まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

「永懐風義」 郷に格別の観在り 9 11/13再

2014-10-31 09:04:59 | Weblog


            
         蒋中正撰 永懐風義



                       

                       山田純三郎  孫文




    

   若き蒋介石と山田



墓前祭の前夜、津軽弘前の傑物と般若湯を一献傾けた。
何故、津軽は衰退したのか、という憂いがあったせいか机に支えた右手にもつ杯が口元に上がってこない。そんな真剣さがあった。




                 
 
         地元世話人 小笠原豊氏   原子昭三氏



ついつい役人の僕(しもべ)のようになって顔色を伺ったり、過大に依頼心を抱いたりする地方の人間関係にその因を求めたりするのが津軽のみならずその類の論になるが、趣は異なった。
かといって自虐的に特徴ある気候や気質を取り上げても進まぬ話でもあった。




            
 



それでも光明があった。それは倣うべき人物の当然な行動であった。
こんな会話である。
「いま自治体は独自性を出そうと躍起になっているが、どこもイベント盛りでしかも東京のイベント会社に丸投げしているところもあり、それが町おこしだと錯覚している。それはお上御用となった近在の町村もその流れに乗ることが町興しだと錯覚している。ことさら信じて疑わないのではなく、近在の長(おさ)が役所の提案どうりに住民を集め官製イベントを支えている姿に、たとえ意思が薄くても追従することが多いようだが・・」




               

              新寺町  貞昌寺


「どこの町もそうだか、まず予算を握っているところの指示が一番だ。準備会や協議会を設けても形式的なものだ。ことさら依頼心が強いわけでもないが御用の意識が強い代々の長(おさ)には逆らえない風土がある。そのせいか学生が東京の大学に行くと返ってこない。みな立派になる人は東京にいってしまう。これは雪のせいばかりではない・・」



             





「人が変わったと・・・」

「昔は一高帝大を出ても郷土のためと帰ってきた。そんな気風があった。司馬遼太郎さんだって弘前高校を志望して試験は落ちているが、引き寄せる環境はあった。吉田松陰も伊東梅軒を訪ねている。満州皇帝溥儀の侍従長工藤忠も津軽板柳だ。また当時の人たちは郷土歴史をよく身体に染み込ませていた。陸羯南、珍田捨巳、などを導いた菊池九郎、あるいは孫文を援けた山田兄弟など国際化の魁だった。
いまでもあの八百屋の旦那は東大で、下駄屋の親爺もそうだ。当時はみな故郷に帰って無名でも郷土の力となっている。日本で有数な詩人や画家も普通の人と変わりなく生活している・・」




           

              黒石市から八甲田へ


「その次の世代が続かないと・・・。そういえば日曜出勤していた役所の職員に、゛頑張るね゛と声を掛けたら、「妻と母親が買い物に行っているので・・」、゛どこへ゛と聞いたら、「飛行機で東京まで・・」と返ってきた。同世代はリストラの風に巻かれているのに確かに町興しを先導する役人がこれでは同世代の嫉妬や役所に怨嗟を起こしてしまう。全国金太郎飴の状況だがタクシーに乗っても店に入っても、゛仕方ない゛という話を聴くが青年の思いは、゛都会に行きたい゛が本音だろう・・・。これは景気がよければというハナシではない・・」




                 

          世話人 志村卓哉の献茶のおてまえ・・?



「孔子さんも新たな郷づくりに際して官吏にこう説いている。その根本は「外のもの来たる、内のもの悦ぶ」と端的に伝えている。幸いというべきか近頃は中華圏の観光客が津軽を訪れるようになった。この郷の歴史には来訪する方々と共有した歴史がある。それが今回の墓前祭でもある。どうか有効活用してほしい・・」

時は尽きない。ホテルの窓から俯瞰すると駅前は消費者金融の看板とパチンコやのネオンがひときわ輝いている。遠くの歓楽街は暗かった。空車待ちのタクシーは列をなしているか、乗降客はない。

だだ、人物は此処弘前だけでなく全国津々浦々に無名有力を冠として鎮まりを以って暮らしている。筆者を導いた佐藤慎一郎氏や、以前この顕彰の意に督励された安岡正篤氏もそうだ。その先輩達が決まって謂う言葉があった。
『一過性の事象を騒ぐだけでは国家は繋がらない。片隅でもその意志を堅固に持っている人物が居ることによって国は支えられている。そして世代を繋げることだ。いつか懐かしみをもって甦り、国家の援けになる。これは必然だ・・』

この頃の津軽は鉛色の空だという。しかし墓前祭当日は雲ひとつない青空が広がっていた。



            

               馮寄台代表



また、前日は台北駐日経済文化代表処の馮寄台代表が地元有志の案内で拝礼を行なった。
まさに歴史は共有し繋がっている。全中華民族を代表しその敢闘の精神を讃えた孫文の心も民族を超えて生き続けている。

不覚にも満座の前で落涙を留め得なかった筆者自身の津軽への旅は未だ終わることはない。






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産経NYから観る複眼

2014-10-28 17:36:28 | Weblog

台北中山記念小学校 生徒の自主運営の朝礼での国旗掲揚



10/26の紙面でニューヨーク駐在編集委員の松浦肇記者はコラム「複眼@NYC」でジャーナリズムの原点回帰と題して希文を記している。それは日本の新聞に乏しくなった調査報道についてウェッブニュース、ビジネスインサイダー(BI)を紹介している。

そのサイトは米大手ウォールストリート・ジャーナルを凌駕する訪問者がいるとCEOは発表したとある。
その大きな理由は、「ゴシップ系や他社報道の転用で知られるBIだが・・・・、アナリストやプログラマーを記者に据え・・・・、記事の特色はデーターとITの活用である」

その根幹となるのは貰い記事や官製記事の下げ降し、あるいは今流行りのコピペではなく、記者の意欲や切り口が重要な因を成す調査報道という、裏どり(裏付け、背景確認)がジャーナリストの慣性となっている。それは貰い記事や官製発表には虚偽が潜んでいるという前提であり、それが個人や組織が他に知らせるとき往々にして起きる装いを除き真相を知る彼の国の民主主義擁護の姿なのだろう


翻って、調和や連帯を人の寛容と、諸事は゛他人事゛に委ねる国柄においては米国のようなジャーナリズムは構成されにくい。記者も給料の出どころは読者と広告主、そして記事ネタを出してくれる治安機関などの官公庁だが、みんなで渡れば怖くないような記事かご褒美スクープで一喜一憂している旧態新聞社も我が国にある。
近ごろはウェッブ記事も盛んだがゴシップ系や他社報道の転用などのご案内記事が多く、調査報道も週刊誌なみの記事つくりになった。

以前、新潮の副部長と産経の某部長が訪ねてきた。地を這う取材で記事は完結主義の新潮と数十人体制の分派職掌の産経は記者気質も能力も大きくことなり、こと仕事話になると噛みあわない。部長は嘆く。「若い社員は、゛今どき゛とはいえ記者としての感性資質が乏しく教える側も難儀する。くわえ組織が大きくなると上も下もいる難しい立場だが、新潮のようにはいかない組織になっている」
仲の良い新潮の副部長は酔ったせいか追いかける。
「だいたいこちらのチームは十数人、上司がいい加減なら殴りもした。そんな気迫がなければ記事など書けない。だから裁判も多く抱えている。産経某部は数十人で何故そんな状態なのか、おかしい」と激昂する。

ちなみに副部長は某宗教団体からゴミ箱を漁られ、尾行さえされる。
小生と携帯連絡をするが、盗聴など互いに気にも留めない。
ちなみに副部長は早々と退職したが、口の悪い業界人は追い出しパーティーを大々的に催して野に放った。放たれた土佐犬のような彼は立て続けに世間の周知を得て読者を増やしている。前職が週刊誌ゆえか、真実に向かって地を這う取材を行い、多岐にわたって社会の問題点を突き、ときに歴史を回顧して日本人の情感を戦慄させる。座標は童心のような純情さだ。









雑誌のことだが、或る歴史の既成事実を、切り口を変えて書いたら、ある民族組織から廃刊に追い込まれた。広告は集まらないし批判も激しかった。新潮は裁判も勝ったり負けたり、支払い賠償金も多いが、筆は鈍らない。そこはアツモノに対して限界の境を知る歴戦の感性なのだろうが、知っていても書けないものは新潮にもある。また臭わせる術も知っている。
大新聞は品性を問うだろうが、要は怯むか突破かどちらだろう。
その緊迫感がなければ記者も育たないし、古典や俳句を解するような情緒性も生まれない。
だから、つまらなくなるのは当然だ。

切り口は異なるが、現代情勢の男性に対するアンケートは、金持ち、面白さ、易しさ(優しさではない)が上位だ。昔は高給、高学歴も背が高い、三高だった。結婚を目標にしなければ三高は、あれば有るに越したことはないが、うざい。
新聞広告は保険、美容、健康、車、などの当然ながらショッピングだが、近ごろでは宗教を背景にした出版広告が多くなった。

多くの広告主を求め、多岐にわたる読者に応えるためには分派、分裂気味の各部を誌面にちりばめるのだろうが、ここにフジグループの主唱する西洋博打(カジノ)の広告が掲載されたらカジノ顧客はともかく、観光立国などと装飾されたら読者はカジノ顧客予備軍となって流行りに迎合するだろう。





台北の高齢者施設 彼らが語る日本語の情感と仕草は素晴らしい



たしかに孔子は郷つくりの基本は「外の人来たる、内の人 説(よろこ)ぶ」と云ったが、ばくち打ちが大勢来て酒を飲んで女と騒いでも、誰も悦ばない。
聴くところによると、政治はそれを政策という、商売人は儲け話と云う、警察は規制利権と云い、瓦版屋は文化だ、繁栄だと騒ぐ。

いくら地球のどさ廻りの運動会が来ると騒いでも、博打場や英語の斡旋では洒落にもならない。
冒頭に記したBI(ビジネスインサイダー)にある
「それは貰い記事や官製発表には虚偽が潜んでいるという前提であり、それが個人や組織が他に知らせるとき往々にして起きる装いを除き、真相を知る彼の国の民主主義擁護の姿なのだろう」

「外の賊をはらうは易し 内の賊をはらうことは難し」と陽明は云う。
身内が他国の云いがかりに拘束されたことで自由と民主の大義を掲げるのは結構だが、内なる賊の退治に問題意識も持たない自称オピニオンリーダーの姿は、大義を言い募ればつのるほど読者の情感から離れてくる。
まして、経済や軍事の数字を他国と比較し、批判があれば大衆を恃み、食い扶持となれば権力と野合することは読者からずとも我が国の瓦版屋の風情と国民は気が付いている。
彼らは、深層に沈潜する真の国力の在り処を見過ごし、いや在ることすら知らずに人を惑わしている。

それは複雑な要因を以て構成されている国家を司る人々の情緒だ。それが整理がつかない、成文化されない問題として忌諱され毀損さえされているのだ

BIにも届かず、食い扶持素餐に勤しんでいては、国民は惑わされるばかりだ。
瓦版屋は利口者が多いと聞くが、「利は智を昏くする」(利ばかり考えると智が衰える)ことすら気が付かないのだろう。
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「まほろばの泉」検索キーワード 22.2/7稿再掲載

2014-10-11 12:32:03 | Weblog

検索キーワードは人名なり格言なり様々だが、この世間とは異風ともおもわれる領域に座標の異なる印象なり考察に縁をつなぐ方々が毎日二百人ほど訪れる。閲覧ページは五百に届くほどだが此処では数字の問題ではない。それより文学的にも歴史考証でも、はたまた各話題の関連性についても稚拙な切り口を人生の備忘録のように晒す吾が身に緊張感が走るときがある。

検索キーワードは膨大である。そこからこの拙章の客観的印象なり、読者の、゛むき゛が読み取れるが、筆者の備忘における執筆時点でのおもいや意図が全体の中の一部分、また現世や歴史経過、あるいは思索や観照の全体観から見た部分、つまり己の「分」が少しずつ解ってくる。よく自分探しというものがあるが探し方にも二通りある。

自ら独り辛苦を背負うなり、自然と対峙して試すなり、書斎に閉じこもったり、代表的なのは洞窟に入り黙想したといわれている達磨大師がその一方だが、他方、世俗にまみれて己の力量を悟ったり、なかには賞罰経歴を経るなど他との関連性のなかで己を知るものもいる。

じつは検索ワードに多かった「加藤三之輔」も酔譚に『人間は大病、疑獄、倒産を経れば一人前になる・・』と呟いている。その意味では誰でも望むものではない、゛おのずから゛という「自」の一面から原因、結果を読み解くなかでの反省なり、確証なりを行なっている。















逆に、゛みずから゛といもう一方の「自」の側面から形成されたとおもわれるなかに湯浅博という言論人がいる。産経新聞の記者だが出来事アサリやトップ記事を狙うブンヤと称されるものとは異質の人物のようである。検索ワードでも先の加藤氏と同様に多くの興味を惹いている。あの当時は紅顔?の青年だったが、近頃では口元に髭を蓄えシャレたスーツを着て斜に構えている写真を読者から送られたが、まだ眸は曇っていない。

巷の売文の輩や言論貴族が走狗に入り、多くの国民の妄動を「権」として糜爛社会の融解を先導しているが、食い扶持に堕している風もない。まだ口髭も高級スーツも彼の眸を中心に見ると七五三の童心が観得るのはそのためだろう。

何よりも文に義憤を包み込む日本的心情の薫りがある。「文は経国の大義にして・・・」そのことを押さえているかのようである。これは内面の独立心がなければ出来ないことである。だだ、商業マスコミのキャリアにありがちな社内元老院を忌諱し、かつ「名」を立てることより名を無にして銘を「無名の境」に置けるか、試されるステージが今後訪れるであろうが、先人に倣うとすれば陸羯南だと先のコラムに記した。











また、「安岡正篤」については「・・・の弟子」「六然」が多いが、筆者の体験備忘にある天邪鬼的切り口が世俗の興なり思索の一助になっていること汗顔のおもいである。

この手の酔譚、備忘、吐息に値する章はときとして利他に供することもあるようだ。
また、左右と定義された思想を問わず人間の生業(なりわい)に起因する問題を、現世の法自縛に安住する文明人の、゛頭打ち゛に、それを、゛打つ゛ものは己の欲望と考察するなかで、暴力団と括られた侠客や、固陋な長(おさ)の役割を人間集団の必然として取り上げ、封圧された動向に「壷中在天」の意を通知されたりもした。

「ある書家の・・」で三浦周重氏を記した。毎年越後の風雪のたよりを聴くと想起する鎮まりの逸話である。










訪れる方にとっては雑多な回想と映るかもしれないが、縁のなせる業(うごき)は現在の問題をスパイラルに過去と未来を上下させ、そして筆者なりの逆賭で行動している。
検索ワードは時を照らし、心は時空を飛び、その登場人物に押し出されるように口舌、文記、行動の糧として命を繋げさせていただいている。

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逍遥備忘録 北進から南進の転換過程をみる  終章

2014-10-02 07:35:19 | Weblog

≪※ ブログ抜粋其の三≫

単なる事件としてとらえてはならない。
国民党、共産党、日本軍だけが事件構成者ではない。
イキリス情報部M16の後ろ盾を得た国民党軍事委員会、“国際問題研究所”ゾルゲの謀略機関 〈所長 王梵生〉蒋介石直下に在った組織だが、総ての構成は共産党員

中国の情勢を作為的に変化させて(謀略)日本国内の決定を誘導して、いち早く情報として収集する(情報)
(目的) 北進を南進に転化するために、どうしても中国国内に誘導し国民党と戦わせ英米の反感を誘い、包囲網によって禁輸戦略をとり真珠湾、東南アジアに日本の戦端を暴発させたのである。(真珠湾奇襲3週間前に日時、司令官まで察知)

ソ満国境は重要でなくなり、安心して独ソ戦(スターリングラード)に軍備を転進させられたのである。 (ゾルゲの任務)
西安事件もそれら一連の戦略内にあり、戦後の中華人民共和国成立まで一貫した謀略戦があった。

「日本と支那が戦ってどちらが勝ってもアジアの安定はなく、西洋列強のアジア侵略に手を貸すのみだ」

孫文の意志を守っていた蒋介石も、謀略に軽々として乗ずる日本と、列強の影響力を利して巧妙な謀略を図る共産党の構図の、どうしても抗すことのできない謀略によって作られた事実に負けたのです。

ゾルゲ事件を日本国内の問題として取り上げても情報伝達や一面の意図しか描くことはできない。歴史からみた将来の国家戦略を考えた場合、大きな誤算を招くこと必至である。

日本の奢り、国民党の腐敗堕落、中共のソ連と連携した国際謀略、それはなるべくして成った現在の国家構成である。

まだまだある、以上は枝葉末節から小局、中局だが、見逃してはならない世界的構図は金融を始めとして現在の混沌とした社会の元凶であり、今以て継続しているものでもある。

上記は二国の情報戦としての問題だけではなく、アジア混迷の゛なぜ゛を解き明かす糧として例示しているようだ。










≪※  ブログ抜粋其の四≫

大謀は数百年の経過を経て、恣意的にも民主と自由の美名を投げかけ、思索と連帯を亡くした人間に対して投機的数字を以って、再び「管理束縛」の世界を企てている。
つまり、歴史は継続している。しかも悟られぬように・・
この資料は、戦後検証と称して紙面に連載している新聞社、公共放送、あるいは新聞社から依嘱して貰った大学教授すら解読できなかった。いずれ欧米からの情報の後追いに終始するだろう。

なぜなら人の吐息が感じられる臨場感があるため、資料として取り纏めされてないものについては西洋的整理、分類、検証には馴染まないため、異民族の性癖、習慣、などを加味しなければ読み取れない「謀の展開」が読み解けないのである。
なかには、吾が身の危険を感じて、安全定説に隠れる当世知識人の倣いもある。

ともあれ、このような資料は眺めることから、登場人物の臨場感を引き寄せることが必要となってくるが、始めから覗き、反論の具と考える向きは歴史活学、ひいては異民族との交流史にみる人間の行を、単なる文章化して、゛知の位゛を得るだけに堕してしまうだろう。
何よりも記録のために歴史は作動してはいないからだ。



≪本文≫
機会があるたび数年前より度々現代に類似する事柄として筆者の備忘録に取り上げた。だだ、それさえも偏した切り口である。なぜなら直接登場人物に会い、また師事を仰いだ関係者もいるからだ。まして知は食い扶持のみの具ではないため当事者を想起すると逡巡もある。
また、当時の文筆世界の雰囲気は実際の体験者から聴取したことでも、「人の記憶は曖昧」「証拠がない」「日時か違う」と見向きもされなかった。あの三田村氏の「コミンテルンの謀略云々・・」を書いても読者は理解の淵に届かなかった。あの満州国経営を担った岸信介氏でも「知らなかった・・・」と述べている。まして東条総理でさえその実態はつかめなかった。


その後、戦争世代の多くが亡くなるにつれ徐々にインタビュー形式の著作が増えてきた。曖昧なところは小説という姿で興味をそそった。若い美麗なカメラマンが特攻花と呼ばれ特攻出撃兵士に手渡した野花が中継基地に咲いていることを若者のインタビュー形式で追いかけた著作があった。数年して似通った形式でゼロ戦搭乗員の縁者を追跡した「永遠のゼロ」が多くの読者を呼び、門田隆将氏は「太平洋戦争三部作」で当時の実態を聴取し著作とした。

こちらは売文ではないので部数を競うこともない。耳にタコができるくらい「無名かつ有力であれ」と厳命されたためか、体験備忘著作なり寄託資料を保存しつつ臨機に起章している。けち臭く小出しにしているつもりはないが、理解や活學、利他に応用があってこその記聞であり、当事者からの応答体験から受納した社会の観察認識があるからだ。
それは、当時でさえ固陋との印象がある作業だったが、義父の称徳文を作成し、今思えば思いかけない縁で安岡氏の添削をいただいたことからである。
まして安岡氏が巷間云われているような人物とは知らなかったため、初面の応答に何ら卑屈迎合も緊張感すらなかったことで柔軟な受容ができたからだとおもう。

三度、読み直して傍らの赤鉛筆を手に取り「直してよろしいですか」と簡潔にいう。
必要な個所に朱を入れて目の前に出された。オンも流れも良くなった。すると・・・、
「文章は巧い下手ではない。いまどきの理解を得るために易しく書いたり、流行りの感情に迎合してはならない。君の至誠が五十年、百年先の有為なる人物がみて利他に貢献できるなら、至誠は通じ、生きるものだ・・」このような訓導と記憶している。
同伴の岡本義雄氏も同感して帰路「俺でさえ初めて聞いた金言だ。また先生には参った」と驚いていた。
つまり現代の人間をどう見るかの問題だが、安岡氏が存命なら巷間書店に並ぶ商業出版の安岡ブランドは決して許可しなかっただろうとは、旧交の学徒の言である。





岡本義雄氏




ならば標題の内容の多くを遺し、度々送られてきた佐藤慎一郎氏の生原稿や聴取記録、あるいは、五十歳も隔たりながら縁あった大陸の関係人脈の応答備忘録、また前記の安岡氏との邂逅と先輩門人との交誼など、図らずも舞い込み、時に寄せられた貴重な資料は面前の容姿、声音、仕草とともに甦り、思わぬ関係人脈と複合された。
官製学の履歴の集積を忌避し、旧世代の亡失を嘆き、「明治に逢え」と青年期を過ごした。
それらの人物から学ぶことは、許容と寛容、突破と義侠、そして自他の厳存を知り利他に励む学びだった。もちろん多くの秘蔵資料を、矜持を添えて収受した。その多くは求めずとも自ずと差し出されるものだった。
「何かに役立つでしょう」皆、そういって渡されたが、期待に押しつぶされそうな時もあった。かつ、資料の由縁や、当時の置かれた立場と秘する逸話など、今でも語るに憚れるものが多かった。


安倍源基内相が二二六事件の特高課長の頃の逸話は自宅でのことだ。教誨師花山信勝氏は巣鴨での内情を語った。関東軍の片倉衷氏には成文化されなかった事変の事情を聴いた。
佐藤慎一郎氏の会話記録は膨大な音声記録として備忘し、一部は自費出版として有為なる人物に贈呈した。安岡氏も多くのことを呟いた。稲葉修氏は便所の立ち話が面白かった。五十嵐八郎氏は児玉誉士夫、岡村吾一、岩田幸夫、笹川良一各氏の関係交友を聴き、赤尾敏氏にも逸話を聴いた。ビール仲間の卜部侍従には皇室の奥の逸話を聴き、下中邦彦氏には東京裁判のパル判事との深い交流を聴いた。

等々、数多の明治生まれの近代史の体験証言者だ。しかも成文されたものではなく、息がかかる近さで般若湯と体験談が肴の経験だった。よって今でも習い性になったのか、酔いはするが酔っぱらわないつまらぬ男と云われることがある。総じて金とメンツと女が歴史の岐路に潤いを与えていたことも幾分理解した。また、学究や趣味の専門分野もなく、体系的に整理することのない特殊な人間学的な経過ゆえ、人の理解の淵に届かないことが多くある。だからだろうか、海峡に対峙する両政権の幹部とも人情を語り、ときに世界の中のアジア観などの夢物語を語ることもある。ことは如何に流行り事情に惑わない普遍的座標を持つことだと多くの明治の賢人に倣ったからだろう。それは言葉ではなく背中学でもあり、脳味噌の集積ではなく、浸透学のようなものだ。









今年(平成26・5月)に老著述家の遺物整理の中で偶然発見した著書があった。
※以下は満洲での工作について元憲兵大尉工藤胖(くどう・ゆたか)氏の著書から抜粋する
参考記載ゆえ、重複部分の説明を省き、章は抜粋、簡記、説明付記す。



十二月八日の太平洋戦争開始、つまり南進はソ連の苦境を救ってやるだけで、日本に何ひとつ利になるものはない、不本意でならなかった。この思いは関東軍参謀も同じで、第一課の一人は南方への転勤命令に憮然とした表情で「俺は北進のために南進するのだ」と私にそう言って転勤していった。

・・・日本の最高政策を北進から南進に返させた背景の説明には、ソ連が最も日本の北進を恐れた時期に行われた。北進阻止の対日謀略のことについて深く及んでいる公的な戦史はない。
近衛首相のブレーンだった尾崎秀実が朝日新聞記者の立場を利用して、紙上で北進より南進をと論陣を張ったことが、後に朝日から満鉄調査部に移り、ソ連スパイのゾルゲの最大な協力者になったことが判明して、謀略だったことが気づいたことが報じられた程度である
。・・・

しかし、このことが判明し、検挙されても、なぜ処刑を遅らせて謀略工作の全容を解明できなかったかとおもう。理由は尾崎もゾルゲもソ連邦英雄として学校には記念館を設置し、肖像を並べて救国の行為を讃えている。(S55.10/15毎日)

開戦後、南進したため対ソ積極的諜報活動を縮小した機関(筆者の名をとった憲兵隊諜報機関「工藤室」)は郵便検閲で満州の元共産党員の情報を得た。首謀者は満洲国農事合作社の主事、佐藤大四郎だった。
佐藤は日本共産党に入党、青年同盟の編集長、3.15事件に連座して獄中で転向、満州に渡る。在満の同志と謀り地下活動をしていた。この件で検挙したが人柄も良く非を認めたため「最低限の処置が適当」との意見書を添えて送致した。
その彼が憲兵隊での取り調べ中、問いもしないのに次のように語った。



「昭和十六年六月二十二日、独ソ戦が始まって以来、日本がソ連に進行しないようにあらゆる手段をもって工作すべしとの指示を受けた。満鉄調査部からシベリアの農作物、畜産事情の現状と、将来の見通しを報告書で提出すべく指令が来た。
自分は独ソ戦の旗色が悪いので、ソ連の弱みに付け込んでシベリア進行するのだと考えた。
そこで、「シベリアは史上稀な不作で将来も好転しない」と、暗に食料の現地調達は不可能との報告書を精細なデーター(虚偽)をつけて書いた。それは大本営にも提出されたとおもう」

当時、七月七日、関東軍特別大演習の始動もあり80万人の軍が編成された。この時点では関東軍は北進を意図していたことは間違いない。シベリア占領を想定して対住民治安警察、コルホーズ内の自警団の育成要綱などを作成して訓練していた。
このころ東條陸相は七月の御前会議の決定をうけて陸軍作戦要綱を八月九日に内示、十一月をめどに南方準備を決定している。満州に集結した兵員は徐々に南方へ転身し、関東軍の北進の夢は崩れた。

この御前会議資料作成の段階で出された佐藤の資料を求めた満鉄調査部は、尾崎が在籍し、北進阻止の材料に佐藤のレポートが重要な判断材料として提出されたのではないかと思うのである。

・・・・ドイツは日独防共協定に順って矢のようにシベリア出兵を催促してきた。陸軍はこの状況に応えて関東軍特別演習を企画した。在満の内外人は誰一人演習だと信ずる者はなかった。
ドイツのモスクワ侵攻が遅滞するとソ連は勢いを増し、尾崎らの工作によって関東軍は南方に転出し、ソ連は危機を免れた。
決定は東条の任だが、その決定に影響を及ぼしたのは佐藤のレポートと尾崎の工作であり、その要素は大きかった。









佐藤大四郎氏の自供
御前会議は十六年七月から十一月まで十数回開かれている。関特演で緊急に開かれた会議で陸軍の南進派(主に統制部)は理論的に北進派(皇道派)を制した資料として、満鉄調査部が提出した砂糖作成の虚偽資料が有効だった。東条陸相は「糧を敵地に求める」という陸軍伝統の作戦がシベリアでは通用しないと主張し、北進政策転換を図った。
尾崎氏は「日本軍部の暴走はやがて行き詰まり、次は自分たちの時代だ」と云い、それに共感した私は尾崎氏の意図するように資料を作成した。シベリアの農作物資料を至急求められたとき、尾崎氏が求めている考えが伝わった。北進を阻止することは同感だった。尾崎氏は近衛元首相と親しく、軍の北進を阻止する意図が分かった。
私はシベリアに調査目的で行ったこともなく、文献類と云ったことがある社員の話を聞いて作成した。



彼らは獄中でも闘志は衰えず、たくみに思想を表に出さず、思考の単純な右翼や軍の要人に接近してその庇護を受け、商社や国策会社に就職して思想転向を看板にしている者もいる。
学識知識のある転向組は有能な日系として人望を集め、満州国の発展に寄与しているかのようだったが、秘めた思想は満洲の大地で生き返り巧妙にも共産党再建を展開していた。







以上が工藤胖氏(1907青森生)の記述にあるゾルゲ事件にかかわる満州での謀略考である。
通常、憲兵は兵の監察や治安維持と思いがちだが、工藤氏が係る問題や事件において、被疑者である漢人、満人、日系の人たちが、みな工藤氏に吸い寄せられるように工藤氏の協力者のようになる普遍な人情がある。上司は工藤氏の特質を生かすために特別諜報機関「工藤室」を設置した。協力者の多くはソ連スパイの転向者や現地人だった。そして生き方を変えることはなかった。「人情は国法より重し」と、普遍無私な態度で現地の人たちに敬愛された佐藤慎一郎氏も同じ香りがする。ふと、工藤性は青森津軽に多いので著者紹介を開いたら、やはり青森県だった。佐藤氏も弘前である。
新京で工藤鉄三郎氏や佐藤氏、伊東六十次郎氏ら同郷の雄と同じ空気を吸っていたと思うと、妙に近しい感慨が浮かぶ。

当時、多くの青森県人が渡満した。満州溥儀皇帝の忠臣工藤鉄三郎氏も津軽板柳出身だ。
弘前の東奥義塾は明治五年に外人教師を招聘して英語を教科としている。あの孫文側近の山田純三郎も弘前だ。進取の精神あふれた青森の教育は、工藤胖憲兵大尉のように異民族の信頼を得る本(もと)の涵養が豊富だったのだろう。

工藤氏の著書を含めて複合的に考察すれば、ブログ抜粋其の四を想起する。且つ四角四面の検索や論拠を求めても何に活かすのか判然としないままに、いたずらに歴史記述の添削や校正をしても人の吐息は無くならない。
思いもよらず関わった人、命令に殉じた人、人情にほだされた人、いろいろな事情はあったが、皆、一生懸命だった。騙すも騙されるも皆、時の縁だ。
痛い、怖い、負けたくない、いろいろあるだろうが、みな眼前の時代に翻ろうされ、多くの人物は亡くなった。遺したもの、滅したもの、成文記録もあれば、音声もある。
また、それらは時の都合で解釈は変化し,都合よく改ざんもされる。
結果はいさかいを誘引し、争い、戦禍になる。

だから、ときに愚かにも見える人間の歴史は遠く眺めるものだと考える。
恥ずかしいことや迷惑をかけたことがあったら、謝る前に自省することだ。
生まれついての敵はいない。ただ、人は事情を抱えたとき止むに止まれぬ行動を起こすものだ。かといって標記の題にある、北が南に替わっても、あるいは北に行ったとしても今の世は訪れる。それは歴史を俯瞰することだ。

ともあれ幾ら企てても、天変地異には人間は抗することができない。
きっと登場人物は「何の地位か、どんな人生を描いているのか、何をしているのか」自問したはずだ。だからこと無名で薄学な若僧に口の乾くことも忘れて語ることで、自身を確認したかったのだろう。あれもある、これもある、脳髄を絞り出すように想い出を辿っていた。
多くの資料も滞貨となっている。筆者もまた同じように若者を捕まえて伝えるのだろうか。

終章

イメージは桂林 他関連サイトより転載
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逍遥備忘録  北進から南進への転換過程をみる  其の八

2014-10-01 17:19:10 | Weblog
原文どおり □ は,判読不明
□ 原文より  
研究所は
王 梵生 主任中将
龍 徳柏 主任秘書少将(情報を見てから王に見せていた。日留学生 反共)
☆ わざと反共をおいてボカしていた。
洪 松齢 第一組長 経理、人事、秘密通信
☆ 研究所の実権は洪が握っていた。
袁 孟超 第二組長 情報整理(ソ連留学生)

羅氏は当時、重慶司令部の少将参議をしていた。
王とは日本留学生の時から友人。 王から重慶に招かれて国際問題研究所に外事室をつくり少将参議の資格で主任を兼ねていた。
その間、いろいろなことが起きる。即ち龍徳柏は洪に追い出される。
洪の部下と龍を喧嘩させて洪は両方を追い出す。

 その後釜に上海から顔高地を呼ぼうとした。
顔はもともと戴笠の部下、無断で辞めて、王の上海ゾルゲ機関で情報交換の仕事をしていた。
顔を重慶に呼ぼうとしたが、戴は憤慨して上海で顔を逮捕してしまう。
このようなことで、その後主任秘書は空席となる。
わたしは(羅)は外事室で情報交換をやっていたため第一組から苦情がでる。
本機関(国際問題研究所)の情報が他に解ると、暗号も解ってくる。
それでわたしに辞めろと言ってくる。辞めさせられそうになる。

外事室を辞めて第三組をつくり、わたしは伍長になる。
新聞、雑誌の研究のみをやることにした。
30数名の組員をおく。わたしは機関の中心から外される。

ところが、偶然の機会が起きる。
洪は王の妻、鍾賢英と喧嘩をする。 日本大使館時代からのことである。
重慶で洪はいばりだした。太々(妻)は洪を小間使いと思っている。
洪の決めたことに王は従わぬ訳にいかず、常に王は洪に譲歩していた。

太々がわたしに、ある日
シンガポールから来た手紙をわたしに見せた。
シンガポールに王機関から派遣されていた唐 伯清(中国共産党)からの手紙である。

 洪と唐は湖南の津市の人である。密接な関係がある。

唐はシンガポールにいく前に、洪と二人で津市に紡績工場(数万香港ドル)を作った。
工作費をごまかして作ったものである。唐が香港で機械をかう役目。
シンガポールから、唐が洪にこうした機械を買ったとの報告である。
唐はシンガポール出張前に、王と洪との変名を約束する。
唐は両者の名前を間違って覚えてしまった。
それで洪にたいする報告が王に来た。 それを王の太々が見る。
太々はわたしに相談する。 わたしは太々に知らん顔をしていなさいと。

  わたしが戴笠に会ったとき、わたしは紡績工場のことをほのめかした。
(戴笠の機関「軍統」に外事訓練所があり、わたしは教官として日本事情をやった。)
戴から王に手紙がくる。
洪が戴にやった手紙を王に送る。
この手紙には、わたしはもともと戴さんの部下。王の部下ではないから、
戴さんは直接指揮してくれ云々。 この手紙を戴は王に送ってよこす。
このことがあってから洪は中共では低い地位。王は洪と会わなくなる。
唐は中共では洪より上。唐の手紙の間違いはわざとやったと洪がおもった。







第一組 経費、人事、秘密通信の暗号
第二組 情報整理


そこで、わたしは王に提言する。
主任弁公室をつくり人事、経理、庶務をやることに提言する。
陳 適生(王のいとこ。学歴は無いが、口が堅く、頭がよい)
陳はわたしの言うことを聞く。その下に王の親戚を入れる。
第一組の洪はそのまま残したが、実権はなくなる。
そのため、わたしは一切の情報を見ることができた。

あとで日本は真珠湾攻撃をする。わたしらは 三 週 間 前から知っていた。 ☆

  この情報は、上海満鉄調査所の 中西、犬養 → W(中国人)→□ 恩承(汪精衛の上海駐在のとき汪の立法委員をしていた)→顔高地(無電暗号で重慶によこした) Wは□とも王とも呼ばれているが、現在も不明。

 わたしは戦闘の上から下までを知っていた。総司令、寺内など知っていた。
いつやるかは判らなかった。
いつやるのかと上海に聞いてやった。
10日ぐらい前に、12月8日やると返事。
日本軍の決定より先に知っていたのは今もって不思議である。



それで夜半わたしはこの情報を蒋介石委員長に届ける。
翌日、王は米駐在武官が、常徳会戦の戦跡を見たいといったとき、
王は、「 芝居がすんだ舞台を見るより、面白い芝居上演がされるから暫くまて、と、
今後の舞台は、もう中国ではない。君らのほうだ、と」
武官はこの話を真面目に取らなかった。
「王は日本の参謀総長でもないのに、日本軍の配備まで知っている」と、笑った。
ところが、的中した。 それで王は世界的日本情報の権威者となってしまった。



日米開戦となり、国際的情報機関(米、英、中、合作の機関)をつくりたいからと計画される。
王は中国を代表して入ろうとしたとき、英はこの案を蹴飛ばしてしまう。
米と一緒にやっては、情報がバレてしまう。秘密が守れぬ国だと。
中米機関(成立したかどうか解らぬ)
中英機関(王とFindle andrews駐英大使館一等書記官)
中ソ機関(漢口時代から有った)1 フィトロフと楊 宣誠
2 〃 と張 冲 (死亡)









中英機関の正式名は、『 軍 事 委 員 会、 国 際 問 題 研 究 所 顧 問 室』
顧問室の下に、
第一処長 羅
第二処長 馬 天劉(現在、ワシントンの大使館にいるはず)
第一処内部機関
第一課長 平澤 蔭(不明、共にあらず)総務、秘書、人事、経理
外部に派遣および工作
第二課長 伊 華公(元 佛印領事)整理
第三課長 鐘 奇 (不明)研究

外 部 機 関
第一区 東北、華北
◎主任 顔 高地(どこに居るか判らない、中共にいるとおもわれる)
☆→ ここのみは、もともと王が直接、建設した組織である。ここの内部のことは 一切聞かないように命ぜられていた。

第二区 華東
◎主任 □ 侃曽(終戦後、唐山市長をやり国民党に殺される)  
☆→ 始め第二区は徐 明誠の推薦で張 子羽(張 叔平のこと)終戦後 今井? と□ 江で会議した人。現在 香港にいる。父は清末の吏部尚書の張 伯煕 湖南人

第三区 華南
◎主任 徐 明誠がやり、国際…から、わたしが出てから徐と、張 子羽と一緒に第 一区をやる。

第四区 西南
◎主任 張 紹楚 共産党、現在不明

第五区 東南アジア
◎主任 陳 海平 華僑、現在不明


第二処 翻訳(英文に直す)処員 15名
顧問室事務長 越(蒙古の老人) 顧問室内の会計 庶務
副 〃 陳 鉄錚(元 代表団三組副組長 現 商人 東京)

第一区はもともと ゾ ル ゲ機関、ところがゾルゲが検挙されて、まもなく顔の上海電台も日本憲兵から手入れを受ける。
検挙しておいて、皆、放免する。
条件は『日本軍のつくった情報をそのまま重慶(国府軍)に打電せよ』
一例 “日本は何月何日、対ソ戦争を始める”世界にこの情報を流せ


わたしは第一処を別に作る。(王に隠してやったが解っていた)
羅の上海主任 徐 明誠(兄)共 現在、香港の文□報の主筆(徐□成)は弟 わたしは周佛海の周辺から情報をとる。?

日本の河南作戦直前、ソ連のスターリングラード作戦中に、王はわたしを日本のスパイだと言い出した。
わたしは研究所におられなくなる。ところが英は承諾しない。
結局、英はわたしに個人的に組織し、経済的に援助するといってきた
軍令部に伺いを立てたら、やってもいいというので、国際知識社という個人機関を作り、「国際知識」という雑誌を出した。
一方は軍令部(顧問)、もう一方は英と契約する。
経費は英より金条で、月百本 一本は100匁
軍令部から権威をもらい、英から経費をもらってやる。その組織は、第一処そのままである


日本では和平工作のことを、中国では誘降工作(ユウコウ、友好と同音)といっていた。
蒋介石はすべて平和を口にするものは漢奸といっていた。
それで、日本の和平工作のことを重慶にいった人は誰も口には出せなかった。
中国共産党は、和平工作をできるだけ、反対、破壊をした。
中共のやりかたは自分の手でつかんで、破壊する工作。いわゆる、自分ですすんで和平工作をやって、結局、いよいよという時に、破壊するやり方をとった。

孔翔キ、張群、重慶の大公報 張李鸞の周辺はいつも共産党に取り巻かれていた。
なかでも張李鸞は直接、香港で交渉したので、日本も乗り気になっていた。
例えば
徐明誠は張李鸞工作に直接参加して、情報をわたしに持ってきた。

日本側は、近衛は天皇の意志を奉じて、各重臣の賛成を得て実川を奔走させている、と。

当時、青山和夫の意見は、天皇、廃止論
青山は、国際問題研究所に勤務していた。軍事委員会の正式な顧問団の一員として招聘されていた。 王が連れてきたもの。
集めた情報の判断を青山がしていた。頭は鋭い。鹿地よりずっと上席。
鹿地は騒ぐだけ、山師的。
青山は重慶の米軍と関係を持っていた。

国民党中央宣伝部に対敵工作委員会があり、天皇に対する最高政策はここで決めていた。この委員長は、宣伝部部長が兼ねてやった。部長は薫顕□、呉国権らがやっていた。

 委員は、軍司令部第二庁々長 鄭介民、外交部亜東司令長 楊 雲竹
政治部第三庁々長 郭 沫 若 研究所 王 梵生(王を代表して出席していたのは謝 南光 軍令部顧問として羅 以上のようなメンバーである。

天皇廃止論は青山の意見に一致しかけた。

 わたしは(羅)
「中国は、日本を滅ぼすつもりならそれでよい、でなかったら日本をまとめる力が要る。天皇だ。天皇のために戦う日本兵である。天皇からやめろと言われればやめる。」


  青山の主張は、
「日本の天皇は大きい専制力を持っていて、ロボットではない。総理大臣は元老の言によるが、天皇の意志に反して推薦はしない。
それに、天皇は三井、三菱より大財産を持っている。三井、三菱の中にも天皇の財産が入っている。天皇の特務機関は頭山る。
  頭山は破壊をやっている。 司法当局も頭山の身辺には及ばない。身辺が危なくなると宅内者から逮捕してくる。うやむやに済ましてしまう。
 天皇はロボットではない。将来、日本を民主国家にするのなら天皇を倒さねばならぬ。

 
結局、わたし(羅)の意見でまとまる。
それで、和平工作は天皇のやっていることは承諾される。?

 今一つの困難は、蒋介石の平和を言うものは漢奸とする問題である。
蒋介石の意志は、日本にだまされては困るというのが本意である。もう一つの問題はそのことによって、英米との援助関係が壊れては困ることである。

わたしは英と相談した
その当時、日本から英のヒ機をやっつけろという情報をしきりにあり。
わたしは、東条英機をやっつけろと解釈した。

結局、英米は日本和平工作に賛成をした。 わたしは徐に返事をした。
第一 天 皇 親 政
第二 満 州 事 変 以 来 お こ し た 、 責 任 者 を 日 本 の 手 で 逮 捕 す る
第三 天 皇 は 正 式 に 英 米 華 に た い し て 、 平 和 を 求 め る


この条件を日本が飲むかどうか、それによって次の返事をする、と。
日本は同意したが蒋介石の正式な返事を要求する。
日本が誠意を示すために、東条をやめさせるつもりであるが、後任として中国が希望するなら、推薦してくれ、といってくる。
東久邇内閣にすれば、蒋介石の正式書面を出すといってやる
軍令部の鄭介民らの主張であった。


つづく
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