まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

《不学無術の呻吟》 司馬遼太郎という物書きの憂鬱  Ⅲ    9,8再

2013-01-21 10:18:33 | Weblog
 


          ◇ 秤の均衡 ◇

伯父、純三郎は孫文が騙され冷遇されてもなぜ日本を信頼したのかという心情と志を、よく佐藤さんに話している。

 その中でも

「支那と日本が仲良く連携することはアジア安定の基であり、アジアの安定は世界

の平和である」

と唱えた遠大な志操や、 神戸女子大における孫文最後の演説では日本人に向かって

「日本は西欧覇道の犬となるか、それとも東洋王道の干城となるか慎重に考えるべきです」と、唱え

「今の日本には残念ながら、真の日本人がいなくなった」と、山田に憂いています。
 
 明治維新の成功は、白色人種にはじめて勝った日露戦争とともに、孫文をはじめ、ベトナムのコンディ、フイリッピンのアギナード、ビルマのオッタマ、トルコのケマハパシヤなど西洋の植民地政策に蹂躙された国々にとって、アジアのさきがけでもあり、光明でもありました。

しかし、異民族の地であった満州の土壇場における一部の指導者の醜態は、アジアのみならず日本人が「日本人」および「日本」そのものを問い直すことでもありました。

そのことは富国強兵政策の要と考えられていた「知識」「技術」のみの官制教育の限界でもあり、明治創成期の人物を培った「藩校」「塾」の再考とともに、異民族とのかかわりにおける不偏なる精神を醸成した明治の人間教育の「志」への回顧でもあったのです。

 佐藤さんにとって 菊地九郎、陸羯南、山田良政、純三郎兄弟 そして東北の辺端、弘前の薫醸された人間教育は、異民族の生死を超越した共感を得ることにもなり、それは将来のアジアにとって有意義な日本および日本人をあらためて確認することでもあったのです。

 事に臨んで「空しくなった」「負けてしまった」など微塵もありません。

 








             ◇ 「心の講義」 ◇

 大衆は多人数の前で演ずる話に、さまざまなことを求めて足を運びます。
中央に位置するもの、大樹に寄り添うもの、出たとこ勝負の悦しみ、なかには脅し、覗き、予想、あるいは多数と同感する安逸などさまざまです。


しかし、時流とともに自らを曖昧にする放心(生まれながらもつ無垢な良心の存在が属性価値に翻弄されている状態)を、標題にもとづいて一刻でも独りの自分に立ち戻る場面を共有し、属性価値に覆い隠された自己の素心を見いだすことでなければ、どのような内容であっても講者の位置するところはありません。 

 難しい話、めんどうな内容には耳を貸さないというなら、耳を向けるための巧言は、はじめから敗北が待ち構えています。
一時間の授業で最後の数分が勝負だとよく聞く言葉です。










  ある老教員の述懐だが、

「何年もかけて学んだことを、ものの数時間で吐き出してしまう。残るのは自分で

しかない。だから自分はこう考えている。職業教師は受益者負担のボランティアだ

と」

 「うまい話より立派な話。言いたいことより、言うべきこと。が大切だ」とも言っている。

 標題を掲げ、人まえで話をするものを、なまじ文化人、教育者、有名人と錯覚する聴衆に対しては、本来、何に語りかけるべきかを慎重に吟味しなければならないだろう。

 雰囲気を司れないからといって、単に時を費やす聴衆迎合は聴衆者の「私」、壇上の「公」といった弁えをなくした笑いのとれない漫談家のようなものです。
 自他の厳存を認めるものは「公私の間」を峻別するものであるという考え方は明治の賢人を照顧するまでもなく、聴衆に語るべき根本の姿勢ではないでしょうか。


 いずれ放心から醒めた庶世の哲人は「分」を錯覚した物書きをしたたかに嘲笑し、時流の余興にしてしまうでしょう。
それは政治家、教育者の唱えまでも漫談や娯楽の類いにしてしまうことにもなります。 












 その結果は、何れ到来するであろう指導者の哀願や、訴えといった状況が空虚に陥る過程でもあります。

 人が公私をわきまえた他の存在を信じられないとき、あの大観園の親分の言っていた泥水同化の招来をくい止めることが不可避となります。

明治の賢人は「明治」を語ることに虚飾はない。
舌の上下である「話術」の講演でもない。吾を語る「講義」があるのみです。

極論すれば肉体的衝撃から我が身を保身するため、媚文芸言を駆使していざとなったら逃避する有名無力の穢利偉人(エリート)特有の術などはそこにはない。

耳から入って直ぐに口から出るような「口耳四寸の学」や、その場、その時で演技をする「逢場作戯」のような講演者では、内容より事の大小、多少、巧拙に囚われた文章や話になって当然であるといえるでしょう。
「空しくなる」のは聴衆の側です

筆者の独り言だが、孔子さまも一語忘れているようだ。
「巧言令色、仁すくなし」と仰せになったが、当世では「巧言麗文、義すくなし」だろう。
 
 佐藤さんは、時運に迎合した組織の運営が本来の目的を忘れ、参加者の多少のみを憂うる主催者に対して、
「本(もと)立って道、生まれる。一人でも小なしといえず、千人でも多しといえず」と、その多勢の衆を恃む目的の錯覚を諭しています。
なぜなら、聴衆のなかで真剣に聞くものがあればが一人でもいい。

「国は一人によって亡び、独によって興きる」ということを土壇場の実感として分かっているからです。

 二時間の講義に一週間前から草稿作成に取り掛かり、自らのものとして真剣に臨む姿は、物書きのいう明治の実直さを体感できる講義でもあります。

「教育は魂の継承にこそ本当の意味がある。それが今を真剣に生きるものの歴史に

対するささやかな責任であろう。そして邪魔にならないうちに消えさることです」

と、常々、語っています。

「 亡国は亡国の後、その亡国を知る」といいますが、記誦の学の餌食になって昇位発財した知識人の幼児性は、その錯覚した現象とともに亡国の徴であるかのようにおもえてならない。

丁丑睦月 「雑」 寄稿






【賢者のために】
 「空しくなった」物書き …… 司馬遼太郎
     産經新聞「風塵抄」゛私語゛より考察
  放談で有名な老評論家 …… 細川隆言
元宮内省出司、松前宣廣氏より直接聴取
民族運動家、 赤尾 敏氏より自宅往訪のおり直接聴取
実直な民族思想家 …… 赤尾 敏
市川房枝氏との親交、氏とロッキードの件で米国訪問の逸話など
師、安岡正篤とのエピソード ……
              岡本義雄との同行体験、直接聴取 
佐藤慎一郎…… 筆者の同行,共学体験、直接聴取
老教員…… 私立城北学園校長 近藤薫明氏より
                         直接聴取

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《不学無術の呻吟》 司馬遼太郎という物書きの憂鬱  Ⅱ   9,8再

2013-01-20 12:00:57 | Weblog
 

          松下政経塾での古典講話


 
          ◇師 弟 ◇



一方、無名ではあるが岡本義雄という市井の哲人がいる。
その自著「集義録」の未稿分に次のような記述がある。
それは 財界人、政治家の有志が吉田茂翁の銅像を皇苑に建立するときの話である。
  
 翁の頌徳碑文は碩学と謳われた 漢学者、安岡正篤に選書を依頼したときのことでした。
 岡本は名利を敬遠し、「貪らざるを以て寳となし、常に不特定多数の利福を銘として、市井のため活学を基に貢献しなければならない」と、思い起つなり「先生、先生」と足繁く御自宅に参上していました。  

筆者も目撃したことだが談義の途中、ある派閥のや大物政治家らの電話が入っても「来客中」と、取り合わず岡本との談義に集中していたことがある。

名利に恬淡であり、人物を観るといった安岡の実像を垣間見た体験でもあります。
そこで岡本はこう唱える。

「吉田茂は確かに功績のある人だ。またシャイな人柄であり、一方では「臣茂」
と記すように日本の皇室に敬意と靖献の念があることは多くの人達の理解するところです。しかし、その銅像が皇居の庭に建立するとについて、はたして慶ぶだろうか。 あの人柄から察すれば郷里土佐の桂浜から皇居を仰ぎ見ることのほうが故人の意志に沿うものではないだろうか。いや、吉田学校の門下といわれた政治家どもが人をダシに妙なおせっかいをして陛下の庭になど恥じ入るかぎりだと、草葉の陰でバカヤローといっているように聞こえますが」

 安岡は庶世の哲人の言葉を黙って聞いていた。そして、こう呟いた

 「建立の場所までは…慚愧の念に耐えない」
 
 秘奥なる存在を読み落とした言論貴族、売文の輩の迎言に踊る思慮なき政治家の媚態の姿であり、分別、わきまえの錯誤でもあります。











世の錯覚した安岡像をステータスとして「謦咳に接した」などと喜々としている御仁は多いが、無名有力、草莽の哲人からすれば、「利他の増進」のためには例え師であっても、良き賛同者であったに違いない。

またその意志を、さも当然のごとく受け入れ真剣に対峙する姿勢は、明治人の人物の観かたでもあり実直さでもある。

 碩学、陽明学者、政財界の指南役など庶民からすれば雲の上の存在と考えられている安岡だが、市井の片隅の一声に心を置き、その解決に侠助を惜しまない姿は、他の著名助言者とは異なり、指導的位置に立つものの心構えに、正鵠を得た訓導の背景として現れています。


 また安岡の唱えた「郷学の作興」は、錯覚した人物観のために郷土に埋もれた有為な人々を正しく評価し、世に輩出するといった、純情な地方、地域に根ざした人材養成の場を作興しようとするものでした。

 それはまさに国造りの根本は中央の「官学」「政治」ではなく「己を修めた」人物による「自(みずか)らを治める」といった地方自治の提唱でもありました。
 有名で無力な穢利偉人(エリート)とは違い、 岡本は師、安岡の心中を射た数少ない無名で有力な人物でした。

余談ですが、裃を着たような印象のある安岡にこんなエピソードがある。
あるとき煙草を禁煙したと聞いていたが岡本の前で気持ち良さそうに吸っている。

「先生、禁煙なさったと聞きましたが」

 「きんえん」は謹んで、欣快な気分で嗜(たしな)べば毒にもならん。 毒だ、長生きしない、といって吸えば身体によいわけはない。 あるいは、有名 博学だが役に立たないことを例えて、牛のけつ(尻)だとか、「物」に「′」をつけて、物知「モーの尻」りだが「・」てんで物にならないと、洒脱な逸話がある。
 それにつけても、賢人の談義には、上下、貴賎、無名、有名の別はないようです。

信ずるべき根本は「義の匂い」がすべてであるようです。










 佐藤先生が引用した 「座して尿せよ」とは、戦国武将の軍議の場で子供が小用に立ち上がった際、「明日の決戦で生きるか死ぬかの大切な会議をしているのに小便ぐらい我慢できないか。一言でも聞き漏らさず その場で座ったまま小便をしろ」と、叱責した情景を模してのことである。

同様な場面だが、物書きの一文にも明石元三郎と山縣有朋の真剣な会話の情景が書かれている。

簡略に著せば、厳冬の季節に明石が山縣に情勢報告を行っているさなか、真剣さのあまり尿意を忘失、小便を垂れ流し、それが山縣の外套に染み上っても、そのまま続けたという姿である。
上下関係や現場の状況より、「公」にもとづいた談義はときとして肉体的生理を超越した「狂」の位置にある。

あの長州閥を率いて権勢を布いた山縣だがこんなこともある。
弘前の儒学者、伊東梅軒の居宅「養生会」に山縣の掲額がある。
 山縣の師、吉田松陰が東北遊行の折り梅軒と親しく議論した部屋
でもある。
その感状の署名に“弟子 有朋”と記している。通常、内閣総理大臣 陸軍元帥と自署するだろうと考えるのが山縣の印象だが、この掲額には松陰に対する感謝と懐かしみが愚直に表されている。 明石に対する実直さと、冷酷なまでに「私」を滅することの勇気は、まさに師の教え陽明学にある「狂」に至る実践でもあり、「他」に対する忠恕な献身ともいえる。
 自称を「狂介」とはその意味であろう。

   








      ◇ 「臨機臨度に涵養を観る」 ◇



その「狂」において自らを悟ったという佐藤さんの体験がある。
現代史のなかで語ることさえ少なくなった満州国崩壊の土壇場での様相である。
それは知識人や知識によって高位高官に昇った高級官僚、高級軍人の恥態である。
露国が国境を越えて侵入したとの報があった翌朝、目の前の官舎から邦人をおいて逃げ出しているしかもその際いたるところで電話線を切断して逃走している…
進駐軍隊の要求に対して日本人会々長は、邦人婦女多数を騙し集め提供している。…

混乱のなかでの裁判で死刑判決を受けた高級官僚、勅任官の刑務所内での狂態…
崩壊最後の会議において、今後の方向性の見いだせないまま狼狽した重臣たちは「佐藤さんに聞いてみよう」となった。
土壇場の醜態に臨んで佐藤さんは、こんなことを回想したという。

 それは日本人で唯一潜入することができた魔窟「大観園」でのことである。
アヘン、淫売、殺人は日常茶飯事。 

 広大な施設の中は治外法権の状態で、警察でさえ怖がって近寄らないが、狭い範囲の掟である「陋規」によって程よくまとまっていた。

それは、一人々が全体の中での一部分といつた「分」を自得し、本当の「自分」の生き方を理解したことで生じる「他」との調和であり、園の安定でもあった。
 そこの親分の言葉である。

「日本は早く負けて日本に帰った方がいい。それでなければ日本そのものが無く

なってしまう」


「日本人は清水だが我々は何千年も泥水に生きている。食、色、財の欲望に自ずから従っている。“自分”が解らない日本人は、この欲望に負けて己を沈めてしまうだろう。“清国”も“元国”もない。ただ一姓が滅んだだけだ。そして皆この欲望の誘いにこらえ切れず民族同化してしまったのだ」

重臣 張景恵は日本人を評して

「日本人は四角四面でどうも騒がしい。二、三度戦争に負ければ落ち着くだろう」と、言っている。

その場に臨んで佐藤さんが思い浮かべた言葉は、

「吾、汝らほど書を読まず、されど汝らほど愚かならず」

「物知りの馬鹿は無学の莫過よりもっと馬鹿だ」という言葉でした。

 知識のみを糧に昇官したものたちの土壇場の醜態は、佐藤さんの魂を再び揺り動かした。


以下次号


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《不学無術の呻吟》 司馬遼太郎という物書きの憂鬱   9,8/6再

2013-01-18 10:07:17 | Weblog
      






    ◇ 「空しくなった、負けてしまった」 ◇

 感動と感激は縁に随って蘇りますが、臭を万年に残すことと知りつつ、しかも、ごまめの歯軋りの如く他人の目に呻吟(うめき)を晒す機会が近ごろ多くなりました。
それは、著名な物書きの作文に当世の錯覚と役割の分別を観たときのことです。
「私語」と題して、本人が嫌いで苦手な講演に行ったときのことを新聞の一面に載せていました。

物書きはその講演の最中に聴衆が好き勝手に昼食の話や世間話をする「私語」に負けた、空しくなったと散々おもいで感想を書いています。
 しかも、「私語」に苦労している教授の話を同様な煩いとして、さも自らの体験をなぞるように 引用しています。

ある日の稿では、゛小便が近いため゛、陛下の御進講の際に中座して厠の案内を、後の天皇になられる皇太子に尋ねた状況を書いています。

「空しくなった」「負けてしまった」という「私感」はともかく、聴衆の分(ぶん)が合わなかったというのか 、それとも員数合わせの善男善女なのか、読書でいえば「読めないのか」「読まれないのか」あるいは聴衆が庶世の哲人であるためか、どうも講演者の側に妙な錯覚があるようです。
世に言論貴族、売文の輩と軽称されている部類によく見かける煩いでもあります。

知識人の幼児性は大衆の内なる嘲笑を感ずる事なく、単に「文壇」や「言論界」の中でしか通じない隔離された兵隊ごっこがまかり通っていることに気が付かないようです。

無いよりは有ったほうが幾分マシだが、何ら人格を代表することのない附属性価値である、地位、名誉、学歴、財力を唯一の糧として倭人特有の群行群止を促すような、いとも高邁な珍説、奇説、はたまたは覗き、脅し、予想を虚飾する輩にゆめゆめ惑わされてはなるまい。

隣国では知識人を「臭九老」と称して淫売婦の上、上から数えて九番目に卑しんでいます。
宋代では皇帝が学問を奨励するために「勧学文」を掲げ“書中、自(おの)ずから黄金の部屋あり”“書中、自ずから女あり”と食色財の欲望に直接勧誘することにより、それなりの学問が盛んになったといいます。

「利は智を昏(くら)からしむ」というべきか、元の攻略にひとたまりもなく滅んだ状況が目に浮かぶようです。 何のために学び、何に問うのか、「本」(もと)を問いたくもなります。

   


 



           津軽富士 岩木山

       


             ◇ 「座して尿せよ」 ◇

空しくなった物書きは明治の言論人、陸羯南を書き遺そうとしたという。
ある章に「陸羯南がいなければ俳句など電池の切れた懐中電灯の殻のようなものだった…」
「今の入社試験では採れないような正岡子規、長谷川如是閑など…」と敬意を込めて記述している。 

※ 物書きは旧制弘前高校を受験しているが惜念。その縁か以後の著書にも弘前を記している。

 陸羯南といえば青森県弘前市在府町、真向かいは辛亥革命に挺身し、日本人で最初に犠牲となった山田良政。孫文の臨終に唯一日本人として立ち会った純三郎兄弟の生家である。 

良政は幼少より羯南に可愛がられ、異国の革命を我ことのように奮闘にするような、時代に先駆けた教育の基が養われのです。

 その親戚に菊地九郎という人物がいます。
 明治の創成期に西郷隆盛に心服して鹿児島に留学、二十五歳で帰郷、廃藩置県の直後、混迷した状況を嘆く人々をみて、「人間がおるじゃないか」と、毅然としてのべたという。
 自らは明治五年、従来のしきたりを破りアメリカ人ウオルフ夫妻を招聘し東奥義塾を創設しています。
そのウォルフを横浜まで迎える二十数日の道中、水沢から添道した後藤新平少年との逸話など、後の辛亥革命の成功に多くの「義縁」を遺しています。
まさに 「百年の計は人を樹うるに如くはなし」という気概で時代を背負う人材を多数、輩出しています。










                 






 この九郎爺さんに育てられた山田兄弟の甥でもある佐藤慎一郎という人物がおります。 
「不言の教え」で育てられた佐藤さんは昭和初頭に旅順水師営の中国人小学校の教師として赴任、北京留学を経て満州国崩壊を期に帰国しています。
 その風貌は「王道は人情に基づく」といった大らかで暖かい雰囲気を醸し出し、「他」に対する勇気と熱情は異民族の心底さえもを揺り動かし、民情に基づく透徹した推眼は国策遂行にも欠くことのできない助言者でもあります。

 その佐藤さんが講演依頼されたときのこと、寒かったせいか便所に立つものも多く、物書きの言う「私語」と同様な状態でした。

「座して尿せよ!」(座ったままで小便をたれろ)

 九十を越えた今でも、五十人ぐらいの聴衆ならマイクなしで立ったまま講義する佐藤さんが「座して尿せよ」と、大声で叱責したので一同金縛りにあったように時が止まった。

「私は真剣だ。明日再び会えないかもしれない。いや明日死ぬかもしれない。今日

という一日を皆さんと一緒に過ごしている。今日という一日は二度とない。君たち

との大切な時間ではないか。」

そこには「空しくなった」「負けてしまった」といった敗北感はない。 物書きが追い求めた明治の実直さと勇気、そして慈愛に裏打ちされた熱情があるだけだ。

なかにはこんな明治もある。
講演を依頼されると員数は、どんなレベルか、会場は、謝礼はと、言論貴族の権化みたいな放談で著名な老評論家だが、伝を頼って陛下に拝謁した折り、侍従のワイシャツのメーカーを話題に供し不興をかったり、実直な民族思想家に「死んだら銅像が建ちますよ」と述べた途端、「口先で迎合したようなことを言わずに自分の番組で僕の考えを伝えたらどうだ」と一喝されたような人間もいる。

以下次号


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