まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

教育改革とは何ぞや 07/5稿 再

2012-01-16 12:40:54 | Weblog


少々長文ですが・・

■問題解決の途 忘れられた学問(小学)

 義務は義の勤めだが義が判別できなければ必要性もない。ここでは人間の成長過程にとって強制学習は必要との観点に立って小学を論じてみたい。

『小学、大学』は知識人の基本的な素養であった四書五経のひとつにではあるが、現在では官制学歴のなかでの一部分を指しているだけで、説かれている意味を内包した理解ではないようです。成長年齢にしたがって小から大になるのではなく、大にあっても小を観るといったことも小学、大学にはあります。

 簡単に言えば小学も大学も人生の連続性のなかにおいて、つねに存在しているということです。たとえば世界の国々はおおむね6歳になると、それぞれの国が定めた制度のなかでの教育がはじまります。

ここでは施行しているかどうかの論点ではなく、成長過程のなかでの6歳という時期をどのように考えるかということの共通した考えがあるということです。 

小学に戻りますが、人間は生まれたと同時に自他の存在が発生します。まずは母と父です。その後、見るもの、触れるものから多くの他を知る事になりますが、まずは自分は人間だということを認知します。

 そして人間なら父母や、関係のなかから長幼、学びのなかから子弟、あるいは友の存在から自己の位置や特徴の分別を行い、全体のなかの一部分である『自分』を知るようになります。

いわゆる他の存在をを認めるところから自分は何であるかといった問題意識も発生し、特徴に合わせた目標やそれに必要な知識技術の習得欲求が生まれます。

 このように父母、長幼、子弟、朋友、あるいは自然界の観察といった習慣学習は、他と違う自身の特徴を知る上でも重要な事ですが、そこから生ずる相手を思いやる気持ちや、不合理に対する疑問、あるいは全体の一部分として参加している社会の存在を知り、そのなかで自らを表現したりするために活かして生きるといった『生活』が始まります。










郷学研修所 (前農士学校)






 生活には知識や技術も必要ですが、それを習得する大前提となる『自分』を知る習慣学習が小学です。ですから知識技術を振り回し高位高官になっても再度、小学に立ち戻らなければならない人もいるのです。また小学の具体適な例でもありますが、6歳で小学校に入学しますが、それぞれは異なった環境から学校という集団に参加します。

 家庭環境も違えば身体能力や集団に否定的(不向き)子供も集合します。そのなかで調和、協調が必要となりますが、もし自他を認知する習慣学習が欠落していたらどうなるでしょうか。あるいは教師が当然、小学校に入る以前の父母、長幼、自他、朋友の分別如何を前提としていたら、現在の状況には至らないはずです。もしも世間で耳障りよく謳われている人権、平等、ゆとり、といつた観点のままで子供を見ていたら状況は変わりません。

 中学になっても、あるいは成人式に携帯電話が飛び交ったり、私語で会議が成り立たないような慎みがなく、思慮や問題意識が錯綜している落ち着きのない国情の原点は、教育基本法でもなければ、誰でも陥る遊惰な民情だけではなく、学問の大前提は「人間は先ず禽獣ではない」と士規七則を表した松蔭の言を借りるまでもなく、小学校という小社会に参加した時点で強制をもって『矯正』しなければ道は拓けません。

 もちろん教師の全人格と熱情による感動と感激しか効果がないことはもちろんの事、ましてや組織やシステムを解説したり習慣化しようとしても無理な事なのです。
 

 意志の如何はともかく人間は強制してでも学ばなければならないことがあります。社会人になって地位、名誉、財力、学歴といった附属性の価値に汲々としたり、ものめずらしい一過性の流行ごとに群行群止する衆愚の生産はここでいう『小学』といった習慣学習の認知如何といっても過言ではありません。

 その後の思春期の問題意識の発生や『大学』の自らを明らかにするといつた過程は、積み重ねなくては生まれるものではありません。平凡社の創始者下中弥三郎は文部大臣の委嘱の要請に「国立大学全廃、小学校の教師、校長は人生の酸いも甘いも経験した人物で学歴、年齢を問わず。一番の高給を支払う」との条件を出したと言う(子息 邦彦氏談)。いかに小学の意味を理解していたかがわかります。
 
 また、明治は尋常小学校と名づけ「つねに平常心を養い、うろたえず、騒がず、を小学の根本教育」においていた。それは時代劇にある「尋常に勝負せよ」といった生死のやり取りにおいても感情に流されず平常心をもてということでしょう。

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「人間考学」 人間の薫りと臭い   「再」

2012-01-07 10:31:13 | Weblog
           後藤新平『一に人 二に人 三に人・・・』



以前の稿で後藤新平のいう「超数的効果」を上げるには、まず人材、しかも適材をみる目(観人則)が必要だと記してきた。その見る目はアカデミックな官製学では養えないことも加えて記してきた。

また、有るに越したことはないくらいな人物の附属性価値である、地位や財力や出自などの無意味さも説いた。いわんやブランドといわれる名のついた官製学校の学歴ならず「学校歴」の見方は、それによって国家の要路を委ねる慣習は近代日本史にある惨禍で学びつくしているはずだが、一向に正せない。

「智は大偽を生ず」「小人の学は利にすすむ」

それは人物次第によって、智は大きな偽りの装飾に使われたり、我欲の充足のみに用いられたりするということだ。ならば、官製学歴は国家の予算と多くの資材によって愚か者を増産していることだということだ。

『軍の戦闘でも原発事故でも下士官、作業員は世界でも卓越した能力がある。それに比して指導者、リーダーはその養成方法を錯誤したかのような人間が多い。なにか、この国の教育の根本に何か大きな欠陥があるのではないか・・』それは多くの外国人識者の共通した観察であり、日本人への厳しい忠告でもある。

後藤は明治以来の立身出世の在り様と、その選別を数値評価にしか判別できない仕組みを「人を観て活かす」ことによって多くの成果を得た。それは異民族にも敬された。

当時の識別は端的にいえば「仁」と「義」が基となった。いまどき仁や義などは野暮で古臭いと忌避されるが、それは官製学カリキュラムにないし、数値にも、安易な合理的論にもなじまない、いや無理解なために応用すらできないゆえに、ただこまねいているだけのようだ。

簡易な実践観人則は

「地位に昇ったにどんな部下を登用するか」  人材の活用と明確な目的

「金を持ったら、どんな使い方をするか」   資財の有効性

「周囲にはどのような友をもつか」      交友

「有識(知恵や道理)は何に使うのか」     自他の分別 



私企業ならともかく、国家経営においては常に「私」と「公」の狭間においての分別と決断の背景が重要となってくる。それを支える人材と資財、その用い方によって単なる机上の数値乗数効果となるか、それとも後藤の言う人材の適材有効活用で数値を超える効果、つまり人の善への換起、調和と連帯の効果、そして継続性となるかは人物の観方をもとにした登用活用にある。

それには問題意識の整理、立案、執行、責任の完結性と、全体を俯瞰できる人物の養成が必要なのだ。

いわんや、そのような人物には臭いはない。隣国の故事にある「銅臭紛々(金のにおい、身分の臭い)」など微塵もない。あるのは「粗にして野にして卑しからず」を涵養した人物の薫りだ。そこに優秀な人材が集まるのは必然だ。






浜田国松代議士の「腹切り問答」で国会は紛糾




「薫りと臭い」 【一昨年の11/29の稿を以て参照としたい】



四季の風のように薫るものと臭いの峻別は何を指し、いかなる種別を称するかは括目された受け手に任せるしかないのだが、似て非なる、あるいは擬似錯覚に置かれているかは、自身の秤の均衡にその多くを委ねるしかない。


薫りとは、薫醸された学問に養われた人格が、受け手の倣いとなり指針となり、かつ人を観る「観人」の則となるような、学者という学び途上の人々にとって範ともなり省の鏡となる人物の薫りであり風(ふう)である。

少しビロウな言い回しだが、人から発するものには肉体的にも精神的にも多々ある廃物がある。それは故意にも自然にもあるものだが、肉体的には生理的、医学的にも自浄作用的な小大便、あくび、くしゃみ、げっぷ、しゃっくり、あるいは放屁(おなら)があるが、全て自浄排出作用である。

一方、舌を駆使した言葉や擬音は音声として肉体から発せられるが、これには意思という厄介で読み解きにくい内容が含まれている。

よく「心が腐っている」とか「精神が病んでいる」と健常者でも揶揄される喩があるが標題を当てはめれば肉体的排泄に似た、゛臭い゛を察するようだ。

あるいは「義の薫り」とか「大人の風」、また「薫譲の学」など耳で聴くオンにも厳しさ、優しさを包み込んだ「仁」「智」を備えた人格をみることがある。

近頃ではこの薫りと臭いを合わせたのが自然の人間の姿とばかり、本音と本性さえも混同した無理解がより錯覚を大きくさせているようだ。

たとえば酒を飲めば本音が出ると、友人や同僚なりを酒席に誘うのだが、出るのは本音どころか卑しい本性、ここでは医学的にも冷静さを失くした狂い心を覗き見るだけである。所詮、俺と同じだ、そんな心根があったのかと安堵する類のことだ。また、そうとしか人を見ることのできない始末の悪い世情もある。

おもうに本音は素面(しらふ)でも涙を流せるような人の交感である。一方、酒を入れなければ出ない人の心は本性というべきもので、色,食、財の欲望を理(ことわり)のない弛緩した状態で吐露、叫び、沈黙という姿の様態がある。





             

             岩木山神社




多言を要することまでもない。

嗅覚と察知力も脱臭剤もどきの易(やす)き利学なり、インターネットという利便性がその感度を衰えさせていることを薄々分かりかけてきた。また、一種の疲労感ともいうべき精神の惰性を覚えるようになった。

まるで大声で嘆願するかのような政治家の姿も一種の臭いを察するようになった。ついでに同じような臭いが己にもあることに気がつき始めている。

まさに戸惑いと阿諛迎合が起こっている。異国文化はそんなことはお構いもなしに糾弾する。そしてグローバルはその臭いを銅臭(金の臭い)紛々として、唯一財貨を偶像視するようになった。


まして「薫り」などには無感覚、無感動のほうが好ましいと思われている浮俗の様相である。
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