まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

侠客が郷に入ること 09,11再

2023-09-30 01:45:43 | Weblog


以前、安岡正篤氏と恩師の席のことだった。大勢の参会者があったが懇話しているときに凝視せざるを得ない容像の人物が近寄ってきて慇懃に頭を垂れた。
大柄ではないが強固な体躯で白髪、目じりが細く荒ぶれた様子はないが、畏怖を感じるような重厚さがあった。

いつものことながら安岡氏は丁寧な礼を返していた。どうも安岡氏の傍にいると政治家、財界人、官僚、浪人、侠客など人別をこだわらない、しかもその道の人物が近寄ってくる。
かといって誰でも近寄るわけではない。民主党の黄門と自称している渡部氏も当時は竹下氏に連れられて来ていたが言葉すら発することが無かった。

当時は田中角栄氏が裏面の権勢を振るっていたが、ある席で、゛別席に安岡先生がいらっしゃっていますが・・゛と女将が促すと、身を縮めてセンスを振っていたという。
安岡氏が「一夜、沛然として心耳を澄まし・・」と田中総理辞任の声明を撰したのは藤森官房副長官と二階堂氏の懇嘱ではあったが、その意は届かなかったようだ。
「一夜・・」とは、土砂降りの雨のなか、国民の声に心を澄まして聴く、という意味を一国の総理の言葉として撰したものだ。

その田中氏も選挙になると長靴を履き替えて田んぼに入ったり、大雪の中での街頭演説などのエピソードがあるが、東京の政治環境とのギャップは、真に心の耳を澄ますことにはならなかったようだ。




               

           安岡氏の撰号




安岡氏は人物を身形、地位、学校歴、財力では量らなかった。つまり人物の器量をそのようなモノでは観なかった。小生にも都度、「無名でいなさい」と説いた。
器量に沿わない役割をもつといらぬ苦労をする。維持する為に肩を張り、ときには心にも無い虚言を弄す。
「これでは道を極めることは出来ない。自分の特徴を知ったら伸ばすことだ。またその目的が人と変わっていても恐れることは無い。そのための勉強だ」

冒頭に挙げた人物もそうだった。ただ「神戸の柳川です」と言っただけだったが、それだけでも充分だった。何を稼業としているのか、国別、出身は。学歴や地位は、あるいはその所属しているとしたら大きいか、小さいか、はたまた有名か、応答には何も無かった。
両者には棲む世界は違っても相手の矜持を超えない簡潔で実直な応答があった。

ことさら驚くことではないが感慨を覚えた人の所作に遭ったことがある。
ラジオの相談者でタオカ・ユキさんという女性がいる。出身をいえばあの方の娘さんとわかる。
その応答は相談に適切、女性といえど人としての分別を説き、運や縁がはこんでくる煩いに丁寧に応答している。父譲りの胆力は言葉を重ねなくても説得力がある。そして「私と共に・・」と続く。

余談だが、小生の縁者がタオカ氏の子息が上京すると会うが、その教育は巷の子煩悩とは異なりがあるという。
「○○さん、大学の同級生はみな外車だが、僕なんか小さな国産車だょ」
車を持っているだけでも充分だが、その世界の学生との異なりは大切な方向性だ。
その世界では名分もあり、好奇な目でみられるだろうが、敢えて自制を求める母の姿は、人の生き様と、どんな道でも拘らない人情の広さと普遍性がある。それは父が慕われたものは拘らない、囚われない奔放さと、自らの特徴を自覚して律することと理解しているからだろう。






頭山満 犬養毅  孫文葬儀(南京)




世間には色々な稼業や職分がある。縁があって何処に棲もうが変わらぬ座標であり、良質の習慣性がある。

その一つに或る侠客の姿がある。
短気で、粗暴だが人情に厚い人物が縁あって侠客という名がついた。揉め事の仲裁もあるが稼業同士のいさかいもある。ある抗争とよぶいさかいがあった時、大勢の町の人たちはその侠客の家に集まりその親分を守ろうとした。゛町の人゛といっても荒ぶれた人を想像するが、みな普通の人だ。なかには「素人のほうが刑が軽いので私が行く」と興奮する者もいた。親分はやんごとなき問題への意地だが、町の人は日頃世話になっている親分へせめてものお返しだった。これは、本当にあった話である。

次郎長もそうだ。
山岡鉄舟に頼まれた天田五郎という青年を育て、教育し、後の広沢虎造の浪曲で有名になったネタ本である「東海遊侠伝」を書いている。一応は次郎長の配下の侠客だが、この天田五郎に愛着を持った人たちがそうそうたる人たちである。原敬、陸羯南、三遊亭園長、勝海舟など滑稽なほど彼の人物に惚れて賛助を惜しまなかった。



              

            恩師の家族  満州新京



ヤクザにしておくのはもったいない、とは聞くが、町の人に慕われ応援され、特殊な世界で特徴ある才を発見して伸ばすのもその世界の特殊性でもある。

あまり信じないことだがIQという能力判定法がある。ある死刑囚が判決後誰に促されるわけでもなく漢字の勉強をした。暫くすると当用漢字を全部覚えて、新聞社に和歌を投稿するようになったという。金だ、女だ、といった世俗と違い勉強には最適な環境があるようだ。つまり緊張と集中を維持できなくなった浮俗の世界にはない自分にあった欲を見つけられるはずだ。

子供が落ち着きが無くなり、人が方向を見失ったとき群れになったら収拾が付かなくなる。
それは法律や権力では到底解決できない患いである。
例えば法には触れないが行儀の悪いこどもが大勢集まったら大人はどうするだろうか。すぐ警察官を呼ぶだろう。子供は警察官をはじめとする大人の世界も知っている。その特有の汚れていない正義感でみている。

昔は前章にあった親分や肩書きも見ず人を読み取った次郎長がその任に当たった。郷は駐在さん、医者、校長先生が頼りになる賢人だったが、いまはその類が少なくなっている。
長(おさ)がいなくなった世界は、昨今の支持率低下をバロメーターとする政治と同様、思考は堕落し陣取り合戦のようになり、庶民もそれを倣うようになった。

そして金の世界になった。
ただ、そうでない侠客も津々浦々の郷には存在する。
くれぐれも暴力団と括るなかれ。

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疑問の源泉 柔軟剤?

2023-09-28 05:56:00 | Weblog

  
             秋山真之氏

このままでいい、いや変えなくては、との様々な世俗の評を観る時、直すべき対象を吾が身に振り返るときがある。

ものを書き、ものを云ってみたところで、その技量の乏しさの為か余計に滞留するものが滲み出ることがある。それは衣服を伝って表面に染み出るように、云い難い匂いを漂わせている。

若い頃、よく古老から「問題意識を持ちなさい」と言われた。
また、それを素朴で純粋に観察する為に「無名かつ有力に」と付け加えられた。
力を抜くことでもあろう。

近頃は懐中の厚みや、食い扶持となる釜の蓋を開け加減を横目で見ながら、自分にとっての人生の仕事の住処について譬えられる、蟹の甲羅に合った穴探しに没頭している。

掘ったと思えば狭く、あるいはユルイ、下手な穴掘りでもあるが、身を休めるつもりは無い。気は阿修羅だが、お人好しの気弱で、お節介。
その裏腹に可笑しくなるほど気をモミ、ときには病むときがある。

ただ、世の中便利なもので、じっとしても数多の刺激が降り注いでくる。固陋なる古典書物の紹介から、色事のお誘いまで、余ほどシッカリしなければ、いつの間にか自身を茫洋の淵に追いやる。これも終いには面倒なことに無常感を背負い、あの頃の世間知らずを懐かしみ、童心にあったようなバーバリズムにある素心への願望、はたまた胎内回帰の如く心音を聞き風に薫りを求めるようになる。

竜馬、晋作の詩情にもあるものだが、自身の五臓六腑をぶちまけても自らの邪神を祓い、「純」に「空」に希求したものは、歴史にあって芥子粒のような存在に一寸の魂の存在だろう。それは「たかだか」「でも」にみる逡巡を払い確信に向かうスパイラル循環のようなものだ。

ただ非凡なのは、そのスパイラルに回転する循環リレーには「縦軸」の存在が不可欠と認め、その「維」の改新を自身の生き方にトレースしていることである。
先ずは己を知り、己に問う作業であり、日本を問うたのである。

そういえば、竜馬の新婚旅行もオツなものだが、児玉の女郎買い、博文の異様なまでの女色、真之の昼行灯、それぞれ事績とは思いもよらぬ潤いがあった。
陽は陰に問い、陰は陽を問い、互いに惹きあい、その別なるを知る。

筆者の評点に誤解なきように望むが、何となく疑問の要因が解けかかってきたようだ。

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時節は儒を除けて墨を得る  其の二 14 10/4 再

2023-09-27 07:36:40 | Weblog

山田良政 青森県弘前市

中国近代化の魁となった辛亥革命に挺身、日本人として最初に殉難した。
日中提携して欧米植民地化によって抑圧されたアジアを再興する意志があった

 

その一から

その意味で身近な長の存在を考えてみたい。
その背景は出自や元々の財力もあっただろうが、附属的には官製学校歴という数値選別による地位だ。また安定職、給与も担保されている立場だ。
しかし、畏敬の存在で結婚式には雛壇に並んでいた彼らが、昨今の真偽交えた情報の氾濫で重箱の隅を突っつかれる対象となった。出てくることは金と女と便宜利得の隠れた話題だ。

一種、数多の欲望の整理と制御を担った人間的威厳が汚され、亡失した。
野生動物の群れはリーターを自然推戴する。群れが草を食んでいれば一頭なり一匹のリーダーは獲物なり穀物を食む整理をしながらでも、つねに危険に対して、たとえ食べながらでも四方をなり雲の動きを注意している。

危機を察知すると懸命に餌を食む群れに号令し、群れは文句も言わずリーダーの逃げる方向に追従する。疑問をもって立ち止まるものはいない。野生動物でも長は群れのために食欲さえ押さえて群れを護っている。

渡来した宣教師は大衆を集めてこう説いた。
「造物主(神)が造った最高のものは人間です」
ある農民はこう応えた。
「仕事を手伝ってくれる馬や牛も同じではないのですか」
物知りの宗教家より農民の方が利口だった。もちろん万物から恩恵を受けていることへの感謝がその土台にある。つまり宣教師の説く「愛」と赦しの心は農民の方が深かった。
それは、誰から教えられることなく自得した浸透学のようなものだ。



ならば、積層された歴史や、たかだか人間の頭脳で考えられた説なるものは、何なのだろうか。知った、覚えた類で人間を飾っても、あるいは現代の政治や経済のシステムによって各種の利便が適えられたとしても、拙い農民の応えに整合できない現象はまさに混沌と言わざるを得ない状況だ。
しかもその矜持というべき習慣性を蓄えた大多数の国民が、その蓄えの有るを知らず、あるいは無用だと切り捨てる社会が、将来の時と存在を描けぬまま盲流している姿は、まさに義侠ある長(おさ)なき群れのようにも見える。

そのことを踏まえて、人々が互いの欲望を制して、不特定多数の利他の増進を考える古今の説なり規範なりが、ときに唯一の人の在り様として普遍化、常態化となり、それが劣化なのか、もしくは順化の反作用なのか、弛緩、怠惰にもおもえる自他の関係がおよぼす社会現象が顕著になったと感ずるのだ。
時節に採って付けた古典の借用とも考えるが、古典の諸子百家の中で現在と対比して似通った民情、政治権力、あるいは栄枯盛衰に随うように興り、消滅したかのように思える説なり風儀を再考してみたいと考えるようになった。






義侠 尾津喜之助



その中で、春秋戦国時代の墨家、統一帝政後の儒家、我が国の律令時の仏教、幕末時の陽明学など、ときにすり寄り、野合し、活用され、消滅するが、ここでは春秋戦国時に儒家さえ凌駕し,秦統一後忽然と姿を消した墨家に、どこか天の支配を別の声で聴き分けた任侠、侠客の出現と、その烈しい義侠に、我が国の狭い範囲の掟習慣を支配した陋習なり陋規にトレースしてみたくなった。

学は体系化して論拠をたてるというが、複雑に要因を以て構成された、民族、棲み分けられた郷、国家を部分化して、さも合理的に検証しても、それを算術的に合わせて全体を構成しようとしても、それは(※)ドイツのハイゼンベルグ同様な悩みに直面してしまう。

※部分の算術的総和は全体とはならない〔数多創設される大学教科を見ても、それぞれが全体の用となる分派でなく、分裂状態となり、各教科にはボスと一同が存在し、教育学科としての部分探求は優れていても、社会のために有効化するような総合応用できる人材教育、つまり人格識見が要を成す全体への具現行動できうるゼネラリスト、郷なら長(おさ)、国なら相の存在、研究なら現象の根拠だけではなく、各派に共有できる普遍的真理の探究が必要となる。それが、各部分を結びつける統合の要素となる。〕


勝手な表現だが、筆者はアカデミックな学派にも学び舎にも縁がない。忌避したといっていい。同じバカでも大莫迦者を自認する。それゆえ珍奇かつ難解で無体系な「人間考学」を立てた。
ある意味、掴みどころのない浮遊学だが、釣りのウキのように、かろうじて逆さにはならない。また、地球ゴマの理屈で、回転によって倒れずにいる。
いくら歴史がスパイラルに回転しようが、軸と座標さえ揺れなければ、同心円の吸い込まれるように情報は、平面と上下の交差点で読み取れると思っている。


回転スピードが遅くても、早くても、回転を吸収する軸が弛めばCDディスクはダッチロールを起こし読み取れない。それは情報集積の容量を増やしてセンサーを鋭敏にしても軸の存在を認知しなければ裁断された誤った情報しか集まらないということだ。


それは、カオス状態になった数多の情報と多岐の解釈が我流引用される社会において、見るべきもの、考えるべきもの、つまり思索と観照を取り戻すための良策のようなものだ。
見たいこと、考えたいこと、から「べきこと」への変化のようなものだ。

学びの社会に当てはめ、ここでは儒を考察すれば、善なる説は、成文を、見た、覚える、のみの目的ならまだしも、あくまで人間の行為によって効果は限定される。もしこの儒が習慣化された回転だとしたら、かつ、情報量(数多の声、情報)が多く、既存の軸では耐えられなくなったら、軸を太く強固に作り直さなければならないだろう。再度の儒の活用を考えることもあるだろうが、行うべきは情報の分別と取捨選択だ、ことさら有用を取って無用を捨てるということではない。

土壇場になると判ることだが、いかにその習慣性が錯覚していたか、つまり有用の表裏にある害と、無用の表裏にある有用の存在を知る、思考の転化だ。

儒の効用は、時節の民風と為政者の恣意的政策で用いられた。
ならば、今はどうか。そこを問うのだ。
成文化された説の細目は、それぞれは数多の賢人の評価、考察に委ねるが、ここでは埋もれた墨家の説を甦らせ、茫洋となった世情の時節感を意識に抱いて、儒を否定することなく、墨家の儒と対立した理由や、墨家が旨とした他への義侠と、身を賭した仁愛の姿を、もう一つの眼で見てほしい。

それは現代中国人を見るに何故墨家が歓迎され、また時に忌避されたか、翻って、なぜ任侠がヤクザに呼称が変わっても現代に生き続けるのか、あるいは、人のために犠牲になることが畏敬されるのか、それは現代の日本人に自覚はないが、異民族とは違った情感があるようにもみえる不思議さが、自己に内在する気が付かない情緒(潜在情緒)だと感ずるかもしれない。





愚庵(天田五郎)
無学無頼…鉄舟に学び次郎長の養子…漢文で東海遊侠伝(後、広沢虎造の浪曲となる)を著す…禅僧となる (禅の道は路傍(道端)の義侠に在り)



いま、墨家のような集団が表れたら庶民は歓迎するだろうか。
いくら民主主義といっても為政者や官吏は墨家の行動はどのように思うだろうか。
近隣諸国はどのような反応を示すのだろうか。
辛抱、我慢、節約、人助け、は、ミーイズムとなった家族の慣性に耐えられるのか。
いわんや、安定、高給、長生きに邁進する世情はどのように反応するのか。

ユートピアのためには、そんなことを突き付けられそうな墨家の強烈な意志が、潜在する情感に触れれば本望である。

 

 

ここでは隣国の古典として日本人の情緒に合わないかもしれない、あるいは甦る潜在情緒の覚醒なのかは読み人に委ねるものだが、時宜に相応した応用を再考しつつ考えることも意味あることだとおもい,以下に記すものである。


墨家の十か条の思想

尚賢        貴賎を問わず賢者を登用する。
≪出自(貴賤、異邦人)を問わず、能力と義侠心を持つ賢者を登用する。墨家は兼愛に言う、狭い私情を忍び、不特定多数を公平にみる能力と義侠的行動力を持つ人物を賢者を用いる≫


兼愛       全ての人を公平に隔たり無く愛せよという教え。
≪人々が私情を控え、公への貢献の意識を持てば社会は安定する≫


非攻      他国への侵攻を否定する教え。ただし防衛のための戦争は否定しない。


尚同      賢者の考えに社会全体が従い、社会の秩序を守り繁栄させる。
≪権力者(為政者・官吏。知識人・宗教家)の恣意的行使ではなく、また権力者の下僕になった知識人ではない賢者の施策に随う≫


天志     上帝を絶対者とし、その意思は正義、天意にそむく憎み合いや争いを抑制する。
≪権力によって恣意的につくられる法の上に天意の存在を認める≫


節用     無駄をなくし、物事に費やす金銭を節約せよ

≪各々が自制心を持ち、為政者も税の恣意的乱費を無くす≫


節葬     葬礼を簡素にし、祭礼にかかる浪費を防ぐこと。
≪葬祭を形式的、華美に行う儒あるいは、現代の葬儀形式と対立する≫



非命     宿命論を否定し、努力・勤労が運命を変えると説く。

≪安岡正篤氏・・宿命論は怠惰を助長させる。ここでは「立命」を提唱している≫


非楽     悦楽・舞楽を否定すべきとした。
≪儒の孔子は礼楽を説くが、形式は財の乱費と風紀を糜爛させると儒家と対立する≫


明鬼     善悪に応じて賞罰を与える鬼神の存在を主張し、争い・悪行を抑制する
≪鬼神には敬して近寄らずという論を旨とする儒とは対立する≫


この十か条の思想を持つ墨家は儒家をしのぐほど興隆して人々から歓迎された。
統一前の春秋戦国時代は政治体制も脆弱で社会は混沌としていた。
そこで出現したのは義侠心あふれる任侠の徒だった。そして日本の武士道の源流とも思えなくもない武士道的考えと戦い方をした墨家の集団だった。墨家の唱える各項に儒家は反発し、為政者も儒家を重用したため、墨家は期を境に忽然と姿を消している。

為政者からすれば、安定支配には邪魔な存在だった。
近代的中央集権国家でも武士は旧軍の戦闘姿勢に表れた敢闘精神だが、武士の精神は近代戦争の魁だった西南戦争で潰えた。任侠は郷の掟や習慣によって存在価値を認められたものだった。これも近代国家の謳いのもと弾圧され、戦後の混乱期にも政治に利用されたが安定すると徐々に弾圧されるようになった。

当時は、民主・社会・独裁。などの主義分類もなく、自由、民主、平等、人権などの謳いもなかった。
混沌に対応するのは専制しかなかった。その後は共和制を謳うこともあったが、人々は、税は払う、労役にも出る、しかし自由は邪魔しないでくれと、それが今でも続く諦観となっている。つまり、政治とはそんなもの、という諦めと達観だ。

墨家は人々に主体的になるべきだと説く。国民として安住することなく、積極的に思索をめくらして他に貢献し、相互関係をつくることだと唱える。

社会の一員としての分際では、全体の僕(しもべ)となり安寧を希求するが、破壊しようとする者がいれば内外の敵を問わず、一致団結して命懸けで集団を護ると唱える。そのために義侠心を養い、命が大切だからこそ、その精神を護るために命を懸けるという求道的考えを説き、そして実際に行動具現した。



非楽・節用・節葬は武士の質素節約と似て、心身堅固な気風を醸し出している。
とくに非攻・尚賢・尚同は、つねに社会を意識し、全体の一部分とする共和精神と、虚飾知識や虚構を唱える偽善家を排して、真の実利・実益ある社会を提唱している。

かといって宗教のように公布宣教でもなく、また大衆を恃む社会運動家ではない。なぜなら肉邸的衝撃すら厭わない社会守護を主体的に行う前提に、自我欲望によって陥る弊害を省いて共に協働しようとする大衆の覚醒を働きけているからだ。






任侠の徒 山本長五郎(清水の次郎長)



儒も墨も隣国の古典だが、現代では吾身を飾る借用学なのか、知った、覚えたような類が多い。つまり、学問知識を利他に活かすための基礎的知力や体力欠如ゆえ、言論行動の座標となるべき浸透学の補いのような学になっていると思うのである。それは「自我を利する」ことへの学びの偏重が多くの軋轢、反目、混迷を生じているにもかかわらず、隣国の流入古典(昔話)に偏った用を求めている事情の不可思議を覚えるのだ。
つまり、棲み分けられ民族が、複雑に要因を以て積層された情緒を基にした独自の社会なり国家、ここでは日本人の学びとして倣うべき学問の前提である「本」が立っていないようにみえる


唐学は国家の形成なり,治政の形式を伝え、洋学の多くは異教とともに便利性を伝えた。その吸収性は好奇心や迎合性と相まって伝来の別の目的である、人の心の転化を促した。
唐学は連帯調和と人々の生活規範、あるいは為政者の要略の極意を、栄枯盛衰に出現する賢者、愚者の例題として、その説を習い、規として習慣化した。

洋学は儒と異なる「愛と許し」の美辞を唱え啓蒙し、武器も医術、航海術などの異文化技術によって関心や興味を昂進させ、為政者にとって慣性化した儒の効用を脅かしもした。
本来、武士道とか任侠の気概は、安定した封建社会の治政の用に立った儒とは違い、個人的な義侠がその本質であり矜持だった。

しかし、個人の愛郷心や普遍な義侠が、上司に不忠となるような支配環境は儒の影響で変質した。しかも利便学としての算盤、簿記が登用の条件ともなり、かつ儒にいう礼楽のたしなみと効用が糜爛した文化となり、節約、剛毅な武士道精神も軟弱沈殿した。

気概を喪失した武士がそうなると、官位買収,賂、の技巧が立身出世の具となり、儒の定着した治政規範が無意味に武士世界を覆ってしまった。
安定すると儒が階級身分の教養として盛んになり、隣国でも儒者が行っていた漢方医も武士に準じた身分が与えられ、寺子屋の修学も異国の古典の素読や解釈だった。






山岡鉄舟

西郷曰く「命もいらず、名もいらず、このような人物は始末に悪いが、土壇場で大業を成すのはこのような人物だ」と。


別に儒そのものが悪いのではなく、説く者の固陋さ、用いる側の形式化、つまり人間の心気溌剌、更新突破、という躍動感が乏しくなり、儒の覆う囲いに埋没したような状態を招いたようだ。囲いで生き延びるのは狡知、己への偽りなど、肉体的衝撃(体感、浸透学)によって検証していた個々の信念や座標軸が茫洋となり、書き物の中でしか人の学びがなくなった状態に陥った。

あの高杉晋作が維新回天の魁として発した功山寺の挙兵は、まさに、惜しくも狂おしい義侠心崩壊の憂慮も含んでいたと考えるのは、行き過ぎだろうか。

対外圧力は別な意味で我が国に時宜(良機)を与えてくれた。
稼業抗争ではないが、言いがかりをつけて、弱点を突く、もちろん維新の功臣とはいえ、体制側からすれば無頼の徒である。儒に沿っては何も変わらないことは知っている。後付理屈では陽明学の影響というが、学の効用ではない、借用応用の屏風だ。

ただ、異なることを恐れない突破力は欲と道連れだが、借用するなら墨家の任侠的義侠と戦いを怯まない誓詞のような背骨のほうが符合する。

結果は身分の下剋上であり、歴史上の置く所を変えた賞罰の姿ともみえるが、あの西郷が下野の因をなした「これが維新か、こんな国にしたくはなかった」ともとれる慚愧だった。

前記した「後つけ理屈」だが、大義はその効果の用として一過性に掲げられるもののようだ。世の教養人なら、たちどころに見抜ける借用看板のようなものだが、往々にして邪まな魂胆を美装するためにも使われる重宝なものだ。


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時節は儒を除けて墨を得る  其の一 14 10/3 再

2023-09-26 15:47:52 | Weblog

好き勝手のようだが、言いたいことではなく、言うべきことを備忘したい。

 

2014年の旧稿ですが、当時は憲法の解釈変更で集団自衛権が可決されたり、スタップ細胞問題で社会が少しづつ変容している年であった。

いまから思えば,いつの間にか・・、何となく・・・、まるで惑わされたかのように、いや、それさえも考える事なく人は流動している。

気が付く人だけでもと、隣国の故事にある偉人を倣いとして、いずれ取りつく島にるかと2014年の備忘とした。

多くは難渋すると、財貨や流行り情報、はたまた他国の威力を頼りにするが、ここでは土壇場に現れ、尽くして欲しがらず、施して求めないような世俗的欲望を棄てた稀有な人たちが存在したことをお伝えし、世上の政治家、知識人、経済人と比較して、本来あるべき人物の見方を、自らが慎重に考えていただきたい願いもある。

私事だが、信頼する歴史作家、半藤利一さんの没後(2021年1月)2021年5月「墨子」を平凡氏が出版した。発行は畏友の下中邦彦氏の娘の美都さんとあった。たしかに気が合いそうに出版人半藤・下中の誼が想像できた。 2034  9

 

非戦への奮闘努力のために・・・

 


よく教養の一端、人によれば人生を覆う衣のようになっている「教え」だが、その多くは外来の仏、儒、キリスト教である。仏は伝来当初から権力と野合して多くの喜捨を得て大伽藍を構築して無垢な人々を驚愕させ、大なるものに寄り添う群行を信者と称して集め、その多寡で勢力を伸張させていた。

怨霊を鎮めたり、逆に呪ったり、今となっては人間の弱さと浅はかさを、まるで救済する偶像として経過をたどっているが、その発生源である人間の我欲の在り様をコントロールする儒の効用も併用された。

つまり人生の出発と終点を司り、添加として徳や道の習得や、仏に説く亡念、除霊など神道に類似した衆の心を吸収している。それを信ずる心なのか惑わすことなのかは別として、唯一無碍の教養とし人々に浸透させた。

ともあれ、発生国の仏や儒とは錯誤なのか恣意なのか、敷島の民には似ても似つかわぬ仏。儒が定着した。その多くは大衆救済、道の習得を唱えるが、口伝なり教え授ける僧侶や儒者は解っても、多くの大衆には成文化された難解な文字など読めず、しかも似て非なる異民族の感性でしか読み取れない、これまた天地の開きのある環境や習慣が培う情緒性を、梵字なり漢文の勝手解釈で多くの学派や宗派を乱立させた。

大衆はその選別を、簡単明瞭、ワンフレーズの題目、大建築物、信者の多数か否かでしか選別できない。つまり似たり寄ったりだが、面前の導師と云われる住職や儒者の無名もしくは有名を秤とするものも多かった。
在りもしない、できもしないことを大義によって虚飾する雄弁家、政治家の選別と似ているようだ。


仏やキリスト教に共通することだが選名なり命名がある。セカンドネームだ
日本人がヨセフとかローレンスとなり、中国でも陳さんや周さんも英名になる。
仏は冥途に旅立つためにと、戒名をつける。神父も僧侶も名付け親となり、個である信者は親のいうことは守る契約が行われる。共通することは名前には対価と義務があり、その範囲では常に優先的執行は宗派側にあると契約されている。
ゆえに戸籍管理、人別管理など、為政者の委託業務紛いの関係が現存し、いまでも委託料なのか、人心掌握料なのか税制上の恩典はことのほか厚い。

儒は大学・小学など学制に応用される内容があるが、官吏の登用試験は四書五経が用いられ、今と同じで知学、暗誦学による筆記選別で、財すら思いのままになった。

皇帝の勧学文には「書中 女あり、書中 財あり」など、勉強して地位を得れば女も金も思いのままになると、学問を奨励した。そのお陰か、歴史に記載される学者がことのほか多輩している。だから皆、儒を学んだが、官吏の賄賂汚職は増々激しくなった。

儒も仏もキリスト教も人間を通過するとおかしくなる。自然を見て素行自得しつつ、独自の境地を拓くなり、肉体的衝撃を心身の浸透学にするならまだしも、「人」を通過して文なり口伝で他にリンクすると、競争や嫉妬、反目、戦争まで起きる。
いくら良い教えだと思っても、他に貢献なり愛なり畏れを添えて導入しようとしても、元もとの核心との齟齬で却って混乱したりすることもある。



                                         

 「哲山」は岡本義雄の号 

「大説と小説」「大欲と小欲」 語ったり、地位が昇ったり、金を持たせれば、賢愚は判る

明治の頃、曖昧なこと、作り話は、小説仕立ての漫画ともいわれた。


多くは困窮の救済を謳うが、意外と発起自発的行使は個々の意欲に委ねられ、ボランティアの寄付行為もしくは、手軽に動かせない墓石に鎮まる先祖霊護持、かつ継承の安堵を量った喜捨のみで、宗派による社会啓蒙や活動などはさして大きな効果を上げていない。ゆえに衰退が危惧されている。

近ごろの儒などは、形式的教養や挨拶替りの熟語引用、または同好学として生き繋ぎしているが、それも過去の人物の妙な活用学の知学でしかない。
つまり、人心に応用ならず、効用を拓く環境もなく、しかも、その有るを知らない浮俗の情況は、ときにマニュアル本、挨拶引用の虚飾学のようになっている。これも「人」の問題だ。


もともと現代人にとっては生まれついて世間に存在しているものだが、大よそはクリスマスや感謝祭、お盆の帰省、葬式、結婚式によって近づくくらいで、それさえも関係は薄くなり、喜捨や献金などするものも少なくなっている。

標記は、知った、覚えた類の知者からみれば、児戯に等しい解釈と思われる表現であり、かつ、そのアカデミックな世界なり檀の構成員からすれば条理に整わないかもしれないが、だからこそ「情理」として浸透し、心身や肉体の動きに作用する実利として、彼らには戦慄(わななき)にもなろう切り口である。

なぜなら、長いあいだ用いられてきた儒の掲げる高説が、人間の徳性として涵養され、もしくは高潔な人物の倣う姿として普遍化、形式化されてきたことではあるが、時節は我欲のコントロールの制御域を超えてその意図する儒の効用を離れた虚飾の学、方便の学になっていると考えたからである。
しかも一方では数値合理にもとづく成功価値を指向し、他方では自ずから招来した人心微(かすか)なる世情を憂慮するような背反的環境の出現に、またしても手っ取り早い道徳律を官制カリキュラムの隙間に入れ込もうと苦慮している。



儒の伝来と、仏の伝来、そして有史以来の敗戦を契機として、仏儒混交、武士道の興隆で培った形式なり習慣律は無用のものとして忌避し、西洋合理主義に沿った便宜主義に易々と乗った、゛にあわん主義゛は、ここに至って、゛気が付いたのか゛あるいは為政者の便法として一過性の流行りごとにするのか、封建社会と変わり映えのない利用のされ方を再び行なおうとしている。

しかも、学派の一派として存在している儒の知学を援用して、道徳律という習慣性、浸透性を重んじる「修己治心」のような自己学習を、共通学習として規格化されたカリキュラムに押し込む愚を冒そうとしている。

そんな面倒なことをしなくとも、漢字,邦字(日本で作った漢字)の字源なり関係性を楽しく学べば解決することである。画数やつくり、へんを数値試験に出してクイズのような問いを純真な脳髄に打ち込む愚は、現在の結果をみれば、設問する大人の方が問題解決意識もない群れのようにみえる。

盲目的中国好きや食い扶持教師からすれば道徳律は古典に求めるだろう、とくに論語だ。
しかし、これとても同じ人間種ではあるが、似て非なる環境と慣習を虚飾するなり、科挙登用の選別に用いた聖賢の説話ではあるが、意味つかい、活用の仕方は天と地の開きがある。
いまのグローバルスタンダードや金融工学、経済学が共通だとしても、土俵は譲らない欧米の実利的用い方に唯々諾々として順化していることと同じことなのだ。



外来の学びである儒の効用は、為政者の忠恕、医師の仁、教育者の智、官警の義、官吏の公、として今までは人々の畏敬の対象であった。その常態は社会の安定を招来する人間の相互関係に効あったものだが、固定化されるにつれ職分として身分化(一種の既得権)され、単なる名利獲得に目的を堕すようになるにつれて、職分を汚す様々な現象が起きるようになった。

つまり、そのあるべき姿に問題意識もなく弛緩・怠惰、劣化の情況を見せたとき、まさに、゛いつの間にか゛取り返しのつかない禍根を残し、かつ改新、更新の意識の甦りさえ無くした多くのエリートは、よりその増殖を速めている。
ここでいう問題意識は、自身の歴史的存在の確認から生ずる役割や、責任と自省から導く歴史継承者としての謙譲の心だ。









それは儒が科挙(官吏)登用試験となり、その官吏が昇官発財に邁進することによって、試験修学に説く、儒の「仁・義・礼・智」なり、徳による治政が民に応用されこそすれ、当の官吏・知識人が国家の患いである四患「偽・私・放・奢」を露呈し、内実の伴わない登用試験のみの儒に堕落したことと似ている。

似て非なる国の模写である儒が社会の連帯と調和の用として活かされ、時をたがえて流入した宗教と混在し、敷島に棲み分けられた情緒に複写された儒の効用は多とすべきだが、一方、半島の政治状況や民風にみる為政者の固陋なる支配構造は、本来の儒のもつ柔軟で寛容な姿が、用いる人間によって頑なな呪縛になる危険性を表している。

儒の発生国では人為の果てに招来するであろう禍を必然なこととして、道教という生活実利を自然界の循環を倣いとした人生の智を含ませ、ときに為政者の説く儒の恒徳を陰では「ハナシ」と揶揄し、苦楽の緩衝として嘲る風潮もある。つまり、儒を看板のように扱っている。
儒者は身分十階の下から九番目の「九儒」その下は乞食だ。毛沢東は「臭九老」、鼻つまみ者として知識人を扱い、大学教授とタクシー運転手と給料は同様だった。

それは己の陶冶を忘却して、単に古代の聖賢、賢者の古典(むかし話)を高邁にも高説として仕官を図り、説家として戦陣に於ける外交交渉を任され、今風の三百代言のような弁護士、交渉人として歴史を偽作する商い儒者の歴史的にも多数存在したからだ。
教学堂や廟堂の守護者となり、暴政をほしいままにする為政者のお飾り御用としての飾り知識人は、当然のこと市井の庶民からも蔑まされた


我が国の仏教とて、一部ではあるが「糞坊主」「葬式坊主」と揶揄される寺持ち僧侶も、伽藍や庫裡はミュージアム(博物館、美術館)のように豪奢になり、本来の学びの場所である「寺」の威厳を錯誤し,教義すら貶めている。

発祥地にもない儒的孝徳を供養功徳とした檀家制度の戸籍管理を為政の支配構造に繰り込み、勢力を拡大して二次権力を構成する特殊な形態も、彼の国の儒者の知識によって身を購うことに相似する姿である。

特に相似するのは財貨に対する感覚だ。説くことは高潔、高邁な知識人とて財貨の欲望には抗しきれない

忠恕は偽りの謀りとなり、仁は算術と揶揄され,智は狡知となり、公は私となり、儒の説く、人間の徳性が為せる職域に対する尊敬すら、嫉妬、怨嗟、不信の対象に成り下がった
知識、技術の進歩と学びは、あくまで活用、運用する人間の問題にかかっている。
それを永年支えてきたのは儒の掲げる自己陶冶と利他の心であり、理想社会への希求だった。

よく、支配者のための儒といわれるが、あくまで側面であろう。理念は正しくとも、道理は、説くもの、聴くもの、学ぶ者の問題として、現代ではその公徳心が放埓し、我欲への干渉が功利的精神への昂進となって、儒の効用である制御域を超えたとみるのである。

また、儒の高邁な精神は時々の人間によって、利得の用や虚飾の屏風となり、民衆を翻弄させた。あのロシア文学にあこがれたものは当時のソビエト流共産主義を礼賛し、唐学(漢学)を教養虚飾するものは、老荘道家、陰陽など百家の複雑な浸透情緒を知ることなしに、対岸からの客観評価による盲目的礼賛の印象に高揚して、隣国為政者の行う政策まで迎合していた。


そのような識(道理)の欠けた、知得人たちの論は、往々にして他の批判に抗するための手とり足とりの論拠を詰めるが、さして実用には即さないことが多い。
売文や言論貴族のように、それを食い扶持にする徒は仕方がないが、却って無学、いや官製の分派された科目学習より、ある意味では無学校歴のほうが真理に近づく直感性が豊かなようだ。くわえ人間社会の実利なりに有効性がある。

明治の学制改革は多くの効果を上げたと後の識者は言うが、仕組みは変わったが、そのことにより、より知ること、覚えること、暗記することは増えたが、そもそもあるべき目的の本質である.知を扱う人間の本質は、ますます劣化したように思える。


いまでも日本人の深層の国力というべき情緒は「お節介」という形で残っている。
見も知らずの郷里を訪れると、これも初対面のおばさんが農作業の手をとめて、「暑いね・・何処からいらっしゃったのですか」と自然に問う。「東京です」
すると頭を覆った手拭いを外して丁寧に頭を下げる。「いゃ・・」、こちらも恐縮して頭を下げると、「暑いところわざわざいらっしゃって・・お茶でもどうぞ」と、一緒に手伝っている嫁を促して作業小屋に招き入れる。出されたのは熱いお茶と手製の漬物。職業も尋ねることもなく、見も知らずの遠来の客と談笑する。「忙しいところ手を煩わして・・」
「いゃ、丁度いいところで、いらっしゃったのでよかったですよ」
これが無財の力であり、人々の淡白な交わりだと、こちらも嬉しくなったと同時にこれが陛下の観る大御宝の姿なのかと一息ついたことがある










巷の現性価値である学歴、財力、地位、名誉などは人格に必須なものではない。せいぜい有るに越したことはない類なものだ。その極暑に働くおばさんの心根こそ、あのブータンの幸せ度と比較しても劣るところはない心温まる応答の礼なのだ。しかも都会では考えられない無防備の招きだが、逆に冒すことのできない威厳が感じられる。
つまり、文化爛熟し糜爛に進みつつある状況で、高学歴、即高収入の知識人や官吏・政治家・宗教家にはない実直な純真さがある。

なぜ、彼らは堕落したのだろうか
それは、知るに越したことはないが、知ったがために己すら偽り、自己の本質を忘却するかのような慣性の学びに問題意識をもち、覚醒、改新,甦りを人の循環、智の集積とするような学問の作興に魁となる人物が表れない憂慮でもある。

論語の説く有徳、大学の格物致知などの古典が、単なる知学に沈殿しているようだ。
実社会に有効化され、ひいては己の人格陶冶に結ぶべき活學が、己の装飾となり、錯誤な価値を普遍化し、衆を恃んで財や位を保全したり、はたまた説き方、切り方の齟齬が抗論の種になるような虚構の世界の駄論が、為政者の屏風になるに及んで学問は堕落したのだ。
それは、現代にも続く学びの病弊でもある。


その錯誤だが、怯えを守りと称し、贅沢を幸せとし、暴力を勇気と称し、人を騙して頭がいい、とする現代価値の錯覚である。

世間では医者と警察官と教員、そして宗教者は畏敬の存在として郷の長(おさ)同様の地位を得ていた。もちろん近ごろの長である市町村長や知事、代議士も同様だった。

明治の学制は洋風にかぶれた流行りの進取として、その範をフランスの学制を真似た。
あの、扇動された市民が王政を倒し、掲げた大義は自由・平等・博愛(本来の意は友愛)だ。そして民族の長(おさ)を亡きものにした市民は共和制という便宜制度を掲げ、市民は一時の歓喜から自由は孤独を招来し、平等は不満を蓄え、友愛は仲間内の自由の担保だと気が付いた。

しかし、その流れはロシア革命から辛亥革命と、統合の象徴でもあった長(おさ)を無意味なものとして、また搾取・専制の根源として破壊した。

その結果、取り付く島を無くした市民はその管理を、財と情報という姿なき統治者に任せ、与えられた自由を満喫させ、新文明人への促しであり、全体を運用する場合には、有りもしない人権意識・平等観を個々の権利として浸透させ、反目,猜疑、不信、混乱の舞台に導いた。
その結果、調和と連帯によって培われる自他の厳存の認識や、他への寛容(普遍な愛)の醸成を妨げてきた。つまり、まとまらない,騒がしい市民を作り上げた。

同種民族なり、棲み分けられた人々によって様々な要因を以て構成する国家なりが、普遍を掲げた疑似愛や不平を招く平等などで崩壊するのは当然なことである。
「平ならぬもの(不平)を平すれば、平ならず(不平)」は当然なこと。個性化の謳いは個別化と孤独、そして新たな枠組み収斂への誘引だ。

長(おさ)、あるいは畏敬の存在が消滅した群れなり社会は混沌とするのは自明なことなのだ。だから一方では民主が謳われ、合理的かつ、神の啓示に随うべき人間の尊厳を護持する唯一の選択肢のごとく、ときに武力を以てしてまで公布浸透されているのだ。

しかも文明の参加資格の免許のごとく、かつ民族の習慣、性癖を固陋なものとして捨て去ることが文明進取の民度として数値化さえされてきた。武力やそれに代わる財力を用いて「民主、自由、平等、人権」を謳う。それに疑問や問題意識もない。やはり条件によって分け与えられる実利と仮装自由が優先するのだろう。


数多の国は統治安定もしくは為政者の個人的利得のために様々な主義を制度化してきた。

王政、民主主義、共産主義、独裁などが編出されたが、目的は恣意的な政策の順守であり、手段としては反対者の虐殺、搾取、自由の拘束、など専制への道筋だった。

民主や自由を謳うものは、法や金融、宣伝を用いた意識転換や精神の弛緩さえ起こすことある。

しだいに思索や観照の劣化を促す無自覚、無問題の習慣性の定着が進んだ。

しかも似非合理的先進性への流れは固有の深層情緒を微かなものにしてしまった。

またそれは他の主義に比べてコストの掛からない巧みな企てのようだ。

 

つづく

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「女厲(じょれい)」  女性が派手で烈しくなる現象 10 6/9再

2023-09-26 01:03:51 | Weblog

 

 

平和と平等と人権を、ときにファショのように操る女性が増えてきた。かよわき男は阿諛迎合して易しく同調する。

 草食系といわれるオトコが多くなったというが、゛易しい゛オトコが殖え、゛優しい゛オトコが男を発揮できなくなったと聞く。


また男がおとなしくなったというが、理解しがたい女性を呆然と眺めているのである、と聞く。


 女偏のつく文字のおびただしい数は、それだけ重要な役割と責任がある“性”なのであろう事は疑う余地はない。とくに陽(男)と陰(女)の調和が生命を誕生(産む)させるという神秘的な行為に対する感謝、崇拝が、かくも多様な文字を作り上げたと言っても過言ではない。

 このように両性扶助(調和)は人間界の繁栄と維持に欠くことができない条件ではあるが、歴史はその時々にその還元力を試したり、互いの必須条件を確かめるかのように愛憎の反復行為を両性に与えたりする。
太古の歴史の反復、循環の作用からすれば先入観と考えられることかもしれないが、役割の入れ替えと、心の棲み分けがそれである。

 古代の埴輪にある帯刀した女性、儒教における男女の役割、戦後の社会的生産分野への進出、教育分野での女性的価値観での影響力、政治の分野における女性特有の参加形態がそれである。
街中では到底歩けないような原色のスーツと、ここ一番の厚化粧をした議員が口角泡を飛ばして平和、平等、人権を屏風にして相手を批判、もしくは自身の意見を確認するかのような論を強弁することに本気で応じられるのだろうか。
現在の姿は、平和ゆえに一過性の現象とも考えられる。






 「女厲」は男性側から指して言っている訳ではない。調和の崩れが及ぼす影響が、いずれは女性自身の側に降り注ぐことを憂慮した、歴史の女神からの啓示のようなものであろう。
 
 たかだか人間の考える範囲の問題だが、人間は平等であるという。しかし男女の区別は双方から見てもある。 肉体の構造は大きく違い、ときとしてその享受する歓びも、それぞれは真に理解することはかなわない。また憎しみも違えば行為も違う。

 こんな俗諺もある。「平ならぬもの、平すれば、平ならず
平ならず、とは不平と書く。平すれば、とは平等と書く。

つまり元々「平らでないものを、平等にすれば、不平が出る」ということである。この隙間には、個性とか特徴があり、また平和や人権意識がある。


 人間は何と遠回りして考えるのであろうか、あるいは誰に問いかけているのであろうか。

人間の身体にも機能は均等だが利き腕、支え手がある、また戦禍や不慮の事故で機能を亡くしても補助や他からの扶助がある。不平、公平、平等を眼前にも意識にも総て存在するのが世の中である。これを得手勝手な嫉妬、恨み、に逆進する意識と、惻隠、感謝、学習に転化することでは、人の世の現象に多くの差異が生ずることとなる。

 だが人間同種として共有、共感することがあるからこそ、違いから生ずるさまざまな苦楽を認め、受け入れることの積み重ねを“愛情”という文字に写しとっているのである。


ともあれ「五寒」にみる女厲は亡国の兆しであり、改革だ革命だと騒ぎ立てる政治の根底を腐らせるやっかいなウイルスのようなものだということだ


*・国家の衰亡時に表れる五つの姿「五寒」

内外・・・内が治まらず外に危機を煽る

政外・・・政治のピントが定まらない  現状にそぐわない

敬重・・・譲り合いや尊敬の心が乏しくなる  リーダー像の錯覚

謀弛・・・大切なことが漏れる      規範が弛む  粗雑な状況

女厲・・・女性が烈しく荒々しくなる  性分別の錯覚

 

 

 

 

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アジア的 経世済民の要を考える  10 7/24 あの頃も

2023-09-24 15:22:49 | Weblog

カイワレを食べ、放射能処理水を飲んだり、真新しい作業技を着せられる総理?

 

経世済民・・・国の運営は民の救済にある

いつの間にか・・と、考える国民が等しく自省すべき問題に「己れを知る」ということが有る。

複雑な要因で形成された国家という代物に、民族という名において棲み分けられている夫々の国は、政治や経済という運動体によって維持され、そこから観察する多少高低や速度が繁栄バロメーターとして測定されている。
また,それが唯一の計測方法として定着している。

また、単にその要因だけでは集合体は成り立たない。そこには人々の情緒性や、あるいは精霊の在り処を生き様に溶け込ませてこそ国家として成さしめることでもある、という考え方がまるで無理解、無感覚のように忌諱されている。

人が人でなくて、どうして国が国として成り得ようか・・」と清末の哲人梁巨川の言である。それは清朝末期の宮廷官吏の腐敗と政治の堕落が外国勢力の侵入を誘い、終には清朝打倒という国内革命勢力の伸張を許してしまった事への歎きでもあった。

しかし政治権力は満州族から漢族に易旗しただけで、権力の国民に対する試みは変わらなかった。それは漢族内の国民党、共産党でも同様だった。
その繰り返しに慣れ親しんだように、民衆の権力に対する姿は巧妙かつ熟練したものだった。

日本人にも、一昔前は「中国人は・・」と、その性癖の異なりを嘲るものがいた。
あまりにも明け透けな欲望への欲求と競争心は、我国の情緒とは相容れないものとして見られていた。

また、中国の政治に対して、自由と民主、資本主義の体裁を真似た我国は、米国を後ろ盾に自由主義に名を借りた消費資本主義先進国という姿に増長し、かつ米国に迎合した目で様々な反駁をしていた。

中国の近代化はさておき、彼らの言う人民と我国の国民が、政治との「間(マ)」や面従腹背という応えに、近頃余りにも類似してきたようにみえる危惧、あるいは、切り口を変えれば角が取れて「成長」とも思える姿を見せてきた。




                



しかも筆者が考える、世界で一番自由な民族に戻った中国人が唯一、その自由な担保の背景となる共産党の武力と専制管理を、国内においては怨嗟と反目、海外においては屏風の応用と、巧妙に使い分け、とくに国家帰属意識の希薄さとあいまって財貨の欲望は海外に拡散している。

その点、不自由管理国家のようにコンプライアンスばやりの日本は、守る事を食い扶持担保として己の自由を狭い範囲に縛り付けている。つまり自縛国家である。
同化して融解したと思ったら生死の間(人生)は彼等のほうが長けていた。

男女の「性」、奇種や贅が溢れる「食」、制限のない「財」、それらの欲求は政治が制限するものではないとしているが、各々が自制、或いは自省すべき心がが亡くなるような様相は、いくら共通した循環思想をもつ似て非なる民族だとしても、これではまるで本性欲望への「順化」であろう。

カニは自身の甲羅に合わせて穴を掘る、といわれるが、日本人は与えられた選択肢の中で合った穴を探し、彼の国は小さい穴でも強引に広げる。米国とて自由と民主を自身が入り込みやすく恣意的に使い、軍事力を背景にしてシステムの平準化を試みるが、これには反発を誘引し限界がある。それは多種多様に提供される欲望の品々に人間が付いて行けなくなる事でもある。


それらは、内在する自然観から導く「精霊」や、自然の循環慣性が固有な心の覚えとなった「情緒性」を互いに無意味、あるいは無用と忌諱し、現世のみに有用なる「利」を追求する姿は、砂のように纏まりのない民として形容される彼の国のように、政策執行者は常に強権専制の手段、あるいは擬した手法を考えざるを得ない状況に何れ誘引されるだろう。

しかし、その執行を選択したとしても政策手続きなど専管している「官吏」の腐敗と無作為は、いくら善政を施しても行き渡らない状態を作り出し、終にはコントロール不能な機能不全、つまり無用な政府と混沌とした国情を作り出してしまう。

「亡国は亡国に陥って、始めてその亡国を知る」というが、その兆しが直感できる読者や、一隅の声の届くであろう民主を謳う我国の宰相は、先ずは経国の前提とすべき要件について、゛似て非なる゛てはなく、゛非なるが似てきた゛我国の鏡として隣国の歴史に尋てみるのも一考だろう。
 

資料写真は関連サイトより転載

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総理・・? 俺たちが当選しやすい看板なら誰でもいい  2022 あの頃

2023-09-22 01:36:25 | Weblog

 

青森県弘前市  子供議会

 

 

いつ頃からか議員の資質評価が変わってきた。

同時に論議も騒がしくなり、答弁は稚拙で反論もまるで地裁の法廷のような弁護士と検事の応答のようになってきた。それにつれて党首は選挙の顔として実像はともかく、有権者受けする顔と弁舌良し悪しが有効とされてきた。

顔は学問や体験で集積された出来上がった容貌ではなく、だだ、器官の位置が整った程度で、弁舌は、まさに舌が言う「話し」ばかりで、吾(自身)を言う「語り」などなく、古人が揶揄した「政治家は人を騙して雄弁家という」そのものになってきた。

 

マスコミとて江戸の瓦版屋が記事の束を振りかざして台の上で庶民の耳目を集める口上を大声で叫んでいたが、政治家も似たようなもので、話す内容は聴衆の興味に合わせて難しいことは云わない。そのせいか聴衆にとっては難解だか、社会や国にとって大切な問題は学ぶこともなくなった。それは小泉総理の「自民党をぶっ壊す!」のワンフレーズに踊る大衆の簡便さからだ。

今どきの民主主義文化とはいうが、文を売って生活したり、舌の上下運動で稼ぐ言論貴族も政治家と類似した群れになっている。

 

そもそも、脅し、覗き、楽になること(もらえる事)を話題にすれば、一応は聴いてくれるが、街頭でまともなことを聴こうと思うことすら、そもそも期待はできない。大衆は立ち止まってくれることでカウントされる頭数になる。その多くは、政党動員の付和雷同、なかには日当もでることがある。ましてやテレビに出ている議員を見てきたと、内容はともかく浮俗では話題にはなる。

 

経歴看板も、昔は官吏くずれか、地域の顔役しか議員にならなかった。

役人の世界では、変わり者、金銭にルーズ、女性に問題がある、そのような者が省益の守護者として規制管轄の企業を動かして当選させ代弁者となる。

学校歴は東大法学部、それも目くらませの流行り事だが、その後は私学早稲田の雄弁部、あとは松下政経塾が看板となるが、大衆は見事にコロリと騙される。

東大が金看板だが、知識はともかく見識も胆力も乏しく、なにより騒がしい。

旧制は教養を旨としたが、新制になった途端、食堂は騒がしくなり、校歌でさえ古臭いと歌わなくなった。

そこの出身は、きっと頭がいいはずだと、役所にいれば新聞ネタになるが、政治の世界では小回りがきいて利権の嗅覚が鋭く弁舌巧みとなるが、ときに刑務所の塀を歩くようにもなる。

面白いことに巨悪も捕まえる検察も法学部の同窓生。 しかも、国費の補いで在籍しただけの群れが官域、政界、財界で看板のごとく乱立して戯れている。

単なる学校歴の充て職なのだろうが、まるでバチルスのように蟻塚を築き、まさに社会の悪弊ともなって閉塞した社会構造をつくり、国民の諦観ともなっている。

 

邪魔な同僚をそそのかし政治家にしても狡知に長けた官吏だが、クビにもならず、つねに生涯賃金を計算して退職後を夢見ている群れだが、慇懃無礼に政治家に迎合しつつも、落選すればタダの人と心中は嘲わらっている者が多い。

しかも特異なところは、改竄、隠ぺい、虚偽報告などが、露呈すれば部下に被せ、いさぎよく自裁するような高潔な部下がいても、我が身をかばって鉄仮面のように無視する非人情な特異な群れだ。

世界のいたる国でもその傾向があり、大衆が苦しみ国家が衰亡しようとも、崩壊の瀬戸際まで彼らの醜態は継続する

 

また、腹話術師のように議員を手なづけ、語ることなく、読むだけの答弁を強いている。

これでは人格はいらない。だだ、人格とは何ら関係もない附属性価値があれば十分だ。

それは、地位・形式名誉・財力・学校歴(学歴ではない)、加えれば家柄や役に立たない名目資格、それに顔と口の上手さだ。それで日本国の政治家になれる。

 

      安岡正篤氏

 

筆者の青年期に縁あって高齢な人物に会う機会があった。

「君、政治家になりたいかね」

「そんなつもりで学問はしていません」

「政治家は、人物二流でしか成れないものだ。そんな世の中になってきた。」

「・・・・」

「大衆もデモクラシーを権利としているが、デモクレージーの様相だね」

或る日のこと、書斎で訓導していただいたとき、来電があった。

「○○さんから電話です」

「来客中!」

間をおかず再度来電。

「来客中!」

「〇〇さんとは、あの・・ソウリ」

話して解かる人物なら良いのだが・・

 

この古老は大学についても語ってくれた。

「家の事情で大学へは進みませんでしたが、いちど大学へ行ってみようかと思うのですが・・」

当人は一高帝大の秀才で今は碩学と謳われた人物であり、政官財に多くの自称弟子が存在しているが、本人は弟子など持ったこともないと、つねづね語っている。

人は称して、歴代総理の指南役とか陽明学者と勝手に喧伝されているが、筆者に語ることは「無名で有力、有名は土壇場で名に囚われ無力だ」と。

 

大学について諭している。

「「大学」という学問は面白いが、大学校はこれほど、つまらんところはない。自分は学びたいことがなかったので毎日図書館に通っていた。君、大学に行くのかね

氏の云う「大学」とは中国の古典にある四書五経の「大学・小学」のことだ。

「西洋学も試みたが、深く考えると頭がぼんやりしてくる。そこで東洋の学びに戻ると腑に落ちることが多い。いまの教科になくなったが「人間学」的な学びを求めたらよい」

 

その言に倣ったことで深慮されたのか、人物行脚と称して氏の「人物」と思われ各界の大立者と称す方々に会うことを促された。たしかに有名無名問わず「人物」といわれる人間は全国津々浦々に存在していた。

まずは世間で有名に属す部類として、議員会館や高層ビルの最上階に会長室を構える企業経営者もいた。また有名大学の名誉教授や高級と称され官僚もいた。見方を変えれば政治体制の囲いのなかで名利を保全し、研究成果物を担保として世間を遊弋しているようにもみえた。

それは、安岡氏の説く、無名かつ有力とは逆の、責任地位にあるものの有名かつ無力という、まさに土壇場での実態だった。

 

         八甲田

 

たしか笹川良一氏が喝破していた。人の人生は、喰って、寝て、クソして、やって、お終いだ。

それがグルメと健康と性だとしても、人間はいろいろなことを考えるものだ。

ましてや、総理は誰でもいい、当選できる看板になるなら・・・。

まさにコロナより恐ろしいバチルスだが、実態は誰になっても落ちればタダの人と狡猾に沈黙している官域の手玉になっている。

デモクラシー変じて、デモクレージー。人物二流しか代議士になれない時代。

碩学の慧眼は怖ろしいくらい人物をよく観ている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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アジアの友人たち あの頃

2023-09-19 19:43:35 | Weblog


【ベンガルこども新聞キシロチェトロ9月寄稿」

南スーダンの国連PKOに参加した日本の自衛隊をガードしてくれたのは、バングラデッシュの軍隊でした。日本は自衛隊と名称で国を護るための武力を維持していますが、たとえ外国の平和のために協力するためであっても戦闘は憲法で禁止されています。そのために今回のスーダンでは優秀なバングラデッシュの軍隊に警護されて任務を行っています。

では、大きな武力を持っていない自衛隊が紛争地域でどのような援助活動をしているのか、その能力や規律とはべつに、現地の人たちとどのような精神で向き合っているか、イラクPKO部隊の司令の言葉を紹介します。

それは、お金や資材、機械を与えるだけの援助や、単に武力制圧の一員としての参加ではなく戦争に苦しんだ現地の人たちと一緒に汗を流して働き、復興の喜びを分かち合う人々の信頼こそが、過去に戦禍を体験をした日本からの有効なメッセージと考えたからです。








「我々はあなた方の友人として、日本からサマーワに来た。我々日本も、60年前の先の大戦で敗れ、国土は焦土と化した。すべてが無に帰し、食料にも困る日々が続いた。そんな廃墟のなかから、私たちの祖父母、父母の世代は立ち上がり、大変な努力をして、日本を復興させた。

そして、その結果、いまや経済力世界第二位という日本を築き上げることができた。メソポタミア文明という人類にとって偉大な歴史を有するあなたたちイラク人は偉大な国民だ。あなた方に同じことができないはずはない。我々は友人として、あなた方が立ち上がるお手伝いに来たのだ」

その結果、はじめ不安に思っていたイラクの人たちは自衛隊員とともに働き、日が暮れても仕事の手が止まらず、爆弾を投げ込まれれば「日本の宿営地を守る」とデモが起きた。

そして、終了近くなると「日本よ、帰らないでください」と大きなデモ行進が起きました。他の宿営地にはない光景たった。欧米の宿営地では驚愕したが、その本当の理由は彼らには解らなかった。


≪現地の新聞記事≫

我々は,我が県に日本隊が到着するまえは、この道徳と倫理を維持した立派な人たちについて何も知らず、感情のかけらもない技術革命により全世界を支配するつもりだろうと思っていた。
しかし、日本国自衛隊が県内に到着して数週間のうちにサマーワの人たちは、彼らが「古きニッポン」の子供として、愛情と倫理溢れた人々であることを見出した。
彼らは偉大な文明を保持するとともに、他の国家を尊重し,他国民の家庭や職業に敬意を払う立派な伝統を持っていたのだ。






戦争にはさまざまな理由があります。とくに勝者の理由が大きく発表されますが、真の勝者としての名誉は、理由はともあれ国のために戦った相手を讃えることです。

とくに負けてしまった国の人々に対してどのような心で接し継続するかは、本当の戦争の理由と、賞罰のあるところの「秤」として、世界の賢明な人々が見て考えるときなのでしょう。

                         

ベンガル子供新聞「キシロチェトロ」東京支局長 寳田時雄

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豊かさのあとに    12 7/2 再

2023-09-19 02:36:24 | Weblog

八嶋龍仙 作  青森県弘前市



≪ベンガルこども新聞「キシロチェトロ」コラムより≫

 

                編集長



地球の薄い表皮では多くの生物が大自然の恵を享けて生活しています
生きることから、もっと豊かになろうと知恵を出して、生活に利用できるもの、より便利なものの追及にとどまることがありません。

さまざまな地域に棲む人々の習慣や幸福感は異なります。近ごろは、それを追及することによって滅んでしまう心の姿を心配する人々も増えています

また、その現象に表れる結果を文明とか未開とか、あるいは野蛮とか決めつける人たちの幸福感は、物や利便するテクノロジーによって、よりその状況観察は厳しいものになっています。

日本でも西洋人から未開だといわれていたころ、外国の宗教家が、「神がつくった最高のものは人間・・」と教えました。すると日本人の多くは「よく働く馬も一緒なのではないですか?」と応えています。
その当時は寒くても毛皮を着る習慣もなく、肉も食べませんでした。また、豚などの家畜を飼うこともありませんでした。動物は可愛い家族のようなものだったのです。

                               大人も子供の気持ちに関心があります

 

            授業にも活用します

 

交易が盛んになると安価な労働力と、ごく普通に流通していた金や銀などの貴金属、そして陶磁器などの工芸品が貿易国の為替である交換比率のマジックによって、今では考えられないくらいの安い値段で海外に持ち出されました。

現代は人を「人材」と呼び、安い労働力を求め多くの企業がバングラデッシュに進出しています。中国からバングラデッシュ、そしてミャンマーへと広がっています。その労働から得るお金で物や権利を競い、洪水のように押し寄せる文明と思われている商品に人々は殺到ています。

人々は落ち着きを失くし、あの抑圧された数百年の歴史が再び数値と物質に置き換えられ、人々の群れを社会の正しい目標から遠ざけたりします。

すると、人がうらやましくなったり、人を信ずることなく、人々の連帯は離れて孤独となり、頼るものは財貨のみを偶像視するようになります。

それは、気がつかないくらいに、少しづつ、そのようになってきた日本からのお知らせでもあります。

                

ベンガル子供新聞 キシロチェトロ 東京支局長  寳田時雄

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同胞の民癖と是々非々

2023-09-15 09:53:03 | Weblog

    後藤田正晴氏

紛争地派遣に前のめりな総理に「国民に覚悟がないのに海外派遣などとんでもない」 と。

 

 

是非を問うてあれこれと他人からすれば、かまってる暇もないが、備忘録として記してみたい。 

 

     

 ベンガル子供新聞(バングラデッシュ) 独立戦争

   

 

好奇心、阿諛迎合、四角四面、笑顔で包む嫉妬と猜疑心。よく負け犬のようだともいわれる、良くも悪くもある習慣性だ。

強いものに媚び、弱いものをいじめる、見ないふりをする、逃げる、劣性が際立つとそのようになる。

だが、歴史は劣性を覆い隠す優性が文化として浸透していた。勤勉、正直、礼儀、忍耐、そして訪れるものへの優しさだ。

人々の関係では、それが日本人の向ける客観的観察だけでなく、あえて当てはめようとすれば、人間なるもの似たり寄ったりの姿がある。ここにお人好しと楽天的が添えられると、海外評では分かりづらい日本人と映るようだ。

 

人間なるものの欲望や感情は如何なる民族でも類似した見方はあろうが、具現される政治、経済、あるいは宗教なりの組織体の様態を眺めれば、そこは似て非なる特徴があるようだ。それが民族なり国家の風儀としてそのイメージを醸成されている。

 

ちなみに、好奇心は鋭敏な感覚、阿諛迎合は縦横無尽や臨機応変と権威に順応による連帯、四角四面は遵守と実直とも切り口を変えられるが、嫉妬や猜疑心を笑顔で隠すことも競いや対立を避け、平穏を保つ効用もあるだろう

 

楽天的平和主義も理屈では成立するが、いたるところに点在する米軍基地や施設の状況を盾として安心の前提にすると、より分かりやすい。一方では過去の歴史に刻まれている一国による米軍との長期戦闘と驚くべき敢闘は、今でも瓶の栓と思われている一考もある。

 

つまり守られているのか、監視されているのか、戦後レジューム云々と騒いでもカラ元気の謗りは矛盾を阿吽で解釈することによって国内の混迷を避けているのだろうが、以後の継続するであろう歴史の経綸をオボロゲニさせている理由でもある。

それが、世界的にも風変わりの思考とともに経国習性や民癖を定着させているようだ。

 

     あの頃は列強に狙われたChine 

                   列強・・英・米・仏・露・日

 

 

          桂林の子供達

 

 

 面白いことに守られていると思っているその外国軍だが、それを我が国の国軍たる自衛隊がその基地を護っている現状がある。南西方面の沖縄から北上して、岩国、横田、三沢、と列島を縦断して治外法権の米軍基地がある。これが普通だと感じている国民だが、無関心はそこまで進捗しているようだ。

 

日本の管轄権が及ぶ範囲は、いつ、どこでも、基地を作れる。北方の歯舞、色丹も沖縄なみに領土は返さないが沖縄同様の施政権返還だといわれれば反論も難しいが、それが現状の力関係なのだろう。インフラ(社会基盤設備)や教育など面倒で金のかかることは施政の権利として返すが、既存の領土専有権利の返還はないということだ。

 管轄権の及ぶところに米軍は基地を作れることからすれば、ロシアは了としない。日本は領土主権があるのか、と言われるはずだ。しかも第一義の裁判権もない。つまり治外法権なのだ。三沢でも横田でも沖縄でも同居?している自衛隊は入り口のゲートで米軍の許可があるカードがなければ入れない。三沢の敷地面積の自衛隊使用は、ほんの数パーセントの居候並だ。東京広尾の4軍(陸、海、空、海兵隊)の施設ニューサンノーホテルも実弾入りカービン銃をもった軍管理の許可を必要としている。もちろん施設内はドル貨幣、無税だ。

 

  

   日本に主権はあるのか・・と プーチン氏

 

 では有事になったらどうするか。最近は数兆円を使って米国製兵器を購入し、まさに独立国家の勇ましい戦闘集団のようだが、隊員の生死を委ねる有事指揮権も米軍にある。

基地権、裁判権、指揮権、を他国に委ねることに憲法論、あるいは九条論は無意味にもみえるが、政治家も官吏も諦めているのか、都合よく隠れているのか、国民の無関心に助けられて、とうにか体裁を繕っている。

 

       極東軍事裁判  

 

  

           米軍進駐 米英鬼畜から転じて,ギブ三―チョコレート

 

 

仕組みや体制の是非を問うものだはないが、国民が知らない、いや知る必要もない、いや、面倒なことは他国任せと思っているのが問題なのだ。右翼だの左翼だの、与党だの野党だの、浮俗の売文の徒や言論貴族となった群れも、その現状には、゛もの言えば唇寒し゛の状態になって食い扶持をむさぼっている。

守ってもらえるから安心だから、文句も控えようということだが、誰を誰から守るのかも曖昧にして、それに安逸して施政に携わるものが恣意的に権力を壟断しているような、今どきの真剣さもない政官の群れに国民の何を護るのか見えてこない。

もともと主権すら曖昧な戦力をもったとしても、行政職の一員である自衛隊員としても権力為政者の用心棒にしかならないだろう。

学校秀才のキャリアは色々だが、彼らの多くは実直で精鋭な若者たちだ。その武装集団にも阿諛迎合している政治家も増えた

 

もし有事に敗ければ米軍のせいなのか。あの旧軍でさえ「軍は龍眼の袖に隠れ・・」と、天皇の統帥権を乱用した。最後はマッカーサーに敗軍の責任者として面会の労を願ったが、政治責任者では役が乏しかった。かといって天皇の政治干渉だと文句を言う者はいなかった。所詮、官吏や軍人、政治家は土壇場の任は重かったのだ。

いまは米軍の陰に隠れて、さも勇ましく振る舞う姿に流行り言葉として戯言となった「戦後レジューム脱却」がある。とくに「外の賊」が気になり、「内の賊」がみえなくなっている。

 

便利だ。幸せだと、異なる文化に阿諛迎合し好奇心によって仕組みや価値観まで誘われる。

まして、それが民癖だとして、水に浮かび、風に流され、いつの間にか身の置くところを忘却して独りを愉しみ、浮世を過ごす免疫情緒も歴年文化だとしても、死生の間を見い出すころ、また、いずれ未来から現在をかえりみたとき、変容した民癖は「内なる賊」と刻まれるはずだ

 

察知したところでどうになるものではないが、人の世がどうであったかくらいは人間なら解かろうというものだろう。

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交誼録 加藤三之輔翁 其の二「一献歌」 2014 7 再

2023-09-15 01:02:34 | Weblog



頭山満翁とタゴール


以前のブログで加藤三之輔翁との交誼録を書いた。
http://blog.goo.ne.jp/greendoor-t/e/c9cddd6a8f1a766b88a17a53bacbcb22

世間は翁を右翼、民族主義者と譬えるが、決して固陋で偏狭な運動家ではない。むしろ実直で寛容な姿が映る。
日本人の在野の情緒によく見る面倒見の良いお節介焼きの兄さんが、人知れず学問に励み、かつ、鷹揚に見えて繊細、度胸(胆力)の背景には結末を洞察する緻密な深慮が翁にはあった。ときに、短慮軽薄な徒には皮肉にも聞こえる忠告もあり、氏の畏敬する頭山満に倣う薫醸された風儀があった。

「稲生から相談があって、西鉄の池永のことで追放を解除したいとのことなんだが・・」
プロ野球を震撼させた黒い霧事件で連座した池永投手の永久追放のことである。稲生氏は元西鉄のエースピッチャーで加藤翁の親戚筋だ。

筆者は応えた
「今度の安岡先生を偲ぶ孤堂忌にコミッショナーをしている川島廣守さんが参加するのでご紹介します。川島さんは柏村警察庁長官の秘書だった頃、佐藤慎一郎さんと長官が同乗していたとき、よく青梅街道の阿佐ヶ谷あたりから同乗していた縁があるので、理解があるはず。なによりも安岡門下の学友ですよ。加藤さんのことも知らない人はいない。説明は私がします」
事情の呑み込みは早くしばらくして解除の方向に向かった。
その後、博多中洲のドーベルという池永氏経営の店で顛末を伝え,帰路小倉東港の簡素なカネミ社宅(加藤氏自宅)に報告に訪れた。


加藤翁の義侠の逸話は数多あるが、上京の度に青壮問わず学徒を案内され、小会の同友となった。小会は安岡正篤氏の督励で発会し、名利衣冠を除けて市井の学生や事業主、政治志望の若者など、なかには治安官僚やエネルギー産業の若手役員、中央省庁の官僚も参加する特異な雰囲気がある無名有力を志す集いである。

きっかけは巷間、安岡氏の名声に愚集して屏風やマスコット的に利便の用とする錯覚学徒の風潮を学問の堕落と憂慮した安岡氏からの督励で作興されたものである。発起人顧問には安岡氏と卜部侍従、講頭は長男正明氏を充て、心ある門下の先輩からも多くの学徒を案内された。加藤翁もその一人であった。



郷学研修会



佐藤慎一郎氏






卜部皇太后御用掛



もう一つの一面だが、ことのほか女性には優しい、いや一歩控えるような雰囲気がある。
奥方にご挨拶するため社宅住まいの自宅へ向かった。
奥方は浅草生まれで言葉は優しいが凄みがあった。趣味は和紙を裂いた貼り紙だ。太骨の扇に紫のアヤメを貼り絵した置き飾りを頂戴した。豪傑の奥方の趣味は江戸の粋筋だった。
「うちのも頑張っているが、そろそろ落ち着きそうです」
「うちの」とは夫のことだが、カネミ油症事件の経過について、頑張っているという意味だ。大柄で美麗だが声は太い。筆者と対面して江戸話を楽しんでいるが、気が付くと三之輔翁は妻の斜め後ろで正座して聞き耳を立てている。
「うちのを宜しくお願いします。懐かしい話はいいいですね」
遠来の若僧の江戸話が気分良かったらしく、
「こんな処ですが、またいらしてください」
翁が云うには小倉駅の方で料理屋をしていて、身体の具合で娘に任せているという。

もう一つは山口県の長府市吉田に在る高杉晋作を菩提とする東行庵に行った時だった。
庵主は代々女性、尼僧だ。その時は谷玉仙庵主。齢は還暦くらい、小柄で透き通るような白肌に涼しい目元は鎮まりの優しさが漂う。突然の往訪だが丁寧な応接だった。
なにしろ松陰門下の俊英で、あの維新回天の魁となった功山寺の挙兵を先導した高杉晋作の霊を弔う庵主である。毅然とした風儀がある。

高杉の号は「東行」、西行は西に行き、高杉は東に上る東行だ。また、高杉は女にモテだ。
肺の病ゆえか、色白で利口者、動けば雷電の如く、現代風には長州のイケメンヒーローだ。
高杉の墓守は愛人の「おのう」が高杉亡き後、谷梅処となり、伊藤や山県の労で庵を設けたものだが、愛人の由縁に気が引けたのか玉仙庵主には詳しくは聴けなかった。
その後、秋になると庵主から裏山で採れた栗を大量に贈られてくるようになった。







東行庵庫裡




長府と小倉、もしやと思い三之輔翁に「谷庵主のことご存知ですか」と聞いてみた。
「谷さんとは時折お目にかかりますが、何かの時に貴方の名前が出まして、もしやと考えて話したらやっぱりそうだった。谷さんも印象
が残ったらしく、茶室で清談したことを聞きました。東行先生もあのような女傑に守られて幸せですなぁ」

さすが安岡氏が九州に豪傑が多いといったが、総じて女性には優しい。江戸っ子なら女を見て青菜に塩では格好が悪いが、当地では女に支えられて世に出る男が多い。
長州の民謡に「男なら・・」という歌があるが、女に尻を叩かれながらも、外では男らしく装い、維新の無頼漢も偉人や元勲になる面白さがある。
安岡氏も「江戸は女性か偉かった」という。松陰も「親思う心にまさる親心・・」と母への恩顧を詠んでいる。その安岡氏も三之輔翁も女性の威力には頓首している。

「食事中はテレビを消しなさい」とスイッチを切られ、「あなたの周囲には偉いといわれる人が多いようですが、下(下半身)はいただけませんね」と、高名な自称弟子たちの女性事情を皮肉られている。
きっと、高杉もおのうに云われていたのだろう。目を盗んで廓に上がって艶のある都都逸を唄う粋もあった。あの有名な「三千世界の鴉を殺し、主と朝寝がしてみたい」と。





頭山・犬養 南京中山陵


余談だが、転がしたようで転がされている男の面白い逸話がある。
明治の元勲伊藤はことのほか女が好きだった。それは病的で天皇も心を痛めた。身を許す女も鷹揚だった。友人の女、部下の妻、手当たり次第な奔放さがあったという。口どき上手なのか、女のほうにも興味や意図があったのか、強姦や手籠めではなく、いわゆる和姦に類じたものである。

あるとき伊藤の愛人が頭山翁と交接していた時、何気なく伊藤が訪ねてきて障子を開けた。頭山翁は悪びれず、慌てず「馬上、御免」と、目を丸くする伊藤に告げた。
伊藤は答える言葉もなくして「失礼」と静かに障子を閉めた。




伊藤博文



一部始終を客観していたのは冷静に喘いでいた女であり、転がされたのは伊藤と頭山翁だ。高杉も功山寺の挙兵に躊躇する民兵に「女房を敵と思え」と、後ろ髪をひかれる民兵を叱咤激励した。だが高杉には「おのう」という愛人がいた。馬関戦争でも敵船に交渉役として乗り込み、口舌豊かに原因は幕府に在ると相手を煙にまいた。
俊英は女でも問答でも、多くの切り口とストックを持っている。墓を愛人に護らせた高杉だが、意外と豪傑は女を転がしているようで、転がされている面白さがある。

幕末の偉人賢人が現代でも持て囃されているが、あのような人物も出てこないばかりか、学ぶすべもない。アカデミック(学術的)、平等、人権、自由、合理性、に比する、いや抗する論もないが、彼らからすれば「かぶれ文明」としていた。攘夷の裏には理屈を超えた「人生り(ひとなり)」情緒の守護があったのだろう。

じつは加藤三之輔翁にもその生き方が薫った。般若湯がすすむとその気分を歌に寄せた。
翁は一献歌(壮士吟)と称して大声で歌った。心気はあの満州荒野で仁王立ちの翁の姿だった。

≪一魂酒道≫

盃に酒あるうちは酌がず
空けば、間髪を入れず酌ぐ
終わりに乾杯すれば、飲み残しの酒は無し
挨拶。吟歌などあるうちは黙って呑む
酒は元気を養う、飲んで元気を敗ぶらず


清朝の係累をひく景嘉氏と高談盃をあげた。突然景嘉氏が哭いた。親友が死んだと声をあげて哭いた。景嘉氏は亡命の孤客で独身、心情を察して・・

一 亡命の友に
伴の情けに哭くがよし
今は逢けきふる里の
母をおもいて哭くもよし
君、盃をあげたまえ
いざわが伴よ、まず一献

以来、数百首におよび、作曲は呑むほどに自ずから生まれた。
生みの親は、安岡、河上、景嘉、小山、景山、長谷川、大貫の七先生である。






安岡正篤氏


「一献歌抜粋」

二 悲恋の友に
還らぬ恋に泣くもよし
恋には朽ちぬ男(おのこ)なれ
国に死すべき日のために
きみ盃をあげたまえ
いざ吾が伴よ まず一献

 三 失意の友に
よしなき愚痴を言うなかれ
なべては空し人の世ぞ
消えざるものはただ誠
きみ盃をあげ給え
いざわが伴よまず一献


男じゃないか胸を張れ
万策尽きて敗れるとも
天あり地あり未来あり
きみ盃をあげたまえ
いざわが伴よ まず一献

五 死別
生きとし吾ら生きる世は
嘆きと死とのあるところ
哀憐の夢は儚くも
きみ盃をあげたまえ
いざわが伴よ まず一献

七 自我
不平は言うな聞き苦し
ただ自らを卑しくす
知る人ぞ知る天は知る
語らず云わず目に笑みを
いざわが伴よ まず一献

以上は一献歌選集 八十首の内



「つながれて 悠遊泳ぐ 鯉のぼり」

昭和二十二年五月 北京石碑胡同 獄中作


















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「人間考学」 津輕のノン・リケットな風評  2015/4

2023-09-13 02:25:59 | Weblog



「ノン・リケット」判別の真偽不明の意 ラテン語


長い備忘文ですすが・・・・


3・11の地震で福島第一原子力発電所が被災、その際、放射能セシュームが広範囲に拡散したと情報が広がった。青森県津軽地方の主農産物であるリンゴもその風評にさらされ、主な輸出先である台湾では輸入ストップした。
一概に風評とは言うが「噂」の類とは異なるようだ。「人の噂は七十五日」といわれ邦人の諦観のようになっているが、「火のないところには煙も立たない」となると、多くは人の心に留まるようだ。この時は輸出ができないという実利被害だった。

筆者は人生恩師の縁で二十数年前から毎年墓参を兼ねて津輕を訪ねた。そして多くの人を知った。
地域作興、歴史の学び、青少年の問題、など各界から一報があればお節介のためにも随時訪れた。











奇縁は妙なところから始まった。

備忘録「津軽逍遥」から抜粋


起縁


二十代のころ、人の勧めで老海というべき深く広い、かつ特殊な人々の中に投げ込まれた。当時、政財界に隠然とした人脈を作っていた満州経験者、人呼んで満州帰りの集まりである。
毎回、三十人ほどが全国から参集する。満州の計画経済を推し進め、戦後の日本経済の発展モデルを作った岸、古海、星野等の統制官僚や、満州事変の立役者、片倉メモで有名な片倉参謀、そしてもう一つの一群は満鉄自治指導部の人たちだった。その中に新幹線を推し進めた後の十河国鉄総裁もいた。また、一騎当千の傑物とした児玉誉士夫、岩田幸夫ほか交風倶楽部のメンバーや、大同学院教官で前後の中国政策の重い位置にいた佐藤慎一郎、右翼民族主義の主導的論客、中村武彦や五十嵐八郎もいた。

集まる目的は満州建国の精神的支柱だった笠木良明を偲ぶことだが、当時の政官界の影の主流となった満州関係者の交歓会でもあった。満州当時は官僚と関東軍、そして満鉄は満洲経営についてそれぞれの方向性が異なっていた。官吏は国家社会主義的な統制経済、集中投資、関東軍は北方の対ソ戦略、満鉄は調査部、自治指導部による異民族の地での協和と経営拡張がそれぞれの主眼だ。

戦後残るのは基幹産業に集中投資する日本興業銀行の設立、インフラとしての新幹線と道路網、自治指導部の郷村運動は地方自治体運営にと実施もしくは試行され現在の社会的基盤を構成し、高度経済発展へと向かっている。

その老海に戦後生まれがポツンと一つのツボミを咲かせていた。いや当時流行りの便利で容易な生活に浮浪して、なんら自己からの拡大視野である、郷、祖国、アジア、世界などの観点すらなく、かつ戦前の歴史観すら気にかけたことなく安逸していたツボミだった。

眼前の老海は深く広いが、満州すら知らなかったツボミは、聴いているだけのポチだった。そのうち名前を覚えられ声を掛けられるようになり、その語りから歴史を知り、真相さえ聴かせてくれるようになった。するといかに巷間に溢れるその種の本の推測や歴史観が比較対象としてその学びを推し進めてくれた。

なかには、その会場となっている新橋の国際善隣協会が「満州人脈の巣」だとか、笠木会が「日本を動かす満州人脈」と騒がれると、唯一の戦後生まれのツボミが否応なしに花弁を膨らませるようになった。つまり、現代人の感覚を歴史の平衡感覚で観察し、臨機に表現せざるを得ない立場に置かされた。
語る内容には表してもよい内容が多いが、なかには秘匿すべき真相もある。長幼の仁義とでもいおうか、守秘義務や説明責任などという珍奇な隠し事ではなく、自己分別においてツボミに墓場まで持っていく事柄まで背負わされ、その信義に沿った表裏の峻別は、その後の人生経路にも妙な姿として形作られたようだ。















佐藤慎一郎先生との縁
ある日の発言で首をひねったことがあった。
「革命一世代の朱徳の甥っ子が台湾にいて反共新聞を作っている。それが朱徳の遣いで中曽根氏に会いたいと来た。中曽根氏は知らないと、というと、いゃ、先生のことは分っている。仕方がないので息子の友達の上和田秘書に息子から連絡をした。上和田氏は、ヤぁ、佐藤先生!、と呼んだので総てが知られたが、要は個人的な付き合いをしよう、ということだ。幸い中曽根氏は会わなかったが、個人的とは個人的名利のことだ。」
反共で共産党重鎮のお遣い・・・??

その後、安岡正篤先氏の縁で某代議士の会に招かれた。会場に着くと演壇の脇で参加者が遠巻きで集まっている。間隔は五メーターも空いているが、その中で安岡氏と佐藤氏が歓談している。おなじ中国学でも一方は文献学の古典、一方は異民族の庶民の中で二十年、解釈も違えば活用の仕方も違う。安岡氏は歴代総理の指南役、官界・財界でも多くの氏を囲む会が作られている。ところが佐藤氏は荻窪団地の一室で清貧を悦しんでいる。その狭い部屋には中国国務院の幹部が相談に訪れたり、幹部の縁戚を世話したり、あの寥承志日中友好協会会長も来訪した。ときに歴代総理に請われ中国事情を私的懇談する。

「いつでも来てください」
安岡氏が老齢のために虎の門教育会館の講義をできなくなると、よく佐藤氏が代講している。笠木会の老海で知ったツボミ(筆者)を見つけて名刺をいただいた。

荻窪団地二十三号棟三階が住まいだ。それ以降数百回になる。
笠木会の邂逅から末期の病室で「あとを頼みます」と背におかれた重い課題まで、多くの刻を過ごさせていただいた。
あのような人になりたい、ただそれだけだった。
当初は満洲のことだった。そして日中史に及んだとき、はじめての台湾で話題の主人公を探し語った。先生には知らせない旅だったが、事実を踏んだ。そして日中史の秘史を当事者から聴いた。つぎは叔父の山田兄弟だった。聴くも初めてだった。孫文のことや叔父から聴いた辛亥革命の秘史を聞いた。その生地にも行きたくなった。その時も先生には告げない弘前だった。人に興味を持つと、どんな所に生まれ、環境は、歴史は、今いる人たちは、と興味がわく、そして如何に先生のようになるか、自分なりに考えるものだ。

はじめの弘前は異国のようだった。元気がないのか、無気力なのか、諦めなのか、都会の軽薄さと孤独感とは違う重さもあるが、江戸っ子には疎外感があった。
ただ、木造の駅を降りると目の前に岩木山がそびえていた。それは背筋が震える格別な緊張感だった。特別ではない、格別である。駅舎が近代的なビルになっても、その格別は変わらない。

二回目は天安門事件の戒厳令のさなか単独渡航を経て、どこか変化した自分を感知しての弘前だった。

きっかけは銀座のシャンソンライブで唄っている工藤ベンという歌手との縁だった。
それは弘前文化センターでの津軽弁シャンソンのコンサートの知らせだった。語り口の重い津軽人があえて誘う興味もあった。配慮は会場の座席にもあった。前の五席を空席として、その六列目の中央の席を用意してあった。シンプルなコンサートだったが津軽弁のシャンソンに聞きほれた。なにもシャンソンは都会の占有でないことは承知しているが、話より、ストーリーの語り唄は津軽の方がよく合った。






盛況だったコンサートも終わり打ち上げがあるので来てくれと誘われた。これも行かなければ縁も途切れただろう。もしかしたら再度、山田の菩提寺の孫文撰書の拓本を採れるきっかけがあるかもしれない、との気持ちがあった。以前は不埒な収集家が碑文を汚したため、住職から丁重に断られたためだ。
打ち上げの懇親会会は弘前の歓楽街鍛冶町の「漣」という店だ。工藤の共演者の店だ。
興が乗り、何を思ったか、「東京から来たんだから、なにか挨拶を」と酔客がいう。
格好つけの東京モンはどこの地域でも鼻つまみだが、ここでは強く向かってきた。
こんなとき江戸っ子は「さぁ、いらっしゃい」と威勢をつけるのだが、ベンさんの顔もあり、異郷の地だ。だが、これだけは言いたい、というより、言うべきことだ、と席を立ち皆を見渡せる位置に移動して江戸っ子風の啖呵を切った。

弘前、いい街だ。なぜなら恩師の生まれたところだからだ。その恩師のようになりたいとこの地に来た。その恩師はいつも津軽弘前を心配している。それは、みな一人で生きていると思っているのか連帯が薄い。そして日本のみならず世界に役立つ素晴らしい人を生み出した弘前の気概と教育を忘れている。この恩師の叔父は山田純三郎といって中国革命の功労者だ。その縁は初代弘前市長で義塾をつくった菊池九郎だ。恩師は佐藤慎一朗という人だ。このままでは弘前は、山はあっても、温泉はあっても、リンゴはあっても、人物がいなくなる、といっている。わたしも何となく実感している。以上です」

促した酔客は下を向いている。すると向かいに座っていた頑固そうな人が、目を見開いて、どこにお泊りですか、・・・・・、いつお帰りですか、・・・・、会う時間はありますか、と矢継ぎ早に聞いてくる。余程の人なのか皆、黙って聞いている。すると、明日早朝に行きます、と意を決したように頷いた。
聞き終わると、わざわざ遠いところお越しになって、これも縁だ、乾杯、と皆に促した。






お手伝いいただいた拓本採取  貞昌寺



これが、傑物、鈴木忠雄先生との起縁だった。
拓本採取の経緯を伝えると
「いゃ、赤平君は広校の教え子だ」
鈴木先生は早速話をつけてくれた。まだ岩木に雪が残っているころの風の吹くころだった。ベレー帽をかぶり「何か手伝うことはありませんか」朴訥だった。
「大丈夫です」といいながら石碑に張り付けた和紙を押さえると、先生の手が重なった。
モタモタしているものだから、終いには互いに笑いながら拓本採りに格闘した。

その拓本は東京の表具職人に軸仕様で誂えてもらった。全紙二枚分の大型の軸装だった。白金の台北駐日経済文化代表處の文化担当、陳燕南組長に台北の国父記念館に贈呈したい旨伝えると、快く本国に連絡していただいた。たしか高館長だ。
しばらくすると館長から感謝状の返礼があるという。

組長、こちらもそのようなつもりもなく、だだ、昔は大使が就任すると弘前まで拝礼に訪れ、兄良政の墓参もしていた。また帰任時にも訪れていた。それは孫文の側近として中国の近代化革命に挺身し,貴国の総統の先輩として革命を援助した山田兄弟への愛顧を日本と台湾の友誼にしたいと思ったのです」
「館長がぜひとの連絡がありました」
お断りするわけにもいかないので現地の弘前市長に金沢という人がいる。現地は前にリンゴを売るときにその縁を利用したが、いまはそれを語るものの継ぐ人もいなくなっています。理解はともあれ中華民国国父記念館館長として市長名で差し上げたらよいと思います」
「それではそのようにします。文面の案を送りますのでご覧になってください」






金沢弘前市長に感謝状呈上


しばらくすると格式のある感謝状が本国から送達された。
「ところで、この書状を郵送というわけには・・・」
「寳田さんが弘前に行かれる時に持参していただけますか」
「館長の代理で…読み上げる?」
「お願いします」
「条件ではないですが、差し支えなければ青天白日満地紅旗をお借りできませんか。台湾の機関代理が日本人では礼式がよくありません。いっとき国父記念館の館長代理として礼を執ります」
「それは良い考えですね、よろしくお願いいたします」
「その代りに組長も都合のよいときに弘前にご一緒しましょう」
「行きたいですね、早めに予定をとりましょう」



授与の当日は養生会の小笠原氏、教育家原子氏も同席、応接は工藤茂興氏だった。

日をおいて陳組長の往訪は筆者と二人旅だった。貞昌寺の拝礼式と講演を終え、駅前の「山唄」では大きい握り飯をほおばり写真に納まった。宿は黒石温泉郷の丹羽旅館での裸の温泉交歓だった。地元二紙の取材と青森放送木村介理事の紹介で小田切記者の取材はテレビニュースとなり、多くの郷土の方々に幾ばくかの歴史的認知を得た。

鈴木忠雄先生のとりなしで拓本を採取したが、この時まで鈴木先生が養生会の会長であったことだけで、ほかには何も経歴や背景など知らなかった。いや、知る必要もない奇縁とその後の交流だった。東大を卒業後、郷里に戻りあの県立弘前高校の名物校長を経て、その時は弘高の同窓会会長をしていた。
あの司馬遼太郎氏が受験したが適わず、太宰が放蕩した弘高だが、当時は東北の俊英が集まっていた。

もう一つは東奥義塾だが、ここでも歴史的人物を数多輩出している。当時の弘前のエリートは東京で学んでも多くは郷里に戻り,子弟の教育に心血を注ぎ、経済界でも郷土の再興に励む人間が多かった。そのなかでも鈴木先生は津軽の教育界の重鎮として、その教え子は各界の要職を務め、皆から「忠(ちゅう)先生」と畏敬を以て愛呼されている。
そのことを知ったのは、知り合ってしばらくしてからのことだ。






黒石市 精霊流し


病床に伏したとの知らせが入った。早速友人を伴い自宅療養中の先生をお見舞いした。
「やぁー」と手を挙げたが起きられなかった。さっそく娘さんがビールを用意した。
誰が呑むのかと思っていたら、グラスが人数分運ばれてきた。
先生もベットでグラスを持っている。注いでいいものやら、形だけだと思っていたら。「これが津軽のしきたりだ」と声を絞って、乾杯した。
その後は、津軽弘前への思いや佐藤先生のこと、先覚者のことなどが話題になったが、黙って聞いていた先生は「うっ」と押し殺したように声をあげ、わなないた。
涙をためていた。
「よろしく頼みます」
あの佐藤先生が病床で最後にかけた声と同じ言葉だった。
それは、当世日本人への憂いと、自身の肉体への慚愧の語りのようだった。

先生が見上げた長押には、石原莞爾将軍から民国の何応欽将軍への書簡の額だった。
先生の奥さんは、あの松陰が訪れた儒者伊東梅軒(松陰室として保存)氏の先の当主、伊東六十次郎氏の妹にあたり、伊東氏はシベリア抑留で最後に帰還した人物である。
津軽のじょっばりは意志を曲げなかった。収容所で著わした長文原稿を取り上げられたため、再度書き直して帰還する友人に託した剛毅な人物である。石原氏の信頼が厚く、氏の直筆の戦争大典は松陰室に保管されている。

伊東氏とは私も笠木会で毎年お会いして満州秘話を聴かせていただいている。その鼻にかかる津軽弁は慣れないと聞きとりが難儀だが、それが高揚してくると地元の人でも分らなくなる。ロシアの看守兵も閉口したに違いない。
伊東氏は亜細亜大学の教授として多くの学生に慕われた。それは体験に裏打ちされた近代日本の歴史を実直な語りで問いかけた。それは佐藤、鈴木両氏に共通した「人の師」としての教えだった。頑なに見えるが心は柔軟にして異民族さえ絶大な信を置く大人の風格があった。鈴木先生もそれに随った教育観と人格があった。まさに愛される「じょっぱり」でもある。
愚直で融通の利かない、あるいは、足の引張りといわれる津軽衆でも、頭が上がらない存在だ。





台北 苗剣秋夫人  苗氏のこと、お坊ちゃまという張学良氏のこともよく語り合った


その後、弘前に同行した陳組長のとりなしで、兄の外交部長(外務大臣)の面会を設定し、再度の訪台をした。同行は当時の総務省CIO補佐官大塚壽昭と共同通信経済部の伴武澄だ。

それは観光旅行などとはかけ離れた強行軍だった。共同の渡辺台北支局長の案内もあり後の亜東関係協会(日本との交流機関)の責任者となる彰氏や,司馬僚太郎の台湾紀行にある老朋、蔡氏とも交友を深めることができた。もちろん到着直後には、芝山厳の六氏先生の墓参も執り行われ、そこで知り合った愛知淑徳の教授の招請で名古屋の女子大講義にも行った。
また、西安事件の真の首謀者、苗剣秋氏の旧知の夫人の探索に台北の夜を走り回った。




津軽講話



その後、両名と経済産業省の官房調査官某氏と消費者金融問題専門家の金沢氏を手弁当で同行し、弘前および広域の問題点と可能性を探るために雪の津軽に向かった。
誰に頼まれたものではない、足引っ張りさえ想定できるおせっかいだった。
 
駅前はサラ金、遊戯店は中年女性、寂れつつあった土手町、鍛治町も歩いた。
後刻、工藤企画部長の招請で弘前大学の専門家を交えて市の幹部との意見交換が行われた。工業集積団地アルカディアの件は東京持ち帰りとなったが、全国的問題としてのちの政策に投影する参考にもなった。同時に黒石市の情況を確認し、地方の抱える問題が解決されずに堆積している現況を垣間見た。

それは、時を稼ぐことだけでは解決しない、つまり連続性を唯一とする行政施策のもつ限界として、解決は人を育て、身を削り、市民の真の声を救う人材の育成が解決の必須条件だと観た。
残念ながら、有為な人を育てる環境は職場にはない。しかもアカデミックな例題では無理だということの考えも薄い。なによりも足元にあることを忘れていると感じたのは外来の都会者の嘆きなのかと、惜しく、不思議にも感じたものだ。




黒石よされ



よされ流し踊り


木村ヨシ作 人形


潤い


台湾政府関係者との同行や、新聞、テレビ局の取材などで幾ばくの認知はあったが、逆に夜半の般若湯が徐々に苦くなり、せっつかれたように落ち着きがなくなった。いっとき北東北一の歓楽街といわれた弘前鍛治町も歩きづらくなった。それは狭い地域特有の新聞やテレビ報道の持つ力の無謬性が増幅する取材対象となった人間への興味だった。
東京では記事にもならない篤志の行動も、こちらでは大きな印象として口の端にのり、とくに歓楽街では居心地のよくないものがあった。江戸っ子は騒がれるのが、恥ずかしい。

そんなとき思い出したのが、友人と連れ立ってきた桜の季節のとある縁だった。
駅前のシティ弘前ホテル(現ベストウエスタン・シティー弘前)に着いて宿泊手続きの間に手洗いに行った。するとその横のテーブルに観光客らしい女性客が集っていた。
何気なしに「もう、お城の見物は終わりましたか」と声を掛けた。見るからに地元の雰囲気ではないあか抜けた人たちだった。
戻り途に今度は声を返してきた「どちらから」
グループの安心さもあったのか女性から声を掛けてきた。
「東京ですが・・、夕方の桜を見に行く予定です」
「ご一緒しますか」
「少し疲れたので休みますが、4時ごろなら、よかったら部屋に連絡してください」
旅の気楽さか、ごく普通の会話だった。

忘れていた電話がかかって来た。きっかり4時だった。
「下で待っています」
待っていたのは二人の女性だった。
あとの方は・・・
「家に帰って食事の支度があるので、済んだらまた来ます」
「えぇ・・、あなた方は地元の人」
「ええ、ここから車で30分くらいの黒石というところです」
それにしても訛りもない。いや使い分けられる巧みさがあった。
早速、5人の男ばかりの連れに声を掛けて弘前城に向かった。
そのあとは彼女らの案内で鍛冶町の繁華街に繰り出した。
当時の鍛冶町はリンゴ農家の旦那衆や、元気の良い昔の津軽乙女が横並びで闊歩している賑やかさだった。

そもそも、そんなつもりもなかったが、遊び人風ならどちらが引っかけたのか、引っかけられたのか詮索されそうだが、まともな学びの探索の高揚なのか、あの女性たちが青森の地元女性には見えなくて、こちらと同類の遠来の客かとエールを掛けたまでのこと。

だが、そんな言い訳がましい小理屈も以後、二十数年に亘る津軽に潤いを与えてくれたことは良縁だと、ついあの時のトイレの前の声掛けが笑い話として、ときおり話題に上がる。付いてくる言葉が「あれがなかったら、どうなっていたでしょうね」と。

≪抜粋終わり≫






 長々と引用したが、その奇縁からの四半世紀にわたる訪問は潤いだけでなく、苦くも切ないことも多かった。それは自身の生活環境の変化だ。とくに異郷でありがちな「来れ者」「よそ者」とくに弘前は江戸とは異なる京風に似ている。
毎度のこと、長くても4日から5日、短ければ一泊の帰京である。その方が「間」マがとれる。
 
それでも遠来のお節介の不思議さと、事がパブリックに属す事柄ゆえ生活の匂いを極力消し、かつ私情を語らいないためか風評が飛び交う。噂は、何している人だ、食い扶持は、肩書は、家族は、面白いのはオンナいるのか、の類だ。

聞いてくれれば腹を見せるが、この地域は気持ちがなかなか表に出ない。
だから、「そうかもしれない、そうだろう、きっとそうだ」になるようだが、殻に閉じこもりではなく、相互信頼と勇気、いやそんな綺麗なものでない自己愛への欲なのかもしれない。隣国もそうだが、それをスッキリさせるのは金が有るか無いかの観察に長けているようだ。だから、その一種の歯がゆさにお節介心がうずくのだろう。だが、限界もある。

多くはほんの少しネガティブで狭い範囲だ。慣れてくると東京の雑踏から除けたつもりが、その地域のなかでも辺鄙なところに潤いを求めるようになる。友が気を利かして海辺の温泉や道の駅などに案内してくれたり、レンタカーを飛ばして仲良くなったお年寄りのところで時を安らぐことがある。

ときには、東京の居酒屋で「こっちも年だが、津軽もみんな年寄りだ」というと、どこからか口が二つぐらい経ると「あんたらババァだと言われているよ」に変わって酷いことにもなる。それが目的ではないので気にもしないが熟練のオナゴはどこでも面白い。

懸案が継続しているとどうしても地域の縁が広がるが、これとて不思議感一杯の手弁当のお節介だ。仕事で対価があれば「俺たちとは一緒だ」と安心もあろうが、当初の墓参も増え、懸案解決の依頼も増えてくると、気晴らしに冗談の一つも出るが、それも感情に触れるらしい。
オジサンとオバサンが縁側で茶飲みの想い出話が出来そうなものだが、妙な風評が拡散する怖さも津軽にはある。

だから隣国同様な人情は無条件な貢献が肝要だ。
とくに身内の厄介ばらいや金の思惑があると計算が立つようになる。似ているところがある。

まさに「小人は利に集い、利薄ければ散ず」だ。

利に集まり騒ぐが、無くなると消えるのも早い
「利は智を昏からしむ」金ばかり考えていると知恵が薄くなる。
「小人は利に殉ず」小者は計算高く、人情も移り変わり利のために死ぬ

そして最後には孤独になると古人は言う。




実利
 
「風評」に戻るが、セシューム風評の苦悩については前に書いたが、その際、東京の台湾大使館にあたる台北駐日経済文化代表處に縁をつないだことがある。県や市といっても相手は中華民国政府の国家機関であり、しかも日本は政府間断交中である。そこで人の縁や繋がりが必要になってくる。弘前市の職員に今後の事情を事前に伝え代表處に同行した・
 「事前」とは、カウンターは国家機関である。風評は台湾政府ではなく市民の意向である。
 政府に依頼するのは職権事務手続きである。現地バイヤーに任せないで直接担当者は訪台して市場調査をする。売るだけでなく、台湾からマンゴーなりの特産をバーターすることが必要だ。
 程なくして輸出は解禁され津軽の農民は一息を入れた。





台湾外交部 外交次長と会談


立法院 院長と


そのこともあって人的交流と台湾側の理解を深めるために、訪問団派遣、台湾政府関係者を招請してシンポジュームの開催も恒例となった。

前に戻るが、風評に嘆くさなかに地元の有志が講演会を企画して、その依頼が筆者に来た。
参加者は域内の市町村幹部や県議、市議、地元有志や女性を含めて80人だった。
講題は「津軽おせっかい話」とした。

「その風評は、地域に昔から漂う雰囲気とそれを作る人々の気質が伝わることだが、いまセシューム風評で大変ですが、この津軽地域の人間関係の風評の方が、被害度が大きい」

また、「いま異国の風評で危機感があるが、この津軽では足の引張り、陰口、津軽選挙、排除、など、正しい情緒の養いに、いちばん妨げとなる陋習が漂っている。だから率先垂範もなく、依頼心があるため、なんでも市や公機関への依頼心が多い。

つまり、人が人を信じていないから風評が起きるのです。台湾の市民は皆さんを信用しないわけではない。しかし政府の宣伝に一抹の不安がある。解決には人々が真に信頼できる関係でなくてはならない。だから風評克服には台湾に行って人々に会うことが大切なことなのです」と、当時の状況だから語れるキツイお節介をした。



山田良政御霊 墓参 貞昌寺


「よされ」は、世を去るともいう


 ところが最近は筆者にも風評があるという。
 まさにノンリケットだが、話題がないと拡散する。
 こうなると男女問わず始末が悪い。
 芸人や選挙候補者が大勢に握手を迫られ、スキップすると悪評や怨みになるという。極力、異郷では無名で大人しくしているが、弘前では新聞・TVが取り上げニュースになるのが重くなり、縁をたどって近在の郷に来た。しばらくすると慣れてきたのか、何かを探し出す。目方が判ったら都会と一緒で新しいものを探す。

津輕は進取の精神にあふれ、といわれたが今は刺激に呼応して落ち着きがなくなっている。「若い者は都会に出たら戻ってこない」それは悲鳴ではなく当たりまえになっている。また、「しかたがない」と呟く人たちの風評は、それを視ず、逃げるには具合のよい互いの傷のなめ合いだ。

それは、とりもなおさず思い通りにいかない他の理由ではなく、自身が雪の下に隠れ、つまり「雪は汚いものを隠してくれる」という、雪の苦労の裏返しが、宿命観は怠惰の始まりということに陥ってしまうこともあるようだ。
「都会のものに気持ちがわかってたまるか」だから郷を知り、歴史を学び、多種多様な人と邂逅してささやかだが汗も流した。30余年にわたって春夏秋冬に驚き、悦び、共感した。

ここでは「ありがとう」を言える自分の素直さが判る。だが、言われることは照れくさい。江戸っ子は「皐月の空のふき流し」の気分が好きで、面倒が嫌いだ。

さて、そろそろ馴れが出てきた。

モグラになるか他郷に旅立つか・・・          

 未完

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金沢八景 「野島の松」 再

2023-09-11 08:50:21 | Weblog


神奈川県横浜市金沢区あたりには風光明媚な場所がある。古人は八景として親しんだ。

ペリー提督は江戸湾を調べ、この辺りをセントルイス・ベイと名ずけて錨を下ろしている。維新の成り上りも競って別荘を建てている場所でもある。


鎌倉へ抜ける西方の朝比奈峠におちる「朝比奈の夕陽」、鎌倉北条氏の縁(えにし)、称名寺の梵鐘を「称名寺の鐘」、昔は陸続だった野島の海岸に多くみられる松を「野島の松」、時の流れで海浜は護岸され、夕陽はマンションの頭越しになって遠望は変わったが、名残(なごり)は、昔と変わらない朝夕の潮風と山風にあたると、妙に当時の縁(えにし)を瞑想させてくれる。

あの幕末の黒船四艘が錨を下したのは金沢湾の沖、いまの八景島シーパラダイスの沖だが、幕府の右往左往を横目に江戸湾の測量をしている。そして彼らの故郷の名前をそれぞれつけている。金沢湾は「セントルイスベイ」、植民地への意図とはそのようなものだろう。
ちなみに英国の植民地香港島の裏側の景勝地は映画慕情で有名になった「レパルスベイ」である。

その金沢は湾岸道路がつながって都心から30分、いつもは四季によって変化する称名寺を散策して金沢文庫の期に替わる古仏像を拝観する。朱色の太鼓橋から見ると亀や瞑想し、鴨が舞ったりみずもを泳いでいたりする。淵は折々に彼岸花や季花が咲き色取りを添えている。とくに小雨か雨上がりがいい。
もちろん「称名寺の鐘」も見ごたえがある。



 




この辺りは鎌倉北条の由縁のためか、裏山の散策コースには墓地が点在し、刑場でもあったのか掘れば人骨も出土するという。文庫の怒りと悲哀の仏像といい、寺苑の何か言いたげな作庭は独歩散策に最適な、深み、広さ、重さ、遠き、を提供してくれる

普段のコースだが、数年前のこと、野島を対岸に見る道路を横須賀に向かっていたところ、渡橋の端に和風の店が目に入った。小腹もすいていたので橋を渡り近くまで来ると小料理屋ではなく,「しま寿司」という看板が掛かっていた。

板の前の面前商売はまず人定から始まるのが常だ。亭主も客もみなそうする。寿司が風呂帰りのおやつから、近ごろは子供連れの食事になって久しいが、江戸っ子は喰わずとも亭主の変わりない姿をみるのが悦しみとしていた。

感が利くのか亭主は一瞬まぶしそうな眼をした。お互いを量るのだが、その目盛は同じ幅を刻んでいた。こうゆう雄の子は無口でできのいい女房とやんちゃな息子が付き物だが、こちらの境遇を考えると羨ましくもなる。

いつの間にか懇(ねんごろ)になった。都会の見栄や突っ張りもくるが、近在の老人も杖をついてやってくる。やんちゃな亭主だが人情も深い。いいことをするにテレがあるのは、難しく譬えれば深慮があり、情が深い。これを乾いた清々しさでできるのは中々いない。
身寄りのない老人の終末を看とり、呼応した友人の僧侶と葬儀も挙げた。それが彼にとっては至極当然な縁の働きだった。
気が合うのに刻を要しなかった。









むかし銀座の鳶頭と懇ろになり吐露された「義理と人情とやせ我慢というが、近ごろはみな逆だ」と嘆いていたことがある。「かた(形、型)をつけても体裁は悪いし、野暮だ」とも。
よく、銀座から新富町、人形町,月島と流れたが、芸者上りの姉妹、鮨屋の80歳の女性亭主、普通は女将だろうが、はな板を仕切っている立派な亭主だ。
白髪を結い白い割烹場、握りは柔いがネタの味がする。

あるとき自慢話をする客が居た。金の話だ。
「お客さん、金持ちは持っていては自慢にならないょ。人に使って大尽でよ」
見れば客の面前には大トロしか並べていない。

あるとき、今から行くよと、銀座から連絡すると「気をつけてくださいね」との応え。
着くと嫁に出ていない娘が地下の仕込み場で飯を炊いている。
゛わざわざいいのに゛とは口にも出せない。普通はことわるのだろうが、客も引き払った店で好みのネタをわざわざ仕込んでいる。まるで、これから店を開くように・・・

この界隈はやくざが多く、店はゴチ(無銭飲食)が多く難渋していた。亭主を亡くした女将は親分のところに掛け合いに行った。それで残った、そして娘は嫁に行かず母を支え店も生き残った。母娘にとって店は商売ではなく生き様なのだ。だから板前の前後の応答に優しさと深みがあるのだろう。

この始めて遇った野島の亭主もそんな匂いがした。

その「野島の松」と謳われた野島だが、明治期には避暑や別荘地として親しまれ、あの明治憲法の草案が練られた処として当時陸つづきだった夏島は、後の海軍基地として、いまは企業用地となっている。その野島の中心に有る小高い山は物見として、山腹はくりぬいて航空機の格納庫として、いまも名残はある。

海岸には老松が林立し、なかには数百年の樹齢をもつものもある。目の前の浜は護岸はされているが昔からの手つかずの黒砂で、年に三回アサリが繁殖しているが、ほかにはない味わいをしている。東京湾を見まわしても手つかずの浜はここだけだという。それゆえか海苔もことのほか香りがいい。青まぜと云って香のいい青海苔を混合していることもあるが、工程が難でその都度機械を洗わなければならない。

つまりはかどらないのだ。嬉しいのは、何よりも旧来の浜の恩恵はモノづくり一つとっても人の薫醸された情緒まで残していることだ。

ちかごろマグロ船をおりた気分のいい旦那の世話になっている。
アサリとハゼの縁だが、語らずとも分かる人物だ。







やっかいな喧騒や宿縁の軋轢につまると、吾身を浸すには絶好な情緒が含まれている処だった。

ひとに相談することもなければ、逃げることも似合わなくなった面倒な齢だが、奇妙な童心が残っているだけ援けられている。その童心が感応する処が見えるだけまだましだとも感じている。

時世を憂いつつも、下座と俯瞰を行きつ、戻りつつも、世情を眺められる場所がそこなのかもしれない。

野島の松籟(しょうらい)は、たぐり寄せる何かを持っている。

 ※松籟・・・松を抜ける風の音

2011

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羊飼いの犬に追いかけられた夢  2007 06 再

2023-09-09 00:47:24 | Weblog

もう何年も前の初夢で犬に追いかけられた

犬は「自由と民主主義が社会を瓦解させてしまうためには、商工業を投機的基盤に置かなくてはならない」と。

現代人が至上の価値としている自由や民主主義を用いて、人間の欲望を喚起させ、経済システムを、株、為替など、恣意的(人為)コントロール可能な基盤に誘導するという。

たしかに好き勝手でまとまりにない人間を誘導するスローガンは、情報に触発された財貨の収集であり、しかも容易に成立するようなグランド(社会構造)を、収集される側の人間によって、成功価値を含めて創らせることだ。
彼らはそれを成功のための唯一のグランドとして考え、異なる意見を排除して、肉親や友人との連帯すら融解させるだろう。

 

 

 

 

お節介なもので皆に知らせたことがある

何のことやら解らない人、なかには映画のストーリーかと言われた

近頃は目の前の現実として現れているが、羊飼いの犬は群れを美味しい草原に誘導している
太った羊は美味しい肉となり、チーズや干し肉となって羊飼いの胃袋を満たしている約二世紀前につくられた或る人たちの謀だが、戦争やそれに用いる戦術や武器もいらない、かつ民族や国を「いつの間にか・・」劣化、衰亡、亡国、分離、流浪に導く企図でもある。

人の正邪の分別を曖昧にさせ、利便性と保護を謳って彼らがコントロールする財貨の世界に誘い込む。仮装された生きる価値や目的を、彼らの囲いの中のでしかない自由を個性だと煽り、民族や人種の混交を「愛」に置き換えて、血純なる種別を曖昧に導く。すべてアナタ達の意志と決断だとして、反抗されるべき彼らを巧妙に隠している。

人々の連結の絆は分断され、かつ十九・二十世紀に起きた戦乱の真の目的にある各民族の歴史的集積の統帥者である「長(おさ)」を同じ民族の手で倒し、破壊した。

そのスローガンは自由・民主・平等であり、そのスローガンは大衆が互いに争いと自縛を起こすような別の企図が含まれている。彼らは人間がいつの間にか眼前に広がる状況に問題意識すら抱かせないような巧妙で狡猾な知恵だが、今は、金融・教育・情報に収斂されている。

 

      

 

それより架空の幸福感を目指し、財貨所持の成功者を嫉妬し、不幸に落ちることを望む愚かな人心を習慣づけすることに目を向けた。

格差に問題を抱く前に、財貨成功者をヒーローとして徒労な競争に誘い込み、学問、芸術、スポーツの成功者な過大な収入を与えて宣伝した。

人々は毎日シャワーにように降り注ぐ成功者の収入や夢のような贅沢な生活に目を奪われ、経済困窮さえ忘れて、政府の行う政策の傍観者となり、不満さえ慣らされところで留まっている。これが謳いあげた、事なかれ無関心の自由であり、考えることを忌避した、おまかせ政治の民主主義のようだ。

資源の交易は通貨価値や為替操作の仕組みを構成した彼らの意図によって、容易に差益利を生むシステムになった。

架空の民主を謳い、意見の相違は争論を生みあいまいな結論しか導き出せず、彼らの作った自由なグランドで、異なる社会に平等を投げかける。

独裁はコストがかかる。共産は理想を謳ったが突き詰めれば「共惨」になる。一番コストがかからないのは自由と民主によって社会は混乱分断し、収斂コストは財貨のコントロールと自由を阻害すると謳った情報と社会の管理だ。

そのツールは科学的、合理的というコンピューターになっている。

二十世紀は誰が名付けたのか、彼らにとって独裁・共産・自由の選択のための争乱だった。

筆者の「人間考学」の端緒になったのは、かくも人間の弱さ、誘引される理由、問題意識を持たせない環境醸成、など、今までの官制学校歴の課題(カリキュラム)にはない、いや考えさせないとも思える仕組みに興味を持ったのだ。

たしかに明治創生期にかぶれたように借用した教員制度はフランスからだ。あの自由・平等・博愛(友愛)によって長の首を熱狂によって断頭した社会だ。

その掲げられた標語はいまだに達成されていない。

もともとあり得ないものを、有るがごとく文字や言葉で謳いかつ煽り立てる。

隠れた統治者が人の口を借りてスローガンなりハナシを謳う。

やはり宗教家や為政者が迷える羊と視ることも有りなんか。また、無いものを有るを前提に争うからまとまるはずは無い。

餌(錯覚した成功価値)と犬(武と管理)は最良なツールなのだろう。

 

         

                     青森県弘前市 岩木



200年以上前に書かれた人類を支配するための謀である。

(偽書ともあるが、ここでは人間をここまで知り尽くす驚きとして推測表記してみたい)

一過性の繁栄、幸福価値、経済暴落、二度にわたる大戦、あるいは民主だ、自由だ、人権だ、平等だと人々の諍いは終わることはないが、この謀のような内容は、いつの間にか現代そのものを表している。

つまり、この謀は人間が誘導される脆弱な部分を、より衰えさせる仕組みの構築に他ならない。また、その仕組みでしか生きられない、閉ざされた思考しか持てないようになっている。

簡単に言えば、羊飼いと、犬、追い立てられる羊の関係のような奴隷化した人間の姿だ。

一度たりと到達したこともない、或いは本当にあり得るのかわからない目標理念として謳われている、自由、共産なる思想、民主、人権、平等、平和などの合唱が、ときに不信や戦争まで起こしている人間の姿を考えるのに、いかに我欲を喚起する企てに弱いかを、この謀によって知るのだ。

 

《以下はその年の賀状に記したことです》1970の頃

<いつだったか青い目の悪戯っ子が耳元で囁いた

「われわれはすべての信仰を破壊し、民衆の心から神と聖霊の思想を奪い、代わりに数字的打算と物質的欲望を与える。

思索と観照の暇を与えないためには民衆の関心を商工業に引き付ける。 

そのようにしてすべての人々は、自分の利益のみに没頭して共同の敵を見逃してしまう。

自由と民主主義が社会を瓦解させてしまうためには、商工業を投機的基盤におかなければならない。

そして商工業が大地から取り出した富は民衆の手から投機家を通じてすべて我々の金庫に収まる。 

経済的生活で優越を得るための激しい闘争と市場での絶えざる投機は、人情薄弱な社会を作り出すだろう。 

そして、高尚な政治や宗教に対して嫌気がさし金儲けに対する執念だけが唯一の生き甲斐になるだろう

民衆は金で得られる物質的快楽を求め、金を偶像視するようになるだろう。 

そこで彼ら民衆の貧乏人どもは高邁な目的のため自ら財を蓄えるためでもなく、ただ錯覚した上流社会への嫉妬にかられ、われらに付き従い、われわれの競争者である特権的立場のものに反逆するだろう」 

たしかにその様な世界に誘導されている

問題は、それが気が付かない、考えない、ただ成功した人の姿、そうなりたいと欲望、それが自由であり民主のグランドだと、行く末を思案する意識さえ失くした姿だ。

そういえば古事記に
国稚(わか)く、浮かべる脂(あぶら)のごとくして、くらげなす漂えるとき、葦牙(あしかび)のごと萌えあがる物によりて成れる …  と、ある。
古典や故事を引用するぐらいの知恵者にあやかるまえに、大地の表層に浮かぶ脂やクラゲのように浮遊し、葦の芽ぐらいだった原祖を思い浮かべ、 青い目の悪戯っ子の囁きに、黒い目を白黒することのない心の鎮まりを見つけたいものです。>

以上、2007年当時に送付したものですが・・・やはり今でも感応は薄いようです。

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「謝ったら過ちを認めたことになる」と、ここから人の連帯は劣化した 再

2023-09-07 01:19:41 | Weblog

児玉神社
言い訳上手の謝り下手

 

「智は大偽を生ず」今どきの学び舎エリートは、学び舎で得た知識や討論技法を言い訳に使う者が多くなった。

国会でも一部の弁護士資格者の詭弁によって混迷の度を深くしているが、弁護士資格を持った議員同士の騒論は醜い争いとして議会のみならず、日本人そのものの劣化の象徴例として政治を暗澹としたものにしている。

当然ながら国会は相手の罪状認否あるいは追求の場ではなく、国家をいかにして運営するか、協議する場である。

国民も安心して任せられないのか、それとも劇場と揶揄されるように、判りやすい悪役、善人や派手な原色スーツ姿のパーティーホステスの嬌声をバラエティー番組を観るかのように楽しんでいるフシもある。


異文化かぶれは別として日本人は昔から「謝ったら過ちを認めたことになる」との反応はなかった。たしか筆者が生意気盛りだった頃の昭和30年代に口の達者な連中が広げたことだが、銅臭(金)を察知して三百代言と揶揄された代理人(弁護士など)などによって法を持ち出して人々の情理まで変質させてしまった。     「銅臭」・・・金のにおい
場面の状況によるが、はたして謝(アヤマリ)は、すべての誤(アヤマリ)を含んだ過ちを表わすものなのだろうか。
隣国の贈り物には「謝々」と二つも重ねてついてきたことがある。

以前聞いた米国のことだが、朝早く起きて近隣道路を清掃して水を撒いたら凍ってしまった。そこを歩いてきた人が滑って転んでしまった。すると「この責任は誰にあるのか」と思案した。すぐそこに思いをめぐらすのが前記でいう異文化なのだが、弁護士を雇い、けなげな住民は訴えられて賠償金を払わせられた。理由は服が汚れて会社に遅刻した、ということだ。
こんな時、「大丈夫でしょか・・」と駆け寄ってもね「いゃ、こちらも不注意でした」とはならない。

江戸っ子なら「大丈夫、なんてことないょ」と痛さをこらえて平気な顔をする。余程のことがない限りデットボールでも文句を言わずに一塁に向かう王選手のようだ。近ごろは球が近くを通っただけで、投手は帽子を取り会釈しても追い掛け回すバッターがいる。

異郷では子供が悪さすると親は守るが、形勢が悪くなると「悪いのはこの子だ」と親は決して謝ることはないと何かに書いてあった。

たしかに自主独立の気風にもなるかとも思うが、進捗して個の孤立化が進めば社会は個を収斂させることを巧妙に図る。とくに国家というカテゴリーにはその傾向が著しく、その用とするものは、金と食べ物、そして異性の本性欲求のコントロールであり、その担保は軍事力とエネルギー、そして情報操作だ。

今までの家族や近隣・職域集団への信頼は亡失して、仮装愛国心のもと、人々は財貨獲得の成功にむけて邁進する。

それは大変だな、と思っていたら、周囲もそんな風になってきた。
わが身をツネって人の痛さを知る、とか「相身互い(お互いさま)」と生きてきた日本人だが、漢文好きが因果応報とか仏語を説いても、からっきし解らない庶民でも諺をまじえる大人の話で事の良し悪しと、始末の仕方を覚えたものだ。
近ごろは証拠に書式、代理人の報酬や役所の印紙手数料など、損害金額の数倍にもなる経費でも善悪すら明らかにできない状況だ。

程よく治まっていた連帯と調和は情緒変質の企図なのか、民主、自由、平等、人権、などを掲げられると反語すら見当たらなく、万巻の理屈を記す書物でも晴れることのない。

それらの美句は、これまた複雑な要因を以て構成されている国家なるもの同様に、必須と解っている連帯や調和の必然性すら、むやみに個の自由の障害として近ごろは問題にもなっている。国家の政策に問題があれば、必ずといって損害賠償を訴え金銭対価の要求にさらされる。

保険業も繁盛しているが、あの松下幸之助氏の渡米の印象は「弁護士と精神科医が多い国は、国家として人を信じられない二流国家だ」と喝破している。

 

 

            

           後藤新平が培った台湾の衛生感覚は習慣となっている

  産地偽ラベルを貼って台湾へ輸出した行為は、日本および日本人への印象を失墜させた。「あの日本人までもが

政府は先ずはその犯罪的行為を謝ることなく、大陸に媚を売る農相は「台湾の基準がおかしい」と、国際基準を守る台湾の人々を落胆させた。

 

「すみません」「ありがとう」は、愚か者の薀蓄を聞かずとも多くの日本人の心に納まっていた。謝れば済むものではないと云われれば、ピンとくるのか財の移動だ。なんでも金で始末をつける保険も繁盛した。

これも保険屋と弁護士の国益ならぬ食い扶持益なのか、手間が掛かるようになったのも事実だ。これとて「浄水器があるから水がおいしく飲める」という便利性だか、そんなものが無くても飲める水の方がより便利だ。

どうも面倒な寄り道、遠回りすると人手も掛かるし金もかかる。それが生産性で税収も上がり、国が豊かになると数値を振り回すがこの繁栄を成功価値と思っているうちは、いつまでも悩みは消えない。

人の関係を分断して孤独と恐怖をまき散らし、バーチャルな集団や流行り事をまき散らす汚れなき罪は人を羊のようにしてしまう。柵がないから自由だと思っていたら始終、飼い慣らされた犬が吠え、周囲をうろつく。行先は牧舎かトサツ場だ。

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