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まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

今に見る、満州国 土壇場の醜態 其の三

2010-10-28 12:33:37 | Weblog
大同学院生徒 左中華民国梁立法院院長 右 丘昌河氏 1989,y


二十世紀 日本及び日本人は、どう融解したのか
王道楽土を求め、異民族の地で知った土壇場における日本人の姿に、明治以降日本及び日本人が追い求めた現実をみる。それはアジア諸外国に受け入れられる人格の普遍性を問うことでもあったと同時に、アジアの意思に応えうる任があるかの試金石でもあった。


【以下本文】


※ 2007,8,12 より 其の九まで連載しています以後、御賢読のほどお願いいたします
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(3)黙って死んでいった池端敏さん

1945年(S.20)8月15日、日本の敗戦、満洲国の崩壊

 その時、池端敏さんは、ハルピンの北、北安省警務庁長の職にありました。新潟県、輪島の人です。拓殖大学の先輩の一人でした。彼は剣道四段か五段。体躯堂々、ほのぼのとした暖い雰囲気の人ではありましたが、何処かしらに、きりっとした威厳が漂うていました。
 
物静かで言葉数の少ない“情を含んで片元なし”といったタイプの人ではありましたが、流石、剣道で鍛え抜いた、まれに見る偉丈夫。心と体、心身一体に調和のとれた大人物でした。
 ソ連軍の進駐と同時に、多くの要人たちとともに、池端さんも、ソ連に連行され、シベリアの収容所に、放りこまれました。

 その池端さんと、同じラーゲルに生活を共にしながら、幸運にも生きながらえて無事日本へ帰国したある人が、私を訪ねて来て、池端さんの最期の様子を、つぶさにお話して下さいました。
 
 そのお話によりますと、収容所では、毎日の食事は、一塊りの小さい黒パンと一椀のお菜。といった、全く粗末なもの、しかも一日二食。日本人たちは、一様に飢餓状態に追い込まれました。ことに体格のずば抜けて大きかった池端さんは、見る見るうちに痩せ細り、明らかに苦悩の毎日が続いていたようでした。

 ところが、その池端さんの一塊りの小さい黒パンは、何時も、きまって、誰かに、ちぎり取られて、一段と小さいパン切れとなっていたし、お菜の中身も、ごっそりと減っていました。

 池端さんと同室だった彼、つまり、生きのびて帰国し、私を訪ねてくれた彼は、あまりのことに、魂の屈辱を感じ、ある日池端さんに
 「あなたの食糧が、食事の度に誰かに盗まれているのを、御存知ですか」
 とたずねたら、池端さんは
 「まあ、知っています」
 と、かすかに微笑しました。
 「なぜ、黙っているのですか」
 と、問い返したのでしたが、池端さんは
 「みんな、お腹が空いているのです。誰でもよい。一人でも多く、日本へ帰ることさえできれば、それでいいのです」
 と淡々と答えていたそうです。死地に臨んで、なおかつ己の志を欺くことがなかったのです。

 何時も池端さんの食糧を盗み取っていた人は、満洲建国以来、常に指導的立場にたって、王道楽土、五族協和の先頭に立って来ていた、政府の高官の一人でした。
 その後、池端さんも、その高官も、ともに栄養失調のため、あい前後して、シベリアの曠野に、永遠に帰らざる客となって、しまいました。

 あの頃の日本人たちは、その根底において、無条件で尽くせる道をえらびました。私欲を棄てて、何物かに尽くし切れる、生きがいに生き続けていました。
 とくに池端さんのように修業に修業を積み重ねた人にとっては、人間の知慧をはるかに乗り越えた所にこそ、永遠に明るい世界が有りえたのでしょう。

 その後、何年か断ってからのことでした。市ヶ谷会館で、シベリアで散華した人々の慰霊祭が行われたことが、ありました。そのため池端さんの奥さんと、娘さんが、上京して、私の家にお泊りになられた事が、ありました。
 
 終戦直後のことでした。今の長春で、私は非難民の中から、池端さんの奥さんを探し出して、私の家へお連れして来たのでした。お奥さんは、非難民で、ゴッタ返えす私の家で、一人お嬢さんを安産されたのです。しかもそれは池端さんの一粒種だったのです。そうした因縁のある、池端さんのお奥さんとお嬢さんとが、市ヶ谷会館の慰霊祭に、お見えになったのでした。

 慰霊祭では、池端さんの奥さんと、池端さんの黒パンを盗み取っていた高官のおくさんとが、親しく言葉を交わしていました。私はその情況を見ながら、“これでよいのだ”と、何かしら、ほっとしたものを感じました。

 黙々としてシベリアの曠野に餓死して果てた池端さん。敗戦という冷酷な厳しい現実を“天地の戒め”として受けとめたからこそ、甘んじて死に就いたのでしょう。
 池端さんこそ、時代の運命に殉じながらも、自らの信念に淡々として殉じたお方でしょう。合掌


以下 次号

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sunwen@river.ocn.ne.jp
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今に見る、満州国 土壇場の醜態 其の二 再掲載

2010-10-27 10:59:40 | Weblog
            大同学院二世の会にて佐藤慎一郎氏

二十世紀 日本及び日本人は、どう融解したのか
王道楽土を求め、異民族の地で知った土壇場における日本人の姿に、明治以降日本及び日本人が追い求めた現実をみる。それはアジア諸外国に受け入れられる人格の普遍性を問うことでもあったと同時に、アジアの意思に応えうる任があるかの試金石でもあった


【以下本文】


(1)満洲国皇帝秘書長、金智元の逃亡事件


終戦の前の年、つまり1944年(S.19)末には、日本海軍の神風特攻隊が、レイテ沖で米艦に体当り攻撃をした(10月25日)と云う報道に、私は心をうたれたものでしたが、この海戦で、日本の艦隊が惨敗していた事実に就いては、知りませんでした。


 しかし、11月末には、マリアナ基地のB29約70機が、東京を初攻撃した事だけは、知らされていました。

 そのような終戦の前の年の12月20日過ぎた何日でしたか、私は、何気なしに新京の首都警察に副総督宮崎専一さんを訪ねました。
 「やあ、佐藤さん、いい所に来てくれた。早速だが金智元秘書長が、家財道具全部持って、行方不明となっているんだが、心当たりはないかね」
 と言う。

 金智元の「金」という姓は、満洲語では、愛親覚羅と云い、溥儀皇帝の同族です。中国人仲間では、あまり評判のよくない人でした。評判が悪いという意味は、彼は皇帝の秘書長という地位を利用して、密輸をやって小金を儲けていたのでしたが、その分け前を関係者に気前よく分配しなかったからです。

 ところで、わたしはとっさのこととて、返答に困りましたが
 「ひょっとしたら、日本の敗戦を見極めた上での逃亡ではないか、逃げるとしたら、天津か北京でしょう。注意すべき点は、皇帝と打合わせた上での逃亡かどうかという点でしょう……」
 としか、答えられませんでした。

 日本が敗れるなどとは夢にも考えなかった私でも、ちと気になり、私なりの調査を始めました。
 驚いたことには、満系の要人たちは、金智元秘書長の逃亡を話しても、誰一人として意外に思う人が、おらなかったことです。しかも彼らは
 「日本が、かりに破れたとしても、私たちは、自分の家族だけは、もうキチンと仕末をつけてあります。あなたも、それなりの準備だけは、しておかれた方が良いのではないでしょうか」と言うのです。

 そして彼らは、もし日本が破れたとしたら、ソ連は必ず入ってくる。特に日本の開拓団を入植した北満地方は、注意した方がよいでしょうなどと注意してくれたのです。
 「備えあれば、患いなし」
 と云うことなのでしょう。治乱興亡5,000年の歴史を生き抜いてきた民族の本能的英知とでも云うしかないようです。

 その後、金智元の逃亡と皇帝の逃亡計画には、関係があったのだと云う噂が、ささやかれていました。一葉落ちて天下の秋を知る。
 「大厦(大きな家屋)の将にくつがえらんとするや、一木のよく支えうる所にあらず」(文中子)と、私なりの覚悟を決め、調査にのり出しました。

 宮崎副総監の手配で、満洲国皇帝は、脱出逃亡することは、できなかったようです。もし皇帝に逃走でもされていたとすれば、満洲国の終焉は、もっともっと醜態のかぎりを、さらけ出していたことでしょう。


(2)抗日救国会事件

 私は早速北満一体の調査に出かけました。
 狙いを、北安省警務庁長、池端敏さんに、つけたからです。北安に池端さんのお宅を訪ねたのは、たしか終戦の年の正月二日だったと思います。
 「よい所へ、いらした。さあ、一杯やりましょう」
 と云う、池端さんに対して、私は
 「いや、飲んでおれない。すぐ仕度をして、貴方が建国直後勤めていた県に、私を連れていって下さい」
 と、その理由、緊急事態の内容を告げました。池端さんも納得して、すぐさま馬そりを用意してくれ、私と一緒に池端さんが、副参事官として働いていたことのある、北満の東興県に向かいました。

 県城に着くと、すぐさま、池端さんが副参事官をしていた当時、よく協力してくれた満系の有力者を、中華料理店に招待するよう、手配して貰いました。

 その晩、時間になっても、招待した県の有力者は誰一人として、姿を現しませんでした。定刻がすぎて、やっと一人の老人が現われました。池端さんを見るなり、その老人は、すがりついて泣き出したのです。

 何を聞いても答えません。料理が出ても、手もつけません。池端さんは、一体どうしたことなのかを、何回となく、優しく問いただしました。
 老人の重い口は、やっと開かれ、驚く可き事が、分かりました。
 今日、ここに招待された県の有力者、つまり、満洲建国以来、池端さんら日本人に協力してくれた県の有力者達は、“抗日救国会”の幹部であるとして、昨年逮捕されたまま、未だに帰って来ていない。松花江で処刑されて、死骸は氷の中に放りこまれたと噂されている。生き残っている者は三名だけで、今、ハルピンの監獄で服役中だという。

 事の重大さに驚きながら、私は私なりの調査を始めました。
 一応の調査を終えてから、池端警務庁長を促して、濱江省ハルピンに急ぎました。池端さんと一緒に、ハルピンの監獄に、生き残っているという東興県の三人を訪ねました。
 彼らは、“抗日救国会”という会は、一体何をする会なのですかと、私たちに怖るおそる聞いていました。そのまなざしは、今もって忘れられません。

 この事件を担当した検事にも会いました。抗日救国会の唯一の証拠は、“投書”だという。それしか無いが、時局が時局ですから、己むを得ませんと、一言云っただけでした。
 聞くところによると、濱江省警務庁では、抗日救国会に関する、何通かの投書を入手していたというのです。それで、“いずみや工作隊”という特別工作隊を編制して、全満にわたる抗日救国会組織の全貌の解明と、その主要メンバーの検挙に乗り出していたと云うのでした。

 私は池端さんを促して、濱江省の田村敏雄次長をお訪ねし、事の次第をお話し、濱江省警務庁長といずみや工作隊関係の方々に、真相を聞きたいと頼みました。田村次長は、早速、それらの方々を集めて下さいました。
 私は、その席で、警務庁の方々の説明は、一言も聞かずに、私自身の調査をした抗日救国会事件について報告しました。

 それは結局、中国共産党の日満離間工作の一つである。
 満洲建国以来、日本人に協力してきていた各県の満洲人の有力者を、抗日救国会の幹部に仕度てあげ、日本人の手によって逮捕し、日本人の手によって彼らを処刑させる。そのことによって、日満両国人を離間させようとている工作であるように思われると結論して、私の報告に少しでも誤りがあったばあい、是非とも指摘願いたいと結びました。結局は、私の見方に、誰一人として、反ばくする人も、質問する人も、有りませんでした。

 時すでに遅し。終戦の二年前、抗日救国会の幹部として逮捕処刑されたものは1,400余名、終戦の前の年には、700余名の者が逮捕処刑されたと聞かされました。
 「天下の禍は、人を殺すより甚しきは漠し」(避暑録話)
 です。
私は事の重大さに驚き、要路の人々と相談をして、抗日救国会検挙の拡大を押えるため走り歩いていました。

 ところが終戦の年の4月6日、北満の通河県で、抗日救国会の叛乱事件が起き、多数の日系官吏が惨殺されたと、聞かされ、私は直ちに、通河県に飛びました。馬上副県長は
 「県の王金才という警察官が、叛乱を起こし、抗日救国会の容疑者をして収容していた400余名を脱獄させ、県公署に火をかけ、銃器とアヘンを奪い、日系官吏36名を射殺して、山中に逃亡した。抗日救国会の叛乱である。」
 と、私に語ってくれました。

 それは、日本人の疑心暗鬼が作りあげた“まぼろしの抗日救国会”であると信じていた私は、一人でその抗日救国会容疑者400余名を逮捕した柳樹屯などに入って行きました。
 たった一人の日本人である私に対して、誰一人として敵意を示した者とてありませんでした。

 柳樹屯は、通河県ではあるが、木蘭県に近い県境に位置しています。この辺一体は、アヘンの密作地帯でしたので、満系の警察官にとっては、またとない小遣銭稼ぎの場所となっていたのです。

 その辺の民が逮捕される直前のこと、隣県の木蘭県の警察官が、小遣銭をねだりに、やって来た。ところが、その数日前のこと、通河県の警察官がやって来て、小遣銭を取り上げて、持って行った直後のことでも、あったため、木蘭県の警察官に対して、もう二月ぐらい待って下さい。必ず差上げますからと懇願して、賄賂を渡さずに帰って貰ったというのです。
 どうも、その警官が県の日系官吏に報告し、それが今回の大検挙の端緒となったのではないか、と語っていました。抗日救国会のことなど、誰一人として知った者は、おりませんでした。

 一方、通河県城では、逮捕された人々の取調べが連日行われ、拷問をうけ、歩行すらもできなくなった者は、戸板に乗せられて収容所に送られる。から、出て来た家族達は、戸板にすがりついて、泣きわめく。
 しかも、これらの容疑者たちは、近く依蘭県へ送られるという噂さがたつ。それで全県騒然とする。土龍山事件以来、依蘭県に送られて、生還した者は無いと噂さされていたからです。

 そのため、日系官吏と一緒になって満洲人を検挙した満系警察官に対する批難攻撃の火が吹きはじめたようです。しかも今回叛乱の主謀者となった王金才は、旧制の警察官で、近く淘汰される対象となっていたと云う事情も、からんでいるようです。
 その王金才が満洲人の忿懣を代表して、無実の400余名を助けるために起ち上がったのが、今回の事件の真相であると、現地の満洲人は、説明していました。

 「汝に出ずるものは、汝に返える」

 この通河事変の四ヶ月後、満洲国は崩壊しました。崩壊後、北満一帯で起きた、目をおうような悲惨な事件は、この一連の「抗日救国会」事件と、無関係ではなさそうです。

「天の為せる禍いは、なお避くべくも、自ら為せる禍いは逃るべからず」(書経)


以下 次号

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満州崩壊 土壇場の人間学  其の一 「解説」 再掲載

2010-10-27 00:15:18 | Weblog
         
           満州新京(長春)での佐藤慎一郎氏家族


 解説

“本(もと)立って道生ず”のたとえがあるとおり知識、技術を得る前提として、その目的とすべきものを明確に整えなくてはなりません。
 また、歴史の事象をどのように読み解くか、あるいは、いかにして不特定多数の他に活かせるか、その「本」とは人間の心根で観る座標軸の確定というべきものです。

近代日本の歴史から忘れ去ろうとしているなかに“満州”があります。
ユーラシア大陸の東、現在の中国東北地方であり、それ以前は韃靼(ダッタン)と呼ばれ、辛亥革命で国父と呼ばれた孫文は当初「万里の長城以北は我関せず」と述べたように数百年にわたって漢民族を支配した清朝(満州族)の地でもある。

万里の長城を築く要因となった北狄であり、漢民族にとっては外国そのものである。 その中国にとっても、ことさら日本にとっても異文化の地である“満州”に、それまで自国外での生活することが少なかった日本人が、どのようにして異民族と暮らし、あるいはどんな世界があったのだろうか。しかもそれは数十万の大移動をともなったものであった。

一方では植民地政策としての入植事業、他方では結果として大地に伏した庶民、それは近代日本の歴史的な“鏡”としての姿があった。
そのことは敗戦を境として悟った現実の“答え”でもあった。

崩壊を察知して、いち早く日本へ逃げ帰る高級軍人、植民地官僚、利権商人。 本来その高位高官である人間たちに 守られるべき入植者庶民、特に婦女子の受難は、より“満州”という現実を忘れ難いものとしていると同時に、明治以降の官製の学歴という、そもそも学問とは何かを問いかけるものだった。

その中でも純粋に普遍な心で異民族に触れ、互いの民族特性を評価し、補い合った協和の結果、多くの業績が有形無形のかたちで継承されていることは、歴史的にも稀なことでもあり、日本人の内観考察や以後の日本国としての内省の糧となるものであつた。

佐藤慎一郎先生は最終講義「別れの言葉」の中で
“私は留置場の中で、あるいは死刑執行場で、自分自身の入る墓穴を掘りながら、本当の学問というのは書物以外により多くあること体験させられました。

 「吾汝らほど書を読まず、然るが故に吾汝らほど愚かならず」

「物知りの馬鹿は、無学の馬鹿よりもっと馬鹿だ」

という言葉の意味を知ったのは日本の敗戦によってでした。
いかにすばらしい言葉でも、それが信念と化し、行為と化すまでは無価値であることを知ったのです”  

 そして、“教育とは、祖先から承け継いだ民族の生命を育み、次の代に伝える魂の継承だと信じます”と述べています。

佐藤先生の知人で、昭和の碩学と謳われた安岡正篤氏がおります。
政、財、官界と称せられる一面的な脳箱の価値しか持ち合わせない人達が“教えを承ける”といって“知的肩書”を求めて集まりました。 

しかし、その耳は師の意に反して、古典を薫醸した異民族の智彗を体験として、感動、感激、を以て魂を継承するものではなく、単純な知識充足や、古典を現代風に、しかも自らに都合のよい応用錯学でした。

 その耳は寸借知識しかなく、創造力の無い学習サロン、錯覚した人脈構成の場でもあります。 師の心なき弟子の姿です。昇官発財という中国の譬えのとおり、地位が上がることによって財を得るといった人間の姿は、碩学までステータスや財の種にしています。   

宋代の勧学言に
「書中、黄金の部屋あり」「書中、女有り」といわれ多くの経師が現れました。

経師 単に書物を解説する机学先生

人師 体験を糧に感動、感激をつうじて人間のあるべき姿を説く師

知識人の陥り易い“体面維持”は、人間の知識欲求にもある、『格』『識』 に表現される向上心としても必要ですが、それは時として自身の内面を赤裸々に掘り下げる本能回帰への精神循環を妨げたりします。 
そのことは“学問かくあるべき”という表現のなかで、利他に関する『義』や『仁』が、どの部分に内包されているかが分らずに起きる形式無力の学に陥ることにもなります。

清朝末の哲人(読書人)梁巨川 殉世遺言録に

『 読書人とは聖賢の書を読む人を言う。聖賢の書には聖賢の教えが記されている。 従って聖賢の書を読んだ以上は、その教えを実践しなければならない。即ち 読書人とは聖賢の教えを実践する責任を負う人のことである』そして、

『人にして人でなくば、どうして国が国として成り得ようか』と、ある。
 
 翻って、日本人の歴史に“満州”は在ったのです。
多くのアジアの人々とともに日本人がいた。そして、敗戦によって観た日本人の姿があった。私たちが学び継ぐべきことが此処に在ります。

 孫文は辛亥革命に殉じた最初の日本人、山田良政(佐藤慎一郎の叔父)の頌徳碑に自ら筆を執って、
『その志し東方に継ぐものあらんことを』と結んでいる
自らを知り、明日へ進むための大前提としての、普遍な人間力の“本(もと)”として本著をご高覧戴ければ幸いです。


以下 次号

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