まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

師弟酔譚録  「荻窪酔譚抜粋」  その三

2015-11-19 21:34:07 | Weblog

     

 

 

≪中国社会での体験身学≫

S  終戦後、王荊山さん、馬車百輌分の食べ物呉れたのだよ。

T  あの方、梶園さんが知っていたのでしょう。

S  王荊山さんは偉い人だよ。

S  (寶田さんの)お嬢さん(小ニ)のこれ(学習ノート)ね、僕の教え子が小学校の先生(根岸さん)だから彼に手紙送ったの。 そしたら、態々来てくれてね、此の咄を一所懸命半日も話してね。 再た、何人か連れて来るって。根岸君、真面目な男だから此のやり方(身体で学ぶ)に暗示受けるはずだ。昔から、中国では「言行は身行に如かず」と言う。頭では無く、躰で教えているのだ。

T  あの、中国では漢字の国語教育は如何?

S  中国ではね。アッ!そうそう、昨日お客さん来てね、初めての人、何とかヒカルさんと云う人。途中で名刺を呉れたから、「光という字は、人間が跪(ひざまづく)いて頭の上で火が燃えている字ですよ。だから、あなたはいつも光に照らされている訳です。 素晴らしい名を持っているから、名は実に応じなきゃ駄目だ」と言ったら、とても悦んでね。 さっきの話だけど、中国では言辞(言葉使い)を教えている。

T  象形ではなく?

S  中国では、此の字はどういう意味で出来ていますよ、と教えていた。

T  それで、中国で教える文字の意味が日本と違う場合ありますね。

S  中国では実態に合わせて文字の意味使いを解釈しているが、日本では、安岡(正篤)先生もそうだけど、実態とは遊離した文字の解釈をしている。 中国では基本だけ教え、後は十人十色で、勉強は俺(先生)がするのでは無く、お前ら(生徒)がするものだ、と考えている。

T  此の間、書道部の先生と会って話を聞いたら、向こう(台湾、中国)行って字の書き比べするらしい。それで、「日本の書道は心を移入し、芸術にまで高めるが、中国では役人の伝える記録の感覚だ」と。文字に対する考え方が、日中両国では是程までに違うわけですね。

    僕の高校の後輩で芸大教授(書道)いますが、「飲みながら、中国の文字読む時,紹興酒でないと気分が出ない」と。 今、一番の問題は日中間に於ける文字の解釈の差異であり、大きなミスを国家レベルで遣っている。日本と中国では、似て非なるものだと云う理解を深める必要がある。文字、文章の意図するものが如何に大切か、其は田中(角栄)さんが貰った色紙(言必信、行必果)の例が典型ですね。

 

弘前 養生幼稚園 

大切に・・整理、整頓の習慣化は知識や技術の前提

 

≪旅順水師営の小学校≫

T  先生、向こうの小学生に対して、或る程度のレベルの人に対して、漢字を教えていたんですか?

S  僕、小学生しか教えなかったけど。算数も全く解らんで、自己流に執ったの。青森のズーズー弁で 教えた。「お前ら、解ったか?」と訊くと、日本語で皆「はい、解りました」と。学期末の試験直前になって誰に何を聞いても一つも解ってないの。 理由訊いたら、「はい、解りましたと答えれば、先生が喜ぶと思ったから」と。もう、如何にもならないよ。それで、中国の事、中国人に聞かないと解らないと思ったの。

T  小学生の場合、担任の先生に好かれたい、と云う気持ちが強いのでしょうね。

S  僕遊んであげるけど、中国では先生って偉いから子供と遊ばない。汚いから風呂入れると、入った事無いので直ぐ風邪を引くし、父母から文句言われる。

T  小学生の男の子なのに女房を貰っている、と。

S  小五の生徒五三名の内、未婚は僕を入れて七名だけ。労働力が欲しいから早く結婚(嫁がとしうえ) させるが夜、オチンチン弄られたと言って「え~ん!」と泣いて職員室に来たり、高等科の嫁が門まで送って来たり、とにかく全く事情が違う…。 旅順で、晩になると支那語を習いに出掛けるけど、途中の墓場で女の人が毎晩泣いている。 すると、女の子がご飯持って来るの。 そして帰った途端再た泣くの。 僕、本当に泣いていると思ったけど、之、儀式な。

T  其れ如何いう、所謂「泣き屋」ですか?

 

   川島芳子

 

≪川島芳子≫

S  川島芳子のお父さんが旅順で死に、棺桶の傍に子供らニ十何人と座り、莫迦(ばか)話しだ。 ところが、弔問客が来ると、突然「ウワ~ン」と泣く。

T  然う言えば、台湾でね、葬式の通夜の晩に二万円でストリッパー呼んでストリップやる。 仏さんが淋しがら無いためにと。

S  それで川島芳子、笑って、泣かないから皆に叱られた。

T  男装の麗人と言われているけど、男と関係持てなかった、と。

S  青森出身の成田と云う医者が旅順に居て、結婚初夜に抜け無くなった時、彼が後始末したの。

T  奥さんは、あっちで支那語は?

S  これは、それ程…。 僕は一番安い部屋で一番安い飯喰って、五人の個人教授(大学の先生)に全部金を掛けて雇い、支那語勉強した。 満州に来た時は一番ビリだったけど、勉強したので一番出来る様になったよ(北京語の全満の試験委員に就任)。 郷里に帰った時、僕が余りにも痩せていたので皆吃驚していたよ

T  時代が良かったのかも知れないが、気狂いですよ、其れ程の勉強は!

S  女で失敗、ごまかしで勉強した。勉強している時、苦しみ忘れる事出来るから。 彼の頃の鉛筆、 質が悪くて、これが脇でしょっちゅう削ってくれた。それで、一対一で支那語習った。

T  あの正篤先生、ご尊父が正明さんに「青年時代は学問を志したら、青くて痩せていた方が好い。若い内から太っている者に碌な奴はいない」と。そうしたら、お孫さん太っていて。……。

S  中国の事、本で説明を読んでも駄目と実感したの。 何でも体験して学ぶ事にした。死姦とロシアの女兵士以外逃げなかった……。 女の兵隊は三、四人でピストル持って男を攫(さら)って行くの。その代わり、御土産くれる

T  梅毒貰ったら、御土産出ても釣り合いが取れませんね……。 

      ところで、満州国の教育の中で、国語はあったのでしょうか?

S   北京語だ。僕、全満語学検定試験の委員だったの。満州人の国語は無くなってしまった訳です。 今、中国では全部北京語になっている。

T  北京語で「あなたは中国の国語の先生ですか?」は何と言うのですか?

S  アレッ、「国語」って何て言うのかな?

T  じゃ、「国語」と云うのは、ある訳じゃないと。……。でも、考えてみれば上海で喋っている人、北 京では通じ無い。と云う事は、読み方(発音)が違うとすると、大事なのは文字が記号として意味が統一されている、と。

S  発音は違う。文字の意味は非常に拘わっているので、思想が発展しなかった。

T  其処から応用(活用)が出来なかった、と。

S  王陽明になって初めて其処から抜け出した

T  家の娘を今度台湾へ一日か二日体験入学させようと思っています。いわゆる「文字に対する捉え方」が日本と中国では違いますね。 だから、一種のカルチャー・ショックを与えて、中国への理解を深めて欲しい。 これから、中国の政治・経済が大きく変わり、(アジアの)主流になると思いますが、そうした中で日中両国が共通に用いている漢字の意味使いの違いを深く理解しないと困りますからね。

S  中共に成ってから、どのように教えているのかな?

T  文字が簡略化されて、本を買いに行っても全く解りません。

S  あの簡略字、伝統を否定しているから、学者の間で批判が強い。

T  学校の書道の先生に

      「文字の意味使いを教えているのですか?」と訊いたら、

      「此の期間に是だけの文字を教えるので、其の様な余裕は無い」と。之では文字の成り立ち、解りませんよ。

S  僕も、(寶田さんの言ってる)此方が本当だと思うな。

T  小学校へ行って吃驚します。本来、人間が教えるのに、機械的、心太(ところてん)式に執っている訳です。

S  恐らく受験勉強の所為じゃないかな。

T  其れは教える人の人生観とか考え方が表れるのでしょうね。

S  僕、「佐藤慎郎って何だ?」と訊かれて、訳が分からないよ

 

津輕弘前城の秋

 

 

≪豚 児≫ (とんじ)

T  僕が何故小学校(「小学」)に興味が在るかと云うと、今日本の色々な問題が各界で噴出して居ますが、結局小学校の課程六年間で何が行われるかが大問題であり、其処に全ての問題の 根っ子が存在して居ると考えて居るからです。しかも、大部分は官制ですよ。 其れ以降は、「お前ら勝手に勉強せい」ですよ。然う云う意味で同じ儒教圏では如何いう小学校が在るかに関心があります。中国へ行って観たものは、古いものを大事にしていると云う事でした。    

 例えば、年取った先生が休み時間か何かに図書館で勉強して居ました。 社会参加と云うのは、多少の規律を必要とする訳ですが、生徒は(自主的に)筆箱をきちんと揃えていたりする。 一人一人が怠惰に流れる事を自覚的に注意していますね。 「之、執れ!」では無く、自主的に「執って行こう!」と認識(理解)して居る。礼儀を当たり前に執っている。 いちいち校則で執っていませんね。

S  先週出した御礼状にこの様な事、書いた。 僕の弟が中学生の時、ストライキで岩木山に立て籠ったの 。弟は躰が悪くて家で檄文書いた。 父兄も生徒の見方に。結局、赦されて学校と話し合いがついた。校長が講堂で訓辞をしていると、弟が病気を押して壇に上がり、「師団長の子供や校長の子供は、斯の様な事をしても可いのか」云々と。それで、大問題になり、彼らは余所の学校へ転校したの。 父が新聞に謝罪文を書く破目(はめ)になり 「余には不肖な二人の豚児あり」云々と。

  僕、社会に出てから、「豚児とはピッタリしてるな」と思った。 九〇歳になるまで娑婆(しゃば・・世俗)で「長」が付いた事無いが、留置場では確かに「長」(牢名主)付いたよ。三百何人の囚人(勅任官含む)居て差し入れは僕一人だけ。 

  僕、賄賂(わいろ)一銭も使わず、牢名主で自由自在に執った。 死刑囚だけど娑婆と全く同じだった。中学入学時、一九〇余名中、一〇七番の成績。今の感覚から言うと、全然駄目な奴になる。事実、社会では「長」付いた事無いけど、監獄で付いた訳。 看守付か無いで、僕は好きな様に歩いた。老子の「天地に棄物無し」と云う言葉、留置場で「有り難い言葉だなぁ!」と思った僕の様な高等学校へ入れない莫迦(ばか)でも自分の特徴有れば牢名主に成れる。其れ、御礼状に書いた。

 

 

旅順203高地の石 江の島児玉神社 

 

≪満州国崩壊の土壇場≫

T  関東軍は満州国崩壊時に一早く逃げた。学歴有り、地位有り、威張っていた奴が最後の土壇場で逃げて終しまった訳です。ところが一方、先生の様に日本では勉強もしなかった人が満州で一番信頼を集め、戦後は中国問題で歴代の総理から信任されていた。 其処の所が如何に官制の学歴がイザと云う時に全く役に立たなかったと云う事を示しますね

S  佐藤慎一郎は世の中に唯一人、僕に何か有るはず。今の教育じゃ、仕方無く学校に「おいてやる」と云う事でしょう。

T  孟子が「四端を取り戻す」と言ってますね(四端=仁・義・礼・智に進む心の糸口、『孟子』公孫旦)。 食・色・財の三欲で濁るものを除く、あるいは放たれた心(放心)を取り戻すのが学問と。 だから、其処を如何教えるかですね。

S  何とか光さん、機動隊の人(拓大卒)、寶田さんの名前を訊いていたので、名刺渡しておいた。

T (然ういう)勉強会に警察官多いのですよ。……。ところで先生、川島広守さん御存知ですか?

S  川島さん、知ってる。

T  広守さん、今度うちの会にお呼び出来ませんかね?

S  何で知っているかと云うと、当時の僕は(西荻から)赤坂見附へ行く電車賃が無かったので、荻窪の 警察官舎から出勤する柏村長官の車に乗せて貰い、途中で降ろして貰ったの。青梅街道で川島さんも待って居て、ちゃんと乗って来る。僕が長官と同乗しているので川島さん、僕を偉い人だと思ったらしい。それで、知っているの

T  確か川島さん、佐藤内閣か田中内閣の総理秘書官でしたね。……。弧堂忌(安岡正篤氏を偲ぶ会)に何回か行きましたが、川島さん挨拶で安岡先生の「枝葉末節に拘泥(こうでい・・こだわる) するな、多面的に考えろ、将来的に考えろ」(思考の三原則)についてお話されていましたよ。川島さんのご見識、覇気、若いし立派な方ですね。

S  今何を?

T  セ・リーグ(野球機構)の会長です。

S  秦野さん(元警視総監)も居てね

T  神戸の青幇(チンパン・・秘密結社)の件でしょう!

S  秦野さんの自宅と柏村さんの家、ご近所で百メートルと離れていない。……。

 

北京 戒厳令下の小学校

 

≪教 育≫

 T  アッ、今日は開けておいた方が涼しいですよ。躰に良いから。

S  出来無い奴でも棄物無しだよ。

T  各小学校で入学時、父母に小学校(「小学」)の根本を説明すれば好い。   あの学校(お茶の水附属中)は国家の教育の試験台(所謂実験校)、親も公意の為、優秀な先生のところに子供を送り込むなら、将来の社会に役立つ様な現実の提言を出さないとね 。親が公立に通わせながら、ミーティングで個々の問題(進学問題など)でしょう 。末節の話しかしない。 僕らは子供の頃、「世の中の人の為に勉強するんだ」と能く言われたものでしたが。

S  「分」忘れて、「自」だけだ。

T  今の人、人に役立つ事が損する事だと考えている。

S  人の役に立つ為、特徴を育てるのが教育だよ

T  皆一律に「ハイ、どうぞ」じゃ、大して人間性は出て来ない。

S  今、受験だもの。

T  其の受験がね、何の為の受験か判らなくなっている。能く退職問題に「果たして俺の人生、何だったのかな?」と、自問自答する人がいる。其れ位だったら現役の頃に自覚しろって。先生は自然にしていらっしゃるが、一般の方は生を貪っている。如何なるか判らんでも一瞬で終っちゃいますよ。北京(天安門事件)へ行った時もそうでした・・・・・・。

S  満州建国の一番偉い奴が盗みをやる。本当の修養と偽物の修養、土壇場にならんと判らん

T  馬賊の親分が粛として死にますね。其の死生観が学問ですね。

S  僕、死んでも戒名も何も要らない、と子供に喋っている。……。僕、三階まで上がると苦しくて仕 様がない。此方(モト様)は全く衰え無い。僕、コロッと死ぬよ。

T  でも先生、本当に死にそうな人はそんな事喋らないですよ。……。僕ら、年のジェラシーって有りますね。もう一度彼の様な勉強をしたいとか。……。

 

 馬賊の頭目 白氏 1989北京

 

 

≪安岡正篤氏との出会い≫

S  何処だったかな、東京駅の近くで宴会あってね、中華料理食べながら、僕、Y談やったわけです。安岡先生、その事(中国の実社会)知らない。宴会済んで、皆と別れて安岡(正篤)先生に挨拶した。 講義の時は一番前に座った。勉強できない奴が先生の前に座るという学生時代からの癖がついていて、安岡先生の時も早く来て一番前に座った。

M  場所は何処ですか?

T  虎ノ門の教育会館…、アッ、東京駅の前なら工業倶楽部か。

S   学生を連れて長野の全国大会に行った事もあるけど、安岡先生、僕の講義必ずお聞きになる。講義が 済んで八時頃から一杯飲む。 皆、安岡先生の講義を緊張して拝聴するけど、僕の咄、飲みながらバンバン。僕のは学問じゃなくて中国体験だけですから、安岡先生も非常に喜んでお聴きになる。事務の方から、「佐藤先生、十二時までに止めてくれませんか」と注意された事がある。安岡先生は、中国でも孔子が尊敬されていると思っている。 孔子は立派だけど中国では誰も拝んでない。観光に訪れるだけだよ。

漢の武帝の時代、国教にした為、民衆は誰も尊敬していない。 中国に二十二、三年いたけど、一番不愉快だったのは孔子廟に行った時だ。 泥棒と同じ。孔子に徳を取られて、あそこへ行って碌な事ない。 何処行っても危険感じた事ないのに、孔子廟では、野原で一日中監禁された。 北京で四年程勉強したけど、向こうで一番悪いのは孔・孟の先生なのです。 

例えば僕が習った論語の個人教授(某大学の先生)は論語の勉強中、金儲け教える。「僕の友人のお父さんの誕生会に招かれたのですが、何か持って行くべきでしょうか?」と訊いたら、

     「どんな関係だ?」

     「ただ日本への留学の世話をしただけです。」

     「そんなら、ただで行けばいいだろう」と。

    その時、家のおばあちゃん、お腹大きくして部屋に入って来たの。すると、

     「呼んでくれた人、何してるの?」

      「冀(キ)東銀行の頭取しています」

      「エッ!冀東銀行の頭取。只で行っちゃいかん。そういう人にはきちんと礼を尽くさなくては。エッ?  金なんか心配要らん。僕出してやる。貸してやるから

     「返す金有りませんよ」

     「いやいや、後一、二ヶ月で奥さん赤ちゃん産むだろう?すると、三、四倍になって帰って来る。」と。とにかく、そういう儲ける方法ばっか教えるの。これ、某大学の偉い論語の先生だよ。

T  解釈と応用の仕方が違う。日本と中国では似て非なるもの。同じと考えるのは錯覚

S  中国人は、孔子を尊敬していると云う感覚は駄目だよ。仁(人情)は、中国では賄賂の事。だから、中国人は賄賂の事を「人情を贈る」と言っている。

M  成る程ね。

S  宦官七、八名調べて、オチンチン無いの一人だけ。大阪で講演したら、或る学者が「その当事の清朝では既に宦官が禁止され、募集してない」と。だけど、宮中で亡くなった宦官の名で宮中に入り込み、務めている訳です

M  溥儀さんの頃の話ですか?私、愛新覚羅一家について興味あるので、ずっと前から本を読んでいました。

T  この間来た門脇君(門田隆将)、能く溥傑さんに会っています。

S  溥傑さん、中々感じの良い人ですね。だけど溥儀って莫迦だよ。

M  今度『溥儀日記』出ましたが。

S  あれ連れて来たのは工藤忠。僕の父の生徒。 関東軍が溥儀を連れ戻そうとしたけど、誰が来ても      動かないの。 工藤忠に頼まれたので動いた訳です。営口に着いたら甘粕が迎えに出た。 道口市の温泉に泊まったが、その時

     「許可なしに人と会ってはいかん」

      など、三ヶ条を突きつけたので、その晩、溥儀は

     「天津に帰る!」

      と言って、もの凄く暴れたの。此処に工藤さんのお話を録音したテープある…。 関東軍の発表全て嘘です。内情は工藤忠さんから聞いている。

  

 ある日の郷学研修会

下中邦彦(平凡社) 安岡正明  筆者  卜部御用掛

 

≪郷学とその学び方≫             M・・・長野在 郷学同人

T  爽やかな気分で人間らしくね。郷学をね、長野で心ある人々を集めてやるんですよ。基本的に正篤先生の教えを学ぶ一方で郷土のダイナミックな動きを掘り起こす。 それを心構えで考えるとちょっと…。

S  是非、おやりになって下さい。 長野から青森へ「林檎の作り方、教えて欲しい。」と言ってきた時、弘前、樹木の外崎(トノサキ)と云う男が、全県反対の中「馬鹿言え、こんな良いもの教えてやれ」と押し切り、長野まで行って教えたのす…。    

僕の祖父さん、ニ五歳の時、西郷のとこで勉強して、東奥義塾と云う学校を開いたの。 アメリカ人夫婦を先生にしたのが明治五年です。 例の工藤忠は義塾の生徒です。 三代目に来たアメリカ人のイング先生がクリスマス前、職員にニ、三個ずつ呉れたのが林檎です。 今までの青森の林檎とは味も格好も違う。初めは発芽方法が解らなかったけど、留学生が林檎持って帰って来て、お祖父ちゃんの庭に植えて初めて実になった。 それが青森の林檎になった訳です

M  私もその話、聞いてます。

T  その卒業生が陸羯南とか珍田捨巳です。 明治天皇の東北行幸の時、東奥義塾の生徒達は英語の歌で迎えたと言う。 ここからは、山田兄弟など素晴らしい人材が出ている。 だから、単に現実の経済人を集めてと云う事ではなく、若い者に考え方を転回させると云う教育が必要です。

S  とにかく、殿様が亡くなり、何も無い青森県をこれからどうするか、と云う時、九郎爺ちゃん(菊池九郎)は

     「人間がおるじゃないか!」

      と言って、それで学校を造ったのです。

T  アメリカ人教師の月給は日本人の何倍位?

S  三〇倍だよ!

M  今、青森でも、コンピューターの米人技師を年俸二千万円以上の高給でスカウトしていますよ。  冷戦終結依頼、国防省で余った人材をニ〇名程、招聘していますよ。いわば、津軽の林檎の現代版ですか

T  これからの問題ですが、今集まっているそれなりの人々を賛助者にして、ハイテクばかりを勉強している若い人に、そういう場面を提供する事が良いですね。

M  分かります。十四日に幹事会を開いて、正明(長野銀行会長 安岡正明)さんにお願いして、今やらねばならない事を力一杯やって行こうと思っています。 それで、レベルが判ります。 安岡正篤先生の様に歴代の首相達が困ったときにどうすれば可いか訊きに行ったのは、細かな内容では無く、基本的な考え方を訊きに行った訳です。 以前、寶田さんからそうお伺いしています。

S  僕、その土地には土地の何かが在ると思う。 孔子の言葉に「仁者は山を愛する、知者は海を愛する」と云うのがあるけど、長野でなければ出来ないものを育てるのが郷学だと思う。

M  人生上で自分の行って来た事に何か不足を感じています。

T  自己分析ですか。

M  信州人、山国の人間だから或る程度まで行くと「分」が解っちゃう。 高速道路も新幹線も無いし、一定の所まで行くと、「ああ、これまで」と感じちゃう。

T  宿命を活かすのは、立命だと思います。怠惰からの脱却です

S  結論は、自ずから立ち上がるしか無い、と云う事です

M  だけど、やはり杖も無ければ何も無い。 私が在るだけ。十年間、正篤先生の本を六〇冊読んだり、テープを聴いたりしたけど「それやったのは何だったのか?」と。この前、寶田さんに言われた事、うんと悩んで帰ったの。 正篤先生を勉強して会員を善導したいと思って、会合やってもマスターベーション(自己満足)に過ぎない。それで、正明先生を御推戴申し上げる事にした訳です。私は仕掛け人で可い。

T  増田さん、今一番楽しい盛りですね。 僕、無学で難しい本読めませんから。安岡先生の本読んで、僕なりに会得したもの有りますが、佐藤先生の学問は体験学だから、同じ体験をしようじゃないか、と。それで、中共や台湾へ行ったり、弘前へ行ったりしている訳です。 こういう方がどういう環境でどういう勉強をして、こういう人物になったかについて、僕は興味が有ります。

M  寶田さんが、佐藤先生の生き様と同じ足跡を歩んでみようと?

T  まあ、無理だとは思いますが。 正明さんの「父を知らなければ、解らない部分ありますよ。」と、云うのは、此処の部分ですよ。

M  正明さんの頭脳、お借りして、流して戴かないと。

T  いつも垂れ流していますよ。

M  この会やるについて、家族に相談し、どうしてもやりたいと決心して、安岡(正明)先生と会員の間を往復しています。 良い会にするその心は何か。 正明さんにも解って戴いて。

T  生真面目に作ると、会というのは形の上で頭と尻尾(シッポ)、規約という事になりますが、やって行く中でその方々が自然に作って行くという方が・・・誘導する部分は在りますが、やっぱり嫋やかに、時間は掛かるけど、それでも可いと思う。

M  ただ、正明氏と私でも底辺のきちんとしたもの(関係)持たないといけない、と思う。 彼も必ず死ぬし、もったい無いから、勉強の時に彼の考え入れて貰えば有り難い訳です…。 私、善導して貰った方が早いなと。命令まで出て来ればベスト。

T  それは、難しいでしょうね。私、正篤先生から一言「郷学を興しなさい。」と、言われただけです

 

新京にて報告会

 

 

≪酔譚四方山≫                 M・・・・某通信社記者 中国駐

S  僕はナンボ騙(だま)されても、だまされたとおもわない やっぱり僕、中国人の小学校の先生をしたお陰で子どもがとても可愛かったからね それで子供が好きだからねぇ

M  今の中国の人民共和国になって全然変ってきましたね

T  あのー 中国人は変らないでしょう 共産主義なんていうのは中国思想に吸収されてしまいますよもうーないですよ 毛沢東も何も知らないですよ 毛主席の先生が僕に直接言った 毛主席は共産思想なんて何も知らないと、この先生 悪い奴で 僕のいないとき金かっぱらって逃げてしまった

T  その方が書いてくれた文章でしょ あの意味 解りましたか

S  いまね中国人に聞いてやっている。でも返事が来ない 解らないって

      (電話が入る モト婦人は元気な声で応答している)

T  日本人って錯覚することが多いのではないかな お婆ちゃん これりんごジュース

M  いゃ お元気ですね

T  お婆ちゃん あそこ閉めておいで (先生とモト婦人大笑い)

M  南方の方と北方の方と全然違いますか (宝田に問う)

T  僕はよく分からないが先生から色々なお話を聞いているので確かに違うが、一人の人間の二面性がありますね 環境も人をつくりますね かといって北方が義理堅くて、南方が商売上手だけとは当てはまらない

S  結論は出さないほうがよいね  あまり分析すると人間は面白くなくなる

T  本にはその通りしか書いていないので・・ そうおもってしまう

      この間 正明さんが(安岡正明)我何人(ワレナニビト)という研修をしたんです

      自己紹介では経歴や附属性紹介が多いようですが、そのような表層の表現ではなく自身を紹介してください、と言ったところ誰もできない

S  それは出来ないよ

T  ところが出た内容は想い出ですよ ところが童子は集積されたものはないですよね だから子供のほうが自己表現が簡潔だし明確です。それで譬え表現で苗さんの奥さんが語ったことを言ったんです

(張学良率いる東北軍顧問 一高帝大卒 高等文官試験合格 周恩来と仲がよい 西安事件の真の首謀者

    「 苗さんは自分を探すために一生忙しく動き回っていました・・」と、これだけ理解する女房がいたら、憂いなく革命に没頭できますよね

  苗剣秋氏

1988 台北 苗夫人と著者

 

S  ありがたいね

T  そのあと正明さんが「自分をあまり分析してはいけない」と、そして「現象ばかり追いかけてはいけない」 そして、「父の周りには多くの政財界人が集まり孔孟をはじめとする古典に添っていたが、すぐ飽きて商売の話をしているその人たちは単に父と同席したとか、教えを享けたと宣伝しているが、本人にとっては何の学問になっていない

   こんなことも言っていた、「国立劇場の理事をしていたときご婦人に歌舞伎の何たるかを教養として学び、そのあとで観賞することになっていた 最初は興味深く聞いていたが、いざ観賞の段になったら多くの女性は居眠りをしていた 教養好きもいいが・・・」と嘆いていました。中国についても日本で学んだことは現地に行ったら忘れることですよ 赤い血が流れているところへ行くのだから、分析以前に自分自身を知っていくことですよ

M  始めて行くときは微にいり細に入り書いてある本を読んでみたりで、頭の中にいっぱい入っているんですよね

S  僕はねぇ クレオソートだけは必ずもって行きます

T  それと大切なことは民間外交のつもりで行かないと。 それは仕事でも観光でも一緒です そのためには無国籍な鷹揚(オウヨウ)さではなく、日本人の残像を抱いていなければならない

M  中国だけではなく、世界各国の場合も同様ですよね 国を語ったり政治を話すことより、自身を語らなければならない どこへ行っても評価を互いに得ることですから人間外交そのものです

T  向こうの礼儀に反しているかもしれないが日本人として行けばいい 誠心誠意は分かる

M  はじめてですからアレを見て、これを買って、とそればかり頭に浮かんでしまう

T  僕ははじめからアノ天安門事件の百万人デモですから観光どころではないですよ でも自分の一生を左右する体験でしたね やはり人情を感じてくるものですね

M  いまから楽しみですよ

T  心配しないで行ったほうがいい。 ただ旅行団ならいいが単独なら注意することがある。僕は中国歩いて心配したことは一遍もない

M  本に書いてあることを確認することでもあるんです

T  ただ、評価の価値の置き所を注意しなければならない 遅れているとか汚いとかあるけど、それは一過性の現象でしかない人間がいかにダイナミックに生きているか、それを観るのに一番いいのは子供と年寄りを観るといい。  とくに非生産的世代のなかに国家の真のバロメーターがあると認識することです。  そこに歴史も未来もある

S  どこへ・・

M  北京五日間  ユナイテットエアラインです

T  僕もあの事件のとき日本の航空会社はどこも飛んでなくてUAに乗ったんですけど、英語も北京語も全然判らないで盲目の蛇行でしたよ

S  僕も北京に行ったとき北京語も分からなければ買い物も出来なかった だけど却って中国語が早く解るようになったら心配しないで行ったらいい

M  言葉が話せないと、どこまで意思が通じるか心配ですよ

T  喋れなければ、生半可(ナマハンカ…中途半端)喋れないほうがいい それは解らないよりか解ったほうがいい、と言うぐらいなものですよ  表現は文字も表情も言葉も態度もある 言葉はその内の一つだ 中国では北京と上海では言葉は通じない 日本語が通じなくても障害ではないですよ 自分は肉体的にも発声できないと思えばいいですよ  もともと発声できなければ北京語を知らないことが恥ずかしいことではない 足がなければ元々無いとおもえばいい、つまり忘却の力だ  住友の新井正明さんもその妙智で乗り越えている

M  どこか遠慮してしまいます そこまでしてもいいのかなとか・・・ これを言ったら失礼になるの かなぁ、とか  やはり先生が仰られた、日本人を探しに行くのかなぁ、と考えればいいですね

T  日本に来る若者が、何着ていこうか、なに見ようか、言葉が心配だ、などと考えないよ  そこに第一歩の共有する価値観がないんだよね

S  五日間か・・・いいねぇ (天井に目をやり思い巡らす)

T  ぼくは短期の場合、日本から飲料水を持っていきますが・・・

 

つづく

イメージは関係サイトより転載 

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師弟酔譚録 「荻窪酔譚」 その二

2015-11-19 18:11:24 | Weblog

 

≪拓殖大学での教育≫

 T  佐藤先生の講義、教室に数百名集まっちゃう。圧倒されませんか?

S  毎年、五、六百名位かな…。海外事業研究所の西郷隆英さん(大西郷の孫)に「どうしても来い!」と嘆願され、初め断ったけど結局行く事にしたの。

   教授会で僕の事、反対され、安い月給(二万円)にされてしまった。

T    内調(内閣調査室)では、毎月三、四〇万円だったでしょう。

S    婆ちゃんに「これでは生活がなぁ…」とこぼしたら、「金の事考えて、教育が出来るのですか!」と怒られてしまった。新しい所長(早大卒)に挨拶したら、「大学を卒た事の無い人は研究の資格が無いからね」と…。(同僚の)野島さんその所長にいじめられてね、あまりに可哀相なので内調を紹介してやった。

T  香港に行ったのはその後ですか?

S  拓大に十七、八年いて、昇給してから行った。

T  「自分が入る前に教室に入ってろ」と言って、能く学生が先生の言う事を聞きましたね!

S  授業だけは僕の生命だから真剣にやった。

T  学生たち、もの凄く緊張したでしょうね。

S  アジア研究所の部長の時、父親が僕の授業受けている四年生を連れて来て、「こ奴は見込み無いので、大学を辞めさせます」と。実は、僕は彼を落第させたのも知らないで、毎日可愛がっていたのだ。

T  此の間、来た方ですか?

S  僕の授業は選択科目だけど、立って聞いてる生徒も居る。生徒の中には、「所長があんなものは授業じゃないと言ってました」と報告して呉れるのも居る。向こうは苛めているつもりだろうが、僕は全く関心無い…。日曜日に学生が来る。これ(モト様)、安い豚肉と野菜で飯喰わせるの。大学(での教員生活)が終わって二十何年経つけど、一杯学生がやって来たよ。

T  何か、そうやって志が少しずつ継承しているのですね。

S  とにかく有り難いです。若い人、育つのを見て嬉しい。

T  人の変化って楽しいですね。勉強会で人が変化するのを見て、嬉しいです。

S  郷学、土地、環境ですね。

T  実は、弘前遊学の事を正明さんへ手紙で書いたら、こう言う返事が来ました…。酒脱面白い人ですよ…。

S  あの陸羯南は本当の新聞記者。今は商売根性ばかりで,思想が無いね

T  正明さん、僕らを凄く大事にしてくれます。本当に有り難い。ご連絡すると、会に出てくれるのです。郷学って地域の問題ですから「安岡先生をお呼びするのは失礼かな?佐藤先生をカラオケ・スナックなんかに連れて行くと怒られるかな」とつい思ってしまう訳です。儒教を知ると直(チョク)になっちゃう。

S  僕、(カラオケ)行きたいよ!……

   孔・孟から入ると中国を誤る。

 

 

≪驚愕する満州事情≫

T  先生、「万人抗」って何人位入るのですか?

S  七、八〇人しか入らない。

T  野垂れ死にした人とかですか?

S  悪い奴等が死ぬ間際に、アヘン吸引許可証を盗って闇に売れば家族養える。

T  「万人抗」ってどんな意味が?

S  十月頃に穴(一〇〇人位収容可)掘って、街の死体の足首に番号の附いたブリキ附けて投げる。だけど、アヘンで眠って死ぬ前に道路の真ん中に捨てておく(家の側に捨てるとその家から文句が来る)。

T  死ぬ直前に追い剥ぎを。

S  死んでから盗ると祟られる、と。

T  死姦もあるそうですね。

S  死姦だけは見に行かなかった。それから、ロシアの女兵士が来たら逃げたよ。皆、梅毒だからね。 此の二つ以外逃げなかった。三、四人でグループを作って、共産党本部へ行った事もある。

M  殺されたら、如何するのよ?

S  大丈夫。本当、逃げた事無い。

T  満州国崩壊時の最後の会議で如何すれば可いか判らず、ウロウロと。満州の民情を掴んで無かったのでしょうか?

S  甘粕さんも居た。その翌々日、自殺したよ。

T  最後の最後で何故判らなかったのですか?

S  名前忘れたけど、図体のでかい参謀総長の所へ、梶園と横山の三人で行って、僕が「方向を示してくれ」と言ったら、「日本の女も悪いよ。ケバケバしいから捕まるのだ」と。公使は「今は唯の避難民であり、私には責任は無い」とほざいた。傍らに居た横山が、「もう一遍言ってみろ、殴り殺してやる!」と物凄い剣幕だった。

 

≪人生はかくのごとく≫

 

T  僕らの世代でさえ、このような事を考えると変わり者なんですよ。……。普通、教師は所謂、直(チョク)と云って「こうせなあかん」と云う教えですよね。ところが、先生は明治生まれなのに強制されませんね。

S  僕、物凄い強情張りだね。中学五年生の頃休み時間に教壇に上がって「孔子は女房追い出してオカマばっかり掘っていた」と書いたら、漢文の菊池ペロー先生に「お前の様な奴は死んでしまえ!」と。「先生、済みません。卒業したら孔子様のお墓に行ってお詫びしますから、赦して下さ い」 「宜しい、赦して上げよう」と。でも、本当に孔子の墓参りに行ったよ。 其処、土匪と同じで三日間生きるか死ぬかの苦しみだった。……。漢文の先生からたった二つだけ習った事覚えている。

①       金見ても欲しいと思うな。やるべき事に真剣になれ。

②       困難にぶつかっても逃げるな。

 これ何かにぶつかるとちゃんと守ってるね。昔の先生、言葉では無く体験を教えている。今の教育、 駄目だよ。言葉を覚えさせ、テストが出来ればパスだ。

T  山田さんは「純コの馬鹿」と言われたり、佐藤先生は「寝小便垂れ」だったりして、或る意味ではドロップ・アウトだけど、それが中国革命に挺身するとは!

M  だけど、お父さん卑怯な事しなかったね。

 

 

≪魔窟潜入≫ (新京大観園)

S  ハルピンの魔窟で淫売婦と一緒に居た事がある。 中国では十二時までは芸者、それ以降は女郎になる。 女、梅毒に冒されているから、何ぼ金呉れても傍へ寄れない。だから、七〇度のお酒を呷っていた。これで魔窟の親分、道徳会の副会長だから大したものだ。そうこうしている内に到頭熱病になって終まった。

M  何でそんな所に泊まったの?

S  仕事で!……。 それで、生命が危ないと云う事で皆が集まって来た訳だけど、僕は「俺、お前に言わないと死ねない事が有る」と二回も吐いたらしい。それから伝染病棟に移って、熱病治ったの。 治ったら、これに詰問されて頭が上がらなくなっただから学生に「お前ら決して熱病にだけはなるなよ」と、処世訓を垂れている。

T  大観園の性技についての解説、書いてありませんね?

S  一人の女房を持て余している男に男女関係のアレ訊いても駄目だめ。僕、話す資格無いよ。ハハ

T  あれだけの資料だから勿体無いですよ。

S  博打に負けない方法知ってるよ、数学的に。川島芳子が大連に賭博場開いていた。そこのチン・ブンカという中国人に習った。

T  大観園のそれ、聴かかなきゃ死に切れない。麻薬、淫売、殺し。日本人は一人も入らなかった、と。

S  満州国の大官(幹部)は皆関係している。終戦時の混乱で、「大観園」の二巻、三巻、持って帰れなかった。

T  一巻だって凄いですよ。写真も凄い!  

S  何時か機会があったら、莫迦ハナシとしてお話します。

T  佐藤先生、百十歳まで生きるって言うから、僕らついて行くのが大変ですよ。今、九〇歳だから僕らの倍ですよ。僕ら、詰まらん人生だと思いますよ。先生みたいな体験無いから。僕ら、異民族の土地で生きた体験無いので日本が解りません。

S  僕、中国人の御蔭で今の僕が在る。…。僕の『選集』に嘘書いてある。相手にご迷惑が掛かるし、事実はもっと悲惨だからね。

T  チベット辺りでも相当悲惨な状況である、とアメリカが調査していますが、表に出て来ない。

S  中国には、殺し方百何種類も在るの、僕が知っているだけでも。

T  あのニコニコした柔らかな民族が、能くそこまで執りますね。直(チョク)な日本や朝鮮なら考えられるけど。二千数百の傷を付けて殺す方法があるらしい(その範囲の傷で殺さないと、傷付けた方が殺られる)。

M  それ、今は無いでしょう。

S  近衛兵、皆人間喰っているのだよ。今度、改めて寶田さんにお話しますよ。

T  中々、遠慮して書きませんね。……。

S  日本人は単純な民族だが、中国人は底の浅い民族じゃない。驚くべき記録があるよ。僕は体験した 事を記録し、それを確かめて書く。……。 

 桑原(寿一 中国問題研究家)さんの書いた「宦官」なんて・・、それが研究者だ。

T  僕、弘前の環境、教育、人物に興味があり、そこを辿りながら、何かを会得し、次世代に継承したい。 社会生活の上でも必ずプラスになると思う。

S  人間、基本がしっかりして無いと駄目。・・・・・・。

      僕の伯父(山田純三郎)、いつも僕を連れて歩いたから、孫文や革命について、山田の子供たちより僕の方が能く知っている。

T  寺のご住職でもそうですが、何も世襲ではなく、解る人がつなげればいい訳でね。

S  僕、伯父が喋った事を全部きちんと記録してから「さよなら」をしたい。

 

 

≪津軽から大陸へ≫

T  山奥の弘前、東北の最北端ですが、新しいものを積極に摂取している。例えば、明治四年、菊池九郎さんは米人教師を招いて、東奥義塾を開いている。あの気持ちを持ったきっかけは何だったのか、当時としては変わり者ですよ。…。余談ですが、僕ら菊池九郎の碑文に背を向けて、おでんで一杯やっていたところ、余所の人から言われて初めて気が付き、ビックリしました。

S  九郎祖父さんに「不言の教え」学んだの。一緒に蚊帳で寝て、寝小便ばかりしていたけど、「慎坊、早く洗って貰えよ」と優しく言われ、一度も叱られた事は無い。

T  昔のお爺さん、善い人いますね。

X  弘前へ冬行ってみたい。

M  私は、東京に来てホッとした。

T  奥さんの居た頃はもっと寒かったでしょう。

S  僕、師範二部を卒て、津軽の南部の山奥の小学校(上市川小学校)に赴任した。これ(モト様)、女学校卒で代用教員だった。八戸の海岸のこれを含めて四人(男二人、女二人)で行って遊んだら、これ一人だけ馘になって終しまったの。僕、憤慨して学校へ行ったところ、校長が学校に出て来ないから職員室ぶち壊した。それで、僕も馘(くび・・退職))。

それで大八車(荷車)に家財や荷物を載せ、これを八戸の実家へ送って行ったの。新ためて、弘前の小学校(朝陽小学校)へ赴任したの。学校に宿直して教えるものだから、生徒と遊んだりする。それで、校長から「君、教師似合わないよ」と言われ、また馘になって終しまった。

   姉の夫(竹内氏)が旅順の民政長官で偉いから、教師の口頼んだら・・・、「支那人の小学校ならある。臭くて汚いから日本人は誰も行かない」との返事が来た。それで、僕は支那語も何も解らなかったけど、満州へ渡ったの。……。

T  先生の北京語えらい綺麗だと言われました。 青森弁はフランス語にも合うそうで。

S  向こうで一番嫌いな女だったけど、枕元歩いただけで腹大きくなってしまった。それで自殺を考えたけど、義兄さん偉いから新聞ダネになったら迷惑を掛けて大変だと思い、義兄さんに、実は、斯く斯くしかじかです、と泣きながらお詫びしたの。そしたら「そんな事、何でも無いよ。北京へ行って勉強しなさい…」と励まされた。死ぬ事しか考えていなかったから、ガクンと来て、急に死ねなくなった。                                             

  「女、怖くて、北京へ行けません」

      「日本に意中の女、居るか?」

      「僕の為に教師を馘になった女が一人居ます」

      「直ぐ、嫁に貰いに行け」

      「僕、お金有りません」と。

  だけど僕が姉に払った食費を姉が貯めていてくれた御蔭で日本へ帰れたの。東京に着いて、彼女(再従姉妹の幸ちゃん)と会うと、「金無くて困っている」と言うから、金みな呉れて終しまった。弘前で、これと結婚した訳だけど、満州へ戻る汽車賃が無い!

M  誰にお金くれてやったの?

S  幸ちゃんに!……。 それで、僕は「三等で可いから二人分の汽車賃を君のお父さんから貰って来なさい」と頼んだら、直ぐ貰って来た。 僕、「女房って、良いものだなあ!」と思ったよ。(皆可々大笑)

東京に着いたら、幸ちゃんが上野を案内してくれた。その時「慎ちゃんの傍で死なせてねえ」と言われたの。これ(モト様)、他の事は忘れても、その言葉だけは能く覚えている。

T  それが運の憑き始めですよ。

S  それで僕、胡麻擂ってる。

M  暇が有れば、生徒と遊んで可愛がるから善い人だと思った。

T  当時、そう言う先生居なかったのですか?

S  僕、数学が解らないし、生徒と遊ぶ事が好きなんだ。

T  正明さん、父(安岡正篤)から教わった事は無い、と。

S  教わらなくとも、「不言の教え」ある訳だ。僕は、「こんな時、九郎祖父ちゃんならこうするなと思って、生きて来た。何も教わらなかったけど。…。    (九郎… 菊池九郎)

T  やっぱ、弘前のあの雰囲気、良かったですか?

S  晩御飯喰べてから、嶽温泉まで一人で歩いて行ったものだ。山(岩木山)に魅かれるのだな。

T  何しろ、あの辺は良い所ですよ。

S  僕ら氏族の子供だから絶対に一銭もお金持たせないの。だから、お腹が空いたら知らない家でご飯喰べさせて貰う。

T  士族は、そうですか!

S  そう、我慢する。

T  貪らない、と。

S  満州から引き上げてから、配給米(雑穀入りの米)で男の子四人、中学校へ通わせた。

      これ(モト様)の母親が、

     「せめて弁当だけでも、白いご飯喰べさせなさい」

      と言っても、これは

     「此の時代では、之で好いのです」と。

      学校で、「佐藤の飯、俺の家では豚の餌だぞぉ!」と言われたようだ。

M  家の子供四人は全部一番。嬉しかった。

S  長男は県知事賞を貰った事がある。これ本当に大した女ですよ。だから僕、これに胡麻擂ってるのだ。…。本当、黒胡麻良いですよ・・?_大蒜も。

 

 

≪陰棗≫いんざお

 

T  棗(なつめ)の実(陰棗・・若い女性の陰部に浸す増精のこと)ばかりじゃ…。 (笑)

S  人生は一回しか無い、と思っている。今、地獄に入る場所でさえ無いですよ。その為には健康第一。 鈴木梅太郎博士(オリザニンの発見)が中国の街で人糞の付いた大根を子供が噛じっているのを観て、「あれで病気にならないはずが無い」と考え、鼠を使って実験した結果、大蒜に殺菌効果が有るのが判ったらしい。それ、頭に在るので、大蒜を喰べる事にしている。

T  胡麻と大蒜(にんにく)ですか。

S  生きてる限り、健康でないと。あらい胡麻煎って、マヨネーズと大蒜入れて擂るの。毛細血管の末 端まで効く様です。

M  だから、加工したものは駄目です。

X  ハイ、分かりました。

S  僕、八九過ぎたけど元気だ。

M  胡麻の御蔭ですよ。

S  大蒜は味噌汁に入れても好いし。

X  焼いて喰べても美味しいですよ。

S  面倒が無いのが好い。胡麻だけは是非一つ。

X  料理も楽しみの一つですね。

S  水を入れると、芽が出ます。生きているもの喰べないと、効かない。だから、洗い胡麻。

T  先生がおっしゃると説得力が有る。

X  安岡(正篤)先生は梅干しの種、割いて中の実を煎じ、蜂蜜を混ぜて飲むのが健康法である、と書いていますね。

T  先生、暴飲暴喰しないし、無駄をしない。

S  自分でやる時はそうじゃ無い。

T  強いのですよ。何でそんなに!

S  昨日、三人来たでしょう。名古屋から一人、千葉から二人。缶ビール十三本飲んた。

T  皆さん、「新京でお世話になった」と、言ってましたが、そういう人、多いですね。

S  僕、家に誰でも連れて来たからね。

X  先生、おつよいですよ。…。

T  (弘前の)写真、之、置いときますから。……。正明さんって、酒脱な方ですが、或る意味でご尊 父より深いですか。

S  本人(正篤氏)の偉さ、息子(正明氏)は判らないかも知れない。

T  普段、家の中で見ているから。…。

S  ご本人を毎回見ているから言葉では言えないんだ。

T  正明さん、「父を知らずしてあの本を読んでも解からないだろう」と、言ってました。

 

 中央 正明氏 右 卜部皇太后御用掛

つづく

コメント
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師弟酔譚録   「荻窪酔譚抜粋」  その一

2015-11-18 19:40:31 | Weblog

 

        処  杉並区荻窪団地 二十三楼 三○一号

        刻  晴雨昼夜不問

 

 「荻窪酔譚」について読感 

国策研究会評議員       村岡聡史

 

 魏の文帝曰く「文章は経国の大業、不朽の盛事なり」

 荻窪酔譚を一読して想起した言葉である。

 実は、私の読後感は之に尽きる。然しながら是では、木で鼻をくくる、に等しい。暫し、私の独言にお付き合い願いたい。

 荻窪酔譚は佐藤慎一郎氏と寶田時雄氏との師弟対談である。(註)

 近代史の中で、このジャンルを物色すれば、まず筆頭に挙げられるのは「海舟座談」(岩波)である。これは衆目の一致するところであろう。

 次に、挙げられるのは「矢次一夫対談集」(サンケイ出版)である。 此の対談集の秀抜は、昭和の怪物と呼ばれた矢次一夫氏と碩学安岡正篤氏との対談である。

 是等に勝る対談集は当分の間、現れないだろうと諦めていたところ、私の周辺の縁を通じて突然、眼前に出現したことに驚いてしまった。 晴天の霹靂とはこのことである。即ち、私の先輩であり、精神的な背骨である寶田時雄氏の下から出現したわけである。

 元はといえば、四年前、私の先輩である大塚壽昭氏(THINK JAPAN主宰)のご紹介で寶田時雄氏に邂逅したという事情が横たわっており、畢竟は道縁であろう。

さて、「荻窪酔譚」であるが、これは資料集めの類である一編の作品ではなく、一個の人格(人間精神の交響楽)である。これを思い得ない人は少々、修行不足というものである。

 敷衍(フエン)すれば、師弟の拍子が絶妙であり、テーマは政治、社会、文化、歴史、人物論等々、広範に及び、対談それ自体が恰も一つのシンフォニーを形成しているということである。

 まさか?と思う人は「論より証拠」とにかくご一読あり。あなたはきっと何かを感じ、人生に一つの光明と感激、そして清涼で力強い世界観、人生観を確保するに違いない。

付言すると本書に収められた抜粋は編集の都合上三分の一程度を抄録したものである。しかも、驚愕すべき近代アジアの裏面史等については、ほぼ完全に割愛されている。たとえば昭和十五年から十六年にかけておこなわれた一連の御前会議における「なぜに北進論が南進に転化したのか、あるいは何故、外部に最高機密が漏れたか」という論点について、巷間いわれているコミンテルン以外の国際機関の指示関与などである。それは全世界を俯瞰した謀の一つの要素として日中戦をとらえ、アジアの反目に恣意的に誘引されたという深層の事実の披瀝になるからである。

 これは筆者の描く本書の一大テーマである「人間考学」の観点とは齟齬をきたすことであり、より難解な問題を提起してしまうことへの配慮でもある。

 いずれ筆者が時の鎮まりのなか、思索と観照の均衡を測って記されることを期待したい。

 心の荒廃が憂慮され、価値判断が混迷している昨今、「人生はどうあるべきか」「自己をどう形成するか」「他者にどう向き合うか」「歴史はなぜ繰り返すのか」という問いに、豊富な啓示を含む『荻窪酔譚』を、多くの人々に読んで頂きたい。

 語るも人、語らせるも人『荻窪酔譚』は真に座談の珠玉である。

 

 

  小会 講義

 筆者 Tと

 

 

 「荻窪酔譚 佐藤慎一郎先生について」

 杉並区の荻窪住宅23楼301号の住人、佐藤慎一郎宅には多くの客人が訪れる。さて、幾人が荻窪南口から経由する団地行きのバスにおもいを乗せたことだろう。文章定かではないが梅里先生(徳川光圀)の碑文にこんな刻文がある

「第宅器物その奇を用せず 有れば有るに随い、無ければなきに任せてまた安如たり」

 書棚に囲まれた部屋に、まるで帰宅するような厚かましさで拝聴する無恥と無学の懇請は、まさに附属性価値を排して、無名で有力であれと諭す佐藤先生と懇意な碩学の言に沿ったものでもあろう。

 はじめは異質、異文化の世界かと伺っていると、浮俗にまみれていた自分に気付く。

 驚くほどに透明感のある率直な欲望を鳥瞰して、そのコントロールの術を自得する人間学の存在を認識する。いわゆる自ずから然りという、自然と人間の同化と循環、そして離反に表われる歴史の栄枯盛衰を 自らが解き明かす(自明)という、吾の存在の明確化という真の学問の探求に他ならない。

不自由な身体を運び、3楼から道路まで見送りに降りる姿は、多くの明治人が醸しだす、いとも自然な実直さを漂わせ、乗車、発車から車影が微かになるまで手を振る姿に車窓が涙でおぼろげになることも屡だった

 酔譚は、「話」という舌の上下ではなく、体験に観た吾そのものを伝える「語り」であり、知識や物珍しさの収穫ではなく、感動と感激の継承という人間を探求して「学んだら行う」学問の勧めだった。もちろん、巷間の学者、研究者の類にその薫りを聴くことはない。

寶 田 時 雄

                                    

                                              

                                                            郷里 弘前

荻窪酔譚 抜粋   

 S・・佐藤慎一郎   M・・モト夫人(後半は・・・W)   

T・・筆者    他・・同行および客人

  新京にて

 

≪孫文の指示で満州工作へ≫

T  こういう事、今まで先生は文字にされていない。ただね・・文字にされているものは誰が見てもいいハナシですね。ところが、例えば山田(叔父、純三郎)さんにしても、貴重な体験の中で文章にすることは危険だし、そばにいた先生がお聞きになった。文章にしてはいないけれど、山田さんは孫文の意思を汲んでいたわけですし、孫文も叔父さんにも伝えているわけです。

S  文章にしたら捕まる。 だから年月日は必ず間違っている。

T  それが学者の研究になると、正確じゃないと駄目だと・・・、それは彼らの特殊な立場ですが・・・・

S  これ、宝田さんに整理して差し上げたいが、さっぱりやれないんだ。 僕、目ばたきするようになった。92だから、だいたい終わりだなぁ、と思う。

T  若い連中、百歳まで生きるといっていますよ・・・

S  できるだけ資料を日本語にして遺します。

T  山田純三郎さんが蒋介石に招かれたとき、「蒋さん、もうそろそろ、孫文先生に命じられて丁仁傑同志と三人で満州工作に行ったときの事を話してもよかろう」といったら、蒋介石が了解したと。その後、山田さんが廖承志(中日友好協会会長)の仲介で毛沢東と山田の会談を図っていますが、山田さんの長男の問題(商行為の逸脱)があって直前に壊れた。山田さんは毛沢東に会って何を話そうとしたのでしょうかね・・・

S  それ、聴いていないんだ。 叔父は余程のことでないと喋らない。

T  蒋介石の了解は・・・・

S  例えばね、台湾に呼ばれて、蒋介石と話しをするとき、僕は傍にはいない。国家の大事は一対一しかないと。叔父は僕をいつも連れ歩いたので聞きかじりで知っているだけだ・・・・

T  山田さん、子供の頃はかなりひ弱な子で剛さが見えないが、そういう人が辛亥革命に挺身した。人間はそこまで変われるものなのですね。

S  アッ! おばあちゃん駄目ですよ。 台所へ立ってはいけません。ここへおいで。ホレ。おみかんでも持ってきて頂戴。

M  はあーい。

 

 奥様

 

 

 蒋介石と山田

 

≪蒋介石と満州工作へ≫

T  山田さんは満州へ国を作りに行ったことは、公に何も話してないですね。

S   僕は何回も聞いているけど。

T   蒋介石は石岡という日本人名で・・・、たしか、二回ほど行っていますよね。

S   一回目は陳其美、戴天仇、山田純三郎      

    二回目は蒋介石、丁仁傑、山田純三郎

    三回目は山田純三郎ただ一人

T   孫文は蒋介石に満州をどうしろと・・・・

S   満州に日中共同の理想国家を築いて日本にロシアの南下を抑えてもらう。自分たち(漢民族)は、万里の長城以南に統一国家を作る。満州理想国家の帽子(領袖)は中国人だけど、経営は日本人にやってもらうと。

T   ということは、張親子(作霖、学良)と蒋介石は対峙することになりますね。

S   一番。嫌なのは張学良なわけだ。

T   それで、例の「爆殺事件」ですか。

S   石原莞爾や孫文の意思は入っていない。

T   蒋介石の意思は入っていないですか・・・・

S   何応欽の自宅で訊いた。蒋介石は「日本が滅んだら中国は駄目になる、中国は日本と戦うべきではない」と。ところが勢は一人歩きする。

T   二律背反なんですね。日本がやられると中国は駄目。

    日本をやらなければ゛中国も問題がある。孫文が言うように、歴史的にみて北が問題なんだ、と。 そこに共産党の入り込む余地があった。

S   万里の長城、アレ、防ぐといった感覚ですね。だからね・・・日本が理想国家作ってロシアを・・・。

    アッ!  おばぁちゃん、ここに座りなさい。おいで・・・・

    やったら駄目。 また今晩苦しむから、やめなさい・・・

M   だいじょうぶ・・・

S  孫文が日本を諦めてソ連に目をつけたのは、叔父によれば、日本が追いやったと。

T  王精衛の傍にいたボロジンが引き込んだ側面も・・・・

S  それもある。二十一か条を突きつけたり、袁世凱や段祺瑞を援けて利権を貰うとか、まるで日本人小さい感覚だよ。 

※ 同様の二十一カ条盟約は孫文、山田、陳其美らによって署名され、秋山真之の起草によるものであり、小池張造、犬塚信太郎も作成関係者であるが、佐藤氏は叔父、山田純三郎から聞いていなかったのだろうか・・・・

 

 

  恵州で亡くなった山田の兄 良政

 

≪三民主義≫

 T  僕、これに興味があるんです。最後は此処(三民主義)でまとまる。「収斂」日本はつまはじきにされる要因を作っている。日本人の関わりを考えると、やっぱり辛亥革命が出てくる。 だから、この人の観かた、合っている。

S  新しいのを出すから端書を書いてくれと。ところが、宝田さんのは、まだやっていないから・・・ (革命の記録さがし)

T  先生。これね・・・こういう考え方、日本人の朝野の人は持っている。僕、最初の「三民主義が中国を統一する」という文字を見て驚愕しました。 僕らのほうはいいですよ。  何れ、ここにたどり着くものですから・・・

S  僕もそう思う。蒋介石を叩いても孫文は叩けない。

T  ですから、李総統が三民主義を掲げていれば、中国は台湾を叩けない。最高のカードが三民主義ですよ。 日本もこれなら賛同できる。

S  孫文が神戸で大アジア主義の演説をやったとき、神戸のオリエンタルホテルに一緒に泊まった。夜中、純三郎伯父が廊下に出たら孫文がウロウロしている。「どうしました?」と聞いたら、「頭山さんベットに始めて寝ているんだ。風邪でもひくといけないから、僕、見回っている。山田さんも見回って下さい」と。これが孫文だよ。    

   天津へ行く前の晩、日本人に頼まれた揮毫をやった。

   最後に「亜細亜復興会」と書いて、「これ、山田君にやる」と。

   これが絶筆となってしまった。

   天津に着いた日に張作霖と会って、その晩、倒れてしまった。

   吉田茂総領事に頼んでコスガという医者が来たが、これが喋ってしまった。 

T  僕が、興味があるのは、良政先生の頌徳碑撰文にある、「この志、東方に嗣ぐものあらんことを」という言葉。 アノ言葉は僕らへの啓示ですよ。

S    石原さんの言葉も台湾迎合ではなく匂いでわかる( 石原・・・在日華僑)三民主義、孫文がこれからの中国に必要なんだと、民族の歴史と性癖を踏まえて理解している。米英から武器と金を貰って反抗の準備ができても、蒋介石は命令を出さない。 側近の何応欽が、なぜ出さないかと、いったら蒋介石は「日中両国が提携しないと両方が駄目になる」と。

「だまされて帰ってきました」とはっきり報告する蒋介石に、日本人(秋山真之、犬塚信太郎)は、蒋介石を「なんて清々しい人物なんだ」と感心している。(孫文の指示で満州工作失敗、)

  良政の墓 弘前市貞昌寺

≪亜細亜復興会≫

S  船上で゜「亜細亜復興会」と書いて純三郎さんにやった。

T  そうゆう会を作れということですか。

S  日中提携して亜細亜の復興をやれと。 孫文の絶筆になったものだ。

T  それ、国父記念館にありますよ。

S  それ書いて翌日、倒れた。

T  この写真に×印をしたのは先生でしょう。これ、正解ですよ。あえて対立や生活水準の優劣比較は孫文の意思ではなく、三民主義の心ではない。もう少しおだやかな心でないと・・・・。国民党、共産党の問題ではなく亜細亜全体の門題ですよ。そういう意味で書いてある本なら、先生、端書をお書きになったらいいですよ。

S  神戸の中山記念館で出すんだって、僕、書くこと無いから孫文の人柄でも書こうと思っている

T  国家間の立場もありますが、多面的、将来的に亜細亜を観ればと・・・・・

S  あれっ・・・何処へいったかなぁ・・・これ、差し上げる。

 

≪毛沢東の先生≫

S  あっ、それから宝田さんから訊かれた詩の意味、紀さん(紀興東)に訊いたけど「よく解らないので、詳しく調べた上でまた連絡する」という紀さんの手紙が来た。

T  あれは、毛沢東の先生が書いたのですよね。

S  そう、忘れちゃったなぁ・・・イ・コゥ・トン・ライ・ハオかな。日本、東から来て気が弱い。 八卦判断本にあるらしいが、僕、みな呉れてしまった。  明の時代の八卦本だ。

T  これ、毛沢東にやろうとした本ですか。

S  忘れちゃったなぁ・・・・

T  安岡先生に訊いておけばよかったですか。

S  安岡先生は解らない。冗談が利かないから。「大観園」の本、某出版社が無断で発表した。その部長が謝りに来て、お金もってきた「要らない」といったら、そのまま帰ったよ。あれ、中国では通用しないハナシなの・・・・。「要らない」というのは、「足りない」ということだ・・・?それで中国では、今度はドカッと、持ってくるわけよ。ぼくは断る。(大笑い)

T  貰わないと悔いが残り、断ると失礼になる。だから、貰っておきましょうと、そのこと戴さんに話したら、「そうなの」と云ってた。

S  賄賂のいらないということは、足りないということ。中国社会を見ているとひどいものだ。 僕、全満州の民生長官(竹内氏)の秘書でしょう。 朝から晩まで賄賂ですよ。

   

  弘前

 

≪人情について≫    (子供四人で助かる)

S  僕ね、日常のこと何でも出来た。 みなが要ること、命がけでやってくれた。

T  あのね・・・馬賊の白さん、モンゴルへ命がけの護衛をしましたが、相当な豪傑ですよね。北京で話しましたが「あぁ そんなこともあったね・・」と、深刻な面は無いんですが、見たらおっかない馬賊の親分。ところが優しい。   

S  役所の規則だと駄目だけど、不法なこと平気でやってくれた。だから、僕が死刑を免れたこと、本では半分も書いていない。学校で生徒に「お前ら自ら墓穴を掘るなよ」と言って飯食っていたけど、手前が自分の墓穴掘るわけだ。

T  何でも、子供が四人たから助かったとか・・・・

S  僕、自分で墓穴掘って、死ぬかなぁと思って可笑しくなったよ。ところが、不思議なことに助かったから、ウロウロしていたよ。

T  海でおぼれて死ぬ寸前で助けられた人は、ホッとして死ぬ人がいる。

S  だけど、中国人の良さ、日本人の考えている良さではなく、本当に自然のアレだね。

T  台湾の人たちも高齢の方は日本人に好意を寄せている。

S  やっぱり、台湾占領時代の日本の教育がよかった。もっとも受験勉強ではないが・・・・・

T  後藤新平、明石元二郎、児玉源太郎

S  伯父から聞いた話だけど、孫文は後藤さんをまったく疑っていない。

T  後藤さんだから信用できたけど、別人ならまったく逆の結果になっていた。 法や組織ではなくヒトですね。

S  日本に大きな思想が無いしね。

 

 児玉源太郎 氏

≪蒋経国  蔣蒋緯国≫         経と緯に託す

T  大体、台湾省というのは可笑しいですね。理屈は中華民国台湾省ですが・・・・。運動会で使うといって日本で作った旗「革命党旗」を広州にはじめて立てたのは日本の山田良政さんですと、総統宛書簡に書きました。

S  あっ・・・そうですか

T  アメリカで蒋経国さんが狙われたとき、情報を入れてたすけたのが李さんで、以来信頼されて後継者になったと、丘昌河(台湾実業家 大同学院生徒)さんが言っていました。

S  蒋緯国さんは、何をやっているんだろう。

T  遠ざけられてしまったらしい。たしか軍のほうですね。

S  緯国さんはたいした美男子だ。外務省近くの旭館の女中さんの子だ。

   戴天仇の子だ。 蒋緯国さんは、お母さんに会わせてくれと山田の家に来たが、すでに亡くなっていた。生まれた子は伯父が預かって、蒋介石の子ということにした。 蒋経国のお母さんは日本の爆撃で亡くなった。緯国さん、あまり政治的な動きはしないからね。

T  人格のある人ですね。

S  うむ・・・      

  竹内民生長官 妻は佐藤の姉

 

≪満 州≫    I・・   国際善隣協会某氏

I  維新で国家社会主義の地盤が造られた。 満鉄の経済は国家社会主義的です。 そこに岸信介がドイツの統制経済を観て、「自由主義じゃ駄目だ。社会目的に適った計画経済でないと駄目だ」と考えて、 彼が満州経済(国家社会主義的な統制経済)を作った訳です。 岸信介、出来物ですが成功の直前、関東軍にやられた。 最近読んだ本で『超官僚』(小林英夫・徳間書店)と云う本、岸信介・宮崎正義・石原莞爾の三者による経済統制をテーマに扱っており、これ良い本ですよ。   牧民官の動きと経済の動き …。

T  気概を持った若手官僚や浪人達がいたと云う事があの成功の根本だと思う。やっぱり人間教育ですよ。

S  満州から留学生や共産党員が僕の家に来るけど、「お父さん達、どうしてる?」と訊くと、「偽満州国が一番良かった、と言ってます」と答えているよ。

I  十年位前、満州へ大同学院の同窓生が旅行した。 現地では自由行動。その時、元副県長だった人が、現地での待遇を心配していたら、皆歓待された。「この県長が帰って来てくれた!」と。大同学院の牧民官の政治は間違っていなかった、と私は感心した訳です。

S  中共政府は日本の悪い事、組織的に徹底調査しています。 これは偽満州社会、抗日救国、経済の略奪…。

I  これ、最近のやつでしょう。

S  偽満州国の日本の人物を計画的、組織的に調べている。 感情的でなく、何時、何処で、誰が何で殺した、と書いてある。 だからね、僕は死ぬ間際に悩んでいる。

I  あの、私はあと六年間で大同と終りになりますが、大同学院卒の人が県に入って仕事(善政)をした、その牧民官の歴史を取り上げたいのです。

S  関東軍や政府のやった悪い事、全て書いてある。

I  善い事は?

S  一つも書いてない! 中共は満州の事、すべて暴露しますよ。 日本でも組織的に対抗しないと太刀打ち出来ない。必ず何千億も取られるよ。

I  だけど善い事やった事もあるでしょうし…。 在満日本人の時世(治世?)十三年の歴史をきちんと遺しておきたい。 百年先の将来に備えて、満州関係の書籍、資料等々を(国際)善隣協会に持って行くと云う大きな仕事がある。ところが、これに億単位の金がかかる訳です。

T  そういう善政をした方々の志を思うと、今の人間とどう違うのですか?

I  やっぱり、教育の違いでしょうね。私は満州生まれですが、東大でてますから、どこの会社でも行けるのに、僕は満州へ行って、国家社会主義的な計画経済で理想社会を建設したいと思っていた。今は、教育の中にそういう哲学は無い。

T  明治天皇の『聖諭記』に戻って考えると、「東大には知識・技術の学問は有るけれども、身を修める学問が無いではないか。江戸時代以来の藩校や塾で学んだ重臣(維新の元勲達)がいるから今は未だ良いけれども、果たして西の知識や技術だけを詰め込んだ学校秀才が国家の礎になり得るだろうか?」と、陛下は心配して側近の元田永孚に喩している。これが「教育勅語」につながった訳ですね。藩校や塾にしても素晴らしいものが有って、そういう実績を辿ってみると、日本人に一番合った教育の仕方ではないか、と。

I  江戸時代には藩校や塾で一対一の教育やっていた訳です。 例えば『言志四録』を著わした佐藤一斎などが有名ですが、そういう地盤の上に維新が断行され、明治時代になって国家目的(富国強兵・殖産興業)の為に計画経済が採用され、若手がどんどん採用された。 今、(志が)無いとすれば戦後教育だと思うな。

T  安岡先生から「郷学興しなさい」と。それでやっとやっています。

S  それで、日本人は中国というと直ぐ孔子、孟子だと言うけど、これ間違っている…。 

   中国で儒学というと、宋の朱子学の時代に一番栄えたけど、蒙古が来たら直ぐ潰れて終まった。社会の中で身分を十等分に分けて、儒者は何番か?八番目の淫売婦の次の九番目!十番目は乞食。これ、「九儒十丐(べん)」と云って、南宋の有名な学者であるシャホウトクが書いている。

T  「臭九老」ってありますね。あれは毛沢東が言ったらしいが、あれと同じですね。

S  魯迅、中国では王道なんて無い、とはっきり書いている。儒教というと日本では安岡(正篤)先生が中心になるけど…、中国の孔子廟、観光に来るだけで拝んでいる奴一人もいない。 道教の方は一所懸命に拝んでいるけど。あれ、封建制度を支えるのに一番都合が好いから国教になった。孔子は「仁」を強調したけど、「孔子三世、妻を追い出す」とちゃんと書いてある。

I  ちょっと頭が狂って来るなぁ…。

T  日本と中国、似て非なる国ですよ。 その感覚間違えると、政治を間違えますね。

S  満州の話よりも、日本人の錯覚をお話したい。僕は、中国人はこう考えていますよ、と思って書いた訳です。 向こうに孔子様持って行ったって駄目なんだ。向こうは古海忠之(満州国総務庁次長)の五ヵ年計画は経済略奪だ、と意図的に書いてあるの。 だから、必ず何千億の賠償やられますよ。   而も、満州国の善政知っている満州人達もドンドン亡くなる。

T  満州国の最後の会議で勅任官がうろたえますが、満州人を理解してないからですよ。

     ※ 敗戦後の対応に甘粕をはじめとする重臣は難渋した。佐藤君を呼ぼうということになった。佐藤は「満州のことは満州の人たちに任せなさい」と、在るべき姿、当然過ぎることを厳示した。

 

S  関東軍に文句言ったけどまるで駄目だし、日本人会は日本の女集めて中共やソ連にやったりするのに、僕ら戦犯扱いで監獄に入っても(実際は大部分の人は無実)、差し入れ一切無いよ!こんな事、実際発表できない。

I  外交的に弱いので、叩けば金取れると云う事でやられている。 ソ連の(シベリア)抑留者六〇万人のうち十万人も亡くなっているのに、これ如何するかについて日本人何も言わない。 日本人の被害については大袈裟に喧伝されるが、日本人の被害については誰も喧伝しない。 ニ、三日前、立花隆君がカシキと云う画家の辿ったソビエト抑留の状態を(映画で)質していたが、あれ、本当に酷いもんだね。

S  中共の資料だけが残ってしまう。

T  日本では僕らの世代でさえ、こういう話を面倒だと言って聞こうとしない。ところが、他の国ではちゃんと教えてますよ。 こうなると、無国籍状態で何も遺っていかない。

I  僕の家庭でもそういう話はしない。

T  何故ですか?

I  僕ら大正生まれは、論語などを金科玉条にしておったのに、八月十五日を境に価値観が引っ繰り返って、自信喪失してしまった。 明治世代は「負けるものか!」と云う気骨があったが、大正生まれの我々は自由主義、理想主義と云う雰囲気(大正デモクラシー)の中で育ったから、その点でやや劣っていたのではないか。 戦後は、唯ガムシャラに働くだけで、学校ではマルキスト教育による混乱の場と化してしまった訳です。 ここらでもう一遍日本を立て直す時期にきてますね。

T  安岡先生、「財、名誉、地位などの附属性価値で人間を観たら錯覚を起こす」と、言ってます。例えば、東京府長の後藤新平と東京都知事の青島さんとでは、地位こそ同じですが、人物の信用度と云う点でまるで違います。 やっぱり、根本は人間ですよ。正明さんが能くおっしゃる。「親父(安岡正篤氏)の家に総理から浪人まで色々な人が来たけど、皆同じ様に扱ったので、僕は大蔵省に入った時、地位などに何の思いも抱かなかった。」と。

I  これを機会に此処に仲間連れて来て、あなたの会と一緒になって、先生の話を聞き、出来るだけ録音続けて最終的に体系づけたい。

 

 

 

≪人 物≫

S  民族自体が残っていない。 溥儀を誉めた中国人は一人も聞いた事無い。彼を誉めたのは工藤忠一人だけ。 彼は自分の民族を滅ぼした事、全く解ってない。

T  大観園の親爺は「一姓の滅亡に過ぎない」と。確かに、その通りですね…。この考え方は儒教ではなく道教思想ですね。

S  中国では儒教はそれ程のもの(ステイタス)では無い。「九儒十丐」と言ったのは、朱子学が全盛であった宋(南宋)の時代の有名な学者だった謝枋得ですよ。だから、日本人が「孔子様、孟子様」と考えているのとは全く訳が違うの。

T  確かに、学者に地位(ステイタス)を与えると云うのは中国には無いですね。

S  日本では、教育が良かったから、特に女性が立派だったから維新が成功した…。 あのね、「熱海の海岸散歩して…」の貫一とお宮のハナシを若い人に話しても、(彼らには)意味が解らないの。

I  まあ、今の若い人にはそうでそうね。

S  此処にお巡りさん来てね、こんな事話した。 女子高生が学校の帰りに五千円でここ写させるんだって。そして飯喰いに行くんだって。彼女達何とも思わないらしい。 もう酷い状態になっている。やっぱり、教育がなぁ~…。

 

 

 

≪満州国の財産≫

S  あの、報徳会館の財産だけど、あれ元々は満州国の財産なの。 孫文革命の拠点として(会館が)必要だからと云うので、蒋介石から大使館へ「その件は山田先生に任せなさい」と云う連絡が来たの。ところが大使館から協会へ交渉に行くと、何ぼか金くれてやってね、慌てて三井不動産に売却した。それ聞きつけた(協会の)田村は賄賂取って女(再従姉妹の幸ちゃん)こしらえたらしい。 それで、桂太郎が公文書を…。

T  先生!太郎ではない、桂公使です。

S  その桂公使がね、公文書を偽造して、終戦前に日本に売った事にした。 国際裁判が始まると、桂公使(戦犯容疑者)は伯父に土下座して「私がやりました。助けて下さい。」と言ったらしい。 だから、あれ本当は満州国の財産なんだ。

I  坂東さんの編集した『五〇年史』、それ抜けている。

T  その時に、五十嵐さん、笠木さんが番頭の江戸英雄(三井不動産)に会いに行ってる。そのとき同席したのが大森曹玄(禅僧)で全生庵に居る。 其処には、中曽根さん(首相)や四元義隆氏も行っています。皆、三井の関係で繫がっていますね。

S  だから、知らないのは日本人だけ。 とにかく、異民族と共に生きるアレ(政治、教育)やって欲しいのだ。

T  でも(桂公使の件などは)書ける咄じゃないですね。

I  日本は島国の人間で、歴史的に訓練してないから単純であって、好く言えば正直だ…。 それじゃ、これで。出席できなくて申し訳ありません。

S  いや、本当に有難うございました。

 

≪食・色、財への同化≫

T  満州族は漢民族に同化されて終まった。日本も同化される恐れがある。食・色・財の三欲そのまま従順になってしまう。

S  漢民族は日本人の様に単純じゃない。考え方が、怖ろしい民族だ。

T  日本の地方が都市的考え方に同化されて地方が無くなってしまう。

S  だから郷学が必要なんだ…。青森県人、本当に悪い。小金持ちの感覚になっている。

M  今、大体のところ金で決する様になってしまった。

T  金儲けや権力は大きい程、人の為に活用するならば良い。お金を潤いとして考えれば可い。活用の仕方が善ければ決して卑しいものではない。

M  安岡(正明)会長、「目先を考えて長期を考えない。少し、崇高な気持ちが薄れている」と。

 

 

  拓本採取

 

≪貞昌寺と拓本≫  国父記念館に贈呈

 

T  結構良いでしょう。之を向こうで何と言うかでしょうね。でも、折角採れたものだから。未だに水気がね。あとでタンポで叩いても可いですね。

S  僕、昨夜ひっくり返って腰が痛くて。巧いもんだな。時間、掛かったでしょう?

T  拓本(貞昌寺の良政、純三郎の頌徳碑)を採るのに丸一日、朝九時から暗くなる五時頃まで掛かりました。最初のうちニ、三枚は失敗するの。結構良い紙で表装して貰ったの。もう覚えたから幾らでも採れますよ。昔、書道部で二年くらいやったのを憶い出してね。

S  是、額を附けると相当金が掛かるでしょう?寶田さんが保存していたら・・・、とにかく大したもんだ!

T  また採って来ますよ。    (その後、台北国父記念館に贈呈)

M  如何したの?

S  あの、寶田さん弘前へ行って下さったの。

T  これ鈴木さんで、これが貞昌寺の奥様と住職さん。

S  僕、今動けないのだ。

T  腰は何で?…転んだのですか?

S  朝、散歩して転んだの。昨日二時頃、名古屋から二人、千葉から一人来てビール飲み過ぎてね。

M  注ぎましょうか?

X  アッ、やります、やります・・・・、良い所ですね、弘前は。

S  国際性の無い日本は滅びる。今の弘前は駄目だよ。林檎で儲ける事ばかり考えて。憂える人,鈴木(忠雄)さんや原子昭三さんぐらいだ。

   僕の祖父さん、25歳の時に東京からアメリカ人夫妻の教師を弘前に連れてきて、東奥義塾を作ったの。明治十七年、アメリカに留学した。今の人とは志が違うよ。だけど今の東奥義塾は駄目。良い学校、良い会社に入れ、だ。全く思想が無くなった。講演して歩こうと思ったが向こうで相手にしないの…。

 僕、九郎祖父さんと同じ蚊帳に寝て、寝小便やったけど,何も叱られなかった。ああいう人、いなくなった…。三代目のイング先生、クリスマスに林檎二、三個ずつ職員に与えた。その種を植えても発芽しなかった。それで、留学生が米国から日本へ帰る時、「インド林檎」の苗を持って来て、九郎祖父ちゃんの家の庭に植えたら、初めて実になったの。これが青森の林檎だ。

長野で「林檎の作り方、教えて欲しい」と言って来た時、県民全部の反対を押し切り、一人で長野へ行って教えたのは外崎だ。其の子供が僕と同級生で、弘前で飯喰う方法が無いとき、「家へ来い!」と言って無料(ただ)泊めてくれたよ。弘前生まれだから、弘前の悪口言いたく無ないけど今の東奥日報(初代社長は菊池九郎氏)、如何して経営維持して行くかが目標で、志も思想も無くなった。困ったものですよ…。

 

 菊池九郎 氏

 

≪弘 前≫

S  一泊では少し忙しいですね。

T  弘前城の桜、凄いですね!

S  津軽、四〇万石有るよ。十万石って嘘ついてる。だからお城良いもの出来たのでしょう。

X  昼と夜、両方の桜を見ましたが、それぞれ持ち味あって良かったですね。

T  あの写真(見てください)。桜の花が散って、周りがピンクに成っちゃうの…。でも、向こうで若い女性(弘前美人?)に引っ掛かりましてね・・・・

S  ワッ、ハハハ…。

X  岩木山も凄いですね。ホテルの上から朝見えました。

T  八合目まで車で行きました。

X  これ、養生幼稚園の明治三八年に出来た滑り台です。

S  あそこ、伊東重さんがやったのだ。息子の伊藤六十次郎さん、石原莞爾を神様に見ている人。

T  何回かお会いしましたが、今時居ない人。日本人の原点を見る思いです。

S  ソ連の牢獄で書いた本が有るの…。ずっと一本道を歩んだ達人です。少しでも自分と違う人を寄せつけない。頑固で子分が一人も居ないけど。

T  ああ言うお姿が自分の内面に有る人なのですね。

S  伊東さん、石原しか居ない。 こっちの話は全く聞かない。

T  自分の(是迄)遣って来た事が無に成っちゃうからですね。

S  彼、小学校で僕の一級下…。

 

  伊東六十次郎 氏

 石原莞爾 氏

 

以下つづく

コメント
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