まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

「萬晩報」 190120 高知市庁舎に入居しているフランス企業

2019-05-23 18:50:37 | Weblog

    台北国父記念館の庭 このころは純情可憐?

 

元共同の伴武澄氏は退職後、高知に戻り、空き店舗を利用して「はりまや橋 夜学会」を主宰し、山に分け入っては炭焼きをして商店街の路傍で売っている。

組織慣れした人間は、女房殿に止められるのか、糜爛した都会に居座って勲章待ち、小金の利殖に励む者もいるが、一時、彼も自己完結ならずそれで過ごすのかと思いきや、一念発起、自然に育まれて快男児になりつつある。

そこで男は立候補した。惜しくも落選したが終盤は耳を傾ける聴衆も多くなったという。落選も然り、矛盾を唱え、利他に向かい、それを説明する。そして賛同する人が多くなる。落選は恥ずかしくはない。

恥ずかしいとすれば、恥ずかしいと思う心が恥ずかしい。王陽明の幼少期の友人に言った言葉だ。

そんな男の叫びをブログ上で再現してみたい。

人材も売るが、漁場や水道も売る政商にも届くだろうか・・・・

 

 

   

   高雄の日本語世代(97才)の方々とも毎年恒例となった。  高雄市政府 仁愛の家

 

「萬晩報」 190120 高知市庁舎に入居しているフランス企業

2019/01/20

   

 高知市上下水道局のお客様センターは、2011年1月からフランスの水大
手、ヴェオリア社日本法人の子会社ヴェオリア・ジェネッツ社に業務委託
されている。 9年目に入るが、ほとんどの高知市民はこのことを知らない。

ヴェオリアは2002年に日本法人を設立し、相次いで水関連の日本企業が買
収した。その中に各地で水道料金徴収業務を請け負っていたジェネッツ社
もあった。いつの間にかジェネッツ社がフランス企業の傘下に入っていた
のだから、分からなくて当然だ。つ

 ジェネッツ社が社名にヴェオリアを冠したのは2015年。いまでは174カ
所で水道料金徴収業務を行っている。ほとんどの都市にヴェオリアが浸透
していることになる。日本法人の社員は3000人弱だから、すでに大企業で
ある。料金徴収以外にも、広島県広島市下水道局(2006年)、 埼玉県下
水道公社の下水処理場(2006年)、松山市公営企業局の浄水場(2012年)、
浜松市公共下水道終末処理場(西遠処理区)(2018年)の運営を任されて
いる。

 高知市で奇怪なのは、ヴェオリア・ジェネッツ高知営業所の住所が、高
知市上下水道局と同じなことである。民間企業が市役所の庁舎に営業所を
置いているのだ。営業所だから、会計事務や採用などの要員も市役所の中
で業務をこなしている。こんなことは高知市以外ではまず許されないだろ
う。

 上下水道局は賃貸料を取っているというものの、年間180万円(光熱費
込み)というから、高知市内でもかなり安い部類に入る。安いどころでは
ない。概算で光熱費が月額10万円とすると、50人ほどの事務スペースの賃
貸料は月5万円ということになる。これは法外といっていい。しかもこの
ことは高知市上下水道局とヴェオリア・ジェネッツ社との契約書に盛り込
まれている。

 お客様センター業務の外部委託は市役所の業務効率化の議論の中から生
まれ、プロポーザル方式によって、3社が入札し、5年間11億円の金額でジ
ェネッツ社(当時)が落札した。この金額の妥当性は素人には分からない
が、年間9000万円の経費削減になると説明された。2014年に高知市の上水
道と下水道が統合され、2016年からは13億1000万円で契約が更新された。

 今のところ、高知市は水道の民営化はしない考え。昨年12月の市議会で、
上下水道事業管理者が明言しているから間違いない。ヴェオリア社から、
料金徴収業務以外のプロポーザルもないという。「高知みたいな小さい都
市に来るはずがない」との説明もしている。

水の民営化が議論される中で
行われた12月議会でのやりとりは一切、報道されていない。僕が現役記者
だったら、「高知市、民営化にノー」と書いただろう。

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限界集落? 君達は西洋人か・・・  2008 8 あの頃

2019-05-20 11:43:32 | Weblog



「後期」だの「限界」だのと知恵の無いハナシ

後期高齢者が考え方もイメージも悪いと、制度改正そのものより判りやすい文字使いにターゲットを絞ったような反論を聞くが、其の対象とされる年代の方々は「限界」という文字がこの国を覆っていることについて、我には関係ないとばかり批判対象にしないような雰囲気がある。

先日、高知県安芸市近郊の限界集落のことを伺った。
高知出身の通信社勤めの友人が連れてきた福祉関係のお役人さんで、さすが女性ゆえの問題意識と切り口は男に勝る見解をもっていた。

そこで素朴なお伺いを立ててみた。決して意地悪いものではなく意味不明を問うたのです。
「ところで限界とは、なにを指して限界というのですか・・?」

「まずは人が少なくなる」過疎とは違うらしい。
「医療や生活機能でいう移動、通信などのライフラインが機能しなくなる」
対処は・・
「イベントなどで人を集めることを考えている」

限界ではなく、やる事はあるが、生産性や便利さに欠ける、あるいは非生産的老人ばかりで町が維持できない、つまり行政効果ゆえの費用対効果から観た「限界集落」なのかと思えなくも無い。

いま都会では団塊の世代が、゛やりたいこと゛の欲求が過ぎて、゛やるべきこと゛への問題意識が芽生え始めている。昔は同じ人間種として人生五十年といわれたが、長生きの欲求は止め処も無く、精神も身体もヘトヘトになって平均年齢80に届こうとしている。
まさに自己限界となり、生きていくのに疲れた人が群れになって逍遥している状況がある。

限界社会なり限界国家があるとしたら、長生きはするが子供は少ないという、史上稀な現象を作り出している。

「限界」は限りある世界との意がある。あの旧約聖書にも限界を超えると終末になり、ハルマゲドンが訪れるという。限界とは其の世界の知識文字で、東洋は「循環集落」と考えるものだ。ことさら役場の官吏のデリカシーを云々するつもりは無いが、全国いたる所にその限界集落がある、また増えているという。都会に出れば何とかなると、若者はその糜爛した人ごみを目指すが、そこも口入れ屋が待ちうけている魔窟のようなところだと分かるのも、そう時を必要としない

郷に戻ればシャッター通りだが、どこでも役人と僧侶が妙に元気がいい。
たしかに限界といえば、社会構造の基礎的部分を支える「公」に携わる人間そのものが限界域に達しようとしている。
「無財の力」を人の心の知力、耐力として説く仏教が、寂れた町ほど伽藍や庫裏の建築競争に堕していては、「泣く子と地蔵・・」が、「役人と坊主には敵わない」といわれそうだ。

 

     

      津軽郷学 「悠心居」

 

青森県の或る市のことだが、日曜日に出勤している職員がいた。
「大変だね、休みも無く」
「いゃ、妻と母が買い物に行ったので家に居ても・・」
「市内なら一緒に行ったら・・」
「東京ですよ」
たしかに市内の繁華街はシャッターが閉まっている。駅前の量販店は忙しいが、東京まで出稼ぎ、いや出張買い物とは、複雑な思いがした。一昔前は、゛旅゛である。

近在の農家は俗にいう三ちゃん農家で祖父夫婦もいる。そして年収は350万位だが贅沢などの習慣も無く、この地方ではごく普通の生活を営むことができる。だが役場の若者の給料は年収でそれを超えるという。

これは単に巷間、政治家の言い争いにある単語の一種である、公務員制度、地方自治などの制度や権限のハナシではなく、一昔前の官民格差の悪しき是正不作為でしかない。
この地域は明治の創成期に多くの英傑を輩出した。また彼らを育んだ独特な郷土の学問があった。

相次ぐ凶作と維新の混乱から打ちひしがれ希望を見出せなかった人々に向かって、「人間がおるじゃないか」と精神の振起を促した菊池九郎は、新政府に援助を請う近県とは違い、「津軽は一人たりとも餓死は出さない。他の県に回して結構です」と援助を断っている。

貰って当然、もらう権利がある、と先頭に立つタレント知事がいるが、システム・制度の中で論ずる前に、黙々と働く日本人の心根の中にある、譲る、控える、そして自己完結の自立の精神を、゛おんぶに抱っこ゛という「貰い得」を助長させているようで嘆かわしい。
それとも「一村一品」を単に産物として理解しているのだろうか・・
「品」とは、何でも売る、どこにでも頭を下げるだけではない。「人」の地域文化を誇る「品性」も兼ね備えるべきだろう。

これこそ始末の悪い人間の限界であり、まさに欲得の分別を心得た英知ある国民の怒りの臨界は近づいている昨今である。

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佐藤慎一郎先生の想い出 (ラクーンさんのブログより)

2019-05-07 15:56:37 | Weblog

 

               

                    満州にて

 当ブログにも再三登場している佐藤慎一郎先生を見事に活写しているラクーンさんの章です

 

佐藤慎一郎先生の思い出

 

人生の師との出会いというものほど、衝撃的なことはあるまい。

 

傭謹(ようきん)の士は得やすく、奇傑の士は得がたし」とは、世に棲む日々にでてくる古語で、平凡で実直な人はいくらでもいるが、事に臨んで大事を断ずる人物は容易に求めがたいという意味だ。拓殖大学という学びの場で、知識を教えてくれる教師という人は山ほどいたが、恩師(佐藤先生)以外に人生を教えてくれる方に出あったことはなかった。

 

            

 

もう大学を卒業して40年以上になる。世の中には、拓大より有名な大学は山ほどある。しかし、それらの大学で学ぶ学生たちは、人生を学ぶ機会にめぐり会えたのだろうか?人生の師と呼べる人にであったのだろうか?拓大という小さな私学ながらも、「人生の師」に会えた幸運を、ただ心から感謝したいためにその思い出を記したい。

 

            

      最初の給料が⒉万円、戸惑っていると

      「あなたは学生が好きなのよね、それならやるべきです、私は大丈夫です」とモト夫人は激励

 

知識とは活用すべきではあるが、人生の根本ではないというのが恩師の口癖であったように思う。「東洋史」という講義の中で、いつも次のように話してくれた。学生という漢字を例にだしながら、「あなたたちは、生きることを学ぶから学生なのだ。」と講義中叫ばれ、毛沢東を例に引きながら、人生という根本を忘れ知識偏重になることを戒めた。また、

千万人と雖も我行かん自分の心を振り返ってみたときに自分が正しければ、たとえ相手が千万人であっても私は敢然と進んでこれに当ろう。千万人の人がこっちの方に行くとしても、自分が正しいと思ったら、一人でも正しいほうに行くんだという気概を持ちなさいと教えてくれた。その情熱にあふれ、学生を愛し、人に影響を与えずにいられないという命の講義ともいうべきは、30年以上過ぎた今でも耳朶から離れない。

 

       

 

もし、幕末に吉田松陰にあうことができたら、まさに佐藤慎一郎先生の姿に重ねあわせることができたに違いない。幕末の時代のような大きな転換期であったなら、現代の松下村塾になりえたかもしれない。松陰も論語をひきながら、烈々とした講義をしたことで知られる。恩師も、論語を引用しながら、人生の核心にもせまる話を何度もしてくださった。このブログを通じて、恩師の偉大さを少しでも伝えることができたらと思い筆をとっている。

 

 

まず、佐藤先生がいらした拓大について話しておこう。まず私が入学した昭和50年(1975年)、当時の拓大は文京キャンパスのみで、黒い学生服の学ラン姿も多く、右翼系の大学の様相を呈していた。

 

 

 

拓大の歴史をたどっていくと、1900年に桂太郎によって台湾協会学校として設立されたのが始まりである。日本の植民政策のもと、台湾や朝鮮半島とも密接につながり、そこに人材を排出していくための人材育成の機関的要素が強く、未開の土地を開拓し、移り住むという拓殖の理念では、普遍的な理念にはほど遠いようにも思えたものだった。大変な大学に入ってしまったというのが偽らざるべき心情だった。

 

       


    先生の姉 満州民生長官竹内氏の妻      新京にて

 

その教養課程で、東洋史をとったのが恩師との始めての出会いだった。恩師は昭和51年(1976年)で大学を退職されているので、退職される一年前の70歳の頃にお会いしたことになる。

 

 

 

恩師は1905年に青森県に生まれている。小学校で教えているときに知り合った女性と駆け落ちして、満州に渡ったと記憶しているから、恩師が19歳の頃だったのではなかろうか。満州時代の話も何度かされている。馬賊は、医者と僧侶は殺さなかったため、医者に化けて旅行した話や、阿片窟に調査に行った話など。

そして、最後には、拓大で教鞭に立っている理由は、君たちの拓大の先輩が、満州平野で勇敢に死んでいった姿を見て、何故あれほど、勇敢だったのか知りたくてここに立っているという話で終わった。あまりにも多くの死を見てきて、独特の死生観をもっているように思えた。阿片窟に関しては、先生の残した貴重な本があるので、後日またとりあげようと思う。

 

      

       国民党 委嘱 叔父山田純三郎

 

中国革命を助けた山田良政が伯父であり、孫文を助けた山田純三郎が叔父であることを考えると、恩師と中国の関わりは、必然でもあったろう。孫文が日本に亡命してきたとき、叔父たちがどのように孫文を助けたのか、よく話してくれたものだった。講義中に中国語で歌いはじめるなど、本当に中国を愛していたように思う。

 

敗戦で、三度、中国国民党、中国共産党に捕らえられ、入獄する。スパイの嫌疑で、死に臨んだ。しかし、牢の中でもユーモアは忘れず、牢番と冗談を交わしながら、生への希望は捨てなかった。その日は突然やってきた。

ある日、牢番が先生を呼びに来、先生に草原で墓穴を掘らせた。さすがに、穴を掘り終わったあとで、これが最後かと死を覚悟した。小銃をかついだ門番は、突然「お前を逃がしてやる。逃げろ」。先生はきっと逃げている最中に後ろから撃たれるだろうと思いながらも、必死で逃げた。数発の銃声が聞こえた。銃殺したという証拠のためだったのだろう。そして満州国は、1945年に消滅し、中国を逃れ、生きて日本の土を踏むことができたのだった。

          

                 

      満州経済界の雄 王荊山の遺児と


帰国後、病気療養しながら、さまざまな組織の重職を担い、1963年から拓大で講師として働き始める。約12年の間、数多くの学生に教えてきたが、ありとあらゆる死をみてきた先生にとって、拓大、いや全国の学生がイデオロギーに毒された阿片患者のようにおもえたのではなかろうか? 満州国のハルビンの中心に「大観園」という阿片窟があった。その阿片窟を調査した資料「大観園の解剖」は、恩師が命がけで書いた本であり、そこに住む人たちがどん底のなかで阿片を求め、殺し、死んでいくさまを記している。

なんと、現代の学生の姿に共通しているのだろうか? 刹那主義を求め、無力な学生は、先生にとっては、根本を失ってイデオロギーに理想を求める阿片患者そのものであったに違いない。

 

 

 

講義中、何度も論語や古語を引用した。「四書五経」の中の『大学』に出てくる「日に新たに、日日に新たに、又日に新たなり」殷の湯王はこれを盤、すなわち洗面の器に彫りつけて毎日の自誡の句とした話をしながら、今日の自分よりは、明日の自分はさらに成長していなければならない。三国志演義からの引用もあった。

士別れて三日なれば刮目して相待すべし。」日本では、「男子三日会わざれば刮目して見よ。」と訳されているが、男子というもの、3日会わなかったら、驚くほど心が成長しているものだし、そうでなければならない。

日本は本当の意味での独立国家とならなければいけないと良くおっしゃっていた。そのためには、自分を変え、地域を変え、国を変えていく必要があると説いた。世界の場でどうどうと国としての意見が言えない、大国に隷属した国家の姿は、先生の「千万人なれどもわれ行かん」という思想には相容れないものだったにちがいない。

 

            

 

教育とは、終わってから残っているものという話がある。大学で得た知識は、残念ながらあまり残ってはいないが、講義中に聞いた恩師の一言一句は、まるでテープレコーダーのように記憶に鮮明に残っている。

 

 

 

先生の講義を受けたが、個人的にお会いする機会は残念ながらなかった。講義室は学生であふれていたし、時折、キャンパスでお会いしても、学ランを着た生徒が数人先生を取り囲んでいて、近づきにくい面もあった。お会いしたときに、一、二度会釈をするだけの関係でしかなかったが、私の心には、永遠の心の師匠として心に刻まれている。

 

 

 先生の言われた人生の根本たるものは、何なのかについては教わっていない。

天人合一思想の話もしてくれたが、それが根本だとは言っていなかったように思う。それは、松下村塾で学んだ高杉晋作が、必ずしも松陰のお教えどおり生きなかったのに似て、講義に参加した学生一人一人がどう生きてゆくかを自分で見つけることで良かったのだろう。

人生の根本は、自分で見つけなさいという遺訓であったと自分勝手に理解している。

先生の根本は、一つの思想ではくくりきれなかったかもしれない。先生の年齢に近くなってきて、自分の求めていたのが何だったのか、おぼろげながら見えてきたように思う。あの時、おそわった「日々新たに」という言葉は、いまでも心に生きていて、私をいまでも前へ前へと駆り立てている原動力になっている。

 

 

 

      

     郷学研修会 にて


(直前中止) 毛沢東・蔣介石会談の直前に山田純三郎が佐藤慎一郎先生に伝えたという言葉、「孫さんがいつも言っていた。日本人が真の日本人に立ち戻ってアジア民族のために協力するならアジア民族はこぞって歓迎する。慎ちゃん僕はもう年だ。世界に通用する立派な日本人を育ててくれ」

佐藤慎一郎先生が拓大で教え、学生を勇気づけ、人生の根本たるものを探せと問い続けた理由は、上の言葉に凝縮していたのではなかろうか?

 

全文転転載させていただきました。

写真は佐藤先生から寄せられたものを追加掲載しました。

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佐藤慎一郎先生の風儀を、永く懐かしむ稿のご紹介

2019-05-07 14:58:31 | Weblog

    佐藤先生の叔父 山田良政 辛亥革命の恵州で殉難

          弟は孫文側近 山田純三郎

 

     山田純三郎と孫文

 

 

ラクーンさんのブログをご紹介させていただきます

 

満州大陸の阿片窟

 

 麻薬(ここでは阿片)という言葉には、死と悦楽が表裏のように存在している。

 

正に人間として、決して食してはいけない禁断の実ともいえよう。

 

 

中国の歴史では、清朝衰退時期に始まった侵略戦争からアヘンが表舞台に現れる。イギリス東インド貿易会社がインドで栽培し精製したアヘンを中国に持ち込み、その貿易取引から膨大な利益をあげ、中国を衰退させていく。国民にアヘンがいかに悪影響を及ぼすかに気がついた清王朝が、そのアヘン輸入を力ずくで止めようとしたことから始まったのが、イギリスと清朝のアヘン戦争であった。そして、アヘン戦争から約90年後、日本の傀儡国家ともいうべき、満州国が成立する。

 

 

 

太平洋戦争の頃には、そのアヘンは中国でも、すでに栽培されていたようだ。その満州国のハルビンにそのアヘン窟はあった。

 

・        

           弘前 禅林 佐藤家

恩師である佐藤慎一郎先生の書かれた「大観園の解剖」は、その当時の経済、スラング、アヘンが中毒患者に及ぼす影響などをあますことなく記してある。恩師がなぜこのような調査をしたのか、興味があって、調べてみたが、どうも満鉄調査部が恩師に依頼したか、満州国総務庁が絡んだ可能性が強い。満鉄は新しい企業であったが、国策に沿った会社であった。アメリカのCIA情報部のように、中国に関しての情報を集め、提言・報告できるほどの頭脳集団だった。調査資金も豊富で、様々な研究や調査が行われたと言う。それほどの頭脳集団が集めた情報が、大本営で活用されたかというと、残念ながら、最大限活用された形跡はない。この「大観園の解剖」もどのような目的で調査されたのかはっきりしないが、当時は機密扱いとなっている。

 

 

 

阿片は、それでは、どこから来たのだろう。その頃、阿片が中国で流通するには三つのルートがあったと言う。一つは、華北のケシ栽培農家から満州国政府が買い上げ流通するルート。二つ目は、インドから輸入して、上海、香港ルートで流れた、三つ目は、日本軍が買い上げ、これを占領地で売ったルートらしい。満州国内では、もちろん華北のケシ栽培農家からのルートが多く流通していた。ケシ栽培農家から物々交換で仲買人が阿片を購入、関東軍が守り、満鉄で運び、岸信介が専売物品に指定、甘粕が販売ルートに乗せる。さらに里見甫が上海で売りさばくといった構図だったようだ。市場の需要によっては、国外のルートも活用したようだ。

 

 

 

なぜ、それほど阿片を流通させる必要があったのかと言われれば、やはり軍資金の調達であったろう。軍を保持することは、膨大な金がかかる。当然、その調達先として、阿片は軍にとって「金の卵」的な物資だったと言ってよい。いわゆる、阿片は関東軍、満州国の専売だった。国際条約では、阿片の売買は禁じられていて、取引はできないことになっていた。だから、表では麻薬を禁止とし、裏では麻薬の取引で莫大な収入をあげていたことになる。意外と知られていない満州国の暗部であった。

 

 

 

大観園の解剖」に書かれてある資料は、散文で書かれてあるのではなく、本当の統計資料のように価格やら純度、またその「大観園」の区画になんという名前の誰がどういう生計をたてて住んでいたかまで書かれてあるがゆえに、現実的にせまってくるのだ。死んだ男の衣服までが、闇市で売られアヘンを買う代い金になっていく経緯は、背筋が寒く鬼気迫るものがあった。満州のハルビンにある傳家甸の大観園というところは、まさに「どん底」にうごめく人々の魔窟であり地獄でもあり、麻薬が効いている人にとっては桃源郷でもあったのだろう。あまりに詳細に書かれてあるため、1942年(昭和17年)頃のことなのに、その風景がまざまざと想像できるほどだ。

 

 

 

麻薬に関して書かれた書物は数多くあるので、その方面の知識を得ようと思えば、いくらでも知ることはできる。当時、人々がアヘンを始める動機はさまざまだった。肉体的苦痛を逃れるため、精神的苦痛かれ逃れるため、疲労回復のため、不眠症を治すため、悪戯から、つきあいで、売人や売春婦から勧められて、食事をしなくとも空腹を感じないので痩せられる、性的快感を得たいためと数限りない。70年以上も経つのに、現代の人たちが大麻や覚せい剤を始める動機と、あまり変わらないのではないか。動機はなんであれ、いったん入り込むと、阿片の世界からは抜け出せない泥沼が待っている。(ちなみに、刑事物の映画やドラマで、上物かどうか確かめるためアヘンの白い粉を舐めるシーンがあるが、あの動作でも、間違いなく常用患者になるので注意。)

 

 

 

1940年当時、アヘンの摂取方法は、飲む、喫煙、注射、嗅ぐ、膣や肛門の粘膜からの吸収などがあったようだが、一般的でもっとも効率的な方法は喫煙だったろう。阿片土を少しずつちぎってはねり、長いキセルの丸い口にすりこむ。アルコールランプの炎に近づけて、一口吸い込むと円い取りつけ口の所から紫色の煙がぱっと舞い上がる。しかし、麻薬を吸った最初から、素晴らしい桃源郷が待っているだろうと思っている人がいるとしたら、それは大間違いだ。むしろ、眩惑、嘔吐などを引き起こし、人によっては快感などまったくない。

ところが、数度くりかえすと、ちょうど繭のような安心感につつまれる。眠っているようで、眠っていず、体がフワッと浮くような陶酔感であり、夢の中にいるような世界。自分自身の天下で、何でもできないものはないように思える。ヘロインを吸って2時間後には、射精寸前のとろけるような絶頂感に似たような快感が下腹部に持続する。セックスで長い時間持続する、最長で17時間という記録もある。以上が吸引して3ヶ月くらいまでの症状である。セックスのみならず、さかんにマスターベーションをしても快感が持続する。

 

 

 

個人的な体験だが、私がフィリピンに駐在していたころ、バーで酒を飲んでいたところ、近くにいた日本人らしい男が突然、股間に手をやりながら床に寝転びマスターベーションし始めびっくりしたことがある。まわりにいるフィリピン人たちは、好奇の目で見て苦笑いしていた。どうも、こういったケースは何度か以前にあったのうだろう。同じ、日本人として恥ずかしいと重いながら何故、このようなことをするのかわからなかった。しかし、今思えば、阿片か覚せい剤の影響ではなかったろうか、と今考えている。

 

       

        台北 忠烈祠

 

6ヶ月を過ぎたころになると、症状に少しずつ変化が現れ始める。セックスの回数より、一回のセックスの持続が長くなる。現代だったら、バイアグラを服用しても同じような効果が望めるかもしれない。ただし、セックス終了後、長時間の熟睡が必要となり、さかんに喉が渇きはじめる。ただ、あまりにも精力の多くを消耗するために、セックスの最中に、腹上死の可能性が強くなる。

 

 

 

さて、アヘン使用から1年から2年後たった頃になると、一度のセックスの時間が、2時間から4時間と長時間なる。この頃から、アヘンを、継続使用していないと、次のような禁断表情が現れる。時間の経過で現れる禁断症状を記してみた。

 

 

 

12時間後の禁断症状

 

症状としては、まず不安感が増す。あくびを連発する。副作用として、性器は勃起作用をともない、3~4日で全精力を使いはたす。虚脱感のあとには、嘔吐・下痢を催し、全身的疼痛を覚える。やがて、震え、発汗が起こり、水っぽい分泌物となって目から涙、鼻汁がとまらず、まるで体中の穴から水分という水分が抜け出ているような感覚に陥る。中毒患者は、骨と肉の間に風が入ったような気がするとか、骨を鳥の羽根でこそぼられるような感じがして我慢できないという表現を用いる。やがて、不眠症がやってくる。寝返りを何度となく繰り返し、眠りたいのにまったく眠れない状態が続く。

 

 

 

24時間後の禁断症状

 

その禁断症状がもっとひどくなる。瞳孔を大きく開き、毛は逆立ち、肌は冷たくなって、鳥肌が立つ。お腹の表面は、意識せずとも波うち。腹の中で胃や腸が収縮し、蛇でもいるように暴れ始める。腹痛で急に痛みが増し、しばしば血を含んだ嘔吐する。しょっちゅう便意をもよおし、水っぽい大便を何度も、大量に出す。

 

 

 

36時間後の禁断症状

 

寒くて耐えられなくなり、ありったけの毛布で身体をくるむ。身体に痙攣がはしり、無意識に足で蹴る。眠れず、こむらがえりもおき、絶えず寝返りをうち歩きまわり、心も身体も休まらない。身体中から水っぽい分泌物が流れつづけ、毛布、身体とも嘔吐物と糞尿にまみれる。食事も水も取らない状態が続き痩せていく。

 

 

 

この地獄のような禁断症状を、たった一度のアヘンの一服で、抜け出すことができるのだ。この禁断症状から脱するため、また、禁断症状にいたらないために、まず責任観念がなくなり、嘘をつくことが悪いと思えなくなる。かっぱらい、殺人を平気で犯して、一服の阿片を入手しようとする。また、三途の川に住む奪衣婆のように死んだ亡者から、衣服を剥ぎ、衣服と引き換えに、その日のアヘンを求める中毒患者の日常が本の中で描き出されているのである。

 

        

        後列 右 佐藤先生  前列右 頭山 満翁



松本一男氏が書いた「張学良」という本には、阿片について、こういう記述がある。

 

「阿片は人間の嗜好物の中で王者である。経済的には高価であるばかりでなく、精神的にも最もぜいたくなものである。阿片吸引の後、かれらは完全な陶酔境に入って、熟睡する。熟睡の前には、弛緩しきった肉体は、すでに一種の麻痺状態にあるので、セックスの時にも、だらだらといつまでも持続する。阿片吸引者が、性的な面でも人一倍醍醐味を味わうと言われるのはこのためである。吸った後の完全な陶酔にくらべると、吸引の間は、精神的にはとぎすまされている時間である。ふだんは痴呆じみた者でも、この時には精神は集中され、理解力や想像力はとても豊かになる。阿片を吸いながら、政治家は難しい権謀術数を思い立ち、商人は、新しい金儲けを考える。」

 

 

 

さて、具体的な人物を例にとってみよう。張学良の父であった、張作霖も阿片を吸っていたようだが、列車爆破で暗殺された。息子の張学良も吸っていたのは間違いない。本によっては、張学良が自ら阿片を止めたことになっているが、それはありえなかろう。実際は、満州事変が始まった頃に、北京にあるロックフェラー財団病院で阿片中毒の治療を受けて、阿片とは縁を切ったようだ。それに比べて、ラスト・エンペラーであった溥儀の妻となった婉容は、麻薬のため悲劇的な末路をたどることになった。結婚当時は、満州で最も名高い裕福な娘と溥儀の結婚と言われたが、溥儀が両性愛者であり、日本軍部の傀儡となっていき、ますます、阿片にのめりこむようになる。さらに溥儀の運転手と不倫をし、子供を産むが、死産になると、ますます現実逃避するようになった。

 

ラスト・エンペラーには、婉容の禁断症状について下記のような記述がある。

 

「もはや阿片は手に入らなかった。婉容があまりひどく泣きわめくので、ほかの留置者たちは『そのやかましい女を殺せ』と叫び続けた、と浩は書いている。警察官、党幹部、一般住民が『まるで動物園にでも出かけるようなつもりで』やって来て、婉容の狂態を見物した。<中略>数日後、浩はコンクリートの独房の格子窓から、婉容の姿をちらっと覗き見ることができた。彼女は意識を失い、糞尿と嘔吐物にまみれて床に伸びていた。彼女に何か食べる物を持ってやってくれ、と浩は看守に頼んだ。『何だって?あの臭い部屋へ入れっていうのか?とんでもねえ』と看守は言った。」

 

引用箇所で、浩(ひろ)と書いてあるのは、溥儀の弟である溥傑の妻となった、嵯峨侯爵の娘のことである。

 

1946年六月、栄養不良と阿片の禁断症状の結果、婉容は四十歳で亡くなった。

 

 

 

それでは長期間、常用するとどうなるのだろうか?まず、決断力がにぶる。記憶力は低下し、もの忘れがひどくなる。食欲はなくなり、身体は弱り、声は涸れる。便秘がひどくなり、女性は月経がなくなり、不感症となる。男性は皮肉にも、性的不能になる。歯ぐきが腐っていき、肺炎、肝臓の病気が合併症となる。日常生活が営むことができなくなり、内にこもる心身症のようになる。明るい光が苦手となるが、聴力と視力は鋭敏になる。目覚めている間も幻覚になやまされ、寝ていても悪夢に悩まされる。ハルピンでは、年間二千人以上の麻薬中毒患者の遺体が、裸で路上に放置されたと言われる。着ていたものは、他の阿片患者の阿片代として、泥棒市場へ売られた。

 

 

 

佐藤先生は、自分が調査した満州国のアヘン窟を上記のような表現で講義中によく語ってくれたものだ。誰も知らなかった、満州国の闇の部分であった。学生に対する愛情が誰よりも深い先生だったので、学生にそうなってはいけないという意味で話してくれたのだろう。アヘンは身近では無いにしても、無気力、イデオロギーという麻薬は、現代でも日常にはびこっていることに警鐘を鳴らしたかったにちがいない。

 

 

 

この「大観園」のあった場所は傅家甸(フジャデイエン)と呼ばれていて、森村誠一の新版「悪魔の飽食」にも一部でてくる。関東軍の防疫給水部、悪名名高い第731部隊の機密保持のために、その実態を探ろうとする者を抹殺する場所の舞台だったという。また、山口淑子の自伝にも一部だけ、怖い場所という形で紹介されていたようだ。

 

 

 

また、アグネス・メドレー著の「中国の歌ごえ」という本にも、傅家甸がどんなところだったか一部説明がある。ただ、場所の漢字が伝家佃となっているが、発音が同じフジャデイエンなので同じ場所だろうと思われるので引用してみよう。

 

―ハルビンの古い中国人街伝家佃で、山東省や湖北省から長城を越えて移住してきた乞食に百姓女たちが、街をあるいていく私のあとをゾロゾロついてきた。彼女たちは、きたない綿入れ上衣のお腹あたりのところに赤ん坊をくるみ、私のまえの凍てついた舗道に跪いて、さけぶのだった。-「お恵み下せえまし!おくさんがお金持になりますように!

 

私がかまわず歩いて行くと、彼女たちは叫びながら、どこまでもついてきた。そのうちに、一団の子供たちが私の前に走り出て来て跪き、自分の頭を氷にうちつけてもの乞いをする。(中略)二列になった兵士のあいだには、毛むくじゃらな蒙古種の子馬にひかれた車がゴロゴロと音をたてていて、そのうえには二人の囚人が両手をうしろにしばられて座っていた。(中略)それぞれの背後にはせまい板がおいてあって、そのうえには囚人の名前と、彼らが処刑される罪名とが書いてあった。

物見だかい男たちや男の子どもたちが、走りながらその後をつけていた。伝家佃のそとがわには、ぽかんと見とれている群衆のまえで大っぴらに囚人の首をはねるひろい空地があった。はねた首は、しばしば籠のなかにいれて、みんなの見せしめにつるしてあった。(中略)私の案内人の学生は、世なれた人間のような様子をして、そのひろい見聞の一端を洩らした。-「吉林へいきますとね。匪賊が首をはねられると、匪賊にころされたひとの親類縁者が寄ってきて匪賊の心臓をえぐりだし、それを食べるんですよ」

 

 

 

佐藤先生の書かれた「大観園」と、こういった資料を読んでゆくと、その当時のハルビンが想像できるようだ。今、中国のハルビンのアヘン窟があった場所に、昔の面影はなくなったと聞いている。しかし、アヘンが主流でなくなったにしても、日本では、若者に大麻汚染が広がっていると聞く。どんな時代でも、人間の心の闇の部分は、60年前と変わらず、あり続け、麻薬、薬物汚染は変わらず存在し続けるのだろうか。

 

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上皇様 台湾へお越しください。 2017 12/15 再

2019-05-02 05:39:46 | Weblog

 ようやくのことご退位の日取りが決定された

そして天皇は上皇と尊称される。  

以下は17 6月の稿です         

 

 

元号平成は来年の12月に改元されると報道があった。

今上天皇は「上皇」と尊称される。 

ときに時間軸を遠望すると、国家は断交や回復などを歴史上の様々な事情によって繰り返している。思想や経済などの形態によって、付いたり離れたりと離合集散するが、国の事情など何のその、人々は国境を越え、言語や由来にある異なる民族がそれぞれが各種の交わりをおこなっている。

 

その交わりとは、経済利交、政治詐交、男女は熱交、など色々だが、隣国の台湾は、政府は断交、人々は厚誼にくわえて義交がある。それはとみに広く、厚みを増している。

お陰といおうか、政府間断交ゆえに国内の津々浦々の自治体や友好団体が引きも切らず台湾を訪れている。それによって幾らかは外交儀礼も習熟して、本来のカウンターパートである自治体交流が、台湾外交部の対日窓口である亜東関係協会を通じて各地方政府や関係機関との交流が自主的に行われるようになった。

                      青森 平川市

これが政府間の断交関係なのかと思える活発さだが、まさに知恵を使った便宜断交だと考えれば、その関係効果も捨てたものではない。台湾側も「混沌の調和」を人の躍動とみて、往々にして四角四面になりがちな官吏の法理解釈を透過する人の関係に、あまり干渉しない鷹揚な姿勢があるようだ。

 

渡航手段だが一時、成田国際空港では中国の航空会社との共同使用に難色をしめしたために、台湾の航空会社は羽田を使用していた。都心から羽田は近いが到着地は当時の中正国際空港、いまの桃園だが、台北から40分あまり掛かった。それが台北市内、東京都心からお台場あたりの距離にある台北松山空港だと、昔の成田、中正より2時間以上短縮している。つまり往復だと4時間、手続きを入れると合計で8時間ばかりロスしていた。今では早朝便の日帰りで8時間滞在できる。しかも思い立ってパスポートさえあれば、台北の飲茶を食べ北投で温泉に浸かって翌日出勤もできる。

 

そんな台湾だが、松山に降りた途端に日本語が使える。

筆者は30年まえに西安事件の真の首謀者といわれる苗剣秋氏を訪ねて中正国際空港に降りた。一人旅だったがあの頃の方が不自由はなかった。まだ日本語世代が多かったためだ。

                          

                           苗 夫人   台北

道すがら台北中山小学校が目に入った。古老に訪ねると案内してくれるという。予約もなく校長室に通され長時間懇談して生徒の書作品まで頂戴した。それ以来、代表団を構成して毎年のように訪問している。

 

訪問団の趣旨は非生産的世代である、子供と高齢者の施設、そして法務部の矯正施設を主な訪問先にしている。台北・台南・高雄と各都市を回った。

毎回、日本における台湾の窓口にあたる台北駐日経済文化代表處の担当に各地の施設訪問希望を連絡すると本国の外交部と調整を図り、4日間の日程に交通経路、訪問時間などを勘案して精細な予定表を作って頂いている。また、訪問趣旨に沿って接遇責任者を設定し、各所では会議室を設営して効果的な会議までできる細かな調整もしていただいている。

 

訪問団も帰国後シンポジュームを開催し訪問記録の小冊子を作成する。

何度か青森の高齢者施設の参加者のために現地青森でのシンポジュームをおこなったが、駐日代表處の幹部派遣によって、近隣の自治体との交流に広がり、輸出の大部分を占めているリンゴの交易に円滑な関係を築いている。

 

               

                                                        国立中央研究所 黄博士

 

台北のみならず、台南・高雄の地方政府の交流には多くの高齢者との縁を得た。

また、矯正施設(刑務所・少年鑑別所)や、小学校の朝礼参観や父兄との懇談など、日本の施策との比較観照など、参考になることが多かった。

 

 

           以下は、筆者が依頼された講話の資料だが、参考として掲載します。

 ≪標題  台湾と皇室のきずな≫   講話のはじめに・・・

 

台湾には多くの日本語世代といわれる高齢の方々がいます。

彼らこそ当時の日本人が残置(ざんち)してきたかのような、佳(よ)き習慣性と情緒を、今でも守り続けている人たちです。

それは、美しい日本語、毅然(きぜん)とした意志、こまやかな仕草など、現代日本人が忘れてしまった矜持(きょうじ)でもあります。                             

                  ※「矜持」・・・自信をもって堂々と振る舞う

東日本大震災は、民主化を獲得した彼らの、待ちに待った、志工(ぎし)、義工(ぎこう)といわれる躍動の発露(はつろ)でもあったのです。       

台湾ではボランティアを「義務(人間として正しい当然の務め)」といい、社会的協働として人々に定着し、かつ世界に散在(さんざい)する彼らの仲間である「華僑(かきょう)」も、それに応じました。                     

※「発露」・・・隠れていたものが表れる ※「華僑」・・・世界に住み着く中華の人々

 

九州くらいの広さに2300万余の人口で、200億以上の義捐(ぎえん)金を贈っていただきました。これは政府援助だけではなく、多くの国民がまさに無我(私利を考えず)夢中で日本の被災地の人々のために熱烈運動を展開しました。

政権も、ここまで日本に対する国民の情感(じょうかん)が深かったのかと驚きました

 

なかには、「まず困るのは現金だ」と、行動する人たちもいました。

被災地では、市町村は守秘義務で住民名簿は出しません。そのため、彼らは一軒ずつ廻り、人数を尋ね直接現金を渡しました。

彼らの台湾義工(イーコン)は目的のために迷ったり、他国の制度を批判したりしません。

それは困っている人には、゛意味のないこと゛なのです。

 

その行為は、佳(よ)き頃の、日本人への懐(なつか)しみであり、「今でも教えられたことは守っています」という、台湾での日本精神(リップンチェンシン)へと語り継がれ、その精神は「勤勉で正直で約束を守る」事を意味します。行儀の悪い日本人に「昔の日本人はそんなことはしなかった」と、叱られるのもそのためです。

 

放射能が影響する県の生産地ラベルを偽装してまで台湾に輸出しようとした日本人企業の姿に失望して「あの信頼する日本人までが・・」と嘆(なげ)き、非難したのは当然の事でした。高価でも日本人が作った商品なら購入したい彼らの気持ちを大切にすべきでした。

 

その後、政府主催の慰霊祭がありました。しかし政府間国交がないため中華民国(台湾)の駐日代表は二階の一般席に案内され、一階の各国代表の指名献花にも名前すら読み上げられませんでした。

心ある日本人は最大の貢献国に対する政府の理不尽な態度に憤慨(ふんがい)しました・・・・

 

 

①   お詫びに参上した際の馮寄台代表(大使)の寛大な応答と約束

中華民国100年 辛亥革命への日本人の助力の周知

 

                 

         

➁ 翌年、40年ぶり陛下の台湾代表の園遊会招待でのエピソード

      陛下は馮駐日代表に国民の感謝をお伝えする

政府主催の慰霊祭での失礼な応接に、また陛下のおとりなしに救われた日本および日本人

 

 平成29年園遊会への福原 愛さんのご招待と皇后のご依頼

      

       準備していたお言葉  

                

 『台湾もずいぶん、東日本大震災の時なんかも心を寄せてくださったから、関係の方にお会いになったらお礼をお伝えください』 


 皇后さまの台湾の人々へのおもい

第5次訪台視察団のもう一つの秘めた目的

荘淑旂(ソウ・シュク・キ)医師を世に知らしめた、民間侍従と称された松崎敏哉記者

 

                                     

                                        亜東関係協会の昼食招宴にて

 

「女性自身」5月31日号「美智子様”3度の危機”救った台湾荘女医との往復書簡」と題して、非常に尊敬し、ご著書にも影響を受けた「荘 淑旂先生」の事が掲載されています。

 

美智子さま 交流33女医が明かす「極秘相談」

  女性自身  松崎様より提供

「美智子さまの女官から母にお手紙をいただいたのは、震災の直後でした。手紙には美智子さまのご体調のことが綴られていたのです。膝のお痛みや、手のしびれなどを切々と訴えられていたそうで……」

そう語るのは、荘安子さん。 美智子さまと長年の交流がある台湾の女性医師・荘淑旂(ソウ シュクキ)さんのお嬢さんだ。震災直後の3月、荘淑旂さんのもとに、美智子さまの体調改善のアドバイスを求める手紙が送られてきたという。

美智子さまと荘淑旂さんの交流は33年前にさかのぼる。’78年、皇太子妃だった美智子さまが、荘さんを東宮御所に呼ばれたのだ。当時、健康を損なわれ、体重が激減していた美智子さまは、荘さんの著書も読まれ、彼女に助言を求められた。

さらに‘93年に美智子さまが失声症になられたときにも御所から連絡があり、荘さんはすぐに駆けつけ、ストレス軽減の方法を提案している。

美智子さまの周囲には侍医たちもいる。だが美智子さまは、周囲にはご自身の体調異変を知られたくなかったのだろう。そこには、被災地ご訪問にかける美智子さまのお気持ちが込められていた。

《荘医師の主な療法》

姿勢を整え、リンパを刺激する宇宙体操とハト麦などを用いた薬膳料理

生活習慣の改善

   

                       

                          美智子皇后との想い出、台北荘家にて

 

                      

3月18日

訪問団 莊淑旂博士の次女である莊壽美(スミさん)、三女莊靜芬(シズコさん)訪問:       

 

荘淑旂先生の弔問が目的 (松崎敏哉さんの歓迎宴挨拶)

 

 私がこの訪問団の一行として参加したのは、以前に知り合った荘淑旂先生が去年二月に亡くなり弔問したいと思ったからです。昨日は先生の三女、莊壽美さんらと荘先生が亡くなった時の話をうかがいました。

 荘先生は中医といって西洋医学と東洋医学を学び、慶応大学医学部で学び、特に皇后陛下の美智子様がご体調を悪くされた昭和三八年から約二〇年皇后様の健康指導をしていました。荘先生がお元気だったころに、毎朝、神宮外苑を散歩して体操とか呼吸法とかを指導していました。

美知子様は当時、皇太子妃でそういう会に参加できなかったので、定期的に東宮御所にうかがって食事指導とか体操とか、日常生活でどうやったら健康になるかご指導しました。

ある人からその話を聞いて、荘先生に話を聴いて記事を書きましたが、原稿の締め切りの日に宮内庁の東宮侍従長から電話があり、宮内庁としては正式に発表したものでないので事前に原稿をみせてくれと要請があった。編集長に相談すると「そんな必要はない。宮内庁とケンカしても押し切る」と言った。

 荘先生に話したら「宮内庁とトラブルになったら困るだろう」ということで、先生は直接、記事の話を美智子妃殿下のお耳に入れました。

妃殿下は

全然かまいません、私が先生にこんなにお世話になって健康になっているのだ

から、できるだけ多くの人に先生の存在を知らせるようにしてください。侍従長には私のほうから話しておきます」といわれた。

 

美智子妃殿下から直接オーケーが出たものだから荘先生は感激した。私は荘先生のことを書くことで日本と台湾がさらに近づけるような仕事になるという思いがありました。今回、ご家族の方々にいろいろお世話になりましたという気持ちを日本人として伝えたかった。

それは、国交の事情もありますが、勝手ではありますが、皇后様のお気持ちを、お察し申し上げてのことでもあります。

 


      歓迎宴


                

                  松崎さん 取材中・・・?



参考資料

≪訪問団の施設訪問≫

《法務部矯正署台北小年観護所》 (日本の鑑別所に似ている)

施設巡回中に「ニーハオ(こんにちは)」と挨拶すると、収容者からは笑顔で挨拶が返ってくる。

多くはケタミン、アンフェタミンの薬物と少女は売春もある

 

          

 

《台北老人住宅医服務中心(センター)》 職員30名 居住者ボランティア43名

奉仕者は受付や認知者障害ある同年代の老人のお世話をしている。廉価で充実しているので海外帰住者もいる

 

          

     

《高雄市老人住宅 マンション》 カラオケは都はるみのディエットでした

まさに元日本人だ。女性は演歌、男性は軍歌を唄い始めた。なんと「守るも攻めるも・・」

日本の歌が多く、しかも上手です。御土産は日本歌謡集のCD。

 

 

《台北中山記念小学校》  (30年前から数次の訪問をおこなっている)

 朝礼は校歌・国歌・国旗掲揚  すべて生徒自治会の統率で行う

 選挙は各教室を巡回して演説を行い、当選したら部員を選任する

『校歌・国歌・国旗掲揚については、学校で勉強できるのは両親・先生・社会のお陰なので、

私たちは当然のこととして行っています』と。柔軟で賢い頭には、なまじの理屈はいらない

ようです。

父母後援会は日本のPTAとは異なり、校長先生を罷免できる。その分、我が子は社会の

一部なのだ。

     

                   

 

                 

            

生徒自治会が主宰する朝礼 上 自治会長  下 国旗掲揚と国歌斉唱

 

  

         

 《台北看守所》 (刑務所)

         

               

 


《台南政府(市)教育局との懇談》

 今までは教科の80%くらいが試験数値の評価であったが、優しさや協調など社会の順応性が乏しくなり、それを是正するために、その数値で決定する範囲を30%にした。ほかは伝統的な志行や義行の体験によって自分の位置を確認し、広い社会を知ることで特徴に合った自分の目標を作ることができるようになり、社会の広い年齢層との交流で少年期に培うべき情緒性や協調性が育ってきた。数値評価を急ぎすぎた弊害の是正が可能になった。

まさに、だれもが気づいていたが、少年期に早い流れに乗らなければ競争に負けるとの強迫観念で、学校も教員も、゛わかっていながら゛上部機関の慣性的指示や父兄の要求によって、本来得るべき側の子供たちの生理的、自然的成長のなかでこそ生まれる、他に対する情感さえ無意味なものとして粗製乱造のごとく平準化してきた弊害に気付き、優秀なる官僚の賢明な施策によって、台湾の小学校教育は変わろうとしている。

 

 

第6次訪問団

 主催 一般財団法人 国際平和協会

ご協力 中華民国外交部亜東関係協会  台北駐日経済文化代表処

    

   

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