まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

郷学とは. 07.6再

2014-08-19 08:10:28 | 郷学
或る日の郷学 小会顧問 皇太后御用掛 卜部亮吾氏


≪日本農士学校創設の趣意≫ 
                    現所在 (財) 郷学研修所
                           安岡正篤記念館    

 人間にとって教育ほど大切なものはない。国家の運命も人間の教育に掛かっていると古の賢人はいう。真に人を救い正しい道を歩むためには、結局、教育に委ねなければならない。そしてその大切な教育は現在、どのように成っているのだろうか。

 現代の青年は社会的に悪影響を受け感化されるばかりで、その上、殆どといってよいくらい家庭教育は廃(スタ)れ、教育は学校に限られている。しかも一般父兄は社会的風潮である物質主義、功利主義に知らずしらず感染して、ひたすら子供の物質的成功や卑屈な給料取りにすることを目的として学校に通わしている。

 その群れとなった生徒たちを迎える学校は粗悪な工場となり、教師は支配人や技術者、はなはだしく一介の労働者のようになり、生徒は粗製濫造された商品となって、意義ある師弟の関係や学問の求める道などは亡び、学科も支離滅裂となり学校全体になんの精神も規律も見当たらなくなっている。

 そのため生徒たちは何の理想もなく、卑屈に陥り、かつ狡猾になり、また贅沢や遊び心にある流行ごとに生活価値を求め、人を援けたり、邪なものに立ち向かう心を失い、ついには学問に対する真剣な心を亡くしている。
 
 男子にいたっては社会や国家の発展に欠かせない気力に欠け、女子は純朴な心に宿る智慧や情緒が欠けてしまった。
このようなことで私たちの社会や国の行く末はどうなってしまうのであろうか。

 さらに一層深く考えると、文化が爛熟(ランジュク)して、人間に燃えるような理想と、それを目標とした懸命な努力が亡くなり、低俗な楽しみと、現実かな逃避するような卑怯な安全を貪り、軽薄な理屈によって正当化するようになってくると、このような人々は救済不可能になってくる。

 平安時代の公家も江戸時代の旗本御家人もこのようにして滅んでいる。徳川吉宗も松平定信も焦ったのだか、権力や法では手の下しようも無いほど民情は退廃している。たとえ百万の法規でも道義の崩壊は食い止められない。
このような時、社会の新しい生命を盛り立てたものは、退廃文化の中毒を受けず純潔な生活と、しっかりした信念をもった純朴で強い信念を持った田舎武士であった。そのことは今もって深い道理には変化はない。

 この都会に群がる学生に対して、今の様な教育を施していて何になろう。国家の明日、人々の末永い平和を繁栄を考える人々は、ぜひとも目的の視点と学問を地方農村に向け、全国津々浦々の片隅に存在する信仰、哲学、詩情、に鎮まりを以って浸り、もしくは鋤(すき)鍬(くわ)を手にしながら毅然として中央を注視して、慌てず、騒がず、自身をよく知り、家をととのえ、余力があれば、まず郷、町村を独立した小社会、小国家にして自らを治める自治精神を養うような郷士や、人々に尊敬される農村指導者を造って行かなければならない。
 それは新しい自治主義(面白くいえば新封建)主義というべき真に日本を振興することにもなる。

 農士学校は、さまざまな軽薄な社会運動や職業的な教育運動とはまったく異なり、河井蒼竜窟のいう地中深く埋まって、なお国家のために大事なことを行おうという鎮まりを護り、人々の尊厳と幸福を天地自然に祈るように順化し、人間としてあるべき姿を古今東西の聖賢の教えを鏡として、まず率先して行うべき行動である。

 金鶏学院の開設から四年が経とうとしている。我々は自身の意思と身体をこの場所に潜め、大地に伏し、地方農村に生活を営みながら、国を正しい姿に改新した先覚者、あるいは社会に重きをおく賢人とはどのような人格なのか、また学問や教養の積み重ねを、いかに勤労をとおして励んだらよいかを研究しつつ、さらにその間、私たちのささやかな意思は、日本の中心に置かれている各方面の国を考える多くの国士とも交流を図ってもきた。

 今の様相はもはや一刻の停滞を許さない。
 我々は自らの安易な生活をむさぼり、空理空論といういたずらに無意味な議論に安住してはならない。
 此処に至っては前記に掲げられた覚悟を行動に現すべく、屯田式教学(勤労しながら学ぶ「産学一体」)の地を武蔵相模の山々に囲まれた武蔵嵐山の菅谷の地に求め、鎌倉武士の華と謳われた畠山重忠の館址(やかたあと)を択んで、ここに山間田畑二十町歩の荘園を設立することができた。さすがに古の英雄が選択したところだけあって、地形、土質、環境に得がたいものがある。

 私はここに今まで寝食をともにして学問の道に励んだ有志とともに、日本農士学校を設立して平素考え求めていたことを共に実現したいと思う。

昭和 六年四月
安 岡 正 篤


現代訳文責
             郷学徒  寶田

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本田宗一郎に倣う  規制緩和や行革は政策ではない

2014-08-18 14:54:08 | Weblog


規制緩和は官域が恣意的に奪ったものを手放すことであり、政策といえる類のものではない。行革も然りだ。
以前、柿沢元外相が「霞が関のドブネズミ」と題して出版したが、江戸の敵は長崎で討たれることを恐れて国民は陰ながら喝采をあげた。その太ったドブネズミだが、あまり血を吸いすぎたために巨大になった蚊が飛び立つこともできなく、つまり身動きが取れなくなったために難渋している姿だと思えばよい。
粋人は,蚊も短い命のなかで懸命に血を吸っている、だから好きなだけ吸わせてやれと云ったが、蚊が雲霞となって吸い付いたら粋人も堪ったものではない。

隣国は改革開放政策として今まで握っていた権力の一端を緩めた。これとて犬のリード線を長くしたようなものだった。我が国の規制緩和もコントロールを容易にしてタックスペイヤーの活動範囲を広げた。つまりエサ場を広げ、エサ取りを容易にしたようなものだ。
これは政策でなく対策のようなもので、一種の延命処置のようなものではないだろうか。
ついでに行革と称して民営化が謳われた。
あの頃は中曽根行革ともいわれたが、高度成長の基幹となった重厚長大産業は、もともと満洲で試行した統制経済の焼き直しのようなもので、水道(資金)の蛇口を新たに作り(興業銀行など)、基幹産業に集中投下したものだ。その政策は元官僚代議士と霞が関官吏の計画経済だが、その利権構造は省益とあいまって政権政党の派閥が握っていた。





事業予算は官吏の乗数効果では解けない  

後藤新平は「人を観て、人を活かし、人物によって資材を活用すれば超数的効果が生まれる

先ず台湾で行ったことは、日系の怠惰、不良な役人を帰還させ、清廉なる若い官吏を登用した



中曽根氏はその隙間を民活(民間活用)という政策で新たな権力構造の変化を模索した。
その端が、大久保の国鉄用地での高層住宅建設だ。くわえて六本木再開発として防衛庁を移転して行った馴染の三井の再開発だ。その後はいたる所で地上げが行われ、土地と住宅所有を権利変換する手法が行われ、自治体も恒久的財源である固定資産税、住民税獲得に再開発を奨励した。
そこに出されたのが国鉄や電電公社の民営化や、国有地の活用という行革だ。もともと省益と族議員の牙城だったが、これも政争という名の議員抗争に埋没し単なる利権争いとして記憶に残された。踊らされたのは欲の張った一部の国民だったが、大部分は蚊帳の外だった。

その時のセットは建蔽率、容積率の緩和だが、弱者の対抗は日照権と移動による生活再建
だった。それもバブル熱による地価、資産の高まりによる懐銭に口をつぐんだ。
税収も上がり資産価値も上がったが、総量規制でバブルは崩壊して多くはババを掴んだ。

簡記したが、過ぎ去ってみると規制とか行革は為政者の都合や官吏の部分考察で成り立っているのが分かる。
教育改革も似ている。
筆者の頃は大学も少なかった。後に駅弁大学と揶揄される私学が多数できて、誰でも進学できるようになったが、より選別は激しくなり数値万能の教育になった。
ただ、親のメンツと子供の遊び場が増え、かつ多様になったせいか政治政策では手をこまねく状況も生まれた。かといって教員の待遇や組織をいじくるだけでは茫洋となった日本人の教育はより暗中模索の状態に陥っている。
ひと時、週休二日が謳われた。働きすぎと批判もされた。
国立の御茶ノ水小学校は教育行政の施行、つまり学用実験の場でもある。全国の小中学校が週休二日になる前年に週休二日を試行している。また通路側の壁を取り払ってオープン教室も設置されていた。

もとよりお受験といわれ父兄に人気のあった有名校ゆえ、モンスターの様にうるさい父兄もなく、却って唯々諾々と学校の方針に従っている父兄も多かった。それは子供をステータスの具としてみていたために、より御上の御威光に逆らえない事情もあった。
土曜日が休みでは子供も遊ぶ相手もいない。親もどうしていいかわからない。手っ取り早いのが塾に通わせることだ。休みでも学校開放してそれぞれが仲間を作り好きな科目を学んだり、校庭でスポーツをすることも父兄の意見にあったが、管理上ということで断られた。






台湾の小学校  生徒自治会による学校運営



翌年からの全国週休二日は案の定、塾通いが増えた。教員も官庁、銀行同様休みとなり、しかも研究日と称して都合、週休三日になったところもある。日教組 都教祖、市教祖の枝まで国のお達しということで何の問題意識もなくそれに準じた。
昔は教師と云われたころは一週間に30時間しらい教壇に立った。教員になったいまは半分だ。だからといって教員と生徒のつながりが増えたわけではない。しかも情操の衰えは目を覆うほど進み、青少年の問題も国家の憂慮として滞留している。

なかには程のよい椅子も提供される。文部省だけでなく中堅でも官吏を退職すると地方大学の教授や職員として職を得る。大学とてまともな授業をしても居眠り学生が多く、注意することもなく怠惰に時を弄している教員が多い。当然な注意をしようものなら「生徒は大事なお客さんなので、あまり怒らないように・・」と、云われる。これも筆者の体験だ。
胡坐をかいてタバコを吸う、学内コンビニで嬌声をあげる、授業中に携帯を操作する、それは有名無名にかかわらず学び舎に散見する姿だが、教授も見て見ぬふり。
これも省益を守るためのお手盛り人事だが、とくに伏魔殿は似非知識人の群れとなっている教育現場のようだ。

このように謳い文句としては規制緩和や行革も国民の目くらませにはなる。だだ、子供が卒業したり、規制と係わりのない国民は他人事のように問題を忘却している。
なかにはクレーマーのように、何事にも難癖つける人々もいるが、正であり邪である所以を多面的に考察しないために,象にたちむかう子犬のように吠えるだけで成果は乏しい。

寸鉄を打つか、自壊を待つか、いろいろな対応があるが、問題すら抽出できない無感応よりは幾分マシなようだ。
だだ、気を付けなくてはならないのは、無感応を誘うように度々発生する政治の更新意志である緩和と改革を、無謬性の有ると錯覚する公が感応すらできない盲動への刺激を緩和や改革という美句に乗せているとしたら、それはいつの間にか諦めの感応となってしまう危険がある。
その感情は逆に忌まわしいもの、邪魔なものを排除する規制願望に転化する状況を生み出す逆の恐れがある。選挙年齢を下げるが犯罪法制適応も下げる、安心年金は受給年齢を上げる、犯罪抑制に罰金を上げ厳しくする、それらはまるで民間会社の過度のコンプライアンスによって能力の自由度を縛ることと同じことだ。







教育は大自然に添って晴耕雨読  嵐山農士学校



本田宗一郎は自分たちの時代の感想として
「あの頃は頭が重くなかった。みなパージされて発想も行動も動きやすい環境だった。
逆らったわけではないが、いたずらに従うだけの状態ではなかった。同業の参入規制もあったがお客さんの要望に応えることでホンダは市場から歓迎された。なによりも社員は車が好きだった。好きで楽しいことは苦しみも解消した。そんな社員とお客さんがいて自然と大きくなった。頭が重くなったにダメだ。だから私と藤沢(副社長)は、この辺で辞める」



国家も囚われ、拘ってはもたない。だから本田宗一郎は行革運動に邁進した。
規制を絞める、緩める、そして改革や民活は政府を利するものではない。ゆえに決してお題目の流行り政策にしてはならない。
ホンダの説く自由度は放埓ではない。そもそも国家と個人の真の自由度は人間の尊厳にかかわるものだ。゛やりたいこと゛より、゛やるべきこと゛を分(特徴・能力)に合わせて探すことの大切さと、貪らないことが大切なことだと伝えている。



それは、まさに緩和なき自己規制(制御)であり、止まることのない自己の更新と日々新たな改革のようだ、またそれが生き方となっている素晴らしさだ




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新しい教科書 再編  12 2/6稿

2014-08-09 13:43:43 | Weblog




【字が書けない、読めない子供が増えているという。理解の前提が亡くなってきている。教科書とは何だろう。その記述で争う人たちもいる】





あの田中総理の施策にあった教科書無償配布と教員の特別待遇の付与は、当時の教育行政において歓迎されるものだった

あの日本教職員組合との軋轢は学び舎の授業にも影響し、しかも獲得したものの多くは、教員の待遇改善だった。

なにも日本教職員組合がいけないのではない。問題意識もなく、あるいはあったとしても食い扶持担保や待遇保全のための彼らの課金(組合費)を運用する人物の問題なのだ。教師が教員と変称したが教育環境の混乱は社会問題ともなっている。
どこの思想や政党に組みしたとしても目くじら立てることはない。だだ、四角四面な群れが集団化すると彼らが忌避している旧軍隊のようになり、社会の暗雲となり、官吏組織のように鵺(ぬえ)のような存在になり、際限のない自己増殖はするが時の変化に対応できない組織になる恐れがある。つまり前記した運用する人物がその行末を分かっているのかどうかが問題なのだ。
それは部分は探究できても時空を超えて全体を俯瞰できない、近代学制の標本のような組織になってしまうことだ。
だから、全人格を投影して生徒に倣わす人師の教育ではなく、利用がっての乏しいカリキュラムを伝える経師が多いのだ。


「経師 遭いやすく、人師、偶い難し」
書いたみのをひたすら伝える教師は遭いやすいが、ことの師となる人物はなかなか遇うことはことは適わない

  遭う・・・好ましくないことに偶然会う    遇う・・めぐり合う

無償配布は、一人ひとりの生徒に無料で配布するものだが、ここでも学年教科が終わればゴミ箱に廃棄した。もちろん消費経済は教科書会社を太らせ、その競争は選択のために教員への便宜供与など、特にその手の職業にありがちな狡猾も陰湿で手の込んだ供与だったと出版社の老経営者はつぶやく。

田中氏は後の講演で「物(教科書を含めて)大切にするといった事への配慮が足りなかった」と、いっときは歓迎された政策に憂いを込めて回顧している。

その教科書廃棄だが、国旗にも同様なことが起きた
正月の皇居参賀でのこと。参加者には国旗が配られる。打ち振り、万歳を捧げた国旗は所定の大箱に「入れてください」と書かれていた。用が済んだのでまとめて処置するのだろうが、「折りたたんでお納めください」ではない。不敬とは言わないがデリカシーがない。教科書同様、終わったら捨てる。
知った、覚えた、類の数値選別評価で一生が決められるのは明治以降、変化はない。その昔は登竜門をくぐる資格なり素養は学ぶ目的や使命感が前提だった。とくに武家社会は死を賭して為さねばならないことがあった。中には賂も情実もあったが前提については厳しいものがあった。

数値選別が立身出世の基準になると学びの前提としての「本」が必要ではなくなった。智は肉体的衝撃を回避し責任逃れの具になった。
帝大でも教養を基としてころは生徒も落ち着いていた。食堂でも騒がしくなかった。新制になるとその様子は一変した。校歌でさえ古臭いと忌避され、落ち着きのなさは一目見れば新制と分った。
事象を鎮考なり熟考して独自の考案を導くこともなく、単に説明合理を求め外来や過去の論を仮借するようになった。
コピペが流行りだが、いま始まったことではない。裁判でも判例主義だ。「人情は国法より重し」と云っていた頃は、疑わしきは罰せずだったが、いまは無機質な法を盾に、疑わしいものを隠れてでも探し、むりやり雑法を当てはめて罪人にしてしまう。
彼らも、知った、覚えた類の数値選別で公位を得たものだが、生涯賃金の計算には鋭いものがある。

もし、彼らが一旦国を護るために、と促しても、そんな国は亡くなった方がよいと思うのは情だ。これは何も「学校では教わらなかった」と、言われようが、社会なり国家を運用する者の姿が、国家の姿であり象徴とされる御方の輔弼と見るからだ。。
だから唯一の自家製憲法の十七条憲法は彼らの怠惰や偏重によって生ずるであろう民の尊厳を毀損する権力を制御したのだ。
その意味では、教育者(知識人)は、政治家、官吏、宗教家と並んで制御すべき公務員たちなのだ。
よしんば、政治家が大声で唱える「生命と財産を守る」というなら、何のために生命と財産が必要なのかを伝えるべきだ。

王陽明が幼少の頃、師に問うた。
「なぜ、勉強するのですか」
師は応えた。「勉強すれば高位高官となり財もたくさん得る」と。
陽明も応えた。「私は聖賢の様になりたいがために学んでいます」と。

友人が「試験に落ちて恥ずかしい」と嘆いていた。
陽明は「試験に落ちたことは恥ずかしいことではない、それを恥ずかしいと考えることが恥ずかしい」と。

昔話は野暮で固陋だと云うなかれ。こんな友人かいるだけで人生は楽しいし意義深い。師は教師だけではない。


教科書、学校、法律も複雑な要因を以て形成されている国家を成さしめるには、必須なものではない。
もし、連帯や調和、人々の尊厳を毀損するものなら、必要性はない。国家らしくという体裁形式なら単に疲弊混乱させるだけだ。
古来から為政者は人々の依頼心や迎合性、嫉妬競争を喚起し利用する。教育においてその自己コントロールができないことも熟知している。錯誤した成功価値と人物観を是正するには、官制教育が用をなさないことも知っている。
いや、賢い人ばかりだと資本主義や民主主義が成り立たないことも解っている。
ゆえに、競い、騒ぎ、怯み、争い、個別化する社会でないと、錯誤国家はもたないのだ。


だから、調和や連帯を無くし、固有の継承を活かすことなく、人を疑い、排斥する情緒が進捗しているのだ
、、

悪を懲らしめ善を増長する教育の本意など何のその、周辺教員も食い扶持を勘案して誰も声を上げず、床の間の石となった教育委員会はわれ関せず、これでは制度や組織の改革などではなく人間の覚醒改新のほうが先だった。

教科書は利権と化し、その促しは内容記述まで及んだ。野党の政治家は北京に乗り込んでご注進した。外国勢力を利用して政権を叩こうとする魂胆だった。その後、軟弱な総理が訪れても嘲られ、土産を届ければ礼砲が鳴る始末。ここでも教科書は金になった。

子供にとっては社会の大人観察の絶好の機会だったが、大人は内容について争った。
それも部分を取り上げ、切り口の違う考証を詭弁を弄して陣取り合戦をした。
政治家や知識人も参加して騒いだが、使う側の生徒にとっては意味の無いものだった。
受験は点さえ取れればよかった。あえて習得しなくても、知っていればいいものだった。

その後、公務員教師の待遇は向上し,公私格差是正の名目で私学にも助成金が配られ、教員はわが世の春を謳歌しはじめ、暇にまかせてより多くの果実をもとめ待遇改善のための政治参加に勤しんだ。まずは勤勉美徳の国柄を週休二日、加えて研究日を設けて労働時間の短縮を狙った。名目は子供のゆとりだった。これも私学校に補助金を特例処置とした憲法の改正項目でもあろう。

ゆとりは合理的な教育と称して詰め込みとなり、教師と生徒、いや大人と子供の情感は薄れ、ブロイラーのような学び舎が多くなった。昔は一部にみられたタニマチ紛い,ホステス紛いのPTAもモンスターと化して無気力な教員に襲いかかった。彼らが謳った平等観念、人権観念、民主観念が、゛ひずみ゛と化した教育現場にブーメランのように舞い降りた。

そのなかで教育改革が叫ばれ、民間からは「新しい教科書をつくる会」などが耳目を集めた。しかし、それも教科書の歴史記述に関する思想的、あるいは政治感覚に本を成すものが多かった。

政治の分野でも文明先進国とやらに使節団を送った。あの明治の学制では、フランス革命の前段思想であった啓蒙思想を紛れ込ませた制度や学科は、部分専門家は増やしてもゼネラリストといわれる経と緯を総合的に俯瞰できる「相」となる人材を枯渇させた。
連帯、調和、統率などは古臭い悪弊と、平等、自由、個人を謳いあげ立身出世主義に駆り立てた。


つまり治世に必須なリーダーなど、要となる民族の「長(おさ)」の養成や推戴する意義すら失くした。

なにも拙速に西洋かぶれの教育制度を取り入れ、ここにきて混迷していると、もともと民族資質とは齟齬のある異民族の制度を再び模倣しようとする愚は、知恵の無い、いや積み重ねられた歴史の恩顧を裏切る行為だ。しかもその派遣された多くは保守派を自任する政治家たちである。

山田方谷の理財論、安藤昌益、二宮金次郎、南方熊楠、いくらでも倣うべき賢者は我が国に存在する。それを埋めてしまった社会の歴史認識を転化するのが政治家の役割だと思うのだが、どうも政治家は制度と組織と待遇でどうにかなるものだと考える軽率さはある。











歴史考証の切り口、その表現方法などだが、あくまで教場のツールの話である。
ただ、誤った意識が子供の思索に刷り込まれ、かつ外国勢力の種にされる危惧があるという考えも然りである。しかし、それほど子供たちは愚かなのだろうかとの疑問がわく。

歴史は古典になる。つまり昔話を知っているかどうか、勉強の前提となるものなのかどうかは学ぶ側の必然性に委ねられる。教えるのは勝手だが、学ぶものも選択は自由であり、切り口も千差万別だ。ただ記述の書き換え論争のようになっている教科書という成文書物がどれだけ必要な書物なのか、現在の知識習得ツールを眺めてみる冷静さも必要だろう。

どうも情操教育を無気力な教員が選別した書物で購えるものなのか、受験に勤しむ学び舎で情緒の涵養、鎮まりをもった思索が可能なのか、あるいは記術を探究し問題意識をもてるものなのか、そのことの是正すらかなわず成文化されたものの表記を争う愚は、世界を俯瞰視した主義主張の謀(はかりごと)からみたら、部分に拘泥し全体(国や社会)を毀損する都合のよい姿に映るのではないかとの危惧がある。つまり、人の分裂(バラバラ)の助長である。

それは目に見える外面是正が、内面是正を妨げているように映るのだ。
内面とは情緒と弛緩したかのような習慣性である。磨かれた感性、機微を弁えた応答、世俗の観照と将来への推考、が思索の習慣性として成る教育だ。






秋季





冬季




喫緊の問題は、欲望のコントロールを失くした人間の習慣性の覚醒にある。
偏狭なる思索と観照、それさえ問題意識にとらえない公私分別の衰え、解かりやすくいえば、すべてが物質的な欲求を満たす食い扶持優先の傾向が、教育分野に蔓延していることだ。むかしは聖職者といわれた教師。子供の眼には、おまわりさん。お医者さん、先生、すべて倣いの対象だった。もちろん職業の対象でもあった。

いまそれらが怨嗟の対象になっている。いや陰では嘲笑され侮蔑されているといって過言ではない。いわんや、どんな高邁な教科書をつくっても、あるいはどんな理念を挿入しても、彼ら経師(教科書を説明する教員)では意味もない。たとえ粗末な教材、稚拙な内容であっても人師(人間の師)によれば聖賢の書になるはずだ。

戦後の惨禍が落ち着いた頃、平凡社の下中弥三郎は文部大臣の委嘱を受けた。その条件は国立大学全廃、小学校の教師は酸いも甘いも噛み分け、官制学歴を問わず、識見の在るものを採用する、であった。亡国の残砕のような官吏には到底理解できないものだった。

安岡正篤も委嘱を受けた。
氏は官制学を忌避して郷学を提唱して真のエリートの人材育成を試みた。

食い扶持官吏と似て非なる教員の喰い荒らした学び舎では新たな田畑のために新種の学派が乱造された。そこの学派にはボスとその他一同が珍奇な論を並べ他の学派と競い、分派は分裂となっている。体系化され、整理された論はいとも合理的と評価され、新たな学派を構成する。人々とともに教育界も有効な分派から分裂に陥ってしまった。

つまり、いくら分派されたものを算術的総和をしても、総体をリードする存在がいなくては方向性もなければ目的すらオボロゲニなる。近ごろは官民、各派の連携が図られるようになったが、積極的融合効果、あるいは超数的効果を描くものではなく、垣根を取れば何かが生まれる程度の遅帯である。多くは既得権域の境際での擦り合わせのようだ。

まさに下中や安岡が危惧した人間習性、とくに知を利と化した流れの俯瞰である。
「小人の学 利にすすむ」
 
「新しい教科書・・」
安岡氏は「大学」講義で、新は親とも考えた。
「親しむべき教科書・・」それは新の意にある「立木を伐る」新鮮さと覚悟があって「親しむ」ことになるのだろう。







老人から子供へ  新聞の読み聞かせは識字率の向上へ







「新しい教科書・・」あの時は大手新聞社の教育論争に端を発したと記憶している。
双壁は朝日と産経だ。いまでも巷間言われていることだが、朝日は左翼的、産経は体制的と大向こうは感じている。ことさら部数の優劣が国民感情とは言い切れまいが、ともかく既存の教科書を変えようとしたのは産経の諸氏である。

だが大多数の共感を得たのだろうか。大新聞の記者クラブで横並びとなった情報によって多岐多様な思索と観照力を失った大衆に、そもそも教科書はどのように映っているのだろうか。新たな研究、発掘された情報、その一過性を以て歴史の新事実と言いくるめることが、この運動の本意なのだろうか。

政治運動や陣取り合戦ならまだしも、たとえ文部省に採用されたとしても、その文部省の官制の学校制度がいたずらな競争に堕し、国民を浮浪の民の数値選別に貶(おとし)め、実生活には数値選別の果てのレッテルしか用を成さない「喰い扶持学」となったことの問題意識を、考えることすら忌避忘却した売文の輩、言論貴族、似非歴史研究家の言は、大多数の国民の理解には届くことはない。
しかも、部数を競い、気変わりの多いバックボーンは社会のオピニオンと称して読者を扇動するが、社会を睥睨するような貴族趣味にして一部は社内元老院として高邁な蘊蓄を垂れ、一方は社内派閥のボスとして政権のパラサイトとして膏薬のごとく彼らを使い回ししている。まさに第四の権力である。

たとえ意志ある集いの至誠の研究でも、衣の下に赤い鎧や、青い鎧では意味がない。ましてや世俗の風に敏感な鎧の主は、ときおり権力におもね、読者に阿諛迎合する徒だ。

老成、今となっては教科書の正誤は問わず、「如是我聞」(我、斯くの如く聞く)にあるように、俺なりに聞いた、あるいは「聞」を「門」として、俺の宗門はこの通り、だと独立した学問を得たと感じている。いわんや教科書語ごとき書き物から得たものは少ないが、困ることはない。

折角の五感である耳目はそんなところに使うものではない。いわんや真に能力を見るという「直観」すら衰えてしまう危険もある。
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