野暮な野郎とはつきあいきれない・・
安倍くんの指名なのか、二階氏の押し込みなのか、桜田大臣が立ち往生していた。
国民なにがしの若手議員の質問は「パソコンを操作しているか・・・」云々だが、「パソコンはできない・・」と応えると、「USBメモリーは知っているか」とたたみかけていた。
想い出すのは民主党の管総理が「乗数効果はご存知か」と質問されていた。まるで知識を試すように、薄笑いを浮かべながら若者の議員は質問している。桜田大臣の質問も、゛薄笑い゛嘲笑という部類だ。
テレビの軽薄コメンテーターも首を傾げながら薄笑いを浮かべて、話にならないとばかり嘲っている。浮俗の売文の輩や言論貴族の徒のことだが、人を責める本質が歪んでいるように筆者はみえる。
そもそも議院内閣制は選挙で選出された立法府議員を、これも立法府から選任された総理が選任することで、政府側(行政)に立場が変わり、大臣なり内閣政務に携わることだが、与党の党内事情、とくに派閥事情や世に大臣病と云われるように、名を成し残すことに価値を求めている議員の任命渇望もあるだろう。
なかには、掟なのか習慣なのか礼金や挨拶料として派閥のボスに届けるようだが、任命者からすれば一本釣りによって派閥に手を突っ込む、つまり派閥内で疑心暗鬼にさせる毒まんじゅうと云われる企てもあるのが、それも彼らの人事の効用だ。
桜田大臣もその種の経過を経たのだと思っているものだから、より罵詈雑言に晒されるようだが、仲間からすれば嫉妬もあり、野党からすれば都合の良いサンドバックだ。
ときに優越感さえ感じているようだが、Japaneseの情緒からすれば、双方哀れな選良としてどっちもどっちとしてしか観ていない。まさにギャラが高いドサ廻りの大根役者の立ち振る舞いだ。
粋な人たち
「パソコンできない」に戻るが、゛それがどうした゛というのだろう。
ちなみに菅クンが乗数効果という単語を知らなかったとしても、施政が滞るのだろうか。
予算百万を支出したら、経済効果は一千万、効果が広がれば一億になると役人計算をするのだろうが、大よそは無駄銭になるのは実態を知らない机上の鉛筆効果だからだろう。
説明や言い訳は狡知に長けた彼らの得意技だと庶民は知っている。その意味では桜田大臣の場合は腹話術の人形でしかない。大臣の多くはそのようだ。
菅君が戸惑った乗数効果だが、同じ効果でも役人言語には皆無の例がある。
後藤新平を台湾民生長官として任用した児玉源太郎総督は官吏として変わり者の後藤の他と異なる人物の、その「異」なる部分を認めた登用をした。人物の伸びしろや特異な才能を化外の地といわれた異郷の台湾で活かしている。児玉自身、いずれは総理だと云われた陸軍次官だったが、この危機に俺しかいないとばかり二階級降格し、ガマ坊こと大山巌大将のもと満州派遣軍参謀長に就いている。大山も全幅の信頼をおいて児玉に委ねている。
後藤は着任早々、怠惰な植民地官僚化した日本人官吏を数百人、罷免なり内地召還して、新たに現地の優秀なる人物や、内地から若手の俊英な官吏を登用している。
それは大山が児玉を、児玉が後藤を採用した際の「人物を観る」ことに倣って、本来の官吏の任務目的である不特定多数への普遍的貢献ができる人間を、無名でも醇なる意識如何を基として選任している。くわえて原住民や日本人というこだわりはなかった。
そして「超数的効果」を唱えた。机上の数字選別や効果ではなく、人を観て、人を育て、その人物によって資金や材を有効に用いれば、計算した数値を超えた効果が表れる、つまり総ての基は、目的を遂げる経過において、調和、連帯、忍耐、を共有できる「人間の志」にあると考えたのだ。
余話だが、東日本の被災に際して国民あげて義捐していただいた行為を台湾では「志行」とか「義行」といって世界の華僑と連帯して日本を援助した。被災してすぐにでも必要なのは手持ち金だと現金を用意して来日した。被災地の役所に家族構成人数を尋ねても個人情報で教えてくれない。そこで各戸を回り人数を聴き、一人あたり一万円を配って歩いた。
別に縁があった日本人でもないが、不特定多数に配っている。
募金機関に送ったら手数料や、官吏のいう個人情報云々では、いま困っていることには対応できないことを知っている。どこの国でも組織なり、官が入ると遅滞することを知っている。それは限界のある資金であり全てにいきわたらなくても、今すぐできることを困っている人たちにする、これが台湾の政府とは関係のない無名の台湾人の「義行」なのだ。
その後、放射能問題で近郊五県の農産物の輸入禁止処置をした。台湾の衛生感覚は日本より敏感なのだ。国交のない政府間の交渉はないが、関係窓口を通じて空中戦のように交渉しても禁輸は解けない。政府が何を言っても健康は政府に委ねられない、つまり食のこだわりとしての台湾民主主義なのだ。子供の命は政府には任せられない。
禁輸された側はしびれを切らして生産地ラベルを張り替えて輸出を企てた。怒るのは当然だ。
林農水大臣は「台湾の基準は国際的におかしい」と声明を出したが、要は、価格が高くても、゛真面目な日本人がつくる産品なら゛と購入する台湾国民に偽ラベルを貼っても輸出しようとした日本人に失望したのだ。これは政治問題でなく偽装という刑事事件なのだ。
台北 中山記念小学校 運営は学生自治会
それは政府に云われるまでもなく、国民平均一人一万円、二百億超えの「義捐」を当然のごとく送ったのは日本人への愛顧だということを忘れた、忘恩の徒に成り下がった日本人の行為、つまり後藤が先ず行った防疫によって定着した衛生観念への現代日本人の変質とみたのだ。後藤がいたらもっと厳しい処置を内地(日本)に課したに違いない。
「尽くして欲せず、施して求めず」
児玉や後藤が留意した日本人としての矜持が無くなったゆえの慙愧のおもいが起きたのだ。
標題に戻るが、知らなければ教えてさし上げればいいことだ。
攻める方は「知って教えず、学んで行わず」の数値選別の教育から輩出された徒だが、立場が代われば与野党問わず情理のない嘘論の応酬でしかない。
国民とて、「パソコンできない人が大臣・・・、おかしい」と連呼するが、もともと代議士には資格がいらない。どんな理由でも、手法を用いても当選すれば先生となり、似合わぬ高給担保に加え、さもしくもチマチマした公資金をいかに私物としてするかに狡知を働かせている群れなのだと、賢明な国民は哀れんでいる。
これは嫉妬どころか、俺もやってみたいと考えるような不埒な人間を作り出す模範例となってしまう。なかにはそれを企てて立候補する輩もいるだろう。全国津々浦々の議員と官吏の不祥事は地方創生の謳い文句ですらオボロゲニしてしまう。総てはタックスイーターという税金食いなのだ。
たかだかパソコンができないことだけで大臣の任務に障りがあるのだろうか。
桜田氏は若いころ大工だと広言している。田中角栄総理の家業は馬喰、前職は土建屋だ。
もちろんパソコンもワープロも使ったこともない。
共通していることは作業手順(段取り)の巧みさがある。
工期中に下職(協力工事店ないし職人)を集め、休みもあれは天候不順もある。そのなかで事故、病気、近隣トラブル、など想定外も起きるが、労災も工事保険も完備していない頃には、それでも工期に間に合わせなくてはならない。追加人員、夜業、も加味しなくてはならないが、工期中に仕上げなければ信用もなくなり欠損も出る。順調に進んで思いもかけず利益が出ることもあるが、それが親方の段取りの妙だ。
ある意味では工期全体を見渡す俯瞰力、職人の統率力、すべては人間の信用力であり、金さえはずめばできるものではない。給料がよくても気分が悪いと、゛けつわり゛といって他の現場に逃避する。働いた分を捨ててでも嫌なものは、非難されても嫌なのだ。そのケツワリの度胸もないなら議員辞職すればいい。
このお気持ちは忖度できないのだろうか
大臣は政策の責任者だ。細かなことは仕組みを知り、施行することが巧みな官僚に任せればよい。あとは「責任をとる」といえば済むことだ。
要は口先だけで本当に責任をとってくれるのか、という心配があるのだろう。
その確認なら国民も同感だが、それを見極めるのが政治家の必須の要件だ。
しかし、残念ながら文部省の官制学校における平準課題には学ぶすべはない。
なによりも老若の妙は,諭(さと)し、補い、支え、調和することだが、下々は上に倣うの譬えあるように、魅せる人物でなければ治政は成り立たず、渇き、潤いのない群れとなってしまう。
若者の言いつのりと老齢のシドロモドロでは、双方哀れになる。