平川名物 緑青園花火大会
それでも時節を俯瞰すれば、戸惑いながらも時の流れに整合しつつある郷の姿もある。
忌まわしい出来事を祓いうように新市長は多くの施策を提案している。とくに、より透明性をもって市民の意見を反映するシステム構築と、平川市の新生作興を企図して多くの目標を掲げ、他と異なることを恐れない郷の特徴を伸ばし広げる独自の、つまり独立した自治の協働を市民に促している。
市長の提言の基となるものは、ややもすると慣性となった問題意識の衰えた一部職員の覚醒と励行、無駄を省くことに用を為すという自立節制を公務の在るべき姿として位置づけ、それによって政策遂行の前提であり必須でもある「信任」の醸成に努めている。
それは、未だ騒ぎの納まらない郷における長岡藩家老小林虎三郎の逸話にある「米百表」の説く、人材教育のようでもある。つまり予算を出せば乗数効果となる慣性数値評価を支出基準にする財政を、後藤新平の功績の基となった「人を育て、人を活かし、その人物によって資材を活かせば超数的効果が生ずる」といった、人物如何による公務の在り様を教導しているようにもみえる。
もとより、タックスペイヤーからすれば、税の効果的支出と時節に変化する問題是正のための施策が適う市長であり職員であるかをみているのだ。ことさら議員にはさして過大な期待をもってはいない。くわえて規模が大きくない行政区割りゆえ、人の顔や吐息まで感じられる関係である。尚更のこと新市長の施策は後藤の「超数的効果」にある。思いがけない効果があるだろう。
普通、小学校でも生徒に不祥事があると父兄を集合して会議を開くが、学校側の問題になると衆議をするところは少ない。今回の選挙不祥事の場合は市民集会を開催して膿を絞り出すことも必要だ。学校でも社会構成の前提である議会制民主主義と選挙を議論させたらよい。そして省くことは省き、政治土壌を住民の問題として検証して平川市独自の憲章なり、ペナルティーを科した遵守規範をつくり、欧米ではタックスイーターと称する公的サービス機関、特別公務員である議員に示し、守らせたらどうだろうか。
今までは規範、条例は議会の立案制定だったが、その議会が機能しないことが明白になった以上、タックスペイヤーの権利として目覚める自立心が必要になる。
これは新市長も指向する郷の新制作興の前提となる試行であろう。
何よりも数多理念を持つ公的、民間を問わぬ組織体でも、判断になれば、「役所が・・・」「役所に・・・」と依頼心が漂う。それが組織の私的・個別意見でなく、郷の運動体躍動の部分を担う公的意識をもって調和と連帯の基となる許容力をもつなら、この度のような不祥事は起こらなくなる。つまり、転換する臨機の到来をつかみとることができるか否か、それが郷の再編、再興に不可欠な人間力による要素となるのだ。
初代弘前市長で東奥義塾、東奥日報の創業にかかわった菊池九郎は維新の混乱と凶作に苦しむ津軽衆に「人間がおるじゃないか」と、明治五年外人教師を招聘して英語教育を行い、全国的にも稀な教育によって多くの傑物を輩出している。
数年前の数値だが、平川市は人口約3,3万、11600所帯、10年後には3万を切る予測もある。公務員は330人と定め市民一人当たりの行政コストは39万円となっている。
また、健康・介護。高齢者等に係る扶養支出は約50%、給与退職金手当も14%強で、人口や予算規模を問わず市町村が近年恒常化している予算形態と大よそ類似している。
多くの自治体の流行り政策の唱えは「町おこし」「安全安心」「高齢者福祉」「青少年健全育成」などだが、イベント行事、公共建築物の耐震対策などが手を付けやすい行政目標となり、非生産的世代である子供と高齢者については目新しい成果がでないためか、対応に手をこまねている状況である。ちなみに少年非行をみても法務省青森保護観察所が扱う保護観察少年は年に10件に満たず、所轄の警察署の補導件数も少ない。隣の弘前市も同様だ。
ただ、行政組織の部課別観点では見えづらいが、貧困と高齢者と青少年が複雑な要因をもった複合現象として特に津軽では表れている。
た とえば、生活保護の高齢者が犯罪を起こし保護観察処分になって病気になる。
対応は保護観察所、市町村役場、保護司、民生委員、医師などだが、この場合は縦割りのたらい回しでは到底対処できない。職掌はともなく篤志的義侠心を以て制度を組み合わせ、本人の意向に沿い、または是正し、生活再建の援助対応をしなくては、路頭に迷うだけである。
資格はあるのか、保証はあるのか、引受如何は、などと分派的対応をしたのではことは進まない。とくに貧困に応えるすべは法の準拠と市民の篤志に頼る協働が重要だ。ことは組織の上下関係や煩雑な認可条件では解決しない。郷の事情は郷独自の施策を市民に問い、他と異なることを恐れない智慧を出し合うことだ。
まさに、身内と他人、そして己の良心への問いかけでしかない。しかも、法の準拠なくホームレスになる棄民は、都会ならまだしも郷には馴染まない。
つまり、解決は郷の独立的意思があるかどうか、当事者の意志に懸っていると云ってもいい。
前記の菊池九郎は政府の補助金提供に「わが郷は独りの餓死者も出すことはありません、もっと困っている人たちに差し上げて下さい」と断っている。つまり補助金よって起債を膨らませ、箱物管理で経常支出をあげて汲々としている自治体前途と、市民の扶養金・補助金依頼による自活自生の心の亡失を懸念したのだ。それは、金を渡して有権者固有の権利をだまし取る選挙事情にも似ている。
その結果は、今の社会構造であり選挙事情であり政治の姿でもあろう。
教育行政の一つとして山間地に小国という郷がある。山間に点在する集落はことのほか静かな佇まいがある。
小高い丘に築10年程の小学校がある。山を整地した広い校庭、プール、体育館、建物もRC構造(鉄筋コンクリート)で、入ると設備は整っているし真新しい。それが築10数年で廃校になった。理由は少子化だ。出生は人口、所帯数、年齢である程度の推計はできるが、ここでは国の山間部対策として定住を企図した補助金投入だと聴いた。当時の生徒一人当たりに換算すると一人2000万の建築費だという。いまは賃料数万円で農作物の試験栽培をしている。
校庭はヘリポート、体育館は避難場所となっているが、環境を勘案すると摩訶不思議な繕い結果のようだ。子供のための立派な教育施設も無理と無駄を教えただけのようだ。国の税収が上がったために考えられた奇妙な施策のようだが、たとえ土木事業が増えたとしても市財政への負荷は少なくない。
建築物とて補助期限が限りあるものは衆知を集めて将来像や懐の貸借など想定して活用すべきことだが、箱物に夢を膨らませて経常経費を窮屈にしてしまった自治体が多い。
なにしろ収支と借金は財務省に任せて、とりあえず戴けるものは貰う省庁勘定は風水害すら恣意的に過小想定して河川敷の有効活用を謳い、全国の河川敷に野球場やゴルフ場を造った。運営はお決まりの第3セクターだが、その多くは破綻もしくは自治体の追加補助で息をつないでいる。
それも、合唱するように健康増進や市民の憩いの場、コミュニケーションの為と謳い、問題意識の薄い議会を通過させ市民の総意として遂行していた。
近在の よされ踊り
u>まさか税務署や警察署を建てるのに「憩いの場」「市民の福祉」などと云われてはブラックユーモアだが、近ごろでは市庁舎もコミュニティー機能などで、皆さんの役所を建設の題目に入れている。固定資産税や住民税はコンビニで事足りるが、扶養手当や届書類、あるいは出入り業者など、一昔前とは様変わりした役所の情景だが、本来、市庁舎は集まる場所ではない。
いっそのこと期限内に直接納付すれば割引があると云えば、たしかに混雑もするはずだ。ついでにコンビニと有名ファーストフーズでも併設すれば、遊び場にもなる。
あのアップルのスティーブ・ジョブスは、夢の可能性は馬鹿げたことを一生懸命することだと云っているが、市民の代弁者が馬鹿げたことをコソコソして捕縛されるよりかは、はるかに善なる耳目を集めるに違いない。
中央官庁とくに農林水産省の食堂や売店は美味いし安い。警備が緩かったときはサンダル履きの女性が買い物に来庁していた。いくら安いからと云って税務署や警察の食堂には入らないが、農水省ならどことなく安心だ。近隣には店舗もないので苦情も来ない。
都内の区役所では高層階にラウンジを設けて展望や食事に開放している。別に役所の業務には用事がないが、都心の区役所は使い道がある。用事がないのは、出張所などの出先機関で大方の用が済む便利さがあるからだ。いまどきはスパーやコンビニで公金支払いや調剤薬局も併設されるようになった。また、厚生省の施策もそのように仕向けている。だから税務署も滞納の呼び出しや言い訳に行くぐらいで、電子申告で家に居ても用が足りる。
昔 は庄屋の大広間や寺の庫裡、小さなことは主だったもの同士で談義は済んだ。いまは集会場だが、戸締り、掃除、借りた人が責任を委ねられているがそれ以外は自由だ。各種ホールもあれば居酒屋談議もある。込み入った話は夜も更けてからか、般若湯も必要になるときもある。話も深くなり、和みもする、それが郷だからだ。
ときおり区役所を借りるが、定時に終わり、定時までに退出する。酒やタバコは御法度だ。
も とより郷は、人と組織の形式化された関係ではなく、人と人との緩やかな間(マ)が郷のなりわいの基だ。
ともあれ、充て職の形式話ならともかく、役所に障りがある話もできないし、割烹着やサンダル履きも遠慮があろう。昔から警察と役所の出入りは遠慮があるのが常だ。だから身近な駐在さん、掛かりつけの医者、学校の先生が心の拠り所であり、結婚式の来賓祝辞の定番だった。それも今はあらぬ情報のせいか、怨嗟の対象になっているのが現状だ
いまごろ津軽は鮮やかな紅葉だ。そして雪が降る。
汚いものを隠して真っ白にしてくれる、と郷の人はいう。
一冬過ぎれば人々は事件を忘れるだろう。忘れることも郷の智慧だからだ。
だだ、少し郷の様子が変化したことを感じるだろう。
口には出さないが、恥ずかしいことはしたくはない。
津軽弁の「めぐせ」「みんぱいぐね」は、もう聞き飽きた
恥ずかしい、見栄えが良くない、は、江戸っ子でさえ野暮なことだ
粋で格好いい津軽はもうすぐ先にあるようだ。
それでも時節を俯瞰すれば、戸惑いながらも時の流れに整合しつつある郷の姿もある。
忌まわしい出来事を祓いうように新市長は多くの施策を提案している。とくに、より透明性をもって市民の意見を反映するシステム構築と、平川市の新生作興を企図して多くの目標を掲げ、他と異なることを恐れない郷の特徴を伸ばし広げる独自の、つまり独立した自治の協働を市民に促している。
市長の提言の基となるものは、ややもすると慣性となった問題意識の衰えた一部職員の覚醒と励行、無駄を省くことに用を為すという自立節制を公務の在るべき姿として位置づけ、それによって政策遂行の前提であり必須でもある「信任」の醸成に努めている。
それは、未だ騒ぎの納まらない郷における長岡藩家老小林虎三郎の逸話にある「米百表」の説く、人材教育のようでもある。つまり予算を出せば乗数効果となる慣性数値評価を支出基準にする財政を、後藤新平の功績の基となった「人を育て、人を活かし、その人物によって資材を活かせば超数的効果が生ずる」といった、人物如何による公務の在り様を教導しているようにもみえる。
もとより、タックスペイヤーからすれば、税の効果的支出と時節に変化する問題是正のための施策が適う市長であり職員であるかをみているのだ。ことさら議員にはさして過大な期待をもってはいない。くわえて規模が大きくない行政区割りゆえ、人の顔や吐息まで感じられる関係である。尚更のこと新市長の施策は後藤の「超数的効果」にある。思いがけない効果があるだろう。
普通、小学校でも生徒に不祥事があると父兄を集合して会議を開くが、学校側の問題になると衆議をするところは少ない。今回の選挙不祥事の場合は市民集会を開催して膿を絞り出すことも必要だ。学校でも社会構成の前提である議会制民主主義と選挙を議論させたらよい。そして省くことは省き、政治土壌を住民の問題として検証して平川市独自の憲章なり、ペナルティーを科した遵守規範をつくり、欧米ではタックスイーターと称する公的サービス機関、特別公務員である議員に示し、守らせたらどうだろうか。
今までは規範、条例は議会の立案制定だったが、その議会が機能しないことが明白になった以上、タックスペイヤーの権利として目覚める自立心が必要になる。
これは新市長も指向する郷の新制作興の前提となる試行であろう。
何よりも数多理念を持つ公的、民間を問わぬ組織体でも、判断になれば、「役所が・・・」「役所に・・・」と依頼心が漂う。それが組織の私的・個別意見でなく、郷の運動体躍動の部分を担う公的意識をもって調和と連帯の基となる許容力をもつなら、この度のような不祥事は起こらなくなる。つまり、転換する臨機の到来をつかみとることができるか否か、それが郷の再編、再興に不可欠な人間力による要素となるのだ。
初代弘前市長で東奥義塾、東奥日報の創業にかかわった菊池九郎は維新の混乱と凶作に苦しむ津軽衆に「人間がおるじゃないか」と、明治五年外人教師を招聘して英語教育を行い、全国的にも稀な教育によって多くの傑物を輩出している。
数年前の数値だが、平川市は人口約3,3万、11600所帯、10年後には3万を切る予測もある。公務員は330人と定め市民一人当たりの行政コストは39万円となっている。
また、健康・介護。高齢者等に係る扶養支出は約50%、給与退職金手当も14%強で、人口や予算規模を問わず市町村が近年恒常化している予算形態と大よそ類似している。
多くの自治体の流行り政策の唱えは「町おこし」「安全安心」「高齢者福祉」「青少年健全育成」などだが、イベント行事、公共建築物の耐震対策などが手を付けやすい行政目標となり、非生産的世代である子供と高齢者については目新しい成果がでないためか、対応に手をこまねている状況である。ちなみに少年非行をみても法務省青森保護観察所が扱う保護観察少年は年に10件に満たず、所轄の警察署の補導件数も少ない。隣の弘前市も同様だ。
ただ、行政組織の部課別観点では見えづらいが、貧困と高齢者と青少年が複雑な要因をもった複合現象として特に津軽では表れている。
た とえば、生活保護の高齢者が犯罪を起こし保護観察処分になって病気になる。
対応は保護観察所、市町村役場、保護司、民生委員、医師などだが、この場合は縦割りのたらい回しでは到底対処できない。職掌はともなく篤志的義侠心を以て制度を組み合わせ、本人の意向に沿い、または是正し、生活再建の援助対応をしなくては、路頭に迷うだけである。
資格はあるのか、保証はあるのか、引受如何は、などと分派的対応をしたのではことは進まない。とくに貧困に応えるすべは法の準拠と市民の篤志に頼る協働が重要だ。ことは組織の上下関係や煩雑な認可条件では解決しない。郷の事情は郷独自の施策を市民に問い、他と異なることを恐れない智慧を出し合うことだ。
まさに、身内と他人、そして己の良心への問いかけでしかない。しかも、法の準拠なくホームレスになる棄民は、都会ならまだしも郷には馴染まない。
つまり、解決は郷の独立的意思があるかどうか、当事者の意志に懸っていると云ってもいい。
前記の菊池九郎は政府の補助金提供に「わが郷は独りの餓死者も出すことはありません、もっと困っている人たちに差し上げて下さい」と断っている。つまり補助金よって起債を膨らませ、箱物管理で経常支出をあげて汲々としている自治体前途と、市民の扶養金・補助金依頼による自活自生の心の亡失を懸念したのだ。それは、金を渡して有権者固有の権利をだまし取る選挙事情にも似ている。
その結果は、今の社会構造であり選挙事情であり政治の姿でもあろう。
教育行政の一つとして山間地に小国という郷がある。山間に点在する集落はことのほか静かな佇まいがある。
小高い丘に築10年程の小学校がある。山を整地した広い校庭、プール、体育館、建物もRC構造(鉄筋コンクリート)で、入ると設備は整っているし真新しい。それが築10数年で廃校になった。理由は少子化だ。出生は人口、所帯数、年齢である程度の推計はできるが、ここでは国の山間部対策として定住を企図した補助金投入だと聴いた。当時の生徒一人当たりに換算すると一人2000万の建築費だという。いまは賃料数万円で農作物の試験栽培をしている。
校庭はヘリポート、体育館は避難場所となっているが、環境を勘案すると摩訶不思議な繕い結果のようだ。子供のための立派な教育施設も無理と無駄を教えただけのようだ。国の税収が上がったために考えられた奇妙な施策のようだが、たとえ土木事業が増えたとしても市財政への負荷は少なくない。
建築物とて補助期限が限りあるものは衆知を集めて将来像や懐の貸借など想定して活用すべきことだが、箱物に夢を膨らませて経常経費を窮屈にしてしまった自治体が多い。
なにしろ収支と借金は財務省に任せて、とりあえず戴けるものは貰う省庁勘定は風水害すら恣意的に過小想定して河川敷の有効活用を謳い、全国の河川敷に野球場やゴルフ場を造った。運営はお決まりの第3セクターだが、その多くは破綻もしくは自治体の追加補助で息をつないでいる。
それも、合唱するように健康増進や市民の憩いの場、コミュニケーションの為と謳い、問題意識の薄い議会を通過させ市民の総意として遂行していた。
近在の よされ踊り
u>まさか税務署や警察署を建てるのに「憩いの場」「市民の福祉」などと云われてはブラックユーモアだが、近ごろでは市庁舎もコミュニティー機能などで、皆さんの役所を建設の題目に入れている。固定資産税や住民税はコンビニで事足りるが、扶養手当や届書類、あるいは出入り業者など、一昔前とは様変わりした役所の情景だが、本来、市庁舎は集まる場所ではない。
いっそのこと期限内に直接納付すれば割引があると云えば、たしかに混雑もするはずだ。ついでにコンビニと有名ファーストフーズでも併設すれば、遊び場にもなる。
あのアップルのスティーブ・ジョブスは、夢の可能性は馬鹿げたことを一生懸命することだと云っているが、市民の代弁者が馬鹿げたことをコソコソして捕縛されるよりかは、はるかに善なる耳目を集めるに違いない。
中央官庁とくに農林水産省の食堂や売店は美味いし安い。警備が緩かったときはサンダル履きの女性が買い物に来庁していた。いくら安いからと云って税務署や警察の食堂には入らないが、農水省ならどことなく安心だ。近隣には店舗もないので苦情も来ない。
都内の区役所では高層階にラウンジを設けて展望や食事に開放している。別に役所の業務には用事がないが、都心の区役所は使い道がある。用事がないのは、出張所などの出先機関で大方の用が済む便利さがあるからだ。いまどきはスパーやコンビニで公金支払いや調剤薬局も併設されるようになった。また、厚生省の施策もそのように仕向けている。だから税務署も滞納の呼び出しや言い訳に行くぐらいで、電子申告で家に居ても用が足りる。
昔 は庄屋の大広間や寺の庫裡、小さなことは主だったもの同士で談義は済んだ。いまは集会場だが、戸締り、掃除、借りた人が責任を委ねられているがそれ以外は自由だ。各種ホールもあれば居酒屋談議もある。込み入った話は夜も更けてからか、般若湯も必要になるときもある。話も深くなり、和みもする、それが郷だからだ。
ときおり区役所を借りるが、定時に終わり、定時までに退出する。酒やタバコは御法度だ。
も とより郷は、人と組織の形式化された関係ではなく、人と人との緩やかな間(マ)が郷のなりわいの基だ。
ともあれ、充て職の形式話ならともかく、役所に障りがある話もできないし、割烹着やサンダル履きも遠慮があろう。昔から警察と役所の出入りは遠慮があるのが常だ。だから身近な駐在さん、掛かりつけの医者、学校の先生が心の拠り所であり、結婚式の来賓祝辞の定番だった。それも今はあらぬ情報のせいか、怨嗟の対象になっているのが現状だ
いまごろ津軽は鮮やかな紅葉だ。そして雪が降る。
汚いものを隠して真っ白にしてくれる、と郷の人はいう。
一冬過ぎれば人々は事件を忘れるだろう。忘れることも郷の智慧だからだ。
だだ、少し郷の様子が変化したことを感じるだろう。
口には出さないが、恥ずかしいことはしたくはない。
津軽弁の「めぐせ」「みんぱいぐね」は、もう聞き飽きた
恥ずかしい、見栄えが良くない、は、江戸っ子でさえ野暮なことだ
粋で格好いい津軽はもうすぐ先にあるようだ。