まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

平成の終わりに・「下々の責は我に還る」 あの頃 08  12/23 改

2022-03-22 09:50:55 | Weblog

今は一世一元となっている元号も以前は一世の天皇で幾度も改元されていた。
それは飢饉や天変地異に際して国家の気風を転換するといった目的でもあるが、「祷り」の問題でもあった。

それは景気回復の祷りではない。




             
             吉田茂


つまり、゛所有せず゛を旨とする天皇の威の在り様として国の盛衰を「祷り」に託す神託があった。麻生総理の、゛下々゛発言も麻生氏からみたシモジモではなく、茂(吉田)祖父さんの天皇に対する畏敬の念に表れる書簡の末尾に記した「臣茂」からすれば、国民はシモジモであるというとらえ方である。

その下々だが、今は釜中の民の様相である。
大釜に入れられ、火が焚かれ、水浴びからぬるま湯になって幸福感を感じていたら、熱湯になったということだが、゛始めチョロチョロ、中パッパ゛飯炊きの按配よろしくコントロールの効かない欲望と同様に、自身の融解の淵に立っているようだ。

仁徳天皇の逸話に「民のカマドの煙」がある。カマドに煙が出ていれば人々は食べている、それが当時の生活感だった。
さしずめ今の釜焚きの按配は、株、為替、金融といった数字が支配している。その火加減の按配と釜の形である自由の釜、民主の釜、平等の釜、人権の釜に、さしたる意思も無く、もちろん選択権も無く押し込まれ、融解して平準化されてきた。




              

              平成発表 小渕官房長官



「祷り」にもどるが、現在の元号は平成である。
コンピューターの2000年問題から経済の暦は西暦になった。西洋暦つまり彼等のいう聖なる書(聖書)に随った時間を過ごしている。

支配するものは言語を変え、度量衡を変え、法を変えるが、先ずは暦を変える。
暦には節やメモリーデイがある。クリスマス、感謝祭、建国際など様々だが、平準した後に力の強いものの基準や時間が作る歴史の掟や習慣に同化するのは至極当然なことでもある。

趣は異なるが、インドネシアは永くオランダの植民地であった。彼等は他の白人国家同様に自国の国家予算の数十パーセントをインドネシアから吸収している。そのオランダを追い払い、日本の敗戦によって再び植民地にすると舞い戻ってきたときに残置日本兵はインドネシアと共に戦い独立を勝ち取った。2000人余の日本人兵士は帰国を待つ母や妻子の思いを断ち切って独立のため先陣で戦っている。



            
           映画「ムルデカ」よりインドネシア独立


そのインドネシアの独立記念日は「17805」と刻まれている。
独立運動の闘士だったスカルノは共に戦った日本人兵士に民族を代表して感謝と哀悼と、意志の継承を誓って独立宣言文に皇紀2605・8月・17日を書き入れて署名している。日、月、年の記憶である。

その数字には祈りがある。かの国の獣を表す666や人間のラッキー7もそうかもしれないが、決して鎮まりのあるモノではない。

はたして平成は「内平らかに天成る」「地平らかに天成る」の双意のもとに国の風向きを移すことではあるが、唐風、西風の異なる風は我国の遺風を忌諱して妙な患いに陥っている。

風には整風、清風、正風、あるいは薫風というものがある。
あるテレビ番組では「風を観る」といコーナーもあるが、このところ、とんと気にかからなかった風だが、肌を刺すような異風は息苦しささえ実感するようになった。

だが、おおよそそれらの風は下々が吹かしている。人間界の欲望への熱狂と偏見、嫉妬、怨嗟などの差異、つまり風が起こる要因である温度差はあらゆる所で風を巻き起こしその差は広がっている。俯瞰すれば忌まわしい風である。

なぜ「平成」を撰したのか。

深遠とも思われる学風は時として浅薄とも思える浮俗の様相を鏡として考察することがある。いやそれが自然である。

安岡氏は敗色濃くなったころ鎮まりを以て漢詩を詠んでいる。
その末章だが「・・・劫火洞然、君歎ずる無かれ、塵を祓って、シンフンの絶するを見る」(猛烈な炎に焼きつくされるが、悲しむことは無い、塵をはらって忌まわしくも不吉なものが無くなる)

つまり武威、当時は軍閥、軍官吏、いまは金融資本家、不作為官吏、私利私欲な政治家は他国の圧力や民の反乱を受け機能不全に陥るが、歎くことは無い彼等は自壊し清々しい新風が吹いてくる。天が落ちれば一番高いところにある者に当たるという隣国の故事にもあることだが、戦後を見通した先見である。

ただ、下々の悲哀は他人の所為(せい)や国際情勢の所為にはならない。
先ずは五内(内臓)を裂く位の気持ちで自らの責の在り処を尋ねることが必要になるだろう。鎮考して元号を選し祷った意味はそのようなところにある。


梅里(徳川光圀)先生はその碑文に記している。
「第宅器物その奇を用せず、有れば有るに随って愉しみ、無ければ無きに任せて、また安ジョたり」(よき友であろうが位のある者であろうが家や珍しい財物で迎えることをしないで、自分の力量を理解して無ければ無いでそのままの姿で迎えることが双方安らかな気持ちになるものだ)つまり無理して飾ることはないということだ。

我国には、゛下々゛もあるが、安寧の祷りを専心としている「上」もいることを想起したい。「上」は所有せず、もっとも倹約が行き届いている立場でもある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

祖国の響きと 余韻

2022-03-20 01:49:42 | Weblog

近頃は聞くことの少ないことばである。


余韻、それは情緒や肉体に浸透したものが響くことでもある。
ときには、喜怒哀楽にある、うち震えて戦慄(わななく)くこともある。

「祖国」それは使い古されたような旧い意味のように感じられるが、この時節、人の心に改めて甦っている。
それは新鮮な余韻として爽やかささえ覚える

ときに 理解に届かず、納得さえおぼつかないことも有るはずだ。


よく、「余韻に浸る」という。

浸透する響きは後に起きるあらゆるものに影響する。

陰ながら影響するのである。

それは、考えて答えを出す理解の外に、悟るとか覚えるといった望外の果実を提供してくれる。

闇雲に帰属意識や愛国を声高に唱えるのも勝手だが、「祖国」という響きが「粗国」「疎国」にならないよう、慎重に行動しなければならないことは、いうまでも無い。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上賀茂の葵から観る世 2007 あの頃

2022-03-10 03:39:01 | Weblog



 平成19年の初頭、国際フリーターを自称する中野有氏のライフワークとなった上賀茂の「葵」(あうい)を考察するとの名目で、萬晩報の伴主筆、某省の官房補佐官大塚寿昭氏、との京都相伴の機会があった。



 訪れたところは、古代における京の豪族、賀茂氏の氏神を祀る賀茂別雷(ワケイカヅチ)神社。別名、上賀茂神社は天武6年(678)に造営され、社殿の後方に在る神山に賀茂別雷神が降臨した地として伝承されている。

 市内に近い下鴨神社の趣とは異なり、古色蒼然としてまさに京都絵図にある扇の要のような位置に鎮まりを以って座している。社域には社殿、祭殿が深い思慮で配置され、それぞれに意のある存在をつなげるように祷りを奉献するものを包み込んでいる。

 古都を彩る葵祭の行列や流鏑馬など、今でも残る祭典儀式や陋習などが、上賀茂神社を発祥としていることに日本人の習慣知識を覚醒させ、また、それを可能にして途切れることのない永い継続の刻に驚かされる。

 このたびは寒気厳しい早朝の昇殿参拝の緊張と、社域の霜景色の静寂さも手伝って、より秘奥に己を溶け込ますことが認められる祈礼であり、それは参拝儀礼に沿って献ずるとき、祭神に自らを辞譲することによって容易に認知できる「礼」の行為の爽やかさでもあった。

 

   秩父
 
 孟子も心の端にある情を説く「四端」に、辞譲の情(ココロ)礼の端(始まり)なり、と記しているが、「礼」は全体の調和を司る必須の「譲る心」だと、中国古典との共通意義を参拝体験を通じて悟らせてもくれる。
鎮まりの中で己の自我を解き放つ参拝礼は、古の先哲が連なり継続した祷りの重圧に拘らず感謝の念を抱くことでもあった。

 そのことは、日本人の外向き表現の乏しさを、軽々にも民族的な劣性のごとく考えることからの転化を促し、単に核心伴わない軽薄なパフォーマンスを個性の表現と考える風潮を諌めるような雰囲気がある。参拝は、自他の厳存を知り、全体の調和を描く「礼」の意に在る、譲ること、分けることの有効性を確かめることでもあった。

 葵はその社域に自生している。昔は敷きつめるように自生していたというが、今は環境変化によってその数は僅かとなり、生物環境の学習を兼ねて近在の小学校で生育したものを社域に植えているという。
 乏しくなった環境意識と、その葵に心を譲れなかった人間と環境の不調和は、脚下に沈潜する日本の環境バロメーターである葵の守護を、単に目に映る草木としてのみに置き、その衰退から学び省みなかった現代人の写し絵のようでもある。

 事象の観察方法にも共通することだが、足下の葵は社会の下座観であり、環境という地球の俯瞰でもあることがわかる。例えば一読する書籍も、内容に驚愕したり、アンチョコに知識を得たと錯覚するような、゛読まれ方゛があるが、「照心古教」にある心を自らに照らして事象を観察する読み方もある。足下に生育する葵の姿は、まさに人間の栄枯盛衰に表れる情緒に似て、人の世を先見するかのように無常の諦観を悟らせてくれる。

 

    岩木山神社


 普段、国際情勢の考察、研究を言論執筆を通して活動している中野氏は、自宅からの散歩コースである上賀茂の社域に生育する足下の葵に、意思と暗示を受けたという。それは、彼の言う、゛知的直感゛の芽生えと、具体的運動体として葵の価値を見出すとともに、言論人としての観察眼に自らの意思を添えたとき、信頼に足るメッセージ伝達に必須の座標軸の確立を涵養する機会でもあった。日々、複雑変化する情勢に翻弄されるような観察眼では、普遍性の高いメッセージの発信元にはなり得まい。

 流動する情報にある動態観察と、足下に生きる葵を考察する静止観察は、浮動と鎮想という心の置き所を考える上で、おなじ外交紛争、戦禍、を対象とする言論を、歴史に耐えうる結論に誘導することでもある。

 往々にして状況観察の座標を確固とするものは一面的、固陋と見られがちであり、矮小化された事実説明や軽薄な大衆迎合が浮俗の評価を得る妙な風潮がある。
分析一つとっても、国々の軋轢は戦火を誘い、その原因は資源、宗教と、人間の欲望のコントロールや調和の欠如であることは歴史を紐解くまでもなく、大方は表層の原因、結果、将来の予測で事足りることでもある。

 しかし、数値で表される惨禍、損失のみで戦禍のダメージは計れない。
それよりも大国との戦火においても報復さえ適わない小国の強固な精神力が復興の手助けをしたり、恩讐を超えて友好、同盟を果たした例もある。小国は迎合と融通という智恵を活かして大国の提示する擬似的システムの同化に励み、他力による復興を遂げている国もある。

 

鎮もれる 雪の岩木の御社(みやしろ)に

   ひとり禱るは 国のいくすえ

 

 近年では大国に翻弄されたアジア、中東の新たな軋轢も、その地域にある陋習が、あえて自由・民主の正義という大義によって否定され、戦争目的ともなっている。

だが、その陋習に順った指導者の輩出や統治形態について、大国の掲げる自由と正義、あるいは民主を謳う彼らの大義の構成に陰りが出てきたようにみえる。
また、その問題は洋の東西を問わず懐疑的疑問として深層の意識に発芽し、そのプロパガンダが巧妙ゆえに、却って解決を複雑化させ、かつ遅延させることにもなっている。

 肌に合わない、馴染まないにある化粧品の厚化粧のようなもので、「すっぴん」だからこそ表現できる、素朴で威厳のある、つまり人間の透明な尊厳の棄損を考え始めたことでもある。

 統治の形態は民族の数ほどある。教育論からすれば論外だが、市井の俗話は妙なバランスを生むときがある。
「悪でも善でも力のあるところ正義である」
「盗賊でも皆に分け与えれば善人であり、分けなければ悪人である」
それが一党一派や一国の栄華になると、怨嗟や嫉妬を生み、近ければ尚更のこと享受する利と嫉妬が微妙な反発を生むことは、我国の遠慮がちな外交姿勢を間引いても思い当たるものがある。

 また、宗教、地域陋習に基づく掟や規範が混在する国(地域)では、国家の為政者より優先する「長(おさ))の権威による統治が行われている。それは、近代国家といわれる国々の大衆の集約要因である自由と民主に謳われた消費資本管理主義とは異質の商慣習や、財に対する考え方、自然に対応する従順な無常観として存在している。

 為政者が宮殿を持とうが、多くの妾を囲おうが、近代国家の三面記事を賄いとする商業マスコミのように騒ぐことなく、却ってその方が「長」は大衆の生活に立ち入らないし、その豪奢な生活や過大なインフラは民衆の誇りになっているとも考えるような、棲み分けと分際(ブンザイ)知恵がある。

 

  上賀茂

 

 その近代国家と称せられる国の謳うような大義には無用と思われる異文化の政体だが、戦後処理には、民心コントロールや水に合った政策を提示する、゛大国の暖かい理解゛という避難策によって、訳の解らぬ懲罰戦が弛緩した姿で終結することが多くなった。

 またそのことを歴史の栄枯盛衰の中で特有の解決策を編み出した民衆の知恵が、最後に有効になるという、まさに大義の錯覚した創造の結果として、総ての民族、国家に数多存在する、それなりの自由、民主の概念の意義を、根本的、多面的、歴史の烔察から理解することでもある。

 このことは中野氏のフセイン存続論に対して無視にも近い冷淡な態度をとった欧米の専門家に、唯一の賢論を呈した氏を想起するからである。
そこには足下の葵に感応する下座観と同根の地球歴史の俯瞰が観て取れるのである。
 とりもなおさず茫洋としたアジアの存在する為政者と民衆との間に観るような、王道と覇道にある「道」を構成する混沌の定理を探ることでもある。
戦争消費をエネルギーとして、価値の異なりを消費グランドとするにはアジア、中東地域ほど都合のよいところはない。これを混乱、闘争と観ることもできるが、元々混沌から生み出した柔軟な包容力に加え、ほどよい調和と復元力がアジアにはある。

 そのようなアジアにも滅びることのない意思がある。しかし、その為には異なることを恐れない強固な意思と座標の確立なくして成り得ないことでもある。

 環境によって乏しくなったといわれる上賀茂の葵も、実は人間が観察することではなく、下座から観察されている人間がそこには観えてくる。はやり言葉になった「環境」も葵にとっては発育伝播の本能的拡大のみならず、あえて己を省くことを忘れ、西洋学にある探求混沌の字句のようにもみえる「環境」という問題に拘る人間自らに、脚下照顧を勧めているように思えてならない。

「環境」は、゛環状の境゛であり境際もある。人間と自然の闘いと調和を、意識として認めることから始まるとしたら、まずは他の自然環境を論ずる前に、自己をとりまく人間環境を論ずるべきだろう。

 葵は己を語ることなく、また他を論ずることに文言の拙巧をみるまでもなく、足下に自生する下座からの観察は、まさに神域に鎮座するカミによる人間界の俯瞰であり、自己の内宮に自ずから存在する正邪に、有効な峻別を促すことにもなることを諭してくれる。

 葵に自己を眺め、葵の救済に自己の救いを求める環境が、京の上賀茂には鎮まりを以って自生していた。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日中提携してアジアを興す あの頃

2022-03-03 09:26:54 | Weblog

(日本外交への啓示)

原文訳.佐藤慎一郎先生 63.4.21 寄稿 
構成 郷学研修会

孫文から犬養毅に宛てた手紙
(大正12年、この手紙は、山田純三郎が、犬養家へ持参したもの)







              

             山田純三郎の甥 佐藤慎一郎




山田はこの原文写しを佐藤に託すときこう言っている


『私が孫さんを訪ねて犬養さんが入閣したことを知らせた。亡命中には頭山さんや犬養さんに援けられ、その無条件な援助にみた日本人と一緒にアジアの共通な意志を成し、そして遂げるには、まず日本人が先頭に立って抑圧されたアジアの人民の代弁者になって欲しいということだ。

またその精神もった信頼する日本人が多くいることを知っていたし期待も懸けていた。これはシナ一国でなくアジアのために日本は絶好の機会を逃しているという痛切な意思を犬養さんに託したものだ。三日三晩寝ずに考え、慶玲(妻)さんが何度も書き直したものだ。孫さんが終生日本に期待を懸けていた心が痛いほど滲み出ている。

 革命は後になって評価は色々出てくるが、これが事実だ。それがあっての革命だ。なにも好き好ん赤露に向かったんではない。日本が余りにも理解無く、追いやったのだ。これは孫さんの意志、いやアジアの意志として日本が指導的立場にならなくては、日本そのものが危うくなるという憂慮を犬養さんに伝えているんだ・・・

この手紙を託されたとき、孫さんは日本および日本人にアジアの将来を託したんだ
「山田君!宜しく頼むよ」と、今までに無い強い口調だった』





日本人はどこに 

 山田純三郎はことごとく曲解され,命まで狙われた純三郎の心には、そんな肉体的衝撃の危機にも増して,孫文に付き従い恵州で捕らえられ「日本人」だと告げれば死を免れたが、あくまで「支那人だ」と言い張り斬首された兄,良政の意志を、孫文に共鳴する独りの日本人の志操というだけではなく、独立した真の日本人としての矜持をもってアジアの将来に献じたものだと映っている。
 
孫文は革命に殉死した兄・良政の志操を懐かしみ、終生、弟・純三郎を側近において、ときには叱り、あるときは激励して共に歓喜した孫文は、純三郎にとって革命の指導者であり、人生の師であり慈父のような存在であった。
 
それゆえ、国際人となった純三郎なりの先見の推考で提言しても、日本に受け入れられないもどかしさは、とりもなおさず日本の衰亡への道筋でもあった。身を賭した諌言が国賊として身を襲撃にさらさなければならないとしても、あるいは国策の遂行やアジア解放の大義だとしても、山田にとって日本の将来起こりくるだろう惨禍の予測は無念となって重なった。
 “ 聞く耳持たず”とはこのようなことを言うのだろう。









孫文の強固な意志

 佐藤は慚愧の気持ちをこめて資料をひもといた。それは伯父、純三郎と同様な見解をもつ孫文と鶴見祐輔の会見録である。
 大正12年2月21日、第三次広東政府の大総統に就任した直後の会談で鶴見はこう切り出した。

「あなたが現在、支那においてやろうとしているプログラムはなんですか」

 孫文らしい駆け引きのみじんもない言葉で

「60年前のあなたの国の歴史を振り返って御覧になればいい。王政維新の歴史。それをわたしたちが、今この支那で成就させようとしているのです。日本さえ邪魔しなければ支那の革命はとうの昔に完成していたのです… 。過去20年の対支那外交はことごとく失敗でした。日本はつねに支那の発展と、東洋の進運を邪魔するような外交政策を執っていたのです」


「それでは、日本はどうすれば良いとおっしゃるのですか」


 孫文は毅然として

「北京から撤去しなさい。日本の公使を北京から召喚しなさい。北京政府を支那の中央政府(袁世凱)と認めるような、ばかげた(没理)ことをおやめなさい。北京政府は不正統な、そして、なんら実力のない政府です。それを日本が認めて、支那政府であるとして公使を送るというごときは明らかに支那に対する侮辱です。一刻も早く公使を撤退しなさい。そうすれば支那政府は腐った樹のように倒れてしまうのです」


鶴見は問う。

「日本が他の列強と協調せずに、単独に撤退せよと、あなたはおっしゃるのですか」


「そのとおり、なんの遠慮がいりましょう。いったい、日本は列強の意向を迎えすぎる。そのように列強の政策に追従しすぎるので、惜しいことに東洋の盟主としての地位を放棄しつつあるのです。

私は日本の20年来の失敗外交のために辛酸をなめ尽くした。それにもかかわらず、私は一度も日本を捨てたことがない。それはなぜか、日本を愛するからです。 私の亡命時代、私をかばってくれた日本人に感謝します」


「また東洋の擁護者として日本を必要とする。それなのに日本は自分の責任と地位を自覚していないのです。自分がもし日本を愛していないものならば、日本を倒すことは簡単です…」

 (アメリカと組んでやったら日本を撃破することは易易たるものだ…と述べたうえで)




「私が日本の政策を憤りながらも、その方策に出ないのは、私は日本を愛するからです。私は日本を滅ぼすに忍びない。また、私はあくまで日本をもって東洋民族の盟主としようとする宿願を捨てることができないのです」


「しかしながら、打ち続く日本外交の失敗は、私をして最近、望みを日本に絶たしめたため支那の依るべき国は日本ではなくロシアであることを知ったのです」









 日本の対支那外交について問う


「それでは、あなたは日本が対支那外交において絶対不干渉の立場をとれば支那は統一されるとお考えになるのですか」


「それは必ず統一できます」


「しかし、その統一の可能性の証拠はどこにあるのでしょう」

 堰を切ったように孫文は意志を表明する


「その証拠はここにある。かく申す拙者(自分)です。 支那の混乱の原因はどこにあるか。みなこの私です。満州朝廷の威勢を恐れて天下何人も義を唱えなかったときに、敢然として革命を提唱したのは誰ですか。我輩です。袁世凱が全盛の日に第二革命の烽火を挙げたのは誰ですか。我輩です」


「第三革命、第四革命、あらゆる支那の革命は我輩と終始している。しかも我輩はいまだ一回も革命に成功していない。なぜですか。外国の干渉です。ことに日本の干渉です。外国は挙って我輩の努力に反対した。ところが一人の孫文をいかんともすることができなかったではないですか」


「それは我輩が真に支那の民衆の意向を代表しているからなのです。だから日本が絶対不干渉の態度をとるならば支那は必ず統一されます…」


「あなたが日本に帰られたら、日本の青年に伝えてください。日本民族は自分の位置を自覚しなければいけない。日本は黄金のような好機会を逃してしまった。今後、逃してはならない」


「それは日露戦争の勝利です。あの戦争のときの東洋民族全体の狂喜歓喜を、あなたは知っていますか。私は船で紅海をぬけてポートサイドに着きました。そのときロシアの負傷兵が船で通りかかりました。それを見てエジプト人、トルコ人、ペルシャ人たちがどんなに狂喜したことか」


「そして日本人に似ている私をつかまえて感極まって泣かんばかりでした。 “日本はロシアを打ち負かした。東洋人が西洋人を破った”。そう叫んで彼らは喜んだのです。日本の勝利はアジアの誇りだったのです。日本は一躍にして精神的にアジアの盟主となったのです。彼らは日本を覇王として東洋民族の復興ができると思ったのです」


「しかし、その後の日本の態度はどうだったのでしょう。あれほど慕った東洋民族の力になったでしょうか。いや、われわれ東洋人の相手になってくれたでしょうか。日本は、やれ日英同盟だ、日米協商だと、西洋の強国とだけ交わりを結んで、ついぞ東洋人の力になってくれなかったじゃないですか…」








日本は東洋民族の保護者として

「しかし、私たちはまだ日本に望みを絶ってはいない。ロシアと同盟することよりも、日本を盟主として東洋民族の復興を図ることが私たちの望みなのです。日本よ、西洋の友達にかぶれてはいけない。東洋の古い友達のほうに帰って来てください。北京政府援助の政策を捨てなさい。西洋かぶれの侵略主義を捨てなさい。そして満州から撤退し、虚心坦懐な心で東洋人の保護者になってください」









東亜連盟を主唱した 石原莞爾

「東洋民族の保護者として、自分たちは日本を必要としている。そして今、自分たち同志が計画しているように“東亜総連盟”は日本を盟主として完成するのです。それには日本が従来の謬った侵略政策を、ことに誤った対支那政策を捨てなければなりません。それまでは、いかなる対支那政策も支那人の感謝をかち得ることはできないでしょう。支那人は深い疑いの念をもって日本を眺め続けるでしょう」









真の日本人とは


 だまされ、裏切られても信じられた日本および日本人は、はたしてどのような日本人を指しているのでしょうか。しかも遠大な志操のもと鶴見に託した“日本の青年に継ぐ”言葉の意味は、現代でも当てはまるような国家としての「分」の教訓でもある。
 
 苦難の中で自らの「分」を知り、その「分」によって自己を確立させ、暗雲が覆うアジアに一人決然として起こった孫文の意志は、まさにアジアの慈父といえる悠久の存在でもある。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする