国家には折り目と節目といわれるものがある。
今も昔も祝日は旗日(ハタビ)といわれ日章旗を玄関先に掲げている。
いまは右翼でと小声で云われ、或るとき板橋区では祝日の掲揚の指示に付け加えて「文句が出たら片付けるように・・」との役人らしいお触れが現場に回った。
皇居の参賀では小旗を配布するが、ゴミ箱?を用意して苦情が出たことがある。
軍人が日章旗を戦闘に行進したからと、平和に反すると教育現場に問題が起きているが、自由意志の調和と連帯が社会の寛容度とするならば強制も反発も馴染まない。
ただ、目印としては有効だ。他国とは異なるものだからだ。金儲けのオリンピックも戦闘行為も旗印は必要になる。日の丸は軍の連隊旗でもなければ錦の御旗でもない。夫々の異なる国柄を尊重する行為を理屈で当てはめるまでも無く、また愛顧や魂の存在を置いても、誰が考えたか万国の保有する旗を四角四面に現世の争論にのせて陣取り合戦をする愚を、「相」の衣をまとった人々がどのように考えているのか考察してみたい。
明治の日本人有志はこの旗の下で犠牲となり、新国家は樹立した
他国の旗の下、捕らえられ「中国人だ」と言い張ったために処刑された山田良政
※ 当時、外国人といえば殺されなかった
政治を観て、政局には目をつむる事を教えてくれる
以下はあの頃のo157騒動でカイワレを頬張る政治を記した拙文である
一人は市民運動家の草分け市川房江氏から、「許せない男」といわれた人物、もう一人は社会はあっても国家の在るを知らない今時の女性活動家である。
もし巷間いわれているように政官財の癒着、そして腐敗堕落が云々されているとしたら、この手の非情感を持っている各分野における人物の存在は、腐敗堕落に象徴される混迷にとりつくハイエナならずとも、その姿は食い扶持に囚われた愚直とは異質の、愚民をつくり、そそのかす手合いである。
なるほどと思われる言辞には情が無い。とくに客観的にも日本的と納得させられる矜持の在り処が呆然としている。これは、観念的で偏った考察であり、偏狭な民族意識とも批判が生まれる浮俗の観点ではあろうが、それこそ彼等の言う民主と平和に導くという名目の元に解明、説明の責任があると他を責め、大仰にも訴え掛ける姿に狎れた大衆の変質である。それは権力執行者の使い方を知り、彼等の不釣合いな仕草を囃し立てる人々によって融解してしまった矜持の有様でもある。
「狎れる」とは国民の嫉妬や怨嗟の在り様を鵜呑みにして「礼」を亡くすことである。
「礼」を亡くすとは、調和や協調を司る「辞譲」という、゛分け合い゛゛譲り合う゛という精神を乏しいものにすることに他ならない。
大人気ないといえばそれまでだが、ああ云えばこう言うような礼なき争論は止まるところはなく、意志の無い意見にみる発想力の乏しいものの苛立ちのようであり、後だしジャンケンの如く無責任な言を弄し、「・・・そのような意味からすれば・・」との倣い文句で自問自答している滑稽さが見て取れる。
政治家のパフォーマンスのはしりは、カイワレに喰らい付くあの政治家からだ。
つまり、意志亡き者の意見なのである。国家の誇りや矜持などは有るをも知らない姿であり、政治の座標軸を失った前政権とは何ら変わりは無い。
言葉では国家、国民、福祉や平和と歯の浮くような単語を平然と吐くが、真の下座観を失った選良らしき者にとっては土壇場の肉体的衝撃すら推し計れないだろう。
同期の桜 そのうち観桜会も・・・・
あの市民運動家との名を冠した市川房江氏は民族運動家の赤尾敏氏との昵懇な関係があった。よく左翼の市民運動家、右翼の民族派と思われがちだが、両氏の培った明治日本人の気骨は旗を振り、ビラを撒き、大衆に阿るだけの卑しさはない。機を一にして両氏は政治の腐敗堕落に抵抗した。あのロッキード事件では歩調を合わせて真相究明に当たっている。
政権がそこに有るからと同床異夢に浸ったのではない。不特定多数への貢献であり、他の人々と異なる行為を恐れず行動したのである。また人情に厚かった。
彼等には強圧的に詰め込まれた訳ではないが国家という意識が深かった。とくに政権埒外において爽やかに歴史を刻み、ときに好々爺、賢母のごとく人に接することによって人間の有り様である反するものへの寛容と耐力を教えてくれた。
それは筆者との応接でも察したことだ
平常心と折り目には覚悟があった。
これを不自由と不平等、あるいは強制と感化というのか
何気なく新政権の閣僚記者会見ではあったが、切り口を変えて言葉でなく所作を見ていた。
前政権とは政策や手法も異なるようだが、人の座標と覚悟は思わぬ差異として認められ、筆者なりに逆賭したとき暗澹たる思いに駆られた。
隣国の台湾の政権交代の折、民新党の陳水扁総統は国民党の創始者孫文の遺影に誓詞を奉げて一礼した。政敵である国民党であり大陸でも国父と讃えられている人物である。
翻ってわが国の閣僚は天皇の認証をいただき、恭しくもそれを頭上に掲げて後ずさりして国事行為の当事者として誓いを立てている。
記者会見は世俗のセレモニーだとしても国民の多くは注視している。学生が制服を着てケームセンターに入る時節柄、教師や親が注意しても「法律に書いてない」「生徒手帳に書いてない」と抗弁するが、法に守られる一方、無視するという錯覚した齟齬は、先ず以って注視される立場においては、゛養い゛の意味である予算の争論と対である゛教える゛の意味の人倫の在り様を所作として示すことこそ、教養人として信ある政治が浸透するはずだ。
せっかく期待された政権である。ともあれ、゛白地に赤く゛染めた布地ではあるが、舞い昇っていたとしても、心を譲る黙礼すら出来ない人物の真意に一抹の不安を抱いた次第である