まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

知識から感覚へ. 07 12/24 再

2018-01-31 01:48:29 | Weblog

知識と感覚の相関関係については一時留め置きたい。

以前、JC本部での講演で『積み重ねるものと省くこと』について駄論を講じたことがある。また大学では『試験に落第しても良いが人生に落伍するな』と意を説いた。

また文明といわれるものの衰退、あるいはその兆候期には欲望のコントロールの欠如が大きく作用しているが、便利さと幸福感の錯誤について現在の教育といわれている学問とは言いにくいものが何の効用をも成していないことについて、ごまめの歯軋りを述べてきた。

面前にある教育だが、曲がりなりにも邦から国家という字句と共に国民という呼称が生まれた明治期において、官制学校が制度化され立身出世という字句の半知半解と西洋的な、゛かぶれ゛の風潮が混交し、選択し省くことの心身の学問を忌諱した結果、孫文等の異民族の客観的観人則にあった、゛真の日本人゛の忘落を起こしてしまった。

庶世に『ナンボなものか』とある。
あるいは『それがどうした』とも。

文明は高邁な理屈や検証データーによって成り立つものではない。
そうかといって身を飾る附属性価値である地位、名誉、学校歴、財と何ら人格を代表しないもので、有るに越したことは無いくらいなものに翻弄される野暮な生き方も文明観にはないだろう。

そんな四方山に夢想するなか、冬の夜空はダークブルーに染まり、特段気にもかけなかった月がどこか金色に見えるほど輝いていた。まさに言わざる、聞かざるだが、ふと碩学の呟きを思い出した。

切ないことだが、男(おのこ)の文化は戦国時代、幕末、終戦直前に華開いている。
肉体的衝撃を面前にして初めて真の感覚が研ぎ澄まされるものだ
文字も言葉も素晴らしい。それは靖んじて不特定多数に献身し散華した歳若き青年にも漂っている。

それは集積された知識、あるいはそれを以って立身出世を成し遂げたものにとっても、それをも超越した至高の価値感覚として誰にでも内蔵している魂なのだろう。

感覚は人の情を涵養し、オノコが密かに考えている、或いは夢想を混在する現実から引き離し明確な線引きをしてくれる。それは迷い、悩みからの逃避や言い訳ではなく、解決への確信を導き出してくれるはずだ。

アダムとイブも智という毒を採取したことによって迷いや悩みが作られたという。

「小人の学、利にすすむ」そして「小人は利に集い、利薄ければ散ず」ついには「利は智を昏(くら)からしむ」

そろそろ智が昏くならないうちに、一時「知」の集積から離れ、森羅万象に敏感な感覚を取り戻せ無いだろうか。


いまこそオノコの季節との直感があるのだが・・・

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物書きの切り口 2010の稿

2018-01-29 06:59:43 | Weblog

食い扶持稼業なりには夫々「界」がある。政治の世界、経済界、また「壇」という奇妙なものもある。画壇、文壇だが夫々が「界」を構成している。

その世界も狂気の世界、嫉妬の世界、批評の世界と「世」に関わると、「界」なり「壇」なりに棲み分け安住して粗餐をむしばみ兵隊ごっこよろしく「賞」なるものを設け商業出版の奴隷なりパラサイトとして世を惑わしている。

世は変わり者を称賛し、汗を知らずして汗を書き、ヤブにらみ批評を斬新とするような、つまり童心から見れば滑稽かつ妖怪の世界を映し出している。

世に売文の輩、言論貴族と称す堕落した似非文化人を気取る者がいるが、隣国では「九儒」、や「臭九老」として蔑んだ。先進国と称するところでは知識人、いや今では「識」にいう道理もなく「知」のみの偽論、偽文が氾濫していることを文化の進捗というのだろう。

つまり彼の世界は「別世界」なのだ。
「智は大偽を生ず」という。言い訳、虚飾、に智が用いられ、その美辞麗句は文章の巧みさという巧妙な文術によっていたる所に錯誤を、錯覚を巻き起こしている。

「詐」を頭がいいと言いくるめ、「暴」を勇気と、贅沢を幸福と為すようなもので、しかも明け透けな様相や、もの珍しい事象、裏話や人の理性の働かない欲望を「人の在り様」として書き連ね、その結果辿り着くであろう複雑怪奇な世情を「人の世」と後書きする。

また「真理」探究と称して覗き、脅し、エゴなる欲求を虚なる物語として具象化しているが、それは単なる「心理」の読み込みであり、勝手な切り口の書きものである。

いたらぬ物書きの世界だが、近頃では教壇に身を置くものまでが故事を引っ張り出して訓話マニュアルを習文しているが、これらにも文化人としての褒め賞が与えられる。所詮、商業出版の世界の出来事だが、さすがに陛下の勲章ともなると「界」も「壇」も神妙になり、かつ別の顔を取り繕うようだ。

以下の章はある老作家の戯れ文である。
一風その世界を俯瞰しているようだが、おなじ壇や界の縁に生息している。
それゆえ物書きの心情はよく読みとれるらしい。
その世界の、その話として理解いただき御高読戴ければと思う次第。

                              編者 孫景文













昭和四十五年だった

君は山本さんとお会いになった・・・

ええ・・先輩のおかげで一寸

僕も会った、一度だけど・・

はぁ

横浜の何とかイフ・・

はぁ

そりゃ、僕も若かった。まだ三十そこそこだった

山岡さん、壮八さんには・・・

いゃ

戦争中は貪るようにこの二人のを読んだ。若僧にも分かりやすかった・・ピタリときた

・・・・

君のはじめに読んだのは何だ

橋の下・・・、   ですね

山本さんが変わりだした頃だな

はぁ?

壮八さんのは

徳川家康,信長ものですね

二人とも戦後は書くものが大転換したなぁ

・・・・

僕が二十代で読んだ頃は二人ともまだ新進で、今みたいに有名じゃなかったから評論だの講談だの・・・そして講談クラブ、富士なんぞに戦争真っ盛りにやっと吉川栄二や海音寺や白井喬二らに連ねた

















・・・もうこうなると知らないから黙って聞くしかない・・・

戦争が終わってからか、敗戦寸前かね・・・二人とも呑み助だが打ち合ったときに夜呼び出して、山岡さんが壮八となった話は知ってるか

そんなことがあったんですか

二人とも、まだ四十前後で血気盛んだったなぁ

・・・・・

山本さんは横浜市に住んでいて、お子さんを空襲で亡くした。火葬したくても柩も葬儀社もない。幸い遺体だけは見つけて、そこいらの焼けた板片や枝で箱をつくって焼き場に運んでいる

へぇ・・・・

壮八さんのほうは海軍報道班員に徴用されて、鹿屋基地だか特攻基地に付きっきりで、このため特攻隊員を毎日見送り、その遺書、遺品なども渡され、敗戦後、渡せるものは遺族に渡し、残ったものは丁重に保存し、自宅の庭に特攻観音といったかなぁ…慰霊塔をささやかに祀って、いまもあるそうだ。

はぁ・・・

それも立派だが… 戦争は、゛御盾゛なんて小説知っているか・・

知りません

二・二六事件は

何とか聞いています

その二・二六以前の引き金になった陸海軍の少壮革新派の核となった藤井育少佐(当時は大尉)の作った連絡機関、゛王師会゛の動きを二年にわたって書きつづけた。終了が二十年四月・・・

・・・・

今から言えば軍国主義、天皇絶対主義、右翼革命家の話だ

・・・・

これを書いて随分ふっきれた。山本さんのほうは日本婦道記(直木賞に選ばれたが菊池寛社主が嫌いだとして蹴った)に次いで日本士道記(これは戦陣に赴くなか、その将校,兵士らの死への を促し、再来の心情を描いた粒よりの小説。二、三十枚の紙がないから作品も短かったが慰めや癒しとなった

・・・・

今からいえば戦争謳歌、反動、封建軍国主義だね

はぁ、知らなかった

それでだ、庭へ呼び出すと山岡さんは・・、君は何だ、あんなものばかり書いて若い連中を無駄に死なせた。おれが代わって制裁すると壮八を殴った。壮八さんは黙ってその鉄拳を受けた。山岡さんはそれっきり絶交

・・・うーん














ところがだ,十数年後、とにかく再開した文人の酒の会があった

・・・・

この時、また呼び出した
・・・・

山本さんは壮八さんに、゛俺を殴れ゛と。黙っていると、゛あの時は俺も血迷っていた、早まった、悪かった、気の済むように殴れ、思いっきり。

・・・・

壮八さんは、殴らなかった。゛忘れよう゛山岡さんはペコリと一礼した。

・・・・

まぁ、正確じゃないがこのようなことだ

うーん

山岡さんは、゛樅の木は残った゛を頂点に、その後大物になった。壮八さんも家康もので大成長だ

・・・・

書くものの傾向が大分変化した。とくに山本さんの戦前、戦中、敗戦後の文章、文体は作品がは町人もの、市井もの、人情ものに集中し、武士を描いても生活心情に則したもので、武士道ものやサムライ魂の昂揚したものはなくなった。

とくに文体が快く吾々の心情に測々として染み入り流れるような文章から、西洋風の、゛ナニナニは言った゛と、確かに明確、明晰にはなったが、長くなるとしばしば息苦しい、ひどく言えばカンに障る文章を意識して書きだした。

それだけ巧くはなった。短編、小編では効き目があるが長編になるとクドクてもたれ気味だ。

君は戦前ものと戦後代表作と文章を比較してみたことがあつたか・・

ありません

やってみろよ。例えば、゛橋の下゛゛あざみ゛(最高傑作だ、モーパッサンやバルザックの短編をも超える)と、士道記の、゛紀梅月゛や、゛粛々十八年゛などと、婦道記では、゛墨丸゛とか゛風車゛とかな・・思い当るところがあるはずだ。

・・・・・・

いちばん俺が山本さんに不服なのは禅をすこしコケ扱いしている。一方では一時流行ったラジオの三木鶏郎、丹下キヨ子、三木のり平らの冗談音楽をとらえて、日本神話を侮辱していると静かな声音だが罵ったことがある。

そして君の会社の週刊光陽の山岡付きの記者の木村某に、戦中、戦前の作品を一切 廃棄焼却したいと言ったということだ・・
真意は確かめなければならんが、これだけは気に入らん。

若いころの作品や創作を有名になった後は刊行したくない、若気のいたり,愚劣痴気を残したくない、れいれいといった萩原朔太郎や北原白秋とは、これはチト違うようだ。

詩人の勘介も大木惇夫もそんなこと言わない。川田順なども老いらくの恋などと嘲られたが、営々と戦中作品も敗戦後刊行している。
比べりゃ壷井繁治、小野重治など左翼をはじめ三好達治や志賀直哉、武者小路,ゾロゾロと・・・

戦中、戦後、作品を自ら抹殺,無視、白眼視しているのは一般だが、そんなのと一緒にしたくない。





                  





以上が暇つぶしに書いたものだといって持ってきた戯れ文だが、
明治の書き手は、小説など今の漫画のようなものであまり書くことがなかったと筆者も聞いたことがある。

たしかに口も筆も重宝なものだが、書き手の感情が明け透けになると虚実の書き手が文化人となり、それがスキャンダルにまみれたり、事件をつくりだすと、内容においても奇人変人や、逆にさも人格者のように迎えられるようだ。

そのような人たちが部数や収益を図る商業出版界の請負となり、文の壇や界で粗餐を貪る姿は、まさに租界の群れのようにみえるのも奇異なる興味の暇つぶしのようなものだろう。

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西安事件 本当の・・・・      2007 6/4 再

2018-01-28 20:58:18 | ふぞろいの写真館

苗剣秋夫人です(台北)

西安事件をご存知ですか・?
苗氏は張作霖に可愛がられ、子息張学良の軍事顧問として活躍しました。その優秀さを買われ日本に留学し、高等文官試験をパスしています。そのため多くの日本人との交流がありました。

事件直前、苗氏は張学良にこう迫っています。
「お前の親父は誰に殺されたのか! そのお前は今、誰と戦おうとしているのか」
蒋介石の強い指示がありましたが、張学良率いる東北軍は共産党との戦いを躊躇っていました。そのため督励するために蒋介石は西安に乗り込んできました。

そのころ苗氏は周恩来のころに住んでいました(佐藤慎一郎氏)

そこで西安事件(張学良による蒋介石監禁)が起きました。
苗は「蒋介石を殺してしまえ!」といいましたが、コミュンテルンの指示で回避されました。
さまざまなミステリーを含んだ西安事件ですが、その後苗氏、張学良氏は台北で暮らしています。(不思議ですねぇ)

写真は天安門事件の前年1988年の12月です。
苗夫人は小生にこう語りました。
「苗先生は自分を探すために忙しい人生でした・・」
そして張学良さんは、の問いに
「張さんはお坊ちゃんですよ・・」

ちなみに苗夫人の好物は甘いケーキ、常備薬は日本の「七福」です。
何度かお邪魔しましたが、あるとき突然、
「苗先生は事件のときに天津に居ました」
旦那が女房に嘘をついた? いや、どれもこれも真実です。四角四面の日本風の検索では到底理解できない、深層の゛うなづき゛ですね。

そういえば苗氏は「君、男は世界史に名を遺すぐらなことをしなさい・・」といって《天下、公に為す》と色紙を戴きました。

革命家は良くも悪くも「人物」というものを学ばせてくれます。

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一線を画す秘鍵 11 1/4 再

2018-01-22 23:54:03 | Weblog

 

要は分別とか峻別の問題である。

 

「・・・この人たちは、学問もあるし、頭もよく、天下国家を論じれば第一級の人た

 

ちである。ただ、中には異常な人があった。酒乱もおれば、お金にルーズな人がい

 

る。あるいは女癖が悪い人がいる。そういう性格的に異常なところがある人が揃って

 

天下を取って、そのような人が揃って廟堂(内閣)に立ったら、どんな政府ができるであ


ろうと思ったら、肌に粟を生じた。私はこのような人たちと飽くまで行を共にするこ

 

とはできない。・・

 

  安岡正篤氏      猷存社 北一輝、大川周明、満川亀太郎と袂を別つ 意

 

 

いかによい政策を、すぐれた理論を持ってもいても、その人の性格がまともでなけれ

 

ば人物として失格である。人間を観る、学ぶとはそのようなことだ。

 

 

 

「・・・性急な人間や軽操な人間は、何でもかんでも自分一存で爆弾を投げたり、匕

 

首をひらめかしたり、あるいは喧々囂々と天下を論じなければ駄目なように、誰をつ

 

かまえてもそうゆうことを望んだり、自分の意に満たなければ悪罵したりしますが、

 

それは駄目です。興隆する時代というのは、必ず人材が多種多様で、しかも表面に現

 

れることより、内に潜む、隠れるところに奥ゆかしい人物がおる。

 

そうゆう肥沃な精神的土壌から、次の時代の多彩な人柄や文化が興るので、ダイバー

 

シティ(diversity) 多様化の有無が民族の運命を卜知する一つの秘鍵である」

 

                           三国志と人間学より

 

無名であれ。沈着であれ。とはその意であろう。j

 

 

 

                   

 

関西師友「老荘録」の告白

 

「余は最後に快楽と老荘思想について述べんとす。告白すれば此のたびの老荘思想論

 

も、実は当世に対する私の鬱ボウたる不満不快が、その基調となり居れり・・」

 

                             「鬱ボウ」心より湧きいずる 

 

 

 

 

 

          

 

 

 

 

「正しいということは「一」に「止」まることである。それを行動にして治めること

 

を政治という。その「一」はと止まる一線であり、力を蓄えと留まる一線であり、こ

 

れだけは行なわなくてはならぬ天命のような出発点である」

                    

                           佐藤慎一郎先生 談

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今、地方への下放の時代?  2001年の年初もそうだった

2018-01-19 23:49:59 | Weblog




大声と金が飛び交う地方創生という施策に国民は心底に思い、憂慮することがある





「今、地方への下放の時代?」

2001年01月28日(日) 国際平和協会 主任研究員 寳田 時雄



 糜爛(ビラン)文化の写し絵でありながら中央思考の強い雑薄な人間が集い、情報というガセネタが飛び交う東京を中央と勝手に呼び、その他の地域を身勝手にも地方と錯覚している。

 地方といえば「文化程度が低い」はたまた「インフラ整備が遅れている」だから「食っていけない」などと評価したり、そんな御仁に限って隣国やアジア地域 を「遅れている」「後進国」などと呼称している。地図上の呼称である「何々地方」はあるが、都会人が哀愁なのか、それともたまに出かける物見遊山の想い出 からか、「地方の文化」などと褒め上げても鼻白む思いがする。

 中央と呼んでいる都会とて,一旗上げようと上京したものや、何代前は鹿児島だとか、北海道だとか、江戸にさかのぼれば三河から連れられてきた職人さんだとか、所詮,寄り集まりの「無い混ぜ文化」でもある。

 そんなところでも居心地がいいのか,功成り名を遂げ、ついでに利を得た政治家がいつまでも中央に滞留している。待てば海路の日よりかな、褒賞狙いもいれ ばパーティの挨拶役など、早く出身地に戻って後進の指導でもすればいいものを,そんなのに限って何年前かの悪事が露呈してお縄になる勲章持ちもいる。地方 としても帰ってきて威張られたのではかなわないとばかり,揉み手で床の間に座らせ利権獲得のメッセンジャーに仕立て上げている。

 もともと中央というものが政治の中心とはいっても江戸築城のころは開発地域であり職人飯場のあつまりのようなもので、女性は飯盛り女か遊女。まともなの は?大店の女中か武家の腰元ぐらいで,男も熊さん,八っあんの長屋話のようなもの。約8割近くが独身だったそうで、ときおり嫁話があると「越後屋のお手つ き女中をもらった」などと自慢の種になったようだ。立身出世の絵物語ではないが、家柄や出身校という風袋を自慢する昨今とひとつも変わりがない様相であっ たようだ。

 あの鬼平犯科帖で有名な長谷川平蔵が活躍した前後は、今と同じく若者が集まれば衣類やかんざしといつた装飾品を自慢しあったり、男は何々道場で稽古をし ているとか、脇差は誰の銘があるものだとか、今と変わらない浮俗の態であった。余談だが、徒人と称して,罪まではならないが日がなブラブラしている遊び人 を石川島に連行して石組みなどの殖産事業を行ったのも平蔵である。










 そんな江戸の庶民ではあるが,しばらく住むと地方出身者を「田舎もん」とか「きたれもん」呼んだりしているが、どうも似たり寄ったりで変わりがない。面 白いことに当時の感覚も、北を背にして西を向き,文化は西からといった考えが強かったようだが、大いなる田舎人、まさに「江戸東京人」の面目躍如といった ところである。

 維新の薩長とて,先ずは進駐軍の威光もさることながら江戸武家や庶民文化の習得に努め一時の中央風情に浸ったものだ。

 出身地では出目とか家柄があり、なかなか『旅の恥は掻き捨て』といった解放感は無いが、その『掻き捨て場』はいたる所にあるのも煩雑とた中央の特徴でも ある。なかにはのっぴきならない事情を抱えて東京に来るものがいるが、ここでは民主とか人権意識がはびこり,虚勢と錯覚によって程いい営みができる重宝な 地域でもある。

 ないよりはあったほうが良いと思われるくらいで、なんら人格を表現することのない地位,名誉,学歴、財力は附属性価値として本質とはかけ離れた虚勢の道 具立てにはなる。あるいは暴力,詐欺、奢を、勇気や知識、幸福と置きかえる錯覚に安堵するような出稼ぎ根性の一過性価値も、自由と人権と民主の名のもと に゛生き生きと活力を持って゛細菌の如く繁殖している。それらは本物の゛出稼ぎ゛の真摯な労働まで蔑んでいる。

 もともと国内の文化交流は物質交易や、体制制度としての交替。庶民においては神社仏閣等の講による代参などがあるが、戦国時代などは公家落ち,平家落ちが各地に散り、鎮まりをもって特徴のある地域文化をつくりあげている。

 それは゛落ち゛という境遇に加え情報の集約地域であった京の地域性からくる広い知見や、やもすれば糜爛した中央の諸芸や裏返しの゛はかなさ゛や風雅が、寂寥な心の境地と豊潤な自然とあいまって,より高度な心の゛置き所を゛薫醸している。

 しかも、そのなかでも棲み分けがあり、分別もある狭い範囲の掟(陋規)である地域独特の生活規範をつくりだしている。心底には京への望郷や回帰への願望 が強靭な精神の持続をたすけ、また゛落ち゛の遠因となった爛熟,糜爛,堕落を戒めたしきたりを伝統化して回帰と誇りの精神維持に勤めたのです。










 現在はその地方にスポットをあて,中央のシステムや権限を移す動きがあるが、つまるところ、自制の欠如から有り余る陳腐な富と煩雑な情報に息が詰まった 中央の自堕落した姿の塗り替えに他ならない。なかには偽の地方もあって権限拡散を利権の拡散として予備段階での受け皿として既成事実を作り上げているもの もいる。

 地方的とは地方なりに何を学び何を覚醒するかが問題である。なにもインフラが整備されたから設備を地方に移すとか、ゴミ処理事業に 補助金をつけて自営させることが地方ではない。

 山が高いから削り,谷が深いから埋める。これは政策ではない。自然の循環をなぞっているだけだ。  故事に『平ならずものを平すれば平ならず』とあるが,平らでないものを平らにすれば不平がでるということだ。能力や特徴の違いがある地方や、あるいは人物をたかだか人間がつくつた評価基準で耳障りのイイ平等観念を振りまかれたのでは、おのずと不平は出る。

 はたして地方のどこがよくて地方と言うのか。地方的なのか地方性なのか、自然なのか人間なのか。どうも判別がつかない流行言葉だが、それとも中央が難儀なので帰りたいのか。そんな婿養子の戯言にも聞こえる。

 よく改革は地方からといわれるがシステムや制度が整っているからではない。簡単に言えば「躾」という習慣学習ができている人間が多くいるからだ。それは 中央の集約される情報を価値として迎え入れるだけではなく、情報の中にあるインテリジェンスを選別する習慣学習の基礎となる分別と、自然の循環を栄枯盛衰 の習いとして見分けることが可能な゛鎮まりの英知゛があるからだ。

 つまり地方をどうするかより厳存する地域文化から学ぶことがマニュアル化されヒステリックになった飽和国家の応用力ではないだろうか。

 科学的根拠と言う代物に生活スタイルそのものが安易にマニュアル化され、政策頓智すら編み出せない中央の環境。その環境にあるものを「中央」と呼び,地 方政治も同様に中央集権の分配ステーションとして各地の功利的デリバリーを呼びみ、法人で言えば現地法人として見られている名目自治体も、体裁はいいがシ ステムの内情は似たり寄ったりの機構の小型化が大部分である。

 最近,石原都知事も自治の回復を唱えて脚光を浴びているが、足元の実態は生半可な事では覚醒しない。どこでもそうだが公選の弊害か出先首長の腰が落ち着かない。

 こんなことをいうと時代が違うとか現地を見なければ、などと゛なるほど゛という舌ハナシが飛んでくるが、どうも世間の騒情が気になるのか、鎮まりのなか で孤高な精神の涵養が適わないようだ。まるでお茶ッ引きの麗女が入り口のドアを気にする風でもあるが、そんな首長に限って盛大な送別会の宴のあとに悲哀を かこうものだ。







福島



以下は「萬晩報」執筆者のコラム



21世紀の計をたてるのは国ではなく地方


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伴 武澄 (2001年1月 1日 08:33)

2001年01月01日(月) 萬晩報主宰 伴 武澄


多様な価値観が育む希望  伴 武澄(萬晩報主宰)

 地方の時代といわれて久しい。かつて地方は東京に対する単なるアンチテーゼだった。だが、どうやら風向きが変ったようだ。中央政体は自民党独裁が続くが、地方では新しい考えの知事たちが続々と登場し、地方からの提案が始まった。まるでオセロゲームをみているようだ。

 今年もまた新しい首長が次々と生まれるのだろうという確信がある。きっとひとびとの間にも 同じような思いがあるのだろうと思う。新しい首長がすべてひとびとの思いを政治に具現化してくれるとは思わない。恵まれた首長をいただくひとびとと新たな 首長に失望を抱くひとびとが出てくるはずだ。

 数年前、Think Japan の大塚寿昭さんと出会ったとき「伴さん。日本の政治は地方からやり直さないといけない。中央ではないですよ」と語っていた。21世紀の初頭にあたってその 含蓄をかみしめている。メディアケーションの平岩優さんも年頭に江戸時代の「藩」を思い浮かべたという。江戸時代のように多様な価値観がこの列島に育まれ たら日本に希望が生まれる。

 萬晩報は4年目に入ります。ことしもよろしくお願いします。





神奈川


萬晩報新年挨拶  中国寧波市 岩間孝夫


 過ぎ去りし20世紀に思いを起こし、そして新たなる世紀に思いをはせる時、つくづく、世の中は変わるものだと思うと同時に先のことはわからないと思う。

 その中で敢えて21世紀のキーワードを求めるならば「調和」だと思う。

 国と国、民族と民族、異なる宗教間、異なる世代間、人類と自然、機械文明と精神文明等々。調和なくして人類はこの地球という住まいの運営を図ることは出来ないだろう。

 萬晩報がスタートして3年が過ぎたが、その間萬晩報の主張はどのテーマに関しても一貫して「よりよい社会を目指す」姿勢に貫かれていた。その姿勢と視点が多くの人々の共感を呼び、今や二万人を越す愛読者を持つに至った。

 萬晩報が引き続き社会の木鐸として警鐘を鳴らし続けることを、そしてまた、日本及び世界の国々が調和のとれたより良い社会に向かって前進することを心から願ってやまない。







津輕




21世紀の計をたてるのは国ではなく地域です  平岩 優(メディアケーション)


 10年ほど前、ジャーナリストのD・ハルバースタムの著書『ネクストセンチュリー』の冒頭に、アメリカを支えるのは国政を担当する政治家 ではなく現場で汗を流している州知事たちであると書いてあるのを読んで、なるほどと思ったことがあります。日本でもようやく、そんな兆しが現れてきたよう です。官僚の弊害、教育の荒廃がいわれますが、規制緩和や制度の改革に取り組みながらも、100年の計をたてることが必要な時期にきていると感じます。そ して、その計をたてるのは国民国家ではなくて、地方でなくてはなりません。かって明治維新に人材を送り込んだのは藩校です。薩長という大藩だけでなく、教 育に熱心であった佐賀藩は明治政府に多くのテクノクラートを供給したといいますし、津和野という小さな藩からも森鴎外や西周などが育ちました。

 しかし、現在の教育・文化装置は東京・大阪を中心とした大都市圏に偏在しています。出版社にいたっては東京に一極集中です。今、地方に必 要なものは、ハコ物の施設ではなく情報発信のできる教育・文化装置です。たとえば、その土地の文化や産物――園芸植物、米、魚介の養殖、半導体、陶磁器、 染料、野鳥などを核にした研究所やカレッジを創立し、世界的な研究者・人材を招聘する。さらにアジアの若い学生や研究者が参加できるような安い宿泊施設や 居住施設を建設する。そうした文化、環境から人は育まれるのです。夢のような話に思えるかもしれませんが、地域を活性化し、支えるのはおカネではなく人で あることは間違いありません。







桂林



人々の中へ  色平哲郎(いろひら=長野県・南相木村診療所長)

人々の中へ行き
人々と共に住み
人々を愛し
人々から学びなさい
人々が知っていることから始め
人々が持っているものの上に築きなさい

 しかし、本当にすぐれた指導者が仕事をしたときにはその仕事が完成したとき人々はこう言うでしょう。「我々がこれをやったのだ」と晏陽初 Yen Yang Chu (1893 - 1990)

 長野県東南部、人口1300人の南相木(みなみあいき)村。私は、鉄道も国道もないこの村に、初代診療所長として家族五人で暮らしてい る。自家用車が普及するまで、人は最寄りの鉄道駅小海(こうみ)まで三里の山道を歩いたという。養蚕や炭焼きなどの山仕事しか、現金収入のなかった時代 だ。

 今は村営バスが走り、農作業も機械化されたが、患者さんのほとんどは、そんな村の歴史を知るお年寄りたちだ。診療の合間に、その口から語 られるのは、遠い記憶である。今はない分校に子どもたちの歓声が絶えなかったこと。足ることを知り、隣近所が支えあったくらしぶり。山に生かされた日々で あった。

 しかし、1836年(天保7年)の飢饉(ききん)では村の餓死者120余人。1897年(明治30年)7月の赤痢、寺への収容者250名 中、死者40余名。今も村に残る篤い人情に感激する一方で、ひもじさと感染症流行の生々しい記憶があった。 分け隔てのなさ、生活の楽しみ、笑い、目の輝 きの一方に、みてくれ、ぬけがけ、あきらめといったムラ社会の狭さもある。

 現在の私は冒頭の詩を座右の銘に、プライマリー・ヘルスケアにつき村人に学ぶ日々を送っている。







バングラデッシュ ダッカ




増える地球益のための活動  中野 有(北東アジアビジネス協力センター事務局長)


 日本の進むべき道が見えないままに新世紀を迎えた。国がしっかりしないので、不満を述べ閉塞感が漂っている世相なら、個人がしっかりする しかないように思える。21世紀の初頭は、個人が世界観を持って豊かで元気で夢のある社会を築いていくという可能性が芽生え始めるのではないだろうか。

 個人が国家論や世界観を論じても違和感がなく、インターネットで瞬時に世界に想いが伝わる。そうなれば国を動かす活動とか革命とかそんな たいそうなことでなく、個人が想いを発信することで世の中の空気が変わり新たな柔軟性のある組織や社会が発生し、国の進むべき道が見えてくる。加えて、環 境、人口、エネルギー問題など一国では対処できない問題に直面し地球益のための活動が増えてくるのではないだろうか。  そう楽観的に考えれば、21世紀の日本はおもしろくなるのではないだろうか。







埼玉 秩父




20世紀という時代から21世紀へ  八木 博

いよいよ20世紀も終わろうとしているが、今世紀を振り返ってみると人間が物 質を理解し、それを徹底的に利用するということに関しては究極の姿にまで完 成させた時代と言えるであろう。ライト兄弟の発明した飛行機が文字通り世界 を一体化したし、科学技術は人間を月に送ることもにも成功した。これらは、 人間が「科学」という手法を用いて達成した素晴らしい成果である。そして、 今はインターネットという、知識を集積しつつ、新しいパラダイムへ転換させ るツールが着々と完成しつつある。従来の価値観と異なり、共有にこそ価値が あり、人間同士のお互いのこの尊厳を認めつつ、新しい人間関係が築ける道具 でもある。ヒトゲノムの全体解析も驚くほど早く大筋が完了された。この背後 にもインターネットによる情報の共有が大きな役割を果たしている。20世紀の 成果が21世紀に実りを生む仕組みになってきた。21世紀にはインターネットに関わる一人一人が、個としての役割や、新しい社 会を考えることになるだろう。主体的な関与こそ、21世紀の社会でのキーワー ドとなる。萬晩報の役割や大である。







PKO




希望のある国へ 齊藤 清(コナクリ通信員)


 西アフリカのギニアは、乾季がかなり深まっていて、野原の草々はすっかり 枯れてしまいました。北からの季節風に運ばれてきたサハラ沙漠の細かい砂が 空を覆い、太陽はおぼろげに、終日淡い光を投げかけています。さらさらと、 耳に聞こえるかのように降りしきる砂の音が、サバンナの静寂をきわだたせて います。夜ともなれば、野火が空を焦がして通りすぎていきます。

 いつもと変わらないそんな平穏な自然を舞台に、ギニアの国境周辺ではしば しば銃声がとどろくこととなり、多くの人々が逃げ惑う状況の中で2001年を迎 えることになりました。今は、政権にある者の命をかけた言動が求められてい ます。そして、希望のもてる新しい世紀となることを願うばかりの新年です。







銀座の朝



2001年に22世紀のことを考えてみる  園田義明

 1990年にアカデミー賞7部門を受賞した映画「ダンス・ウィズ・ウルブ ズ」に登場したネイティブ・アメリカンはラコタ族、通称スー族と呼ばれてい る。現在リザベーション人口ではナバホに次ぐ2番目に大きな部族であり、映 画でも描かれていたようにバッファロー狩りに代表される狩猟採集の民であっ た。

「ミタクエオヤシン」はラコタの『輪』の思想を表す言葉で、ミは「私の」、 タクエは「親戚、繋がるもの」、オヤシンは、「全ての」を意味する。この3 つの単語が繋がって「私に繋がる全てのもの」となる。

 ラコタの繋がりは、命あるものすべてに及ぶ。動物も植物も山や川もすべて が時を超えてその『輪』の中に含まれる。そしてそのすべてに生かされている 感謝の気持ちと、それらにために生きることの誓いとして「ミタクエオヤシン」 は今でも語り継がれている。

 2001年に22世紀のことを想像してみよう。間違いなく私自身の肉体は 存在しない。おそらく私の子供もいないだろう。孫かその子供達は生きている だろうか。彼らに何を残してあげられるのだろう。

「spirit」をいただきながら、ほんの少しそんなことも考えてみたいと思う。






陛下の地方被災地慰問





日本でしか始らない21世紀  美濃口 坦



 年の瀬のある日。 「狂牛病また発見」という文字が踊るドイツのmsnホームページから二回クリックして日本のmsnのホームページにたどりつく。

 左上に 「21世紀の幕開けまで...あと XX 日と XX 時間 XX 分 XX 秒」とあり、秒の前の数字がどんどん小さくなる。感心して見ていると、 「もういくつねるとお正月。、、、、」という童謡の懐かしい一節が蘇った。

 しばらくして「狂牛病」の頁に戻ると、「21世紀の幕開け」とか「今世紀最後の、、」といった文句が見あたらないことに気がついた。他の 欧州諸国のmsnをクリックすると21世紀は日本でしか始らない気がしてくる。日本人がこれほど「西洋の暦」につきあっているのに本家本元は愛想が悪い。 私はこれからも気がついたことを書くつもりにしている。 







精霊





「節」こそ日本の誇る文化  Ban Mikiko


 多民族国家マレーシアで暮らしていて強く感じることは,民族によって時間のリズム、生命のバイオリズムが異なるということです。時代や年月といった「節」のつけ方が文化により異なるとも言えます。

 12月から1月にかけて各民族(宗教)の祭日が集中するマレーシアで「日本人にとって一番大切な日はいつですか」と友人に聞かれました。 「元日です」と答えたことは言うまでもありません。そして「節」としての正月を説明する中で「けじめ」という言葉がうまく訳せず困りました。しかし、年末 年始の様々な習慣を説明しているうちに、この「けじめ」のつけ方こそ、日本が誇る文化ではないかと思いました。友人は「日本人は楽観的な民族だと思ってき たが、そうやって1年ごとにいろいろなことを清算、総括しているから前向きになれるのね」と納得した様子でした。

 かって日本には元日、紀元節、天長節、明治節という四大節があったそうです。すべて祝日として残っていますが、「節」としての意味合いを 留めているのは元日だけです。それでも、一つだけでも残ったことは幸いだと言えましょう。けじめ上手な日本人。今年は「世紀」の単位ではなく、「千年紀」 の単位で日本を見つめ直し、民族としての「気締め」をしたいものです。






桂林奥地の冬


人種、歴史、イデオロギーを超越  中国情報局 文 彬



 「国境を超え、ジャンルを超える」をモットーとする、格調高き「萬晩報」に仲間入りさせて戴き、何時も光栄に思っております。旧年中は、 「萬晩報」の主筆を通じて多くのジャーナリストの方々と交流する機会を得られ、また、読者の皆様からも多くの励ましとお叱りのメールを戴き、大変勉強にな りました。

 過去数世紀の分量に相当する激変が「ミレニアム末」である20世紀の後半でいっぺんに起こり、その勢いは今も続いているように思われま す。そういう意味でも、2001年は日中両国にとって、また世界にとって期待と不安が混在する年になりそうです。ただ、人類が段々と人種、歴史、イデオロ ギーなどを超越し、他人、他民族の多様性に対してより寛容的になり、他人、他民族への理解が日増しに深まることだけは疑いません。その中で少しでも日々発 生している真実を正しく伝え、日中の相互理解に役立つことが出来れば本望です。

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ストレスは誰かのせい ・・?

2018-01-17 08:17:55 | Weblog

             江ノ島から

 

むかしはストレスなどとは言わないし、あることも知らなかった。

我慢も効いたし、生身の人間のこと、そんなことも有り得ると理解していた。それが良なる諦観でもあった。 朝日が東の空から昇り西に落ちる、疑問や文句は言わなかった。いわんや暗記が得意な人間や金勘定が得意だからといって妬むこともなく、それが人格を表すものでないことも分かっていた。


それはあまり関係の無いことだった.
また素朴に人間を見る座標があったせいか,それらの所業の行く末を推知していた。

その意味では社会的参加の「分」は弁えていた。
その代わり自分達の「分」に入り込まれるのを嫌った。

自分のケツは自分なりに拭き方を知っている。人のケツの拭き方まで詮索するほど野暮ではなかった。

ただ厠を汚さないように誰もが注意をしていた。
それを成文化するとコンプライアンスや法となり、自縛になることも判っていた。

そこまで手取り足取りしなければならない厄介な時世になったことを、ふと哀しむ。

そういう自分も厄介の種を無意識に蒔いている。そんな内なる患の出る先が目の前の政治や社会に向かうストレスとしたら、単に自他の分別の無いことのようにもおもえる。

どうも小生も桜の散りさまを惜しむ憐れさを発散の用にしている様で、意気地の無い内省ストレスがあるようだ。

もう少しでも人並みに欲があればと無いものねだりするが、他人は今さら似合わんと・・・。

本居は邦人の情感をものの哀れ(憐れ)と包みこむが、小生は童心のような素直な大らかさが欲しと思っている。すべては「我 ナニビトゾ」(自分はナニモノで何処に行くのか)の存念に途はあるようだ。

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質問の行方は・・ 再

2018-01-16 10:08:55 | 郷学

 

JCといわれてもピンと来ない人が多いだろう。
日本語では日本青年会議所、各市町村に支部があり県単位から千代田区平河町の社団法人日本青年会議所本部に統括されている。
組織は各委員会を構成し各々、教育、経済、国防、領土領海、国家主権、セフティーネット、あるいは理想国家「日本」創造会議など厳めしい委員会が存在している。

6/15日 畏友の縁で知り合ったメンバーから講義の懇請を受けた
内容は教育ということなので「観人則」を表題に官制学校歴カリキュラムに欠落した人間学を通じて時を経させてもらった。

委員長の合同ミーティングのようだったが出身は東京以外の方々で、円形テーブルに夫々がパソコンを置いてのミーティングのようだったが、講義中もメールなどパソコン操作に勤しむ者もいたが、2時間の講義に就寝するものはいなかったようだ。

弘前城公園

 

質問者は2名。紹介者と某君だ。
拙講でもあり聞きなれない単語が多くある内容のため、つかむ所に向かう意志が見えない部分があったようだが、誠に真摯な質問であった。

真摯な質問には真剣かつ厳しい応対が常だが、とくにフォーマルな立場における質問は意を共通な処に置く回答者の立場でもある。
某君の問いは、自らに問いかけるような若者らしい実直な内容であった。
また創業から後継へとわたる連続性の自覚と、他の世情環境への戸惑いと、茫洋に感ずるグローバルの流れに対する戸惑いが見受けられた。

方法論ではなく自立意志の置き所を模索しているようでもあった。
このことは質問趣旨にある日本経済の観察点と生業の不安が混在していたが、利他に用とする観点には狂いは無い。

世界の強者が金と武力を背景に、彼らの云う資本主義と自由と民主があたかも無謬性のある理想として宣伝され、半知半解のまま受け入れているが、今若者の切り口としては当然と思われているベースに問題意識を持つべきだろう。

あの米国の大統領候補として衆目を集めているヒラリー・クリントンでさえ、あのダボス会議でその疑念をスピーチしている。このような内容だった。

いま推し進めている消費資本主義というものによって様々な問題が発生している。そのことによって悪影響を受けるのは女性と子供であるということは、いま置かれているこの経済の姿を考え直さなければならない時期に差し掛かっているいるのではないか・・」(覚え書きだが趣旨は同)

キリスト教圏から発する問題意識だが、イスラム圏、アジア圏に永い歴史にもとずく道徳規範や商習慣をもつ人たちにとっては彼女より強い問題意識と「人間」の変容に対する不安は有ってしかるべきことだろう。
また、固有の文化を保持し他との共生を心がける指導者、知識人の真摯な問いであろう。

いつの間にか融解してしまう危機に真剣に向き合い、問題の在り処を探求する某君の青年らしい姿に小生の学びを再考した次第。
いずれの機を得て某君の故郷の忍び探訪がしたくなった。それは小生への自問でもある。

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ある依頼

2018-01-14 07:50:09 | Weblog



゛口角泡を飛ばす゛とあるが、筆になると、゛筆風は剛にして゛となる。
 まさに熱情は実直で真剣そのものだ。筆者にも経験があるが、郷の利他に邁進する熱情は、ときに郷の人々が慣れ親しんだ生活思考の潤いではなく、大型の爆弾を投下予告するかのように、一斉非難されることもある。つまり、問題意識があってもオボロゲで、今までもどうにかなったと考えるような、郷は郷なりの栄枯盛衰を経て現在に至っている一種の安定が、こと経済問題に収斂され、アカデミックな事業論になると、よほどの慎重さがなければ画餅に陥ることである。
 要は対外環境の危機感から「変化対応と覚醒」を促す試みである。そのためには自身の体験から学んだ社会観、地球軸でみた世界観、人間の変化などを真摯に伝え、住民の問題意識を高めることから始めなくてはならないだろう。
 それは、お節介にも郷に譲る礼儀があるということだ。

 幸いにも依頼者は山形県から上京、本田技研の製造ラインの職工から、営業職に志願して世界各国をまたに掛けるツワモノである。以前筆者がブログで「ホンダの無礼とざっくばらん」について書いた章を、居酒屋のカウンターで渡した縁だが、本田宗一郎氏が存命なら期待と可愛がりの「バカ野郎」を甘受できたと思う人物である。
 大企業では、彼は変人の部類である。ただ、食い扶持の按配もあるだろうが、人と異なることを恐れない、かつ問題意識の抽出と解決思考がアップルのジョブスばりの強引さがある。
 その彼が、故郷を遠く眺めて、歳も増したことゆえ一肌脱ごうと画策したのである。
 それを「おもしろい」と引き寄せられたのが筆者である。
 さて、゛山形のジョブス゛と、゛巷の一休が゛何ができるか・・・ 
 彼の肩のコリをならすのが先決のようだが・・・

以下が彼の熱情のほとばしりです。






       津軽 平川     右手は八甲田


 事業を行うには4本の柱がある事を民衆は知り、その為の知恵と情熱を出さねばならない。
 事業の4本柱の1本目は『養成事業』である。つまりは、地方にとって将来性のある事業を
どのように創出するかを学ぶ・研究する・立案するという事である。

2本目の柱は『認定事業』である。事業の成立性と継続性を鑑み、事業として地方が認定
し、何故・何を・誰が・どこで・いつから・どのくらい・どのようにして、を明確にする事である。

3本目の柱は『設置事業』である。実際に事業を始める為の準備である。設備やインフラを
整備し、実際に事業を始める為の事業である。

4本目の柱は運営事業である。事業計画に沿って、事業が成立しているか、見直しをし、縮小
すべきものは何か拡大すべきものは何かを検証・監視・再構築する事業である。

こうした一連の流れを常に廻して行く事が事業なのだという事を学ぶべきである。
 事を成し遂げるには人・物・金・時間(タイミング)が必要であり、その牽引となるべき要素は、
先ずは人である。人がその気にならねば金・物・時間のリソースは発生しない。


我が故郷、山形県の置賜地方には、豊な自然という物のリソースがある。清涼で豊な水・連山に囲まれた盆地など、気候・温泉・山岳・何れも人の総智を結集すれば、どうにか出来るはずであり、どうにかせねばならない危急な課題である。







 つい先日、新潟県の農政局が、モンゴル対して、新潟産こしひかりの輸出事業を始めた内容が
テレビで放映された。稲作では全国有数の産地ではあるが、殆どの農家は疲弊している。
 稲作農家には稲作農家としての生きる術があるはずだし、稲作に拘らない新しい農産物の開発
や養殖も可能なはずである。何も一品入魂となる必要性もない。多種目の事業展開によって
その連動性と相乗効果を狙う事も可能であろう。

安直な発想ではあるが、例えば養鶏をするとして、繁殖や品種改良を専門に行う人がいれば、
養鶏の為の餌を作る人もいる。 鶏糞を集めて肥料として作る人もいれば、販売をする人もいる。
物流・商流を開拓する人もいれば、企画/計画立案/検証する人もいる。養鶏場を建設する人も
いる。衛生管理・安全管理をする人もいる。 こう考えただけで、これらの事業を地域で成立させる
には、多くの雇用の創出が見込まれると同時に、経済効果は莫大なものとなる。

 しかし、現状では一生産者が全ての事を賄おうと奔走し、日々の労働に疲れ、中間業者の搾取の
餌食となる。
 結論から言えば、一生懸命、1人で起業した処で、人生の大事な時間を徒労に終わらせてしまう
事である。
 それには、地域の為、他人の為の情熱を持った人の総智によって、これを克服せねばならない。それが、自分に循環して、地方の豊な再生へと繋がることは言うまでもない。

以下は、彼らしい依頼要件

講演要件
~1. 現状の日本の産業の動向と将来性を語る。
~2. 今後、日本が生き残って行く為(地方の再生)のヒントを語る。
~3. 日本人の素晴らしさと、それを発揮するヒントを語る。
~4. 組織力/人と人の繋がりについてヒントを語る。
~5. 今まで、経験した(国内/海外)中から、ヒントを語る。
~6. 夢を語る。
~7. 事業の考え方と人・物・金・時間(タイミング)の有効活用について語る。
~8. 地方の農業をどう再生させるかのヒントを語る。

◆ 講演者の学歴/職歴
  過去にやって来た事(田舎の人に参考になる話)、今、やっている事。これから将来、やって行く事。

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日本および日本人を変えた頃. 17, 2/12

2018-01-10 07:27:06 | Weblog

                     岩木山 

 

以下は行政機関の現業組織における幹部候補に行った知友の講話の標題と資料の抜粋です

気が利いて率先垂範する・・・・、官民問わずみなそんな人間を渇望しながら苦労している

そんな人間に関する処方箋は官製のカリキュラムにはない。あろうはずはない。そのような人間をつくるためだったかのような教育制度や国の構成が明治初頭につくられたのだ。

社会の患いの多くは人間によってつくられ、その責任は総て人間に帰結する。

 

寳田時雄 講話資料より 

標題 「機略の縦横無尽を養う人間考学」                   2015.12.16

 機略とは事に臨んで臨機応変に思考をめぐらすことではあるが、その要は人間(人物)そのものにある。それは状況に応じて、瞬時な対応を考案することであり、たとえ集団内においても、全体の一部分において発揮できる己の特徴を鑑みて、連帯の調和をいかに維持するか、また、各々の部分をいかに連結統合できるかという、多面的かつ根本的で、さらには連結統合の効果となる他に対する許容量を拡げ、高めるような習得が必要となってくる。

 特に、瞬時の機略判断は技術や知識の習得だけではなく、直感性を養う浸透学的な要素が必要となる。また、如何なる状況においても判断基準となる座標軸を強固かつ、柔軟に持つ感覚も必要となる。こういった感覚は、己に立ち戻ってみれば、まさに生死の観、不特定に対する責任感が混在するなかでの突破力となる覚悟など、怯み、怖れを祓う勇気の源泉を、自然にかつ容易に発生させるすべともなる。

 しかしながら、このような人間考学は官製学カリキュラムにはない。

 いわば学びの「本(もと)」となるものであるが、この「本」のあることの認識し、その「本」を伸ばす学びや人間関係の柔軟さを習得することは、生死の自己完結の自由を担保し、慈しみをもつものに靖んじて献ずる精神の安心した状態を維持涵養することにもなると考える。

 また、生死の間を想像し、それが不特定多数の安寧を任務として、かつ、安らかな生活を願う最愛の家族隣人を想起しつつ平常心で職務を遂行することは、戦闘集団の高位にあり責務ある立場のものとして、いざという時の瞬時に、志願発起時に希求した姿を想い起こしうることにもつながるだろう。それは溌剌とした自己躍動の想起でもあろう。

この度は、この官制学カリキュラムにはない機略の縦横無尽・臨機応変を養う人間考学を、明治初頭の残像にみる学問を振り返って眺め考えてみる。

 

              

               東秩父

◎講話レジュメの一部

Ⅰ 明治初頭の学制と、それ以前の学問について

明治天皇の直観 「聖諭記」 

啓蒙思想とフランス革命

フランスの学制をもって日本の習慣を転換させた(森有礼・ありのり)

≪キリスト教の神を中心にすえた世界観をつき崩し、人間中心の世界観を構成していった、つまり王政の打倒と市民という個の発生は、民族の長を消滅させた≫民主主義

※ 以下、関連サイトより転載

旧来の学問のあり方を否定し、思考方法の転換をもたらす新しい学問を普及させることであった。福沢らにとって儒教や国学は現実から遊離した机上の観念や文字を弄ぶ虚学にすぎず、学問とは現実の実践に有用な知識を追求する実学でなければならなかった。実学とは、天や理などから森羅万象を演繹的に理解する形而上学的な方法を排除し、現実世界の事象に対して観察や実験を重ね、そこから法則を機能的に導き出すという自然科学をモデルにしたものであった」(山室[1998:1576])

・・・この人間観を体系化した西は「人世三宝説」において健康・智識・富有の三つを人生の宝とし、すべての人間活動の源泉としたが、これは人欲を害とした儒教や煩悩として斥けた仏教の人間観を否定し転換したものに他ならなかった」(山室[1998:1576])

 

 

聖諭記」抜粋 明治天皇が帝大視察の感想を元田侍従に諭した記録  学制への憂慮

 朕は、先日大学に行き大学が設けてあるそれぞれの学科を視察した。

理科・化学科・植物科・医学科・法科はますます盛んで進歩したと感じたが、教育の主体とする修身の学科では其の進歩を見ることは出来なかった。

和漢の学科は修身を第一とする。古典文学講習はあると聞いていたがどこに

あるのか、先日の視察では観ることが無かった。

そもそも大学は、日本教育で高等の学校にして、高等の人材を育成する所である。

しかし、今の大学では治国・治安の道を講習し高等な人材を求めようとしても、このままの大学では決して得ることは出来ない。

かりに理科・医学科を卒業してその道の大家になったとしても、その者は内閣に入り大臣・首相になって国を治める人にはなれるものではない。 (講者簡訳)

部分専門家だけで、全体を観察して統合できる人材がなければ国家社会への有効性はない。現代の教育体系の問題を推考した明治天皇の英明な直観である

 

 

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「論語」の著作権と利学 再

2018-01-05 20:22:04 | Weblog

               生まれた頃は無垢だった



論語に著作権はあるか
しかも異国の昔話(古典)を、いとも高邁な学説で解釈説明しても、孔子には反論するスベもない。またそれを基に論理を展開させ、その時々の人間の処世の具にしたところで、孔子は著作権の侵害を訴えたのであろうか。

学問は衣食のためにするものでないと説く孔子だが、霞を食べて生きるものではない。しかし近頃の著作権は財産権として譲渡あるいは継承することによって複雑な様相を見せている。

ある碩学は側近に、気がつかない者と酒飲みを置いていた。亡くなれば元高名な学者の側近パスポートを持ち、とくに渉外担当として多くの企業家に協賛なり連絡係りとしてやたら出入りして、ちゃっかり自らの商用をおこない財を成している。もう一人は事務取りまとめや出版物編集などだが利の臭いはしない。k

碩学や家門に連なるものとしても、何かと形式を採らなければならないためか、俗に言う白足袋風であり、世俗の煩い事にはある一点を抜いて感知しない風でもある。

つまり、お任せであり、下賎な?交渉事は気がつかないが、ある一点は気が回る側近が専任していた。このような手合いに限って、゛竜眼の袖゛に隠れて粗雑な行動をとり、名利に敏感なため有用無用の峻別には殊の外敏速になり、かつ下々には威を撒き散らすものである。

「昔の名前で出ています」ではないが、虚偽膨大な歴史上のエピソードと、その遺物である著作の権利をもつ白足袋継承者をいいことに、甘言を以って貰い扶持を謀り、己の意に添う出版社の譲渡管理させたりしている。

そのような側近は老いた碩学を手玉に取り、晩生に痛恨事を招く出来事を招致看過し,諫言すらままならない宦官のような行動をとっている。

また、ある一点は学問では解決のできない難しい問題ではあるが、その像を錯誤しつつも敢えてぬるま湯に浸かる学徒の群れもそれを助長しているようだ。

つまらん知識は却って堕落を招く、とは碩学の言葉だったが・・・

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安倍くん 宰相は、慌てず、競わず、怯まず (再)

2018-01-03 11:11:58 | Weblog

           現代の大塩平八郎は、 いずこに

 

 

政治の「政」は、正を行う意だが、一に止まる(正)、「してはならないこと」、ことと、「これだけは行わなくてはならない」ことの矜持と決断を表している。それには下座観と時節の俯瞰が必要だが、その思考の座標は沈着冷静を以て行うべきだろう。


標記は、総てが沈着冷静を本とする「多不」だ。急がず、阿(おもね)ず、妬まず、など色々だが、要は不完全なる故の「自省」を本としている

茶坊主や陣笠には分からなくてもいいことだが、宰相は内外の施策方針を陛下にお言上(天聴)にする務めがある。陛下とて内外の事情、とくに国民(大御宝)の生計を案じ、細かく世情を観察している。

安倍さんの叔父さんになる佐藤栄作首相は度々皇居に参内している
いまも変わりはないが、猟官、政策提言、など、こと理由をつけて総理に面会を希望する者がいる。宰相とて選挙を深慮するあまり、忙しい合間を縫って地元なり経済界の後援者と会うが、お決まりは陳情もしくは地域や職域の充て職就任の報告など、断りにくい煩いの時を費やしている。

一方、数値教育の弊害によって、部分専門家が増えたためか、あるいは各省の縦割りの弊害なのか、それぞれが完結せず、どうしても総理の裁可を仰がなければならない事案もある。
つまり、信頼に足らなくて任せられないのか、官僚に多面的能力と許容量が乏しいのか、これまた分刻みの予定が入り込んでいる。

それに加えて昨今の政治につきものの、マスコミ用のパフォーマンスにも磨きを掛けなくてはならない。株上がれと八百屋でカブを掲げ挙げるのもその一つだが、よくぞ総理にやらせると思う珍奇な芸を所望する取り巻きもいる。いくら選挙向けでもそれほど国民のIQは低くはない。その点、物知りの馬鹿より無学の莫過の方が愚かではない。
「莫過」は過ぎたるは莫(な)し、バカに出来がいい、バカでかい、の類で、決して愚か者を喩えることではない。

余暇にゴルフや居酒屋もいいが、それでストレス発散や教養の種になるのは応用力のたまものだが、昔の宰相は閑居に独想を愉しみ、「清風の至るを許す」厳しさがあった。
「清風・・」とは、「葷酒、山門に入るを許さず」と禅寺の山門に大書したあることと同じで、「葷酒」は臭い人間が入るところではないよ、ということと、「清風・・・」ならいいが、金の臭いや、名利の促しはお断りでということだ。
もっとも、黙っていても漂う人格識見なら近づきもしない。つまり、余計な情報を押し抱いて来るような輩を寄せ付けない人物に成れ、ということだ。逆に欲の深い迎合心の強いものが集まるのも、その人物の雰囲気から発する臭いだ。類は友を呼ぶ。

                

           智将といわれた児玉源太郎は人を見抜く眸(メ)があった

 

人格者は諫言をよく聴き、決して遠ざけない。
慌て、騒ぎ、競い、小心で怯む人間は、諫言をことのほか嫌う。くわえて何でも聴きたがり、知りたがる

現実政治は現世価値による世情観察で物事が動くと考えている。とくに数値や仲間内の理屈は、往々にして計算違いした時に分派、分裂する。
とくに、外交では対立した異民族を対象にしたときは表裏と民癖などがどうしてもネガティブに向かってしまう。しかも急ぎと競争が面前に現われると、どうしても売文の輩や言論貴族の言を流用し、かつ弄ばれて、歴史に耐えうる政策の統一性と思索の許容力が、古臭い、野暮だと切り捨てられ、どうしても目新しい巧言をともなう政策に堕してしまう。
ついには追い立てられるように政策を乱発して、ただ落ち着きのない騒がしい政治になってしまう。

宰相は孤独を悦ぶのが、和魂の為政者の風だった。絵画に描かれている借景を観て自然を想像し、賢書を読んで出処進退を倣いとする、故に急がず、騒がず、慌てず、競わず、怯まず、の気風が養われ漂う落ち着いた政治ができたのだろう。なにも固陋な隣国な古典を読まずとも、我が国の栄枯盛衰に表れた和魂を知るだけでもいい。
政治でも洋行帰りの洋才流行りだが、語学とグルメと合理と思われる仕組みを知っても、伏魔殿を形成している国賊的省庁もある。

静かに落ち着いた思索と観照が宰相の務めだとしても、おちおち黙っていられない連中を相手にしては大変だろうが、そんな取り巻きに限って窮すれば他人のせい、危なくなれば使いっぱなしで総理に責任を負わせる。

一度は政権を離れ孤独な閑居と国内巡察を得て習得したことは、人を観る目(観人則)だったはずだ。昨今は観人の座標が一過性の功利に揺らいでいる。
何となく、落ち着かない流れに乗っている国情だと感じる国民の多くは、政経・マスコミの騒ぎの底流を、宰相の沈着冷静の微かなる姿だと考え始めるのは、そう遠いことではない

それは国家への信の行方でもある。

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