在満二十余年、筆者の恩師であるが学び舎の縁ではない。
碩学安岡正篤氏は隣国の古典を活かして各界に影響を与えた。そして名を博した。一方、佐藤氏は荻窪団地の一室で多くの学徒を迎えている。
同じ古典でも現地の人々の生きた古典だ。それは彼らにとって看板のようなものでもある。
古典流入の来歴はさまざまだが、教養となり、ときに仏教同様に権力の虚飾にもなった。
ときに四角四面の解釈は官吏登用の具となり、政治を硬直させることにもなった。
安岡氏は現地の古典解釈や活用についてしばしば佐藤氏と交談している。
それは似て非なる古典解釈の錯誤から戦火を交えるようなもなることへの矯正でもあった。
以下は拓大最後の教授と謳われ慕われた佐藤慎一郎氏の生徒に向かう魂の講義である。
拓大の最後の授業の記録を生徒がまとめてくれた。ばあちゃんも聴いてくれた、いゃ恥ずかしい限りだが・・・と差し出された冊子には、「お別れの言葉、佐藤慎一郎先生最終講義」と記されていた。
恒例になった弘前の墓参も今年は8月15日と決まった。冬は墓石の頭しか見えないくらい雪が積もり墓地に辿り着けず難儀するが、夏は岩木を眺望する小高いところにある
弘前までの道中は膨大な録音テープを抜粋して聴いていると,あっという間に着いてしまう。この講義のようなものもあれば、ばあちゃん(もと夫人)とのなれ初めや、未公開の日中秘史など、師の生涯を網羅するような、ときに涙と笑いがある酔譚である。
師の口癖である、゛体験のバカ話゛とは仰るが、これほど人間を魅了させる人物は未だかって遭遇しない。
ともあれ、弘前に行けば逢える。身を浸してみてこそ解る、そのとおりと、この齢でも実感できる悦びがある。
拓殖大学最終講義
講義・拓殖大学(昭和五十一年三月)
1.心の講義
私の最終講義に当たり、思いつくままにお別れの言葉を言わせてもらいます。
私が社会に出ました頃は、不況につぐ不況、お先真っ暗な時代でした。五・一五事件、二・二六事件、満州事変、北支事変、大東亜戦争、そして敗戦、そうした激動の中で生きてきました。机の上に座ったことなどなくして、教壇に立っていたのです。
私は満州国で、初めて人間の素晴らしい生き方を見ました。すがすがしい死に方を見ました。そうした方々の中には、諸君の大先輩、拓大の卒業生の方々もおられました。私は感動を覚えました。また他の一方では、敗戦という極限の状態における、人間のあけすけな醜悪面も見せつけられ、慄然としました。
私も敗戦後、共産軍に捕らえられ、死刑の判決を受けること二回、二回とも中国人に助けられました。三回目は国民党に逮捕され、九分通りは死刑であるとの内示を受けていたのが、判決直前、釈放されました。私は留置場の中で、または死刑執行場で、自分で、自分の入るべき墓穴を掘りながら、本当の学問というものは、書物以外の所により多くあることを、体験させられました。
「われ汝らほど書を読まず、然るが故にわれ汝らほど愚かならず」
「物知りの馬鹿は、無学の馬鹿よりもっと馬鹿だ」
という言葉の意味を本当に知ったのは、日本の敗戦によってでした。いかに素晴らしい言葉であっても、それが信念と化し、行為と化するまでは無価値であることを知ったのです。 では教育とは、何だ。
祖先から受け継いだ民族の生命をはぐくみ育てながら、次の代に伝えていくことだと信じます。教育とは、民族の生命の継承である。生命、それは魂と魂の暖かい触れ合いの中でしか育たない。愛情のないところに生命は育たぬ。誠意と献身のないところに生命の成長はない。
男女の結合によって、子供が生まれる。生命の誕生である。親と子供は、同時に生まれるものです。親のない子はなく、子のない親はない。親子の関係は、西欧思想のように、「自」と「他」という二元的なものではない。親子の関係には、自他の区別がない。無条件だ。あるものは愛情だけだ。しかも打算のない愛情だ。
真の愛情には終わりがない。これこそが人間存在の原点だ。人間と人間関係の出発点だ。私は特に、母親というものの姿から、純粋な人間愛に生きる、人間の本当の生き方を教えられた。これこそが隣人愛につながり、社会愛・民族愛、そして人類愛にまでつながる根源である。自分と他人とは別物ではない。自分と学生とは別物ではない。
学生の悦びを己の悦びとして悦ぶ。学生の苦悩を自らの苦悩として、共に苦しむ。自他の一体現だ。そうした暖かいものこそが、人間の本質である。しかもこれこそが、現代の社会に最も欠けているものの一つである。
学生という生命体を育てるには、魂と魂の触れ合いしかない。道元禅師は、
「自をして他を同ぜしめて、初めて他をして自に同ぜしむる道あり」
と教えておられる。また夏目漱石の『三四郎』とかいう本に、三四郎が東大の図書館から本を借りて来たら、落書きがしてあった。
「ベルリンにおけるヘーゲルの講義は、舌の講義にあらず、心の講義なりき。哲学の講義は、ここに至って始めて聞くべし」 とあった。
そうだ、これだ。私に出来ることは、舌の講義ではない。心の講義だ。体全体で学生にぶつかることだ。私は拓大に来て十六、七年間、実に学生とよく遊んだ。飲んだ。歌った。語った。そして叱った。怒鳴った。励ました。そのようにして私は、私自身を語った。私は「口耳(こうじ)四寸の学」は教えなかった。耳から聞いて、四寸離れた口から出すような浅薄な学問は、教えなかったつもりである。
「口耳の間は則ち四寸のみ。なんぞ以て七尺の身を美とするに足らんや」(荀子)
である。私は体全体で「われ」を語ったのです。
2.食・色は人の性なり
私は初めて社会に出て、小学校の先生をした。三か月でクビになった。若い女の先生と海岸へ遊びに行ってクビになったのです。駆け落ちしたのではありません。自転車で行ったまでのことです。二回目の就職先でも、また半年足らずでクビになった。
誰かの本に、こんな話があった。ある家の青年僧が下宿していた。実によく修行に励んでいた。宿の小母さんは、末頼もしく思っていた。小母さんには娘さんがあった。ある日、娘が青年僧の食事を運ぼうとした時、母親は娘に、青年僧の気を引いてごらん、とけしかけた。娘は悦んで青年僧に抱きついてみた。青年僧は姿勢を正して、
「枯木(こぼく)寒厳(かんがん)によりて、三冬(さんとう=冬の一番寒い時期)暖気なし」 と答えて、娘を冷たく突っ放した。
それを聞いた母親は、 「この糞坊主奴(め)が」 と怒って、青年僧を追いだしてしまったというのです。
若い女性に抱きつかれても、冬の一番寒い時に、一本の枯木が寒々とした岩肌に生えてでもいるように、私には一向に感応はありませんよ、とでも言っているのでしょう。こんな男は、人間じゃない。「停電」しているのだ。ところで、この佐藤先生なら、こうした場合、どういう反応を示したと思いますか。佐藤先生は、待っていましたとばかり、「漏電」してしまったのです。後始末は大変でした。とにかく私は、女に間違う、始末におえない先生だったのです。
「少(わか)き時は血気未だ定まらず、これを戒むること色にあり」(論語) です。
しかし私には、一つ救いがあった。それは、最初から最後まで、学生が好きだった。好きでたまらんのだ。この拓大にも一人ぐらいは、徹底して学生と遊び通す先生がいてもよかろう。 ところが自分の未熟さ、能力、学問を考えると、それは恐ろしいことでもあった。そのため、私は、自分自身に厳しくした。私は諸君に対して、
「私の講義を本当に学ぶ気持ちがあるなら、先生より先に教室に入って、心静かに待っておれ」 と、要求した。
この諸君に対する要求は、実は私自身に対する要求であった。与えられた貴重な時間だ。一秒たりともおろそかにはできないぞと、私自身に対する誓いでもあった。そのため私は、三十分か四十分前には、必ず学校に到着しているように心がけた。そして十七年間、この小さい小さいことをやり通した。
「初めあらざることなし、よく終わりあること鮮(すくな)し」(詩経)
何事も初めのうちは、ともかくやるものだ。それを終わりまで全うすることは、難しいものです。
伯父 山田純三郎と孫文
3.私心を去れ
王陽明は「則天去私」(天理に則り、私を去る)と、自壊しています。毛沢東は「則毛去私」を要求しています。つまり、俺を模範として、お前らは私心を去って、俺のために尽くせ、と要求している。中国大陸の今日の混乱・闘争の根源は、毛沢東の私心にある。
中国は何十回となく革命を繰り返してきた。しかし中国の独裁体制そのものを打倒することは出来なかった。つまり革命のない革命を繰り返してきていたのです。ところが、中国近代革命の目標は、そのような独裁体制そのものを打倒しようとするところにある。毛沢東の独裁体制が強まれば強まるほど、逆に民衆の自覚、目覚め、起ち上がりの力が強くなり、独裁体制を打倒しようとする革命の力が育っているのです。
毛沢東という人は、かつて『三国志』の英雄曹操が、
「俺が天下の人に背いたとしても、天下の人々が俺に背くようなことは許さぬ」
と、嘯いたように、今では毛沢東一人を以て天下の人を治め、天下の人を以て毛沢東一人に奉仕させているのです。要するに毛沢東は、中国近代革命の本質を知らない男です。中国の真の革命はこれから始まるのです。
とにかく王陽明も
「山中の賊を破ることは易く、心中の賊を破ることは難し」
と言っているように、私心を去ることは難しい。
しかし私心を断たぬ限り、世の中は明るくならぬ。私心を去るということは、自己との永遠の闘いでしょう。
殷の湯王は自分の洗面器に、
「まことに日に新に、日に日に新に、また日に新なり」(大学)
と彫りつけておいて、毎朝、洗顔するたびに、自分の心の汚れ―私心をも洗い流して、毎日が生まれ変わった新しい人間として、政治を執るように自戒し努力し続けたと言われています。
私も自分を反省し、私心を棄てようと、私なりの努力と自戒を続けて来たのでしたが、人間ができずして非常にかたくなな人間に変わった。しかし、
「誠は天の道なり。誠を思うは人の道なり」(孟子)
です。私にはやろうとする気があった。愛情と誠意と献身のあるところ、万物は育つというのが、私の信念であり、行動の基準でもありました。それが多少なりとも、自分の欠陥を補ってくれていると思います。
王荊山の遺子と
4.国家衰亡の徴
そうした気持ちで現在の拓大を見る場合、淋しい気持ちがしないでもない。拓大は長い間、多くの業績を残してきた。しかしながら現在の学生の中には、溌剌とした自己の生命力を自覚し、国際人としての教養を身につけ、使命感に生きようとする気魂に欠けている学生が多いように見受けられる。
現代の学生は感性的な欲望を追求することは知っていても、学問を以て自己の本質を見極めつつ、生きがいのある使命感に生きとおそうとする気概が薄いようである。
人間の幸福を、人間の欲望を追求することに求めた近代文明が、その欲望をコントロールすることが出来ずして、ついにその欲望に支配されている。不幸の根源は、そこにある。しかも現代の教育は、このような病理現象に対しては、あまりにも無力である。
日本の現状を正視してごらんなさい。
「天下は攘攘として皆利の為めに往き、天下は煕々として皆利の為めに来る」(六韜)
世の中は挙げて、利益・利益・利益。勢利あるところに蟻の如くに群がっている日本人の姿を見なさい。
「上下交々利を征れば、国危うし」(孟子)
上の人も舌の人も、正義を忘れて利益だけを追求するようになれば、その国は危うくなる、と教えています。
荀子の警告
今から二千三百年も前に死んだ荀子が、「乱世の徴」として、次のような「徴」が現れてくれば、その国家は「衰亡」に傾くと警告しています。
「その服は組」
人々の服装が派手すぎて、不調和となって来る。
「その容(かたち)は婦(ふ)」
男は女性の真似をし始め、その容貌態度は婦人のように艶めかしく軟弱になってくる。拓大にもそんな亡国の民がおる。ところが、国が亡ぶ時には、女まで堕落する。女性は、そのような男か女かわからんようなニヤケタ男が好きになる。そして女は遂に、
「両親を棄てて、その男の所へ走る」
と、荀子は書いている。次は、
「その俗は淫」
その風俗は淫乱となって来る・
「その志は利」
人間の志すところは、すべて自分の利益だけ。まさしく、
「小人は身を以て利に殉ず」(荘子)
です。利の為なら死んでも悔いがないのです。身を以て天下に殉ずる日本人は少なくなりました。その次は、
「その行は雑」
その行為は乱雑で統一を欠いている。喫茶店で音楽を聞き、コーヒーを飲みながら、勉強している。一つのことに専念できなくなっている。
「その声楽は険」
音楽が下鄙てみだらとなり、しかも雑音なのか、騒音なのか、笑っているのか、泣いているのか、とにかく変態となる。音楽を聞けば、その民族興亡の状態がわかるのです。荀子の言葉はまだ続くのですが、結局、
「亡国に至りて而る後に亡を知り、死に至りて然る後に死を知る」
これが本当の亡国だ、と警告しています。現在の日本の国情と比べてごらん。まさしく、
「驕りて亡びざるものは、未だこれあらざるなり」(左伝)
です。
屈原は漁夫に、
「なぜあなたは世の中から遠ざけられたのか」
と問われて、屈玄は、
「世を挙げてみな濁る。我独り清む」
と答えて、汨羅の淵に身を投じて死んでいます。
日本の現状も、諸君が歌っているように、汨羅の淵に浪騒ぐ状態です。しかし私たちは屈原のように、自殺して苦難を避けることはできないのです。
5.魂の継承
私には父から貰った素晴らしい財産がある。父は不自由な手で、一幅の書を遺してくれました。
「富貴も淫するあたわず、貧賤も移すあたわず、威武も屈するあたわず、これこれを大丈夫と謂う」
孟子の言葉です。私はこれを父の遺言であると信じています。富貴は我において浮雲の如しです。
また母の実家の真向かいは、陸羯南先生の家でした。陸先生は、特に日本新聞を通じて、一世を指導した大思想家でした。先生は、
「挙世滔々、勢い百川の東するが如きに当たり、独り毅然として之れに逆らうものは、千百人中すなわち一人のみ。甚だしい哉。才の多くして気の寡きことを」
と、信じた道に命をかける人間が少なくなったことを叱咤しておられます。
日本は国を挙げて、挙世滔々として中国へ中国へと流れて行った。私は日本を愛し、中国をも愛する。なぜ、日本人は中国人を、かくまで軽蔑し、殺さなければならないのか。私は滔々とした日本の巨大な流れを阻止する術を知らなかった。私は北京大学の学生たちが、排日・侮日・抗日に立ち上がる姿に感動した。私は何らの躊躇することなく、彼らの抗日の波に飛び込み、『打倒日本帝国主義』を叫んだ。私の力は大海の水の一滴に過ぎなかった。完全に無力であった。しかし私には無力を知りつつも、そうせずにはおれないものがあった。
弘前中学の先輩岸谷隆一郎さんは、終戦の時には満州国熱河省次長(日系官吏の最高職)でした。八月十九日、ソ連軍が承徳になだれ込んできた。岸谷さんは、日本人居留民を集めて、
「皆さんは帰国して、日本再建のために力を尽くしてください」
と、別れを告げ、数人の日系官吏とともに官舎に引き揚げた。
岸谷さんはウイスキーを飲み交わしながら、動こうともしない。人々は再三にわたって、
「ソ連からの厳命の時間も過ぎた。一緒に引き揚げましょう」
と、促した。岸谷さんは、
「そんなに言ってくれるなら・・・」
と起ち上がって、奥の部屋の襖を開けた。
そこには日満両国旗に飾られた仏壇があって、香が焚かれていた。仏壇の前には純白の和服姿の八重子夫人(四十二歳。同志社大卒)が、澄み切った顔をして端座していた。その隣には晴衣姿に薄化粧した玲子ちゃん(十七歳)、明子ちゃん(十五歳)二人のお嬢さんが静かに座っていた。人々は、
「せめて奥さんとお子さんだけでも、私たちに預けてください。必ずお守りしますから」
と頼み込んでみた。
「僕は満州国が好きで好きでたまらないのだ。この辺で日本人の一人ぐらい、満州国と運命をともにする者があってもよかろう」
とポツンと言われた。奥さんは、
「いろいろお世話になりあした。私は主人と行動をともにします」
ときっぱりと言われました。二人のお嬢さんの、かすかな泣き声。
人々も、もはやこれまでと別れを告げた。岸谷さんは人々を玄関から送り出して、内から鍵をかけた。奥さんと二人のお嬢さんは、窓から手を振って
さようーなら をしていた。
岸谷さん一家はその直後、自決された。岸谷さんは四十五歳であった。
十余年前から岸谷さんの家にいたボーイの王君は、主人の覚悟を察知して、主人の日本刀を隠したり、
「不好、不好」(これはいかん)
と、泣きながら訴えて歩いていたという。
王君は主人の自決を知るや、直ちに李民生庁長宅に急報し、官舎に引き返して、両手に拳銃を構えながら、夜通し遺骸を見守っていたという。李民生庁長らはソ連軍の入場という混乱の中で、岸谷さん一家のために最高の寝棺を買いととのえ、承徳神社の境内に丁重に葬ってくれた。そしてこの李庁長もその後、中共軍入場とともに銃殺になったと伝えられている。
私は知識人の数々の背徳の中で、清純な自己をはっきりと貫きとおした岸谷さんの姿に、日本民族再生の息吹を感じてほっとする。
いつのことであったか、テレビか何かで、ある特攻隊生き残りの人々と問答していた。
「あなたは敵艦に体当たりすれば、日本は勝てると思いましたか」
「いや敗けると思いました」
「敗けるのを知っていて、なぜ、特攻隊員として行ったのですか」
「私が行かなかったら、日本そのものが駄目になるでしょう」
と、淡々と答えていた。
民族の生命を守るとは、そういうことなのです。
死刑の宣告を受けた吉田松陰は、
「初めて学問のありがたみが分りました」
と、書き送っている。
学問とはそのように、土壇場の瞬間においても、ビクともせぬ自己を作り上げることだ。まことの「智者は惑わず」です。松陰は、
「かくすればかくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」
と、辞世の句を遺して、静かに瞑目している。
そこには民族の生命の継承がある。魂の継承がある。
6.大志を抱け
ソロモン王は
「イメージのない国民は破滅する」
と、警告している。
私は拓大に来て十六、七年間、諸君に対して常に、クラーク博士が日本の青年に訴えたように、
「青年よ、大志を抱け」
と叫び続けてきた。
「東洋史に落第しても、人生に落第するな」
と、教えてきた。
時にはどなり散らし、時には罵倒さえした。幾度か失望し、落胆したが、その都度、学生諸君の姿に励まされて、再び教壇に立った。
人間とは、心を新たにすることによって、自らを新たに創りかえることができるものである。どのような環境におかれようと、問題は本人だ。本人に遠大な志がありさえすれば、本人にやる気がありさえすれば、諸君の前途には無限の可能性が開かれている。諸君の前途には、諸君自らが創らねばならない新しい時代が待っている。そして諸君には、それに対処しうるだけの無限のエネルギーが秘められている。
今日という一日に全力をあげてください。昨日という日は、もうない。明日という日は、まだやってこない。在るのは「いま」だけである。この「いま」という瞬間に、全力を上げて下さい。愛情と誠意と献身のあるところ、生命は育つ、万物は育つのです。
漱石の「三四郎」が、大学の講義のつまらなさをつぶやいて、
「我々の清純な頭を、くだらん講義でこうも詰め込まれたんじゃ、たまったものではない。そんな時には山手線に乗って、ぐるぐる二、三周もすれば、気分がすっきりする」
と言っている。
またアレキサンダー大王が、アテネの郊外で酒樽の中で暮らしているディオゲネスという乞食哲学者を訪ねて、
「何か欲しいものはないか」
と聞いた。乞食は
「何も欲しいものはないが、おまえがそこに立っていると日陰になる。退いてもらいたい」
と答えたと、何かに書いておった。
さあ、私も諸君から、
「俺たちの清純な頭に、くだらん講義を詰め込むのはやめてくれ」
そして、
「そこを退いてくれ」
と言われんうちに、この辺で自ら去るのが賢明のようです。
そこで最後に、もう一度言う。みなさん、大志を抱いてください。諸君は民族の生命を継承するのです。新しい歴史を創るのです。それに立ち向かうだけの気迫を持ってください。生きがいのある使命感に生きとおしてください。がんばってください。
私は拓大を去っても、私の心は諸君の上から離れることはないでしょう。
皆さん、さようーなら。