の棚に安置してあるところで黙祷をする。日露戦役から太平洋戦争まで数百の骨壷が無縁として置き去りにしてある。訪れるものなく大きな香台はカビに変色して、塔の入り口もくもの巣が張っている。
8月15日は太平洋戦争後は国民にとって意味のある日となっている。敗戦、終戦、色々呼び名はある。塔の陰になったところには津軽の陸軍軍人の墓地があるが、ここにも訪れる人はいない。







                









なにも靖国の喧騒を真似ることでもないが、津軽の疲弊の一端が妙な格式や形式を司るものに奴隷のように従順な土地柄を生み、却って率先垂範するものの頭を押さえ込んでいるようだ。そう思うのも、近所の名刹といわれる寺院から鍵を借り、東京の来たれ者が毎年くもの巣を払い、香を焚き感謝の黙祷を捧げることが、清涼感に似た恩霊との同衾と、そこから導く誓いを独りの覚醒なり自省として己を内観する場だからだ。
大事な場所と思うなら簡単に入れはしない。そうでないから可能なのだ。

どうして足が向くのか。冬は雪を掻き分け塔に向かうのか。なぜならそこに津軽なり日本人が抱く、゛しかたがない゛という精神の転化に結びつく種があると思うからだ。

今更ながら「人間がおるじゃないか」と喝破した菊池九朗の一声が心に刺さる。

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佐藤慎一郎氏に観る 機密費という銭   2010 加筆再

2024-06-09 00:56:51 | Weblog

≪最近、以下の内容に極めて似た著作が出版された。濾過された情報の又聞きだが、実直な作者ゆえか、佐藤先生象の感受表現は改めて懐かく感じられた。もし先生にお会いして盃を交して著作にある記述を拝聴するならば、P44のような言動をするような風はないと認識するでしょう。また「おれ・・・(俺)」は、申が上から押されて下部が曲がった姿、つまり男性シンボルが押し曲げられた、いわゆる男の機能はないと、「日本人は面白い呼称をする」と云われたことを笑い話として語られた。

残置された書類はすべて焼却を切望していましたが、書類現物があることは不思議なこと。残っていたとしても触れた御仁は師の切望を知らぬはずはない。

真実を追うことが学問だと認識するのは勝手だが、切望の意を曲解なり隠匿することそのものを利とするのなら、どこかの国の大量破壊兵器隠匿如何として徒に知の有利さを弄ぶ愚は、師の「人師」としての風儀を汚すことだろう。≫

 

本文゜ 《酔譚の了解録音を参考加筆しました》

マスコミの解説委員や政治部長が機密費からお小遣いを貰っていたと話題になっている。

彼等にとっては問題なのだろう。ウンともスンとも言えないし書けない。陸羯南が聞いたら何といおうか。いや天聴(天皇の耳に届く)ならこれ程の社会悪は無いだろう。お耳を煩わせることだ。

たかだか瓦版、モノ書きの類のことだが、まさに走狗に入るとはこのことだろう。

国家観のあるうちはいいが、食い扶持、遊興、餞別の類になっては国民の信頼は得られない。とはいっても、゛国民の信頼゛ほどいい加減のものはないという前提もある。
つまり、嫉妬と怨嗟の対象だからだ。

こうなると、゛さもしい゛゛卑しい゛争論が発生するが、落ち着きの無い言いっ放しが大部分だ。

モノ書きの倣いだが、見たことを系列化するのが彼の職業における正当性であり、証拠や前提とする動機をとりあえず接続詞を多用して取り纏め、購読料を払っている不特定多数に伝えことを職業としているが、はたして食い扶持といえるのだろうか。珍奇、高邁に飾られた紙面は作り、書く者を文化人や知識人と称して盛り立てる世間の納得性もここでは問題視される。

日中国交前夜にマスコミが中国に入った。当時は香港からあとは鉄道だったが、香港からの旅費は中国政府持ち。視察と称する物見遊山は最終地北京に到着した。人民大会堂では周恩来首相の招宴があった。最後に風呂敷包みが届けられ「これを皆さんで・・」と告げられた。

中身は現金である。ブンヤどもは会議を開いた。どう処理したらいいか。国内の社内会議のような堂々巡りで埒が明かなかった。それでも彼等は大新聞の記者である。
そのとき毎日新聞の橘氏が毅然として「考えることではない。貰うべきものではない」と言い放った。

このことは当時の荒木文部大臣がエピソードとして語ったものである。場所は反共右翼が建てたビルの落成式である。こうも言っている「近頃は反共を謳って中共から金を貰ってビルを建てたものがいる」と。 むろん某政党も政党本部のために当時の額で3億円貰っている。

佐藤慎一郎氏が台湾の学術研究団に招かれ日本人の学者や研究者と訪台したときのこと、帰りにお土産が渡された。現金だった。

佐藤氏は賄賂を潤滑剤、人情を贈ると考えている彼等の慣習的な行為を非難はしない。問題は日本人の教育者や知識人の姿である。日本人として招かれた学者や、その後の台湾派と呼ばれている知識人達が当然の如く、あるいはコッソリと懐を開く姿に愕然とした。




             


クリーンハンドの法則は汚れた手を洗わないで握手をすると自らも汚れるということだ。
そのご佐藤氏はその訪問団からスポイルされている。つまり仲間ではないということだ。
狭い範囲の掟や習慣は法律の世界に優先することもある。とくに人情を加味されれば受けずとも理解することもある。しかもその訪問団の中では唯一20年以上中国で生活している佐藤氏はその意味するところを熟知している。
だから日本人が日本人として具現する姿を知っている。

知を働かせて意味も無い対価を受け取る。まるで物を売って対価を受け取るのと同じように手を差し出す。これでは言論の前提となる本(もと)が無いということだ。
「物知りのバカは無学のバカより始末が悪い」
「吾、汝らほど書を読まず、されど汝らほど愚かならず」
あの満州崩壊のときの軍人、官吏、しかも、゛高級゛と冠する連中と同じ醜態が平和時の知識人外交に佐藤氏はみたのだ


格好付け、変わり者といわれようが佐藤氏は断固、断った。それは、孫文の側近として、戦後は国民党最高顧問として日中交誼に尽力した叔父山田純三郎の遺志でもあった。その原点は「真の日本人がいなくなった」という孫文の嘆息への頑なな回答でもあった。
その中でも外国語を専門とする親台派で有名な教授は机を開けて生徒にその収得金をこれ見よがしに見せて平然としていた。いまは通信社の役職になった生徒の秘述である。

そんなのが大陸非難、日本政府への政策提言などと、何をかいわんや、いや国賊的知識人である。果たして彼等は孫文が歎いた真の日本人の枯渇した姿の映し絵ではないかとも思える醜態である。あるいは田中派経世会の中国詣から置いてきぼりにされた他派閥や大言壮語した議員の台湾派としての口利きは、辛い台湾の立場を巧妙に操りながらも何の功も産むことは無かった。

そのさもしい連中は、児玉源太郎、後藤新平、明石元三郎、八田興一、六士の教育殉職者等の事績を踏みにじり、かつ功利的な国内派閥抗争を台湾人の目に晒し、みっともない小人政治家の姿として今なお現地では語り草となっている。
またそれらが台湾棄民、つまり気に食わないので国を棄て、蛍のように甘い水に籍を移動した騒がしい連中の日本に対する阿諛迎合の口舌に気分を高揚させている。
知識人の曲学阿世と政治家の国賊的態度は今もって「信」を元とするアジアの民衆から嘲笑され続けている



つまり、かれらは実態から遊離した空中戦に戯れているのである。
゛片腹が痛い゛まさに台湾問題は日本人にとって胸を張って大義を唱えられない状況であり、三国の反目や難渋に多くの煩いとなっている一端は日本人そのものにあるといってよい問題でもある。

それが機密費をも扱うのである。官吏に嘲られるのも一理ある。
働かずに貰う銭、それは等しく国民から徴収した汗の対価である。

知識人は口舌と文筆によって営みがある。商業出版の労働者としてその技芸や珍奇な論を高邁に飾り立てて著作料を生活の糧としている。

部数を気にして本屋のデコレーションまで口を挟み、通称「平積み」の多少と置き場所を気にする。
そんなのに限って人を映しに義や愛をつづり、読者を架空な世界に誘惑する。また論争と称して騒がしい罵詈雑言を繰り広げる






             




筆者の周りにもそのような輩が出没するが、総じて照れくさいのか清貧を装い、場を変えて酒色に興じる小人作家も散見する。彼等も商業出版の社用経費の使い方に長けている。
ネタ元である政治家、治安官吏とのバーターは客である読者というより、不特定の国民に対する背任がごく自然に行なわれている。

日露戦勝の立役者である明石元三郎は膨大な機密費を使いロシア国内の社会構造の転換まで行なったが、余った資金は精細な支出記録を添えて返却している。
今どきの、貰ったものは使い切りとは違う当時の日本人の姿であり、その真剣さと集中力、普段の努力と愛国心は、国家ら俸給をいただく軍官吏として当然な姿であった。

佐藤氏も永年にわたって総理報告を送っていた。はじめは何のためか解らなかった。
或る時、管轄の官吏が訪ねてきて中国問題への意見具申の懇嘱があった
いつも赤坂の料理屋で普段食したことの無い料理が出て聴取が行なわれた。後でわかったことだが中国は佐藤氏、米国は某、ソ連は某とあくまで秘密報告だった。印刷はしないで手書きの聴取で7部作成する。

それが分かったのは安岡さんのと一緒にいたところに福田総理が入ってきて、
「やぁ、佐藤先生いつも貴重なご報告恐縮です」といわれ、はじめて総理が読むものだと理解した。
香港に渡り、海岸で待っていると棄民が泳いでくる。そして中国人でさえ日本人と判別できない流暢な北京語で聴取する。温かい食べ物を一緒に食べる。
軍報や国内向け人民日報を読み解き検証し、次を推考する。国内法規を翻訳する

それが総理もみる秘密報告となる。
或る時、「そろそろ歳なので他の人に・・・、高名な中国研究者もおるし・・・」

聴者はいう。
いゃ、彼等は誰にでも理解できること、発表できることを言っている。中国人がこの問題をどう考えるかは推測でしかない。それでは政府の決断はできない。この問題は佐藤先生しかできない。世界の中のアジア、そして日中関係、かつ善隣関係への模索という前提が無ければ只の論文でしかない。それはその人たちの事情です」

それも日本及びアジアのためだ。だから渡航費と謝金だけしかいただかなかった。コレ(妻)は大変だった。拓大でも学長に教授を依頼されたとき二万円もらった。コレにこれでは生活ができないね・・といったら、烈火のごとく怒った。『あなたは学生が好きなんでしょう。そんなことで辞めたら学生は可哀想です。私はできますから続けてください』と叱られてしまった。



              

             モト夫人


この報告書も日本のため、国のためと思っている。日本人の伯父がなんで孫文の側近として中国の革命に行ったのか。それは西洋に抑圧されたアジアの人々を救うためには、先ず中国を近代化して日本と提携しアジアを興す、その一点だけだ。コレに金の問題ではないことを改めて教えてもらった」

外務省が機密費を流用し贅沢三昧した。大蔵省高官の銀行接待、官官接待、佐藤氏は「もう日本人はいなくなったのか」と筆者の面前で大粒の涙を流した。
何のために伯父達は頑張った(辛亥革命)のか・・・

困ったときの荻窪頼り

(荻窪団地に居住)中国国務院の高官や台湾高官も佐藤氏を頼って訪問する。池田、福田氏ら総理からの教授要請がある。しかも無名を貫き足跡をたどるも痕跡は少ない。
それを是として財貨や名位には目もくれない。だから異民族にも信頼があった。
なによりも熱意と人情があった。そして自身にあえて重責を課し厳しかった。

「先生、今日は出席者も少なく失礼しました」と筆者が恐縮すると、

「何をそんなことを気にしている。陽明は、゛独りでも少なしといえず、千人でも多しといえず ゛といっている。一人でも真剣に聴くものが入れば人数の多少を拘らない。一人の人間によって社会は興きる。また一人によって滅ぶときもある。このような場を作る志はありがたい。また継続することだ。わたしはいつでも参りますよ」
物の多少に囚われない、真の自由を担保するのは己の精神だと。

機密費というあぶく銭は手をつける人間次第によって国家は滅ぶ。
あえて説明はいらぬことだ。

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朋友のリンク  郷学研修会のあの頃

2024-06-06 13:10:13 | Weblog

           郷学熱海研修会  安岡正明講頭

 

我が家からテレビを放逐して数年経つが、不思議がった方々のほかに疑念を持った人がいた。あのNHKである。アンテナの線は切断、PCは自宅にはない。そんな環境でも何度も来訪した。音のするものもない中で茶をすすり、新聞二紙を読む。読むといっても産経と東京の二紙は観照したり思索するにはホドが良い資料だ。いつごろからか新興宗教の日刊紙が投函されているが、これも世俗を読むには有効な資料だ。

ときおり昼食時の飲食店でテレビを視聴するが、お笑い娯楽となったニュースが流れ,晩餐?の居酒屋ではスポーツか娯楽が幅を利かせ光陰のように過ぎ去る世俗を映し出している。ことさらヤルセナイ人生とは思わないが、さまざまな視聴媒体がデモクラシー成立の部分構成だとおもうと、せめて一時でも離れたいと思うのは筆者だけではないらしい。

碩学はデモクラシー変じて、「デモ・クレージー」と揶揄したが、まんざらでもない。それも反射的習慣性にどう向かうかの問題だ。ただ、゛いいんじゃない゛の逃避なのか惰性なのか判別しない慣性には馴染まないようにしている。

   

              

 

             

               ブラジルの友人より    

 

さて筆者の当節勝手な備忘録だが、以下は朋友作成リンクの紹介です。

http://kyougakuken.wixsite.com/kyougaku/home

https://www.youtube.com/watch?v=UO0lQkpPk94

数年ぶりの再開だが反響が多かった。なぜだろうと不思議感があるが、その多くは老若問わず男子である。

 

 平成29年3月の郷学研修会は世田谷地区川部幹事の設営で、20日(月曜日)三軒茶屋にておこないます

講師は元空将の平田英俊氏を予定していてます。当ブログのコメント欄にお問い合わせ記載していただければ,幹事よりご連絡いたします。なお会場の都合により定員になりましたらご容赦ください。

 

 

以下は当ブログ内の関連稿です。

≪「郷学研修会」の再開  ≫

 

どうなるのか・・・と、首を傾げる憂慮は銀座のビヤホールからはじまった。

どうにかしよう・・・と、応えた。成算はなかったが、その職域から発した憂慮に尋常ならさざる問題がこの国に滞留していることが、ことの始まりだった。

しかも、おとなしくしていれば、どうにか今どきの成功価値に安逸した生活ができる人物の問題意識は、部分は明確だが、社会の大まかな状況には手を拱くしかなかった。

                 

                       平田英俊空将

人格とは何ら関係のない附属性価値を獲得する成功価値だが、手を拱かざるを得ない状況は、それを無意味だけでなく、ときにそれを所持する人物如何によって反有効性価値として社会の各部分に煩悶を発生させている状況がある。

 

人格を養う本(もと)は官製カリキュラムにはない。

また、部分カリキュラムなどのアカデミックな修学に求めるものではなく、まして、数値の比較評価に拘泥するものでもなく、あの陽明の「格別致知」のように、知に到り、身に浸透するような学びは各々の感性に委ね、あらゆる場面に訪れる事象への問題意識の喚起・探求こそ「本」の端緒なのだ。

 

しかし繁栄はときに成功価値を曲解させ、生産性を企図した人の養成は数値比較である、知った、覚えた、味気のない人間を大量に輩出ならぬ排出している。よくこの種の涵養に求められる古今東西の古典記述とて、発生地の人の織り成す社会環境や習慣的性癖などを遠目に眺め、字章を簡便な美辞麗句に装い、本来の意を曲解して来歴を修復している状況がある。「本」の微かで乏しい附属性価値は、地位、名誉、財力、学校歴となり、この前提は高給と安定担保が大よその成功価値となっている。しかも目的化している

また、浸透して血肉となり、己の特徴を以て利他に行動する「活かす学」などは、浮俗に誘因する欲望に抗しきれず、内に顧みる自省すら忌避して安易簡便なる学風に陥っている。

 

生きる要因や術(すべ)となる必要なものを、徒(いたずら)に抑制し偏狭に否定するものではない。だだ、ヤルベキことがヤリタイことになると、欲望は際限なく、コントロールを失くし、ときに公位に職を食む人間がその状態に陥ると、社会は調和と連帯を微かにさせて、まさに「どうなるのか・・・・」と、その進捗に戸惑いを覚えてしまう。

 その疑問は、数値選別に勝ち残り高位高官に昇った人物から発した疑問ならなおさらのこと、一考に値するものだった

土壇場になったら、あの社会保険庁の逃避構成員のようになるのか、前線で危険対峙する自衛官を横目に天下り生害賃金を思案する指揮官になるのか、詰まる所、政治家は行政官吏を管理コントロールできているのか、はたまた、自分の幼年期からみた世俗の変わりようとして、毎日のように報道される殺人、詐欺、公務員の不祥事、などあの頃には想像できない社会が出現している状況が、はたして求めた成功価値なのか、そんな疑問の根底は何なのだろうかと、切り口を求めてきた。

 

応えはこうだった。複雑な要因を以て構成され、かつ、さまざまな縁のなせることで、地球の表皮の部分に棲み分けられた、集う民族の変遷にある栄枯盛衰、とくに物的な集積と破壊、人的な争いと親和、とくに現実から遊離したような惨禍の回想など、人間の繰る社会の歪みなり劣化について切り口について、率先的な意思も枯渇したような人間そのものへの問題として提示してみた。

 

問題意識の正確な把握と基礎的知識が備わっているエリートは直ぐに理解し呼応した。

そして、自身が体験した政官の高位の部類に入る人たちの状況も添え、かつ彼が依るすべとした理工系エリートの思考習慣を超えて、まさに彼らにとって当てにもならない人間学的考察から人の習性や情緒なりを更新、是正することを共有する人々と、利他の貢献を企図してお節介なる集いを催すことになった。

 

当初は四、五人、現在は多士済々の十人余り、この座談会を数回行い、その名称を考える段になってなかなか名案は浮かばない。

そうしているうちに、このメンバーならそれぞれの分野のエキスパートゆえ、講話会を開いて、ささやかな相互学習をした経過で座談会の名称を考えることになった。

そこで、簡便な知恵だったが、既存の会で休会になっている小生の主宰していた「郷学研修会」を、有志を募った相互交流の場として再開する運びとなった。

 

                 

                  安岡氏

              

                 卜部氏  郷学にて

 

元々は、白山の安岡正篤宅での会話から、氏の督励がきっかけで、厚誼あった卜部侍従・安倍元内相・下中邦彦(平凡社)・佐藤慎一郎、各氏の発起をいただき、足掛け十年行っていた。会長は郷の篤志家、講頭は安岡正明氏、講師は漢学者、内外のジャーナリスト、政治家、匠、など多彩だか、選択は無名有名を問わず、督励意志を鑑みた人物を小生の専決で懇請させてもらった。会場は憲政記念館や渋沢別邸・都内の借室など、講話の趣によって選択していた。

                    

休会の理由は、その世界では高名だった督励発起の方々への妙な錯覚した世俗評価に集う人たちが増えたことだ。

ある意味、権力に近い、皇室権威に近い、というアンチョコ学問の堕落だが、とくに中央官庁の官吏や政治家の卵にその傾向があった。参加者は高校生や近在の老人、研究者の類もいたが、みな良識があり、いくら有名でも四方同席の自由と平等の観念が備わっていた。

 

その卵や官吏は狡猾な目的があった。当時は安岡正篤氏と交誼があれば、何かと便利だと思う輩がいて、ご長男が講頭(当時郷学研修所理事長)なら尚更のこと、一部の者の意図は、会がブランド化していく憂慮があった。

 

たかだか有志の学習会ゆえ、有名になろうとか拡大しようとも考えていなかった。そもそも郷学は錯覚した人物観によって埋もれ、微かになった人心を作興させ、郷(地域)の埋もれた無名な人物を扶助し現世にその価値を覚醒させようとする運動であり、その意識をもつ人物を養成しようとする集いだからだ。

要は己の習得した能力を自らの利に用せず、ささやかでも利他の貢献に結びつけることを目的としている相互研鑽でありムーブメントだからだ。

                  

                 岡本氏

あの席で、同席の岡本義雄氏は「日本精神の新たな作興」と烈言した。呼応して安岡氏は「錯覚した価値により中央が糜爛すると、地方の篤士による志が顕在するようになる。有為なる人物を発掘して郷を作興する場が重要となってくる

その意が、「郷学を興しなさい」と、偶然の機となって具現されたのが岡本氏命名の「郷学研修会」だった。

安岡氏から添えられた言葉が「無名は有力です」だった。

 

作興とか、郷学とか、無名は有力だ、とかは深い意味も解らず、その場ではまる呑みだった。

こんなものだろうと始まった時、講頭の安岡正明氏が「父が考えていたのは、このような許容量のあるたおやかな相互学修なのですと云われたが、あの烈言した岡本氏も気色鷹揚にして頷いていた。督励発起を戴いた御仁方も率先して講話を承諾し、様々な世界に起きる禍福に制度や組織にかかわらず、いかに基となる人間の問題が大切かを口唇の乾くのも忘れて語っていただいた。なかには、そのような集いならと、普段は高額な謝礼が必要な諸氏も篤志で講話を申し出る方もいた。

 

そして、妙な選民意識なのか流行りのブランド的な風評が漂ってきた

この風評なるものは抑えられないものだった。゛たおやかな許容゛が戸惑いとなった

「安岡ブランドというものがあるようですが、食い扶持や虚飾の屏風になっています

『父は、それを学問の堕落と云っていました』

宿泊研修で真っ暗な天井を眺めながらの寝床談議だったが、「本(もと)」が毀損されるようになれば・・・、それが、休会の理由である。

無名を旨とすると運営者は、とくにこのことに気を付けなければならない。

 

それが、時を経た今機の再開である。

いまは、あの当時の督励発起の方々はいない。

だが、その統(す)べを伝える内包されたものはある。つまり意志をつなぐコンテンツは前記の座談メンバーに充満している。「統(す)べを伝える」これが伝統なのか・・・

「郷学研修会」は、年初をめどに準備を進めている。

 

 

≪槇の会≫          

また、準備世話人の座談は、名称を「槇の会」として並行して継続することとなった。

「槇」のいわれは、悠仁親王殿下の御印の「高野槇」を拝借して、世俗の学びにない俯瞰した人間考学を旨とするための名称として、次代のために現世を語る集いにした。

イメージを与えて戴いたのは、参会されている松崎俊彌氏(皇室記者)の秋篠宮家の睦みと使命感についての話題に感応したことがその理由である。        

              

               松崎氏 台北にて

郷学研修会の督励発起人だった卜部皇太后御用掛の逸話も含め、どこか督励を戴いた他の縁者との関係も、今期の再会の後押しになっているような義縁も感じている。

 

一部画像は関係リンクより転載しています

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内憂外患とはいうが、先ずは「内患官倒」であろう   8 12 再

2024-06-05 06:12:10 | Weblog

前号では天安門の命がけのスローガンは民主化とそれを遮る官吏の「官倒」であった


「田園まさに荒れなんとする・・」と陶淵明は都を落ちた。
逸話では上級役人が視察に来るので正装して待つようにと下級官吏に命じられた折、陶淵明は気骨をもって憤慨している。言うに「食い扶持のために田舎役人に頭を下げるのはごめんだ・・」と、反発して郷里に戻っている。

その気風は自然詩情あふれ、今どきの定年待ちの年金田舎暮らしとは心根に天地の差があるが、反骨によくある誹りは免れない。かといって、゛いいんじゃん゛゛俺はオレ゛のいい加減さは無い。

詩情に流れるものは「経世済民」であり、あくまで民を済(救う)ことを目標としている。そのために縦割り官吏の似非権力に反抗したのである。その気高き孤高の精神は浮俗のに漂う多くの欲人を儘ならぬ形で誘引をもしている。

喩えだが、碩学安岡正篤氏にも周囲にその環境が少なからずあった。つまり拙速学歴を補うべく集う官吏、商売人、売文知識人の類である。

今どきの官僚の官官接待や民間業者の取り巻きに嬉々としている拙速学位に応じた者とは根本的に異なる矜持がみてとれる。ことさら隠遁のような精神を持つべきだとは言えないが、地位、名誉、財利に恬淡な人間への憧れが香りとなって時を違えても感嘆すべき詩情と、それを支える気概である。

隣国の官吏は科挙という難解な登用試験を経たものの特権階級である。つまり宮中に仕えるに生殖器を切除して宦官となり、その権限、賄賂については拙章「昇官発財」に詳しく記しているが、地方官吏についても、どの様に真面目な官吏でも三年務めれば黄金が貯まるという。まるで現在の外交官のように給与はまるまる預金、家も建ち、膨大な手当てと退職金、厚遇された年金と大臣など足元にも及ばない生涯所得を税から受けている。

そこに陶淵明のような気骨と問題意識を持っている官吏がいるだろうか。




                



あの日中友好交渉の折、田中総理は毛沢東主席から「もう喧嘩は終わりましたか・・」と慇懃に手渡されたのは屈原が載っている「楚辞」である。
『どうぞお読みください』ということである。





                

5月5日は端午の節句 屈原が世をはかなんで入水した日だ。

その屈原だが端午の節句の主人公である。ベキラに入水自殺した屈原が身体を魚に毀損されないようにと姉が竹筒にもち米を入れて川に投げ入れたことから粽(チマキ)習慣となったものだが、それくらい愛敬された官位ある人物である。
゛溺れたものには石を投げる゛゛墓を暴く゛という民が、と考えがちだが人情と誠には民族を問わず正当な評価を下す民族の佳き一面でもある。

なぜ投身したのか。

川の淵をさまよっている屈原にある漁夫が尋ねた。

『どうしてこの様な処に・・・』

屈原は応えていう。
『世の中全てが濁っている。己独りが澄んでいる。多くの人々が堕した世に酔っているなか、自分は醒めている。それゆえ遠ざけられた・・・』

『賢い人は世に逆らわず、拘らず、流れに乗って生きる。なぜ彼方も一緒に泥をかき混ぜ、波を立てないのでしょうか。人が酔っていれば少しくらい酔ってもいいでしょう。どうして深く悩み孤高に甘んじているのでしょうか』


屈原は諺を引いて応えた
『どうして清らかな精神を持つ身に汚らわしいものが受け入れられるのでしょう。いっそのこと、この湖水に身を投げて魚の餌になろうとも、この清い身を世俗の塵にまみれさせたくはない』

漁夫はこう言って立ち去った
『水が澄んだら冠の紐を洗えばいい、水が濁ったら足を洗えばいい』



               

    満州での邦人家族 佐藤慎一郎氏




肩の力を抜いて、切り口の違うところから観れば、そう悲観することは無いと漁夫は言うのだろう。では何故、毛沢東主席は田中総理に「楚辞」を送ったのだろうか。どこにも貼りつく膏薬論にもなるが、人によっては好転したり暗転する。

゛あまり四角四面の難しい外務官吏の言うことを聞いていてはできるものも出来ない。文字遊びは止めて大同に就こう・・゛

゛その内、狡猾な官吏に足元をすくわれないように・・゛

「智は大偽を生ず」
概ね知識は己を守るため、己さえ偽り、大義を唱えて利を貪るようになる。
それゆえ官吏、知識人は「臭九老」と毛は蔑んでいた。そして官吏は自然にそのようになって群れを構成し社会を蝕むといっている。

つまるところ「公」と「私」の間の問題である。

陶淵明も屈原も人を救う公意を詩情に託して時代に訴えた。

此のところ嫉妬と怨嗟の当てどころとして官吏が浮上してきた。
彼等の立場は国民ではあるが、それこそ国際呼称ではタックスイーター(税金食い)である。夢を喰う獏ではない。拙速だが名目学歴を有し地方では高額所得者として位置を占めている。その不作為に民が塗炭の苦しみを味わっても業務上過失毀損という罪を有していない。巧妙にも俸給外の手当てを随時頂戴しても背任にならない。天下りという渡り喰いをしても罪はなし。政策にピントが外れても咎はない。
横領をしても卑猥な行為をしても、民法に無い内規の訓戒、戒告、注意という狡智規範で済む。

屈原でなくても、゛皆、濁る゛
その意識もなく、食い扶持、退職金、年金、を思い計って声は挙がらない。
わが国はその周辺を含めて二千万人余いるという。それらが掟、習慣に護られて佳き変革を遮っている。



              
満州馬賊の頭目 白老大人 1989.5


美辞麗句は大偽のようだ。あの満州崩壊の折、電話線まで切って居留民を残地させ、内地に逃げ帰った高級軍人、高級官吏の歴史は我が民族の恥辱として満蒙の地に語り継げられている。中には陛下の勅任官もいる。敵中、敵艦に散った成人前の若者(少年)の矜持を、孝であり、忠であると煽った、同じ日本人の軍人官吏の醜態である。

華人は独りで強く、集団は纏まらないという。翻って日本人は独りは無く、群れになると強いという。そこには群れの人情は無いということでもある。
また、徒に法を煩雑なものとして、彼等はそれを駆使して利を貪る。

華人には「人情は国法に勝る」という心根がある。

高知の某高校の修学旅行が上海で事故に遭い、多くの生徒が亡くなった。その一報を聞くと官吏は棺桶を送る準備をした。先ずは緊急医療ための医師を派遣すべきと、新潮の門脇記者は訴えた。棺おけを用意するが、粽を撒く人情も無く、そこには詩情などはない。

それが我国の官吏の性癖でもある。

我国には名目学歴もあり責任もある官の逃げた歴史は確かにある。



以下、元のフビライをして「真の男子」と言わさしめた宋の忠臣、文天祥の
【正気の歌】 参照

《我国でも吉田松陰、水戸学の藤田東湖、軍神広瀬武夫などに忠臣の鑑として読み継がれている》
   

【本文】

この宇宙には森羅万象の根本たる気があり、本来その場に応じてさまざまな形をとる。

それは地に下っては大河や高山となり、天に上っては太陽や星となる。

人の中にあっては、孟子の言うところの「浩然」と呼ばれ、見る見る広がって大空いっぱいに満ちる。

政治の大道が清く平らかなとき、それは穏やかで立派な朝廷となり、

時代が行き詰ると節々となって世に現れ、一つひとつ歴史に記される。

例えば、春秋斉にあっては崔杼の弑逆を記した太史の簡。春秋晋にあっては趙盾を指弾した董狐の筆。

秦にあっては始皇帝に投げつけられた張良の椎。漢にあっては19年間握り続けられた蘇武の節。

断たれようとしても屈しなかった厳顔の頭。皇帝を守ってその衣を染めた嵆紹の血。

食いしばり続けて砕け散った張巡の歯。切り取られても罵り続けた顔杲卿の舌。

ある時は遼東に隠れた管寧の帽子となって、その清い貞節は氷雪よりも厳しく、
ある時は諸葛亮の奉じた出師の表となり、鬼神もその壮烈さに涙を流す。

またある時は北伐に向かう祖逖の船の舵となって、その気概は胡を飲み、更にある時は賊の額を打つ段秀実の笏となり、裏切り者の青二才の頭は破れ裂けた。

この正気の満ち溢れるところ、厳しく永遠に存在し続ける。

それが天高く日と月を貫くとき、生死などどうして問題にできよう。

地を保つ綱は正気のおかげで立ち、天を支える柱も正気の力でそびえている。

君臣・親子・夫婦の関係も正気がその本命に係わっており、道義も正気がその根底となる。

ああ、私は天下災いのときに遭い、陛下の奴僕たるに努力が足りず、かの鍾儀のように衣冠を正したまま、駅伝の車で北の果てに送られてきた。

釜茹での刑も飴のように甘いことと、願ったものの叶えられず、日の入らぬ牢に鬼火がひっそりと燃え、春の中庭も空が暗く閉ざされる。

牛と名馬が飼い馬桶を共にし、鶏の巣で食事をしている鳳凰のような私。

ある朝湿気にあてられ、どぶに転がる痩せた屍になるだろう。

そう思いつつ2年も経った。病もおのずと避けてしまったのだ。

ああ!なんと言うことだ。このぬかるみが、私にとっての極楽になるとは。

何かうまい工夫をしたわけでもないのに、陰陽の変化も私を損なうことができないのだ。

何故かと振り返ってみれば、私の中に正気が煌々と光り輝いているからだ。

そして仰げば見える、浮かぶ雲の白さよ。

茫漠とした私の心の悲しみ、この青空のどこに果てがあるのだろうか。

賢人のいた時代はすでに遠い昔だが、その模範は太古から伝わる。

風吹く軒に書を広げて読めば、古人の道は私の顔を照らす。


フリー百科事典Wikipediaより参考

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 人間考学  「布仁興義」 その倣うべき姿  11 4/22

2024-06-03 11:30:50 | Weblog

筆者 拙刻





「仁を布いて義を興す」  よき心を自ら広げて、正しい心を喚起する

「布仁興義」東洋では政治の様態を問うときこの意を標識する
その標識は世間では法の掲げる標(しるし)として乱立しているが、いまはこのシルシが罰金徴収の題目となっている。

標(しるし)は、識(しき)にいう道理がなくては掲げるべきものではない。道徳心を喚起し己を自制する、あるいは想い起こさせる標でなくてはならない。

孟子の説く「四端」がある。ことの心(情)の端緒を収斂すると四つあると、それぞれ「惻隠、辞譲、羞悪、是非」として仁、義、礼、智を説いている。

仁は惻隠の情が心や行動の端緒となる、という。
他人の困窮を見たら察する、心を想うことが陰ながらの意識の発動であり、それが「仁」の姿だという。

ちなみに「礼」は心を譲る、「義」は羞悪をみたら本来の姿を想起する。

「智」良し悪しの分別、その心を育てることが学問なり教育だが、もともと誰でもある心(情)が欲望によって失くした (忌避、忘却、放心)心を取りもどし純なる己を再考する、それを成すべき学問だという。それは形に表れるものとは異なり、また心の説明責任などという類には馴染まないことでもある。

よく「我、何人ゾ」と、自分は何なのだろうと自分探しをすることが言われるが、学問修得の一面でもあり、多岐な行動を促がし発起、躍動、自省、あるいは自傷もあるが、詰まるところ「自分はどの位置にいるのか、ところで何なのだろう」という探求でもあろう。

自身が善いと考えたことを不特定多数を対象に布く、つまり口舌や行動で提供することによって、人々に義に表れる正しい行動が喚起される。その調和と連帯が家族、社会や国家であると多くの為政者が好んで揮毫している。

近頃の日本の政治家は「一隅を照らす」と流行り挨拶になっているが、そもそも政治家は一隅の光を連帯させて、万灯に構成し世の中(国家)を照らすことが責務である。
一隅の意は下座観である。世の中を多面的に俯瞰するために必要な部分ではあるが、部分の考察のみてではいつまで経っても全体俯瞰にたどり着かない。

つまり一党一派を支えても、国家は担えない為政者の蔓延である
その結果は判例主義の裁判官、前例執着の官吏の出現である

もともと官制学の暗記学やマニュアルを唯一の人間査定として生きてきたものにとっては、その考察の入れる箱は狭い。それゆえ一隅は重箱の隅と化し、灯火は似非貧者の一灯となり、名利食い扶持の擬似同感となっている。

これでは「布仁興義」にはならない。
人々は易きに倣う。当世政治家の仁は予算確保であり、義は美句スローガンでしかない。
それは社会を弛緩させる。つまり人が怠惰になり、愚かになる。逆に緊張ある社会は、たとえは悪いが、真の悪を生み、却って心の善を甦らせ羞悪に抗する義を喚起する。

緊張した社会は、言い方が悪い、態度が悪い、と政権を糾弾しない。弾が飛んできても無駄な議論で延々と会議などはしない。
そんな為政者に習い逆な立場におかれると、また同じことが繰り返される

現実の例えだが、福島原発の被災は近隣住民に避難を指示した。茨城県つくば市は行政がその避難者を同情で迎えなかったと騒がれた。国民は優しさが無いと非難した。
それは以前、茨城東海村の原発事故のとき福島県境では避難する茨城県民を同様な態度で軋轢を生んでいたことの意趣反しと考える意見もあった。
仁が乏しかったから義が起きなかった。


真の善政は「」という。
官を太らせ、国民に金を配るものではない。
孟子は、生まれながら誰にも教えられなくても、その四つの収斂された心(情)は保持している。しかし人間は心が放たれている(亡くしている)。
それは人のあるべき姿(人格)と何ら関係しない附属性価値の欲望に、過剰に翻弄され競い、恨み、悩みを発生させている。その価値とは永遠なる命と持て余す富であり、現代のその具は名誉、地位、学校歴となり、だれもそれを矯正できない。

つまり「」を遂行しようとする人物がなく、西洋の造物主が説く「人間は至高なる存在」を拝借して生命財産を侵すべからぬ価値として汲々と擁護している。
だから家畜を置き去りに避難を指示する。緊急時でも一顧ある余裕もない。あるのは責任が及ばない為に数値のみでの策であり、動植物と共生する継続社会の情緒の理解も無い。
人情は人の為のみにあるものではない、たかだか区切られた地表は人間の為にあるものではない。しかも人の役に立った家族のような動物を忌避する為政の策に情(こころ)は無い

生きていることは何のためか、財なり富は何のために用とするものか、ここに至誠の心で一隅を照らすご家族を紹介して本章の意の一助としたい。

感動や感激は見るものではなく、行為を倣うものだ





吉永君のよき理解者 麻生太郎氏


吉永拓哉さんの示す「布仁興義」

サンパウロ新聞福岡支局長 吉永拓哉氏の筆者への便りを掲載  23・4/23 

≪今年は10月に父親、弟、妹とアマゾンへ行ってきます。
アマゾン川中流域にあるパレンチンスで高拓移民入植80周年記念式典に出席する予定です。
あまり世間では知られていませんが、戦前、日本の国策で「アマゾンに第2の満洲を創る」という壮大な計画がありました。
そのため、政府は東京に高等拓殖学校(略して高拓)を創設し、我が国の優秀な家柄の子弟たち(高級官僚の息子など)を集め、子弟たちに「オノ一本でアマゾンの原始林を開拓する」訓練を行なったのです。
こうして実に300名ほどの高拓生たちがアマゾン奥地の原始林に送り込まれました。
高拓生たちは苦難の末、原始林を切り拓き、新種の麻の栽培に成功しました。
当時、麻はコーヒー袋の原料として重宝され、需要も多かったそうです。






 
          移民渡航


しかしその後、第2次世界大戦が勃発。そのため、高拓生たちの血と汗で築いた財産は、すべてブラジル政府に没収され、高拓生たちは本拠地を失い、散り散りになってしまいました。
それから数十年が経った1961年、私の父親が学生時代にアマゾンを放浪したときにふと手に取った高拓生の帳簿を見ると、かつての高拓生が「無に帰す」と記していました。

恵まれた家庭に育った若者たちがアマゾン開拓を志すも、夢破れ、最後は無に帰るという詩を拝見し、私の父親は「アマゾン移民との交流」を一生の人生テーマとしました。
ちなみに私の弟の名は、この「高拓移民」から字を取り、「吉永高拓」と名付けられました。

300人もいた高拓移民ですが、あれから80年経った現在は、生き残りが5人に満たないそうです。おそらく入植80周年が、高拓1世にとって、最後の周年式典になるでしょう。

こういった日本の歴史は、残念ながらほとんど世に知られていません。
今度の80周年式典もおそらく日本からは他に誰も行かないでしょう。
しかし、こういった先人がいるからこそ今日、日本人は世界から認められる民族となりえたのだと思います。私もブラジル邦字新聞記者としての使命を果たすべく、今年は高拓移民の取材で再びアマゾンへ行ってきます。≫

 

    

吉永氏はフジモリ元大統領が収監された監獄に一人で面会に尋ねています。隣は大統領候補のケイコさん

 

 

現在、彼は少年院退所者の更生援助を援けるために「セカンドチャンス」という活動をしています。

受け入れ運営者も吉永さんと同じ非行入所体験を持つ方々で、建設業関係社長さんなど多くのボランティアが支えています。

父から促されたブラジルですが、まさに彼のセカンドチャンスは、人のためのささやかな行動として若者に引き継がれいてます。

まさに、善い行いを広げて、人々に正しい行為を喚起する。それは彼の背中を魅せる伝え方でもある。

 

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