まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

仙人と称される人物の稿 そのⅡ 恥ずかしながら・・

2021-06-29 07:27:41 | Weblog

           

               台北 国父記念館

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恥ずかしながら

 

1月7日記すとあるが、夜半の九時に出来上がった貴稿を経路一時間もかけて届けていただいた。早速、清書して読み返してみると己の足りない部分を見事に補完してくれた。すぐに元高官に送信して感想を待った。

 

文中の各項の理解のための「道具だて・・」「サンカン」の重要性などミクロとマクロ論を包み込み、まだ体験することのなかった土壇場において、今までの学舎で修得した知識、あるいは解答抽出の方法、そして教育環境の仕組みなどを調合し特異な切り口で表現している。

もともと昭和の怪物と言われた八次一夫氏に関係する、当人も奇人とか仙人とも称される人物だが、今回は我が意を追い込んで紙上にぶつけているようだ。     

いつものことだが、短縮かつ難解で含むことの多い小生の拙意を、彼流の官制の学舎風解釈と切り口で既存の学説を道具として解説している。

それが高官の言う「道具だて」の意だろう。

 

振り返ってみれば数多の人物との邂逅において、その多くは高齢者だった。

歴史を訊き、人物を尋ね、忘れないように暗誦して、高邁にも人に伝え印象を探る、そんな繰り返しだった。

世間では教科書の記述、マスコミの視点など、金太郎飴のごとく、論とは言えない話が蔓延し、それが底流となっている。

だが、幸いなことに近現代史では、実際に体験し臨場を味わった人物が多かった。政治家、知識人、大陸浪人、特務員、あるいは市井の遊侠といわれる人物もいた。それは人世の逍遥であり、世俗なり統治権力者を下座観から観察することでもあった。

 

また、安岡氏は為政者の陰の指南役とも揶揄もされたが、古典の教導においては、氏の説く活学を旨とした。並びに佐藤氏からは、大陸の下座に親しみ悠々とした老荘的な風義をもって倣い、必要とあらば日本および隣邦にも問いかけた。

両氏に共通していたことは、明治以降の法科に偏重した立身出世を企図する学びではなく、逆に官制科目から忌避され、かつ数値で贖うことのできない人間の問題を「人間学」として明快に説き、行動を以て具現したものだった。

 

学び方は自己陶冶を前提にした学びの応用であり、それは異なることを恐れない学風でもあり矜持だった。

つまり、小生の伝達ならびに学風は、もともと伝える側と受ける側の思索方なり、思考経路が世俗とは異なっていたのだ。そのことは村岡氏の解読なり伝達法をみて、遅まきながら実感した次第。

 

文化・理科と分別するも離反傾向がある。もともと融合すべきものと考えるが、官制の工学部からスタンフォードのドクターを経た元高官に村岡氏の文章を送ると、まさに道具立てをもって整理し解答を導く学舎特有のアカデミックな了解ごととして意見を送ってきた。それは現況に滞留しているかのように映る各々の組織に問題意識を提起しつつ、真摯に考察されたものであった。それは文理一如の調和でもあった。

 

村岡氏の経歴はさして必要のないことゆえ細目は存じ得ないが、早稲田大学出身と聞く。本人は語ることもないが、小声でつぶやいたことがある。今の暮らしだが、床が抜けるくらいの書籍に囲まれ、もちろん便所も斜めにならなければ用を足せない。留守の時は近所の図書館に行けば会えるような人物だ。ときには公園でホームレスと仲良くなって酒を貰ったと、愉しんでいるような人物である。

 

届けてくれた深夜、「あの引用は東大出版の誰々の引用・・」と伝えてくる。

だが、文中にある矢次・安岡対談の引用で、東大法学部の碩学と小学校卒が、あれほど意を合わせて賢言を交わすことができる両人の通底するものは何だろうと不思議がっていた。

それが、この章を書き進めるうちに、いつの間にか浮かんできた「人間考学」への回答だとしたら、恥ずかしながら床の間に上げられた小生にとって、ことのほか欣快なことでもあった。

 

学びは、伝えるのは小生だが、どのようにして聞き、訊ね、応用し、心身に修めるのは聴者の務めであることは言うまでもない。

その心根として、人と異なることを恐れない、人情は国法より重し、そして聴者の育成を愉しむことが講者に必要なことだと考えている。

有難いことに俊英かつ実直な諸士には期待もある。国の行く末も見通すことができる能力もある。

 

まさに至高な環境を戴いた縁に感謝せざるを得ない。

                   

 

                   感謝を添えて     寳田時雄

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仙人と称される人物の稿 そのⅠ  2018 1再

2021-06-28 09:53:04 | Weblog

 

「人間学の不確定性原理」

 国策研究会元評議員 村岡聡史

                                 

 序 名曲の調べ

 寳田先生と航空自衛隊幹部の講話応答を内々に拝聴しました。

聴く人も講じる人も拍子が見事であり、あたかも名曲の心地よい「しらべ」を聞いているようです。私にはその言葉をもって表現したい。

従而、以下は「屋上に屋上を架す」ことになるが、暫しお付き合い願いたい。

 

                  

      

 

思考の三原則について 

原文のまま ≪ ≫内は補注

 

Ⅰ 根本的に考える

 抽象性の強い言葉であり、何が根本的であるかを具体化して自身の思考とするのは難しい。とりあえず道具が必要である。例えば「認識の論理」と「実在の論理」である。

前者は理性による合理的、分析的思考法、後者は直感における矛盾律を飲み込む統一的思考、あるいは又、マックス・ウエーバーの「事実認識」と、「価値判断」も選(すぐ)れた道具とりうる。

 

ハイゼンベルグの不確定要素も重要です。彼は量子力学を研究する過程で、量子の速度(運動量)を測定すると、その位置が特定できず、位置を正しく測定すると速度が特定できない、という事実を発見しています。これは観測機械の技術水準の問題ではなく、量子の世界では原理的、根本的にそうゆうことなのです。

この「不確定性原理」の発見によってデカルト以来の近代合理主義、ニュートン以来の古典物理学の根底が激震した事件でもありました。

そして寳田先生の「人間考学」があります。このご時世に、浮俗の名誉にもならないことに熱中し、志操を継続している漢(オトコ)は、少なくとも私の知る限りにおいては、寳田先生しかいない。このことが、思考原理が応用行動に表れる「人間考学」の証なのです。

 

 長期的に考える

 

要するに歴史に学ぶことです。歴史の中にデーターとして積層された成敗の要因,人間の本性、時代の特異点など、すべてが含まれており、かつそれが人間の織り成す問題を考える糧ともなるのです。

つまり人間の問題を単なるアカデミックな学とするだけでなく、どのように活かし、他との関係に有効性を持たせるか、実際的行動が氏の説く「人間考学」なのです。

それは近未来の方向性を暗示してくれます。

 

 

 多面的に考える

 

基本的にまず三面で考えるのが実際は有効なのではないでしょうか。

イエスの立場、ノーの立場、第三者の立場です。立体的でもあります。例えばA、Bの両国が戦争に発展した。Cは中立とする。ABC共に戦争があるという事実認識は一致している。しかし、戦争の意義とか正義の主張などの価値判断については一致していない。

Aは聖戦を主張し、Bは正当防衛を主張する、Cは戦争それ自体を否定する。(各々の大義)

三者三様になっている。厄介なことに戦争は一端勃発すれば、戦争の物理的、生理的、心理的に連鎖反応が働き、緒個人の努力では制御できない事態になってしまう。

 

ここで転ばぬ先の人間考学。平和に王道なし、やはり普段から「不断」の人間なるものを追求しなければならない所以は戦争抑止にあります。

孫子は喝破している。「戦わずして勝つ」と。勝つための秘策がすなわち「人間考学」なのです。

 

ところで慧眼(けいがん)の士である皆さんは既に気が付いているかと思います。

「なるほど、平時においては思考の三原則(マクロ原則)は有効であろう。しかし戦闘有事の際に、三原則を思考する暇はない、いかに心すべきか?・・」もっともな疑問です。

 有事、とりわけ待ったなしの戦闘中の現場に遭遇した兵士にとって必要なものは「サンカン原理」ではないか、すなわち「敏感な事実認識」「直観な判断」「瞬時の行動」であります。

ミクロの原理では「サンカン原理」が生死を左右します。

実践のための統御を阻むものは、個人的利益、ご都合、便乗主義、これを捨てて全員一丸となれば目的は達成される

 

          

             緋桜

 

では、思考の三原則(マクロ)とサンカン原理(ミクロ)とは「人間考学」の上でどう関係しているのか。整合性はとれているのか。この点については一応の回答(解答ではなく)を提示したい。

 

結論から言ってマクロもミクロも原理根本は一つ。認識の論理からすれば(理性働き)説明は難儀だが、実在の論理(直観の働き)からすれば、根本は一つという結論に当然なる。

たとえば左右の関係を考えていただきたい。認識の分野からいえば左右は対立(並列とも)しているわけです。しかし、左は右の存在を前提にして、はじめて左を主張できるのです。

同じことは右にも言えます。要するに左は右を必要とし、右も左を必要とします。左右は一つの実在です。

無いものを補う、奪う、関係も生まれますが、人間に当てはめれば欲の抑制と昂進であり、ゆえにコントロールのすべとしての人物や人格で表す、「人間」が必要とされる

 

マクロもミクロも同じこと、一つの実在をある視点から観ればマクロ原則になり、他の視点から見ればミクロ原則にもなります。繰り返しますが、論はあくまで私個人の回答に過ぎない。

 

 

Ⅳ 人情は国法より重し

 

この真言は寳田先生の師である佐藤慎一郎翁の言葉である。佐藤翁は碩学と謳われ、中国事情の学問上の泰斗である。大陸では死線を幾度も経験した人物でもあります。その風韻は春風駘蕩そのものでした。寳田先生のご紹介で翁にお会いしたときの印象です。

その「人情は国法より重し」はまさに真言である。鍛えに鍛えた鋼の光彩を放っているがゆえに、翁の思索は国際的スケールを想起させる。

たとえば、国際人道法ジュネーブ条約に目を通していただきたい。

紙面の都合で精細は省略するが、その骨旨は、「人道は国益(国内法)に優先する」という言うことである。

要するに佐藤翁の体験に裏打ちされたその真言を西洋流に表現すれば記のようになるわけです。謂わんとすることは全く同じ。

 

                

 

 

Ⅴ 無名有力

 

矢次一夫対談集(原書房)という一冊の本がある。

対談者の矢次一夫は小学卒の官製学校歴ながら、戦前・戦中・戦後の政財界や労働界に隠然たる影響力を及ぼした人物です。

昭和史の怪物と称され国策研究会主宰

 

矢次氏は歴史学(現近代史)の学識においては官学の学者に優るとも劣らないものがあり、しかも自身の経験に裏付けられた活学となっている。その多くの著作は大学の研究者たちの重要な参考文献になっている。私事になるが私の歴史学の原点ともなっている。

 

自衛官の皆さんは既にご承知のことと思いますが、寳田先生のもう一つの学問上、人間形成に影響を受けた師は、碩学と称された安岡正篤師です。偶然なのか必然なのか、この矢次、安岡の巨頭が昭和四七年に新春対談をしています。

その中に「明治以降の官製学歴(学校秀才)が国を滅ぼした・・・」「徳性教育が欠落している・・」とか、耳の痛い話を痛快に談じている。

とくに注目したのは、焚書坑儒についての放談である。以下、要約を抜粋する。

 

矢次

今日はよい機会だから教えを請いたい。後世に残った大言論、大文革を思い浮かべてみると、もっとも言論が不自由な時代、生命を賭けなければものも云えないような時代に、大言論や大文革があるようだな。秦の始皇帝が学者を生き埋めにしたり、書を焼いたというけれど、後世、あの本を焼いたことによって、非常に文化的大損失だったという本があったか、あるいは、その時に殺された学者で後世のために惜しまれた学者がいたかなぁ。

 

安岡

いないね、大したものは、みんな山谷に逃げ隠れ(隠遁)している。

大したものは、世にうずもれ、無名有力の処士として生き続けた

そして、漢代になったら大したものがゾロゾロ出てきた。

 

この件を読み返すたびに、私はある一人の人物処士を想起する。誰なのか、すでに皆さんがご存知の人物です。

 

 

Ⅵ 結び 画竜点睛を欠く私の小論

 

第一段の「思考の三原則」と第二段の「人情は国法より重し」の二大テーマについて徒然に語ってきたが、画竜点睛を欠く感は否めない。私なりにこのテーマを回答として捻出してみたが、これは決して解答ではない。せいぜい問題提起のレベルに過ぎない。

 

解答を求めるあまり学びの真の有効性を無くすことは、官制学校が人物を作ると錯覚している人間のすることだと、耳にタコができるほど寳田先生から言われているが、頭の洗濯が必要だと痛感する。

 

ただ、土台(下部構造、先生は本(もと)という)の上に、上部構造というべき立場や職務、環境や価値判断が乗っかっていなければ成らないということである。

この土台(人間考学)が脆弱であれば、何を積み重ねても、幾分の努力をしても畢竟は砂上の楼閣に過ぎない。

解答は一つであるとは限らない。

 

臨機応変、縦横無尽の思考法の涵養

解答は一つと教科書的なテーゼに陥ると判断を誤り、成敗に深刻な影響を及ぼす。昭和初期の旧陸海軍の失敗の多くは、このテーゼに求められるといって過言ではない。

諸士の皆さんの姿勢を再見するたびに、その真摯な姿勢に心を打たれました。

どうぞ立派な指揮官として大成してください。加えて佳き人生を遂げてください。

寳田先生の「人間考学」が皆さんの任務職責、そして人間形成の上で意義深いものであることを願い、期待しつつ拙筆を擱きます。

 

                      平成三十年一月七日記す

 イメージは皇居東御苑

次号へ続く

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大学教養という錯覚学  08 7/31 再

2021-06-16 12:58:46 | Weblog




新聞の正しい論というコラムに、大学教授が昨今の東アジアの新しい潮流、「イデオロギーから実利主義へ」と題して健筆を振るっていた。

その章に、「政治から経済への転換・・」、そして、「イデオロギーないし原理主義から現実主義ないし実利主義への転換・・」と、章をつないでいる。

よく政治家を観察評していたとき、「あの政治家は人品骨柄が卑しい」と評論家が語っていたことがある。まずは政治家が主役で手を挙げて選ばれる政治家への評としてはその通りだろうが、政治の目的とする側からみれば、「近頃は人品骨柄が卑しいものしか政治家になろうとはしない」と返したことがある。

大学教養とは、自らの特徴を発揮して自己を明らかにすることだ(明徳)。

特徴を発見して目的を明確にして方向を定めるのは、それ以前の問題であり官学制度からすれば中学か高校生の作業だ。
また、己を活かす存在を認知する、つまり「自分」の「分」である全体の中で役割を知るのは、感応する意識が敏感な思春期に行われるべきことで、動物界とは似て非なるバーバリズムを、「知の囲い」が緩い少年期の素朴、純真の残像がのこる少年期におこなうことでもある。

妙な言い回しだが、「知の囲い」は、情報という言葉に代えられ、その伝達方法が時の速さとなり、拙速かつ浅薄に「知」の充足感となっているようでもある。

冒頭に戻るが、イデオロギーから実利ではなく、実利のためにイデオロギーを「用」とすると観るのが彼の民族を考えるには適切と考えるのは如何だろうか。

それなら「実利」とは如何様なものだろうか。
学術的(アカデミック)なグランドでは忌み嫌われそうな文言だが、その根底は、「色」「食」「財」を以って人を随わせるという、至極明快な「利」がそこにはある。

それは、「利」についての諺、あるいは多様な意味を含んだ文献や俗諺が多く存在していることでも分かる。我国に当てはめてみると、言いようのない気分にさせられる。はたして他国を語れるか、と。

 

 

大御心(おおみこころ)は忠恕

 

 

以下は古典の現代応用活學≫ 

言論界、マスコミは、政治家は
「利は智を昏からしむ」      
《利のみ考えると智が偏狭になる。走狗に入る知識人》


ビジネスはどうか
「小人、利に集い、利薄ければ散ず」   
《小者は利に集まり、薄くなれば離れていく》

金融家は
「小人は身を以って利に殉ず」(荘子)   
《利の為なら道理も無く死んでもよい》

これを推し進めている親はどうか
「小人の学は利にすすむ」(文中子 天地)   
《小者は地位名誉、食い扶持のために学ぶ》

選挙スローガンは
「君子は義に喩り、小人は利に喩る」(論語)   
《指導者は道理を重んじ、小者は損得に走る》

警察はどうか
「禁ずる処、利あり」
《禁止する法律を作れば罰金、賄賂、天下り、権限が増える》

公務員はどうか
「およそ私するところ、みな利なり」   
《公益なく総て私欲な状態》

「利は貪なり」(広雅)    
《利の心は貪るようになる》

社会の真の富とは
「利をみて義をおもう」(論語)

国益とは
「国は利を以って利となさず、義を以って利となす」
《目先の利が本当の利ではなく、国家の良識に随った利が本当の利である》

国家社会の有り様
「尭桀の分、利義に在るのみ」(漢書)
《治世の善悪の分かれ目は、目標を「利」に置くか、「義」に置くかで決まる》

国民の欲望の自制が無いと
「上下、こもごも利を征(と)れば、国危うし」   
《政治家、知識人が利をとれば民も追従する》

本来ある「利」の在り方とは
「利は裁制」   
 《利は行き過ぎを押さえ、足りない点を補い、ほどよく切り盛りをしながら育て、活かす作用がある》

そして当然ながら「利」の姿として
「利は義の和なり」(易経)     
《正しいことの総和が本来の利である》


 

これが「色・食・財」の欲求に関した「実利」の多様な姿であり、実態である。
スローガンだが、彼の国は「ハナシ」と視る。
それは孔孟でもその具となる。漢籍好きの御仁には酷な例えだが、漢字影響圏においては孔孟も実利の具となる。なぜなら彼らの身近には「道教」という実利が存在している。
砂のようにまとまりの無い民族といわれ、その集約には「利」と、狭い範囲の「情」が必須なものとして存在し、かつ為政者の専制強権が必要となる。

在中国二十年の師が香港で毛主席の先生と称する人物と会ったとき、
「毛サンはマルクスレーニン主義を掲げる共産主義をあまり知らないようだ。ただ砂のように纏まりの無い民を率いるには中国的解釈の共産党独裁でなければ治まらない。スローガンは何でもいい、専制、つまり力の有るものが善という考えだ。また北方の熊の衣を着ていれば暫くは熊も来ない。中国の敵はいつも北からだ。毛さんはよく中国人を知っている。」

「専制で国内にいる内はいいが、西洋の自由だ民主だとなったら為政者の制御も無くバラバラになってしまう。国家なんて無い、住む場所は天と地の間ならどこでもある。世界中が住処になる。みんなで国を食い荒らし、自由と勢いがあれば世界中に飛び出していく。その意味では欲望に従順で、しかも際限が無い。

ただ分かり合える人情は世界一だ。それは人の観察に長けているからだ。力からいえば個人は虎だが、集団になったら猫のように弱い。日本はその逆だ。

また、その際限の無い欲望は外来のものを同化させる力がある。元、清も今は無い。日本は早く帰ってよかった。俺たちにとっても日本は大切な国だ、残しておきたい。」

イデオロギーは「ハナシ」と見ている民族は、ト小平の四つの近代化「四化」を同音で「四つの話」と呼んで、「あれはハナシ」とみている。「化」と「話」は同じオンである。また「小平」と「小瓶」が同じオンなので、小瓶を壁にぶつけて割ったりして憂さを晴らしていた。まず警察と国家は悪いことをして苦しめるという潜在的な怨嗟がある。

日本からすれば賄賂、汚職と騒がれるが、賄賂は人情贈ると文化になっている。西洋もチップで生活する人もいるが、人情の潤いとまではいかないようだ。

ともあれ似て非なる民族の性癖の上に成り立った実利主義である。またスローガンを飲み込む柔軟さと許容が歴史にはある。ただ欲望に自然に向かうか、控えめに向かうか、どうも近頃の日本は同化しつつあるようだ。
中国に進出した日本人の欲望の順化を憂慮して「日本は大切な国だ、残しておきたい」と言った古老の言葉を待つまでも無く、「真の日本人がいなくなった」と側近の山田純三郎に述懐した孫文の意を、どう隣国との交誼に活かすか、まさに、「真の実利」を再考しなければならない時機だ。

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『大統領選挙は必ず勝つ』ブラジル番長 魂の叫びを聴く  終章   10 10/3再

2021-06-07 00:55:47 | Weblog

 2016  4  10  ペルー大統領選挙の投票が行われ、決選投票は六月になる。

ブラジル番長といわれる福岡の元暴走族、吉永拓哉サンパウロ新聞福岡支局長のフジモリ・ケイコさんのインタビューを再掲載します。2011年に立候補して惜しくも決選投票で敗れている。あの頃と見違えるようなケイコさんだが、ブラジル番長のインタビュー当時と変わらない温厚で、ぽっちゃりだが、強靭な精神力と目的意識は素直さを加味してますます磨きが掛かっている

 

 

              

父は在任中、陛下との会談で、「私は日本人の母から勤勉・正直・礼儀、そして忍耐を学びました」

陛下はそれに応じて「我が国を祖とする方が貴国の人々のために活躍されていることを嬉しく思います」

ケイコさんはその学を国境を超えた普遍的精神として、不特定多数の国民の幸福のために選挙を戦っている。

            

                

 

 

フジモリ元大統領の禁固二十五年に物申す(6)
写真 首都リマの都心部











 イカ県の県庁で記者を取り囲んだ人たちは、貧困地域にあるさまざまな小中学校の校長や教職員だった。
 「地震で学校の校舎が崩れたんです。これでは子供たちに勉強をさせる場がありません。どうか日本の力で私たちに新しい校舎を建てて下さい…」 教職員たちは記者の袖を引っ張りながら必死になって訴えていた。


 イカ県では〇七年八月、マグニチュード八規模の大型地震が襲い、多くの死者を出した。その時に小中学校などの公共施設も崩れてしまったという。
 県庁を出た後、自動車を走らせてイカ県内を調査して回った。するとどうだろうか。
 地震から二年以上が経過しているにも関わらず、国道沿いには瓦礫が散乱しており、町には倒壊しかかった建物がたくさんあった。国教であるカトリック教会の壁までもが、一部ごっそりと崩れ落ちている始末だ。


 ペルー政府は地震に対する復興支援を怠っていた――。
 一方で、首都リマの都心部はというと、以前にも増して道路は綺麗に整備され、信号機も増え、街路に美しい植物が植えられている。近代的なショッピングセンターが軒並み建ち並び、国際空港もリニューアルされた。 このような豊かなリマを訪れた外国人であれば「ペルーは発展している」と思うに違いない。しかし、それは国のごく一部だけで、繁栄したリマ都心部から一歩外へ出れば、そこには政府から見捨てられた民たちが暮らす、貧しいペルーの姿がある。


 ガルシア大統領の政治方針は八〇年代とまったく変わっておらず、首都集権主義を行なっている。これでは地方の住民たちが、ペルー政府に対して不満を募らせるのにも頷けよう。
 一方でフジモリ政権時代はどうだったか。フジモリ氏はヘリコプターを使って頻繁にアンデスの村々を訪ね、貧しい住民たちの支援を行なってきた。

 村々には水道や電気を通し、下水を整備させ、十年間で約四千校の小中学校や幼稚園を建設し、医療設備を充実させた。 フジモリ氏は常に弱き者の味方となって政治を遂行した。だからこそ地方の住民たちは、今でもフジモリ派を支持しているのだ。
 

 この国におけるテロリズムは、首都と地方の極端な貧富の格差が生じさせている。ここ最近、一度は壊滅に追いやられたテロリストたちが、再び活動をはじめているという。これからまた、ペルーは暗黒の時代に逆戻りしてしまうのではないかと、不安を感じてならない。
     ◎
 記者はペルー訪問をしたことを機にフジモリ氏の長女であるケイコさんとコンタクトを取り、リマ市内にある彼女の自宅を訪れた。
 ケイコさんは〇六年の国会議員選挙にリマの選挙区から出馬。約六十万票を獲得し全国最多票で初当選した。
 現在、三十四歳の若手議員として活躍しており、二〇一一年の大統領選挙には父親の意思を受け継いで、自身が党首を務める『フエルサ二〇一〇』から出馬を表明している。
 当選すればペルー史上初の女性大統領となり、世界初の日系人女性の大統領が誕生することになる。









 そのような期待を背負ったケイコさんにインタビューした。
フジモリ元大統領の禁固二十五年に物申す(最終回)



 飾り気のない服装に薄化粧。ぽっちゃりとした体形に少女のような笑顔。ケイコさんはとても温厚な人柄だった。
 日本語は挨拶程度しか話せないが、少女時代は一世である祖父母やフジモリ氏から日本的な教育を受けたそうだ。
 

家庭で教わったことは、責任のある行動をすること。勉学に励むこと。嘘をつかないこと。この三つを厳しく躾けれた」というケイコさん。


 リマのカトリック系高校を卒業後、アメリカへ渡り、ニューヨークの国立大学、ボストン大学、コロンビア大学で経営学を学んだ。
 また、十九歳からは母親に変わってフジモリ大統領のファーストレディー役を務め、父親とともにアンデスやアマゾンの貧困地域を視察して回った。



                      


 自転車での遊説






 「貧しい農夫たちの話を真剣な顔で聞いていた父親の姿が、とてもまぶしく見えた」という。

 その傍らでペルーの子供たちを支援し、九六年には心臓病を患った子供たちを救うための医療グループを組織した。
 その後、フジモリ政権が倒れ、父親が日本へ亡命した後もペルーの地に踏みとどまり、反フジモリ派から非難されながらも父親の無罪を市民に訴え続けた。


 〇四年にアメリカ人男性と結婚。現在はケアラちゃんという二歳になる娘がいる。
 父親の背中を見ながら育ったケイコさんは、フジモリ氏の意思を百パーセント受け継ぎ、〇六年に国会議員となった。
 ケイコさんはフジモリ政権時代を振り返り

父親の大統領時代はテロの撲滅を最も優先しなければならなかった。それが父親の使命だった」という。
 
父親からバトンを受け継いだ今、私が最優先でやるべきことは、ペルー経済を活性化すること。数字だけの経済ではなく、遠い地方の人々が豊かに暮らせるペルーにしたい」と熱く語っていた。

 二〇一一年の大統領選挙に出馬表明しているケイコさんだが、最新のペルーの世論調査によると、有力候補一位はカスタニェダ現リマ市長(二五・三%)、二位はケイコさん(一八・一%)、三位はウマラ氏(一〇・六%)の順となっている。 しかし、この世論調査は主にリマ市民から統計を取ったものであり、実際はケイコさんが最有力候補ではないかと思われる。地方住民は圧倒的にフジモリ派が多いからだ。

                      


 そのため現在、反フジモリ派は、あらゆる手段でケイコさんの政治的な人気を落とそうとしている。
 フジモリ氏にいわれなき罪を着せ、禁固二十五年の刑に処したのもすべて反フジモリ派の策略である。ケイコさんは三十代の女性でありながら、真っ向から反フジモリ派と闘っている。


 ペルー発展の礎を築き、日本大使公邸人質占領事件の際には防弾チョッキを着て日本人を救った「アルベルト・フジモリ」。彼の名を我々は忘れてはならない。
 日本国民から見れば、フジモリ氏は南米諸国の日系人の「顔」である。その顔に泥を塗っているペルー政府の行為を今一度コロニアでも検証していただきたい。
 大統領選にあたりケイコさんは堂々とマニフェストで公約している。

 『父親の無罪を主張するとともに、恩赦で釈放する』と。

(おわり、吉永拓哉福岡支局長)

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『ケイコは必ず大統領選に勝つ』 ブラジル番長  魂の叫びを聴く  Ⅱ   10 10/3再

2021-06-06 03:39:03 | Weblog




フジモリ元大統領の禁固二十五年に物申す(3)
写真 ペルー共和国大統領に返り咲いたアラン・ガルシア氏

 連載②で述べたように、ペルー司法当局はフジモリ氏の不正蓄財を立証できなくなったことから、別の犯罪容疑を同氏に投げつけた。
 それが九一年のバリオスアルトス事件と、九二年のラ・カントゥータ大学事件である。両事件はいずれも秘密治安部隊コリーナによって、テロリストと勘違いされた一般市民が射殺されたものだ。


 ペルー司法当局は、そのコリーナを指揮した黒幕が当時のフジモリ大統領だったとして同氏に禁固二十五年の有罪判決を下した。
 しかし、この判決にも疑問が残る。フジモリ氏自身がコリーナ部隊を直接指揮したという確固たる証拠がないからだ。
 また、例えフジモリ氏がコリーナ部隊を指揮し、テロとの闘いにおいて少数の一般市民から犠牲者が出たとしても、時の大統領を牢獄に押し込めるのは国際社会に反した行為ではないか。
 両事件でフジモリ氏に有罪判決を下すならば、テロとの闘いにおいてイラクの一般市民を多数巻き添えにしたブッシュ前米大統領も刑務所へ入らなければならない。


 そして、現ペルー政府のアラン・ガルシア大統領。彼は八〇年代にも大統領を務めたが、その時はどうだったか。
 テロリストと一般市民の見境なくアンデスの農夫たちを誤射殺害し、刑務所に収容されていた一般受刑者たちを無差別に殺したではないか。
 その時の被害はフジモリ政権時代を大きく上回っている。その上、ガルシア大統領はテロリストに屈し、経済を崩壊させ、六十万人におよぶ国内難民を出した。

 その後、彼は大統領職が任期満了になったと同時に有罪判決を受け、欧州へ国外逃亡している。 現在、そのような人物が再び大統領に返り咲いてフジモリ氏を槍玉に挙げている。
 以上のような経緯を踏まえると、ペルー司法当局が行なったフジモリ氏に対する政治裁判は、矛盾が多い。


 では、一体なぜフジモリ氏が牢獄に入らなければならなかったのか。

 フジモリ氏は大統領時代、「公職員の不正は国を滅ぼす」とし、汚職などの悪事を犯した外務省関係者、警察官などの公職員を四千人以上解雇した。
 さらには、同氏の政治政策を円滑に進める目的で、半ば強行的に国会を解散させ、フジモリ氏に反対した政治家らを追放している。
 その時に追い出された政治家らが、いま反フジモリ派としてフジモリ氏に報復をしているに過ぎない。


 その中心人物がフジモリ氏を裁いた裁判官のサンマルティン氏であり、彼のような反フジモリ派で固められた司法当局が公平な裁判を行なうはずはなかった。
 昨年十一月、ガルシア大統領が二度目の訪日を果たし、鳩山由紀夫首相と会談した。
 その際、鳩山首相はペルーに対する一般プロジェクト無償資金協力に関した公文書に署名している。


 残念でならないのは、なぜこの時に日本政府側はフジモリ氏の不当な裁判をガルシア大統領に訴えなかったのか。
 日本政府側は無償資金協力を条件にして、ペルー政府にフジモリ氏の免罪を求めることができた絶好の機会だったはずである


 テロとの闘いにおいて一般市民を殺害したとし、フジモリ氏を犯罪者に仕立てるならば、ガルシア大統領も立派な犯罪者だろう。

そのような人物を天皇陛下にまで謁見させた日本政府側の対応はいかがなものだろうか。 

ペルー発展の礎を築き、日本大使公邸人質占領事件の時には防弾チョッキを着て日本人を救出したフジモリ氏。彼の存在はいま、歴史の闇に葬り去られようとしている。











フジモリ元大統領の禁固二十五年に物申す(4)
写真 フジモリ氏が収容されているディノエス軍事施設

 

 昨年十一月にガルシア大統領が日本を公式訪問していた頃、本紙記者は入れ違いでペルーを訪れていた。
 福岡からペルーへ足を運んだ理由は、ディノエス軍事施設に収容されているフジモリ氏と面会する機会に恵まれたからだ。


 同軍事施設は、いわば軍人専用の刑務所である。しかし、施設に収容されていたのは、この時フジモリ氏ただ一人のみだった。
 首都リマの都心部から車で約三十分走った先の東部地区に同軍事施設があった。建物の周囲は貧しい住宅地で、レンガむき出しの民家が建ち並び、アスファルトが敷かれていない道路の真ん中を悠々と野良犬が闊歩していた。


 リマは年間を通じてほとんど雨が降らない砂漠地帯なので、軍事施設の真横には、まったく緑がないハゲ山がそびえている。その中腹あたりに眼をやると、ライフルを所持した軍人が記者の動きをジッと監視していた。 軍事施設は高い塀に囲まれており、まさに刑務所そのものだった。入り口にいた軍人に身分証を見せると、建物の中へと通された。


 まず最初に所持品検査をされ、持っていたデジタルカメラ、テープレコーダー、携帯電話などを軍人に預けた。
 所持品検査室にいた軍人らは温厚で、ピリピリとした雰囲気はない。検査が終わると軍人の一人が、記者を建物のさらに奥へ通そうとして、頑丈な鉄の扉を開けた。


 その時だった。フジモリ氏が扉の向こうで笑顔を見せながら立っていたのである。
 記者が仰天しながら握手を求めると、同氏は「さ、どうぞ」と日本語で声を掛けながら、自身の書斎へと案内してくれた。軍人は記者たちに同行しなかった。
 この時のフジモリ氏の服装はピンク色のポロシャツにジーンズの上下、運動靴を履いていた。体重も収容まえの八十二キロから七十四キロに減ったという。顔には深い皺が刻まれていた。


 記者が軍事施設を訪れるまえは「元大統領なのだから、VIP的な扱いを受けているのではないか」と、フジモリ氏の暮らしぶりを想像していた。
 ところが同氏の書斎へ入ってみると、記者の想像は一瞬にして覆された。
 八畳ほどの空間に粗末な机とソファーがぽつんと置いてあるだけで、とても殺風景だったからだ。それに書斎は薄暗く、埃っぽい。まるで物置部屋を整理して使っているような感がした


 これが元大統領に対するペルー政府のVIP待遇である。建物内を自由に歩くことができ、書斎があるだけでも一般の受刑者よりマシだというところか。
 記者が書斎のソファーに腰掛けると、フジモリ氏からこう問われた。

 「フクオカ学校の子供たちは元気にしていますか?」

 同校は連載①で述べたように、記者の父親が募金で寄付したペルーの貧困地域にある小中学校のことだ。
 この時はまだ同校を訪問していなかったので、フジモリ氏にはそう伝えた。
 それにしても同氏の口から出た第一声が、ペルーの子供たちを気遣う発言だったので驚いた。この言葉からもフジモリ氏の人柄がうかがえた。
 次に同氏は記者に対し「取材をしてくれるのは有難い。しかし、残念ながら今は政治や裁判に関することは何も言えない」と断りを入れた。
 しかし、その後、フジモリ氏から出た言葉に記者は心を打たれた。





フジモリ元大統領の禁固二十五年に物申す(5)


 ディノエス軍事施設の中でフジモリ氏から次に案内された部屋は、正真正銘の物置部屋。ここにはオレンジ色した選挙Tシャツが束になって置かれていた。
 このTシャツは、二〇一一年のペルー大統領選挙に出馬表明している同氏の長女・ケイコさんの選挙PRに使うものだった。


 フジモリ氏も「ケイコは必ず大統領選に勝つ」と嬉しそうに語っていた。
 記者の目を引いたのは、選挙Tシャツの横に置いてあった五百冊ほどの学習ノートだ。フジモリ氏にこのノートは何に使うものなのか聞いた。
 「これは傷物で市販ができないノート。私に面会してくれた人たちに二冊五ソル(約百五十円)で販売している」
 そして、次の言葉を耳にして心が揺さぶられた。

 「ノートを売ったお金は、ケイコの選挙資金に充てています

 フジモリ氏はとても子煩悩であり、これまでの発言からも常にペルーの平和と子供たちの教育を心配していた。
 力なき今となっては、学習ノートを売ってわずかなお金をつくり、元大統領として、父親として娘を精一杯応援してあげていた。


 確固たる犯罪の証拠がない者に罪を押し付け、無理やりに罪を認めさせ、牢獄にぶち込んだペルー政府。そのような行為を平然とやってのけ、自身は何食わぬ顔で天皇陛下に謁見したガルシア大統領。果たしてそこには正義が存在したのだろうか。
 面会の最後に記者はフジモリ氏に対して「一体なぜ日本を離れたのか」と質問した。するとたった一言でこう答えた。 「私はペルーが好きですから…」――。
   
 記者はディノエス軍事施設を出た後、そこから二百キロ先にあるフクオカ学校を訪問した。
 平日午後一時ごろの運動場では、全校生徒約四千人が集合し、それぞれ日本国旗を振りながら記者の到着を歓迎してくれた。
 生徒たちの大半は、貧しいインディオ系の子供たちである。記者は運動場で全校生徒と教職員たちに挨拶をした。


 はじめは生徒たちが拍手を送ったり口笛を鳴らしたりとお祭りムードだった。
 だが、記者が挨拶の途中から「この学校はフジモリ元大統領の尽力によって建てられたものです」と説明をはじめたとたん、それまで騒がしかった校内が一気に静まり返った。それは不思議な現象として記者の目に映った。


 挨拶の後で、スペイン語の通訳をしてくれた日系人からこう注意を受けた。
 「記者さん。あの場所でフジモリさんの話をしては駄目ですよ。校内にはちゃんと政府の監視員がいるんですから気を付けて下さい。下手するとアナタ、日本に帰られなくなるよ」
 日系人の話によると、このような公の場で学校側がフジモリ派を支持すれば、政府からの支援が得られなくなるという。もはや国家の理念である民主主義をも無視したペルー政府のあり方に、記者は落胆するばかりだった。


 その後、フクオカ学校があるイカ県の副知事から招かれ県庁へと行った。そこで記者は思わぬ光景を目の当たりにすることになる。県庁前で待ち構えていた大勢の教職員たちが、ペルー政府に対する不満を口にしながら、記者のもとへドッと押し寄せてきたからだ。


続く サンパウロ新聞福岡使局長  サンパウロ新聞より転載

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「ケイコは大統領戦に勝つ」ブラジル番長 魂の叫びを聴く    10 10/1再

2021-06-05 04:39:33 | Weblog

まさしく「草莽の一声は天下にとどろく」といった章である。

その筆風は、ときおり筆者に届く更生施設からの覚醒と諦観の入り混じった新世界へのいざないである。    ・・・「いざない」(誘い)

それは大手の商業マスコミの売文の類ではなく、人の歴史の何たるかを忠恕心を添えて、しかも彼の人生にも刻んでいる。

「粗であり、野であり、卑ならず」
独特の下座観を以て読者に訴えかけるものは先覚者の゛言葉繋ぎ‘としての使命感がほとばしる。

「文は巧い下手ではない。時流の浮俗に迎合するものであってはならない。しかも君の至誠が遠い将来、解り得る人物の学問の糧や矜持の基になるように記す、それが文章というものだ」

筆者にとっては初面の応答だった。
「そのためには下座観をもって、無名かつ有力を心がけなさい」

安岡正篤氏からの「言葉繋ぎ」として吉永君に伝えた。




http://www.edomacho.com/takuya/profile-t.html

              吉永拓哉資料サイト




以下、サンパウロ新聞より転載

フジモリ元大統領の禁固二十五年に物申す(1)


 「正直、勤勉、向上心」日本民族の特徴ともいうべきこの三つをスローガンに掲げ、日系人としてはじめてペルー共和国大統領になったアルベルト・フジモリ氏。九〇年から二〇〇〇年までの政権時代には国内テロの撲滅、経済の回復、エクアドルとの国境紛争の終結など、当時のペルーが抱えていた数々の難題を解決した。

このような業績から本来ならば「名将」として称えられるはずのフジモリ氏が、今なぜ犯罪者として禁固二十五年の刑に服すのか。本紙はこれまで世論で騒がれていたフジモリ疑惑の真相に迫った。【吉永拓哉福岡支局長】

 連載をはじめる前に、まずはフジモリ氏と本紙記者の関係を説明しなければならない。
 記者の父親は九五年に福岡県内でペルー支援のための募金活動を行ない、集まった寄付金で同国の貧困地域に小中学校と幼稚園を建てた。





               
                                     





 その時の起工式に参列した父親は、式典に駆けつけた当時のフジモリ大統領と顔を合わせ、以後、親しい間柄となった。 一方、記者は九八年にペルーを訪れた際、首都のリマ市近郊で蜜柑農園を営んでいたフジモリ氏の母親(熊本県出身)のもとへ挨拶に行ったことがある。

 その当時は、フジモリ氏が三度目の大統領選に出馬する意向を示していた頃だった。
 記者の記憶に残ったフジモリ氏の母親の言葉がある。

 「私が息子を説得して次の大統領選挙には出馬させんよ。今度大統領になったら、息子は殺されてしまう」

 後日談だが、もしその時にフジモリ氏が母親の忠告に従っていたならば、歴史的な名大統領となっていたのかもしれない。だが、フジモリ氏は憲法を改正してまでも三期目の政権を握ってしまった。

 この判断がアメリカを筆頭とする国際社会から「独裁的だ」と見なされ、国際的にフジモリ氏の人気を落とす結果となった。
 その末路となったのが、当時の国家情報局顧問であり軍部の最高幹部だったブラディミロ・モンテシノス氏の収賄事件である。
 同事件の様子はビデオ映像として証拠が残されており、ペルー国民に衝撃を走らせた。

 その結果、フジモリ氏は訪問先だった日本からFAXで大統領職の辞任を表明。ペルー国民の反感を買いながらもそのまま日本へ亡命した。
 このように大統領三選はフジモリ氏にとって大誤算だった。
 しかし、フジモリ氏が政権時代に遂行した政治政策は、あわや国家を乗っ取る寸前にまで迫っていたテロリストを壊滅させ、年率七六〇〇パーセントにまで上ったハイパーインフレを数パーセントに抑えた。その業績は称えられるべきである。 〇二年、フジモリ氏が日本へ亡命していた折に、福岡県の有志らが同氏を県に招いて激励会を行なった。


 同会を手伝うこととなった記者はこの時、羽田から福岡空港までの航空券を手配するため、都内に滞在していたフジモリ氏とコンタクトを取った。
 むろん大統領職を務めたフジモリ氏に配慮して、飛行機の座席はビジネスクラスを予約するはずだったが、同氏は電話先で記者にこう述べたのである。
 「私は福岡の皆さんに余計なお金を使わせたくはない。エコノミークラスにして下さい」
 その言葉を聞いて、記者はフジモリ氏の母親のことを思い浮かべた。
 たとえ大統領の母親であっても豪華な邸宅で暮らすわけではなく、当時はもんぺ姿で蜜柑畑に出て働いていた。

 そのような質素な日本移民らしい母親から教育を受けてきたフジモリ氏には、とても倹約的な一面があった。


フジモリ元大統領の禁固二十五年に物申す(2)
写真 もんぺ姿で畑仕事をする大統領時代の母親






              





 福岡県の有志らとともに福岡空港へ出迎えに行った記者は、そこではじめてフジモリ氏と会った。
 皺がよった背広に安物のネクタイ。フジモリ氏は高価な物など一切身に付けてはいなかった。

 同氏の激励会は、北九州市に在住する企業家の自宅で行なった。宴席ではフジモリ氏自らカラオケマイクを握り、『同期の桜』を歌ったのには同席した有志たちも目を丸めていた。
 「私は頻繁に靖国神社を参拝している」フジモリ氏の口から出た意外な言葉だった。
 

 激励会も終盤を迎えた頃、有志たちがそれぞれ出し合った支援金をフジモリ氏に手渡した。その時、同氏は深々と頭を下げながらこのようにお礼の言葉を述べた。
 「この支援金は私が受け取ることはできない。いま長女のケイコが、ペルーで心臓病を患っている子供たちの医療ボランティアをしている。いただいた支援金は、ケイコの活動費として使います」――。
    


 あれから八年の歳月が過ぎた。その間、フジモリ氏は〇五年に突如日本を離れ、チリへと渡った。そして同国で身柄を拘束され、〇七年にはペルーへと送還された。現在は殺人罪および人道に対する罪で禁固二十五年の刑に服している。
 ここでフジモリ氏が関与したとされる一連の疑惑について検証してみたい。
 まずはフジモリ氏が大統領職を放棄した二〇〇〇年から疑惑が持たれている不正蓄財問題である。


 これは同氏の側近だったモンテシノス国家情報局顧問が収賄で逮捕されたことに端を発しているが、フジモリ氏の場合は、いまだかつて一セントたりとも不正蓄財が発覚されていない。
 また、賄賂を受け取ったという確固たる証拠が立証されていない。
 フジモリ氏はこの疑惑が世間で騒がれていた当時、自らアメリカの調査会社に依頼し、自身の銀行口座をすべて公開して身の潔白を示した。
 さらにはフジモリ氏の不正蓄財を隠していると疑われていた銀行も「そのような事実はない」と公言している。

 にもかかわらず、ペルーの報道機関は『フジモリ大統領収賄疑惑』と大々的に報じておきながら、その後の経緯はほとんどニュースにしなかった。
 これでは世間からフジモリ氏が収賄を受け取った犯罪者だと誤解されても不思議ではない。


 モンテシノス国家情報局顧問が賄賂を受け取ったのは確かな事実だ。その責任はフジモリ氏にもある。しかし、結果論を唱えれば、軍部で最も実力があったモンテシノス氏とフジモリ氏が手を結んだからこそ、あの凶悪なテロリストを壊滅に追い込むことができた。
 モンテシノス氏が受け取った巨額の収賄よりも、テロの恐怖から平和を取り戻したペルー国家の国益のほうが、はるかに上回っているのではないだろうか。


 次にフジモリ氏の二重国籍問題を挙げる。
 ペルー国憲法では、二重国籍者は大統領になる資格が得られない。しかし、注目に値するのは、この憲法には「例外」があることだ。
 かつてスペインの植民地支配下にあったペルーにおいては、スペインとの二重国籍者のみ大統領になれる権利がある。
 言い換えれば、「同じ二重国籍を有するペルー人でも、スペイン系なら大統領になれるが、日本移民の子孫は大統領として認めない」という、人種差別とも捉えられかねない憲法である。

 従って世論はフジモリ氏の二重国籍を責める以前に、いまの国際社会に反したペルー国憲法のあり方を問う必要がありそうだ。(つづく、吉永拓哉福岡支局長)

・・・続く

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人間考学 愚者の親和力 2011 7 あの頃

2021-06-04 08:00:14 | Weblog

津軽ヨシ人形  木村ヨシ作  「孫文と側近山田兄弟」




親和力とは化学の世界で、より似たものが結びあう力の姿を言うらしいが、親しく和する、つまり人間に当てはめれば素朴に仲良くなる状態をつくる包容力なり、理解力だろう。安岡正篤氏は、ことを新たにすることのオンである「シン」を親しむと置き換えて「大学」講義で述べている。大学は四書五経にある「大学、小学」のなかのことで文部省官制校の類では「新」を「親」と言い換える感度は教えない。

親しく和することと、新たに和することも和することは変わりがないが、こと古典にある君臣の問題となると大きな隔たりがある。

宰相が任を退くとき出処進退を騒がしくいわれるが、進むことも退くことも決断できない人物にそもそもそれを説くことには無理がある。よく推戴されてその任に就くが、往々にして辞任は悲哀をかこうようだが、力を残して退くことは稀である。

ときには氏(うじ)でいう出生や育ちまで云々され、遠い過去の国籍出自まで探られる始末である。スパイやいざとなったら逃げだす危惧なのか解らんが、あの元の宰相であった耶律楚材も中央アジア系の色目人だった。

聖徳太子のころの秦河勝も渡来人である。ただ彼らは賢人だった。楚材は勇猛な兵を率いる宰相であり、哲人、としてもその能力を余すところなく燃焼している。今騒がれているのは何処か名利に目ざとく、上に諂い、下を蔑む、人を信用せず屋敷は塀たかく、明け透けな色、食、財への亢進性がある。

         

 

近頃、日本に祖をもつ者も同化し始めている。つまり貪りが激しく、防衛本能が際立ち責任の取り方が曖昧である。たしかに元々武士以外は形式的にそれを要求されなかった。他人が行う討ち首獄門ではなく切腹にて自裁する権利、つまり名誉があった。あるいは弁護士のような三百代言などを要しない潔さがあった。それは成ってはいけない人間が成るということであり、選挙という選別の土俵もおぼつかない足元になっている。


また、土俵を構成する大衆も選挙や政治をイベントのように眺めているフシがある。そんな種々雑多の覗きや嘲りのなか、いかに身を処すかは、たしかに至難の業である。注目される側もさるもの、逃げるが勝ちと病気と称して病院に逃げ込み、そのまま出るに出られず本当の病気になり事後の処理までおぼつかないものもいる。それは、成りたくてなったものか、床の間の石で都合よく推戴されたものか、何れにしても双方とも程度が悪い。要はホドの問題だろう。

さて、『辞めろ!』と、与野党問わず売文の徒や言論貴族、はたまた芸人やタレントが参戦し聴くに堪えない駄論を騒々しく発する姿は、侮られる本人もどうしていいか解らない状況だろう。政権交替で攻守を替えたのも、つい先頃のこと。その前は彼の仲間との言いがかりに約一年ごとに入れ替えを迫られた野党も、いまはうんざりして元気がない。代わったところで、また同じ状況がみえているからだ。その点の先見の明は利くようだ。





 
ペルー元大統領 アルベルト・フジモリ氏




大統領候補となった ケイコ・フジモリさん


親しく和すが、触媒仲介がウイルスになることもある。
また、巷間言われている触媒は政治資金という金もしくは便宜供与である。
いまでも金を集められるものが選挙に当選し、地域内利権、省益利権の撒き餌に群がっている。

それらが親しく交わると

上下交々利をとれば 国危うし」   

上も下も金を追い求めれば国は滅ぶ

小人、利に集い、利薄ければ散ず」  

愚者は金に集まり、なくなれば散り散りに離れる

つまり交わりは利交、詐交、熱交となり、男子の淡い交わり(淡交)など亡くした世界となる。それは民衆も政治家を現世利益の獲得量を追及する役割とみていることも彼らの真の政策親和力を妨げている。だかもっとも妨げているのは、欧米植民地の地域撤退時の謀りである分断統治、つまり同民族の統合調和を妨げるよう異質な宗教(思想)なりを扶植し、つねに争いの種を残して影響力を温存する、あの手に似ている。

表面は政権党のようで、職員組合は野党親派で、つねに貰いぶち、食い扶持の待遇保持を描いている。

撒き餌は種々各省が色取り嗜好性を凝らして「要請」|陳情」を待ちかねている。狡い言いがかりに、ケチな利権の小遣い銭や、審議会の別封デズラ(日当)で操っているのである。

世界いたるところ親和力を知っていても、何処か混じり合わないその茫洋とした繰り返しは、たとえ金融資本の屏風はあるにしても、問題は金と獅子身中の虫である狡猾な官吏の群れである。ギリシャ危機も国家経費がかかりすぎた、つまり公務員の増殖と人件費の増大だった。江戸は大奥で財政を衰えさせ,清朝は宦官の狡猾さに根を腐らせた。ソ連はノーメンクラツーラという特権階級に浸食され活力を失い、中国も解放軍古参幹部の子弟によって再び混乱を巻き起こしている。

善とは違い、悪は徒党を組む。世界の倣いだが、その親和では民衆は泣くに泣けない。
ちなみに党の旧字は、黒を貴ぶというらしい。クロは腹黒い意味でもある。

亡国は亡国の後、その亡国を知る」、
内外の賊はともかく、滅ぶということを知らない民は、滅んだあとに、滅ぶ事とはそのようなことだと知る。

最後にやつあたりは誰にくるかだ。
天が落ちると高いところから順に当たるという隣国の古諺がある。
地位が高いものに一番先にあたる、それは地位とか権力があれば影響は大きいということだ。

やはり地に伏して、天に舞う、それが一番いい生き方だと考える昨今である。

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オリンピックは地球のドサ周り 2013 3/1あの頃

2021-06-02 14:53:42 | Weblog

 

旧竹田宮、JOC会長がオリンピック招致に絡んだ贈収賄でフランスの捜査機関に聴取されたと伝わった。竹田宮家は高輪にあり、今はプリンスホテルの関連施設になっている広大な敷地だ。その西武の創業者は堤康次郎、あとを継いだのは次男義明氏だが、永年オリンピックに関係し、竹田氏も充て職であるJOC会長に就任したのも、皇室縁戚ブランドの為せることだと大方は承知している。

康次郎氏は空襲のさなか困窮した旧皇族の敷地を買いまくったことは伝記にもあるが、プリンスホテルの多くは皇族関係の土地が多い。長野五輪までは西武グループの影響が大きかった。その後の事業頓挫に加えて、長野五輪の会計を含む関係書類の廃棄など、今回同様の招致に絡む金銭贈与については、大方の国民は察していた。

都市博や万博など政治がらみの誘致には、必ずといっもよいくらいに、政官財、あるいは外国関係者を巻き込こんだ招致対価が噂される。

巷の祭りで言えば、屋台の仕切りや選別、みこしの順路つけ、警備や配りもの、揃いの衣装に食い物の仕出し先、舞台の設営、これを国家イベントに当てはめれば、駕籠かき(交通機関)、旅籠(ホテル)、侠客の仕切り(警備)、郷力(ボランティア)と当てはめれば、時代は変われど人の質は変わらない。それに、人が集まれば博打(公営ギャンブル、パチンコ)に遊里(接待や風俗)が加われば、いまと何ら変わることはない。

そこに、どさ廻りの曲芸や見世物、演芸に勧進相撲が入れば、勧進元は立派なプロデューサだが、カスリ(袖の下、上前をはねる)は役人や治安を預かる親分だが、それも上納と権利が存在する。観客や神輿担ぎはそんなことは承知の上で、曲芸師の演技や相撲の勝負にしばしの話題で持ちきりになる。

勧進元はそのカスリと名誉の権利をもらうために賂(わいろ)を渡すのは当然にことで、役人は袖の下は特別大きくあいている。

 

話は変わるが、支配者はつねに大衆を煽り、そそのかし、いつの間にかあらぬ方向に導くことに頭を巡らしている。ギリシャ、ローマ、大英帝国も温泉、グルメ、旅行、イベントを大衆の面前に揃えて選択の歓びと収穫を幸福感として植え付けた。

すこし手を変えて、フランスは人間は平等だとアリもしないことをそそのかして皇帝を断頭台に送り、自由と民主と人権、そして平等なるものを、さも有るものだして、これも植え付けた。突然、それも自由の意志だとして民族の紐帯(結び目)である、国父国母を抹殺した市民なるものは、言いたいことばかりで、言うべきことなく、混乱し、かつ面倒な議会制民主主義を編み出した。

ちなみにフランスにかぶれてその教育政治を持ってきたのが森有礼だ。士農工商がなくなったが官域をはじめ軍隊でも組織内階級は、人格の優劣はともかく、官制学校の数値選別でおかしな人物が高位を占めたゆえか、国民は惨禍に見舞われた。戦後も官域には残存し、無責任、文書改竄、忖度など不埒な行為を恥ずかしげもなく、しかも平然として素餐をむさぼる官吏も増殖している。むかし軍人、いま官吏と政治家と揶揄されているが、この教育制度と質は、明治天皇が察知した責任ある人物の劣化として「聖諭記」に記述されている。

 

いまでも親が亡くなった後の家族会議が人間間の不信をも生み、混沌としていることを考えると、支配する側からすれば財貨に溺れて肉親さえ捨てる群盲の方が支配しやすいと考えたのだろう。独裁や共産は支配者からすればコストがかかる。いっそのこと自由と民主と人権と平等なら、それぞれが言いたいことを主張し合い「人情」など価値のないものだとして、それぞれが分派、分裂して、心地よいワンフレーズで集散も思いのままになると思ったのだろう。つまり主義は支配の方法と手段なのだ。

自由は孤独になり、民主は無責任、平等は無垢なる生育を止め、人権は関係を混迷と離散に導いた。だが経国はスローガンと目標を掲げなければ、民族や国家の権益は保持できないい。いつまでも融通無碍な「愛」を添加できない。それには驚きと興奮に愛と平等に包まれたイベントが必要になった。それもフランス以降にそれを模倣し、民族の紐帯を破壊し依るところを亡失した、地球の表皮に棲み分けられた人種・民族のバーチャルな連帯意識と、大切な思索から、「ちょっとよそ見」させるイベントを世界に広げるムーブメント(拡散運動)だ。

趣旨は「戦争のない、国境を超えた」から始まったが、ここで登場してもらったのが、自らが自由と民主と平等の美句に酔い、みずからが破壊した既存の権威保持者である紐帯の血統を勧進元のメンバーに座らせ、まさに床の間の石として利用した。懐かしがって愛顧を感ずるものや、感激して財を出すものも大勢出てきた。

イベント(興行」は人が集まらなくては金に成らない。ゆえにアマチュアから職業競技に転化した。興行を主催したい国は、開催利権となったオリンピック誘致のためにあらゆる狡知を働かせたが、つまるところメンツと金だった。「だった」ではなく、当然のことだ。それくらい関係者は金になる。

そのコンテンツ(内容・システム)を権利化したのがIOCであり下請けのJOCだが、世界の成金や貴族くずれが数多鎮座している、これも可笑しな様態だが、ここにもボスがいる。

それらは現代のイベント貴族といわれる人間達だが、競技の熱気と感動が屏風に建てられていては、なかなか文句も言えないし、マスコミも利権一族のようなもので、政治家や商売人を集めて児戯に等しい姿をさらしている。

その地球のドサ廻りだが、分かる御方もいらっしゃる。

 

 

   

 

以下、13   3/1  稿

なぜ、皇室は逡巡したのか・・・

皇室を招致の顔として皇太子殿下の登場を懇請した石原都知事、ほかにも皇族を用いる案が多く出た。

ドサとは佐渡(サド)の島流しで、なかなか戻れないということらしいが、オリンピックの開催はギリシャのアテネからはじまった。現在は財政困窮ということで色々と問題があるが、いっそのことアテネに戻せば経済効果も上がり救済にもるだろう。だが、興行主は懐の按配を気にしている。
 その後の都市開催は国家伸張や国威高揚など、それぞれの事情で開催誘致が利用されている。ヒットラーのベルリン、北米大陸、アジアと夏冬オリンピックの開催地が地球の表皮を転々としている。

 まだ興行していないのはアフリカ、中東、南米の地域だが、国情問題もあるが要は形式に整った資金準備が主な要因になっている。五輪は5大陸の肌色の異なる民族の競技を謳うが、なぜか水や氷などの競技に黒人といわれるアフリカ系はいない。
あるいは、植民地宗主国のなごりなのかフランスやイギリスの選手にアフリカ系が多く参加している。もちろん奴隷制度があったアメリカにはアフリカ系の子孫がメダル確保に一役買っている。






根岸重一氏 作



 日本も朝鮮半島や台湾出身の選手が以前は参加していたが、サッカー、相撲、野球では帰化して日本名になった選手が国内試合に出場している。一昔前は王選手が学生の頃、国籍問題で難儀したが抜群な実績と人柄で野球界になくてはならない存在となった。金田選手の400勝、張本選手の3000本安打など、国内のみならず民族の英雄として厚遇される選手もいた。
そう考えればオリンピック憲章も納得できるが、国家が絡むとややこしくなるのは帰属国も選手の祖国も同じような複雑な問題になってしまうようだ。

 オリンピックはまさに熱狂と偏見を記録という共通数字によって諸民族を平準化しながら世界の各地を周っているが、アフリカ、中東をまわらないのは平準化に馴染まないのだろうか。

 江戸時代にも旅芸人が各地で小屋掛けをした。相撲もそうだが開催地には勧進元がいた。いまはやくざと括られたが、当時は十手まで預かる任侠の親方がいた。興行ゆえに近在の親分に声をかけて客を集め、特産品などを売る屋台店を揃え、博打うちは賭場も設営した。
 場所は寺や旅宿を借りたが、もちろん寺銭のあがりは寺に寄進もした。
 興行の呼びかけは「江戸で人気の○○一座」と、いまの地方興行にあるキャバレーや小劇場とやり方は同じだが、そこに述の立札やまき紙も瓦版屋から新聞社に替わった。

 東海道や中山道に代表される江戸からの五街道では参勤交代も大名興行のように道路や橋は整備され、道端のホームレスならず浮浪者や無宿人といわれる人たちは排除され、旅館は整備され、駕籠かき、馬子も親方の号令でしきたりを守った。つまり江戸下がりの旅芸興行や大名行列は郷の繁栄や整理に役立つ良機だった。

 ちなみに孔子に弟子が尋ねた「まちづくりに際して肝要なことは・・」
『外の人 来たる、内の人 説(よろこ)ぶ』
 たしかに外来は珍しいものを持ってくる。にぎやかで交易も盛んになる。
 だが、主体はまちの人がよろこぶことだ。今の喜びは小判が降ることだろうが、そんなものは、いずれ国の寺銭として巻き上げられるのは民も承知だ。

 江戸、いや地球の名高い興行として、各色の異邦人と旗が混じって飛んだり、跳ねたり、殴り合ったり、球を追いかけまわす一座の興行には、法外な呼び代と放映権という寺銭がかかる。隣の国では独裁政権のもと、すぐにでも起きるかのごとく戦争だと騒いでいるが、こちらは繁栄を屏風に闘いの興行である。






銀座の朝





 これで日本が元気になり社会は繁栄する、そして誇りを取り戻すと為政者は相続遺言を声高に叫ぶ。どこかでもミサイル、核は先代の遺言といって国民の団結を促している。
 そのために、君たちの税を使って興行を成功させると・・・・。
 どうも体裁のいい目標は成ったためしがない。
 阿諛迎合、好奇心はイザベラバード女史の日本人観だが、マッカーサーの別れに旗を打ち振り、涙を流すように国籍に偏重しない日本人は、アジアでも南米でも多くの信頼される足跡を残した。

 だが、物欲しげでさもしい態度にも映る小商人的な姿は、多くの蔑視を受けたことも歴史にはある。そして政治が経済的効果を謳い媚びへつらって興行を呼び寄せる姿は、たとえ招致されたとしても、どうも政治家の感覚はもとより、いずれかの将来に憂慮を起すようにみえる。それはへそ曲がりや天の邪鬼の逆賭かもしれないが、その兆候は心底に増殖する問題にも思える

 落ち着き、鎮まり、潜心の思索が乏しくなった世情だが、戦前の開催中止、戦後の高度成長の端での開催、そして今度の招致、それぞれに理由のある招致だが、以前は憲章メッセージが前面にあった。IOCも開催元も、そして選手もまともだった。今回は趣が違う。いや、目的がさもしくなっている。政治家や関係商人もそうだが、IOCの変質と委員の慇懃さが、双方似た者同士のように感じられるのが、いやらしい。

金をもったらどのように遣うか。地位があがったらどんな部下を任命するか、また、どのような友を周囲に選ぶか。わかりやすい人物の見方だ

 なにも人格となんら関係のない附属性価値である、職掌、地位、財力、学校歴、国家でいえば単に努力次第で上がる経済の数値評価や軍事力を表層国力とすることは、つねに国家の高邁な目標をその類いの数値に置き換える愚策の様なもので、本来の国力とは人々の深層にある情緒や、今どきの放埒ではない真の自由のあるべき素因を知り、守り毀損しない国家の役目を人々が知ることだ。それが調和と連帯の心を生み、はじめて他とともに理想を描くことができるのだ。

 何でも外から来るものに興味を示し、外と同じことをすることに安堵するのが民癖の利点ならば、せめて、異なることを恐れない自覚を以て今いちど学びなおしてもらいたい。






パチンコは遊戯か競技か博打か





「上下交々(こもごも)利をとれば国 危うし」

「小人、利に集い、利 薄ければ散ず」

「小人の学、利に進む」

そして、「利は智を昏からしむ」

あのギリシャ、ローマ、イギリスの栄華は民の弛緩で滅んだ
その指向は温泉、グルメ、旅行。イベントと共通している
せいぜい繁栄とか豊かさはその類の満足しか与えられない
また、一度わたした子供の小遣いと一緒で、毎年増えてくる

そして何世紀にわたって宴のあとのゴミ拾いにエネルギーを費やしている
我が国も津々浦々の自治体では官製イベントが盛んだが、整理と管理とゴミ拾いで多くの予算を費やしている

それも懲りずに都会の人気者を呼んだりして毎年のように同じことをしている。これを役人慣性というらしい。


為政者に民は倣う。せめて大人(たいじん)になって戴きたい。

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地球のドサ周りに「奥」が憂慮したこと  2013 9 再

2021-06-01 10:00:48 | Weblog

 

以下のありさまだが、床の間の置き石に「奥」に棲む皇族を利用しようと企てた

旗振りのIOCの地方興業元のようなJOCも、神輿は皇籍離脱した竹田宮さんだ。

そのJoc奥の院といわれる堤氏の経営する高輪一帯のホテル群敷地の元の地主さんだ。

戦後疲弊した皇族の屋敷敷地を買いまくり、プリンスを冠として事業拡大している。

その竹田宮さんを充て職として就任したが、舛添、猪瀬両知事のように用が終わればお払い箱がこの世界だ。

この手の興行は昔から勧進元が裏で差配していた。いまは広告会社の呼び屋と結託して最後に笑うのは推測がつく。

それが、市民の革命と称して王族を断頭台に送って、取り付く島のなくなった青い目の胴元の関心を得ようと、奥座敷に座す皇族を広告塔として用いる魂胆は、国民に見透かされている。

カラ元気な愼太郎さんは「侍従ごときが・・・」と息巻いているが、宴の後に待つは悲哀か。

そうはさせじと、奥と興行主の暗闘があるようだ。

        

           

 

2020年オリンピックが開催された。トルコとスペインと日本の競争だった。
吉原の女郎屋で格子のなかで色っぽいしなをつくる女性は声のないプレゼンをしていたが、川崎や黄金町ではおばさんが「イイ娘がいるよ」と、奥のほうでもの憂げに座っている若い女性を促していた。

吉原はイイ娘だが、税金鳥(取り)が普通の日本人らしからぬジェスチャーを交えて猪瀬都知事は「金があります、四千億、銀行でキャッシュ」と叫んでいる。

いっときは金がないと騒いでいた自治体だが東京は固定資産税という彼らにとって不労徴収税があるおかげで、有り余る金があるらしい。客が呼べる興行師の歓心を得るために、毎回、数百億の運動費を掛けているが、あの長野開催では使途不明金が数十億、しかも帳簿資料も廃棄された

証拠の改竄や破棄は、当時から下々の役人まで蔓延していた。

たとえは悪いが、キャバレーの売れっ子は腰が落ち着かないが、独占するには客同士で競う金が必要だ。客とて、お前だけではないよと、あて馬をくっつけて競わせるが、女もモテ振りで客をやきもきさせる、つまり狸と狐のバカし合いが遊びの世界だ。

そこで興行師オリンピック委員会のサラマンチ氏の母国スペインとの争いとなったが、同元が場をおもしろくするために客として参加した。掛け金は上がり成り金の客の懐とメンツをくすぐりながら場は盛り上がった。たしかに金がなくなれば博打は打てないが、一度大金を摩った馴染みの客には胴元は金を融通するか、次は大丈夫と耳元でささやく。




     






だからなのか、当時、招致落選し石原前知事は「政治的な動き・・・と言葉を濁した。彼の感覚だろうが、強く察することがあったに違いない。

今度は都民から絞り取った税収遺産を預かった子分は「金なら幾らでもある」と叫んだ。

同元は競争を煽り、コストを釣り上げる。そして放映権、著作,肖像、競技の入場料まで差配する。総て一旦はIOCに集計する。現地に堕ちるのはカスリの、その余りだ。
ロンドンは、入場チケット4000円から28万が定価もしくはプレミアつきで売れた。東京は1000円から3万くらいと現地は踏んでいるが、都は主催者ではない。あくまで東京でイベントをやってもらって、せっかく積んだ金を遣う理由をつくりたいのだ。積み金目的はオリンピック招致だからだ。

《まさか、オリンピック目的税新設などはないことを祈る》

しかし、どこの客なり呼び手が、すっ裸になって同元に懐を見せて、お願いしますと哀願するのか、あまりにも野暮な遊び人だ。家では丁稚や番頭が「差し押さえ!!」と脅かしながら集め、女将が懸命に親父の体裁をとり繕っても、親父が派手好きで大盤振る舞いでは身上もそう長くはもつまい。

悪戯な客仲間と瓦版屋が、「あんたの所は近所では放射能があるが・・」と聞かれれば、「なに、250キロも離れているから心配ない」と、まだ、O157のようにカイワレを丼ぶりで喰うことははないが、これが慶事のように宣伝しているオリンピックだからいいと思っても、これが 国内の答弁ではまず真意を探られる。

それも足下を見られて、どこにでも参加したい心情と、流れに任せた阿諛迎合を見透かされても、国際的地位を占める、国民を元気に、と、その度に莫大な参加料を上納するのが為政者の倣いだが、「江戸の仇は長崎でとられる」と、恐怖におののく国民は徴税の行方にも息を潜めるだけである。

ただ、親父の体裁も分かるが、外に出てみっともない態度はやめてもらいたい。

 









「金は4000憶もある、しかも銀行にある、すく出せるキャッシュだ」
云うに事欠き「福島からは250キロ離れている」

まさに「政治家は人を騙して雄弁家という」軽さだ。

孔子に弟子が人物観を尋ねた
「言うことが信用できて、実行したら結果を出す」(言必信  行必果)

この様な人物は・・・
「硜々然として小人なる哉」小石みたいなものだ

ならば、一等な人間は
君主のお使いに出て恥をかかせない義のある人物だ

瓦版屋に飼い馴らされている群れは、恥はかき捨てとヨイショをするが、まともな国民は別のことを考えている。使い捨ての役者になると・・・

イベント呼び込みと考えれば・・・と思うが、知恵も工夫もない金満自治体は、あの頃はどこもそうだった。疲弊した地方でもいまでも町はシャッターだが、役所は大名、市民はルンペンの待遇だ。
知恵と工夫は節約と勤労から生まれる。税は民の膏(あぶら)と昔から言葉は躍る。

せめて外地の勝利をこ踊りする前に、なぜ、同元は最初に気分よく稼がしてくれるのか、勝っても負けても同元のテラ銭は変わらない。客は負けたらさっさと帰ってくるものだ。いちいち悔やむものは一人前でもないし、勝ったところで澄ましているものだ。

剣道、柔道、相撲も近ごろはスポーツというが、そんなはしゃぎ方はしない。
スポーツマンシップというが、もともと貴族競技だ。当時はシップがあったが、山から海から、あるいは特殊訓練といわれる虎の檻からでも選手集めするとシップはなくなった。

いまは興奮して観ている方が、宣伝に踊らされたりチケットをダフ屋紛いに売買するものもいる。選手は数十億も稼ぐものもいる。まさに逆転だが、同元の稼ぎからすれば微々たるものだ。

もうこれっきり、今回だけは、どこか選挙に似ているが、痛い思いをしなければ病は治らない。

 

イメージはブラジルオスニーメロ氏より

 

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