まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

我国の宰相は「掃除大臣」たるべし 2008 10/8 あの頃も

2024-01-31 01:12:51 | Weblog

 

悪戯な標題ではない。今を見て臨機に為すべきものを知らなければ「政外」(政治のピントが外れる)こと疑いなし。

゛掃除゛は掃き、除くことである。それは倹約につながり無駄を省くことにもなる。歴史に尋ねれば、このような姿が国家、社会、民衆に現れたら、先ずこれに取り掛かるのが権力者の任だった。

干支では「戌」の期に当てはまる。草冠をつけると茂るとなるが、同じ「繁」とは異なり、植栽をしない為に風通しが悪くなり樹木全体が枯れてしまうために「刈る」という意味でもある。

これを国の機構なり、会社の組織に当てはめると、「弛緩」つまり心の弛みになって組織が停滞し無駄も滞留し「患う」ことになる。多くの組織は人によって動いている。しかし、その人心が弛み、機械などによって労働感性が衰えたりすると全てが受動的になり、国家をして、゛誰かがやってくれるだろう゛゛自分だけが動いても変わりが無い゛といった躍動感の欠如がみられてくる。

「戌」には改革の意が潜んでいるが、根本無くして表層の政策、対策という部分検証や修正しか考えられず、終には改革に飽き足らず革命を意図するようになってくる。それもこれも、先に述べた植栽によって何を求めるかの明確さを求めず、手前勝手の成功価値と、それに伴う食い扶持を第一義におく風潮がよりその傾向を助長させているようだ。

そこで掃除とはどの様なものを回復するのか。
元の姿とはどの様なものなのか・・・
よく、賃貸住宅を退去する場合に原状回復という習慣的取り決めがあるが、キズ、劣化、清掃、備品の交換など、なるべく元の状態に復旧するために資財と時間を要するのが常である。

それと同様に居住者が余り物を買い込まず、常に清掃を心がけ、共用部分の管理をしていれば、退出時の労力、支出は必要としない。つまり将来を考えて生活を改めることは無駄な時間と資財の供給を抑えられるはずである。
それを、社会の風潮や国家の浪費に例えると解りやすい。そこで隣国の歴史に例えれば行なうべき政策の大綱が明確に現れてくる。

外交、防衛、経済、民政、それらの基盤に棲み付く人間の様相と劣化について、当時の宰相は明確に指摘し、それが先ず行なうべき更新であり、それなくして政策も無いと実行している。

我国にも上杉鷹山、恩田杢、山田方谷という英明な宰相(藩)がいたが、共通している視点は「整風」であり、そもそも「公とは」という命題に対する取り組みだった。


    

       若き蒋介石と革命の先輩で孫文の側近 山田純三郎


蒋介石も「新生活運動」という整風運動を展開し、国のセンター機軸である「国維」の充実に邁進している。なぜか、余りにも自身が率いる国民党の腐敗堕落が甚だしく、終には民衆の信頼を失い大陸から転出した禍根を断ち切ろうとする覚悟の国民運動だった。この原本は中正記念堂に所蔵されている。




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安岡家、仏間の書籍 08 10/7

2024-01-30 01:48:48 | Weblog

        松下政経塾教場茶室  筆者「中庸」を語るH19



先日、安岡家の仏間の書籍の整理をした際、贈呈された出版物があり、一部を残して関係書籍を大量に戴きました。

ご存命なら許可するはずの無い安岡ブランドの出版物も数多ありました。
また、時節柄マニュアル本や表層をなぞるものもありますが、かえって知的直観力を衰えさせるようなものもありました。

「知って教えず、学んで行なわず」そんな人間の粗製乱造が甚だしい傾向ですが、是非一頁でもいいですから、3回再読し、音感に触れる言葉を探すと、自然に肉体化され、単なる「知」を振り回さず、深い思索と観照が容易になります。

同じ書物でも小説や解説本とは異なる味わいが出てきます。
「好きで楽しくならなければ覚えない」とは孔子さんですが、人の勉強は見るのではなく、自身で行なうものです。

先生がよく開いたページはそのような味わいと香りが漂ってきます。
あのワンフレーズは意味ではなく、音を観る、つまり観音のように染みとおる智恵の情感だった


         
 
        男だけでの茶稽古 安岡和仙教授 白山自宅にて


そのような学風、つまり唐学(漢学、古典)を触媒として、いかに日本人の潜在するものを再発見して身の丈や特徴ある自分に活かすには、眼のみで読むのではなく聴き、体験することが必要であり、真の実利に導く行動が要求されます。
その意味では、オーラルヒストリー(応答、聞き書き)は感性と直感を涵養するには適切な方法でもあった。

清末の哲人、梁巨川の「一読書人の節操」という章の一文を景嘉氏は紹介しています。

【人間が人間で無くで、どうして国家が国家として成りえようか・・】

【読書人(知識人)とは聖賢の書を読むものを云う、聖賢の書を読んだら行動に興す、これを真の読書人という・・】

販売部数を気に掛け、マスコミに登場して騒々しい愚論を吐く言論人、売文の輩の言にゆめゆめ惑わされないことだ。
安岡本とて巻頭をかざる有名人の章を見ると、安岡ブランドを屏風にしている輩が多いのは、軽薄な小商人の足らず補いの金屏風のようなものだが、章句をちゃっかり借用する貪官、陣笠の群れは、本(もと)を知らずして表層を舐める始末の悪い人間達である。

「釜中の民」と例えられる民も、煮立ってきて始めて騒ぎ立てる世情と似て、歴史の栄枯盛衰から俯瞰する古典の伝言に心を置くことなく、世俗の名利やテンプラの衣のような虚構に身を飾り浮俗に追従している。

たかだか書籍の整理だったが、想起し感ずることは多いことに気がついた。

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上質の国でありたい

2024-01-25 21:07:44 | Weblog

 

 

国なるものの在り方は生活圏や生まれ育った「郷」に棲む人間のありようでもある。

以前、大分県の知事が「一村一品」として特徴ある産品の生産販売を提唱した。

筆者は、一品は品物ではなく、人品(住む人間の品性)の姿だと付け加えた。

江戸時代の農民出身の山田方谷(ヤマダ-ホウコク 幕末期の儒家・陽明学者、備中松山藩士)は財政再建のため、先ずは自身を正すべきと考え、信頼を得ることを本意として私塾をつくり人材をそだてた。当時松山藩は財政がひっ迫し困窮していた時だった、

方谷は「理財論」を説き藩の財政立て直しに取り組んだ、その要点に「その目先の小さなその場しのぎの「利」を追うのではなく、綱紀や法令を整えるという「義」を明らかにすることによってそれを基準にして物事を分別すれば自ずと本当の「利」が手に入る」である。

「義」を明らかにするとは、まずは当時の支配階級だある武士の綱紀粛正である。

今でいえば公務員、政治家、教育者の緩みに緊張感をあたえ、冗費(無駄遣い)に堕した藩政を本来の責務に矯正することである。それは、全ての根源は公務にあたる者の目的意識や使命感の欠如にあるとして覚醒を求めたものだった。

財政が安定すると旅人が領内に入ると、松山藩だと体感でも分かるくらい、民生や治安が整っていたという。

つまり、以下に紹介する高知市市議の伴武澄氏(財・国際平和協会会長)の提唱する「上質な国(郷里)」再興への願いでもあります

 

 

一般財団法人 国際平和協会の創設者 賀川豊彦氏

 


萬晩報 2024-01-16  伴武澄 

 

 今年初めの夜学会。実は今月で夜学会は10年を迎えることが分かった。

始まったのは2015年1月23日だった。はりまや橋商店街で木炭を販売し始めてまだ1カ 月。友人の村島さんが商店街の空き店舗を借りて、楽しそうに音楽をやっていた。次 々と仲間がやってきて輪が広がっているのを見て、「夜だけ貸してもらえないか」と 交渉した。一晩5000円で借りることになった。

 僕の頭にあったのは、その前年過ごし た土佐山の山嶽社だった。明治初期、自由民権運動が高知に澎湃として起こり、人々 は地域に学び舎をつくっていった。いわゆる結社である。最盛期には200カ所近くあっ たというからすごかった。藩閥政府は「結社」などは許さない。そんな時代、高知だ けは違っていた。そんな「結社」をつくりたいとひらめいたのだった。  

 今年は板垣退助らが国会開設請願書を政府に出してから150周年を迎える記念すべ き年となる。

高知市立自由民権記念館は平野貞夫氏らによる「3じじ放談」の収録 を手始めにイベントを続ける計画だ。はりまや橋夜学会としても、初心に戻って 「国のあり方」を考えていきたい。どんな国にしたいのか。「民主主義を今一度洗 濯する」などいろいろ考えた末、たどり着いたのが「上質な国」というイメージで ある。  

司馬遼太郎さ んは、小説『菜の花の沖』の中で小説の中で主人公の嘉兵衛に 「他の国を譏(そし)らないのが上国だ」とも言わせている。なかなか含蓄がある。 19世紀、日本がまだ開国に到らない時期、淡路島の水夫から身を起こし、蝦夷地と 上方とを結ぶ大回船問屋に発展させた高田屋嘉兵衛の一生を描いた小説で、愛国心 ということについて語っている。

「愛郷心や愛国心は、村民であり国民である者のたれもがもっている自然の感情で ある。その感情は揮発油のように可燃性の高いもので、平素は眠っている。それに 対してことさら火をつけようと扇動するひとびとは国を危うくする」  

もう一つは義という概念である。英語で言うジャスティス=正義ではない。論 語の一節に「義を見て為さざるは勇なきなり」ということわざがある。「目の前 に困っている人を見かけたら、見て見ぬふりをするのではなく、手を差し伸べる ことの出来る人こそが、勇気を持った人である」という意味だ。 この言葉は日本 の武士道の根本であり、最も大切にされてきた心だ。

中国語でボランティアのこ とを「義工」という。義の工作(行い)という意味である。

 デンマークはプロイセン・オーストリア軍との戦争に敗れ、1865年に最も肥沃 なシュレスヴィッヒ・ホルシュタインの両州(自治公国)を失った。それはデン マーク国民にとって屈辱的なことであったが、しかしデンマークは、領土回復の 夢を追わず、残された国土をフルに活用しようという小国主義に転換した。それ を指導したのがダルガスという一人の工兵士官だった。

彼は「外に失ったものは 内に取り返そう」と呼びかけ、ユトランド半島北部の土地は沼地と原野の広がる 荒蕪地を森林に変え、それによって冷害と水害を防止し、ジャガイモ畑と牧場に した。植林にはさまざまな失敗の末、親子二代で樅の木を育てることに成功した。

それを支えたのは熱心なユグノー(プロテスタント)の信仰心であった。『デン マルク国の話』の話は、1911年に日本の内村鑑三が講演で紹介し、教科書にも登 場して広く知られるようになった。

 

一部 関係資料転載

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日本人は日本を学べ

2024-01-25 00:55:20 | Weblog


           横浜 港の見える丘公園外国館



BBC放送の日本語部長、ジョン・ニューマンはそのように日本人に問いかける。

高校生の頃、ロンドンで行なわれた柔道の試合を通じて日本を知った。それはアクロバットのように相手を投げつける巴投げに魅せられた。
講道館五段の腕前でもある。それはヨーロッパ選手権に優勝後、柔道の盛んな奈良県天理への柔道留学から、オリンピックのイギリス代表監督を経て、母国の大学で日本語をマスターしている。

知識は頭から、智恵は汗からとは言うが、柔道を通じた礼儀と鍛錬が彼を真の日本通にしている。

民間外交にも一家言もっている。ヨーロッパで行なわれる日本文化、とくに古典芸能にある歌舞音曲だが、在留日本人に其のことを尋ねても何の知識さえ持っていない。芸能人のゴシップは世界共通だか、アメリカはカントリー・ジャズ、イタリアはオペラなど、それぞれの情緒表現である固有の伝統芸能は、民族の誇りとして伝承しなければならない

「これでは相手に日本を理解させられない、この辺から誤解が生まれるのだろう」とジョン氏は言う。そして「英国に来るときは英国のことを勉強するだろうが、その前に日本の姿を英語で説明できるよう、まず日本を知りその準備をしてきて欲しい」

《久坂氏の選文集「獨壷天」より》

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なるほど、この手があった  2013 あの頃

2024-01-23 01:11:14 | Weblog




教職員の早期退職が流行っている。勤務年数の関係で期限をのこして早くやめた方が得をするということだ。

なかなか目先がきいた行動だ。

それに苦言をいう第三者がぞろぞろ出てきた。

≪子供の心を踏みにじる≫ ≪金のことしか考えないのか≫

四角四面で手前勝手な理屈の応戦だが、一方は「子供たちのために有終の美を飾りたいが・・・・」、と。糸を引くのは女房だろうか・・・

悪いことに子供の自殺や体罰、教師のわいせつ行為、縁者の便宜採用が放置されている現状での金にまつわる話だ。

考えようによっては税を俸給にしている公務員は教師だけではない。警察官、議員、国・地方公務員などがあるが、裁判官もいる。

ある裁判官は裁判途中で公証役場の席が空いたので、ということで担当裁判の途中で退職している。これを職場放棄というのだろうが被告も唖然とした。今回は警察官も多いと聞くが、職業柄なのか縁者の就職も多い。

教師に戻るが、途中退職して退職金の満額をせしめれば、その後は教員足りないということで、臨時採用されおなじ教室にもどることもある。つまり表面は変わらないが懐の保全はしっかりしている。

ことさら教育の荒廃などと振り回すものではない。なぜなら近ごろの公務は「狡務」だからだ。昨今、シロ蟻談義が政治のポイントとなり行政改革や教育改革が騒がれているが、今回は即効効果を図ることなく彼らのウイークポイントを見せてくれた。それも全国津々浦々の公務員の彼らなりの大義だ。





ベンガルこども新聞の配布



煎じつめれば生涯賃金の確保と生活安定だ。だから落ちればただの人となる議員のことなどあほらしくなる彼らの価値感覚だ。首長とて任期は二年か四年、職員の不祥事は隠してくれるし与党議員はかばって言い訳までしてくれる。お返しにお手盛り旅行か阿諛迎合すれば多少の我慢で済む。

ここで判ったことは、退職年齢の長短ではない。あくまで手取り金のかさ高が彼らの就業目標なのだ。ここで多くの公務員が退職金と年金の按配に心身の活動力(精紳)を最大限注入していることがわかった。

公務にみる不作為、怠惰はこれが元凶かと国民の前に露呈した。この下心を隠すことに腐心して言葉も少なかったが、聴く方も、゛生活があるから゛あるいは江戸の仇は長崎で討たれては堪らないと遠慮していたが、その影響は計り知れないことを国民は理解した。

今回は露見しただけでも数百人。かくれ狡務員は露見した氷山の一角に隠れて、いくらか良心があるのか逡巡している。しかし善良なる国民はとりつくろった邪まな彼らを放逐するためにこの手があったことを理解した。
いずれ支給することはわかっていても、群れの目的が金であり、手法がわかったなら、シロ蟻公務員はたとえ数刻でも早く辞めてもらために逆手をとるべきた。

あの、毛沢東も考えた。百家争鳴を煽り、自由を餌に言いたいことをいわせて、目星をつけて一網打尽に捕えたあのやり方である。狡猾には知恵で応ずるのは税の有効活用と保全だ。退職金を餌に公務員の本意をあぶり出す、これも知恵だ。

だが、これを教育の荒廃と四角四面に叩くのも大人げない。なぜなら放埒に堕した教育労働者のこと、分別あるものが叩いても弱い者いじめか、子どもを人質に籠城しかねない税金盗賊はいずれ滅びるのは必然だからだ。

納税者(タックスペイヤー)といえど、かなりいい加減な意識が増え、社会そのものが弛緩してダラダラになっている。これには、つける薬も見当たらない。
ただ、一連の狡務教員の所行をみせつけられ、いくらか考えるようになったのもその効用だ。

社会悪として子供にも「見習うべきでない」良き教材でもあろう。

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安岡氏は謂う 『稚拙であるが、いずれも痛いほど現実をつかんでいる』

2024-01-22 00:58:48 | Weblog

2015  2/15   あの頃


思春期の子供の目線だが、物知りの下手な批評より正鵠を得ている。なによりも辛辣だが唸るような短章だ。
あの頃の童の観察眼は、教員や政治家より優れている
成長するにしたがって余計で無駄にもなる知を詰め込むと、こんな発想力は湧いてこない。
サラリーマン川柳も秀逸だが、そんな親の思いまで読み取るような齢でいえば年少の下座観は、家庭だけでなく社会や、国内外の状況も的確に観察しているのだろう。




バングラデシュ子供新聞   キシロチェトロ編集長  プロビール・シャカ氏



筆者が仲間とベンガル子供新聞を創刊したのも、そのような子供の観察を世代の智慧として活用し、大人社会への忠告、警鐘としたかったからだ。子供が取材し、子供が描き、書く。そして無料で配布する。識字率は上がり世代間共通の問題意識が生まれる。子供たちへの、゛お返し゛はささやかだが一石二鳥の試みだ。

いまの日本は識字率が下がっているという。新聞は女性によって選択され、それも折り込み広告読者だ。朝の忙しい時間に男は熟読はしない。スマホは巧みだが、読めても書けなくなっている。政治家も読めないから意味も不明。よって口は達者で騒がしい。ゆえに予算や政策も錯誤し、改竄も恥じない。






政治はここから始まる




大衆を 羊のごとく 僕のまま   2 男

お互いに 心みせずに 平和なり  3男

一生は 女のことで 終わるのか  3男

真似をする 手本がなくて ただ生きる  3女

何となく テレビがあって 生きている  2 女

おばぁちゃん 邪魔にしている 父なのに 親の云うこと 守れ守れと 1 女

世の中が 悪すぎると 父怒る でもそれだけで 何もせぬとは  3女

ゴマすって ご機嫌取りの 父親に 無残ピシャリと ママが一喝  2 女

遺伝かな 仕方ないけど 父に似て 僕もまったく ママに弱いな  1 男

だだわめく 母に処置なし ダメな父 かわいそうだが 自業自得  3男

エライ人 父にあっては みんなペケ そんな父さんが なんで平社員  3女

耳ふさぐ 母たち話す いやらしさ  2 女

うわべだけ みて比べるは ひどい母  2 女

また遅い 家からっぽで ママPTA  2 女

テレビ出て 母しばらくは 得意なり  2 女

嬉しそう 人の噂を する母は  ⒉女

十四年 父の無能を 吹き込まれ ようやく判った 母の愚かさ 3男

大学へ 行けば人生 すべてよし その人生観 おふくろみじめ  3男

 

新聞を授業に・・・ 識字率は上がった。

 

自覚なく よい子で育つ 愚かさを 母に責ありと 今は判った  2 男


テストだけ 点数取れば 母チョロイ  2 男

恐いから 可哀想だから おとなしく イライラ抑え 母のいうように 2 男

くる友を 片っぱしから 悪く言い 母は私を 守っているつもり  2 女

気持ちよく 家事をする母 まだ見ない  3女

食べて寝て 女の誇り 母はなし  2 女

僕行くよ 母 床のなか いやだなぁ  1 男

母洗う 食器いつでも 不潔なり さっと流して 残った汚れ 2 女

あらいけない あらいけないで 明日が来る そしてまたまた あらいけないで  3女

責任を 感じぬ母は 怠け者 それで我が家は いつもゴタゴタ  2 女

ニヤニヤと 子供に見せぬ 顔をして 母は今日 妙に 父にやさしい  3女

男だと いつも長引く セールスマン 母はエッチ度 相当高いな  2 男

タレントじゃ ないのに化粧 母濃いすぎ  3女

お化粧の 濃さが判った 母浮気  2 女

だだいまの 声にしらける 玄関のなか 若い男と あわてる母と  2 男



矢野壽男編著 「このままじゃ僕の将来しれたもの」より抜粋

         
          

                安岡正篤氏


中学生狂歌について


≪憂楽秘帳 安岡正篤撰より抜粋≫

稚拙であるが、いずれも痛いほど現実をつかんでいる

政府や議会の堕落紛乱、これもとより恥ずべく、憂ることである。

会社や産業の不振衰微、これも困った苦しいことである。

犯罪の横行、公害の蔓延、これまた一日も捨てておけぬ恐ろしいことである。

しかし国家として民族として、もつとも根本的本質的に危険なことは家庭の堕落である。

国民が相愛し、相信じ、相扶け、相和して行く家庭を荒ませ、亡ぼすことは、やがて国民国家の破壊であり、滅亡である。

この頃のリブだの、脱だの、反などという軽薄無頼の横行に対して世の識者、指導者達の猛省奮発を切望する。
                  

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『請孫文再来』の読後感 15 3/30 再

2024-01-21 01:53:04 | Weblog



孫文と山田兄弟 上は弟純三郎 下は兄良政




生家の向かいは陸羯南の家で、多くの薫陶を受けている




兄弟の叔父 菊池九郎 初代市長、代議士 東奥義塾・東奥日報の創設者


以下は小生の拙書にいただいた読後感である。それは大分過去のことだ。
読書には「古教照心」と「照心古教」がある。
前は本の内容に知った・覚えたと得心するが、後は、己の心を以て内容を照らすことだ。
ことさら拙書を批評したり、なかんずく誉めたり迎合したりすることは容易だが、その読書感をもって志操の座標を掲げる見事さは筆者としても望外な悦びでもある。
「書籍の山」とあるが、いずれ切り口を変えて宝の山になるだろう。つまり詮索、研究に没頭するより「眺め」に至る途だからだ。

実はこの読後感も送達された時期と現在では、筆者自身も観点が変わっている。
想うに読者においても揺るぎない座標軸に狂いはないが、時を経て重層された薫醸の学は、より磨きをかけて新たな人生価値を育んでいるに違いない。

たかだか拙い体験備忘を含んだ稿だったが、配本にあたり「天下為公」と著名し、師の佐藤慎一郎氏との酔譚も挿入し、末尾に以下の文章を記したしたことを想いだした。



筆者自歴


    冠位褒章歴ナシ、記すべき官制学校歴ナシ、数多の成文あれど商業著作ナシ

    世俗無名に座し、と教えられればそれに随い、貪るな、と諭されれば貧を悦こび、

    枯木寒岩を装いつつも、浮俗に浸ることを一片の学として朋と遊び、時として

    独り逍遥しつつ清風の至るを悦しみ、齢を重ねている処士なり

    頑迷の誹りあるも、学ぶ処、唯、先人万師の追隋なり

 


多くの資料写真を挿入したエキサイトブログ「請孫文再来」はこちら

http://sunasia.exblog.jp/7292498/              




督励、監修をいただいた安岡・佐藤両先生











はじめに
  
 私は、齢五十を迎えた際、過去の生き様を振り返り、今後の人生の指針を打ち出そうと意気込んだものの、過去のしがらみより抜け出せず今日に至っております。

文庫本を読みあさり、書物より人生後半の設計の拠り所を得ようと努力を続けましたが、虚しく書籍の山を築くばかりでした。この時、奇遇な縁で寳田さんのブログを紹介いただき、その新奇な書きぶりに強い興味を抱き、貴著を提供いただくこととなりました。

貴著は、孫文の人生を歴史軸の中心に据え、孫文に深く関わり合った日本人の人生模様を併行して描き、さらに、その日本人の代表の一人である佐藤慎一郎氏との師弟関係より得られた佐藤氏の実体験を織り交ぜながら、寳田氏の日本に対する強い思いを表象させた書であると理解しました。
私は平々凡々たる一市井人であり、寳田氏の崇高な理念とその表現には遠く及びませんが、私個人の体験を拠り所として、つたない考察を試みたいと思います。








山田の郷里 弘前




弘前 養生幼稚園 角の丸くなった積み木の整理整頓


教育について

 私個人は戦後教育として官制学歴を得たが、人格の形成は家族によるところ大であった。当時は大家族であり、小学校低学年のころより、明治生まれの祖父毋に厳しく躾けられた。庭掃除にあたっては、『舌で舐めたように掃け』としかられ、朝から晩まで、畑仕事(雑草の除去、鍬入れ、種まき、収穫等)、掃除(家、庭、池、煙突、豚小屋等)、風呂焚き、便所の汲取、薪割り、砂利道への200メートルにわたる水まき、家畜への餌作り等の手伝いに追われていた。まるで、おしん並みで、とにかくつらかった。



だが、広い畑を耕し終えた時、あるいは何百本もの薪を作り終えた時の達成感は今でも鮮明に思い起こすことができるし、なにより土の感触、植物の心地よい匂い、麦畑をわたる風の涼しさの体感は貴重なクオリア(質感)として脳内に鮮明に定着している。



 娘の子育てに際しては、自己の経験を追体験させたい思いが強く、農村部への転居を考えたが、諸事情がこれを許さなかった。そこで、可能な限り自然に近い環境に置いてやろうと判断し、学校を選定した。土埃をあげながら、園児服を泥まみれにして裸足で遊び回る幼稚園、教室の窓側に鶏小屋と小さな畑を構え、飼育と収穫の喜びを体感させ、菊を育て土の感触を学ばせる小学校、勉学と掃除を等価値とし、全人教育を押し進める自然環境に恵まれた高校である。


、娘は高校生であるが、つい最近まで、冷暖房が整備されておらず、時には室内温度が40度近くに達した事もあったようである。今でも、教室内にゴキブリ、クモが乱入し、室外ではヤブ蚊にさされ、プールは鬱蒼とした樹木の落ち葉で埋め尽くされ、水泳部員による掃除が大変と聞く。生徒にとっては災難かもしれないが、同様の幼児体験をもつ私としては、思わずニヤリとしてしまう。生徒が何十年後に再会した時、話題になるのは、携帯やメールのやり取りではなく、これらの自然との接触の場面に違いない。



 ここで、少し風呂敷を広げ、多少無理があると感じつつも、教育の本質を考えてみたい。
やはり人間は自然の一部であり、科学技術の進歩により享受される利便、快適とも思える人工の空間を体感したとしても、自然界からみれば、あくまで人間が勝手に作り出した仮想の世界の出来事であり、永く記憶に定着することは無いと思われる。人工の教育環境と、人工の教育理念のみで、教育が成り立つとは思えない。自然界の森羅万象と多様性より学び取る要素は無限である。自然は人間に向かって傲慢ではなく、嘘もつかない。枝を切られても、黙々として枝を再生する。殺された虫は復讐しない

 明治以降、教育のありようが混迷の度を深め、寳田氏が主張する小学の重要性が増すと認識するが、忍耐、謙虚を学び取る対象は自然であるべきと思われる。
 明治以降の教育の衰退は、西欧の科学万能主義を模倣した結果として、都市化による自然世界の喪失、仮想世界の増殖と無縁ではなかろう。







佐藤先生 満洲新京にて





下座視と俯瞰視

 下座視とは、弱者を含めた現場観察(現場主義)に近い物の見方と定義できそうである。確かな下座視があって、正しい俯瞰視が可能になるのだろう。下座視不在の俯瞰視は人災を招くばかりである。
嘗て、陸軍参謀が机上演習による判断ミスにより、幾多の精鋭(戦争時では弱者)を戦闘以外で損失させた事実、また高級官僚の主導で日本の豊かな山林に、杉、檜を無造作に植林させ、人間介入に弱い森林の破壊を招いた事、海岸や河川の護岸工事で繊細な自然の生態系を破壊したことなどが、その典型ではないか。


私の学生時代で一番印象に残る授業は、宮脇 昭教授による『潜在自然植生』の講義であった。『潜在自然植生:植物生態学上の概念で、一切の人間の干渉を停止したと仮定したとき、現状の立地気候が支持し得る植生のこと。』

宮脇先生は、自ら日本全国を行脚し、森に分け入り、跪いて土壌を採取し、その土地が有史以来育んできた自然植生を分析し、日本全国の潜在自然植生の分布を、『日本植生誌全十巻』としてまとめあげた。この業績こそ、確かな下座視に基づく正しい俯瞰視の好例ではなかろうか。


下座視と俯瞰視を共有させる教育の実現に向け、教育の本質より見直しが為されない限り、政治家、官僚の腐敗が消える筈もなく、観心則を弁えた国民によるリーダの選出も期待できない。







蒋介石と山田




地位、財への飽くなき追求

 私は一介のサラリーマンとして、成人以降の人生の大半を過ごしてきたが、仕事中心主義で食い扶持稼ぎに終止するのみであった。生き様を少しでも変えたいとの思いで早期退職し、組織のしがらみより解放される道を選択した。しかし、家庭の維持のためには、他者と無縁でいられる筈もなく、時折、仕事を提供してもらい、現在に至っている。


多少、不自由ではあるものの、地位、名誉、組織と無縁の自由時間を堪能もしている。家内とは折り合っていないが、肩書きへの執着もなく、不要な財を得る意欲も無い。地位、財が無上の喜びを与えてくれる訳ではない。世は飽食の時代であるが、自然界の動物、昆虫達はどうなのか? メタボに悩み、減量目的のダンスやストレッチでもしているのだろうか?


戦後間もなき私の幼少期では、まだまだ食料事情は劣悪であって、空腹は常であったが、貧相であっても母親手作りの焼きパンの味は今でも忘れられない。午後のお茶時は、紅茶に菓子ケーキ類では無論なく、常に自家製の日本茶と白菜の漬け物であった。中学校や大学時代の運動部合宿でしごかれた後に飲む鉄管ビールの味も、ありありと思い出せる。乾燥したサバンナを何十キロも横断し、限られたオアシスの水にありついた時、象が感じる水の味わいに少しばかり近いのだろう。衣食足りて礼節を知るとの教えに背き、なぜ人間の欲望には際限がないのか?


不自由の中にこそ、無限の自由があり、無そのものは、無限の広がりを見せる
無と言えば、小津安二郎の墓碑銘は『無』である。何を持って無を選択したかは定かでないが、小津作品のほとんどは、ストーリが説明的ではなく、役者は演技をせず、台詞は『あー、そうかね』など、家庭内に起こり得る何の変哲も無い出来事の連続で終わる。観客は、何も説明されないため、作品にどう対峙してよいか動揺するが、何回も鑑賞する過程で、自己の人生経験と照らし合わせ自分なりの解釈を作りだす事となる。その解釈は鑑賞者単位に無限の広がり見せる。


 人間は、一度動植物の健気な生き方を学習する必要があるのではなかろうか?
生き延びるに最低限の所要量を把握し、自然の脅威に対する強靭な生命力、耐え忍ぶ耐性を
どうしたら持ち得るかを。


おわりに

 灯台下暗しではありませんが、私の所属する会社のある関係者に、ブログ『まほろばの泉』を紹介したところ、すでに孫文の生き様を独学し、人生の糧としており、早速ブログを精読させていただくとのメールが返信されました。寳田氏の理念の波は、ブログや縁を通して、徐々にではあっても確実に伝わり続けるでしょう。その波が、個人より伝播し、大きな社会への対岸へと辿り着くことを願ってやみません。


                            以上
                             2003y   山崎裕明

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賢者に請う  拙稿『請孫文再来』について 9 2/23 再

2024-01-21 00:59:27 | Weblog

http://sunasia.exblog.jp/
ブログ編

冊子「天下為公」


 人師、佐藤信慎一郎先生との数々ある想い出の多くは、感動感激体験を語りながら時節の憂いに共感するも,ときには共に惜涙し、あるときは欣快の心地を忘れまいとして杯の乾くのも忘れ清話の宴に興じたことだ。

まさに《第宅器物その奇を用せず。有れば有るにしたがって愉しみ,無ければ無きに任せてまた安ジョたり》と、詠んだ徳川光圀の境地に似たものだった。

愉しかった、嬉しかった、そして何時も歯唇の間に溢れる誠言に心耳を澄ました。

思考や疑似体験は天空を渡り、志操を育んだ弘前や海を越え大陸にも飛んだ。


             
    辛亥革命 恵州にて殉死 山田の兄 良政



まるで偉人,賢者が添っているかの如く孫文も山田も眼前に現れる。

そんな気持ちを忘れまいと紙上に遺そうと思ったとき、師はつねに寄り添っていた。

小生の拙意に「ありがたいなぁ、…・」といって、あとは「孫文は・・アジアは・・日本人は・・」と,止めどもなく語りつづける。

ときおり「のろまな純コと寝小便垂れの慎坊はよく似て…」と軽口をつくと、破顔一笑「叔父も僕も孫さんに参ったなぁ」と、書棚から数ある茶封筒を選び出し「これもある。これも関係している。年表もつけたらいい」そして「これは歴史の方向であり,必然だ」とグラス片手に時の経つことも忘れ勉強会が続く。

 思いもよらぬ患いの報に接し、王荊山氏の遺子を伴った帰り際、「あとは頼みますよ」と、小生にとってはいつもの言葉だが母娘は何かを察したかのように言葉が絶えた。



              
    佐藤慎一郎先生  孫文側近 山田純三郎の甥


一夜、言葉も無く荒い呼吸を刻む師と二人っきりの時を過ごしながら、積年を回顧し師のすべてを拝受したく、額,腕,足の指又まで撫でまわした。 
゛頼まれても困る゛と幾度語りかけたことか。

のろまの純コや寝小便垂れの慎坊が祈り、そして孫文が希求した゛真の日本人゛によるアジアの鎮まりに懸けた心情には叶わないまでも、そんな明治の日本人と孫文の温かい潤いの証を遺そうと、口耳四寸の学を恥じながら人生の添文として、いつの間にやら章を重ねていた。

師への落涙が賢者の縁へ導く潤いなのか,大塚氏,伴氏,亀山氏の共感を得た
拙文の広布は、悪文呈上の恥を超え、師と先人への感謝として欣快な心地がする。
9万に届こうとする多くの読者に感謝と期待を申し上げる。
全中華民族を代表して孫文が心血を込めた頌徳文の末尾に鮮やかに記された
 


                

   「その志,東方に嗣ぐものあらんことを」 東方・・日本

 その志操を有意なるものとして研鑚する人々と共に、兢々として心香を献じ銘としたい。
                

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日本版 「人民監督網」 15/4

2024-01-18 17:41:20 | Weblog

巷の株価の様相はバブルのようだと評者は謳う。

政治は政策焦点すら定まらず、恒例となった金の問題で世間をにぎわしている。

よく官僚は指示がくると、まず、<やらなくてもよい理由を探す>と某次官は嘆いていたことがある。

省益に係わることは、<可能な条文を探索>しても邁進する。

隣国の宦官のようだと識者は嘆くが、記載されたらセーフなどといった普遍なる常識さえ毀損する政治資金規正法を、まるで泥棒が縄をよる(作る)ように助言したのも狡猾な官吏である。

落ちればタダの人となる議員でも、使いようによっては役に立つ、官域に問題があれば官僚作成の答弁書を読んで、言い訳したり、謝ったりしてもらえる重宝な人たちだ。少しでも高飛車になれば江戸の仇長崎とばかり、選挙法を駆使して警察に捕縛させ、記載漏れは裏金としてようやく認定したのは、数次にわたる政権が、思うがままに行った官域人事の専横に「仇は長崎」のように起訴しているように国民は観ている。

人事と予算を握られた官域は、怯み低頭、したたかな沈黙、面従腹背などで時の経過を待ち、弱ったとみたら逆襲してているようにも映る。

政官は利用したり、されたり、バチルスのように増殖し、権益を広げてきた。

しかも、彼らが作り、議員に立法させた愚法がその増殖を援け、大経綸もなく課題探究のような問答に陥った充て職議員の群れを養っている様相である。



青森県黒石市 狐の嫁入り行列



隣国のサイト「人民監督網」は不良公務員監督ネットワークである。

http://www.npo-iasia.org/archive/2014/09/china-huhai2.html
アイ・アジアネットより

国柄や民癖もあるだろうが、我が国はとくに狡猾で、゛みみっちい(小人の狭量)゛。
懐へ入れる多寡が問題ではない、素直な欲望に順っている隣国の公務員比べで、欲の深さは変わらないが、その安定職や地位を清濁ともに有効活用してはいない。

人民監督網にリークされる公務員は欲望の渦に狂騒する人民とは何ら変わることのなく視透かされる人間がいる。
自分もそのようになったら、彼らと同じことをするに違いないという心底がある。だからこそ地位が昇ったり陥落したりすることにことのほか慣れている。

共産党員となり、幹部になると物欲しげに手を出さなくても、財貨は舞い落ちる。いくら清廉でも自然に集まってくる。賄賂は「人情を贈る」ことだからだ。

我が国でも郷の親分に仁義を切ったり、土産を持参することが普通だった。もちろん警察も同様だった。もっとも民間人を集めた懇話会を設け、ある署では年会費4万円を500人で2000万だ。警備出動や特別捜査本部などが設置されると色々と掛かるものがある。余れば余ったで色々ある。法の番人だが、掟や習慣が優先されることもある。

これも差し出す方もお目こぼしなり四角四面の対応を避けるためだが、かといって、やたら法を捻じ曲げたりすることは上司と云えど、部下には指示は出来ないようだ。とくに内部各々の課の関係においてはなおさらだ。

不埒な会員は駐車違反のお目こぼしが適わないと捨てゼリフを吐くが、もとより法にもない阿吽の関係ゆえ尻尾を巻くようだが、どこでも面前で対応する警察官は苦労する。

昔のことだが、知人を通して中国某省の警察がバス路線を経営管理するので、バスを安く買えないかと連絡があった。支払う金がないので事業参入する者を探して欲しいとのことだった。中国は軍や警察が様々な事業を手掛けている。貿易会社、製造業、小売店、もちろん規制管轄がお伴だが、民業圧迫となどと騒ぐ者は少ない。当然なことだからだ。

国営を公司にしても党員や軍・警察が運営するのを真似たのか、我が国の取って付けた理由は民営化の旗印だ。独立行政法人などは国家予算の三倍もある裏財布で、国会も手を出せないし、いくらあるかも真実は判らないような特別予算を国家経営とは聞こえが良いが、官吏による運用が行われている。

賢く実直な官吏に運営させれば安全だろと国民は思うが、社保庁の実態や防衛汚職や外務省機密費・道路公団・鉄建公団のころは政官財に食い散らかされ多くの借金が国民に課せられたことは記憶に新しい。

隣国は明け透けだ。それを個人余禄として女や高級車、上司への上納に乱費する。それも桁違いだ。彼らは裸官と称して我が身の資産、家族は外国に逃避させ、その一年の総額は十数兆円になるという。たとえ摘発され死刑になっても家族と金を守るのだ。








この不良公務員監督ネットワークは民衆の歓迎を受けているが、法によって制度化されていない身分や党権力の交代や都合によって恣意的(欲しいままに)摘発するため、自身を守るすべは上司への賄賂に励むことと同時に、真の権力の存在がどこにあるのかを見極めることに汲々としている。

翻って我が国の公務員は安定した行政機構ゆえ、細かく規定された法によって身分を保証され、何人たりとも侵害を許さない。

公務新制度改革やその組織的弊害を唱えた政党や学者やジャーナリストはいつの間にか茶の間に届くマスコミから姿を消している。
まさに鉄壁な法に護られ、侵入者には生存与奪すら行える汚れなき犯罪が横行している。

それは香港が中央政府の顔色を窺い事前忖度することと似て、しかもそのコントロールは政権党にすり寄る小党の後援者を騙す国会対策演技とよく似ている。あのEUの異端児ギリシャも親戚縁者や友人が公務員というのがザラだという。

タックスペイヤー(納税者)が限定されて、イーター(税金食い)が多くなっては懐は足りなくなるはずだ。
それも、徐々に増殖して制御が利かなくなる。困ったことに公権力の運用者なのだ。

財政が大変なおり、国会議員が給与や手当を是正できないのは狡猾官吏の給与までが連動したら困るのだとは元議員の言だ。
先ずは経常経費をあてがい、他の政策予算の足りないところは借金だよ、とは財政家ではなく計理士だ。

中国はこの部分(公務員の摘発)においては大衆に見える対策を取っている。しかも死刑という判決を遠慮なく出し、間をおかず執行している。

ところが、前項に記した「警視庁はサンズイが捕れない」となるに及んで、日本版 「人民監督網」運動を行なえば、公務員の不祥事を摘発する捜査二課件数ゼロなどという失態は無くなるだろうおもうのだ。この場合、たとえ有ったにしても抑えたり潰すことも警察組織にとっては有効だ。マスコミはメシの種を提供してくれるネタ元の不祥事は書けない。とくに掟や習慣のように常態化しているカネにまつわることは書けない。  サンズイ(汚職)

その意味では課のリーダーは、この場合には特別有能な人間が就く。ときどき本来の正義感あふれ公務に忠実な人間が就くと、地を這うような捜査を厭わない部下からは慕われるが、組織としてはやっかいな課長だと妙な風評をたてられたりする事もある。



http://blog.goo.ne.jp/greendoor-t/e/fffd0c64eaa710406b55cac8e6fb79e0






参考に「昇官発財」と題した拙章を参照に、歴史的な官吏の実態と民情を眺めて戴きたい


http://blog.goo.ne.jp/greendoor-t/d/20100401

2010 4月 ~7月の終章まであります



 再読 政治の座標を観る 《昇官発財》其の一

2010-04-01 14:03:46 | Weblog
昇(しょう) 官(かん) 発(はつ) 財(ざい)

官吏は昇進するたび財を発する、また民はそれを嘲りつつも倣うものだ


抜粋

解説

《昇官発財》とは

学問の目的は「財」に在り。学問するところ地位が在り。地位ある処、権力と財を発す。

これほど明け透けに、しかも人の本能的にもみえる欲望を記したものはない。なぜなら知識の集積が勉強だと錯誤しているものにとっては可否を論ずるまでもなく、事実が臨場感を添え、かつ至極当然のごとく白日に語られる実態があるからだ。

権力には自ずと財が生じ、色(女)、食(奢)、財(金)は思いのままになる。即ち、色、食、財という欲望のためなら男根(生殖器)までを切断して 官に昇る若者と、それを促す家族と容認する社会がある。

手段、方法は異なるが、学問の目的に曖昧な意志をもつ我が国にとって、似たような現象が起きている。
知識、技術(学問?)を得て、有名校にて学校歴(学歴ではない)をつけ、その目的は地位であり名誉であり財である。

少欲の競争によって生産があり発展もある。 そこには“食”もあり、程よい“財”も有る。 両性扶助の調和による生活もある。 また、それぞれの国に与えられた環境と、誇るべき伝統がある。 

“似て非なる”国の文化的恩恵に感謝しつつも、宦官、科挙、纏足を否定した 我が国が学問の目的とするものに“曖昧な意志”をもち続ける限り、“似て非なる”国との「同化」は避けられない。

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文は経国の大業にして不朽の盛事なり 13 7/30再

2024-01-14 20:07:55 | Weblog

東大文系法学部は知識習得の前提とした「本(もと)」のあることが分からないのか、既得済と確認しないのか、それとも「もと」など説明論拠が立てられないからと、無意味と考えているのか、ともあれ学び舎エリートと称する学徒が群れのよう暗雲となって世情を覆っている。それは「観人則」が簡便な数値判別となった頃から顕著になっている。

国家経営の歴史的証である文書が、改ざん、隠蔽、廃棄が平然と行われるようになった。裁判所も恒常的に行われ、行政官庁も倣ったように断捨離に勤しんでいる。

金貸しが証文を勝手に書き換えたり廃棄したら生業は成り立たないが、組織活動体でもある国家なるものでも、敗戦時、中央、地方問わず官域では書類廃棄(焼却)が続いた。

多くの、改ざん、隠蔽、廃棄は見られたら都合の悪い、つまり責任者を特定されないよう、あるいは無謬性と普遍性を旨とするものが、偏ったり、邪な施策や行使が露見しないようにする行為と良識ある国民はみている。いまは、それが諦めともなっている。

 

以下は歴史の残影として守護すべき碩学の序文です。

(背景)
敗戦時、1944年までは約100万人の将兵が戦地で亡くなり、その後終戦までに200万が亡くなり多くは餓死といわれてます。加えて戦争の指導的立場にあった将官の中には責を負って自決された方もいます。

一方、隠匿物資を横流しして財を築く将官や兵士、部下に罪をなすりつけ逃げおおせたもの、地方に逃げ隠遁するもの、ほとぼりが冷めるのを待って政治家や実業家、はたまた知事や政府高官になった者もいます。

しかし此処に著された遺稿は、戦地で亡くなった兵士、現地住民への哀悼と謝罪、そして国家の歴史上、はじめて記される異民族との戦いにおける敗北に、我が身の死をもって償い自裁された人々の靖んじて献じた集文です。 筆者記

弘前城公園

 

 

昭和45年8月1日発行
靖国神社刊行 「世紀の自決」   序

 

 千歳恩讐両ながら存せず。風雲長く為に忠魂を弔ふと、幕末菅石山が楠公墓畔で詠じましたが、戦後、時が経つほど折にふれ、縁に随って、見聞きする殉国の壮烈な人々の遺事に純浄な感激を覚えます。

 このたび全国戦争犠牲者援護会の方々並に芙蓉書房が、広く関係各団体と遺族の人々の協力を得て、五百六十八柱に上る自決烈士の中、百四十四柱の人々の尊い不朽の文献を集めてこの「世紀の自決」を刊行されたことは誠に肝銘すべきものであります。

  世の軽薄な人々の中には、戦争を憎むのあまり、自らの国家を否定し、殉国の士にも一向関心を持たず、無責任な利己的平和と享楽ばかりを求めてやまぬ者が多い。

 それは最も恥づべき堕落であります。祖国はその懐かしい山河と共に、民族の生命と伝統を顕現してをるものであり、地球は幾十億年もかかって、生命を創り、人間を生み、心霊を高め、民族を育て、国家 を拓いて、人類文明を発達させてきました。

  その自然と生命と人間精神に共通する進歩の原理原則は、常に試練と犠牲と無くしては行はれないことを、科学によっても明らかにされてをります。

 書経に所謂「自ら靖んじ自ら献ずる」このことによって、人も、家も、国も、人類も、文明も進歩発達してきたのであります。

  明治維新の偉大な一人の先覚浅見絅斎が「靖献遺言」を著したのも、自ら靖献して殉義殉国した人々を世に表彰したのですが、この一巻の「世紀の自決」も亦新たな一つの「靖献遺言」と言ふことができませう。

 このごろの世は甚だしい背徳と忘恩の横行する軽薄時代ですが、これをどうして救ふことができるでせうか。

  その一つの原理は、たしかに論語に所謂、「終を慎み、遠を追へば、民の俗、厚きに帰す」といふ教にあると信じます。

 この書は、この意味において尊い「追遠」の一つの事業であります。
微々たる花粉が太平洋を越えてアメリカ大陸に育つこともあり、ヨーロッパの地層に沈んで、不滅の跡を留めてゐることを科学者は発見してをります。私は敬しんで英霊に心香を献じてこの一文を呈する次第であります。
  

                  昭和四十三年六月六日   安岡正篤






精霊流し 青森県黒石市



頌徳表 (徳を讃える)


 明治維新の大業は吉田松陰先生の指導に因って成就す、蓋し過言に非ず、先生は夙に国難を憂ひ日夜肝胆を砕き有能なる子弟育成に心血を注げり。

  憂国の忠魂今尚長州に脹る。村本忠言翁は明治三十年八月九日長州に生れ五十一年三月三十日長州に鎮す。
  翁は幼にして憂国の志厚く長じて学び順って忠魂の気概益々旺んなり。秋恰も昭和二十年八月十五日終戦の詔勅降るや我国古来の道義 美風 荒廃せり、翁は憂慮し決然と起つ。

  抑々翁は笠木良明先生の知遇を享け爾来国一を憂うる同志相集いて諮ること婁々なリ。時節到来日本再建法案大綱の編纂に当りその発起人に名を列ね国家の発展に貢献する処実に少なからず。

 然も尚翁の志操の遠大を遺さんと欲すれば則ち奮って翁の記された言辞を以ってその極みとす。曰く 草莽の一声は天下に隆々として鳴り響くと、翁は争いを避けて和を尊び終始、双而不欲、施而不受の気節に富み、又先人言う所の第宅器物その奇を要せず、有れば即ち有るに従って楽しみ無ければ無きに任せて晏如たり。而して黙て語らず薀蓄を啓いては裨益すること太だ多し。

 俊英の志行半ばにして七十八才を以って長ず、児孫等日夜其の遺風を懐い慎んでその遺徳を肝に銘じ競々として其の志操を忘れず、翁の生前を偲び永くその功を敬ひ謹んでその徳を頌し以って紀念と為す

安岡正篤 監修 

寶田時雄    謹んで撰す(起文)

 

※ 文京区白山の安岡邸書斎にて初対面にもかかわらず監修をご依頼。三度読み直し「直してよろしいか」と赤鉛筆で添削。戻され読み直していると「文は上手い、下手ではない。君の誠意が五十年、百年後、目にした人物によって社会や国が変わるかもしれない。文とはそのようなものだ(簡記)」

氏がどのような人物かも分からず、ただ古老の後を付いて行って、帰りは玄関カマチに立ち道路の角口まで動じなかった人物。「どなたですか」古老は「安岡先生だ、弟子になったらどうだ」と。

氏の来歴は知らずとも「文は上手い下手ではない」それだけでも面白くなった。そんな人間は弟子などはとらない、必要がない。良いと思えば倣い浸透させればすむ。

だが世の曲学阿世の徒は、最後の弟子などと称して、売文、虚偽言論家として世を惑わせている。「弟子をとった覚えはない」という師は学問気概に簡便な相伝はない。まして自称弟子がステータスや財利の種になるど、学問の堕落と一喝されることは間違いない。

 

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【一官九族に繁える】 7 11/6 再

2024-01-10 06:44:43 | Weblog

「一官九族に繁える」
        親戚縁者が一人でも高位高官に昇ると縁者も共に繁栄する
以前のプログ「安倍晋三・・・」連載内「昇官発財」を参照

 

平成12年9日 〈時事AFP〉
北京で息子の大学受験に付き添う父親のツァイ,ジョンションさんは一カ月の収入を上回る1800元(約23,000円)を試験場近くのホテルに支払い『この試験に私たち一家全員の未来がかかっているだ』と決意を語っている。

 宋代に『勧学文』と称して皇帝が学問を奨励しているが、その文は『書中、自ずから黄金の部屋あり』『書中、自ずから女あり』と、食、色、財の欲望を際立たせ、しかも試験に合格し、めでたく登用され官位が昇れば金や女が自ず(自然に)と近寄ってくるというのである。

 しかし、このことも平穏に怠惰をむさぼっている民情なればこその戯れであり、それが証拠にあれほど朱子学を端とする学派が興隆したが、異郷の攻略にひとたまりもなかったことは如何に欲望を遂げるための手段である地位、名誉、学歴といった附属性価値のみを高めるための利学、詐学、術学でしかなかったことを示すものである。

しかも、それ以上に『昇官発財』(官位が昇れば財を発する)を望むものは、自身の生殖器官である陰茎を切断して宮廷に出司する宦官制度を巧妙に利用している。

 


 


余談ではあるが『禁ずる処、利を生ず』と、あらゆる場面で禁(規制)をつくり、さして意味のない規制に手心を加えてもらうための賄賂が官吏の懐を潤している。
紫禁城とは言い得て妙な命名であろう。

満州国では当時の日本国内の硬直腐敗した官吏と違い、新生満州の建設に馳せ参じた植民地官僚や、当時、植民地であった台湾や朝鮮の現地登用官吏が清廉であったため下級官吏の賄賂が少なく「暮らしにくい…」といった嘆きがあったほどだが、賄賂の意味を『利』のみではなく『人情を贈る』表現として生活習慣になっていたためでもあろう。

 そもそも『利』を金品として考えるだけではなく、人間関係の調和のための『潤い』
として受けたものは、他に『分ける』ことが人物の器量として、また「たくさん貰って、大勢に分ける」ことが当然にこととして考えられているからでもある。

 国家が権力として税を召し上げ、恩恵として配布する社会構造とは異なり、個人、家族、郷党といった条件のない人情の交換範囲を唯一の生活圏としている民衆にとっては『潤い』のもつ安心感や価値の共有は、生活保全の観察分岐点の見極めとして自己防衛の作戯とも言える。

  賄賂(潤い)を受け取れば仲間である。 それは貪りとか、狡猾とかいったものではなく、ほのぼのとした歴史の知恵であり特徴ある足跡でもあろう。

その意味で多くの潤いを得ることのできる地位は、それに連なる一族の糧であり象徴でもある。一家一族、ひいては民族国家のためと単に少数が多数に変わることは、ミクロからマクロという枠の違いはあるが、潤いを降らせる事が可能になる基礎的条件は、我国と同様に人格とはなんら関係のない附属性価値である、知識技術の学歴が賄賂袋の所持条件であるようだ。学歴といっても学問歴ではなく学校在籍歴である。

賄賂といっても日本人のそれとは些か異なるようだ。
皇帝は中国全土の人民,物資をふくめ,ありとあらゆるモノの所有者である。
忠誠の証に宮中では皇帝の面前に貢物が供えられるが、もちろん高カな物や珍奇な物産もあるだろう。 そのとき献上者は侍従である宦官に賄賂を渡して,皇帝の一番目に付くところに置いてもらう、それが賄賂の使い道である。
近頃でも指導者の縁者や息子(太子党)の汚職事件があっても,毛主席が賄賂を手にしたとは聞こえてこない。

 

 

 

 我が国でも土下座、哀願はなんのその念願叶った議員、官僚の汚職や、売文の輩や言論貴族の小使い銭が事件になるが、近頃では発展途上国支援のODAとかいう資金還流も、議員のご苦労賃(キックバック)として懐を潤していると聞く。

 
明治期にはアジアの光明ととしてアジア諸国の魁となった我が国だが、その時の民族評価は勤勉,正直,礼儀と進取をおこす勇気があった。
ペルーのアルベルト・フジモリ前大統領はそれに加え「母から忍耐を学びました」と陛下にお伝えしている。

 本音と本性を混同し、色(性),食、財の欲望ををコントロールできなくなった我が国も、そろそろ隣国同化,自己融解のための条件が整いつつあるようだが、いっそのこと賄賂学も学歴の中に入れて、グローバルスタンダードという無機質な一方的人為データには馴染まないような、潤いのある人間学的アジアスタンダードを学ぶのも一考かと。

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中国でさえ危機ととらえ、元総監は「警察はサンズイが捕れないだろう」と嘆いた

2024-01-07 02:34:16 | Weblog

故 鎌倉 節 氏




辞めた議員が「分かる人には分かる、分かりたくない人には分からない」と捨てぜりふを吐いたが、この事は国民も承知だ。

サンズイとは汚職である

宮内庁長官だった元警視総監の鎌倉氏の慚愧の念だ
氏は皇室を敬愛し武士(もののふ)の風儀が漂っていた。

国民が憂慮する公官吏や政治家の弛緩した実態でもサンズイは無い、という。
無ければ国民は幸せだが、今のところは無いはずがないと読んでいる。
ちなみに警視庁の捜査二課は知能犯罪の捜査を担当するが、政治家や官吏の贈収賄の摘発などに専従している。ほかには選挙違反などがあるが、国民が期待しているのは、必ず有るであろう政官財のトライアングルと云われた関係での便宜供与に伴う斡旋収賄だ。

もともと所轄署は地方公務員や市長もしくは出先の公官庁とは協力関係にあるためか、相身互いでなかなか摘発はない。いや摘発しにくい関係だ。疑わしい端緒の情報は組織内では所轄が手足となるが、本部と所轄の関係、あるいは所轄責任者が別部署のキャリアだとなかなか二課には情報が上がらない。
だからなのか、直接本庁の二課に告訴することになる。警察官や議員の関わる事犯は交通違反の議員と警察の係わりで事件が流される恐れがあると、今度は検察庁に上訴するようになる。

ならば、検察官が関わる事犯になると、どこにもっていって良いか国民は判らなくなる。
近ごろは、こんなことが多くなったようだと世俗は嘆き諦める。
とくに公務員の関わる問題は、返り血や、江戸の仇長崎と云われるように、いつかしっぺ返しがあると恐々とする。とくに税と治安にかかわる公務員の問題は陰に隠れて処理されることが多いようだ。


地方創生の端印のもとつかみ金のごとく使途を限定しない税金なり借金が投入されている。それも乗数効果というが、乗数どころかマイナス効果が含まれている政策が数値目標のために投入されている。はたして後藤新平のように人を育て、人を活かし、その人物によって資材が有効に使われているかは疑わしい。
だからこそ中央官庁の官吏は集中権力を手放さないのだろうが、今の状態で地方に流せば果たして資金とともに供される国家的政策の意図に沿うものかははなはだ疑問だ。






新華社 共同配信


中国では官吏や党員の汚職取り締まりが頻繁に行われている。
日本と違うのは党員の規律関係を監視摘発する、日本に当てはめれば捜査二課や検察特捜の大物までが検挙されていることだ。習近平氏は革命一世代の縁者派である太子党で、捕まるのは共産党青年同盟出身者だから、これは権力闘争だといわれるが、ともあれ権力者や公務員の汚職摘発は国民の喝采を受けている。しかも後ろ盾となる軍の高官までお縄にしている。

最近、元空幕長田母神氏の選挙で不明朗な支出があったと仲間内で騒いでいるが、この仲間も航空自衛隊のキャリア幹部だ。せいぜい繁華街で飲食や女色にふけるのがオチだが、総じて野暮な姿だ。軍と警察は武力をもち、税官吏は調査権、徴税権をもっているため国民は息を潜めるしかない。
この部類が社会的使命とモノノフの清廉さをを失ったら国が国として成り得ない。
近ごろは緩みを通り越して官位と組織を盾に汚れ始めている。
現職中の安定職担保ならまだしも、辞めた後も民生に入り込み素餐を食んでいるから始末に悪い。

※「素餐」功績も才能もないのに高い位にいて報酬を受けること

とくに甚だしいのは目に見える面前権力だが、国民から見れば現場の隊員や官吏の精勤を見ると言を控えるようになるが、それを踏み台に高位の官吏が民政を侵食する愚は戦前の増殖した軍官吏を彷彿とさせ、いつか同じ途を辿るだろうと国民は危惧している。
だから若い隊員は有事になったら後ろから撃つなどと云い、警察は有能な警察官を数値選別し、幹部は組織内派閥抗争に明け暮れ管轄権で争ったりするのだ。

余談だが、子供が地下鉄内でお年寄りに暴力を振るったことを社会道徳の一大事として動いた署長がいた。普通なら新聞も四段の記事だが、某社の社会部記者は同感して動いた。筆者の面前での会話だった。その署長が都心の方面本部長から本庁の総務責任者になった。
ちなみにその感性の優れた記者は外信部長から論説委員となっている。
真面な感性をもっている人物が揃うと些細な小事が将来の大事になることを逆賭するのだ。また、組織内でも際立つのだ。

筆者と懇談しているとき所轄の署長から電話があった。筆者とも懇意な人物だった。
内容は「警備に比重をおいた組織が民生に転化するこの機会に、組織の意識変革をしなくてはならない・・」とのことだ。










その幹部は民生と警察の関係について尋ねてきた。「青少年と任侠変じてヤクザとなった群れが民生の問題でしょう」と応えた。
権力は常に見えるところにいてはいけない。それは民生の自立自制を妨げることもある。また地域の長(おさ)としても率先垂範する任侠的な存在も習慣文化の自省、自浄として必要との考えだった。そして「深入りは止め処もないことにもなるので慎重に運用してほしい」、と付け加えた
以後は、警備や公安が姿を隠し、生活安全と交通、捜査二課や四課が耳目を集めるようになった。
経済事犯、政治家の汚職、稼業社会の民事介入などが社会問題としてクローズアップされた。

しかし、他聞にもれず省益ならぬ庁益が発生するようになると、捜査権や逮捕権など法の運用権があるゆえに容易に民生の世界に侵入するようになった。まさに怖いものなしだ。本来は慎むべき権力だったが、功利的かつ効率的思考が入ると組織はあらぬ方向に進むことの深慮が薄かった。鎌倉氏の慚愧もそこにある








川路大警視


いまは庁益として民生転換の本意を失くし、政治家でも言を恐れ、上部機関の検察も調査活動費不正使用や証拠改ざんで言を失くしている。
そんな組織に限って現場警察官には過度な自制を求める。
寒期でも交番はドアを開け放ち、下を向いたり新聞さえ読まず顔は上げる、暴漢が入ってきたらという理由だ。もちろん見えるところでは水も飲めない。些細なことだが肩書で指示する幹部でさえ、数値に追いまくられている。
終いに弛緩し自堕落になる。それは組織内の面従腹背を招くことにもなる。キャリア幹部は生涯賃金を企図して転職天下り先を模索し、部下もそれらに倣い、職場の空気はときに陰湿となり、それぞれが信頼できなくなると各部間の連携調和が欠け、拙速を旨とする捜査の遅漏を招くようだ。また、足の引っ張り合いになることも有りうることだ。

それを統御コントロールするのは数値に依る選別だ。交番を空けて道路わきで違反ドライバーを探し、二人組で瞬時の駐禁を確保するようになった。 確信的違反ではないドライバーの不注意を覚らせる会話をすることもなく、違反を告げ切符を書きだす。法は法と国民は判っているが、警察官と国民の相互関係についての深慮が乏しくなっている。それがすすむと人々は罪びとを隠すようにもなるのも隣国にある権力との関係だ。地方出向の職員も東京の環境に馴染むことに苦労するというが、時をおいてそれも地方に伝播するする。

等しい国民感情だが、もう、あの頃の駐在さんやお巡りさんはいなくなった。


私事だが、筆者も安岡氏や安倍源基氏の誘縁で多くの治安官僚と語る機会があった。また佐藤慎一郎氏は内閣調査室や当局者の縁で諜報関係に知人が多い。その中でも当時の柏村長官や神戸にいた秦野章(後の総監)との逸話など、それらの方々との邂逅は先ずは「国家社会の安寧」を基にしたものだった。
あるとき某所轄の署長から「士気が弛緩している、とくに組織内の上下関係の感ずることがある」と、署員に講話の依頼があった。
「よりによって私のようなものに・・」そう云ったが、「遠慮しませんよ」と承諾した。

内容は城東署の覚せい剤の偽装逮捕とキャリア幹部の不祥事の根底にある、ノルマによる数値選別とキャリアへの現場の怨嗟だった。
怨嗟は国民感情にも直結していた。そこで「人情は普遍なり」と題して隣国の警察と庶民の感情をつたえ、所轄幹部にはには肩書階級は形式として、警視庁が行う殉職慰霊の弥生祭とは別の、所轄歴史にある殉職者を掲げ随時、幹部訓示の背景意識として階級を問わず士気を整えるようにと伝えた。
また聴講した職員約100人の前でも同様なことを伝え、都心警備に赴く職員には「寒気風雨にさらされた高速道路に立ち通過する高官の車を警護するとき、この高官がもし汚職腐敗にまみえていたなら、士気かが消滅するのは国民とて同感だ。添うべき心は善なる国民であり、自身の警察官になった初心を忘れないことが大切なことだ。その姿は警視庁ならずも津々浦々の人々の同僚の共感として、その姿は国民の国家への信頼の姿として浸透する」と伝えた。

その後、返礼に署長が訪ねてくるという。
「所轄区域は狭いので交番職も自転車を利用している。事件があっても指令を出すものが地理に暗くては初動も遅くなるので、我が家には民情視察のつもりで電車で来ていだだければありがたい」とお伝えした。
その署長はそれ以来夜半のジョッキングでは管内の交番巡りをしていた。決して監視ではなく職員に見つかれば激励をした。、













日本では為政者である国会議員から選ばれた総理が権力者と云われるが、隠れた権力は公務という職種に位置する集団の姿なり構造がそれにあたるようだが、公務員の不始末を大臣が言い訳したり、しかもその言い訳文(答弁)や質問文まで官吏の作文では国民は堪らない。しかも御上御用の公文書となれば反駁もできない。

じつは日本の権力の在り処は雲霞のごとく風に漂う蚊の大群もしくは、誰がボスなのか解らないイナゴの大群に似て、群れそのものの目的が食い扶持の安定的確保と保全に向かう始末の悪い状態だ。
幾らかでも為政者が識見を以て逆賭(ぎゃくと)を行うなら、先ずは綱紀粛正が筋だろう
しかし補完関係でしかなくなった為政者(議員)と官吏の関係はますます強固になってきた。
しかも公職選挙法の細かな規制を、ときに恣意的に運用する治安官吏によって生存与奪権まで召し上げられる立場だ。自分で縄を作るような規制を唯々諾々と立法する議員も思索も観照も問題意識がない状態だ。

つまり、官吏が言うことを聞かなくなっているのだ。
いや、聴いたふりして言った人間を満足させているのだ。
お手盛り給与や豪華な議員宿舎、選挙区には予算の便宜配分、顎足つきの視察と称する旅行、腹話術の人形なら金もかからないが、人間、とくに贅沢病に罹ると点ける薬もない。
こんな児戯に付き合う知恵者もさすがだが、実質権力の在り処さえ判れば児戯に付き合うのは容易いことだ。
これを当ブログでは「四患」として記している。






安岡正篤 氏


「税と警察の姿によっては、いかようにも人心は変わる。これを整えるのが両者の役割だ」と筆者に説いた。



最たるものだが、警視総監がパチンコメーカーに再就職したと記事にあった。もちろん手駒の一族郎党も後に続く。
あくまで博打場ではなく遊戯店と言い張っているが、博打のサイコロや札の製造元に武士の目付や奉行が食い扶持を求めたようで、十手をもった街道筋の親分も顔色を失う所業だ。
様々な所業は国民の知ったことだが、北朝鮮、拉致問題、パチンコ、天下り、規制、風俗許可、消費者金融、カジノ、と単語を並べると事情も見えてくる。
一方、青少年健全育成、防犯、交通安全、取り締まり、逮捕、覚せい剤、泥棒、万引き、駐在さん、殉職、となれば昔なからの敬する存在が浮かび上がる。










先に書いた鎌倉節元警視総監ならパチンコメーカーには食を求めなかっただろう。
日々精勤する実直な警察官も片腹痛い作業を続けている

想い出すのは震災時の原発作業員と経産省や東電の役員の関係だが、海外のジャーナリストは、日本の官僚制度内の差別格差、エリートの無責任と不作為がもととなる瑕疵は、現場の実直な作業員で補うものなのかと嘆息し、日本のエリート教育は失敗したと書く。

よく、「元を断たねば」という。
泥棒、万引き、自殺、サラ金被害、殺人、強盗、と犯種は判れるが、動機は金か感情のもつれが多い。最近では老齢者の判別能力の衰えが犯罪につながるが、元は医療なり家族の問題だ。その動機は金か感情のもつれと書いたが、近ごろの傾向はギャンブル、とくにパチンコパチスロの遊興資金が犯罪の元となることが多いという。また依存症は500万人を超え、精神疾患として大きな問題になっている。よりによってパチンコメーカーに就職するなど現場警察官の士気にもかかわる大問題だ。


政治も気が付かない。いや献金でコロガサレているとは思いたくないが、この元総監のメーカーは総理まで音頭を取っているカジノ議連、マスコミ、などと連携を取ってお台場のみならず、全国カジノ構想を企図しているという。

そこで現場の状況だが、鎌倉氏の推測は当たっている



≪警視庁捜査2課、贈収賄摘発ゼロ 今年濃厚、過去30年で初≫
2014年12月30日05時00分 朝日デジタル







終戦時の内務大臣 安倍源基氏 筆者は杉並区和田の自宅に度々伺い、警察のあるべき姿と慎むべき権力をの在り方を聴く




あろうことか、今年はゼロだという。巷で囁かれている交通違反の取り締まりノルマや、今は少なくなった拳銃摘発の競いや覚せい剤事犯の件数争いなど虚偽逮捕が頻発したが、稼業の情報協力もなくなり、その件数も少なくなっている。
もとより犯罪件数が少ないことは国民にとって幸いとすることだが、こと組織維持や予算獲得の見地からすれば手を拱いてはいられないはずだ。

それとも鎌倉氏の「警視庁は、サンズイは捕れない」という厳しいコメントは、ほかに何か意味するところがあるのだろうか。
よく事件の管轄権の取り合いがあるというが、検察特捜と警視庁の事件(ほし)の隠しっこと事件化に関する許諾関係もあるのだろうが、意地の張り合いで事件をバラバラにしたら悦ぶのは犯人だけだ。

それもあるだろう。それはいくら成果主義といっても現場の能力、つまり使命感と目的をもととした知恵を駆使した捜査力のたまものだが、それだけではない問題がある。

つづく
イメージは関係サイトより転載

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