まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

愛おしくも惜しい産経人よ

2018-05-28 17:25:15 | Weblog

 

 

「憲法は国家の目標とする理念ゆえに・・・・」と、以前法政大学田中教授がサンデープロジェクトというテレビ番組で発言していた。いつも和服姿の教授として落ち着きと言葉の切れが江戸しぐさのように映る女性だった。

 

平成30年㋄28日の産経抄では平家物語の口語訳に丸谷才一氏が苦言を呈したことを例として現行憲法の「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して・・」について、鼻白む文章とこき下ろしている。くわえて、世界に侮られないために、時代にあったものを構える。それが国の責務だろうと書いている。

 

「様々な要因を以て構成されている国なるもの」と概念を述べる安岡正篤氏だが、産経の書く「国の責務」なるものは如何なるものなのか、明確には紙面に現れたことはない。数多の文筆業に切り口が異なる「国(くに)なる論」を載せているが、社論として明確なものはないようだ。戦後73年経つが、産業経済新聞はいつごろから其れを指摘し、継続していたのかわからないが、安倍くんになり、産経抄も石井氏からバトンタッチした頃からこの種のことに元気よく筆を運ぶようになったようだ。鼻白むほどの経国の肝要な文章なら売文の輩が忌避する肉体的衝撃を回避せず、孤高の筆を活字すればよかったのにと残念でならない。

 

     

        

 

平成の御世は高御座での陛下の誓詞ではじまった。

「憲法を遵守し・・・」国民はそれに倣ったが、改憲論者は声を押さえて意を潜めた。

とくに官制(製)学校歴を唯一の食い扶持看板とする群れは、護憲、改憲にかかわらず表層無関心を装いつつも群れの醸成に勤しみ、もしくは昔は政府を言論によってたじろがせた陸羯南とは似て非なる記者が陛下の誓詞を「鼻白む」と斬りすてている。

 

拙者は国家の法制と憲法の目標とする理念は上下を云々することでなく別物と思っている。たしかに負けてしまった国が勝者に阿諛迎合し、いやいや承諾した憲法(文面)なるものを気概として作り直すことを否定するものではない。だだ、同じ敗戦国のドイツは多く要求を拒絶していることを考えると、いかなる理由をもってしても国柄や滞留した民癖の内照を失くして変えたところで、いずれ次代に納まるとは思えない。

 

国父の誓詞を野暮で古臭い、いやそれ以上に鼻白むと考える売文の輩や言論貴族に時代の責を担えるとは思えない。それとも、国父も勝者に阿諛迎合したのだろうか。

「憲法はその国の顔・・」とも書かれているが、ならば田中教授の言にある目標理念として汲めば、「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して・・」の一章は、「戦争を好む諸国民の不正と不信をつねに気を付け」とダイレクトに考えることを国民の積層された情緒性に訂正を喚起するのだろうか。

それは憲法の役割ではなく、かつ為政者の執り行う治政の援用文ではない。

 

         

 

ちなみに十七条の条文は権力を構成し、いずれ民の生活を毀損しかねない者たちに対して発布したものだが、当時は有司(官吏)の服務規程だった。

遅刻するな、法を恣意的に乱造するな、税の徴収は慎重に、いまでも省庁の朝礼唱和に通用するものだ。当時は豪族、宗教者(教育者)、官吏が対象だったが、今は江戸の瓦版変じて第四権力と揶揄されている新聞を代表としているマスコミにも当てはまることだ。

 

恣意的にも他人の言や古典を借用して論を謀ることなく、思うことの帰結を想像するべきだろう。いずれ形式的ではあっても陛下の認証によって発布されお読みになる文言ゆえ、口語、文語の技巧を問わず、衆を恃まず日本人らしい薫醸された不磨の文を提示していただきたい。

 

愛おしくも惜しい産経人よ。

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大相撲は「清規」には馴染まない 08 10/19 あの頃

2018-05-15 05:54:49 | Weblog

清規(成文法)と陋規(掟、習慣等)についての放談だが


好奇心の誘導なのか、相撲が八百長論議で騒がしい。

゛そもそも゛になるが、いつから国技と呼ぶようになったのだろうか。
また、数多のスポーツと称されるものと同様に、歪なコンプライアンス、つまり成文法の机上に乗せられるようになったのだろうか。

「我国の・・・」と振りかざす相撲だが、農耕神事から豪族、大名のタニマチ興行となり、近代では競馬などに冠されるように天皇杯が下賜され、形式的には法人化され国家のお墨付きを戴いている団体だが、だからといって全てが清規(成文法)に属する問題ではないと考える。

他のスポーツでもそうだが、猛特訓やシゴキが趣を変えればリンチ(私刑)になり虐めになる。それも先輩後輩や段階序列に処をかえれば、いつ加害者になるか判らない問題でもある。それを清規に当てはめると被害者が発生し、たとえ猛特訓でも受益者たるものの技や精神の昂揚喚起から生ずる感謝、感動は瞬時に犯罪として切り替わってしまう。技芸の自発習得は怪我も弁当(食い扶持)も己の問題としてあることは納得した修練においてはあるべき姿である。

もし相撲がスポーツなら指導料と食事代は支払うべき受益者負担である。
社団法人、スポーツ、国技に当てはめると、今どきはつねに法が付きまとう。
また、法なり則の狭間で歴史的には幾度と無く存亡の危機に立たされているのも相撲の世界である。




            


以前は農耕の祭事、神事として執り行われたが、それも格闘者の常で、終いには死闘となることもあったため、殴る、蹴る、突くを禁令とした熊本の吉田家の相撲作法および、横綱免許状の下賜という礼法をガイドラインとして、その陋規(狭い範囲の掟、習慣)が相撲界を司るものであった。あくまで狭い「界」のことである。

文明開化は肥満体にフンドシはみっともない、文明人らしくないと裸体禁止令など、それこそ文明人らしからぬ阿諛迎合拙速な奇法を発令したが、それも智恵の伊藤博文の気転で天覧相撲を催して危機を回避している。つまりミカドの威光を活かしているのである。

標題に「大相撲・・」と記したが、明治以降相撲興行は神社仏閣の勧進に関わらず、見世物興行的に各地で行なわれ、地元の名士、タニマチ、などが勧進元となり盛んに行なわれたが、東京を中心とした相撲興行は「゛大゛相撲」として各地の衰退とともに統合され、税制優遇処置ゆえ法人化され、先の吉田家が司った横綱免許交付権も協会に委譲されている。

ここで気が付くのは法(清規)の庇護、監督下になったのはつい最近のことで、それまでは陋規の範疇にあったのである。

そうでなければタニマチや地元名士、あるいは興行を仕切る侠客衆が興行成功の為に夫々の持ち場を形成する地域の調和が、優遇はあっても窮屈な清規の騒論に振り回されない、つまり敢えて御上や政道の外に位置することで相撲を継続してきたのではないかと思える。


          



もし、これが古来の神事、祭事に還り宗教法人ならばその危惧は無いだろう。
たかだか建前成文法であり、だからこそ争論観客までもが登場するのだろう。
御布施の如何で地獄か冥土、ミュージアムのような伽藍を立て本堂では落語にコンサート、かといって宗教゛道゛はとは問われない。あくまで掟、習慣の世界なのである。戒名は幾ら、お経料など全国一律ではなく都合に合わせた夫々の決りと話し合いで談合する世界である。

野球とて興行である。その世界には清規には馴染まない陋規が存在する。
法を執行する警察にも独特な掟や習慣がある。

つまり言い尽くされていることだが、人情は国の法より重いのである
ちなみに明治初頭の裁判官は判決文の作成に苦慮した。初めての憲法であり、今のように判例が無いのである。承知のことだが憲法は権力者を制御することにある。
聖徳太子の十七条も、遅刻してはならない、無闇に賄賂を獲ってはならない、筆者の乱暴な言い方ではあるが、人間の尊厳を毀損するであろう官吏に向けた条項が並んでいる。

その後は幕府の発する法度は武家向けたもので、庶民は多くは読むことの出来ない御触書などだが、耳にするものは身近な大家、名主、医者の言葉伝えである掟、習慣の陋規であり、自家に口伝されている決め事、訓語などを連帯の調和として生活を営んでいる。



                


大相撲に戻るが、八百長とガチンコという妙な言葉が踊ってる。
八百長は談合と金銭のやり取り、ガチンコは真剣勝負、いまでは真面目力士の代名詞のようになっているが、坊主の経や神官の祝詞もそこのところは微妙であることを我国の情緒は悟っている。

どうも四角四面と曖昧さに振り分けられる性癖のようだが、いつか満州国の副総理張景恵の親戚がそのようなことを知らせてくれた。
「どうも日本人は四角四面でいけない。二三度戦争に負ければ少しは丸くなるんだが・・」

逆に庶民は懐かしがってこう言っている。
「偽満州はよかった・・官吏は清廉で勤勉だ。ただ賄賂が下まで流れてこないので困ったが・・」

たしかに盲目的に四角四面になると道義心の薄くなった上司の言は惨劇に直結する。また狭い範囲の掟や習慣は相撲界ならずとも、人が集えば自然に作られる。
ただ、公権力といわれる部分、つまり警察、税、の面前権力や官吏、政治家にみる特殊な陋規は、清規(此処では恣意的に作られた法律)を屏風にして隠れた行為、あるいは 与野党八百長の類が大手を振ってまかり通っている現状をどう見たらいいのだろうか

とくに教職員や警察の食い扶持世襲は、陋規にある秘匿の掟が国家の清規さえも凌駕しつつ、教育、安全の美句を添えてバチルスのように増殖している。

大相撲への騒論と嗤いから何を導いたらいいのだろうか。
洋物で思い出したが、ドイツの物理学者ハイゼンベルグは、゛部分の算術的総和は全体を表さない゛と解いたと聴く。大相撲も世情の部分である。

我々は事象を一面でなく多面的、枝葉末節ではなく根本的、しかも身近な日本人の変容を俯瞰して眺めたとき気がつく直感があるだろう。

曖昧だが、さもありなん、

 

イメージはブラジル、オスニー・メロさんより

 

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日本と中国 面子と力の使いよう 10 9/16 あの頃も

2018-05-10 08:10:30 | Weblog


                          イメージは他サイトより引用

長文だが繰り返す煩いごとを、異なる切り口で観た:あの頃:の備忘録です。

体系的とおもわれる説明、アカデミックな学び舎での課題応答には馴染まないが、事は許容力、つまりここでは胆力でいう「力」の問題でもある。記憶力や整理の問題ではない。

また見識にある識の意である「道理」の問題であり、所詮たどり着く道程である。

部分観察は煩いが起きると繰り返し騒然となる。故に多面的、根本的、歴史の時空を超えた俯瞰を、拙章ブログに通底して提唱している理由でもある。

 

   

 

 

以下 10  9/16  稿

個別の部分考察ではない
普段、歴史を俯瞰して人物を眺め、善例を倣うことを薦めているゆえ、その観点で考察したい。

ことは尖閣海域での中国漁船を海上保安庁の公安行動における政府担当者の狼狽である。
外務省は海上保安庁の問題と縦割りに逃げ、外国との問題にすすむであろう行動に、ここでは知らん顔をした。

海域での資源交渉が進捗しているさなかのことと考えられるが、国権指揮の発動については心もとない態度だ。多面的に考えを張り巡らせれば、円高、資材安ゆえの企業の中国シフト、北朝鮮との六カ国会議、普天間基地問題の米国との関係、それと喉もとの骨のように刺さった歴史問題、乱暴な言い方だが、食い扶持と、安全と、体裁と考えれば分かりやすい。

また、一過性の市民感覚を国家の総攬とみる現為政者の感覚は、往々にして歴史認識や棲み分けられた地域で培われた固有の民癖までも曖昧な同意性を視るのだろう。

それぞれが複雑な要因を以て構成され、曲がりなりにも国家を形成しているという歴史的経過を、思索、観照の内からスキップしたような軽薄幼稚な判断しか下せない指導者、つまり彼の国の大人に比した小人の姿であろう。

ここでは指導者としての教養の特殊性と勇敢なる決断に任せるしか手はない国交の問題だが、そのような意識は国内においては、゛内弁慶 ゛のような政策ならず対策を弄するようだ。














【面子は内に】

よく面子が立つ、立たないということが言われるが、彼の国は内に向かい、我国は外に向かうようだ。極端な分別のようだが、例えば外交交渉でも曲がりなりに連帯と調和を基に外交当事者に全幅の委任をする国柄と、一方は守るものは多民族国家の中で権益を擁した一党一派、一族郎党、あるいは実利という一点に共通価値を求める民衆の期待であり、しかも、器量や度量という人物まで測られる緊迫感が「面子」というかたちで表れるようだ。

面子の貸し借りもある。外交交渉でもあることだが、立てたり立てられたりしながらしているうちはいいが、政権が代わり、゛ババ゛を掴まされることがある。とくに「人情を贈る」(賄賂)とか、「仕事を差し上げる」(交易利権)などを渡されると交渉そのものが成り立たなくなり、こちらも交渉当事者の交代ばかりか政権まで交代せざるをえなくなることもある。

ただ、覚悟と迫力は別物である。教科書、靖国、ロシアとの思想路線論争などが前段なら、国境の線引きや勢力圏については覚悟と能力が測られるが、「力」の在り様として軍事力が交渉の全体を支配する切迫感がある。

歴史に表れる我国の武勇伝は一騎打ちが誇りであった。しかし彼の国は一郷でも数万の大群を用意する周到さと、裏返しの恐怖心がある。匈奴、韃靼、ロシア、モンゴル、みな北からの侵入だが、万里の長城、北京を囲む城壁、狭い路地と各戸には高いレンガ塀、あるいは蒋介石渡台後に顕著となった高層階まで伸びる窓の鉄柵が、その過剰なる意識をみせている。
他人を信じないのか、人の物を奪うものが多いのか、日本統治のころには窓を開けていても平気だったと古老は語る。












        石原莞爾氏 弘前養生会保存



【「力」について】

同じ問題でも中国の易のようで表裏があり、易の象形であるトカゲのように場面によって色を変える。

彼の国の「力」の考え方を知らずして一過性の繁栄の果実である経済の「力」を、これまた唯一の贈り物として差し出しても、相手に「力」がつけば端金でしかない。
また、その「力」のあるところを見抜くのも彼等の言う利口者であり、゛意味ある゛ことなのだ。

ある女性が子供の大学入学に便宜が図れないかと旧知の人に相談した。もちろん縁ある日本人は四方八方当たるが、その中で、゛こちらも依頼されている゛という話がいたるところで聞くことになった。ここでの「力」は入試試験の便宜の図れる人物のことである。
つまり「力」を利用できるもの、それは悪でも邪まな考えでもいい「力」がある者が意味ある人間なのだ。国交当初は技術力と援助がその「力」だった。

その点、商国家の御用聞き議員の数多訪中は顔売りと権益種別の確保があり、双方の「力」の有りどころの評定、つまり、「各社見積もり合わせ」と同類の狂騒だった。
発注者と受注者の関係に似て、当初は発注試算まで作ってもらっていた技官が、覚えてしまうと発注者の意向で受注者を競わせ、そこに便宜や賄賂、有力者の口利きが生まれることと同様なことと思えば解り易い。

さて標題にもどるが、我国の政治家と役人と称する権力負託者なり委任執行者は一様の姿がある。それは阿諛迎合性と無責任、ここでは作為の付け替えと現状追認だ。
夫々の現場実行者は大義を必要とする。満州事変当初は防衛の為の緊急避難処置で現地関東軍の衝突を追認、しかしここでも国力の加減がおおまかな認知を看過している。

当時の国会は多党化して軍に阿るものもあり、宮中派の意に沿うものあり、と纏まりがなくなっていた。それゆえ議員は軍からも軽んじられていた。
もちろん現場の肉体的衝撃を関知しない議員がその状況を増幅した恐怖の「力」として触らぬことを常としていたこともあった。それは職分境目のない「寄らば大樹」だった。






          








【銭で国を売る輩】

これは腐敗というよりか怠惰な堕落というものだが、戦後の援助におけるキックバックといわれる海外治外の賄賂は商社、相手国を通じて多くの政治家に流れているという。
またそれを以て陣笠を養うのも大物議員の「力」であった。しかし善悪を問うのは独り占めしたか、分けたのか、が彼等のバロメーターだが、彼の国はそれを人情と置き換えて国政とは別物と考えている。ただ、「力」の強さとしての「面子」を見せるために、腐敗、汚職の摘発が為政者の恣意によって行なわれが、そのホドは弁えている。

つまり「力」の行使は、゛ホド゛を弁え、勘案できる人物によって行なわれ始めて効果有るものだからだ。説家といわれた交渉役や、あの諸葛孔明とて智慧と弁舌の限りを尽くした後、将来に起こるであろう煩事の一点を見据えて、゛杭を打つ゛という逆賭を心得ていた。もちろん、現状危機を回避する交渉(駆け引き)も相手の面子を立て、将来の杭を確信したら頭を垂れることさえ是としていた。

これは雑兵の代表では適うことは無い。宰相としての学を成した人物によって成されるものである。それは歴史の栄枯盛衰に表れる人間の所作を倣いとして、覚悟(己を知り確信する)を養う学問である。
雑兵の損得や官吏の諂いを一瞥せず、つねに国家を登覧する気概をもつ、そのような人物を宰相というのである。

戦後賠償利権、地下鉄、道路、ダムなどインフラに関わる利権、その他の資源、食料にまつわる腐敗は枚挙ある。相手国の政権が代わって露呈するかと思えば、主義主張や思想まで当事国の利権の付け替えのための戦闘ではないかと思えるほど政権移動がスムーズに行なわれ、受け取る相手が変わるだけである。







         

               






ただ、それをネタに強請られることも当然起きる。
我国でもいつの間にか表舞台から消えた議員などもいるが、相手国のシンジケートとして売国的な言動をはくものもいる。
ある政党の会館だか、いまは建て替えているが、旧館は同様な思想形態の国から3億貰っていると除名された当時の会館建設委員が語っている。

ある運動家は反共を唱えながら、その当事国から裏資金を貰ってビルを新築しているが、これもその新築挨に呼ばれた気骨ある大物閣僚がその逸話を皮肉って挨拶している。
反共も反米も金になるらしい。

普通は考えもつかないことだが、台湾で反共雑誌を発行していた人物(革命世代の大物の甥)はその大陸の大物の使いで日本の有力政治家を訪れ、゛二人の親密な付き合い゛を提案している。当時2000億の援助を政党幹事長が約束していた時期だ。
                            (佐藤慎一郎氏談)

ともあれ、数多色々ある滑稽で哀れな関係者の姿だが、それもこれも官吏の不作為を補う政治主導が彼の国の「力」の見方と符合する。なかには派閥抗争も海外に持ち込まれ当事国も困ったことだろう。




               






国内ではコンプライアンス、政治主導、官吏の不作為、がもてはやされているが、あの当時の食い扶持翼賛的議員の混迷は諸外国から「明確」ではない国家として軽んじられた。そしてズルズルと戦争という惨禍の淵にすすんでいった。そのなかでも兵庫県出石の斉藤隆夫議員は衆を恃まず独り敢然として粛軍を訴えた。国会は一致して除名した。だが出石の斉藤のもとには全国から激励の手紙が届いた。人々は再び最高点で議会に送り出した。

余談だか金や旅行や、中には箪笥やテレビも選挙の道具だが、そんな選挙区ほどろくな議員が出ていない。゛さもしい゛有権者には、゛卑しい゛議員しか生まない一例だ。





           


              





【測れない畏怖】

「いまは真の日本人がいなくなった」
孫文は側近の山田純三郎にこう歎いた。
そして「器量も度量も、測れるものは恐れることはない」
測れない゛ことが怖いのだ。
人物においては鎮まりの中で洞察するような畏怖を覚える人物を指し、国家においては潜在する国力である情緒性を護持している社会なのだろう。
「無条件の忠恕」それを明治の日本人に志操にみたのである。

測れない力があることを、日本人自身が潜在することから探し出さなくてはならない。
金もない、資源もないころアジアの光明として、今までのアジアでは測れない希望があった。当時は、゛測れない゛強さと具体化する日本人がいた。

そんな畏怖に譲るのも普遍な人間の在りようだ。その「譲」は礼の司るものだ。
衣食足りて礼節・・・もそうだろうが、無意識の礼は畏怖の強さにある。此れを隷属とか服従とするのは人間の力関係の小局でしかない考えだ。畏怖は外的なものではなく、己の内面に照らし合わせ、許容なり多面的な考察の深まりを表すものだ。

いまの日本にはそれが見えない、とくに損得勘定を補う[力]を求める大衆と、それを効率や効果としてマクロ数値に翻弄される権力当事者や官吏に顕著のようだ。
彼等の「譲る」ことと「阿る」ことの錯覚は、いらぬ混乱や惨禍を起こすことは先人の事例をみても明らかだが、どうも忙しくて騒がしく腰が落ち着かないようだ。

裕福そうな領袖の子息を咎めなく飛行機に乗せる決断と、その国の不審船に戦後初めて銃撃をした決断は同じ政府のものとは思えず、さらに銃撃現場の映像に戸惑いが解けたと人々の声を聴く。
その後、不審船は近寄らない。
今回もあの時と同じように咎めもなく特別機が飛んだ。

大国ロシアの皇太子を襲撃した大津事件の司法対応を想起した。

やはり「日本人はいなくなった・・」と、漢民族の孫文の言葉が頭を巡る。
彼等もそんな「日本人」らしさを見たいのだろうか・・・・

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禽獣との分別 08 1/23 あの頃

2018-05-07 10:01:13 | Weblog

吉田松陰の書した「士規七則」が筆者の寝所に掲げられている。
正面には孫文揮毫の「博愛」がある。

否応なしに両師を懐かしみ、日々銘とし、それに連なる先覚の士を想起して一時の鎮まりを得るようにしている。

ことさら頑なに、あるいは現実に無理強いする行動をしているものではないが、何とはなく重しがついた感じがするのである。かといって行動を規制するものでもなく、より活かすための応用性が湧いてくるかのように思えるのである。

ちなみに松陰の弟子である高杉東行(晋作)は、馬関の負け戦や功山寺の挙兵でも、縦横に自他を活かし、彼のみぞ知る先見性を以って談判、民兵挙兵を行なっている。
つまり熟慮機転と勝機に対する突破力が優れているのである。
それは動物的でもある。

松陰は士規七則の冒頭に「人間は禽獣と異なることを知る」とあるが、なにも直感性、俊敏性までも亡くすものではないだろう。
ただ、学問、他からの教育、そして情緒の連続や良質な習慣というものがあって禽獣であることを免れていることは事実だ。

その意味では高杉や松陰の純真さは、野蛮性とは異なる自然性の中にある素朴な純心さであり、その発露なのだろう。

それは、今どきの習得法である官制学校歴を唯一の価値としてみるなかでも起きる人間の野蛮にも映る現象にしても、素朴とか純真を自然の行為として謳歌しない成長期の修学方法にその因があるように思えるのだ。

受験の果てに地位、名誉、学校歴、財利、などが想定されるようだが、素朴と純真さのなかで培った問題意識や感動をスキップしては文明そのものの野蛮化は避けられず、なおも人々はそれに群動している。

こんなときはどうするか。

素朴で純真な問題意識を喚起し、涵養された学識を活かし、直観力、俊敏性をもって彼らが突破しようとしたあの躍動感ある姿に倣うべきだろう。

彼らの学びの要は他でもない、己の内なる(潜在)核心を探り、日々新たに照顧する学びを喚起し、それを座標として、つねに不特定多数の利他の増進を指標する本(もと)を養うことでもあった。

それは智の修得課程に時おり起こる肉体的衝撃を忌避するような軟弱な「逡巡の学」、あるいは、学び舎秀才、試験秀才に陥るような「錯覚学」とは異質な肉体に浸透された「実学」なのだ。

1989y、筆者は天安門に集まった若者にもそれを観た。
それは私達が亡くしたかのような、素朴な疑問への血を盾とした純真な解決方法であり、公への靖んじて身体をも献ずる姿だった。まさに「天下為公」である

実在の記憶とはそのような事なのだろう。

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