まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

津軽平川という郷のこと  終章

2014-09-30 12:15:52 | Weblog
平川名物 緑青園花火大会


 それでも時節を俯瞰すれば、戸惑いながらも時の流れに整合しつつある郷の姿もある。
忌まわしい出来事を祓いうように新市長は多くの施策を提案している。とくに、より透明性をもって市民の意見を反映するシステム構築と、平川市の新生作興を企図して多くの目標を掲げ、他と異なることを恐れない郷の特徴を伸ばし広げる独自の、つまり独立した自治の協働を市民に促している。
 市長の提言の基となるものは、ややもすると慣性となった問題意識の衰えた一部職員の覚醒と励行、無駄を省くことに用を為すという自立節制を公務の在るべき姿として位置づけ、それによって政策遂行の前提であり必須でもある「信任」の醸成に努めている。



 それは、未だ騒ぎの納まらない郷における長岡藩家老小林虎三郎の逸話にある「米百表」の説く、人材教育のようでもある。つまり予算を出せば乗数効果となる慣性数値評価を支出基準にする財政を、後藤新平の功績の基となった「人を育て、人を活かし、その人物によって資材を活かせば超数的効果が生ずる」といった、人物如何による公務の在り様を教導しているようにもみえる。
 もとより、タックスペイヤーからすれば、税の効果的支出と時節に変化する問題是正のための施策が適う市長であり職員であるかをみているのだ。ことさら議員にはさして過大な期待をもってはいない。くわえて規模が大きくない行政区割りゆえ、人の顔や吐息まで感じられる関係である。尚更のこと新市長の施策は後藤の「超数的効果」にある。思いがけない効果があるだろう。

 普通、小学校でも生徒に不祥事があると父兄を集合して会議を開くが、学校側の問題になると衆議をするところは少ない。今回の選挙不祥事の場合は市民集会を開催して膿を絞り出すことも必要だ。学校でも社会構成の前提である議会制民主主義と選挙を議論させたらよい。そして省くことは省き、政治土壌を住民の問題として検証して平川市独自の憲章なり、ペナルティーを科した遵守規範をつくり、欧米ではタックスイーターと称する公的サービス機関、特別公務員である議員に示し、守らせたらどうだろうか。
 今までは規範、条例は議会の立案制定だったが、その議会が機能しないことが明白になった以上、タックスペイヤーの権利として目覚める自立心が必要になる。

 これは新市長も指向する郷の新制作興の前提となる試行であろう。
 何よりも数多理念を持つ公的、民間を問わぬ組織体でも、判断になれば、「役所が・・・」「役所に・・・」と依頼心が漂う。それが組織の私的・個別意見でなく、郷の運動体躍動の部分を担う公的意識をもって調和と連帯の基となる許容力をもつなら、この度のような不祥事は起こらなくなる。つまり、転換する臨機の到来をつかみとることができるか否か、それが郷の再編、再興に不可欠な人間力による要素となるのだ。


 初代弘前市長で東奥義塾、東奥日報の創業にかかわった菊池九郎は維新の混乱と凶作に苦しむ津軽衆に「人間がおるじゃないか」と、明治五年外人教師を招聘して英語教育を行い、全国的にも稀な教育によって多くの傑物を輩出している。

 数年前の数値だが、平川市は人口約3,3万、11600所帯、10年後には3万を切る予測もある。公務員は330人と定め市民一人当たりの行政コストは39万円となっている。
 また、健康・介護。高齢者等に係る扶養支出は約50%、給与退職金手当も14%強で、人口や予算規模を問わず市町村が近年恒常化している予算形態と大よそ類似している。

 多くの自治体の流行り政策の唱えは「町おこし」「安全安心」「高齢者福祉」「青少年健全育成」などだが、イベント行事、公共建築物の耐震対策などが手を付けやすい行政目標となり、非生産的世代である子供と高齢者については目新しい成果がでないためか、対応に手をこまねている状況である。ちなみに少年非行をみても法務省青森保護観察所が扱う保護観察少年は年に10件に満たず、所轄の警察署の補導件数も少ない。隣の弘前市も同様だ。
 ただ、行政組織の部課別観点では見えづらいが、貧困と高齢者と青少年が複雑な要因をもった複合現象として特に津軽では表れている。






た とえば、生活保護の高齢者が犯罪を起こし保護観察処分になって病気になる。
 対応は保護観察所、市町村役場、保護司、民生委員、医師などだが、この場合は縦割りのたらい回しでは到底対処できない。職掌はともなく篤志的義侠心を以て制度を組み合わせ、本人の意向に沿い、または是正し、生活再建の援助対応をしなくては、路頭に迷うだけである。
 資格はあるのか、保証はあるのか、引受如何は、などと分派的対応をしたのではことは進まない。とくに貧困に応えるすべは法の準拠と市民の篤志に頼る協働が重要だ。ことは組織の上下関係や煩雑な認可条件では解決しない。郷の事情は郷独自の施策を市民に問い、他と異なることを恐れない智慧を出し合うことだ。
 まさに、身内と他人、そして己の良心への問いかけでしかない。しかも、法の準拠なくホームレスになる棄民は、都会ならまだしも郷には馴染まない。
 つまり、解決は郷の独立的意思があるかどうか、当事者の意志に懸っていると云ってもいい
 前記の菊池九郎は政府の補助金提供に「わが郷は独りの餓死者も出すことはありません、もっと困っている人たちに差し上げて下さい」と断っている。つまり補助金よって起債を膨らませ、箱物管理で経常支出をあげて汲々としている自治体前途と、市民の扶養金・補助金依頼による自活自生の心の亡失を懸念したのだ。それは、金を渡して有権者固有の権利をだまし取る選挙事情にも似ている。
 その結果は、今の社会構造であり選挙事情であり政治の姿でもあろう。


 教育行政の一つとして山間地に小国という郷がある。山間に点在する集落はことのほか静かな佇まいがある。
小高い丘に築10年程の小学校がある。山を整地した広い校庭、プール、体育館、建物もRC構造(鉄筋コンクリート)で、入ると設備は整っているし真新しい。それが築10数年で廃校になった。理由は少子化だ。出生は人口、所帯数、年齢である程度の推計はできるが、ここでは国の山間部対策として定住を企図した補助金投入だと聴いた。当時の生徒一人当たりに換算すると一人2000万の建築費だという。いまは賃料数万円で農作物の試験栽培をしている。
 校庭はヘリポート、体育館は避難場所となっているが、環境を勘案すると摩訶不思議な繕い結果のようだ。子供のための立派な教育施設も無理と無駄を教えただけのようだ。国の税収が上がったために考えられた奇妙な施策のようだが、たとえ土木事業が増えたとしても市財政への負荷は少なくない。

 建築物とて補助期限が限りあるものは衆知を集めて将来像や懐の貸借など想定して活用すべきことだが、箱物に夢を膨らませて経常経費を窮屈にしてしまった自治体が多い。
 なにしろ収支と借金は財務省に任せて、とりあえず戴けるものは貰う省庁勘定は風水害すら恣意的に過小想定して河川敷の有効活用を謳い、全国の河川敷に野球場やゴルフ場を造った。運営はお決まりの第3セクターだが、その多くは破綻もしくは自治体の追加補助で息をつないでいる。
 それも、合唱するように健康増進や市民の憩いの場、コミュニケーションの為と謳い、問題意識の薄い議会を通過させ市民の総意として遂行していた。



近在の よされ踊り



 u>まさか税務署や警察署を建てるのに「憩いの場」「市民の福祉」などと云われてはブラックユーモアだが、近ごろでは市庁舎もコミュニティー機能などで、皆さんの役所を建設の題目に入れている。固定資産税や住民税はコンビニで事足りるが、扶養手当や届書類、あるいは出入り業者など、一昔前とは様変わりした役所の情景だが、本来、市庁舎は集まる場所ではない。
 いっそのこと期限内に直接納付すれば割引があると云えば、たしかに混雑もするはずだ。ついでにコンビニと有名ファーストフーズでも併設すれば、遊び場にもなる。
 あのアップルのスティーブ・ジョブスは、夢の可能性は馬鹿げたことを一生懸命することだと云っているが、市民の代弁者が馬鹿げたことをコソコソして捕縛されるよりかは、はるかに善なる耳目を集めるに違いない。

 中央官庁とくに農林水産省の食堂や売店は美味いし安い。警備が緩かったときはサンダル履きの女性が買い物に来庁していた。いくら安いからと云って税務署や警察の食堂には入らないが、農水省ならどことなく安心だ。近隣には店舗もないので苦情も来ない。
 都内の区役所では高層階にラウンジを設けて展望や食事に開放している。別に役所の業務には用事がないが、都心の区役所は使い道がある。用事がないのは、出張所などの出先機関で大方の用が済む便利さがあるからだ。いまどきはスパーやコンビニで公金支払いや調剤薬局も併設されるようになった。また、厚生省の施策もそのように仕向けている。だから税務署も滞納の呼び出しや言い訳に行くぐらいで、電子申告で家に居ても用が足りる。

昔 は庄屋の大広間や寺の庫裡、小さなことは主だったもの同士で談義は済んだ。いまは集会場だが、戸締り、掃除、借りた人が責任を委ねられているがそれ以外は自由だ。各種ホールもあれば居酒屋談議もある。込み入った話は夜も更けてからか、般若湯も必要になるときもある。話も深くなり、和みもする、それが郷だからだ。
 ときおり区役所を借りるが、定時に終わり、定時までに退出する。酒やタバコは御法度だ。
も とより郷は、人と組織の形式化された関係ではなく、人と人との緩やかな間(マ)が郷のなりわいの基だ。
 ともあれ、充て職の形式話ならともかく、役所に障りがある話もできないし、割烹着やサンダル履きも遠慮があろう。昔から警察と役所の出入りは遠慮があるのが常だ。だから身近な駐在さん、掛かりつけの医者、学校の先生が心の拠り所であり、結婚式の来賓祝辞の定番だった。それも今はあらぬ情報のせいか、怨嗟の対象になっているのが現状だ

いまごろ津軽は鮮やかな紅葉だ。そして雪が降る。
汚いものを隠して真っ白にしてくれる、と郷の人はいう。
一冬過ぎれば人々は事件を忘れるだろう。忘れることも郷の智慧だからだ。
だだ、少し郷の様子が変化したことを感じるだろう。
口には出さないが、恥ずかしいことはしたくはない。
津軽弁の「めぐせ」「みんぱいぐね」は、もう聞き飽きた
恥ずかしい、見栄えが良くない、は、江戸っ子でさえ野暮なことだ
粋で格好いい津軽はもうすぐ先にあるようだ。
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津軽平川という郷のこと  其の一

2014-09-29 11:12:54 | Weblog


新幹線の新青森から在来線で桜の城下町弘前、弘南鉄道に乗りつぎ平賀駅まで15分、そこが平川市だ。昨今は全国の耳目を集めた津軽選挙大量逮捕で有名になったところだが、市長は元県議長尾忠之氏だ。
いきさつは、市政を牛耳った有力者が仕切った典型的な利権選挙だった。市議には20万、おもだった者には100万、高齢になった元職市長を押しのけて新聞販売店の押し紙ならぬ、押しつけ金を配布したのだ。もとより津軽選挙は落選候補を応援すれば市発注入札さえ排除される恐怖と、邪魔されたくない対価として金が配られる倣いがあった。懇意な担当官吏の便宜供与がなければ有力者が企図した認可事業などはできないが、いまでも残り火のように次の逮捕者は云々と市民の口の端にのっている。
現在は3,2万人の人口で市議は20人、そのうちの大半が逮捕された。だだ、当時の職務権限のあった市の関係者には今のところ警吏の御咎めはない。

市民からすれば降って湧いたことだが、どことなく、゛いまさら゛゛下手なこと゛との感覚もある。上は国会から全国津々浦々の地方選挙には少なからず、いやその世界では当然の如くあるようだ。隣国中国のように賄賂を、゛人情を贈る゛として、地位が昇り影響力があれば黙っていても金が集まってくる事情、つまり「昇官発財」は民主や共産などの謳い文句の主義如何にかかわらず我が国の何処にでもある姿のようだ。

似て非なるものは、中国の大物は数千億とか一兆を懐に入れ、「一官九族に繁える」というくらい一族郎党もその利得にあずかる。我が国は数億がたまにある程度だ、それも立場における優遇が狡猾にも制度化され、堂々と高給や手当として収受される姑息さもある。首長や議員は落ちればただの人、それが今どき票の取りまとめ依頼で市民が動くものではないと思うが、20万円で老後人生を棒に振ったのでは嘆かわしい。
たとえ、見つかったことが「運が悪かった」「今度の県警は厳しい」と嘆いたところで、子供に聴かせられる話ではない。いわんや教育界や取り締まりに係る官吏とて、子孫縁者の世襲に似た採用が多いのも不思議な現象だ。彼らに言わせれば多くの税補助で成り立つ国立大学法学部出身者の国会議員が巨悪なら、捕縛するのも同窓では、何のための官学最高学府なのか、教育とはいかなるものか、まさに「上濁れば下倣う」嘆かわしさがある。

平川の一罰百戒は、この地域をしばらく緊張感が留まる。いや、全国の心当たり有る人たちも注意くらいするだろうが、困る有権者もいる。
ある県の国政選挙では箪笥を貰った、子供に小遣い、おにぎりの中に一万円、など当たり前だった。子供に玩具をねだられれば「もうすぐ選挙があるから、それまで待て」というのも常だった。官吏も休日出勤や残業手当など、都内の区部では一日6万になることもある。実働臨時アルバイトは時給1200円、これも選挙待望による潤いだ。選挙経費の大半は人件費とも聞く。








今回の選挙違反は一過性の話題を提供したが、もともと選挙法を厳格適用することは難しい作業だ。違反は「捕えなくてはならない」ではなく、「捕えることができる」警吏の運用に任されている。その点、交通違反もそうだ。また防犯啓蒙の協働経験のある地元警察でも、いくら津軽選挙と騒がれても逮捕者まではあまりなかったようだ。それはあらゆることに法を盾に触法を探すことより、互いに協調することこそ郷の安定を得る手だとする気風がながらく存在していた。ゆえに固陋と云われようと主立った者、長(おさ)に類似した立場を推戴することで無条件に委任する、ある意味では役割を立て各々の生活を庇護なり担保する仕組みがあった。

しかし税の仕組み、世代間の考え方が「長」や「主立った」人物の篤志的行為を衰えさせ、御上御用の任職である議員、官吏、がそれに代わった。昔は酒田の本間家などの豪農は子弟に今どきの数値教育では適わない人格教育を施し、官選首長には到底届くことのない郷の情緒涵養を道徳律や人格を以て具現していた。つまり俸給対価のない長(おさ)の忠恕として人心に鎮まりを与えていた。
くわえて、その背景には郷の精霊やその祷りを以て我が身を観照するような厳しい環境におく長(おさ)の姿勢があった。住民に良質なる感化を与え、人心は落ち着き邪悪なこと行為すら起きることは少なかった。

中央官庁による税と事業の管理は、ひも付き補助金供与によって地方政治をコントロールしているが、その様相は顔のない市政と揶揄されるように至るところ同様な悩みと将来の憂いを抱いている。備中の山田方谷・松代藩の恩田杢(もく)のような独自な改革すら難しくなってくる。
彼らに共通していることは、自身のみならず家族の生活をあえて厳しい環境においた。贅沢はしない、簡素、節制を体現する背中を見せる政治だ。何よりも安心して任せられる人格に畏敬を添えている。
現代の首長にそれを求めるのは難しいが、こと平川市長の長尾氏はリンゴ農家を経営しているゆえ、早朝から出勤前にリンゴ畑に云っていると聴く。その勤労と政治は、公私の峻別を促し、何よりも地に足がついた深い考察を可能にしていると、多くの住民の声がある。


補助金に多くを委ねる政治は、法の庇護が安逸と弛緩に変容し、一定範囲からの逸脱を恐れるあまり、全国の金融機関が陥っているような、リスクは信用保証機関に委ねるよことによる独自の審査能力が衰えたことに似ている状況がある。なかには市長の自由裁量が限定され、有望職員の献策さえ机上に乗せられない鬱々とした状況がある自治体もある。
そうなると、実務評価すらない安定職高給担保や生涯賃金換算などの意識が蔓延して、ますます市民の面従腹背は昂進して形骸化した政治になってしまう。


つまり、郷なりの自由発想や自立した経営が、補助金ありきに依存することによって市政運営者の能力が衰え、元気や爽やかさで市民の人心を安定させることが衰え、箱物、観光、物産などの施策が先行する他の自治体の模倣となり、自治独立の気概が発揮できない状況に停滞する。
それは地域内に住む人々を、ときに悪しき慣習に閉じ込めることになり、外部からの客観的にみた郷の特徴なり優越性さえ鋭敏に取り込めなくなるようだ。
あくまで一般論だが、それが地方自治の拘泥する心の実態であろう。


市民が選んだ議員さえまともな議論や調査する雰囲気さえなくなり、かえって異なる意見を疎外するようになり、再び市民に徒労感が漂うようになる。このような地域は固陋な雰囲気のなか、゛風評 ゛が漂い、足の引張りが横行し、職掌も形式化して進取の議論さえ閉ざしてしまう。
平川市の選挙違反についても、面白いことに、゛呆れた゛゛恥ずかしい゛との声は聴くが、義憤に声を上げることもなく、゛そんなもの゛と話す市民も多く、その、゛恥ずかしいも゛多くの人に知られたことが恥ずかしいという市民も多い。つまり、捕まってもマスコミに取り上げられなければ郷で消化できることなのだろう。









ともあれ、多少にかかわらず礼金なり協力金を渡すことは郷の習慣であり、あの世界の倣いだった。外野の天に唾するような似非道徳の声は人の世のならいだが、郷の成立には様々な空気がある。理屈も論理も合理性も時に用を為さないことがある。つまり情理の実を如何に汲み取るかは人の応答の妙として生き、活かされていることだ。
わざわざ持ってきた金を受け取らなくては顔をつぶす、あるいは別の方法で還す、もしくは金持ちなら飲み屋で二三回席をもてば無くなる些少な額だと思うだろう。何よりも永年慣行となっている郷の潤い金に、法を盾に警吏が手を出さなかったことが良し悪しはともかく、それが郷の調和であり寛容の政治だった。
だから、一旦は受け取って直ぐに返すのも悪いので、一週間置いて返したものもいる。
また、それを逡巡しながら返しそびれた者もいる。それが逮捕だ。
なかには、マスコミのインタビューに「困ったことだ」「そのような人もいたか・・」と平然と応えた直後に逮捕された議員も幾人かいる。

成文化された法の厳格な運用は歓迎されるが、或る意味では世情に疎く、習慣化された行為は事前警告をするなり、顔見知りなら注意すればよい。それが単なる法の上での正邪の感覚弛緩が逮捕というには馴染まないばかりか、郷は郷なりの陋規が衰える心配がある。
つまり法遵守の慣性順行がショック療法のように空から投網が降ってきた驚きだったようだ。ここでは今までは了解されていたと思っていた。それは間違いではない。
郷は徐々に変化したり、世代を超えて時流に沿うものもある。有権者の阿吽の理解なのか諦めなのかは、この郷においては損得勘定も見え隠れする。それは「津軽の足ひっぱり」と自嘲気味に語られる民風だ。熱いようで冷たい。立場替われば意見も変わる、落ち目には触らない、どうも江戸っ子の心情では「義理と人情とやせ我慢」が為せる、゛善意のお節介゛が乏しいようだ。








しかし、そのことは個々の自由を担保する環境でもあると現代の東京人も思うようだが、郷の人たちが一種のステータスとして参加もしくは選任される、官吏、議員、商工会会員やライオンズなどの篤志団体が郷の主立った衆を集約して、それぞれの集団帰属に一種の安心感を抱く、郷のみならず邦人独特の集団化気質によるものだろう。
個々の自由担保と集団帰属の安心感は一種矛盾するようだが、流行りものに易々乗じながらモノマネ、西洋かぶれと云われようと邁進した我が国の民情である。

それゆえに、社会通念の変化や、官民の関係における当局の法執行意欲が読み取れず、郷内では自制できなかった習慣化された郷の掟への問題を、成文化された法によって覚醒できたという良機とも見ることができる。そういう世界があることを知ったのだ。

戦後、軍官吏の横行、国会の無力は進駐軍(GHQ)の強権によって是正された。国民に対しての懲罰は少なかったが、国家の組織体とややもすると恣意的政策を遂行した為政運用者に、その多くが向けられた。前後の良し悪しは歴史に委ねるが、外部の刺激や強権によってしか変化できなかった強大な軍の威力と現追する弛緩無力化した議員の姿は、国民の問題意識やその制度化された選挙では購うことができなかった。
それは依頼心、無関心、阿諛迎合を気質とする日本人が、つねに注意して更新に努めなければならない日本型権力構造に宿った劣性なのではないだろうか。

その選挙だが、配っていれば善人、独り占めするのが悪人と故事があるが、選挙事務所に行けば陣中見舞いには食事が出される。事務所が賑やかなら優勢とばかり、集まって世間話に興じる住民もいるが、なかにはスパイもどきで出入りする人を観察している相手方応援者もいる。
選挙応援で候補者を誉めそやす仕切り屋が、相手候補から大枚懐に入れたと判ったときの驚きは、まるで郷の謀略戦の様相だ。
それでも当局も温情ならぬ盆の休暇都合もあるせいか、郷ではまだ大物がある、と固唾をのんでいる。また首謀者と職務権限のあった官吏の関係が囁かれ、市の信任にも影響しかねない状況だという。

ともあれ、色々表れたが切掛けは、ある応援議員が「○○が金を持ってきたが、私は受け取らなかった。多くの議員に配られ貰っている」と、マイクで連呼したことで、当局も動かざるを得なくなった事情もあったのだろう。

つづく

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瓦版屋の憂鬱

2014-09-27 13:07:04 | Weblog
バングラデッシュの子供たち


時代の名称は封建と民主にかわっても、何ら変わることがないのは瓦版屋とお役人様だ。
あの頃はお武家さまや渡世人も仲良く日本刀を腰に差して往来していたが、人殺しや親殺しなどは数百万もいた江戸でもめったにはなかった。その江戸市中も、ご府内は本郷三丁目までで、新宿、品川などは街道沿いの宿場町だった。

町には職名では旅客業の駕籠や馬方、銀行は金貸しと両替屋、証券、先物は札差、ホテルは旅籠、居酒屋は蕎麦屋で一杯、製鉄は鍛冶屋、ヤクザは博徒と口入屋、芸者はダンサーと歌手、政治家は地方の諸公、警察は御家人旗本と目明かし、瓦版屋もいまは新聞とテレビなどだが、生業が人成りの習性となっているのは江戸時代とはさほど変わらない。

民主だか万機公論だか曖昧だが、当時は瓦版屋の記事集めで親方が将軍にお目通りして、ちょうちん記事や嘘記事など頼まれたりはしなかった。まして政治委員や審議会など、鍛冶屋や金貸しが御上御用の相談役などには決して委任されることはなかった。

士農工商を封建の悪しき差別だというが、そもそもの姿として今の成文法(法律)のように細かな縛りを書き物ら求める今と違って、士なりの掟や死生観があった。もちろん農,工、商も相互連帯のための慣習なり矜持にみる固陋ではあるが陋規があった。
武士は切腹なり家の断絶という厳しい求めがあり、切腹は武士だけにある名誉の死に方だった。一方は大自然の遵法によって恩恵と厄災をこうむり、商工とてそれなりの競争を経て繁栄と没落を繰り返した。
金貸しの証文も「期日まで返済できなければ満座でお笑い下さい」と記している。
武士の専権であったためか土地担保はなく、女子の年期奉公(女郎などに売られるだけではない)も、躾、行儀見習いも含めて農村の貧困から抜ける解放のようでもあった。









時代劇には弁当箱や袖に小判を潜ませることもあるが、水戸黄門や暴れん坊将軍が出てくる場面はあり得なかった。たしかに悪は浜の真砂のようで無くならないようだが、棲む世界の分別はことのほか厳しかった。閉門蟄居、隠居、断絶など殊のほか武士にかかわる法度は厳しかった。今の政治家や官吏にはこの緊張感や使命感をともなう誇りさえ失くしている。

なにしろ士農工商の峻別は厳しく、株をいじって、「武士の気持ちで」と格好つけてリクルート疑惑で辞任する政治家などはいなかった。だだ、色事は大奥と歌舞伎役者が漏れる逸話だが、寺参りが篭脱けとなって色坊主がからんでいたことが残っている。いまどきの瓦版はスキャンダルや嫉妬、覗き、脅しを紙埋めにしているが、江戸っ子は野暮ではなかった。
色町や魚河岸は日本橋にあった頃、廓の営業は真昼間だった。日本差しの武士が廓通いをしていたが、あの剣豪武蔵も常連だった。豪傑色を好むとはいうが幕末の鉄舟も毎夜のように色町に通い色道に励んだ。武蔵も鉄舟もことやり始めたら徹底して極めるまでは止まらない。しかも当時の剣豪は下駄や草鞋で一日十里(40Km)など朝飯前のスタミナがあった。いまのプロスポーツ選手のように剛健だった。鉄舟は妻の英子(ふさこ)が呆れるくらい通った。
遊び人は懐中を気にしながら鼻すじに白子を塗って通った。あの稚児化粧だと思えばいい。
ともあれ艶話、色ごとは江戸時代の方が開放的だった。身持ちを崩す者もいたが、おおかたはホドを弁えた生活をしていた。






山岡鉄舟


「第宅器物その奇を用せず、あれば有るに順って楽しみ、無ければ無きに任せてまた安じょたり」と、副将軍光圀も詠んでいるが、隠居すれば閑静な小屋に住んで当世の藩主に収穫した米を献納している。戦国の時代は野党盗賊や小商人も大名家に成れた、そして躍動していた。封建管理のシステムでは武士は今流の官吏となり弛緩し堕落もしたが、光圀の学問教養は精神の修養と実践を下座観において為している。全国津々浦々の安定はその様な人物人格によって培われ、それを是とし範とする気根が邦人にはあった。そして理想の人物像として倣った。

維新の覇者となった薩長の連中は物見遊山を兼ねて廓に繰り出した。強姦で市中を騒がしては錦旗の兵として格好をつけなくてはならない。その点は隣国の解放軍も当初はそうだった。廓には廓言葉や隠語があった。「そうでありんす」、そんな言葉を使う女郎も地方出身者で、廓で見習いをしたものたちだが、郷里では「そうすっぺ」「そうずら」「へっぺやっぺ」と云っていたが、廓言葉で一人前の江戸っ子になった。
戦勝郷民だが敷島の辺々にいたものは、手っ取り早く都会人(江戸っ子)になるために、廓言葉を女房に倣わせた。「そうで・・・ざあます」、いっときの上流階級夫人の流行り言葉だ。

ちなみに商家のほかは多くは長屋の職人だが、江戸の創生期は、大部分は独身だった。そのころは武家屋敷、商家の建築で江戸中は区画整理と埋め立て開発の工事現場だった。大工、左官はもとより、財を成したのは材木屋だった。何しろ女が少ない。もとより職人は女房を喰わせることもできなかったろう。
そのうちお下がりが出てきた。中年になってリストラになった腰元や商家の女中だ。
お手付きだろうが何だろうが、女は女。落ち着いて来れば地方から目ざとい女もやってきた。
運よく縁があったものは、お下がりだろうが何だろうが、うちの女房は越後屋の女中だと自慢した。お下がり官吏を天下りと称して、うちの顧問は何々省の課長だとか次官だとか公言して、ひも付き仕事をもらう商売人に似ているが、女の方が罪はない。

職人は夜が明けると仕事に出て、昼過ぎには区切りをつけて、後は酒だ。江戸は酔っ払いが多いと云われたのはそのころだ。いつ頃からか三度の食事が普通になったが、当初は台所もなく、あったとしても火起こしも大変だった。なにより武蔵野の海へりに新しい町を造るには膨大な材木が必要だった。唯一の燃料だった薪さえ難渋した。秩父多摩や上毛、下総と周辺には森林用材が豊富だったが、その搬入路として河川交通も発達した。

地方出の雑多な人が増えると色々なことが起きる。幕府のお触書は町角の高札高、職人は読めないし書けない。現代でも回覧板や掲示板の文字や意味すら分からない若者が増えている。長屋には一人くらい読める大家がいた。それが口伝えで知らせ女は井戸端で吹聴する。
そう、大した内容ではないが情報と云うものは良く伝わる。なにしろ地方から来ると江戸は騒がしい、男は酒飲みが多く女はよく喋る。今と同じだ。加えて地方から上京して二三年していい加減なカルチャーに馴れると、後発の上京者を「田舎者」と蔑む野暮な都会者がいるが、大方は田舎者や小成金の集まりだ。都会は今でも変わらない。





部数がなければ壁新聞




そんなことで与太記事や騒ぎを煽り立てる瓦版屋が出てきた。浮世絵の絵師や刷り師、すると呉服屋や道具や、サラ金に似た質屋も繁盛してきた。まだ気風が残っていた頃にこんなことがあった。当時の芝居小屋は丸太にムシロ、座が閉まると簡単に解体していた。ところが破風を広げた豪奢な常席が建築されると、江戸っ子は「けちくさい」と嘲った。終わったら壊すなり燃やすなりして常に真新しい小屋が江戸っ子の気風に合っていたからだ。もちろん職人には仕事がなくなることだった。

旅芸人も常設小屋になった。寿司屋も屋台のおやつだったが、屋根付きに入ると職人までが体裁をとるようになった。武士の子供は寄るとさわると刀の鍔や形(なり・・衣装附属物)を話題にした。娘はかんざしや小物を自慢しあった。今でいえばブランドものだが、それ欲しさに身を売ったり、人前で踊ったり、歌ったりはしなかった。
当時は色町も昼間からやっていた。風呂は混浴、遊びはパチンコなみの矢場、つきものは博打と廓だ。混浴ゆえに風紀も乱れた、ときに大らかな乱交もあった。武芸をたしなむ者も色の道に堪能だった。あの鬼平こと長谷川平蔵が活躍した頃だ。

風紀が乱れると治安組織が強大になるのは社会の常だが、鬼平は今でいう虞犯者、つまり犯罪に問われないまでも街中をウロウロする無頼人や、今どきの昼から遊戯店に列をなすような徒人を石川島の寄場に集めて殖産(仕事を習う)を行った。当時は警察と法務矯正を併せた※事業を行なっている。
※ 日本なりの更生保護事業

前記したが、あの幕末の剣豪山岡鉄舟も色道を探求しようと毎夜のように廓に通った。酒は呑んで九升,書は一日半切四百枚、禅も剣も達人だ。途方もないことだが、江戸から成田まで約十五里(60Km)、大雨のなか夜明けに江戸を出発して成田山新勝寺の護符を拝して江戸まで引き返したのが夜半、都合120km強、下駄をはいて歩き通している。時速に直すと10kmだ。幕末の記録に嘘はないだろう。身長186の偉丈夫だ。世間の風評手柄は勝海舟にある江戸開城も、鉄舟の健脚と他を圧倒する剛毅で駿府の西郷と面談して為し得た功績だ。
「命もいらず、名もいらぬ、ことのほか始末に悪いものだが、こんな人物が大業を成す」とは、西郷が鉄舟にみた人格なのだ。(山本兼一著より)

瓦版屋の格好のネタも増えてきた。無ければ探し、大ホラ吹きからも取材して、大げさに書くこともあった。エロ本ならぬ浮世絵春画も盛んになった。これも良く売れた。

いつ頃からか新聞は社会の木鐸と云われて久しいが、こと商売物は売れてナンボの世界である。事実報道を旨とするあの朝日新聞でさえ大本営発表の恣意的情報を大々的に流していた。たしかに国が亡くなれば新聞発行どころではないが、お先棒を担いで手を貸すことは積極的だった。朝日のみならず多くは同様な状態だった。
今ほど蔓延ってはいないが、売文の徒や言論貴族を輩出したのも新聞だった。状況によって右顧左眄したり、戦後は転向し言論家崩れもいたが、もとより肉体的衝撃に弱いゆえに選んだ書き物世界のこと、うごめく囲いがあればそれも本望だった。

あの世界の習性なのか、たいしたことでもないことを切り口が違えば、すぐに争う癖がある。
人間が犬に噛みついたことでも、一面に載せれば大事件になる。いつ、どこで、何を、どうした、類だが、人情はともかく、犬の感情までは窺うことはない。淫なることでも露見すると困るものがいると、書くか書かないかで駆け引きも横行した。やはり売文の輩の群れだ。





陸羯南



なかには傑物もいた。新聞日本を創刊した陸羯南だ。新聞屋ではなく明治の言論人だ。
あるとき教員と女給の艶話を今どきのスキャンダル風に「教育界の腐敗事件」として記者は書いた。大樹の根を見ない瓦版屋根性は健在だった。
羯南は「教員とて安月給で精勤している。たかが女性と情を通じたとしても、教育の荒廃などと大げさに書くものではない・・」と、事大誇張によって読者を煽る新聞をたしなめている。
羯南は人物を附属性価値ではみなかった。いまどきでは入社試験にも通らない長谷川如是閑や正岡子規を採用して、彼らの特徴を伸ばすグランドを提供している。
子規がいなければ今の俳句は無いと云われるが、子規を採用して将来性に懸ける眼力が羯南には備わっていた。あの孫文の革命に挺身し日本人として最初に犠牲となった山田良政、側近として孫文逝去に立ち会った弟純三郎の生家は弘前市在府町の羯南の目の前だ。「これからは中国だ・・・」と、兄弟の活躍すべき視野を訓導している。
百年の計は人を樹うるにあり、と羯南は多くの人材を発掘し養成した。

よく筆者のところに現代瓦版屋や電気紙芝居(TV)の世界で食をはむ人たちが来訪する。
いつも、陸羯南の人物としての在り様を考察してくださいと伝える。
社会部、政治部、文化部、ドキュメンタリー作家など、それぞれの習性なのか言葉遣い、態度、問題意識によって人成りが出来あがってくる。取材がらみだと、突っ込み、思い込みで話の間がとれない。あれでは高齢者、女性、気の弱いものは恐怖さえ覚える掘り探り方だ。
もし、各部の習性が人成りとなって編集や経営に参画したら、紙面の総合的構成や多くのページ数を貫く生業の小志すら希薄になってしまうだろう。

記者は、書かなくてはならない、いや紙面を埋めなくてはならない切迫感と、一応事実なりに各紙で趣を変えなくてはならない体裁があると、いつ、どこで、何があったか、ことすら、ときに虚飾や錯誤もありうるだろう。ことに社会的関心や読者の歓迎があるとスポーツ紙の標題のように誇大な大文字で目を引き付ける。これが情報と称して毎朝横殴りの雨のように目に飛び込むと、鎮まりを以て考えるべき事柄までがいつの間にか堆積され、情報鬱や情報躁に似た現代的奇病に陥るようだ。

いつになっても、゛他人事 ゛を面白おかしく喧伝する性癖は変わらない。
それが文化人や知識人としてその世界では歓迎されるが、筆者の幼少のころはマイクを向けられたり、書き物に載せられることが恥ずかしかった。しかも塀(刑務所)の上を歩くものはろくでもないと云われ、法のそばをウロウロする者や金貸しには娘を嫁に出さないと云っていた。当時は医者、教師、警察官、政治家は郷の重鎮であり尊敬の対象だったが、いまは怨嗟と嘲りの群れとなっている。近ごろは御注進者が多く瓦版屋は特別な職域となった。
それも、近ごろでは騒々しい社会の病巣となっている。
人々は説明責任に狼狽(うろた)え、軽薄情報に妄動している。
つまり、あるべき人間像への倣いとなる教育すらできなくなっている

瓦版屋は何をしたいのか、そもそも何をするべきか、
天邪鬼の筆者はテレビを周囲においていない。そのうち新聞もそうなるだろう。
弱くなったが、衰えたくはない。
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逍遥備忘録  北進から南進への転換過程をみる  其の七

2014-09-26 11:07:16 | Weblog
佐藤慎一郎御夫妻


≪※ ブログ其の二≫

【老特務からの面前聴取抜粋  聞き手佐藤慎一郎氏】


名前の(□)は筆記不明瞭のための挿入です


当時の現実に表れた出来事なりと照らし合わせてください

掲載者としては時間的余裕や検証力も乏しく有為な研究者に委ねたいと思います




以下資料抜粋

「君は利害のないときにメクラになる」と
《郭末若は千葉県市川にいるとき、ゾルゲに誘われている》

ルーズベルト (駐重慶米大使) 駐米中国大使 宋子文に聞く(ワシントンにいた)
王が米武官を呼び、ワシントンから来た宋子文の電報を見せた。
青くなる 蒋は安川を引きだして迎えにやれ、と、いうことになる。
王は蒋に
「日本の降参は時間の問題である。 中国は米の援助で新軍隊の建設中である。日本が降参してしまったら中止されてしまう。中国が独立するには戦いを利用して新軍隊を建設せぬといかぬ。できるまで押さえたほうがよい。」
蒋は「ナルホド」と。


王は蒋に
「このニュースを漏らさぬように、羅を逮捕してくれ。 この運動は彼がやっている。
この情報は羅の下から来たものだ。 いまは羅しか知らぬが、明日知れる。
あさって英にわかり、米に判る。それではいけない。」
それで、1920年3月2日朝、便衣(便衣隊)が
“ 蒋委員長がわたしに会いたいといっているから”と、迎えにくる
わたしは鄭介民と英大使館に、「逮捕に来た」と電話をかける。
英大使館は蒋に抗議する。蒋は“外患嫌疑”だと答える。
英は蒋に“それなら中英同盟関係はどう考えているのか”と決めつけられ、わたしは2週間ぐらいで出る。

 逮捕されたとき、国際知識社は鄭介民に接収され、鄭は軍司令部の中に、特別情報組をつくり、組長に王□承(少将 代表団の軍事組長 現台湾)とする。
わたし(羅)が三高のとき、周 佛海は京都大学経済学部にいた。
わたしがいないと周 佛海の情報はとれぬ。
それで、鄭、私と、英、王 □丞の4人で終戦情報をやった。

上海の共産党、顔と徐、張子羽が何世□、□恩承らと組んで繆 斌を日本に送った。(幻の謬斌の対日和平工作)

私の和平路線は
申錫雨(朝鮮人 終戦後、南朝鮮の駐華大使 当時上海にいた)
何世□ →申錫雨 →安川 の関係である。
謬 斌は重慶とはなんら関係のない人である。
繆 斌は 私の部下を通じて、何応欽に手紙をやった事がある。
私はこの手紙を何応欽にやらず、私が勝手に返事をやった。それで関係があろうと考えられている。

周佛海 →張叔平(国際知識社 上海主任) →羅
張は中共に利用されており、その後、追放され周佛海の法廷に出て、のち朝鮮に逃げ、日本を通過して現在香港で貧乏をしている。

周恩来の代表として、王仲仁?が来て、朱生命事件を起こす。
署名した人で残っている人 王徳立 宋越倫 催万秋 □恩承
新京亭の主人は王仲仁が帰るとき、新京亭で送別会をする。主人は挨拶にでる。









郭沫若と王梵生は仲が悪かった。 ソ連は郭沫若をして情報をやらせたかったが、郭は力も小さいし、情報にも疎かった。
宴会のとき、王は郭に
「きみのツンボは、都合の悪いときのみ聞こえない」


王は「安心せい、絶対言わぬから」と
「自負が強すぎるからこんなことになる。虚心坦懐にやろう」と、言った。
その後、王の情報はそのまま米本国に伝えた

現在、香港にある、国府 鄭介民の大陸工作所 (国際知識社)を接収したものは、英国と一緒にやっている。 米もいま参加していると言われているが、疑問。英は米を軽蔑している。 □□曽は、私がやめてからやった。

工作所長 鄭介民
副所長 国防部第二庁々長 侯□(判っている)
〃 □□曽 (その後、台湾で1949年逮捕され、銃殺されたと噂されている。


苗剣秋が重慶に行ったのは、形式的には戴笠に呼ばれたのであるが、本当は国際問題研究所の王に呼ばれて重慶に行ったのだ。苗は西安事変の張本人。
スメドレー女史と打ち合わせたという。
また、事変まえに保定?の秘密会議に出ている。
共産党討伐をやめて、共産党と握手しろと張学良にすすめる。
終戦後は24年か5年頃 ,学良の護衛隊長 孫銘久が来日して、苗と画策する。
これはあくまで中共の使命をもって来たと苗は隠さなかった。
苗は羅に協力してくれと言われた。
そのとき羅は、大東漁業会社をやっていた。孫もやりたいから中にいれて一緒にやったら如何と、いって来た。 私は問題にしなかった


《苗剣秋氏は病室のベットに横たわり身体にはチューブを挿入、まさに危篤状態だった。苗夫人は『苗先生は我(自己)を探す為に一生忙しく動いていました』と筆者に回顧した。「張さん(学良)は・・」の問には、『張さん、あの人はお坊ちゃんですよ』
以前、苗氏は【天下公の為、其の中に道在り】と色紙を書いてくれた。そして『男なら世界史に名を遺すようなことをしなさい』と。
訪問は常備薬「七福」と甘いケーキだった。》











苗が共産党の悪口を言い出したのは、徳田球一らが、パージになってからである
これは、一種の援護策である。 米は共産党の同調者を逮捕しかねない情勢だった。
それで、大使館の□友徳参事官を通じて、張群に取り入った。
( 張は□に日本情報を取らせる。□は日文が読めぬ。苗がかわってやっている。苗 はこれを利用して張群に取り入る。)

苗は現在、台湾政府から少し生活費をもらっている。
実際は、応大華行から出ている。(中共 日本工作機関)
正式には東京にはないが、楊雲竹が東京にいる。
張雲竹は本名(張宋植)米国籍でCCchangといっている。
応大華行は香港で手入れされてから、張宋植は行方不明。
米でも手入れされ、資金200万ドルぐらい凍結されたといわれる。

張の下で楊が働いていた。張の後で楊が日本の責任者になっている。
楊の事務所は、今、富国ビルにある。
大使館のそばが苗の家、苗はそこから新聞記者の資格で、自由が丘の大きな家に入る。
もとの苗の家に楊雲竹が入る。
平和条約の後、接収家屋を返さぬといかぬので、自由が丘の家を苗はかえして元の家に入る。
苗の今の家は日本のある無電会社々長が、タダで住まわしてくれている、といっているが、この事情はあわぬ。おそらく、応華大行の家である。
生活費は、張学良から出ているというが、ウソである。
苗の娘と、娘婿は米留学 これも張学良から出ているといっている。








結論からいうと、親米、和ソ、反中共策をとれ
中、ソは表面的円満のようだが、内部の摩擦は大変なもの、ソとしては中国に共産党を中心とした衛星国家をつくる計画があった。あくまでも衛星国家としておきたかった
意外なことに、ソに負けぬぐらい強大なものになってしまった。
そのうえ、実権者はもともとソのお陰で今の地位に就いたものではない。


  英の援助が大きかった。
ソ連系の者には(国際派)、中共の主流にとって替わろうとする陰謀が何回もあった。
高□、李立三
共産主義のイデオロギーを重視し過ぎるきらいがある。

共産主義革命は、人をだます道具で、天にかわって道を行うと、いうのと同じである。
自分たちはソにだまされない。警戒しながら利用しているだけ。

6億の人を押さえ付けるのに、党員だけではできぬ。 どうしても、ソの援助という張り子の虎の威を借りる必要がある。

向ソ一辺倒は、威を借りるためのスローガン。
自分の力で押さえる自信がつくまで、自分で虎を破り捨てるつもりはないが、ソに対する警戒心は一刻もゆるんでない。


ソでは衛星国のつもりで援助していた。最大限、黄河以北と思っていた。
南京撤退したら、李宋仁と一緒にソ連大使館のみ広東に移る。米英は南京に残ったのに。
これは、ソが国民党と組んで、中共の南下をくい止めたかったのだ。
台湾は問題ではなかった。敗残兵のみ。
米のフリーゲート艦少しと、日本の武装解除された船のみ。
問題なく台湾は取れた。 ソは船を返さなかった。


朝鮮和平が長引いた原因は、米ソの問題ではなく、中ソの問題である。









ソは戦争をやめると同時に、中共の在鮮、在満の兵を本国に引き上げることを要求した。 中共は戦争をやめたいが、部隊をそのままにしておきたい。この一致点を見つけられず、長引いたのだ。

スターリンは、中共を東南アジアに向けさせたかった。
中共が南進すると、北方が空っぽになる。
毛は要求を表面は引き受けて、朝鮮から動かさない。
催促され、申し訳に西蔵に兵を入れる。
中共の立場からすれば、西蔵に兵を入れるのは全く不必要。
西蔵を押さえるのは、東南アジアの入り口を抑えたと同じだ。
あとはソの援助を待つのみ。



満州占領の時は、中ソに秘密協定があり。
ソの了解をなしに、中共の兵を入れてはいかぬ、と。

スターリンの死がだいたい決まる。
それで死の直前に、安心して中共は精鋭部隊である、林 彪旗下の2個軍団を佛印にまわす。
スターリンの死後、必ず主導権争いがあるだろうから、この機会に東南アジアを入手しておこう、というので中共は本気で乗り出す。

東南アジアに対する考えは、
ソ連は
1 中共をそそのかして、東南アジアで冒険させて、米英の力で叩きたい。
2 アジアで今一つの強い国をこしらえて、中共と互いに牽制させておきたい。
この国は、日本が一番条件に適っているが、東南アジア諸国を日本にくっつけ てはじめて条件に適う。中共はこの腹が解る。その手には乗らない。










中共が朝鮮に出たのも、もともと日本を入手したいからであった。
米はまさか、朝鮮や日本のために、本気でやるまいと思っていたのに、意外ややったのでビックリした。 工業の発達した日本をソに利用されたら困る。



東南アジアが米の援助で日本のものになると、本当に中共脅威である。
日本のものにならないうちに、東南アジアを中共が入手したい。
スターリンが生きている時は、北から空き巣に狙われる。
スターリンが危なくなる。それで本気で佛印を援助した。




筆者註
これは決して相手をあげつらい、貶めるための資料ではない。また歴史の記述を徒に書き換えを要求するものではない。欧米列強に蝕まれた祖国の回復のために懸命に行動した民族の姿である。

弱きものは強きものに随い、自らをも欺き、地に伏して泥水を啜った民族が、その歴史の恩恵か、有り余る知と戯れを駆使して異物を排除する人間の自然な行為にもみえる。香港は還り、富も蓄積した。これからは守るために知と戯れを用とするだろう。

歴史を俯瞰して眺めると、武力が数字や投機と変化し、また漣が津波となって押し寄せる危機を、アジアの共通意識として共助しなければ、またあのときのように離反の憂き目を見るだろう。


1998y
つづく
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逍遥備忘録  北進から南進への転換過程をみる  其の六

2014-09-24 11:01:50 | Weblog
佐藤慎一郎氏の叔父 山田純三郎と孫文



2000y 掲載ブログより抜粋

ある日、佐藤慎一郎氏より日中近代史に関する秘史というべき資料の寄託を受けた。
長文の添え文と共に数多の関連資料があった。だだ、当時の事情は研究者もなく、存在したとしても文献検索や歴史経過に表れる表現のなぞりを関連付けたものが多く、当事者からの聴き取りは少なく、まして記憶が曖昧だということで彼らの盾とするアカデミックな検証には馴染まなかった。それゆえ時と環境を待つしかないような我が国の学究事情だった。
ちなみに、NHKの某氏、産経、読売の某氏、有名大学の教授などに持参し考察を受けたが、アツモノなのか難解なのか理解不能に陥った。当事者、同世代の関係者は口をつぐんだ。
なにも、言い募って他国を非難するものでもなく、歴史の新事実として喧伝することでもなかった。
だが、組織で食を得る人たちには難しいも事柄だった。

近ごろ関係国との軋轢が増えてきた。それに連れて彼らも資料漁りが烈しくなった。もちろん意図するところは過去をさかのぼった他国の非難である。またあの時同様な熱狂と偏見が起きてきた。みな、天に唾することを恥じない非難のようだ。
佐藤氏はつねにその民風を恐れていた。行為は反復、反省、覚醒、が伴うものだが、また元に戻りそうな気配がする。
「外を見るより内を見る」そんな気持ちでの備忘拙意だと理解賜りたい。




台湾の小学生


日清、日露の大戦を経て、アジアの一角に軍事大国としてその戦略的位置を占め始めたころ、欧米のアジア北東における植民地の版図の書き換えは、北東アジアの強国となった日本の牽制と衰退を意図した日中戦争への誘導を促し、北京の抗日129事件から盧溝橋、西安事件、真珠湾と、その意図する成果を上げ、思いのままの様相でアジアスキームを成就している。
イギリス諜報部を含む国際シンジケートの謀略は欧州の大戦をもその構図のコントロール下において、今もって中東にて進行中である。
 その間における国家間の栄枯盛衰における人的消耗と資本の消費は、その勢力の意図するとおり、消費資本の提供元として対岸の繁栄を貪っている。

さかのぼればアメリカ建国からヒトラー率いるドイツ、レーニン率いるソビエトコミンテルンの創生から崩壊まで、その構図の中にあるようだ。
その手中にある日中戦争や、我国においてのゾルゲ機関の情報収集も、謀略によって外地中国の判断材料を錯誤させ、判断の如何より、いかに謀略どおり決断させ、その裁可をいかに早く伝えるための謀略成功確認の報告でもある。
いわばブンヤのスクープ情報のような存在でしかない。

謀略と情報、中国国内におけるその仕込み作業は、日本人協力者をふくめ我が国の敗戦に向かって大きな成果を上げている。
その敗戦の質は、国家の縦軸の崩壊を誘導し、数字や努力結果 比較論では到底表すことのできない深層の国力というべき情緒、特徴ある価値観を錯覚させる巧妙なプロパガンダにより旧来の農本主義によって培った人々の人情や、地域特性から発生した連帯を崩壊させ、民主の名の下に自ずと百家争鳴になった民情の帰結として、欲望の制御如何ということに代表される、家庭、教育、社会、政治、経済等の雑然とした議論の煩雑さを招き、本来地域集合体としてあるべき民意の収斂システムを破壊させたことでもある。


それは、その後のシステムとして構築された消費資本主義という巧妙な収奪は、彼らの云うグローバルスタンダードのアジア拠点のとしての日本の衣替えのための序曲になった





バングラデッシュの小学生


北京の小学生

近頃、話題に載っている映像プロパガンダとしての商業映画に、ゾルゲ事件やその登場者を題材にしたものが企画されているという。
5年前、監督に製作意図を伺うために電話をしたことがある。
こんな会話だったと記憶している
「ゾルゲ事件を題材にしているそうですが」
「そうです」
「実はゾルゲ事件の背景として中国国内での仕込み作業としての組織である国際問題研究所があることはご存知ですか」
「知らない」
「高名な監督が選択した題材としてゾルゲ事件を撮るわけですが、史実背景として資料を送りましょうか」
「いや、ドキュメントではないので結構です」
「しかし、歴史に実在した事件を背景にしたストーリーは見る人々を、そのままの事実として理解させてしまう恐れはありませんか」
「ドキュメントではないので」
「資料としてでもご覧になりませんか」
「結構です」




当初は尾崎氏を題材としようとした


その後、監督は中国政府全面的な協力のもと、中国紀行のテレビ番組に出演して、その悠久な自然環境に感激している映像があった。
また、ゾルゲを題材にした日本人協力者のドキュメント風の解説番組では、尾崎某の心情を当時の言論弾圧への抵抗者として表層の心情を想像模写している。

たしかにヌーベルバーグともてはやされてデビューした商業映画の監督だが、一過性の浮俗価値のなかに存在する宿命怠惰の劣情を人間の本音と錯誤し、しかも巧妙にも虚偽世界を悦楽の幸せとして楽しむ流行価値に先取りを装って便乗する商業発想は、社会の経緯をと調和をもって育んでいる深層の国力というべき情緒までも融解させてしまう危険性がある
もちろん、縦軸にある歴史も錯誤の類として論じられ、監督の命題でもある国情と民情の分別さえも茫洋とした世界に追い込むことになる。

主人公が作意を持ち、縁によって他と同ずるとき、自らの発想ではない既成の流れの一員として初期の作為の発想と同様な境地が廻ってくる。
それは、人間の人情や利他という問題が自己解決の、さも大義のように掲げられ自らの不安な正当性を優しく包み込んでくれる。
とくに、外地の人情や風情に妙な感激を覚える日本人の特質が添えられる。
そこには、多面的世界観や固陋な歴史をいとおしむ雅心はない。
自己の発見と完結を願うため、復讐を陰策に置き換え、却って自らを亡失に追い込むような単なる天邪鬼ではあるが、現世の価値では「個性的」「興味深い」というのであろう。

しかも、さまざまな場面での民族の惨劇にある枝葉末節な一面的怨嗟の心情を、国家が個人に与える表現の収奪として発想する、言論、出版、映像を生業にするものの反射的問題意識としてとらえるにしても、近年云われている、活字離れ、思考力の劣化に反比例するかのように漫画、写真誌、テレビ、映画という映像伝達が、さも高度化された人間社会の伝達方法のようにもてはやされてはいるが、その現実実写と思われるものが架空模写であっても娯楽報道という言葉の発生があるように、さも実態社会の映し絵のように記憶としてデーター化されてしまう。

しかも、そのデーターは科学的根拠という論の表現の説明補助によくある逸話や詐話にある、「例題サポート」として引用されている。  


例題は自身の論拠の希薄さの説明補助であり、肉体的衝撃を避けるための大偽のようなものだが、往々にして「智は大偽を生ず」といった知識人の幼児性によるものが多いことは、流行芸術もその類を免れない。

映像芸術とか表現は監督の特徴に委ねられる。
しかし、史実を矮小化して登場人物の心情を模写し、一方から語らせても、「それが映画だ」といわれても、その手法と場面を独占するものの意図を推し量ることはできない。
やるぞ、やるぞ。といわれ、スキャンダラスな出演者を並べる商業映画の意図は、たとえ観客に読み込まれるとしても・・・ 
いや、ごまめの歯軋りは自らの方法で完結しなければならないだろう。
それぞれの食い扶持はさまざまな方法があるが、解ろうとしてはいけない。
自ずから然りだ。









『世界を征服するにはアジアを征服するにあり。 アジアを征服するには支那を征服するにあり。支那を征服するには満州を征服するにあり』この機密文書にある一章は、日本の政友会田中義一首相当時の参謀総長 金谷範三陸軍大将の満州征服計画を基幹として、慿玉祥顧問の松室孝良少将の満州問題についての一文であり、現地中国の新聞紙上に公表された文章である。
 またこれは田中上奏文として日本の満州侵略計画として天皇への上奏文として決定されたものである。

この文は中国の特務工作によって手に入れたものだが、極東軍事裁判における「共同謀議」の動機として法廷で調べられ、米国や日本の研究者も注目したが、この征服野望の観念は頭にこびりついて払うことができなかった。
いかに、謀略宣伝が人心に影響を与えるかをこのことでも知るのである.
              田中義一伝 下p665 「田中上奏文の真相」


現在の通俗では「なるほど」と看過してしまいそうな一文でもある。
要は、先の大戦は日清、日露の勝利によって列強の仲間入りをして、その驕った軍部は天皇中心とした全体主義を打ちたて、その権益保護のために満州侵略、その後の盧溝橋の謀略によって対中国への戦端を開き、その蛮行を制裁する欧米に対し権益確保と支配地の防衛を理由に真珠湾奇襲、また東南アジアにその戦端を開いたのである。その謀略の根底にはこのような陰謀があったことが明確である。

以上が日中、対連合国との戦争を考える大前提であり、戦後の「極東裁判」の根底にあった考えであり、そこから生み出される裁可の趣旨や戦後教育に一貫として流れている歴史概念の前提にもなり、歴史の岐路にタイミングよく登場した田中上奏文の効力でもある。





自衛隊PKO


謀略にもさまざまな場面を想定し、その効果を計るものである
この上奏文の作者は松村孝良少将の作ではない。
満州軍閥の頭目であり東北軍を率いた張作霖、張学良二代にわたって秘書を務めた湖南省出身の王大禎(王梵生)によって偽造されたものである。
王は蒋介石率いる国民政府軍事委員会 国際問題研究所の所長であり、特務機関「藍衣社」とならぶ二大情報機関であり一方は国内、研究所は国際情報の謀略機関である。
しかも王は国際共産党員であり、その組織には青山和夫、加持、満鉄調査部の尾崎、国内では西園寺らの連携と、資金源はイギリス情報部パイル中佐。日本では知識人として高名な郭末若や西安事件の陰の主役であり、張学良と同年で張作霖の援助で日本留学した苗剣秋がいる。

蒋介石の懐刀というべき特務機関が、共産党特務工作の責任者周恩来の手中にあったという驚くべき実態と、王が中華民国大使館員として駐在中の安岡正篤をはじめとする朝野の実力者との交流や、蒋介石の北伐資金の大倉財閥からの中継組織である北京 宮元公館主宰者宮元利直氏との義兄弟の交わりなど、王の真摯な姿勢と学識に裏打ちされた人物識見は、謀略機関の責任者としての意図を察知させないものがある。

王は安岡正篤をして「人物」といわしめている。また戦後、渋谷の東急アパートに住んでいた宮元利直氏の書斎には安岡氏から数通の書簡があったという
宮元と王の関係、王と蒋介石、周恩来、張学良、東北軍顧問の苗剣秋、そして盧溝橋事件の真の首謀者劉少奇と周恩来のかかわり。
盧溝橋から西安事件から国共合作 極東軍事裁判後の国共内戦から毛沢東の国内制圧など、まるで計画通り絵に描いたような歴史の経過図である。


国際問題研究所と王大禎については組織、歴史経過とともに著すとして、なぜこのような秘すべき実態が露になったかを辿ってみよう。




辛亥革命で恵州で殉難した山田良政 佐藤氏の叔父


≪佐藤慎一郎氏との対談より  聞き手 筆者≫

それは普段の何気ない想い出話からだった。

「昔、よく中国人と遊んだ」

「どんな人と・・・」
  
「横浜の譚覚新という日本革命の責任者もいたが、あの時は『今度 稲山(経団連)を招待する。そのあと角栄は必ず来る。周総理はやってくれるだろ』と、いっていた」
 
「あの、時折中国に苦言を呈している譚路美のお父さんですよ」
 
「判りにくいことは沢山あるが、人の人生と人情が問題なんだ」
 
「苗さんは」
 
「苗さんも僕には何でも話してくれたが、国際問題研究所のことは言わなかった」
 
「でも、苗さんの奥さんが『張さんは、お坊ちゃんですよ』と、嘆息していましたが、その張学良氏に向かって『お前は今誰と戦っている。お前の親父を殺したのは誰だ』と、西安事件の役者を演じて、周恩来と打ち合わせどおり国共合作によって国民党を日本に当たらせ疲弊を誘うという謀略演技は日本人には真似できません」
 
「いや、周恩来は演劇出身で、右で泣いて左で怒ることは朝飯前だよ」
 
「でも、周さんが命を張って毛沢東に諫言すれば革命後の数千万人と文化大革命での劉少奇も犠牲にならなくてもよかったとおもいますが」
 
「それは『逢場作戯』といって、自分を守ることに演技しなければならないことが習慣化している情感だ。だから、ささやかでも本当の人情を求めるし、信じることに慎重なんだ 周さんのその雰囲気は語らずして民衆は分っている」

「苗さんは知識人としても人物だった。安岡先生とも交流があった。国際問題研究所の王大禎もその関係とおもいますが、この国際問題研究所の存在とその行動によって現在の定着した観念と歴史があるとしたら、この機関の欧米とのかかわりと意図など、これを整理することで現在の国際情勢の推考が容易になるし、より多面的な歴史が観察できますね 日中史の観点がひっくり返りますね」

「ある意味では表すことの勇気だ そして他国を巻き込んだ世界史を書き換える騒ぎの帰結するところを直視することだ また日本と近隣の騒ぎを利用する遠大な意図を確認することだ  それは既存の歴史観を書き換えることが目的ではなく真実を探求し伝えるという科学的学問なのだ  ただ、おのずと歴史は生きている たかだか人間の騒ぎだということもアジアの自然科学だということだ」

「結果を想定して導き出す謀略意図も歴史のなかでは行きつ、戻りつの感がありますね。 強いものはそのままでも良いし、その力が善か、悪かは動機如何にかかわらず結果事実に拘束されてしまいますが、それに対抗する弱者は弱点を衝く、しかも多面的な意図、能力、実績の他に、民族の性癖までをその戦略範疇に入れた多角的な戦術謀議は、弱いものが強いものにあたる唯一有効な手段ですね」

「それに大切なのは愛国心だよ 親兄弟や妻子もそうだが、一方ではその地を護るという思いと楽土への夢だ。 あの密約というべき秋山真之が草案したあの二十一カ条だが、もとは孫文の案で山田の叔父さんと小池張造の連署が密約としてある。これは袁世凱政権に圧力を掛けることもそうだが、満州を日本に任せてロシアの南下を押さえ、日支共同でパラダイスを築こうとした大経綸なんだ。

ところが、ロマンもアジア観もない軍部のやり方が本意を変質させ、馬鹿げた干渉圧力になってしまった。押し付けられた民族にとって、どれだけ民族の面子が汚されたか。 しかも同じアジア人にだ。山縣を頂点とする思い上がった軍部と、陛下があれだけは総理にしてはいけないと言ったとかいう逸話のある大隈首相の見識のない大風呂敷、そして今と同様に堕羅漢の外務官僚の思い上がった愚行が、欧米の侵食を許したのだ。蒋介石の援助にかかわる国民党の堕落や共産党政権下の数千万人の惨禍など日本を含めたアジアそのものが侵した自制力の崩壊だ」

「この国際問題研究所の一例もその一端ですね。 歴史を穿り出すというということだけではなく、相手の立場に立てば「よくここまでやったな」と考えられる歴史の俯瞰と、本当の意味で自らを切るような検証の糧にならなければ意味がないですね」

 
「その意味でこの検証は、孫文の唱えた『世界の平和はアジアの安定にある。アジアの安定は日中相提携してはじめて成る。明治維新はその魁であり、中国の革命はその後課であり、『真の日本人はいなくなった』と、山田に嘆息し、遠大なアジア志操の涵養にもなる資料なんだ」





左佐藤 右山田純三郎 台湾にて


 数日して届けられた茶封筒のなかには、ぼろぼろの方眼紙に書かれた組織図
粉々になりかけた口実筆記された修正、なぐり書きのわら半紙、発言者羅氏との経緯が精細に記録されていた

自分たちが習った歴史は何なのだろう
あの惨禍で亡くなった人たちのことが脳裏をよぎる
トラウマと財布の按配を巧妙に取り繕う言論、出版に人物なし
しかし、時節の様子が変化していくなか、ともかく備忘として記すこととした。





これは研究所の第一所 羅堅白氏の独白記録である。
当時、渋谷の中華料理屋の主人であった羅氏と交流があつた佐藤慎一郎氏が面前筆記をしたものの読み取り清書である。

なぜ話したか…・・
当時,羅氏は妻帯であつたが,日本に愛人がいた。
羅氏は「実は女房が中国から来たが、スパイの容疑で拘留されている」との相談。
佐藤氏は各方面に掛け合って国外強制退去処分になった。
横浜まで見送りに行った際、羅氏は「女房はスパイではない。愛人がわかると大変なので,自分が密告した」
羅氏は一生懸命に掛け合ってくれた人物に申し訳ないと考えたと同時に、女房にも罪悪感を認めたのだろう、暫くすると「自分は国際問題研究所の上級責任者だった」と告白。

ここで佐藤氏の聴取経過から追ってみよう



つづく
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逍遥備忘録  北進から南進への転換過程をみる  其の五

2014-09-23 10:33:13 | Weblog
内大臣 牧野伸憲


以下は歴史の検索章ではなく、明治以降に変容した日本人、とくに西洋の模倣教育の結果、明治天皇ですら憂慮されたエリート教育の欠陥が、集団化もしくは増長すると露呈する民族の陥る癖が制御を無くした時、国家の紐帯の毀損として危機感を抱く一方の立場があった。この「ブログ抜粋其の一」は、官制カリキュラムにはない人間学もしくは、筆者提唱の「人間考学」として賢察願いたい。


起章掲載時期が異なるため、抜粋各章には重複説明あり
≪※・・・ブログ抜粋其の一≫ 


牧野伸顕、近衛文麿、安岡正篤、西園寺公一、尾崎秀実、それぞれの立場にあった人間が、諮らずも、いや偶然にも意を一つにして振り払おうとしたもののなかに、国家を覆った暗雲があった。
遠くは聖徳太子が憲法と冠位を制定したころの、蘇我、物部ら世襲豪族による権力の専横によって、今では伝統という言葉に括られているような、遡ればカミゴトに由来する太綱というべき歴史の継続が侵害される危機感に似ている。

これは、あまりにも大きな権力を持ってしまった軍官吏の行き着く先にある亡国を、異なった座標で押しとどめ、あるいは敗戦後の国家の在りようを鎮考したものであった。
敗戦後というのは、敗戦が確信であり、またそうでなければならないという考察があった。
それは、ある意味で明治維新以降の教育制度のボタンの掛け違いというべき、指導階級エリートの速成によって積み残したカリキュラムにあった人間学の再復を求めたものでもあった。
明治天皇は帝国大学の教科内容を推考して将来訪れるだろう国家の行く末を、まるで予言するかのように、元田侍従に痛烈に諭している。天皇だからこその先見可能な直感でもあった。(聖諭記参照)

近代化を急ぐために西洋のアカデミックな理論が、ときにエスノぺダゴジー(土着的指導理論、アカデミックとは異なる人間関係を大切にする学習)によって培われた五計【生計、身計、死計、】から導かれた自己成立と分別を基とした我国の経国システムが、選択的統制組織(中央管理集権)に埋没して、単に合理的と思われているものが大義という包装によって国家目標にされてしまったことでもあった。それは綱維をつなぐ責任の存在を単なる組織の役割責任にしてしまうことでもあった。
明治天皇が危惧した「相」の存在の喪失でもある

その既得権力と化した組織勢力は、富国強兵というスローガンをもってかき消すように邁進し、しかも、天皇の直感は活かされることはなく平成の現代まで続いている。

その暗雲は、目的のために作られた組織が、目的創出の根底にあった公意から離れ、まるで竜眼の袖に隠れるようにして増殖したためにおきた忌まわしい風のようなものであった。軍は竜眼の袖に隠れ・・・云々といわれたような、軍を取り巻く権益構造と止め処もない国家伸張意識、あるいは誇張された大義に抗することのできない官僚の意識構造と既得権益にしがみつき肉体的衝撃を回避するための錯覚した学問思考にもその因があった。

もちろん政策決定機関である議会機能の崩壊及び議員の現状追認、傍観的看過もその類であろう。
それは知識修得の後に訪れる妙なニヒリズム、いや肉体的衝撃を回避するといった武士(モノノフ)の覚悟とは異なる死生観があったのだろう。

その深層の企ては歴史の真実としては無かったことのように、数人かの登場人物による別の事件にスポットを当てることによって、その秘めた意思は覆い隠された。近衛は自殺した、いやそれによって秘匿された企てがあった。
いや余りにも多い犠牲とエネルギーの浪費によって巻き起こされた戦争遂行への大義名分は、より「別の事件」の秘匿性を深めざるを得なかったといって過言ではない。





中国を窺う列強



その別の事件とは国際謀略団による事件とも言われている、ゾルゲ事件との関連性を深めた尾崎、西園寺の動きと、近衛、尾崎等によるロシアの仲介による停戦交渉をコミンテルンによるアジア構想と意図的連動させた一方の流れである。
しかも、これも一端でしかない。



西欧の情勢は不可解、と内閣を投げ出した政治家がいたが、それくらいに情勢観察に関する政治家の座標がおぼろげであったとともに、ヨーロッパから見ても蚊帳の外にあった東洋の小国のステージは狭く軟弱だった。

それは、利用するつもりで、逆に利用された構図であり、ロシアによる仲介が米英との戦いに有効であり、かつ日本を覆う自浄力が衰えた忌まわしい軍部からの主導権の奪取という、それらの立場にありがちな純情でありつつも狡猾とも映るような構図を描いたのである。

その企ては、自らの置かれていた地位や、巷間使われるようになったノーブレスオブリュージュといった高位に存在することの責務が根底にあった。
明治以降、いやそれ以前から男子の気概の表現としてあつた立身出世とは異なる流れに属する学問、もしくは生まれながらの氏姓が涵養し保持していた国家存立の本綱(モトツナ)に必須、かつ秘奥に存在する学問によって国家像を描いたものであり、それは、ごく少数の人間から導き出された意思であり、良くも悪くも明治から蓄積された負の部分の排除による国家の再生を考えていた。
また、鎮まりをもって歴史を俯瞰し、日本及び日本人を内観できる人々の考察であったに違いない



あの西郷ですら、このような国を描いたのではない、と言わしめた執政受任者の人間性と、曲がりなりにも士農工商で培ってきた日本人の特性や情緒を捻じ曲げた理解に置くような成功価値や、擬似支配勢力の狭隘な既得権意識は、軍、官僚にも蔓延した止め処もない暗雲となっていった。
もちろん封建といわれた武士社会も江戸の末尾には、武士(モノノフ)の気概が薄れて、姿形だけの怠惰な既得権者に成り下がり、外的変化に対応できなくなったことは、後の維新を呼び起こしていることに見ることができる。

だか、人間の分限を弁えた習慣や掟に内在していた自己制御と相応する生活守護に慣れ親しんだ庶民にとっては、維新のありよう云々より、穏やかなときの流れに懐古するには、そう時を要することがなかったことは、国家、国民の創生した明治の集権に馴染めないものがあった。
それは亡くしてしまったことへの哀れであり、そのために招くであろう国家の衰亡を予感する人間の憂慮でもあった。

国家なり社会に賞味期限があるとすれば、まさに幕末と太平洋戦争の敗戦は人間力の衰退と、歴史の残像にある資産の食い潰しのようにも考えることができる。
譬えそのことが産業革命以降に勃興した資源問題、あるいはそれ以前の植民地の支配を既得権として継続させようとする巧妙な戦略的謀略に飲み込まれたとしても、また西欧を知り、富国強兵政策の選択が当時のごく普通の近代国家の在りようだとしても、明治初頭の人的資質の変容は、さまに知識、見識、胆識にある人的資源の枯渇であり、歴史が培った資産の存在を認知しない行動であった。

しかも、混乱の後、結果として訪れた戦後の国家形態は「負」を排除するとともに、「正」もひと括りにして融解してしまう誤算があった。












この企ては専軍権力者からすれば反逆者であり、当時の国情からすれば国賊であろう。
それは大謀によって大綱の方向を直す作業であるが、一方、国際謀略との必然的接触による錯誤を誘い、歴史そのものから抹殺しなければならない企てとして忘却されようとしている問題でもある。
この暗雲の停滞を憂うる人たちは、往々にして現実問題の解決を謳い権力を行使する議会人及び調整役に成り下がった宰相とは異なり、また国家の護るべきものの見方が異なる思考の人間たちである。



ゾルゲ事件は御前会議の結果を速報するトップ情報の取得である。
しかし、中国での企ての仕込みは謀略である。南進させ米英との開戦に導くために、御前会議の事前情報の意図的、あるいは現地の既成事実のなぞりが政策となっていた軍、官、政、指導部の理屈付けを作成したのである。










盧溝橋、通化、西安、総て国際コミンテルンの指示による共産党の国内権力闘争のために蒋介石打倒の国内闘争に利用されているようにみえる。国民党の諜報機関として藍衣社を押しのけ、蒋介石の最も信頼の厚かった軍事委員会国際問題研究所は形は装っても、敵方共産党諜報員に操られていた。その情報を尾崎は信頼し鵜呑みにしていた。

そのリーダー王梵生(第一処 主任中将)は戦後中華民国参事官として駐日大使館に勤務し、政財界の重鎮とも交流を重ね安岡とも親密な交流があった。その後、不明な交通事故で亡くなっている。王は米軍将校と常徳戦跡視察の折、真珠湾の予想を述べたが、将校は笑って信用しなかったという。然し、その通りになり米国で一躍有名になった。
もちろんM16のパイル中佐からチャーチル、そしてルーズベルトには伝わっている。

満州事変以後は総て謀略構図の掌中にある。しかも日中ではない。国際的謀略である。スターリンもそこに陥っていたといってよい歴史の結果でもある。

尾崎、近衛は中立条約を締結していたソ連に望みを託した。近衛はその相談相手として安岡と新潟県の岩室温泉に投宿して懇談している。 それは昭和二十年の蛍の舞う季節だ。
国家の行く末を案じたものであっただろう。だか大きな謀略構図は、悪魔と理想を表裏に携え、いとも簡単に戦後の国家改造を成し遂げた。自虐的な国家憎悪と史実の改ざんを浸透させ、彼らが危惧し描いた国家を、一足飛びに異なる方向に着地させた。








尾崎は自らを回顧し、近衛は語らずに逝った。安岡は復興のための人材育成と、真のエリート育成のために終生心血を注いだ。
王の唱えるアジアの復興に呼応した北京宮元公館の主、宮元利直は国民革命の成就のため北伐資金を大倉財閥から拠出させ、表面的には蒋介石についていた王を助けている。また戦後、王の用意した特別機で重慶の蒋介石に面会した初めの日本人でもある。

渋谷の東急アパートの宮元の自宅には安岡からの手紙が多く残されていた。戦犯免除も宮元の労があったとみるが、王との交流をみると純粋で実直な人物にありがちな寛容、かつ無防備な義に安岡の一面を見ることができる。

つづく

イメージは関連サイトより転載しています
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逍遥備忘録  北進から南進への転換過程をみる  其の四

2014-09-21 12:40:56 | Weblog


時空を超えて当世の現代人は特攻なり武功をあくまでバーチャルな感覚でしか見ることはできない。たとえ記録映像や遺品に触れ、生存者の口述に驚愕感動しても、彼らの肉体的衝撃は想像をなぞるしかない。その感動は個人であれ、集団であれスポーツを観戦して汗や痛み、恐怖などに共感し、かつ勝利の感動や敗者へのエール、銃後ならぬ家族や国家への感謝の表現によって他人の存在を感知する。しかし、総じて勝敗に一喜一憂して負ければ諦め、勝てば飛び上るほどの歓喜を表すが、競技者以外は一過性の興奮でしかないようだ。どうも人は他の人々共に興奮することを欲しているが、高ぶりは続かないようだ。つまり今どきの連帯はつねに離れることを優先し、ただ共に空気を吸っている人間が手に届くところにいることだけで安心する確認行為なのだろう。
怒り、笑い、驚き,狂喜する、まさに映像とスポーツと異性との交歓だ。

特攻に戻るが、故人の遺言を拝読すると同世代の若者も高齢者も心を動かし時を超えて思いを移す。沈黙の思索は浮俗では考えられない烈行として己の肉体に問いかける。
次に来る、自分ならどうしただろうか、という土壇場の姿だが、あまりにも純情な兵士の辞世への意志が、目をそむけたくなる己の心中に突き刺さり、ときに世俗に浮浪する我欲の争いに己を映す。まさに歴史の知学ではなく肉体修学である浸透学のように、各々の体験となって臨機や臨度(様々な機会に表れる心の度量)に浸透されたものが滲み出る。
つまり、自ずから感動を通じた歴史の継承者となってことでもあり、兵士の肉体を懸ける意志を、たとえ稚拙な文字で書かれた遺言でさえ人の心に憑依したかのように滲み出るのだ。学びは意志の表層であり、無作為の感受は情緒の涵養になる。それこそ深層の国力を継続する糧となるものであろう。

若者たちは精華することで克復することを委ねたのだ。克服とは、戦いに勝って平和を取り戻す意味だ。それは、まず己に克(かつ)ことだ。どんな境遇でも縁に遵い堂々の人生を行うことを命懸けて確認した。つまり生命とはそのように用いるのだと教えてくれる。だから彼らは今でも活きているのだろう。

これは競技の勝ち負けではない。驚き・笑い・狂喜もない兵士の行為だ。時をたがえて10代の若者が己に克つ姿を魅せてくれた。しかも勝敗を超えた歴史への克己心だからこそ、現代人が誘引される威力があるのだろう。











ならば高給と冠がつく軍人や官吏どうだったのだろうか。白刃の下を潜り抜けた明治の軍人とは違い、立身出世を夢想していた一部の軍官吏の姿は官製学の学歴選別や海軍大学、陸軍大学、士官学校等のの卒時成績の任官制などを悪しき陋習の限界として、人間そのものの質の劣化をあったようだ。しかも、智慧のない選別方法は是正することなく平成の御世においても続いている。阿諛迎合、曲学阿世、公私の分別はその代名詞として社会の真の覚醒を妨げていることは周知のことだと判っているのだが、制度や待遇で人が変わる、あるいは国風が変わるなら、いと易いことだ。

過日、筆者のもとにある自衛隊将官がその類の憂慮で訪ねてきた。将官は難関の最高学府をでて米国の有名エリート校の博士課程を修めた自衛官だが、こと人間の集団化した場合の変容やエリート将官たちの実態を見るにつけ、装備や組織概要は整っていても現場との調和は乏しく、はたして命令という厳命だけ前線に自信を以て送り出せるのか、あるいは背広でも制服でも、一旦有事になったらその任に堪えうるのか、一抹の憂慮があるという。ことに、命懸けは人と人の切迫した中での信頼感が無くてはならないが、それが数値選別エリートではおぼつかないという。


アカデミックな検証は部分を切り取り、掘り下げて証拠なりを得るが、他の分野との関連性を結びつける許容は乏しいようだ。それは学び舎の学科や医療の現場でも顕在し、かつ多くの諸問題の解決前提にある人間の総合的機能の有効性を敢えて抑圧し、専門部分の説明学に陥らせている。

子供の頃、熱があると先ず親が額に手を当て、熱があると水枕をあてて安静に寝た。めったには医者に掛からなかった。熱は免疫抗体が異物ウイルスと排除する症状ゆえに、熱さましの抗生物質と胃薬セットの投薬は逆効果だと祖母は言った。
掛かりつけの医者は見立てと触診の巧者だった。顔色,眼や唇で症状の進み具合を察知して、聴診器で肺の様子を観た。検査機器も乏しいこともあったが、状況を診通す眼だけは確かだった。多くの種類を大量に投薬することもなかった。患者は安心し、尊敬もした。
適材適所ならぬ適剤適所だから副作用もなかった。患者の心配も親切丁寧、鷹揚に応えるためか妙な安心感があった。たしかに云われた通り休まず学校に通い、夢中になって遊びに汗だくになると風邪症状のこともすっかり忘れ、熱も不思議と下がった。
それは遠い昔のことではない。東京にオリンピックの頃だ。




弘前城


過度の思い込みは論外だが、刑事事件でも「見立て」がある。
近ごろ流行りの証拠捏造や恣意的捜査もあるようだが、多くはノルマや所轄縄張り、上司の成果出世という欲得のなせる人間の問題だ。隣接県のパトカーまでが駐車違反で捕まったり、手柄捜査の管轄事件への非協力などは、その最たるものだ。
昔は刑事の見立ては的確で、今ほど狂いはなかった。それは警察のそもそもの目的や使命感の懐き方の問題だか、何よりも組織は役割分派はしていたが、分裂はしていなかった。

キャリアには国家観があり権力負託者としての矜持があった。ノンキャリアにも宿命観からの惰性もなく、全体の一部分としての機能を任ずる責任感も豊かだった。
だから人を信じ組織にも意志を持った従順さがあり、目的への連帯と調和が保たれていた。それは事件への真摯な対応と多岐で柔軟な思索法を取り入れることとなり、他の意見への許容と調和で、総合的知見を導くことを可能にした。くわえて生命を問わぬ良質のバーバリズムを有し、善なる愚直さをも持ち合わせていた。



長々と書いたが、ここではそのような質を持った人たちの、緊張ある時節における任務作業について、筆者の以前に記した幾章かの関連ブログを補足資料として提示したい。
前提としては本章の冒頭にある「俯瞰」を基として、「ヒント」「見立て」「当時の時節に浸る」ことから歴史を検証した。くわえて、なぜ今ごろ秘密保護法が浮上したのか、あるいはインテリジェンスの重要性が謳われるのか、時節観察の糧となれば幸いである。
ここで取り上げるのは先の大戦の岐路となった北進論と南進論が、或る状況を境に南進国策となり、ついには英米と衝突して敗戦に向かった経緯である。また、その転進は敵対勢力の企てのみならず,それに呼応した思想勢力と、相違した目的を持ちながら、諮らず、意図せず、同じ途を歩んだ隠れた勢力の存在を考察してみたい。

先ずは、その相違した目的を持つ隠れた存在について自章を再読してみたい。
戦後の検証本は必ずといってよいほど、「コミュンテルンノ謀略で戦争に誘引された」と識者は云うが、その曖昧な表現は専門研究者ですら奥歯に物がはさまった章を重ね、因の根底にある問題を明確に表してはいない。

つづく
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逍遥備忘録  北進から南進への転換過程をみる  其の三

2014-09-19 08:09:15 | Weblog
石原莞爾直筆著 弘前養生会蔵


井の中の蛙のような近視眼的憂慮は国内の思想相反する勢力の思惑を超え、結果は宣教師の伝来から新興国米国と相手は代わったが、東方進出を国家戦略とした黒船来航と交渉遅延待機の沖縄回航、南北戦争勃発での帰航した旧来の計画の継続が再戦略としての甦り、かつ外来勢力の威力を以てはじめて、国内に滞留した煩いを排除できたという、別の一面があった。


つまり歴史的企図が成就した我が国の敗戦とは別に、国内の暗雲を除くという当時の主導権を持った軍の矛先を外国の力によって削ぐ動きがあった。その隠された意図は偶然にも、いや時を同じくしてヨーロッパの戦況を憂慮する一群と呼応するように国家方針を南に転化させた。尾崎も近衛も地球儀を逆さに見るような深い企図はない。だだ、暗雲を祓い、軍という強権の鼻頭を押さえることにのみ目を向けていたのだろう。なぜなら今もって暗雲が払われた後の新生国家の青写真は誰もって知る者はいない。

もし、軍が大謀を基にした誘引に易々と導かれず、満州の地に留まり五族協和を成したなら、という歴史のIFがあったとしても、隣国やソ連をも手玉にとる遠大な大謀はいずれ形態を変えてアジアを席巻しただろう。その時の日本は似たような状況をみせただろう。なぜなら終戦後インドネシアに再度オランダが襲来し、ソ連は北朝鮮を傀儡にした戦争で(朝鮮戦争)の目的は日本の占領という企図も工作員の証言にある。
つまり、大国の庇護がなければ生きられない、いやそぅせざるを得ない対峙する大国の都合のようだ。

もう、真の独立国にはなれないのか・・・。







しかし、この真意が露呈するとまさに国賊的行為である。戦争は国策であり機能を無くした議会と云えど、一応は民主的政策決定である。
だだ、武威を保持する軍人の立ち合い決定のようなもので、怯える議会人や高貴な位置にいる人たちは手も足も出ない。だから敵の力を借りてでも排除しなければ、彼らの考える国家の継続性さえ崩壊してしまう危機感があった。
加え、ドイツのソ連侵攻というヨーロッパ事情や満州事情が複合して、この頃の歴史に多くの事件や秘史なるものを記述させた。

看過、先送りが我が国の政治的癖なら、いつの間にか肥大する組織もバチルスのような官社会の習い性だった。俯瞰した現代の種々の問題の根、もしくは深層に漂う患いもこの部分の観点がない限り解決はおぼつかない。
なぜか、理由を探せば職域のセクト主義、そして部分のみの整合性、合理性を緻密に積み上げるために、全体を俯瞰視するような、つまり多面的、根本的、将来的であるべき思考の出発が、一面的、枝葉末節、に陥り、しかも唯一の無謬性判断である数字を積み上げられれば、これまた四角四面な考査では看過、現状追認しか責任の取りようは無くなってしまう。

しかも、これを論議する議会までが軍人の顔色を窺い、なかには利権を共有する者が出てきたこと議会は死んだも同然である。一部には斎藤隆夫、浜田国松のような豪気な人物もいたが、除名ないし排斥をうけている。これも日本人らしい姿だ。
ある意味では明治以来の残滓、いやそれ以前の幕府の時節対応力、御家人の怠惰によって発起した各藩の下級武士の維新は、いわゆる山内容堂が云う、その多くは無頼の徒の雰囲気が混じった軍組織として、また連なる藩主の逡巡や迎合など、まさに昭和に軍部と議会に再来したとも思える状態だった。

再記するが、現代の官吏と議会の状態も同様な患いを起こしている。邪まなことは真似上手の人たちゆえ、大義を取り繕って食い扶持を得ることはそっくり似ている。この国は愚か者の這い出る周期があるのだろうか。その間、学び舎は人間の数値選別を専らとして、そのセクト主義(門閥、出自、学閥)を増長させている。
つまり明治には残っていた附属性価値にとらわれない人物観、それは高潔さと物や地位に拘らない恬淡な気風だ。
よく「あの人物でなくてはならなかった」とはいうが、結果を逆賭した観人則が教養として涵養されていた

あの左翼の雄、共産党でさえ東大法学部でなければ委員長に指名されない。


明確で明け透けが総てではないが、隣国の指導者は、以前は下層農民階級、いまは留学組と世襲子弟が牛耳っているが、貰いぶちの方は狡猾さも飛び越して賄賂、袖の下である。考えようにおいてはやることがダイナミックだ。思考も大胆だ。
その点、裏金や報償費、手当、などを法制化して堂々と貰っているようで、どこかセコイ、卑小なために、議論もうたい文句のごとく生命財産を守ると云いながら、生涯賃金を思案して蓄財に励んでいる政治家、官吏の群れがいる。
好悪あるが人物としては隣国には敵わない。








終戦時の鈴木貫太郎首相でさえ主戦論を唱える陸軍の意向に正面を切って意志を述べられなかった。しかも分かり切ったことまでもが意地やメンツ、もしくは本当にそう思っていたかのような主戦派は戦地に倒れた若者の誇りまで持ち出し徹底抗戦を唱えている。
情報が多い、少ない、の問題ではない、まさに明治の残滓として生き残ったかのような武士を装った御家人官吏の消滅を恐れていたような振る舞いである。

大義を謳い、謀略に乗り、近隣弱者を駆逐したが、主役として登場した英米には敵わなかった。しかし、見下した弱者相手の勝利の昂揚は陸の軍隊に蔓延していた。一部は軍政を敷き現地に溶け込んだ司令官もいた。しかし頭でっかちの内地所属の参謀は陸海の統合すら計れず、ちぐはぐな戦略命令を伝達した。厭戦観漂う占領軍司令は女色にふけ妾を帯同する者もいた。


まさに明治の悪しき残滓、いや劣化した軍官吏の既得権行使はいたずらに前線兵士を死地に赴かせた。一面では英雄伝となり戦禍と共に勇敢な義行は国民に広がったが、
尚更のこと敗戦は彼らの無念として引くに引けない環境におかれたようだ。
それは首相でさえ機が熟するまで意に反した態度をとらざるを得なかった。しかし、機は自ら作ったものではない。ドイツの敗戦、沖縄占領、首都大空襲、そして原爆と進むにつれ本土決戦を主張する者は徐々に後退した。面白いことに東条の前では強硬に主戦論を張った大臣までが、本当は陸軍の腹を探った迎言を云っていたという実態だ。



それは相手のメンツを気遣ったというより、肉体的衝撃への怯みでもあった。相手は唯一軍刀を下げて会議に参加する軍人だ。五一五。二二六、相沢中佐による永田鉄山の惨殺、と昭和動乱の主役は陸軍の統制派,皇道派の争いだった。戦端ですらその威勢で開かれた。つまり臆病者のレッテルは双方とも貼られたくなかった。国威の伸張は有っても、質実簡素な国民の幸せを祈護するものではなく、ときに兵士の命より兵器を優先したかのような命令もあった。

一方、特別攻撃隊がある。兵士個々の姿はは公私の分別として当時の実直な姿だ。もう一つの切り口は無謀ともおもえる肉弾突入だ。だが、たとえ国を守るとしても本当に精華することで勝つと思っていたのだろうか。


つづく


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逍遥備忘録  北進から南進への転換過程をみる 其の二

2014-09-18 19:43:46 | Weblog
桂林



しかし、国家の基軸である教育基本法は勝者に対するアジア的対応(柔軟吸収から同化)なのか、彼らの恣意的提供に唯々諾々と遵っている。その点、敗戦国ドイツは頑強に抵抗している。
疲弊から富の欲求の必要性もあった。また経済が優先された政策もあったが、基となる日本人の意識転換を、経済構造を含め彼らに順化した安易な選択は、いまその結果が現象として表れている。また、それはあの頃と同様に国家社会を覆う暗雲のようになっている。はたして他からの劫火でしか変わらないのか、もしくは自立自制を成し得るのか、成功価値(経済力、軍事力)の数値化では補えない為政者の煩悶でもあろう。
だだ、問題の抽出力と逆賭(将来起きることを想定して手を打つ)を為政者の至る格とするなら、その是正は数値を超えた深層の国力として国民の人心を落ち着かせることができるでしょう。

数多の逍遥談議では彼らが口ごもり、冥途に待ち去ったものもある。
これも面白い縁だが、近所の喫茶店で老文士と懇意になった。
元、上万一家の客分で志村クナイ氏を書いた自著をいただいた。
また、宮本利直氏とも交流があり、その宮本氏が偶然王梵生氏と義兄弟だということを聞いた。
あの産経の「蒋介石秘話」のことで蒋介石の了解を得たのも、「二○三高地」の映画を台湾で映写許可を懇請されたり、新竹で病院の相談も受けた、とは渋谷の東急アパートに住んでいた北京宮元公館の主宰者であり、北進を南進に企てたゾルゲあるいは英国情報部M16と連携した蒋介石下の軍事委員会国際問題研究所主任王梵生と義兄弟の宮元利直氏だ。氏は終戦後に重慶にいた蒋介石に始めて会った人物だ。もちろん王梵生の案内だ。
後に記すが軍事委員会国際問題研究所は国民党の従前の情報機関としてあった藍衣社を押しのけて蒋介石の信頼を得た情報謀略機関である。









よくマッチポンプとはいうが、ことのほか情報が的中するのは当然な事だ。また推測も的確ゆえに蒋介石は信用したが、張り巡らした組織構成員の多くは共産党員である。
ここからは多くの日本人では理解できない内容になる。蒋介石直下の組織が共産党員?、それが彼の国の面白さである。
アメリカでさえ王の情報を信頼した。米国から収集した情報はゾルゲを通じソ連に流れ、尾崎、青山和夫、野坂参三、あの張学良の軍事顧問で日本の要路にも通じた苗剣秋も日本駐在員として組織の枝に連なっている。

かといって宮元は王の謀略に直接加担したわけではない。尾崎秀美もそうだが彼らは肉体的衝撃を伴う兵士のような職分には馴染まなかった。王は国際問題研究所の所長の職務とは別に、故郷の湖南省を理想郷にしたいと思っていた。人の信頼を得る人物は透明感と理想がある。それに宮元も呼応した。
宮元の日本軍部の中国国内における横暴や大陸に群居する軍閥にたいする考えは、多くの常識人には理解できた。またそれに沿う考えを持つ人間は国内外を問わず連携する触角はあった。その宮元氏の自宅には安岡正篤氏の書簡が幾通もある。中華民国の安岡氏戦犯除外には宮元氏と王の功があったとも考えられる。

別の切り口では戦時中に宮中もしくは大東亜省(海軍)などでもっとも影響力ある人物として米国は安岡氏を筆頭に挙げている。(英文資料は安岡記念館にある)
しかし、裏から覗けば漢民族の知識人である苗や王との交流をみれば、漢籍知識に触れることに脇が甘かった(許容量ともいう)安岡氏の姿勢は、問わず語らずに種々の内情を無造作に語ったに違いない。つまり戦犯指名回避は情報源の継続として考えられたのではないかと推測する。つまり国民党の戦犯指名を出すことで宮元氏を仲介に回避を託し、その宮元氏から王を紹介されたと推測する。
ある講演では普段は現存する人物を、しかも名を挙げて褒めない安岡氏は王梵生(当時中華民国大使館参事官)を、「人物だ」と褒めている。確かに稀なる有能さを持った人物であり、漢族の知識人だ。まさに仁義礼智を体現できる人物ではあるが、身の置くところは蒋介石の特務機関を装う共産党の特務構成員である。

偶然、講演を聴いていた佐藤慎一郎氏は控室に安岡氏を訪ね、くつろいでいた氏に向かって「王は特務機関の責任者です」と伝えた。安岡氏は顔をこわばらせ沈黙していた。
その後、氏の著作には謀略について多くのページを割いている。


ときに強いものに添い戯れる行為は弱きものの倣いだが、ソ連の思惑に添い意図に随い協働することは衰退したとみる国家の方向を転換しつつ、一方では護ろうとする彼らの企てでもあった。だだ、そのことが歴史的な遠大な企ての一端を担ったことについては感知しなかった。日中の、いやアジアの煩悶の真の原因を複眼的視点は乏しかったと云ってよい。西洋の事情は複雑怪奇といって総辞職した総理もいたが、現地軍の三百代言になって陛下に叱責されて辞めた総理もいた時代である。

かといってコミンテルンの企てだけが当時の状況を作っていたのではない。フランス革命は形式的であれ国家の長(おさ)だった皇帝を消滅させ群行盲動する市民を発生させた。ロシア革命も帝政追放に群れとなった市民を使った。謳い文句は、搾取解消、自由、解放、平等、民主などだが、未だかってその謳い文句は到達した形跡はなく、その後の粛清や軋轢の惨禍は新たな檻の形成を助長させた。その思想はまるで統治実験のように用いられ、コスト的には民主、自由、平等、人権こそ民の連帯を破壊し、金という添加物によって精霊や神から人心を離反させ、取り付く島を無くした人々は自由と孤独、人権と反目、まとまりのない民主を背負って檻の中を浮浪している。
成功価値の偏重を唯一の価値として宣伝し、金を偶像視させて人を競わせ、争わせ、思索の許容量を減少させ真の自由を閉塞させ、よりコストの掛からない統治方法として自由と民主を、力を以て世界に喧伝した。詰まるところ人を統治するのは金と恣意的な情報であり、これを掌中にしたものは世界を統治する仕組みが出来上がった。



北進や南進、中国の侵攻が誘引されたように感じたことが、コミンテルンの謀略とすることは近視眼的構図を考察する導路のようにみる識者もいるが、閉塞的定点観測や学者間の垂直的関係にある定説踏襲による学説の背景では、決して踏み込めない説の世界である。彼らの食い扶持世界は売文や貴族的言論として第四権力を構成し、よりその戸惑いを深め亡羊な世界に大衆を誘い込んでいる。





山田と孫文




余談だが、いまの日本が超大国のアメリカに添うのもその思惑からだ。よりによってわざわざ隣国と刃を戦わせることは自然ではない。不自然だからこそ守られるものもあるが、その盾の代償は国民の変容にともなう成功価値や歴史観の錯誤と、情緒性の衰えだ。
あの明治の初頭にフランスにかぶれ教育制度を模倣し早速、啓蒙思想とやらを宣伝し明治天皇に憂慮された。憲法・陸軍はドイツ、海軍はイギリスとここでも統一感の政策、いや一過性の対策をとって可哀想なくらい模倣に勤しんでいる。迎合性と好奇心もいいが、外国への許容量と寛容、とくに欧米への傾倒は恥ずかしい限りだ。
明治の野暮な文相は、お喋りで新しもの好きの西洋かぶれ、あの山岡鉄舟からも一瞥さえされなかった。森有礼とかいう人物だ。それは民族の性癖のような好奇心と迎合心に自由・平等・民主を謳う啓蒙思想を添加したら今のような国になるという実験であったかのような出来事だった。それが爾来モニター民族と揶揄されている由縁だ。


標記の流れに戻るが、今でも解明されていない問題があった。当時対立した関東軍高級将校と満鉄自治指導部、終戦直前のソ連を仲介に考えていた近衛の連携者と遅延妨害を企てた国内外関係者の語り、あるいは騙したつもりが騙された各当事者の語りなど、いまでもなかなか整理が適わない継続した事情だ。

日本人には分かりづらいが、政権与党の実力者が敵対国のエージェトだったり、反共を唱える運動家が相手国の実力者のお遣いで我が国の為政者に会いに来たり、巧妙かつ卑しい偽愛国者の実情もあった。
また、ここで取り上げるソ連に対峙する北進論を南進に転化させることにより米英と衝突させる謀略が、巷間ではコミンテルンの仕業となっているが、その転進の企ての多くは国内、在満の日本人によって行われた事実、そして敗戦直前までソ連に仲介を考えていた当時の政権の見通しの甘さなど、権力負託者である軍、官吏、政治家の明治以降の立身出世に踊った高学歴選抜高官の無能力さも露呈した。
なによりも陸軍の武力威圧が、教養ある賢者でさえ戸惑い遅滞させた政治判断。恐れ、怯みの脆弱さは、教養、学歴、による明治官制学による選別方法の限界をみせた。それは満州崩壊時、敗戦決断において決定的な欠陥を露呈し、一部の軍は逃げ、官吏は隠れ、政治家は手も足も出ず固まる状態だった。それは様々な要因を含んだ大きな複合体として軍が構成され、いざ縮小するとなっても、官民問わず国内各部分の入り組んだ形状の解きほぐしには維新、革命に近い大きなエネルギーが必要だった。それくらい今の政府機構同様にコントロールがきかなくなっていた。

それは形式が整い、内部は腐り、問題は先送りする、つまり隠蔽体質と無責任を併せ持ち、封建、民主、自由、資本といった名目主義が替わろうが恒常的に帰着する民癖のようにもみえる。
だから事象の背景を読むこともなく、歴史を鑑とするわけでもなく、人を活かせず、易々と騙され、しかもそのことすら自覚しない、いや否定しなければ自らに類が及ぶとして事実を無きものにする卑小な狡猾さもがある。見た目は実直で温和で慇懃な礼をもっているだけに始末が悪い群れだ。

当時の軍および軍官吏への見方は、勝利の昂揚感もいいが、これ以上増長して議会を支配下に置き、統帥権干犯を盾に政治を専横し、問題があれば統帥権をもつ陛下に及ぶであろう憂慮を盾に議会を壟断した。
それは具体的責任云々ではなく、複雑に要因を以て構成されている国家の紐帯として、あるいは積層された歴史の連綿性を護持する機能まで毀損してしまうのではないかとの危機感だ。コミンテルンの指導に求める一群と、その関連する組織との連携をしても国内の患いを排除しようとする高貴な人たちを中心とした一群もあった。まさに同床異夢の状態だった。しかも、今と同様に「国益」が謳われ、昂揚した国民を取り込み、時運の赴くままに茫洋な流れに乗っていった。

つづく

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逍遥備忘録  北進から南進の転換過程をみる  其の一

2014-09-17 10:50:18 | Weblog
秩父の彼岸花


日頃 心に抱いている不思議感や疑問点、もしくは近現代史に活躍したり、書き物に遺された人物たちの縁故を俯瞰すると、ふとしたことで関連する事象がヒントとなり、とぎれとぎれの歴史の出来事が生き生きと関係性を明らかにして結び付き、それも自ずから(自然に・作為なしに)眼前に現れ広がる面白さがある。
ウロウロと齢を重ねるなかで鳥モチの付いた棒を振り回しているようなもので、国内外を問わず色々な来歴を持つ人物が縁というモチについてくる。それは研究者やブン屋といわれる新聞記者や物書きのような食い扶持餌漁りでないためか、ことに実直な体験が堰を切ったように語られた。とくに耳から入って口に出るような口耳四寸の学ではなく、肉体に浸透されたものが滲み出るような、薫り醸(かも)されるような深さがある。

聴きたいことを懇請し喋らせる、つまり、゛喋らされた゛類でなく、想い出し,懐かしみ、口の乾くことも忘れて絞り出す応えである。それは聴いて答える、問答ではく自ずから(自然に)語る内容でもある。舌が言うと書いて話なら、吾を言う「語り」は聴くものを驚愕させる。
その中に、人情の為せる結果が、時に効果を発揮し、ときに錯誤したり、騙されたかのような内容もあった。だからと言って錯誤の指摘、順序の整理、などの煩わしさはない、ときに酔譚であり、ご夫婦を交えての想いで話に涙したり破顔談笑になったりもした。

とくに世代に異なる歴史現場の体験者との誘いこまれるような奇縁の逍遥は、既成の官製学検証では到底理解の淵にも届かないような史実の発見があった。
当初は歴史知識の集積も薄く、かつ、さほど興味も乏しかった内容が語り手の歯唇から洩れ、その真剣さや何気なくつぶやく内容を聴いたり、応じたりしていると、彼らでさえ若僧の逍遥に重ねられた聴取内容の関連性から、より糸をほぐす様に新たな歴史認識が生まれ、若い学徒のように興味を示した。

対立関係だった満鉄自治指導部と関東軍、侠客(ヤクザ)と治安機関、統制派の軍官吏と皇道派、宮家関係者や終戦指導部と陸軍、など、当時は憎しみ合い競っていた人たちが、ときに呉越同船で歓談する人や、いまでも許せないと断絶している人物もいる。
あの終戦時に横浜国大の学生らと決起した佐々木隊の責任者が大山と名を変えて語るには、逃げて隠れたところがGHQの地下(グランドか第一生命かは不明)だったとい逸話もあった。
「なに!」「やっぱり、そうだろう・・」と応えは様々だが、酒席ではそんなことだ。
ひと時、満州関係者との縁に、まるで転がされ、じゃれあうような雰囲気があった。
多くの法事ごとに誘われた。書は東(日本)に渡ったと中国書界から謳われた宮島大八(詠士)氏が主宰した鎮海観音会にも参加した。この法事は世田谷豪徳寺の代々住職の言い伝えで施行料(読経等)は不用と聞く。物故された高級軍人、政治家などの名が読み上げられるが、「何々御霊」と長時間に及ぶ。戦前は宮島の威もあったのか多数参加したという。なにより四人であげる観音経の重厚さは今でも耳に残る感動だ。






満洲大同学院同窓 
中華民国立法院院長 一人おいて  実業家 丘氏



よく物書きが「日本を牛耳る満州人脈」と称して新橋の国際善隣協会に集う人たちを書いていた。岸信介が率いた満州統制経済を試行した経済官僚、関東軍を中心とした旧軍人関係、児玉誉士夫氏を囲む交風倶楽部の面々、大同学院、建国大学の学閥、石原莞爾主宰の東亜連盟など、たしかにこの頃の人たちは近代史の書き物によく登場した。

しかし、売文の多くは歴史記述のなぞりと想像だった。戦後生まれは筆者くらいで彼らも孫のように扱った。珍しい品や秘録扱いの資料も寄託された。花見に誘われたり、当時総理を終えた岸氏とも相伴したが、同郷の友人、終戦時の内務大臣安倍源基氏もその縁で厚誼にあずかった。二・二六時の特高課長ゆえ動乱の真相を聴いた。後に著作となった「昭和動乱の真相」だが、自宅で聴いた真相は除かれていた。岸氏はトマトジュースに焼酎をいれて「これは身体に良い」と杯を重ねていたが、今流行りの嗜好を先取りする健康感覚があった。

児玉氏は面白かった。学歴インテリではないが独特な直感と切り口は的を得ていた。
神兵隊事件の中村武彦氏や北星会の岡村吾一氏も同様な薫りもしたが、自己完結の覚悟は共通していた。また、連なり囲い、慕う人脈も共通していたが、もとより利害得失もない筆者には多くのスキを見せた。女、金、人物観などは彼らの人を観る重要な部分だが、本人たちも,敢えて明け透けに見せることで、他人は茫洋な背景を勝手に忖度して、自らの腰を引いていた。
しかも、その容貌と来歴を拡大し、知古を利用して己の虚飾にするものも出てきた。なかには在日外国人もいたが、街宣車で日の丸を掲げ軍歌を広宣する不思議さもあった。

終生の師となった佐藤慎一郎氏,親交させていただいた安岡正篤氏も当初はそこからの起縁だ。佐藤氏は老子・道教的、安岡氏は孔子・儒教的だとの印象があるが、知的教養の師というより、明治の風韻を浸透学として学ばせていただいた。ときに、キャッチボールをされて、あえて困惑、混迷に若僧を困らせ、その後の変化を愉しまれた。
どこか面白がられ、突き放す、そんな諭し方もあったようだが、学舎の縁では味わえない人物からの倣いができた。加えて満州人脈にある無頼な突破力、官制知学を超えた直観力、異民族社会での許容量と寛容、事象の見方など、それらは日頃の世間感覚と異なる意識をいつの間にか浸透させてくれた。

それは、自由闊達で居心地の良い世界だった。くわえて、今は二度と還ることのない人たちの世界だった。だだ、野暮で古臭い世界ではない。まして懐古趣味でもなく、主観固執の体験至上でもない。かれらには柔軟性と童のような夢とアイデァが溢れていた。
新幹線を主導した十河信二氏も満鉄の夢を成果とした。しかも完成を前に逝去したが、後任の国鉄総裁には、名言「粗にして野にして卑ならず」と生きざまを語る石田礼二氏を充てている。統制経済の資本集中は高度経済を可能にした。異民族の地で明確になった日本人の正邪の行為と考え方は、経済を基とした経国の座標となり戦後日本の国柄を色づけた。

彼らが深慮したのは、外部触発に群盲群止する日本人の癖だった。それは迎合心、過度の恐怖心、ときに夜郎自大になる愚連の官吏と軍の姿への慎重なる態度にもみえた。
安岡氏はその様態を「劫火同然、塵余払ってシンプン(忌まわしい雰囲気)の絶するをみる」と空襲下に漢詩を詠んでいる。
猛火に焼き尽くされ、制御の利かなくなった国家の暗雲が払われ新しい社会が訪れる、と意を漢詩に表わしている。
それは、新国家の体制を経済の発展と国利の分配、また蓄えとして、目的転換を考えた人心覚醒の座標であり、満州で試行した日本人資質の特徴を前提とした人物の活用法でもあった。


つづく
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