天皇の御進講 杉浦重剛 「倫理御進講草案」著
ある刑務所の所長を歴任した方の述懐である。
裁判で死刑が確定して執行までの期間はさまざまあります。
よく、地裁から高裁とすすみ最高裁まで長い期間を要するが、各位での判決に不服があると控訴を行い、なかには控訴中に亡くなる人もいます。ここでは検察官の求刑に不服申請(控訴)をして最高裁まで争うことですが、刑事事件の多くは判決を受容し刑に服することになります。だだ、近ごろ問題になっている冤罪ですが、近年の科学捜査と違い、自供なり提出証拠に疑問があり、被告も無罪を主張する場合は、なかなか刑の執行が適わないこともよくあることです。(帝銀事件など)その場合は数十年のわたり拘置され続けることになります。
標題の死刑囚の犯罪要因は判りませんが死刑判決は重科だったとおもわれます。
歳も若かった死刑囚は判決後の収監中に当用漢字を総て修学し、かつ和歌を詠み新聞社に投稿して高い評価を得たそうです。
元所長との会話では事前に行うIQ(知能指数)評価が話題になりました。
いまは交通講習などでもEQ評価が取り入れられていますが、落ち着き、観察、対人関係、社会順応など、本来の社会生活では必須な習慣性などを比較評価することのできないことでも、不特定多数の生活習性や観察点などを数値によって傾向を認知してもらい、社会に混在する他との関係性を広く、深く、考える視座を、ここでは更生の観点で活かそうとする試みも行われています。
その能力の特異、普遍のこととは別に、自身も知らなかった能力を発見する機会、能力を発動する(発起)する心の動きと環境の設定も考えてみました。
死刑囚は、IQが低いから罪を犯したのか、もしその境遇でなければ和歌を詠む情緒性と事象を観察する理性があったなら、どうして発揮できなかったのかが疑問でした。
また、世俗の人間ではとうてい適わない読破と記憶、そして活用についての不思議感がありました。それは決して外部観察でもなければ囚人対象と云う目線でもなく、学歴や知識の多寡が附属性価値となっている時世への戸惑いでもありました。
明治以降、多くの様式が近代化の装いとして拙速にも摸倣採用されました。軍制はドイツやイギリス、法令・医学はドイツ、フランス式の学制も啓蒙思想とともに渡ってきました。
それは。過度でもあり、カブレと云ってもよいくらい急激な、国家創成期の中央集権による強圧的変更にもみえました。
山高帽に紋付き袴、足元は革靴、富国強兵の装備もそうです。それを文明、つまり西洋文明模倣の開化と云われた文明国の文明人の出現です。
模倣の順応度ですが、籠に草鞋と下駄、髷に腰には二本差しが、三十数年で世界一強大と云われたロシアのバルチック艦隊を全滅させています。
当時の指揮官は今どきの大学にもいきませんが、士道と勇敢さは浸透していました。
藩校・塾・寺子屋では頭で学ぶだけではなく、学んだらどのようにして行動するか、それが評価の要でした(浸透学)。また責任の取り方も自習しました。知識や技術は後についてくるもの、いや何時でも習得できるもの、先ずは学ぶ前提の本(もと)を精神に浸透することに集中しました。狼狽えない、むやみに競わない、騒がない、人のせいにしない、いたずらに金品を求めない、など醇なる精神の維持と涵養を学びの基としました。
下士官や兵士はどうでしょう。彼らの多くは農家の次男、漁師や商家の子息です。皆兵は前職を問いません。それらは武士の藩校でなく、郷の塾や町の寺子屋で学びましたが、読み書きも堪能ではありません。航海術や砲術、ましてや造船や西洋戦術など知るすべもありません。他国も同様でしたが、当時、未開と蔑まれた亜細亜の有色人種が西洋文明の凝縮された軍事知識や技術について、こうも短期間に習熟できた要因は何だったのでしょうか。
ここで死刑囚に戻りますが、類似点は、いつ訪れるかわからない生死の緊張感、だからこそ生きる意味を見出そうとする精神の集中、そして恐怖からの逃避と向き合う時に訪れる達観に類する解放感、それゆえに邁進する己が描く人物像への使命感があります。それは生まれ変わった自分の姿を描く、仮の物語の想像でもあったでしょう。まさにセカンドチャンスの仮の現実です。
兵士なら、たとえ敵であっても人間を毀損することへの戸惑いと我が身に置き換える忠恕、そして生死を懸けて守るべきものへの愛顧があったでしょう。なぜなら時の縁にしばしば訪れる禍福を、゛生きていればこそ゛と、考えられる環境でもありました。
その集中と緊張、加えて協働の心は、軽薄な精神論を祓う自己探求でもあったはずです。
漢字の習得と和歌の投稿は、囲いの中にあったとしても気持ちは社会の分として「自分」を発見したのでしょう。
たとえ身は不自由でも、贖罪を知らしめるすべを発見した囚人は、不自由な環境だからこそ今まで気が付かなかった潜在する良心と下座からの社会を俯瞰視できたと思います。
それは、社会では観ることもなかった自身の内面を知る機会であり、知ること、作ることの
愉しさとなって、終いには、自由で独悦に至ったようです。
世間は死刑囚が、IQ30代が、と驚きますが、心の観点では導き出せる内容です。
じつは、この章を想起したのは、先ごろ米国のニューヨークの刑務所の囚人が近郊の大学のディベート(討論)カリキュラムを学び、公開の場でハーバート大学のメンバーに勝ったとの記事をみたことが始めでした。
世界の識者も、「あの優秀なハーバードの選抜されたエリートより囚人がまさった」と、天地動転のごとく驚愕しています。だからと言って勝ち負け自体、それが無能だとか、優秀だとか言っても始まりません。それがどのように活かされるかが大切なことなのです。
日本の法務省が主となる更生保護事業でも、「不幸にして罪を犯した方々の更生」と唱えます。この不幸については、「幸せではない」ことですが、今どきの幸せ感は欲望が遂げられるかどうかが大きな要因となっています。もととなるのは「性と食と財」です。そこから派生すれば、グルメや蓄財によって幸せ感を共有するためにあらゆる手立てを考え、何ら人格を代表しない「地位、名誉、学校歴、財力」で我が身を飾りたてます。現示的には、家・車・衣装・ときに単なる、゛知ってる゛だけの情報量も手段になるでしょう。その枝になると、身体的には整形や運動で肉体改造したり、虚飾で装ったりもしますが、ここまでくると人間関係では詐欺的行為として非難の対象にることもあります。
それらに縁がなければ、妬みや嫉妬となり対象を貶めたり、毀損したりする行動に進みます。
万引き・置き引き・ひったくりなどのダイレクトな窃盗行為も起こり、強盗傷害、殺人までおきます。巧妙で狡猾な部類は、地位を利用して贈賄・収賄など、地位を利用した犯罪も起きますが、動機はギャンブルなどの遊興です。公職者が行う狡猾な行為などは、自身のみならず国家を衰亡させる汚れなき犯罪も多くなります。この部類はIQ数値も高く、「知った、覚えた」類の学歴もこの種の陰険な犯罪には有効となっています。
欲望の充足が幸せ感となり、互いに比較して競う、人間の習性を用いた外的誘因が多様になり、比例して「内を知ることもなく、外を知ろうとする」つまり、浮俗に流動する、あるいはあえて流れに乗ろうとするために、外的刺激を求める切迫感のような状態がみられます。
パチンコでいえば射幸心、妄動する情報誘導の氾濫、架空現実(バーチャル・リアリティ)を演出する音声や映像媒体など、「外」において自己を自制することが難しくなっています。
王陽明も「外の賊は破るに易し、内の賊は破るに難し」と、欲と邪心のコントロールの難しさを云っています。
しかも「内」となる心が「外」に翻弄され、本当の自身の特徴すら見いだせなくなっています。よく金もないし、ローンもある、子供を育てるのも大変だ、だから面倒なことを考えられない、と云われますが、「将来、自分はどうなるのだろう」は、よく聴く呟きです。
これではIQはともかく、客観的自己観察であるEQですら試みることは難しいはずです。
EQは心(感情)や行動の比較評価を指数に表わしたものです。IQは低くてもEQは高い人がいます。
逸話ですが、鶴見俊輔という哲学者が父の祐輔氏のことを「父は秀才だったが、その過程の競争で友人などへの感情的意識を失くしたようで、作句(俳句)などは詠めない」と語っている。母は後藤新平の娘でことのほか厳格、それゆえアメリカに留学と称して逃避、長じて大衆運動や評論の世界に入っている。母は厳格、父は数値エリートの家庭は置き場がなかったと述懐している。
台北の小学校
ここに中国近代革命の領袖孫文と俊輔の父、祐輔氏との会見を抜粋します。
日本外交の重鎮として、孫文の語る熱情とは異質の感性が漂う会見でもあります。
≪本文 天下為公(副題 請孫文再来)ブログ 寳田時雄著より抜粋≫
“ 聞く耳持たず”とはこのようなことを言うのだろう。
佐藤は慚愧の気持ちをこめて資料をひもといた。それは伯父、純三郎と同様な見解をもつ孫文と政治家 鶴見祐輔の会見録である。
大正12年2月21日、第三次広東政府の大総統に就任した直後の会談で鶴見はこう切り出した。
鶴見「あなたが現在、支那においてやろうとしているプログラムはなんですか」
孫文らしい駆け引きのみじんもない言葉で
「60年前のあなたの国の歴史を振り返って御覧になればいい。王政維新の歴史。それをわたしたちが、今この支那で成就させようとしているのです。日本さえ邪魔しなければ支那の革命はとうの昔に完成していたのです… 。過去20年の対支那外交はことごとく失敗でした。日本はつねに支那の発展と、東洋の進運を邪魔するような外交政策を執っていたのです」
鶴見「それでは、日本はどうすれば良いとおっしゃるのですか」
孫文は毅然として
「北京から撤去しなさい。日本の公使を北京から召喚しなさい。北京政府を支那の中央政府(袁世凱)と認めるような、ばかげた(没理)ことをおやめなさい。北京政府は不正統な、そして、なんら実力のない政府です。それを日本が認めて、支那政府であるとして公使を送るというごときは明らかに支那に対する侮辱です。一刻も早く公使を撤退しなさい。そうすれば支那政府は腐った樹のように倒れてしまうのです」
鶴見「日本が他の列強と協調せずに、単独に撤退せよと、あなたはおっしゃるのですか」
「そのとおり、なんの遠慮がいりましょう。いったい、日本は列強の意向を迎えすぎる。そのように列強の政策に追従しすぎるので、惜しいことに東洋の盟主としての地位を放棄しつつあるのです。私は日本の20年来の失敗外交のために辛酸をなめ尽くした。それにもかかわらず、私は一度も日本を捨てたことがない。それはなぜか、日本を愛するからです。 私の亡命時代、私をかばってくれた日本人に感謝します」
「また東洋の擁護者として日本を必要とする。それなのに日本は自分の責任と地位を自覚していないのです。自分がもし日本を愛していないものならば、日本を倒すことは簡単です…」 (アメリカと組んでやったら日本を撃破することは易易たるものだ…と述べたうえで)
「私が日本の政策を憤りながらも、その方策に出ないのは、私は日本を愛するからです。私は日本を滅ぼすに忍びない。また、私はあくまで日本をもって東洋民族の盟主としようとする宿願を捨てることができないのです。しかしながら、打ち続く日本外交の失敗は、私をして最近、望みを日本に絶たしめたため、支那の依るべき国は日本ではなくロシアであることを知ったのです」
日本の対支那外交について問う
鶴見「それでは、あなたは日本が対支那外交において絶対不干渉の立場をとれば支那は統一されるとお考えになるのですか」
「それは必ず統一できます」
鶴見「しかし、その統一の可能性の証拠はどこにあるのでしょう」
堰を切ったように孫文は意志を表明する
「その証拠はここにある。かく申す拙者(自分)です。 支那の混乱の原因はどこにあるか。みなこの私です。満州朝廷の威勢を恐れて天下何人も義を唱えなかったときに、敢然として革命を提唱したのは誰ですか。我輩です。袁世凱が全盛の日に第二革命の烽火を挙げたのは誰ですか。我輩です」
「第三革命、第四革命、あらゆる支那の革命は我輩と終始している。しかも我輩はいまだ一回も革命に成功していない。なぜですか。外国の干渉です。ことに日本の干渉です。外国は挙って我輩の努力に反対した。ところが一人の孫文をいかんともすることができなかったではないですか」
「それは我輩が真に支那の民衆の意向を代表しているからなのです。だから日本が絶対不干渉の態度をとるならば支那は必ず統一されます…」
「あなたが日本に帰られたら、日本の青年に伝えてください。日本民族は自分の位置を自覚しなければいけない。日本は黄金のような好機会を逃してしまった。今後、逃してはならない」
「それは日露戦争の勝利です。あの戦争のときの東洋民族全体の狂喜歓喜を、あなたは知っていますか。私は船で紅海をぬけてポートサイドに着きました。そのときロシアの負傷兵が船で通りかかりました。それを見てエジプト人、トルコ人、ペルシャ人たちがどんなに狂喜したことか」
「そして日本人に似ている私をつかまえて感極まって泣かんばかりでした。 “日本はロシアを打ち負かした。東洋人が西洋人を破った”。そう叫んで彼らは喜んだのです。日本の勝利はアジアの誇りだったのです。日本は一躍にして精神的にアジアの盟主となったのです。彼らは日本を覇王として東洋民族の復興ができると思ったのです」
「ところが、その後の日本の態度はどうだったのでしょう。あれほど慕った東洋民族の力になったでしょうか。いや、われわれ東洋人の相手になってくれたでしょうか。日本は、やれ日英同盟だ、日米協商だと、西洋の強国とだけ交わりを結んで、ついぞ東洋人の力になってくれなかったじゃないですか…」
「しかし、私たちはまだ日本に望みを絶ってはいない。ロシアと同盟することよりも、日本を盟主として東洋民族の復興を図ることが私たちの望みなのです。日本よ、西洋の友達にかぶれてはいけない。東洋の古い友達のほうに帰って来てください。北京政府援助の政策を捨てなさい。西洋かぶれの侵略主義を捨てなさい。そして満州から撤退し、虚心坦懐な心で東洋人の保護者になってください」
「東洋民族の保護者として、自分たちは日本を必要としている。そして今、自分たち同志が計画しているように“東亜総連盟”は日本を盟主として完成するのです。それには日本が従来の謬った侵略政策を、ことに誤った対支那政策を捨てなければなりません。それまでは、いかなる対支那政策も支那人の感謝をかち得ることはできないでしょう。支那人は深い疑いの念をもって日本を眺め続けるでしょう」
だまされ、裏切られても信じられた日本および日本人は、はたしてどのような日本人を指しているのでしょうか。しかも遠大な志操のもと鶴見に託した“日本の青年に告ぐ”言葉の意味は、現代でも当てはまるような国家としての「分」の教訓でもある。苦難の中で自らの「分」を知り、その「分」によって自己を確立させ、暗雲が覆うアジアに一人決然として起こった孫文の意志は、まさにアジアの慈父といえる悠久の存在でもある。
山田純三郎孫文
この抜粋ですが、一つの応答辞令として観察すれば、鶴見氏はインタビューアーとして質問形態をとっている。しかし、これは会見である。一方は日本政府の政治家であり外交にも秀でたリートである。今では台湾・中国から国父として讃えられている人物である孫文が、日本に対して革命者らしい情感に期待を込めて、しかも、日本の考えるべき立場へも言及している。いまの対中外交には非難や迎合が通り文句となっているが、このような真摯な対応ができないものなのか、どうも数値エリートの屯する官界や、それに追従する瞬間反発の得意な売文と称せられる知識人を彷彿とさせる会見でもある。孫文は吾を言う「語」り、鶴見は舌が言う「話」のようです。
前記した討論(ディベート)はたしかに説得力を養う教育的なものだが、公開で優劣を競うとなると、卒業後は商用取引や外交交渉でも応用される弁術のようなものだ。また、その為のMBA(経営学修士)であり課題を与えた討論なのだろう。もちろん客観的評価が重要な位置を占めてはいるが、社会なり組織なりでの応用効果は、ひとえに用とする人間の資質に問うものであることは云うまでもない。
例えば、勝ったから、言いくるめたからと云って、意見を切り捨てたり、排除したら、部分に意味は生じても、全体としては無意味な徒労になることもある。互いに讃えあったり、縁の継続があれば相互に向上したり、扶助する関係に進展する可能性もあるからだ。
【人心、人格、信義の重要さを知り、とくに精神の独立、人格の独立、出たとこ勝負で己を偽り、相手に従うことの不可、しいて相手を己に従わせることの不可を、こころの深遠なところで反省すべきだろう】一読書人の節操 梁巨川先生殉世遺言録より
数値エリートの特徴は課題を与えられれば説明し得る答えが導き出す能力があることだ。基礎知識があり、応用能力があれば、事前知識が豊富な法が早く答えを出し、論理にも厚みがでるだろう。だが、面前の与えられた課題を観察する位置、つまり切り口によってその課題は論理で埋め尽くされても、ときに柔軟性を失くす場合がある。
その場合、いかに課題の発生する因を多面的、全面的、将来的にみることによって、従前の問から答えへの経路を通らなくても、真上か落としたり、下から突っついたり、空間からみた課題の多様性を含む答えなり表現ができることがある。
とくに外交や商談の面前応答には必要なことだが、説明や報告、あるいは記録義務が付いて回ると討議や応答までが四角四面になってしまうきらいがある。段取り(準備)の手順はともかく、事を納めればよい場合は、とくにその点に注意しないと握手や礼にある心の友誼をなきものとして感情まで引きずり出してしまう危険がある。とくに異民族との応答辞令には気を付けなくてはならないことでしょう。
それは事物や現象を「知っている・覚えた」類ではなく、いかに自己の特徴に照らして応用なり活かすことができるかに掛かっている。人類は80億人に届こうとしている。しかしナンビトでも同じ人間はいない。よってすべては異なるものだ。調和や連帯をつうじ複雑な要因を以て構成されている国家なるものもある。しかしそれさえも類似した主義や生活形態をもつものもあるが、生死の分別や矜持については個の独立なくしてあり得ない。
つまり「他と異なることを恐れない意志」そのための学びと、全体の一部分を認知して自他の厳存を知ることこそ大切なことではないだろうか。
「自他」の他とは、人類のみならず、宇宙観、地球観、人間間、そして秘奥の内心をたどりみる境地の問題です。
楽しみ、食べる、蓄える現示価値に没入する前提に、かつ標題の指数評価とは別の、今は無きカリキュラムである人間学的素養の涵養を改めて勧奨するものです。