まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

(再)弘前 11月8日  有意ある人物の参集を請う

2009-11-01 17:31:18 | Weblog
台湾は国民党となり、大陸では辛亥革命に関する人物の顕彰が盛んに行われている。蒋介石をはじめとして孫文側近の陳基美の記念館が生地で開館している。また軍艦孫文号がサルベージされ、過日の胡錦濤主席来日時には日比谷の松本楼を訪ね梅屋庄吉翁の縁者と面会している。

行きつ、戻りつの様相だが政権は徐々に、あるいは薄絹を慎重に解くように様相を整えつつある。

どの国家も危機に晒されると相手の声色を真似たりスタイルを順化させながら巧妙に歴史の時空を泳いでいる。

わが国も黒船から不平等条約の締結までは手探りだったが、白人の認められるような国家になり条約改定するために、当時の当たり前なスタンダードだった軍事力と外部支配地の確保のため軍を必須なものとした。
 しかし、政策や法律のタガが現地追認という肉体的衝撃を脅かす軍の既得権の拡大に抗しきれず国策を歪めてきた。




              

                 清朝 西太后



              

       運動会で使うといって日本で作った革命党旗




中国も共産革命第一世代とロシアとの机の下の蹴りあいは、同じ顔をした共産主義とはいえ軍、政が一つになったものだった。
招待外交から経済復興、つまり他国の力と智恵を借りる手段は、軍(力)の背景を薄くし、政高軍低のようだった。いや、爪を隠したともいえる。

その軍がアメリカの産軍複合体のように貿易、武器生産、あるいは交通要路の支配、地下資源の生産から流通と、一昔前の軍閥のように力をつけてきた。

また、その力は党と政府の人事の背景として、つねに、゛軍の掌握は゛といわれるようになった。その協力関係が無ければ政権の維持は難しくなっている。

その軍と人民をつなぐものは分配と心の愛顧であり、巧みな演者の共通項目である毛沢東という神のような侵すことが出来ない存在の輝きだった。




                





民主主義を謳うアメリカにもケネディやリンカーンがいるように、わが国にもおだやかな存在として天皇が存在している。夫々が人間としても、存在としてもネガティブな批評に晒されるが、国民として現世利益を維持するには政府の思いつきや一過性の画餅に困窮しつつも、現世から脱する一時の安逸や省きごとに其の存在を対比させたり希望として認めたりしている。

夫々がご都合のようになっているが、群れの一員として小欲を掘り下げても、彼等の俯瞰した歴史を先見した行動を、「無為の存在」として価値ある理解をする日は、そう遠くない時期に訪れるだろう。

それは、経済も、政治も、時も、風も、スタンダードという極みの無い民族意識が、従前の人の習慣や培った座標軸との齟齬をきたしているからだ。

中国は経済も発展し、政府組織も複雑になってきた。砂のように譬えられる民もその結合の潤いとして小さな秘めた世界の人情と財を曲がりなりにも獲得しつつある。そして保険ではないが走り回る運動場の整備とともに、より柔軟な国家の装いを描くようになってきた。





                  





人は豊かになると様々な選択肢の中で身づくろいをする。
毛さんもあるが孫さんもある。
いや、近代中国氏の中では国父という称号と、内外のエピソードに綴られている身奇麗な印象が孫文のような人物の再来を願っているようだ。
それは、秘められた国内政治闘争より、経済を掲げたイメージ国家の背景屏風としても納まる人物像であり、何よりも其の唱えた経綸はアジアを謳う心地よさと、外へこぼれるように進出する中国には何よりの後ろ盾ともなるだろう。

胡さんには難しい舵取りだが、徐々に装いを変えようとしている。偶然だが台湾も国民党になった。意図するものではないが大陸でも民衆に受け入れられる共通項でもあり、また複雑な民意に考える縁を無言で与えている。

毛沢東と孫文、綱渡りのように両雄を並びたてようとしている。
胡さんは孫さんのような大人の甦りは歴史の必然と考えているようだ。



              




何よりも孫さんは一国の繁栄だけでなく、アジアが復興するには先ず日本と連携しなければならない。そして経済の競争だけでなく西洋文化と協調して世界の安寧を願うという意志があった。

その孫さんの縁が日本にある。
あの頃、植民地化という危機を共有し、かつ堕落した清朝を打倒しようとしたとき、明治維新は其の魁であり、吾が革命はその後果であるとの信念で辛亥革命を起こし、多くの明治の日本人が挺身した。





               







                 
 
                山田夫妻




今のように国民の食い扶持のみが政権の仕事としたり、国交をセレモニーのように形骸化している政治家が「アジアは・・」と騒いでいることとは違う。かつ環境、省エネなどと陳腐なスローガンではなく、あるいは絶対平和主義のごとく雲をつかむことでもない。

妙な言い方だが実利ある連帯と離反のスパイラルを似て非なる民族の性癖として認識してのことだろう。そこから地域を俯瞰した大経綸が生まれてくるはずだ。

臨機、臨度に人の姿は表れ、言葉ならずとも理解する。また部分は全体を表わさない。国家も然り、官吏の不作為や政治の転換、世俗の流行ごとと民情の糜爛、どの国にも変遷はある。

それを考察し将来を読み解くにも、あの頃の明治の先覚者と孫文の行動は時宜を得て輝いていた。異なる民族ではあるが、共に目標に向かう直情の表れていた。








     溥儀と工藤




溥儀皇帝は側近に工藤忠を充てた。本名は鉄三郎、津軽出身である。
何ごとも工藤に相談し、工藤は日本人としての心情を越え満州人として溥儀に仕えた。いわんや王道楽土の実践であり、関東軍とは命がけの交渉をした。





               







一方、孫文は山田純三郎を側近として武器弾薬、資金の管理を任せ、終始帯同し孫文の臨終にあたっては慶齢夫人と山田の三人で看取っている。
兄の良政は日本人として始めに戦闘で亡くなっている。
革命同志であった蒋介石、陳基美らに孫文からの伝達を与え、日中和平論では日本軍から国賊の汚名を浴びせられている。
「国思えば国賊」とは山田の回顧である。

あの中日友好協会の廖承志は革命同志仲凱の子息で、いつも山田に抱かれてあやされていた。其の山田も津軽の弘前である。
「孫さんはなぁ・・」と語るのが山田の終生だった。

その山田純三郎が亡くなって五十年になろうとしている。
じつは、弘前の菩提寺でささやかな墓前祭を行ないたいと思っている。
ことさら、畏まって縁者や有名人を招くことも無く、幾許でも彼等の行動の意を理解し、かつ孫文の頌徳撰文にあった「其の志、東方に嗣ぐものあらんことを」体現する人々と一刻を過ごせればと思っています。

あるとき、京都の龍馬の墓の前に何日何時に集まれ、と不作為に打電したら全国から数十人が来た。みな顔も名も知らなかった。

それを倣うものではないが、秋も深まる十一月は岩木山の雪、麓の紅葉、近在の温泉、造り酒屋の銘酒、雑踏と比べ何も無い津軽だが、日本とアジアが鮮明となり一考の座標として甦るはず。




              

              貞昌寺境内  孫文桜



日 時  11月8日(日) 午後1時

場 所  弘前市新寺町貞昌寺

献花料  1000円

前回は東京からオートバイ、片道夜行バス新宿5000円、日本海廻りの夜汽車、飛行機、新幹線、各自各様だったが、暇と多用をいとわず縁を繋いだことを記す


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