まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

人間考学  死刑囚はIQ33だったが・・・

2015-10-27 12:07:03 | Weblog

天皇の御進講  杉浦重剛 「倫理御進講草案」著

 

ある刑務所の所長を歴任した方の述懐である。

 

裁判で死刑が確定して執行までの期間はさまざまあります。

 よく、地裁から高裁とすすみ最高裁まで長い期間を要するが、各位での判決に不服があると控訴を行い、なかには控訴中に亡くなる人もいます。ここでは検察官の求刑に不服申請(控訴)をして最高裁まで争うことですが、刑事事件の多くは判決を受容し刑に服することになります。だだ、近ごろ問題になっている冤罪ですが、近年の科学捜査と違い、自供なり提出証拠に疑問があり、被告も無罪を主張する場合は、なかなか刑の執行が適わないこともよくあることです。(帝銀事件など)その場合は数十年のわたり拘置され続けることになります。

 

 標題の死刑囚の犯罪要因は判りませんが死刑判決は重科だったとおもわれます。

 歳も若かった死刑囚は判決後の収監中に当用漢字を総て修学し、かつ和歌を詠み新聞社に投稿して高い評価を得たそうです。

 

 元所長との会話では事前に行うIQ(知能指数)評価が話題になりました。

 いまは交通講習などでもEQ評価が取り入れられていますが、落ち着き、観察、対人関係、社会順応など、本来の社会生活では必須な習慣性などを比較評価することのできないことでも、不特定多数の生活習性や観察点などを数値によって傾向を認知してもらい、社会に混在する他との関係性を広く、深く、考える視座を、ここでは更生の観点で活かそうとする試みも行われています。

 

 その能力の特異、普遍のこととは別に、自身も知らなかった能力を発見する機会、能力を発動する(発起)する心の動きと環境の設定も考えてみました。

 死刑囚は、IQが低いから罪を犯したのか、もしその境遇でなければ和歌を詠む情緒性と事象を観察する理性があったなら、どうして発揮できなかったのかが疑問でした。

 また、世俗の人間ではとうてい適わない読破と記憶、そして活用についての不思議感がありました。それは決して外部観察でもなければ囚人対象と云う目線でもなく、学歴や知識の多寡が附属性価値となっている時世への戸惑いでもありました。

 

 

 

明治以降、多くの様式が近代化の装いとして拙速にも摸倣採用されました。軍制はドイツやイギリス、法令・医学はドイツ、フランス式の学制も啓蒙思想とともに渡ってきました。

 それは。過度でもあり、カブレと云ってもよいくらい急激な、国家創成期の中央集権による強圧的変更にもみえました。

 山高帽に紋付き袴、足元は革靴、富国強兵の装備もそうです。それを文明、つまり西洋文明模倣の開化と云われた文明国の文明人の出現です。

 模倣の順応度ですが、籠に草鞋と下駄、髷に腰には二本差しが、三十数年で世界一強大と云われたロシアのバルチック艦隊を全滅させています。

 当時の指揮官は今どきの大学にもいきませんが、士道と勇敢さは浸透していました。

 藩校・塾・寺子屋では頭で学ぶだけではなく、学んだらどのようにして行動するか、それが評価の要でした(浸透学)。また責任の取り方も自習しました。知識や技術は後についてくるもの、いや何時でも習得できるもの、先ずは学ぶ前提の本(もと)を精神に浸透することに集中しました。狼狽えない、むやみに競わない、騒がない、人のせいにしない、いたずらに金品を求めない、など醇なる精神の維持と涵養を学びの基としました。

 

 下士官や兵士はどうでしょう。彼らの多くは農家の次男、漁師や商家の子息です。皆兵は前職を問いません。それらは武士の藩校でなく、郷の塾や町の寺子屋で学びましたが、読み書きも堪能ではありません。航海術や砲術、ましてや造船や西洋戦術など知るすべもありません。他国も同様でしたが、当時、未開と蔑まれた亜細亜の有色人種が西洋文明の凝縮された軍事知識や技術について、こうも短期間に習熟できた要因は何だったのでしょうか。

 

 ここで死刑囚に戻りますが、類似点は、いつ訪れるかわからない生死の緊張感、だからこそ生きる意味を見出そうとする精神の集中、そして恐怖からの逃避と向き合う時に訪れる達観に類する解放感、それゆえに邁進する己が描く人物像への使命感があります。それは生まれ変わった自分の姿を描く、仮の物語の想像でもあったでしょう。まさにセカンドチャンスの仮の現実です。

 兵士なら、たとえ敵であっても人間を毀損することへの戸惑いと我が身に置き換える忠恕、そして生死を懸けて守るべきものへの愛顧があったでしょう。なぜなら時の縁にしばしば訪れる禍福を、゛生きていればこそ゛と、考えられる環境でもありました。

 

 その集中と緊張、加えて協働の心は、軽薄な精神論を祓う自己探求でもあったはずです。

 漢字の習得と和歌の投稿は、囲いの中にあったとしても気持ちは社会の分として「自分」を発見したのでしょう。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              

 たとえ身は不自由でも、贖罪を知らしめるすべを発見した囚人は、不自由な環境だからこそ今まで気が付かなかった潜在する良心と下座からの社会を俯瞰視できたと思います。

 それは、社会では観ることもなかった自身の内面を知る機会であり、知ること、作ることの

 愉しさとなって、終いには、自由で独悦に至ったようです。

 

 世間は死刑囚が、IQ30代が、と驚きますが、心の観点では導き出せる内容です。

 じつは、この章を想起したのは、先ごろ米国のニューヨークの刑務所の囚人が近郊の大学のディベート(討論)カリキュラムを学び、公開の場でハーバート大学のメンバーに勝ったとの記事をみたことが始めでした。

 世界の識者も、「あの優秀なハーバードの選抜されたエリートより囚人がまさった」と、天地動転のごとく驚愕しています。だからと言って勝ち負け自体、それが無能だとか、優秀だとか言っても始まりません。それがどのように活かされるかが大切なことなのです。

 

 日本の法務省が主となる更生保護事業でも、「不幸にして罪を犯した方々の更生」と唱えます。この不幸については、「幸せではない」ことですが、今どきの幸せ感は欲望が遂げられるかどうかが大きな要因となっています。もととなるのは「性と食と財」です。そこから派生すれば、グルメや蓄財によって幸せ感を共有するためにあらゆる手立てを考え、何ら人格を代表しない「地位、名誉、学校歴、財力」で我が身を飾りたてます。現示的には、家・車・衣装・ときに単なる、゛知ってる゛だけの情報量も手段になるでしょう。その枝になると、身体的には整形や運動で肉体改造したり、虚飾で装ったりもしますが、ここまでくると人間関係では詐欺的行為として非難の対象にることもあります。

 

 それらに縁がなければ、妬みや嫉妬となり対象を貶めたり、毀損したりする行動に進みます。

 万引き・置き引き・ひったくりなどのダイレクトな窃盗行為も起こり、強盗傷害、殺人までおきます。巧妙で狡猾な部類は、地位を利用して贈賄・収賄など、地位を利用した犯罪も起きますが、動機はギャンブルなどの遊興です。公職者が行う狡猾な行為などは、自身のみならず国家を衰亡させる汚れなき犯罪も多くなります。この部類はIQ数値も高く、「知った、覚えた」類の学歴もこの種の陰険な犯罪には有効となっています。

 

 欲望の充足が幸せ感となり、互いに比較して競う、人間の習性を用いた外的誘因が多様になり、比例して「内を知ることもなく、外を知ろうとする」つまり、浮俗に流動する、あるいはあえて流れに乗ろうとするために、外的刺激を求める切迫感のような状態がみられます。

 パチンコでいえば射幸心、妄動する情報誘導の氾濫、架空現実(バーチャル・リアリティ)を演出する音声や映像媒体など、「外」において自己を自制することが難しくなっています。

 王陽明も「外の賊は破るに易し、内の賊は破るに難し」と、欲と邪心のコントロールの難しさを云っています。

 

 しかも「内」となる心が「外」に翻弄され、本当の自身の特徴すら見いだせなくなっています。よく金もないし、ローンもある、子供を育てるのも大変だ、だから面倒なことを考えられない、と云われますが、「将来、自分はどうなるのだろう」は、よく聴く呟きです。

 これではIQはともかく、客観的自己観察であるEQですら試みることは難しいはずです。

 EQは心(感情)や行動の比較評価を指数に表わしたものです。IQは低くてもEQは高い人がいます。

 

 逸話ですが、鶴見俊輔という哲学者が父の祐輔氏のことを「父は秀才だったが、その過程の競争で友人などへの感情的意識を失くしたようで、作句(俳句)などは詠めない」と語っている。母は後藤新平の娘でことのほか厳格、それゆえアメリカに留学と称して逃避、長じて大衆運動や評論の世界に入っている。母は厳格、父は数値エリートの家庭は置き場がなかったと述懐している。

 台北の小学校 

 

 ここに中国近代革命の領袖孫文と俊輔の父、祐輔氏との会見を抜粋します。

 日本外交の重鎮として、孫文の語る熱情とは異質の感性が漂う会見でもあります。

 

≪本文 天下為公(副題 請孫文再来)ブログ 寳田時雄著より抜粋≫

“ 聞く耳持たず”とはこのようなことを言うのだろう。

 佐藤は慚愧の気持ちをこめて資料をひもといた。それは伯父、純三郎と同様な見解をもつ孫文と政治家 鶴見祐輔の会見録である。

 大正12年2月21日、第三次広東政府の大総統に就任した直後の会談で鶴見はこう切り出した。

鶴見「あなたが現在、支那においてやろうとしているプログラムはなんですか」

 孫文らしい駆け引きのみじんもない言葉で

「60年前のあなたの国の歴史を振り返って御覧になればいい。王政維新の歴史。それをわたしたちが、今この支那で成就させようとしているのです。日本さえ邪魔しなければ支那の革命はとうの昔に完成していたのです… 。過去20年の対支那外交はことごとく失敗でした。日本はつねに支那の発展と、東洋の進運を邪魔するような外交政策を執っていたのです」 

鶴見「それでは、日本はどうすれば良いとおっしゃるのですか」

 孫文は毅然として

「北京から撤去しなさい。日本の公使を北京から召喚しなさい。北京政府を支那の中央政府(袁世凱)と認めるような、ばかげた(没理)ことをおやめなさい。北京政府は不正統な、そして、なんら実力のない政府です。それを日本が認めて、支那政府であるとして公使を送るというごときは明らかに支那に対する侮辱です。一刻も早く公使を撤退しなさい。そうすれば支那政府は腐った樹のように倒れてしまうのです」

鶴見「日本が他の列強と協調せずに、単独に撤退せよと、あなたはおっしゃるのですか」

「そのとおり、なんの遠慮がいりましょう。いったい、日本は列強の意向を迎えすぎる。そのように列強の政策に追従しすぎるので、惜しいことに東洋の盟主としての地位を放棄しつつあるのです。私は日本の20年来の失敗外交のために辛酸をなめ尽くした。それにもかかわらず、私は一度も日本を捨てたことがない。それはなぜか、日本を愛するからです。 私の亡命時代、私をかばってくれた日本人に感謝します」

「また東洋の擁護者として日本を必要とする。それなのに日本は自分の責任と地位を自覚していないのです。自分がもし日本を愛していないものならば、日本を倒すことは簡単です…」 (アメリカと組んでやったら日本を撃破することは易易たるものだ…と述べたうえで)

「私が日本の政策を憤りながらも、その方策に出ないのは、私は日本を愛するからです。私は日本を滅ぼすに忍びない。また、私はあくまで日本をもって東洋民族の盟主としようとする宿願を捨てることができないのです。しかしながら、打ち続く日本外交の失敗は、私をして最近、望みを日本に絶たしめたため、支那の依るべき国は日本ではなくロシアであることを知ったのです」

 日本の対支那外交について問う

鶴見「それでは、あなたは日本が対支那外交において絶対不干渉の立場をとれば支那は統一されるとお考えになるのですか」

「それは必ず統一できます」

鶴見「しかし、その統一の可能性の証拠はどこにあるのでしょう」

 堰を切ったように孫文は意志を表明する

「その証拠はここにある。かく申す拙者(自分)です。 支那の混乱の原因はどこにあるか。みなこの私です。満州朝廷の威勢を恐れて天下何人も義を唱えなかったときに、敢然として革命を提唱したのは誰ですか。我輩です。袁世凱が全盛の日に第二革命の烽火を挙げたのは誰ですか。我輩です」

「第三革命、第四革命、あらゆる支那の革命は我輩と終始している。しかも我輩はいまだ一回も革命に成功していない。なぜですか。外国の干渉です。ことに日本の干渉です。外国は挙って我輩の努力に反対した。ところが一人の孫文をいかんともすることができなかったではないですか」

「それは我輩が真に支那の民衆の意向を代表しているからなのです。だから日本が絶対不干渉の態度をとるならば支那は必ず統一されます…」

「あなたが日本に帰られたら、日本の青年に伝えてください。日本民族は自分の位置を自覚しなければいけない。日本は黄金のような好機会を逃してしまった。今後、逃してはならない」

「それは日露戦争の勝利です。あの戦争のときの東洋民族全体の狂喜歓喜を、あなたは知っていますか。私は船で紅海をぬけてポートサイドに着きました。そのときロシアの負傷兵が船で通りかかりました。それを見てエジプト人、トルコ人、ペルシャ人たちがどんなに狂喜したことか」

「そして日本人に似ている私をつかまえて感極まって泣かんばかりでした。 “日本はロシアを打ち負かした。東洋人が西洋人を破った”。そう叫んで彼らは喜んだのです。日本の勝利はアジアの誇りだったのです。日本は一躍にして精神的にアジアの盟主となったのです。彼らは日本を覇王として東洋民族の復興ができると思ったのです」

「ところが、その後の日本の態度はどうだったのでしょう。あれほど慕った東洋民族の力になったでしょうか。いや、われわれ東洋人の相手になってくれたでしょうか。日本は、やれ日英同盟だ、日米協商だと、西洋の強国とだけ交わりを結んで、ついぞ東洋人の力になってくれなかったじゃないですか…」

「しかし、私たちはまだ日本に望みを絶ってはいない。ロシアと同盟することよりも、日本を盟主として東洋民族の復興を図ることが私たちの望みなのです。日本よ、西洋の友達にかぶれてはいけない。東洋の古い友達のほうに帰って来てください。北京政府援助の政策を捨てなさい。西洋かぶれの侵略主義を捨てなさい。そして満州から撤退し、虚心坦懐な心で東洋人の保護者になってください」

「東洋民族の保護者として、自分たちは日本を必要としている。そして今、自分たち同志が計画しているように“東亜総連盟”は日本を盟主として完成するのです。それには日本が従来の謬った侵略政策を、ことに誤った対支那政策を捨てなければなりません。それまでは、いかなる対支那政策も支那人の感謝をかち得ることはできないでしょう。支那人は深い疑いの念をもって日本を眺め続けるでしょう」

 だまされ、裏切られても信じられた日本および日本人は、はたしてどのような日本人を指しているのでしょうか。しかも遠大な志操のもと鶴見に託した“日本の青年に告ぐ”言葉の意味は、現代でも当てはまるような国家としての「分」の教訓でもある。苦難の中で自らの「分」を知り、その「分」によって自己を確立させ、暗雲が覆うアジアに一人決然として起こった孫文の意志は、まさにアジアの慈父といえる悠久の存在でもある。

 

             山田純三郎孫文

 

 この抜粋ですが、一つの応答辞令として観察すれば、鶴見氏はインタビューアーとして質問形態をとっている。しかし、これは会見である。一方は日本政府の政治家であり外交にも秀でたリートである。今では台湾・中国から国父として讃えられている人物である孫文が、日本に対して革命者らしい情感に期待を込めて、しかも、日本の考えるべき立場へも言及している。いまの対中外交には非難や迎合が通り文句となっているが、このような真摯な対応ができないものなのか、どうも数値エリートの屯する官界や、それに追従する瞬間反発の得意な売文と称せられる知識人を彷彿とさせる会見でもある。孫文は吾を言う「語」り、鶴見は舌が言う「話」のようです。

 

 前記した討論(ディベート)はたしかに説得力を養う教育的なものだが、公開で優劣を競うとなると、卒業後は商用取引や外交交渉でも応用される弁術のようなものだ。また、その為のMBA(経営学修士)であり課題を与えた討論なのだろう。もちろん客観的評価が重要な位置を占めてはいるが、社会なり組織なりでの応用効果は、ひとえに用とする人間の資質に問うものであることは云うまでもない

 例えば、勝ったから、言いくるめたからと云って、意見を切り捨てたり、排除したら、部分に意味は生じても、全体としては無意味な徒労になることもある。互いに讃えあったり、縁の継続があれば相互に向上したり、扶助する関係に進展する可能性もあるからだ。

人心、人格、信義の重要さを知り、とくに精神の独立、人格の独立、出たとこ勝負で己を偽り、相手に従うことの不可、しいて相手を己に従わせることの不可を、こころの深遠なところで反省すべきだろう一読書人の節操 梁巨川先生殉世遺言録より

 

 数値エリートの特徴は課題を与えられれば説明し得る答えが導き出す能力があることだ。基礎知識があり、応用能力があれば、事前知識が豊富な法が早く答えを出し、論理にも厚みがでるだろう。だが、面前の与えられた課題を観察する位置、つまり切り口によってその課題は論理で埋め尽くされても、ときに柔軟性を失くす場合がある。

 その場合、いかに課題の発生する因を多面的、全面的、将来的にみることによって、従前の問から答えへの経路を通らなくても、真上か落としたり、下から突っついたり、空間からみた課題の多様性を含む答えなり表現ができることがある。

 

 とくに外交や商談の面前応答には必要なことだが、説明や報告、あるいは記録義務が付いて回ると討議や応答までが四角四面になってしまうきらいがある。段取り(準備)の手順はともかく、事を納めればよい場合は、とくにその点に注意しないと握手や礼にある心の友誼をなきものとして感情まで引きずり出してしまう危険がある。とくに異民族との応答辞令には気を付けなくてはならないことでしょう。

 

 それは事物や現象を「知っている・覚えた」類ではなく、いかに自己の特徴に照らして応用なり活かすことができるかに掛かっている。人類は80億人に届こうとしている。しかしナンビトでも同じ人間はいない。よってすべては異なるものだ。調和や連帯をつうじ複雑な要因を以て構成されている国家なるものもある。しかしそれさえも類似した主義や生活形態をもつものもあるが、生死の分別や矜持については個の独立なくしてあり得ない。

 つまり「他と異なることを恐れない意志」そのための学びと、全体の一部分を認知して自他の厳存を知ることこそ大切なことではないだろうか。

 

「自他」の他とは、人類のみならず、宇宙観、地球観、人間間、そして秘奥の内心をたどりみる境地の問題です。

 

 楽しみ、食べる、蓄える現示価値に没入する前提に、かつ標題の指数評価とは別の、今は無きカリキュラムである人間学的素養の涵養を改めて勧奨するものです。

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安岡正篤が唸った無名の「一日一言」其の二 ⒏ 2月再

2015-10-16 09:13:13 | 郷学




安岡氏は
「この金言集は単なる知識学ではない善行実践の銘とすべき岡本さんの言行録でもある。しかも逡巡することも無く習慣化している。如是我門とはおもしろい。」


冒頭はこの言から始まっている

以下、《・・》注訳、ルビは筆者
子罕曰く 《孔子は利益と天命と仁についてはめったに口にしなかった》
「罕(カン)」(まれに、めったに)

「貪らざるを以て寶と為す」
《我欲を放縦にして名利、財貨を貪らないのが心の寶だという気概である》
 

【賢 愚 月 暦】

一、賢は為すべきを成し、愚は為すべかざらるを成す。

二、賢は貪らざるを以て宝となし、愚は金玉を以て宝となす。

三、賢は苦言を噛みしめ、愚は甘言に使に便乗する。

匹、賢は己れを信じ、愚は己れを欺く。

五、賢は万物に感謝し、価は不平不満で日を暮らす。

六、賢は身心を磨いて道光を放ち、愚は爪を磨いて金色の夜叉となる。

七、賢は愚を庇い、愚は賢を嘲笑う。

ハ、賢は災害の未然防止に心を砕き、愚は災害の跡始末に狼狽える。

九、賢は礼節を弁え、愚は節度を知らず、思慮はなはだ浅し。

十、賢は人に処すること藹然、愚は人に処すること冷然。

十一、賢は詐らず、愚は詐りを以て智ありとなす。

十二、賢は機先を制し、愚は後塵を拝す。

十三、賢は善例を創造し、愚は前例に執着す。

十四、賢は失意の時は泰然自若、愚は失意の時は徒だ呆然。

十五、賢は仁の足らざるを頂礼、愚は金の足らざるを怖る。

十六、賢は利他を重んじ、愚は利己を先にす。

十七、賢は聖賢の書を愛し、愚はエロ、グロ漫画に耽ける。

十八、賢は善を布き、愚は悪を捨てる。

十九、賢は受けた恩義と羞恥は生涯忘れず、愚は咽喉元すぎれば何でも忘れる。

二十、賢は苦境に落ちて希望に燃え、愚は苦境に入ると怨嵯に燃える。

二十一賢は冗を省き、愚は冗を助長する。

二十二、賢は自然を愛し、愚は自然を破壊すに捕われて分別なし。

二十三、賢は奢侈を慎み、愚は奢侈を以て福ありとなす。

二十四、賢は怯まず、愚は怯を以て守ありとす。

二十五、賢は争はず、愚は争を以て勇ありとす。

二十六、賢は血税の濫費を恐れ、愚は血税の濫費を以て政治と心得る。

二十七、賢は身命を尊重し、愚は身命を汚辱する。

二十八、賢は意中の害虫を殺し、愚は身中の害虫を養う。

二十九、賢は力めて息まず、愚は休して怠る。

三十、賢は忍従に耐え、愚は忍従を逃避する。

三十一、賢は良識に勝れ分別極めて解明、愚は貪欲に強く人情に薄く、事物に囚 われて分別無し

 以上三十一項を以て賢と愚の月暦となす。

 何時の日か、誰かこれを見て反省のよすがになれば甚だ結構。

 

【如是我門】
《経文の冒頭にあり通常は「我聞」だが、岡本の場合は「我が門、かくの如し(人の説いたものではない、自分の意志だ)、との強固な表現となっている」

急がず、 躁(さわ)がず、 争わず

撓(たわ)まず、 怯(ひる)まず、 阿(おも)ねらず。



【優国賦】
《優れた国に授かったもの、あるいは詠むもの)「賦」(ふ、生まれつきとも)》

一、
良識とは、「文珠の智恵」のこと。則ち犬自然に順応し、賢明腺、裁量腺、神気腺の寄って集って滔々と流れる三腺合流をいう。
要するに、阿ねらず、怯まず、貪らず、天地神明に誓って毫も恥ぢない言行。

二、
叡智とは、法を以て律することの出来ないない事態に際し、速やかに善例を創造し、これを一刀両断に裁量する神気をいう。

三、
日本国民とは、日本国籍を有し、厳に放埓を慎み、善法に順い、常に感謝、欣労、奉仕の念に徹する人々をいう。

四、
福祉を阻むものは、

《岡本のいう「福祉」とは介護、扶養の意ではなく、「祉」神がとどまって国民が幸せなことだと言う。つまり神がとどまるような社会を阻害する人々に言は向けられている》

イ) 悪法といえども存続する限り、これに順い改むるを知らぬ愚か者。

ロ) 自国の古い伝統を疎かにし、蔑み、嘲笑い、徒だ一途に他国を礼讃する放将至極の不良の徒。

ハ)極悪非道、即ち詭弁、禁労、左翼(3K)

二) かばん、かんばん、めくらばん、(汚職、虚飾、無責任)

ホ) 愚政、招災、無頼漢、(亡国、呆然、傍若無人)

福祉を阻む「放埓」を自由と看倣し、看過する限り、愚政は愚政を産み、遠か
らず国家は売国奴の手中に渡るであろう

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安岡正篤も唸った無名の「一日一言」 8 2/9 再

2015-10-13 09:31:36 | Weblog

    角の丸くなった積み木




安岡正篤氏は無名有力を「郷学」の基本として座標軸の一方を下座、もう一方を俯瞰にその観点に置くことをよく説いていた。
また思考の三原則として根本的、多面的、将来的に観る(「見る」ではない)ことを促している。その逆は枝葉末節、一面的、一過性の現世価値である。

2月3日のブログで紹介した岡本義雄氏との交誼は岡本の烈行、安岡氏の督励が多くの善行を導いたと記した。

それは、今どきの偽弟子のように、゛謦咳に接した゛゛教えを受けた゛はたまた、゛安岡正篤、最後の弟子゛などと称して人脈、名利の構築に勤しんでいる輩には、到底見ることの無い「学んで行なう」真の知識人の姿でもあった。また安岡氏も好んで岡本と懇談している。岡本とて安岡氏の立場を斟酌し、決して氏の表層を汲み取るわけでもなく、「貪らず」を心中の宝として弁えた行動をとっている。

ここに手のひらに入るぐらいの冊子がある。表題は【白帆は往く】とあり、「往く」は、゛目的を明確にして゛という意味でもある。
命名は京都の文人、島岡剣石翁によるものである。
島岡翁は岡本に以下のように添えている。

  真帆片帆 
  島かくれゆく須磨明石
  人磨大人の産れたる
  大和の国のまほろばの
  心に生きる この仁
  神気の道にこぼれたる
  言の葉拾う 奇言集


岡本はこう序文に綴っている

 明治四十年四月十六日、奈良県御所市に於いて吾この世に生をく。

得難きは人生なり。アァ(口へんに意、感嘆、歎き)、生命の尊厳。

朝な夕なに天を仰ぎ、地に伏して唯々、感激の涙を覚ゆ。

今日只今、還暦過ぎて早くも十年、愚鈍の身に鞭打ち、惨苦の幾山河を乗り越えてきた。

省みてつくづく思うに、羞かしきことのみ多く、冷や汗背をウルオ(サンズイに占)し、今更悔ゆるも詮かたなし。

これ宿世の縁と諦めてみるものの、時に又、すぎこし方や行く末を想ひ浮べ、独り感慨無量になる。

老生、身の程を忘れ、先哲偉人、恩人の金言を無断借用申し上げ、僅かにても後進のお役に立てば、せめて勿怪(もっけ)の幸いと存じ、無礼を憚(はばか)らず、恥を承知の御免を蒙(こうむ)り敢えてこれを記すことにした。

これを見て、怒る人、嘲(あざけ)る人、貶(けな)す人もあるだろう。中には笑う人もあるだろう。とかく浮世は様々だ。人生イズクンゾ躊わん。陸の涯には海がある、海には悠々白帆も往く。

以下、次号

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コンプライアンスという魔物 08 7月28再

2015-10-07 10:33:00 | Weblog

 
    若者は汚職腐敗官吏を国家の賊として「官倒」を叫んでいた 筆者撮影


始めに聞いたのは、たしか金融機関の外交員からだった。
法の基にある機関や組織の法令順守だが、ここに来て教員の就職昇進にまつわる汚職がスポットとして挙げられている。

地方に行くほど縁故、つまり以前は職域人情であったものが、財物を贈ることによって知識人に有りがちな非人情を納得させるラインが、暗黙の数値化されているるようだ。「正」は「一」に「止(とまる)」と書くが、その意は「決して超えてはならない一線」もしくは「これだけは行なわなくてはならない」という一線である。

それを行為として行なう「政」によって治めるのが政治である。何も難しい論を引くものではない。ちなみに「経済」は経世済民の簡で、民を救う意もある。

縁故といえば、警察官もその子弟は警察官、地方役人は役場、消防署、農協と「公」に就くことが多いようだ。゛間違が起きない゛゛出自が明確゛が前提らしいが、最たるものは世襲議員だろう。

なぜ、このようなことが起きるのか・・・

【安定した食い扶持】が最たる要因である。

近頃の母親の教育目標は「公務員になりなさい」が最も多いと聞くが、隣国の宦官も募集に際して、男性器を切り取って仕官しているが、世の中が糜爛してくると女性は利に目ざとくなり、子はその満足の具として使われるようだ。
「お受験事件」や「三高」現象も、雄の子を萎えさせる最たる要因でもある。

しかも、「一官九族に繁える」といって、一人が仕官すれば家族親族がその潤いに与れるのもその因だろう。近頃では良知などではなく、悪智恵こそ、゛頭が良い゛といわれる時世だが、前記コラム「五寒」に記した「女レイ」(女性が烈しくなる)に一致する亡国の姿でもある。

憲法によって制御される権限負託者が、コンプライアンスという成文法を逃げ場にして狡猾に利を確保し、身内に継承する愚は公意識の崩壊ならず、無謬性を唯一の価値とした信頼さえ融解させている。


【時期と的を得た活学になろうかと、前記コラムを参照していただきたい。
そして、世の中を上空から眺める気持ちで次の時代を推考していただきたい】



昇(しょう) 官(かん) 発(はつ) 財(ざい)

官吏は昇進するたび財を発する、また民はそれを嘲りつつも倣うものだ

己れ自身を正すことなくして、天下万民を指導することはできない。
私利私欲を抑えながら天理と一体になってこそ、万民の意に添うことが出来るはずだ・・
・日本の経済繁栄と同時に、公々然として氾濫しているのは「偽 私 放 奢」だ。これを除かなければ政治を行おうとしても、行う方法がない・・
                           (文中より)


【学問の目的】


1.沈徳元(西太后の籠担ぎをしたことのある宦官)は、何のために勉強させられたか

 彼は、撞州(直隷省天津府の州の一つ)県城の人。県城の自分の家の本家沈萬春の塾で、7才から11才まで、五年間勉強している。
 読まされた本は
《三字経》(童農書、一巻、南宋の王応麟撰)、
例えば「養いて教えざるは父の過ちなり。教えて厳ならざるは、師の惰りなり」など。
《百家姓》

《大学》
(古聖賢が述作した儒教の書、四書、つまり大学、論語、孟子、中庸の一つ。

《礼記》
(“礼に関する理論と実際を記録した書”の一篇で、学問の根本義を示す)
 
《中庸》
(経書、四書の一、礼記から中庸篇を独立させたもの、孔子の孫子思の撰とも伝えられている。天人合一の真理、中庸を説く前半と、その具体的運用である誠を説く後半とに分れている)

《詩経》
(中国最古の詩集、経書の一、撰者不詳)

《論語》

?「塾の先生は、“学問の目的”をどのように教えたか」
『“書中、自(おのず)から黄金あリ”と教えた』

?「学問をするのは、徳を磨くためでは、なかったのか」
「いや、徳を磨くためだ。“徳”は 得”なり。何か自分に得るものが無くては、それは本当の徳ではない、“書中自ら黄金あり”とは、本当であった。
でも、それほどではなかった。ただ、真心などというものは、実に幼稚なもので、利口な知慧には、かなわんという事が分った」

?「でも、うまい知慧とか、・言葉巧みに人をだましたりするより、へたくそでも誠を守り通した方が、よかったんじやないか」
「じょうだんじやない。利巧にたちまわらなかったら、死んでしまっただろう」

?「では、折角読んだ本は、投にたたなかったんだね」
「いや、本を読んだからこそ、その時々の巧い知慧も言葉もわいてきたのだ」と答えている。
 
彼の学問の目的は金銭にあり、一切の行動の目的は、金銭を目標にしたことから離れ
ていないことだけは、はっきりしている。

中国では、もともと
「徳は本なり、財は末なり」(大学)
で、学ぶ者にとって、他の修得は根本の問題であり、お金は末節のことであるというのが、儒教思想であったはず。ところが、この沈徳元のばあいは、それとは全く反対のようである。
そんなことでは
「鳥は食のために亡び、入は財のために死す」(中国の俗諺)
という俗諺と、それほど違いは、ないようである。


2.  学問の目的-食、色、財を得るため(真宗皇帝の勧学文)

中国では、学問の目的に就いては、古来いろいろな教えがあったようである。まず儒教の教えに聞いてみることにしよう。

儒教とは、修身高家治国平天下を招来するための学問であろう。
孔子(前552~前479年)は
 「汝は君子の儒となれ、小人の儒となることなかれ」(論劃、雍也)
 と教えている。
 “小人の儒となることなかれ”とは、大局を忘れて、自分一個人のことしか考えないような学者には、なるなと云うことであろう。

君子とは、他の高い、天下を以て己れが任とする指導者のことであり、“君子の儒となれ“とは、そのような天下に忠をもった社会の指導者になるような学者になれ、ということであろう。要するに儒教における学問の目的は
 「修己安人一一己れを修め人を安んずる」(論語、憲間)
 ということであろう。朱子(1 1 3 0~1200年)は
 「修己治入一己れを修め人を治める」(大学章句序)
 と言っている
 
とくに前漢の第七代武帝(前14 1~前87年)が、儒教を国教としてからは、儒教の重みは一段と増し、その影響力は大きくなっている。
 日本人は、現在の中国人を理解するばあい、どうしても、このような儒教思想を通して、理解しようとしているようである。

私自身の理解によれば、現在の絶対大多数の中国人の心の底を黙々として、しかも強烈に流れているものは、儒教思想ではなくして、むしろ極めて現実的な道教思想のようである。
 道教とは、中国古有の神仙思想を根本とし、黄帝、老子を祖とし、陰陽五行説を取り入れたりして、不老不死を求め、錬金術(仙薬としての金を錬る)ト笙(占い)、祈祷などまでも取り容れている多神教である。
 このように道教は、中国古有の民族思想に基きながらも、専ら功利的な現世的御利益を目標とした宗教であり、しかも今日の中国民族にも、はっきりと濃厚に生き続けている極めて現実的な宗教である

とくに、唐の第一代高祖(6.L8~626年)は、自分の姓は李”であり、道教の始祖老子の姓もまだ李”であることから、道教を格別信仰している。
 そのため、道教は道教の範囲を越えて、儒教の聖人や、仏教の菩薩までも、その管轄下において、国家宗教的な色彩を濃厚にもつようになっている。

以下 連載(全10章)を参照していただければ幸甚です    

昇官発財➡

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漁師の呟き  官制学エリート・・?    09   10/2再

2015-10-06 09:16:50 | Weblog

■風を観る

 はたまた非合理かつ非科学的とおもわれる話だが、歴史の栄枯盛衰を史実のデーターとして集積し、その思考の基として瞬時の直感を働かせると、組織、社会やそれを構成する民情の動向が「風」のように例えられる時がある。風の表現は冷暖、強弱あるいは薫風もあれば臭気として漂い閉塞した状態を表すときがある。
 古の粋人は「清風の至るを許す」と風鈴に短冊を吊るして俗界の煩いごとから遊離した境地を愉しんでいる。

 風は性質として「気」を運ぶが、化学的な物質や目に見える現象のほかに、「気配」といって何かを感じたり、察したりする状態の中で「気」はどこからくるのかという『検索』や、何から発生するのかという『原因』、あるいは自身に当たる感度『認識』や、風向きから流れる方向を推測する『先見』が読み取れる。
 
稚拙な例えだが海釣りに出た沖合いでのこと、現世評価でいう無学で老齢な船長が雲一つない晴天を見上げ、「あと1時間ぐらいでシケになる」と言ったところ、乗合のエリートサラリーマンが折角の豊漁に水を指されたためか、「そんな馬鹿な、今日の予報は晴だ」と、早速、モバイルでアクセスしたが、やはりデーターは晴れ。
「船長、根拠は?」
と無学な船長に向かって理路整然とした科学的根拠に基づいた言葉の説明をもとめた。船長は
「ともかく帰らないと」
納得しないエリートは番号案内から気象庁に問合せをするが、データーを基に「・・・でしょう」という判断予測をするばかり。
 久々の休暇で釣りの楽しみより漁獲量を是とするエリートはモバイルを通じた情報とデーターによって好機の持続を描いたが、船長の体験を集積した予知能力には叶わなかったのはいうまでも無い。
 
 それよりも船長の自然予知能力は、人間力の欠如した都会人にとって、まさに忘れ去られそうな英知と言うべき真のインテリジェンスを感じさせずにはいられない。
 無学と言っても高学歴と対比するものでなく、「無限大」「無尽蔵」に例えられ「無」であろう。
 あえて情報エリートの対立を争うものでもなく、知識や真のインテリジェンスを貼り付けたような官制学校歴の浅薄な知識、技術に委ねることもない海男独特の直感があった。

 エリートの手元にはカーボン竿にモバイル、そして気象予想を生業とする専門家というべき予報官からの情報のみに我が身を委ねる騒がしさは、船長の『威風』さえ届く事がない。
 船長が感じた今風エリートの姿には、次なる忌まわしい異風の訪れを察知したに違いない。

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台湾侵攻企図と日本人

2015-10-02 10:49:09 | Weblog

小泉進次郎氏  馬総統

 

外電ではチベットの軍事施設では台湾台北の総統府近辺と同じ規模の構築物を作り、人民解放軍による侵攻作戦訓練が行われているという。

総統府を取り巻く道路、外交部などの政府関係の建物など、精巧に模写された建物群がつくられ、空陸による軍事演習が行われていると、伝えている。

 

米軍も中東の市街地に模した構築物をつくり演習している。ソビエト連邦(ソ連)当時は米国の某都市が精巧につくられ言語は英語、生活は米国調で、ファッションも似せていた。

日本も精巧さでは負けていない。軍事基地ならぬ遊園地、デズニーランドだ。システムが精細なマニュアルとして、入園者も米国流に慣らされる。米国でさえ採用しない理念を持った憲法でも順化応用すれば、このような国になるとモニターされた日本だが、デズニーなどは容易いものだ

 

中山記念小学校 台北

 

 

本題から外れたが、標題が現実味を帯びている。

気が気でないときにはどうするか・・・

逢場作戯」が今までの行動だ。その場その時に応じて演技することだ。

また、弱いものが強いものを倒すのは「謀略」がある。

最期は知らん顔をする。刺激に鈍化する。あの北京の渋滞で横道から出ようとしても一瞥もしないで車間さえ空けようとしないで、まっすぐ前を向いているドライバーのようにだ。

 

米軍と共同で行う洋上訓練や上陸奪環作戦だが、これも対象を明確にしないが、北朝鮮と中国だと解る作戦だ。意志と能力を暗に知らせる行動だが、力が拮抗しているときはまだよいが、標題の台湾と中国では脅し、威嚇を超えた実践訓練として映る行為だ。

 

前記の逢場作戯だが、よく見るのは抵抗なき意志を見せるために迎合するか、相手の敵を共通なものとして叩く行動がある。とくに権力あるものや武具を備えているものに出る傾向だ。とくに内政と外交にヤジロベイのようなバランスと、風見鶏のような力の方向に向かざるを得ない立場では、つねに難題を抱えざるを得ない。

 

当てどころのない者には言いがかりも出しにくいが、構えたり(準備)したりすれば、それは掛かって来いと思いたくなるのも常だ。電車の中の狼藉ものや、肩をいからせる者にもそれなりに抵抗理由が整うようなものだ。

大国でありながら、勝つことも承知の謀略もある。ベトナムのトンキン湾事件やイラクの大量破壊兵器の偽情報、クリミアも理由は様々だが、ここでは巻かれ(引っかかる)ることはままあることだ。満州事変での柳条湖や、北進から南進への政策転換に見る特務謀略、日本への経済封鎖から真珠湾への誘因など、錯誤を誘い、相手からの一撃を誘う巧妙な手段は数多ある。

ある特務の呟きだが、朝鮮戦争も局地戦ではなく、本来の目的は日本に侵攻することだった。大陸の乳房のような半島の道は知恵も通過するが,元寇や共産軍もやってくる。日本も明に向かって秀吉軍が入り、ロシアも日本も攻守は互いに半島を経由した。

 

貌は二面性がある。片手にバイブル、もう一方の銃剣は西洋の勢力だが、こと標題の台湾には広大な商業市場というグランド誘引と、ミサイルがカードとなっている。

一度は裸になって市場を開放して浸透融解する手法は大陸政府の得意な手段だが、島礁国が裸になって大量流入策をとったら、政体なるものが機能しなくなるのは目に見えている。それでも財貨の欲望をネタにして巧妙に国内を変化させて同化を図っても、気が付く人々は反旗をひるがえすのも、これまた必然。

 

最期の土壇場は侵攻奪取が常だが、これとて国内問題として国際社会は認知してしまうだろう。時代は違うとの論もあるが、人民に銃を放つ人民解放もあるのだから歴史は繰り返すだろう。必然につける理屈はいくらでもある。

 

 

双方に思惑がある。日本にも資財収益の欲望と名分の主義もあるだろうが、そこで筆者は、地域の軋轢と分断という課題について四角四面に構えることなく、かといって無関心を装うことでもなく、縁を得て棲み分けられた台湾の人々の下座において考える歴史的考察が必要と考える。それは他の政体を持つ地域と異なり、良質だった頃の多くの種(シュ)を育てたところだからだ。それは、情緒、言語、社会の仕組みなどだ。

 

ことさら当時の国家的政策だったからと放言するのは容易いが、浸透したものが残存するのは。それなりの意味を見出すからだ。なにも先進国が清国にも煩いを持たれていた未開の地にいらぬお節介を焼いたとは思わないが、近隣友邦として当時の日本人が精励したことは事実だ。それは70年を経ても義捐や訪れる人への親和心として残っている。

それは、古い残滓として括られる植民地政策の倣いこととして切り捨てられない、台湾においても深層の国力、つまり情感となっている

 

生徒主催の朝礼での国旗掲揚

 

その意味で標題の台湾侵攻は、我が国の現世利益や思惑を超えた情感喪失の危機とみるのだ。

あの頃、台湾は匪賊と疫病のはびこる地域だった。

翻って、我が国の現在の煩悶は、政体の弛緩と、言いようのない公徳心の衰えだ。

あの震災時、現地に飛んだ台湾関係者は、まず生活手段として現金の配布を考えた。

配布先を特定するために役所を訪れ、住民の現況を尋ねた。案の定、「個人情報」という言を盾に知らされることはなかった。

台湾もそのことは解っていたので、直ぐに知恵ならず己の足を使った。

批判などしている暇はない、直ぐにでも手渡したかった。機関に渡したら間引きされるか遅漏するのが関の山、それも日本人が持つ煩悶の気持ちと同じだったが、彼らは目的のために諦めなかった。そして、配って歩いた。「一人何万円だから家族は何人?」

いまでも援助団体や機関に滞留している義援金だが、彼らは経費すら受け取らない。

 

日本人教師の殉難 六士先生の碑

台湾民生長官の後藤新平は防疫のため清潔、整理、を伝えた。後藤が教えた清潔、整理、の生活習慣は、いまでも日本以上に残っている。

放射能の疑いがある禁輸地域の農産物に偽装ラベルを貼ってまで台湾の消費者を騙す日本人を恨むことなく、だだ、「あの日本人までが・・・」と落胆した。あろうことか日本政府は,台湾の基準がオカシイと返した。台湾の消費者ニーズを政策に取り入れて一部・一定期間の禁輸処置するのは日本政府も反論はなかったが、日本人の偽装輸出が問題になると、是正し、謝るどころか、アンタの規制ががオカシイと国際裁判所に提訴すると脅かした。

課題を与えられれば、課題の欺瞞や不思議さに問題意識をもたない無教養な政治当局者は、亜細亜の近未来の俯瞰視、あるいは歴史の愛顧すらない感覚で、当面の問題を考えている。これが中国やアメリカだったら高飛車に反論できたか・・・、まずはこの国の政治家・官吏は出来ないだろう。台湾の人々は児玉源太郎・後藤や八田与一に比して、今回のその狡猾・卑屈な態度の日本人、つまり先ずは、゛過ちを認め素直に謝る゛彼等に浸透している日本精神そのものの劣化をみたのだ。

三度の食事を二度、一度にして競って贈った義援金の行方を問い質すこともない。

慰霊の式典では、その台湾代表を指名献花すらさせず、日本政府は一般席で参列させた。

代わりに陛下は園遊会に駐日代表をご招待し、謝意を述べて戴いた。

 この情感の喪失した我が国の高位にあるものの意識は、たとえ隣国の演習だとしても台湾侵攻の企図に何を思うのだろうか。近くの大陸政体と太平洋を隔てた大国の顔色を窺うヤジロベイになると大方の国民は想像しているが、厄介なことと言を左右することを、内政の混乱と同根だと思うのは考えすぎではないだろう。

イメージは関係サイトより転載しました 

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