まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

桜はどこでも見るが、リンゴの花は・・

2023-01-30 13:04:53 | Weblog




桜前線と名付けて南から北に向かって開花がすすむ。
どこの在所でも桜に誘われるように人が集まる。
川辺や名所旧跡などには必ず桜が植えられているが、どこでもふるさと自慢が盛んだ。
日本列島は前線を追って約二か月間は桜を堪能できる。

そこで変わり者は染井ヨシノが散り、八重が終わるころを狙ってリンゴの花を楽しみにいく。先ずは雑踏がなく静かだ。足を入れるリンゴ畑の土壌は柔らかい。
とくに青森県津軽地方は秋のリンゴ、連休の五月をおえて自然が清々しい。
連休の弘前城内は桜だが目の前の岩木山はまだ雪をかぶって夜桜はまだ肌寒い。

五月のなかば、津軽平野はリンゴの花で満開だ。美空ひばりの「津軽のふるさと」そのままの情景がひろがる。
青い空、まだ残る八甲田や岩木の冠雪、色めく草花、山菜採り、筆者はこの季節の津軽がことのほか居心地が良い。よく酒だ温泉だ、いや津軽美人だといわれるが、もともとこの地域が醸し出す風(ふう)と、ときに拒絶するかのような人の情に興味がある。

リンゴという赤い果物と桜が名物というが、このところ数十年も来ていて桜の季節は数えるほどしかない。地元ではリンゴもあまり食べも機会もなく、不思議と供されることも少ない。



   

岩木 嶽温泉      黒石 旧家2023/1



昨冬は弘前では天気も良かったのでレンタカーを借りて岩木山麓の嶽温泉に向かったが、岩木神社を過ぎたあたりから吹雪で見えず往生して温泉にたどり着いた。地吹雪は1,5m位まででバスの視界が高いせいかスイスイ走っている。その後を懸命に追ってきた。
「だれもこんな時は来ませんよ」と宿の主人は呆れたが、変わり者には一番おいしいセリフだった。
雪をかき分けてたどり着いた独り風呂は格別だ。

ひと頃は東北有数の歓楽街、弘前の鍛冶町は賑やかだった。津軽衆もオナゴも道いっばいを使って歩いていた。近在の黒石にはよされ横丁が軒を並べて賑わっていた。
それが今では寂れている。メーンストリートの土手町もシャッターが目立つ。
とはいっても駅裏だった新開地の城東は幹線道路の整備とともに市街地の伸びシロが広がっている。鍛冶町や土手町も大事だが、畑が商業地になれば固定資産税が増大し、市も効率が良い。市民も城東に向かうようになった。

もちろんパチンコ屋や量販店が先導を切っている。津軽は五所川原も黒石や平川も旧市街地は閑散として、幹線道路沿いが新開地となっている。
東京の旧市街地と郊外の様相がそのままこの地域の流れとなっている。



平川市、ランタン祭り (台湾台中市と友好都市)



弘前城公園



もともと津軽は本州の外れ、順当にいってもどこか遅れる。子供も東京の学校に行けば帰ってこない。昔のことだが、たまに来る楽しみは選挙の投票用紙まで飲み込む津軽選挙と酒だ。
握り飯には金を入れ、電線を切って開票所を停電にして投票箱を持ち去ったり、相手票を飲み込むこともあったと、古老は楽しく語る。
負ければ民間の充て職や名誉職の、博物館の館長や商工会の役員は交代、当然のごとく県や市の発注は無くなる。そんな時も何がしかを渡して安仕事の分け前で食いつなぐ、そんなところだった。

親族の働き手が揃って役所関連に勤めていることも多々ある。女房が役所の古手で亭主が設備工事の出入り業者などは、間違いなく一定量の仕事が舞い込む。冬は必ず水道が破裂する。

雪は降らない方がいいが、積もらなくては除雪作業もなく業者は干上がる。
なによりも自然のダム効果は雪には敵わない。
それも選挙で勝った方を応援しなくて仕事にありつけない。博打のように死に物狂いの選挙になる。これも名物、津軽選挙だが、大なり小なり全国津々浦々はこの熱に踊っている。
最近も、定員20人のところ16人がお縄になった市もある。

だが、こんなことをチクチクと騒いでいるのも都会からのよそ者か、赤かぶれ、教員崩れと云われる文句づけだ。それも郷のしきたりだ。それで一年暮らして、また来年が来る。みな解っているが「しかたがない」と。
弘前城の見事さだって幕府から目につきにくく遠いものだから石高をごまかしたんだろ、と地元の人も云う。まして団結の妙は「敵」の存在が大きい。口の悪い人は南部の、゛握り゛(ケチ)というが、南部は津軽を、゛裏切り゛゛足の引張り゛と影口を言う。
東京警視庁と近隣県警の関係だと思えばわかりやすい。ともに互いの陋習をあげつらう関係だ。






リンゴの花



津輕の男は「じょっぱり」だとう。剛情張りで、頑固だ。だが、どうしようもない状況に向かうには郷から離れるか意地を張るしかない。
一方の、゛足引っ張り゛は、変わったことをする仲間やエエカッコシイをみると陰口が出る。それに同調すれば仲間だ。なかなか真から褒める言葉はないように感ずる。どうしても自己を表現したければ、各種団体の有力者になるか財や家屋の現示的消費だ。近ごろは江戸っ子のように洒落の利くじょっぱりも増えてきた。

ちなみにオナゴは商売っ気がつよいようだ。ことのほか金持ち風情に惹かれる。あくまで風情(ふぜい)だが、゛の、ような゛類だ。この地では締りのいいのがケチで、たとえ一過性の放蕩でもオナゴは惹かれるようだが、女同士でも妙な競い合いがある。
だからなのか、思い通りにならない亭主は口が重いせいか酔うと女房を殴るようなことがあると聴くが、限ってことのほか外面がいい。
なにも津軽に限ってのことではないが、外見と違うとよく聞く話しだ。つまり乖離がはげしいのだ。





木村よし 作

 

2023/1 黒石こみせ

それでも桜は美しいしリンゴは旨い。銘酒も多いし麗人もいる。そして温泉だ。
旅の条件は選挙のないときがその期間だ。
今年は統一地方選挙で騒々しいが、宴の後のリンゴの花はことのほか白く映るだろう。

桜の色は薄い桃色で恥かしがりや、リンゴの花は凛として純白だ。見慣れているのか、収穫が終わったら意味はないのか、あまり宣伝もしていない。

人が来れば、゛白は金゛にもなると思うのだが・・・


一部イメージは別サイトより転載

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葷酒 山門に入るを許さず

2023-01-27 16:39:39 | Weblog

[クンは草冠に軍] 
臭い野菜(ニラ等)や酒を飲んでいる者は山門に入ることを許さない 
禅宗の山門に掲げてある。また「清風のいたるを許す」ともある
此れは排除ではない。陋規の礼である。これも無理なき尊重でもあろう。

     

  

   山田良政の墓 弘前市貞昌寺


ある意志


拙稿「請孫文再来」ついて   kindle版は「天下為公」

賢読50,000に届こうとしている拙稿は、当初、備忘録のつもりで陰蔵していたものですが、「萬晩報」の伴主幹と「蜆の会」の大塚寿昭氏のスタッフによって作成され見事に化粧を施されましたが、他人の目に供するほどの文体でもなく当初は゛恥ずかしい゛心地がしたものです。

そういえば手前味噌な例えで恐縮ですが、映画の場面でショーンコネリー扮する小説家が、「自分の為に書いた文章は,人に見てもらおうと書いたものより勝る」と、小説家志望の少年に説いています。

いつぞや夜半、再々読したという青年が来訪し「この文章は句点が多くていつまでたっても終わらない。どうしてですか?」と、正式な文学に触れていない小生を困らせたが、

「官制学歴も乏しく,学校では作文の時間に原稿用紙とにらめっこをしていたものだが、何時頃からか書き始めるとこんな風になっている。つねに明治の先輩に接していたからその感化かと思うが、しかし分かっている事は゛語り言葉゛ということだ。゛話し言葉゛ではなく゛語り゛という吾が言うことだ。いちど自らの言葉で「音読」してみたらいかがでずか」と応答した。

それは、泪を落としたり,肩をいからしたり、あるいは遠大な理想に空を見上げたりすることの繰り返しが、まさに師との語りだった。

すると青年は「請孫文再来」を日本語でなく流暢な北京語で私に聞かせてくれた。「私は正式な北京語でこの表題を発音するべきだ」と、熱烈に語り掛けてくれた。

あるときは名の有る会社の気骨のある会長が来訪し「全部読ませてもらいました」と、感想に添えて見識あるアジア観を披露してくれた。そして映画化の構想を語ってくれた。識者による製作委員会が設置された。

いまだかって無学者の゛難しい゛面倒な文体で、しかも見るものにとって過去の遺物にも考えられる表題は、たとえ遠大な意図や推考が添えられていても、たんなる手前勝手な思い出話としての備忘に過ぎず、不特定多数の見解に晒すことの恥ずかしさはなかった。

後の挿入である『はじめに』と『あとがき』はそのような意味での言い訳のようにも見えるのもそのためです。

また孫文の命日を発信日とした伴さんのご苦労と同時に、即日,上海のサイトから連載依頼があり一挙にその効果の多面性を認識したものです。

しかし、まだまだ書き足りないものもあれば、時を忖度して秘すべきものもある。師から請けた膨大な資料と体験備忘録は小生の非力と相俟って、あるいは熱狂と偏見の鎮まりが許されないアジアの現状を観つつ何れ入稿の時を待っているようだ。




                 




その偏見と熱狂は筍子の言葉の寸借だが、国家衰亡過程に現れる「行いは雑」「声楽は淫」といつた現象などの中ではなかなか表現が難しい事だということです。

『行いは雑』とは、一時流行言葉になった゛ながら族゛のようにテレビを見ながら勉強するといつた鎮まりのない考察や、『声楽は淫』といって音楽も言葉の発声も抑揚のない雑音のようになったり、錯覚した欲望を喚起させ男女の区別さえつかなくなるような状態である。

あるいは「五寒」に表されている亡国の徴は、ときには架空現実や作為的な映像視覚にその拠をおき、言葉や文書というものを軽薇なものと捉える民情を的確に表している。

『敬重』(敬う対象がなく、その価値さえ枯渇してしまう
)父母,子弟に敬もなく,感動感激の意味が単に驚き恐れとして錯誤するためわかり易い地位,名誉,学歴,財力、という何ら人格を代表しない附属性価値によって人物を観察するため統治バランスが崩れ調和が無くなる状態。

『内外』(国内や家庭が治まらないため視点や力が外部に向かってゆく)
価値観が錯交し国内でも家庭内でも調和が取れなくなると外来価値に委ねたり,外部の争い(侵略,紛争)を創作したりしながら外の世界に潤いの糧を求めたりするようになる。他国の高官との写真や褒賞、儀礼学位を国内向けに宣伝したりするのがその例である。

 『政外』(政治のピントが外れる)
国の民情と地政学的にみる地域の特徴との関係に作為的乖離を生じさせるような一過性の合理や論拠によって支配されてしまうような状態で、自らを範とする「教」と,世を経(治め)民を済(救う)う経済の「養」のバランスが崩れることによって欲望の赴く奢の「養」が優先され、「教」までもがその手段となってしまう。学歴,地位,財力とが一体の志向となり相(教,養一体となった先見ある宰相)の存在さえも枯渇してしまう。

『謀弛』(謀が弛(ゆる)む。秘すべき鎮まりが騒じょうとした世情になる)「はかりごとがゆるむ」情報化社会なのか処理能力の枯渇なのかは峻別すべきところだが、人の動向に興味を持ち垣間見ることで安堵する軽薄な民情もさることながら、緊張感が欠けた漏洩政治もその類である。

『女厲(ジョレイ)』(女性が烈しくなる)
母のつよさとは異なり女性の劣性が際立つことである。男のひ弱さもその因ではあるが、男女の別といった弁えが無くなり、その不調和は国家の基盤さえ揺るがすといっている。

「五寒」はこのような社会の゛際立ち゛に警鐘を与えてくれるが、はたして「どうするか」ということについては百家争鳴になり結論が出ないことも示唆している。はたして世界を駆け巡る情報や、たかだか人間の考える一過性の論拠や、はたまた科学的根拠といった臭九老の戯言に委ねることは、せいぜい歴史の一片にしかなりえまい。

せめて、高麗の種のように、歴史への感謝の稲穂となって広幡したいものだ。小生は「請孫文再来」を自身の秤として回顧しつつ、長(おさ)のあるべき存在を認識し、古今の栄枯盛衰にその思考の糧を求めなければ、恥ずべき拙稿に登場願った先人に応えるすべはないと考える。

賢読された方々とすがすがしくも爽やかな歴史を刻むためにも。





                 



2001年03月19日(月) 萬晩報主宰 伴 武澄


 先週の3月12日は中国の革命家、孫文(1866-1925)の命日だった。1年前、寶田時雄さんの「請孫文再来」のホームページつくりをお手伝いし、めるまがとしてメルマガで連載することをすすめした。連載はすでに終わっているが、いまだにホームページには相当数の来訪者がいる。
 寶田さんは東京都板橋区でレストラン「GREENDOOR」を経営しながら、孫文を中心とした中国革命と明治後期から昭和初期にいたる日中関係史を生き様に据えている。日本が大陸を侵略したという歴史がある一方で、孫文の中国革命に多くの日本人が参画し、影になり日向になり支えていた歴史がある。免罪符ではない。寶田さんには「そういう歴史が現実にあったということを伝えておかなければ」という思いがある。

 ●脱亜入欧の厳しさ

 中国革命における津軽の山田良政、純三郎兄弟、熊本の宮崎滔天三兄弟はひと際目立った存在だった。特に宮崎滔天(1871-1922)は「三十三年の夢」(平凡社)という名著を残し、幕末から日本に芽生えたアジア主義の系譜を詳述している。犬養毅は政治家として、頭山満は精神的支えとして、孫文の歴史に度々登場し、三井物産もまた資金協力者として見え隠れする。日本がアジアだった時代である。

 明治国家が生まれ、近代を超克する過程で、思想的に二つの潮流があった。一つは「西洋に追いつけ」である。和魂洋才といいながらどんよくに西洋の文物を取り入れ、一方でアジア的なものを切り捨てるという「脱亜」の流れである。もうひとつの反対の流れは「アジアと共闘して西洋列強と対峙せよ」という主張である。

 明治政府の最初の課題は幕末に西洋列強から強要された不平等条約の改正だった。中国のWTO(世界貿易機関)加盟に当たって、先進国にグローバルスタンダードを強要されているここ数年の世界を取り巻く環境とはいささか状況が違う。

 弱肉強食の帝国主義が全盛だったから、列強の仲間入りをはたすまでのハードルは並大抵ではなかった。列強に認められるために必要だったのはまず「強兵」だった。軍事力で列強と並ぶためには「富国」は不可欠だった。

 富国のため数少ない輸出競争力を持っていた生糸産業の振興が図られ、その歪みとして国内的には「女工哀史」を生んだ。日本には大型艦船を建造する能力などなかったから、日清、日露戦争を闘った艦船はほとんどがイギリスやドイツで建造された。いわんやODAなども一切ない。だから日本は当時の国際金融資本から借金した。返済が出来なかったら、関税など国家機能の一部が担保として取り立てられる厳しい条件だった。

 財政から科学技術にいたるまで多くのお抱え外国人が日本の近代化に貢献した。貢献したといっても当時の内閣総理大臣をはるかに超える年俸を保証した。多くの国費留学生もまた先進国に学び、その次の世代のリーダーとして育てられた。ここらの日本をめぐる国際環境の厳しさは教科書的に「脱亜入欧」と一言で片づけらるようなものではなかった。

 そんな日本が第一次大戦で戦勝国側に立ち、棚からぼた餅的に世界の「一等国」の仲間入りをはたす。そして勝ち組として中国大陸にあったドイツの橋頭堡である山東半島の利権を手に入れ、太平洋に拡がる南洋群島を実質支配下に置くこととなった。明治日本を引っ張ってきた「アジアの国としての矜持」が大きく後退し、日本の慢心がここから始まる。





               





 ●届かなかった孫文の悲痛な叫び

 そのころ中国は辛亥革命で清朝を崩壊させたものの、統一を失った広大な大陸は各地の軍閥による分割統治が進み、それこそ欧米による草刈り場となった。日本はというとヨーロッパ諸国が欧州大陸で総力戦を戦っている最中に満州を中心に大陸での覇権を強化していった。

 孫文は1911年に辛亥革命に成功し、中華民国の臨時大総統に就任したものの、大総統の地位は翌年ただちに袁世凱に奪われた。孫文は広東を中心とした一地方政権を担っていたにすぎなかったことを思い知らされ、共産主義政権が生まれたばかりのソ連に接近する一方で、日本との提携の可能性も模索し続けた。

 今でいう当時の中国大陸の沿岸部は実質的に英仏に支配されていたこともあって、日本に頼ろうとする姿勢になんら不自然さは感じられない。少なくとも日露戦争に勝った直後の日本という国は植民地支配にあったアジア諸国にとってまばゆいほどの存在に映っていたことは間違いないからだ。

 だが世界の「一等国」に上り詰めた当の日本には、明治維新で不平等条約に悲憤慷慨した政治家もアジアとともに苦悩を共有しようとするステーツマンももはやいなかった。孫文の地方政権は欧米はもとより日本にも大陸を代表する勢力として認知されることは一度もなかった。

 孫文は亡くなる前年の1924年、神戸で有名な「大アジア主義」と題して講演し、日本にアジアの心を取り戻すよう呼びかけた。日本の聴衆に「ヨーロッパのように覇道を求めるのかアジアの王道を歩むにか」と問い詰めた。すでに日本という国家は大陸支配に向けてさらに一歩踏み出していたから、孫文の悲痛な叫びが日本の政治の中枢に届くはずもなかった。

 当時の孫文は満州における日本の利権に一定の理解を示していたのだが、日本という国家はそれに満足しなかった。イギリスの植民地支配の狡猾(こうかつ)さは間接統治の巧妙さにみられる。逆に日本の植民地支配はなんでも直接手を下さないと気に入らないという稚拙さがあった。

 歴史に「もし」はないが、当時の日本政府が、苦境にありながら中国民族のこころをつかんでいた孫文に肩入れしていたならば、その後の世界の歴史はどれほど変わっていたかと思うと残念でならない。日本政府が辛亥革命後に大総統に就任した袁世凱を交渉のパートナーとしたのは仕方がないことかもしれないが、群雄割拠後も北京の北洋軍閥に肩入れし、孫文は終生、日本政府から交渉相手とされることはなかった。

 

     

 

 

●革命前夜の日中関係史    

 津軽の山田良政は孫文の第一回目の蜂起となった1900年の「恵州起義」に参加して命を落とした。孫文の革命の黎明期に命をかけた日本人がいたということは歴史の救いである。山田良政の遺志は弟の山田純三郎に引き継がれ、さらにいとこの佐藤慎一郎に引き継がれた。中国の革命世代はこれらの日本人の名前をよもや忘れはしまい。だがそうした革命世代ももはやこの世を去った。

 戦前に日本が大陸を侵略した歴史を否定しようというのではない。1980年代以降のアジアの経済発展はめざましいものがある。今世紀アジアの中で先頭を走り続けてきた日本を追い越す勢いさえある。そんな中で中国革命に共感し身を捧げた日本人がいたことを語り継ぎたいと思う。

 興味ある方はぜひ「請孫文再来」キンドル版「天下為公」を訪れてほしい。





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広島 金家の矜持 10 1/1再

2023-01-18 16:15:10 | Weblog







「私は広島生まれの在日の朝鮮人で法律を勉強している金沢です」
「おぅ 岩田さん元気ですか」
「あんこ屋の・・・」
「確か叔父さんは宮島競艇の・・・」
「姉さんに聞いてみます」

十数年前の突然の遭遇だったがこんな会話だった









「戦後、父親は食肉の仕事をしていて特技は花札。そのころ若い衆だった親分連中に花札を教えていた。お陰で赤ん坊の頃に正月になるとオシメにお金がどっさり挿まれていた。姉さんが面倒見がいいものだから其の人たちが出入りして、面白い話がたくさんあります」

「ところで仁義なき戦いといわれた・・」

「そうそう、知っている人が大勢います。昔は道具(拳銃)を預けられそうになった。けっこう東京に逃げてきていますね。いゃ、あの広島駅での銃撃の拳銃だったらしい」

「そういえば其の犯人は東京に来ていた。何で・・と岩田さんに聞いたら天皇の恩赦も関係あるといっていたことがある。彼を頼ってきたらしい」












「何で東京へ・・・」

「広島にいるといろいろあります。別に在日を意識することは無いが、周りとのことで、どうしても甘えた生活になってしまうし、法律を勉強したかった。
学校で教授が『勉強して司法試験を合格せよ。弁護士になれ。そして全員バッチをはずせ。』といわれたことが印象的だった。なぜなら法を食い扶持に堕し、人の情理が解らない人間になるなということです。弁護士の不祥事や情理の無い判決をマニュアルにする裁判官をみて其の言葉を実感しました」

「ところで在日は民団と総連があるが・・・、その活動も・・」

「ソマンスル議長も広島でよく知っている。なにしろ私もピストルを懐に入れていたこともありました。あの人はよく喋るひとです」









「尊敬する在日同朋はどんな人」

「金持ちは表面的。残念ながら見当たらない。強制とか差別を言っていますが広島ではそんな話を余り聴きません。本国より居心地がいいから帰らない。当時は男ばかりで妻は日本人の人も多い。でも二世になると日本人とはいけない、学校も日本人学校はいけない。朝鮮語を話せなくてはいけない。みんな仲良くやってきたのに頑なになってきた」

「日本人は植民地のことを言われると萎縮するが・・」

「とんでもない、あの頃日本でいえば各地の豪族だった両班が農民を搾取し李朝皇帝にも税をあまり上納せず、李朝の権勢が及んだのは首都の近辺だけだった。当時は日本もそうだが次男三男はたとえは悪いが相手にされなかった。多くの優秀な人は日本に来た。゛こっちの水は甘い゛ということです。なぜなら帰らない。愛郷はあるが愛国は乏しいです」

「陋規の世界ですか」

「そうです。狭い範囲の掟と習慣です。アボジとチョッポの世界です。日本が来て役所が焼かれてことがあったが、あのとき朝鮮人は其の逃れられない戸籍というべき書類をやいている。それも真っ先にです。それだけ人々は逃れられない宿命に困窮していたのです」

「日本でも何々家とか血筋が陋規として成文法より重んじられることがありますが・・」

「まだ努力すれば立身出世もでき、秦河勝のように渡来人でも政治の中枢に入り律令の基を作っていますが、朝鮮のそれは生活に刻まれている。あの大統領はどこの金だとか李だとか、落ちぶれていても血筋がいい人からは蔑すまれていますよ。たとえ独裁国家でも血筋が低いと隠されていることがその例だ。ですから立場は社長でも部下の血筋がいいと命令は届いても、上手くいかない時には血筋を念頭に尊敬が薄くなる」













「出身地も影響するとのことだが・・」

「大統領が辞めると捕まったり、自殺したり、落郷したり、日本とは大きく違うところです。また柵封で中国の植民地のようであったせいか、ことのほか中国には弱い。どうしても囲いの中で人同士が傷つけあうようになる。調和と連帯が民族の命題です」

「歴史も縁も活かさなければならない、また調和しなければいつも負の繰り返しになってしまう」

「どの民族にもありますが、強いものに卑屈になり、弱いものは威張る。人を信用できないから法を頼りにして、人を量れないから資格や学歴という飾りをつけ、いつでも逃げられるように動産に執着する、これでは経過はあっても積み重ね出来ない。成功したら外車や鉄格子で護られた豪邸、しかも自慢する」

「いゃ・・日本もそうなりました。この間、ブラジルで成功した横田さんが来て『私も億万長者といわれましたが、みな先に渡った先輩達のお陰です。あるとき、゛日本人は青い血が流れている゛といわれ畏怖の念を抱かれた。それは勤勉で正直でごまかさない、そして清潔だと・・・、ただそれだけですよ。勉強もできなく、ただ馬鈴薯とハナシができただけですよ。いろいろ人にはあるが、民族は経済や軍事力、あるいはスポンサーがアメリカか中国かといわれても、信頼されなければだめだ』と、つくづく異民族との良縁の基を語っていた」












「自分の同胞や先輩、友人にもヤクザや金貸し、パチンコ屋もいるが、同民族との対応に遠慮なく厳しい。とくに金の問題が多い。なかには破綻前に数千億を親族に移転したものもいる。数十億を故郷に贈呈する篤志家もいる。あるいは政治家になった人もいる。
ただ、戸惑いの気持ちがある。皆、独りで考えている。だだ、政治は世俗の整理や立身の欲望だけではなく日本人の、控える、譲るということもできなければ在日が生きられる柔軟なグランドはできない。地位が就くと身内よがりの悪い面ができてくる。身内のことだが父も姉さんも別け隔てなくよく人の面倒をみる。やせ我慢や意気がりがよく解るようです」

「そういえばペルーのフジモリ大統領の母が出馬前に反対している。それは異民族の歴史の負と正の在り様の中で辛苦した経験だった、目だったことはしない、人に譲る、という調和の心だった。フジモリ氏は陛下との面会で『勤勉、正直、礼儀、そして母から忍耐を学びペルーの人々のために尽くしたいと思っています』と応えている。
いろいろ恩讐はあるが満州、台湾、あるいはアジアでも多くの日本人の事跡がありますが、多くは其の地の土となって礎を築いています。かといって語るを控える気持ちがあります」

「法についての幾許の知識で目の前にいる人を救済しています。民事はあくまで本人が当事者で弁護士は代理人に過ぎません。筋の悪い金貸しや弁護士の餌食になるのを見ていられないので時折、大声で恫喝したりしますが、相談者にも安易な依頼者にならないようにも伝えています」













彼には矜持があった。日本において頼りになる在日二世として多くの煩いに苦悶する人々に光明を指し示した。其の意志は「尽くして欲せず」という、人間としての普遍な忠恕があった。何するわけでもなく金髪の麗人が好きだった。その話題になると杯を傾け厳つい形相を好々爺のように崩して恥ずかしがっていた。












雪に遊び、歌を唄い、BGMに合わせて絶妙に語った。そして日本の歴史にみる賢人の書を好み其の事跡に感動し筆者と語り合った。
たってと勧めた茶稽古だったが、正座の上達は彼のほうがすすんでいた。

予期せぬ突然の悲報だった。
その日は青空だった。
至る処 青山在り、彼は世俗の一隅に敢えて身を置いて求める人々に耳を傾けた
彼は尊敬する同胞を探して逍遥した
彼の遺志を兢々として念ずるなら、この言を以って鎮香を奉げたい

この那において、彼の民族の素晴らしい矜持を嗣ものあらんことを


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陛下の心を惑わす国賊官吏   2012・7 あの頃も

2023-01-17 07:19:17 | Weblog


天皇は和歌に託して国の時々を綴っている。

その中でも明治天皇は10万首に及ぼうとする和歌を御つくりになった。御製といわれるものである。

吾身のお立場は憲法の範疇にあり、国民に対する忠恕の心は歌を詠むことによって、側近なり国民が感受するような、たおやかな関係が政治権力を司るものを透過して深層の信頼となり定着していた。

憲法は権力を制御し人間の尊厳を護ることである。

「法」という文字が付いているからといって、ときに人の自由を恣意的に縛る刑法や民法とは違う。あの律令のころ聖徳太子の十七条の憲法、いや「十七」で済んだ社会のころの法は、すべて官吏に向けられたものであった。官吏も権力を構成するが、その最たるものは徴税である。また治安官吏も国家の要件としては双壁だ。

つまり「徴税の公平」と「治安の正義」を天皇の威によって守護するのだ。これなくして国家は無い。また汚すものは国賊官吏とも称されていた。

以前の章で記したが・・・

「人が人でなくて、どうして国家が国家として成りえようか」と清末の読書人(知識人)梁巨川は謂う。



明治天皇の和歌にも聖徳太子の憂慮した官吏の素行について詠まれている


「世の中の 人の司と なる人の 身の行いよ 正しからなむ」

≪政治家や役人は国の大切なことを行う役割がある。そのために言動は正しくなければならない≫




また、それが発覚して社会が騒然とならないようマスコミについての留意を期待している

みな人の 見るにひぶみに 世の中の あとなしごとは かかずもあらなむ」

≪多くの人々が見る新聞紙は、あまり細かい詮索をせず大きな観察で正しいことを伝えることが大切だ≫



先日、畏友から巷の話題が送付されてきた

税官吏、しかもその司である国税局長官の脱税と政治権力者からの、゛小遣い゛、つまり汚職である。
今はどうかわからないが、昔の官吏高官は天皇からの勅任官である。つまり天皇から直接指示される司(この場合税の徴収を任せられる)であり、権力執行者である。

しかも、それを報道するマスコミに現職徴税官を伴って報道とりさげの強要まがいの行動をとっているということだ。まさに権力の中枢を司るものが、社会の自由を毀損するという聖徳太子が憂慮した問題そのものとして露呈した。

国民は誰を、どこを頼りにしたらいいのだろうか・・・・


検察、警察、教員、数多の官吏、部分能力を覚えていても、人間として信ずるに値しない人々が一過性の縁と、食い扶持安定を意図して任官した狡知ある官吏の誰を信頼したらいいのか苦慮している。

だから国民もそれら倣い公徳心を棄てて社会はカオスの状態に入ってきた観がある。

先ずは信がなければ、人情の枯渇だ。

「上下交々(こもごも)利を征(と)れば、国危うし」
政治家も官吏に倣い国民までが利のみを価値とするならば社会は崩壊するということだ。

とくに自衛を司ることに精励する隊員諸士、治安の現場に立つ警察官などの胸中は、彼らキャリアといわれる貪りを安定収益としてしか見ていない一部の高位官吏の行状は、国賊といってよい有り様であろう


翻って、彼らに権力を委ね、税によって生活を賄っている国民はどうだろう。

委ねた権力に苦しめられ、その血と汗の税は彼らの狡知によって掠め取られ栄華を提供している。

だだ、゛江戸の敵は長崎で・・゛を恐れるあまり、税と警察には逆らう手立てもない。彼らに甘言は必要でも諫言は理解されないと諦めているような状況だ。


でも心中はゴマメの歯ぎしりでも、光明は抱いている。








あの御方なら解って戴ける・・・と。

公式発言は避けている、いや過度の自制をされているお姿だが、政府から厭まれているかのようだった美麗で蓬莱の国といわれている台湾の全権代表である馮寄台を園遊会にお招きして深甚の謝意を述べている。国民は安堵した。国民を代表して陛下は語ってくれた。

あの海に向かって頭を垂れ哀悼の意を尽くしていた映像は国家の長としての威を示された。いや真意は、歴史上の皇祖同様に祷りの至らなさによる自然の惨禍を鎮考しているようにも敬して拝察した。

その惨禍に加え、官吏の中でも高位に任命され、しかも国の要諦である税の徴収にあたる責任者の醜態は、よりその御心を煩わせたに違いない。

なぜ国民の苦渋を忖度し政策によって配慮することをしないのか・・・・

国民から権力を付託されて政治家は必死な思いで防がないのか・・・


それは自らの認証によって総理、閣僚を司に就け、歴代の皇祖に恥じぬ施政を願う陛下とって五内裂く怒りと悲しみであるに違いない。それは国民とともにある陛下の人々に対する共感だろう。

国民の生命財産を護ると政治家は唱えるが、長生きと金は真の願いではない。
生きているうちに、綺麗で正しいことを見て体感し、感動を味わいたいのだ。

政治家諸君、貪官諸氏、票取りや、税取りも程々にして、少しは陛下に倣ったらどうだろうか、金がなくても世の中は覚醒して好転すること間違いはない。

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大謀企図は、夷をもって夷を制す 15年 9/18 改編

2023-01-12 15:18:56 | Weblog

豚も煽てれば木に登る、確かに総理の踊るような動きは、誰かの耳元の呟きの故かと思える節がある。前任も主体的な動きのようだか、賛同する各国の賛意浸透ぶりは日本の置かれている地裁学的地位や、どんよりした経済の先行きを考えたとき、いつの間にか前に押し出され、まるで先兵のような立ち位置に立っているかのようにみえる不思議さがある。

あの北京義和団事件の時、柴五郎に代表される日本及び日本軍人の目覚ましい活躍を賞賛したロンドンタイムズのモリソン記者の心情は次第に危惧に変わり、英国世論を動かし、後の清国における英国の権益擁護を企図した日英同盟から日露の戦端まで、巧みに操られた時と似ているように感じている。

そして増長した軍部、盛り上がった国民は国力のホドを超え、誘い込まられるように大陸を侵攻した。もちろん役割を終えた日英同盟は破棄され、これまた謀略によって北進は南進へと政策転換して英米と衝突した。

簡略ではあるが、その経過を辿ると曲がりなりにも経済は数値の上では成績優秀だが内実はおぼつかない国情ではあるが、戦後は戦勝国に組み込まれ部分役割傭兵と化した自衛軍が、歴史体験もなく腰の落ち着かない為政者が他国に持て囃されることに、深慮できない、つまり先に起きることを想定して、現在手を打つことが、余りにも近視眼的になっているようだ。

先の大戦は曲がりなりにも自己完結した。しかし、今回の統帥権は他国である。

妙な歴史を後世に記述されないように願うばかりだ。

 

 

先の大戦で米国は在米日本人の部隊を欧州戦線でドイツにあたらせた。

英国は勇猛な山岳部族グルカ兵(パキスタン)を、またインド兵を傭兵として対日戦に充てた。

中国はチベットでの戦いをモンゴル騎馬兵を充てた。武器となった刀は満州国軍騎兵で慣れた日本刀だった。

それぞれは経済出兵もあれば、民族や部族を護るために強国(宗主国)の傘下に入って戦った。

生存権を担保としてアジア民族同士の戦いや域内の異民族平定の先頭に立った。

朝鮮・ベトナムで懲りたのか、白人はアジアの戦いに自国の血を流さなくなった。

アフガンや中東は資源があるが占領後の軍政(民生)は手間のかかることなのか民主を看板にした傀儡に任せてコントロールしている。

戦いは意地やメンツ、あるいはイデオロギーや宗教といったことは名目となっていても、経済市場拡大と資源や情報の囲い込みになっている。

アメリカにとって日本は地政的に、夷であり、異なのだが、このところ危機を題目にして軍備増強を急かしているようにもみえる。

だだ。指揮権、基地権、裁判権は離すことはないし、日本政府も国民には植民地的経国の実態を何故か覆い隠している。

有事想定する国は同じ非なる部分はあるが、中国である。

まさに「夷を以て夷を制す」、同種アジア人の戦いの前面に日本人が立つことは彼らにとっては当然の姿でもある。

よく、ヤクザ同士で殺し合いをしても痛みはないという。だだ好奇な目にさらされるだけだ。

アフリカでも争っている部族の憎しみを煽り、資源を担保に武器を売り、それぞれに欧米の勢力が権益を企図している。東西の謀略戦は冷ならぬ熱戦として、彼らの言う未開で野蛮な地域を混乱に堕としめている。

血を流すのは、彼らからすればあくまで「夷」である。

中国でも北京を中心に北の夷・南は蛮賊として、説家(欺いたりする交渉役)・間諜・謀略を駆使して衰亡・亡国を誘引した・

日本でも群雄割拠した戦国時代の謀略は軍師を雇用して様々な計を行っていた。親殺し、子殺し、下剋上、政略結婚などあらゆる智謀を尽くして疲弊を誘引して滅亡に追いやった。

つまり、手を汚さず脅し、唆し(そそのかし)、同種、同域の疲弊を企図したのだ。

 

 

 

私が大統領になって、初めて会った方はあなたですよ」

日本の政治家が大国の要人に会って一番高揚し、かつ嬉しく阿諛迎合する言葉である。

土産は官僚が鉛筆を舐めて切り売りする固有な資産だが、多くは毎年のように献上されているため、残りは少ない。金融、郵便、水道、農水、医療、次は参加型大量消費イベントである紛争参加のようだ。

イベントといえば、世界のドサ周りオリンピックも、選考招致とは名ばかりで、有り難くも拝み手で選んで頂いたのではなく、儲かる興行地として指名されただけだ。クイズのような賭け事に熱中するのは東西を問わない。

いつ頃からか卑屈で大勢に乗じやすい民族になったのだろうか。運良く金を持てば、いや、持たされれば威張り散らし、武器を持てば使いたがる。人間もそれに慣れ、無粋な政治が、お願い!、頼みます!と言えば、片手では足りず、両手を出して、「金くれるなら聞いてやる」と、さもしい関係になっている。

知事が敢えて米国まで行って、わざわざ右系団体での会見で「尖閣を買う」と公言。メンツがあったのか総理も「国有化します」と、後追い。次は「守ってくれますか?」と頼りなさ。

智慧者は歴史的地政と国力で様子を伺うか、其れでも怖れ気質な慌て政治家でも、逆順で、守ってくれるなら買っても良い、くらいな落ち着きある行動が欲しい。

また、踊れされ、まだ判ってない。黄色の血は、黄色い血で贖うことを。嫌なら言う事を聞け!。あとは誰に初めの1発を、撃たせるか。まさに罠を好む民の大謀である。

 

 

「大謀は計らず」とはいうが、まさに見えない、ここでは感づかない企てだ。

それは連帯を断ち分断する統治や、傭兵のごとく前線に送る遣り口だ。

そうせざるを得ないのは、資源、金融などの経済もしくは、昔なら人質だが、今どきは防衛の屏風だろう。屏風を外したら丸裸だからだ。その裸にせめても衣類を着せるのが法律だ。

それも、゛しなければならない゛ではなく、゛することができる゛ぐらいの類だ。

しかし、その大謀は、「夷をもって夷を制す」これだろう。

つまり、金もかけずに未開の獣は、獣同士で闘い疲弊すればよいということだ

ヒットラーや蒋介石に援助したのも米国の金融財閥だ。アフリカ中東などでは敵味方問わず、双方に援助する狡知がある。

 

中華人民共和国はチベット平定のためにモンゴル騎馬兵を使った。

その騎馬兵は満洲国の士官学校で修得した戦術でチベットの民を殺戮した。いや、゛させられた゛と云ってもよい。その帯刀は切れ味の鋭い日本刀だ。横綱白鵬が似合うのも意味深いものがある。騎馬兵術は元(モンゴル)のヨーロッパ侵攻によって西洋馬術となり、明治になってヨーロッパを範とした秋山好古に代表される騎馬砲術、そして日露戦争から満州の日本人教官による士官学校の馬術教育は再びモンゴルに還った。かれらも選抜された誇りあるモンゴルのエリート騎馬兵だった。

イギリスはインド兵を日本と対峙させた。マレー半島で敗北した残置インド兵は後のインド国民軍としてインド独立のために英国と戦った。(指揮官はスバス・チャンドラ・ボーズ)

昔から戦争に負けると男は奴隷だ。奴隷は前線兵士となり宗主国のために戦った。

ローマの戦士の多くは奴隷だったというが、その統治は巧妙だった。

 

日本による大戦の触発とは別に、コストの掛かる植民地経営は、効率の良い姿に変化した。大戦後の数多の独立も、彼らにとって丁度良い時期に差し掛かった時代だった。

手放すときに彼らが狡知を働かせたのは、その影響力を残すことだった。それが民族の分断だ。そのために「長(おさ)」を民というまとまりのない群衆に握らせ、連帯と調和の柱だった長を民主の名において駆逐した。あのフランス革命が範となり、まとまりのない多くの市民が発生し、それらに思想主義に飾られた富貴と権力を提供した。

民族内の離反や憎悪を醸成して、つねに煩悶の多い社会を作った。あるいは名は有ってもいが,威が及ぼさない政治体制に作り直した。掛け声は「先進国」「文明国」だった。   

 

分断統治は宗教や地縁の異なりを利用して、棲み分けられた地域すら混沌とした状態に陥った。インド圏は・バングラデシュ・パキスタン、イラクとクエート、南北ベトナム、東チモールとインドネシア、中華人民共和国と台湾、身近では朝鮮半島の南北分断、古くはアフリカの直線的分割、ロシアもクリミアやウクライナで問題を残している。

インド北部のカシミールは地続きの三国が今でも争っている。我が国の北方もそうだ。

その意味では尖閣も北方も打ち込まれた頸木は抜くことができない。これも主義思想や信条を基にする勢力圏の問題ではない。その状態にして維持するために企図された隠れた大謀なのだ。敵も味方もない。かえって味方だと思える方に気を遣い、エネルギーも労すようだ。

 

  モンゴル騎兵

 

ヤクザ稼業のシマ取りだが、いさかいを起こすために鉄砲玉と称するものがいた。相手の領分であえて暴れさせ、命を取られればこれ幸いと大群で押しかける。名分は敵討ちだ。力の強いものに狙われたら奴隷もしくは逃げるしかない。謀とはそのようなものだ。

 ヨーロッパの白人社会では津波のように難民が押し寄せている。

人権と民主で選挙権を与えれば、国家すら変容する。

なにも大軍を出してコストの掛かる戦争をしなくても、民主と自由、そして人権は国家を疲弊させる。金融でもそうだ。大量に貸し付けて数値形式的繁栄になったら、大量にひきあげる、アジア危機も韓国も血を流さずに国家経済をコントロール下に置ける。わが国もバブル崩壊では先の大戦の戦禍で消費消滅したと同じくらいの財が吹き飛んでいる。

 今度の消費は再び人命と資材の大量消費と云われる戦争経済だ。もうその選択肢しかないと彼らは思っている。かといって民主と自由を謳歌している国民はことのほか人命には敏感になっている。要は消費市場である未開発国や新興国といわれたアジア、そして中東の疲弊と混乱は彼らにとって転換の良機である。しかも危機を煽り軍拡に勤しむ国々である。

 

落ち着きのない日本も外から見れば軍拡である。

それも自発ではなく、強制でもなく、ただ課題を与えれば、課題に発生そのものに疑問を抱かず、ただ、与えられた目の前の答えを出すことに集中する我が国のエリート醸成の仕組みそのものの欠陥でもあろう。福島の原発対応や、古くは戦前の軍官僚の思考許容のない硬直さなど、我が国のエリート教育の根本的欠陥を露呈している。まさに世界的に観ても異端の国である。

また、対日年次要望書の励行に順々と随う政治家や官吏が支配している国だ。

その姿は敗戦国という頸木が抜けない政治的奴隷のような姿でもある。

昔、白は黒と黄色を未開の野蛮人として使役した。耶蘇教造物主が創った最高のものは人間だというが、それも白い人間だ。あとは宗教的にも夷敵なのだ。

そして夷は夷によって争い、疲弊し、駆逐されるものと考えている

戦後の教育には地政学はなくなった。ある中国の知識人は「なぜ日露戦争というのか、あれを亜細亜解放戦争と呼べば抑圧された人々、とくに中国民族は歓迎しただろう」という。

まさに地政学的な見地であり、孫文、秋山真之、不拡大を唱えた石原莞爾もその経綸だった。争わずに、アジアを興して西洋と調和しようとする大経綸だ。

 それにつけても易々と乗ずる輩が多い。自立、自発なら救いもあろう。彼らからすれば夷敵と奴隷がいがみ合い、殺し合い、消費しても痛くもかゆくもない。

大きく考えればアジアの分断だが、いずれ到来するこの期を読み取っていたとすれば、忌まわしい狡知だが、越えるべき大狡知を企図せざるを得ないだろう。

金を偶像視する民が増殖する途上国にその狡知を感知する免疫は乏しくなった。それを抑制する「長」は自由と民主の掛け声にかぶれて亡きものとなっている。

それはハーメルンの笛吹や犬に追われる羊のようなものだが、目先の我欲しか見えなくなった人間の末路は茫洋としている。

 解っていて韓信の股くぐりをしているのなら、せめてもの慰めもあるのだが・・・

 

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三島由紀夫から安岡正篤への手紙  2008/10稿

2023-01-10 01:47:10 | Weblog



新潮社「三島由紀夫全集」には未公開の多くの手紙が遺されている。

そのなかで大塚潔氏の提供された安岡正篤氏宛の手紙が記載されている。
それは昭和四十三年五月二十六日(封書)として紹介されている。

三島氏にとっては初めての手紙ではあるが、江藤淳、丸山真男について書き連ねる氏の気風に、さぞ驚いたことだろうと推察する。

たしかにヌーベルバーグに踊った流行監督や出版部数を競う商業マスコミにあって、その作風に添うように、映画「憂国」での割腹場面や肉体強化の結果をグラビアに登場させ、かつ雑誌「薔薇族」への登場など、常に進取と異型を美と捉えることが新しい社会の風様とみた時世の観客を楽しませてきた。

それは戦後台頭してきた掴みどころの無いもの、つまり富と残滓の合理的理解への道筋にあるアンチ部分合理主義、言い換えれば「精神の総合力」という社会の俯瞰性を全体合理として追い求めた行為のようにも見える。

それは時も部分として検証するのではなく、時の経過、或いは過去の歴史的現象の確認が見方によってはノスタルジックな情緒への循環回帰と見られなくは無い。

歴史は生き物であり科学である。時を超え何れかの期に巳を浸すことは、極めて自然の行為ではあるが、常人ではなかなか大手を振って衆目に晒すことは適わない所作だ。とくにその世界から見れば世俗の思想家や学者などは遺子にしか映らないだろう。

時空を飛ぶ・・・確かに常人には見えないものが観えるのだが・・・


             



余談だが、市ヶ谷決行直前に安岡氏へ長文の手紙を送っている(関係者より伝聞)

幼少より肉体化(浸透学)され、その集積浸透された陽明の薫醸された人間と、知の集積の後、アンチ西洋合理主義による日本人の情緒(日本精神、武士道)への回帰願望が触媒としての「学」なり「説」を理解するものとは自ずと異なるものだ。

陽明は幼少の頃、師の問に「聖賢のようになりたい、そのための学問である」と言い切っている。また、衆を恃まず異なることを恐れない己の独立を学問に求めた。渡来した日本では「知行合一」(学ぶことと行いが一致するとの解釈)が謳われ、行動学として倣った学徒が権力や意見の異なる他者に向けて行動を起こしている。吉田松陰、大塩平八郎、それに続く若者たちだ。
だが、彼の国の諸家同様、陽明は長寿を全うしている。

こんな逸話もある。朋が落第して恥ずかしいと嘆いていることに対して、「試験に落ちる事など何も恥ずかしいことではない、恥ずかしいと思う心こそ恥ずかしいことだ」。つまり他に恥じることではなく、己の再生や更新を考えるべき良機ではないかと云いうことだ。

筆者も安岡先生からの督励で学びの会を行っていた時、参会者が少なかったことがあった。

講師の佐藤慎一郎先生にお詫びしたとき、あの柔和な先生が嶮しく厳言した。

「陽明は、一人でも少なしといえず、相手が千人でも多しといえず、その一人によって国は興ることもあるが亡びる事もある。一人でも真剣に聴く人間がいれば真剣に語るのが学びだ。少ないからといって恥じることではない」と。

徒党を組み、資金を集め、大衆を教化広言する背景に陽明の学があるのなら、己を知る、つまり人と異なることを恐れない独立した「独り」を、先ずは目指すべきとのことでした。

その学風は常に心の内にある秘奥に問いかけ、非は先ず己にある、という堅固な精神を涵養することを宗としている。またその先には他に表現することでもなく、己の意思を確信することを求め心がけている。

何よりも陽明の求めた「聖賢」とは、黙して存在するだけで、利他に効するものだ。
今どきのテレビで口舌を操る「俄か賢者」や、平然と他を非難する人物の姿は、懐かしむべき歴史の情感とは相容れないものであり、自己増幅の糧にしては「敬」や「辞譲」に沿わないものだろう。

ともあれ、天才作家の表現に碩学は真摯に考察した。それは決行後、「惜しい人物であった。もう少し早く先師(王陽明)に触れていたら・・・」と、重厚寡黙のなかで述べた言葉だった。意は通じていた。


              



以下、三島由紀夫氏より安岡正篤氏への手紙 新潮社 三島由紀夫全集より


前略

此度は伊沢甲子麿氏を通じて御高著を頂戴いたし厚く御礼申し上げます

陽明学についての御高著はかねて必読の書と存じていながら、入手困難にて、これまで拝読の機を得ずにをりましたので、望外の賜物と欣喜雀躍いたしてをります。

いずれも現在全く稀稿の御本を、頂戴できました嬉しさはたとえる方なく永く家宝として保存いたします。

 このごろ若干評論家のうちでも、江藤惇の如き、ハーバード大学で突然朱子学の本をよみ、それから狐に憑かれた如く朱子学、朱子学と騒ぎ廻っている醜態を見るにつけ、どうせ朱子学は江藤のやうな書斎派の哲学に適当であらうと見切りをつけ、小生のほうは、先生の御著書を手はじめとして、ゆっくり時をかけて勉強いたし、ずっと先になって、知行合一の陽明学の何たるかを証明したい、などと大それた野心を抱いてをります。

 左翼学者でも、丸山真男の如き、自ら荻生徂徠を気取って、徂徠学ばかり祖述し、近世日本の政治思想の中でも、陽明学は半頁のcommentaryで片附けけてゐるかの如きは、もっとも「非科学的」態度と存じます。

却って大衆作家の司馬遼太郎などにまじめな研究態度が見え、心強く思ってをります。
 
東洋思想に盲目の近代インテリが今なほ横行開示してゐる現下日本で、先生のやうな真の学問に学ぶことのできる倖せを忝(かたじけなく)く存じます。

気候不順の折柄、何卒御身御大切に遊ばしますやう

             匆々
                         
              三島由紀夫   五月二十六日
                            

              安岡正篤先生               

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「天下公為」とはいうが・・

2023-01-06 17:32:56 | Weblog

中華民族から国父と仰がれている孫文が好んで揮毫した「天下、公に為す」、それは中華民族への訓であり覚醒を促すものである。
「衣食足りて礼節を知る」とはあるが、当時の中国は英仏をはじめとする横暴なる干渉に唯々諾々と応じざるを得ない満州族(清朝)の衰退があった。それは香港割譲や治外法権がまかり通る居留地、あるいは不平等条約など国権の護持と経国治世が風前の灯となっていた。

人々は衣食も足りず、礼節のあるも知らないような、悲惨と形容するくらい混沌とした状況にあった。それは易旗革命にある文化圏の異民族とは異なり、白い色をした人間たちによる種の改良を含む、今までに味わったことが無いような危険な状態だった。

昨今のチベットや新疆ウイグルの問題は、漢族との軋轢であり、その間隙に入る欧米列強の侵入とあいまって、漢族は常に中心にあるべき大陸の支配族であるという考えから起きる悶着である。
孫文とて、韃靼を駆逐して満州族を万里の長城以北に追い払う、これが辛亥革命の誓詞であった。元のモンゴル族、清の満州族、みな北からやってきた。

「孫文は満州以北は吾、関せず」とロシア革命家ゲルショニに伝え、革命の協力を断っている。其の満州問題について桂太郎と東京駅の喫煙室で会談した折、「日本はこのまま人口が増えたら生きる道は何処に在るでしょう」と桂に問うている。

そしてこう続けた、「満州は日本の手でパラダイスを築いて欲しい。でもシャッポはシナ人だ。そして日本はロシアの南下を抑えて欲しい。いずれ許せるなら国境を撤廃してシナと日本が仲良くしてアジアを興そうではないか」との経綸を語っている。


                         



それが証拠に、孫文は其の約束を守るため、側近、山田純三郎、丁仁傑、蒋介石の三名を満州に派遣、しかも蒋介石は石岡という日本名で数回潜入して軍閥懐柔工作している。
顔を真っ赤にして「騙されました」と詫びる蒋介石の真摯な態度に打たれた、秋山真之、犬塚信太郎は「こんど何かあったら援助しよう」と応じた。
後の国民党領袖、蒋介石の実直な姿がそこに見える。

彼等は、あの袁世凱に宛てた「二十一か条」の作成に関わったメンバーであり、秋山は起草者といわれ、犬塚と山田は日本側で捺印している。

文は逸れたが、其の日中連携した辛亥革命だが、清朝が倒れとき孫文はハワイに滞在していた。しかし成就したときの宣言文には満蒙も勢力圏に入っていたため、孫文は裏切ったという話が流れた。側近の山田は、「それは孫文の真意ではない、権を獲た人間の高揚した宣言であろう」と述べている。

我国も同様な危機に直面した。
よく笑い話であるが、「近頃の若者は茶髪が好きで、色付きアイコンタクトまでしているが、日露戦争に負けていれば、今頃、爺さん婆さんまで金髪でマナコはブルーだ・・・」
それでなくても文化は易きに流れる、とくに消費プロパガンダに弱い女性は尚更のことだ

それは文化の模倣だが、あのころの先陣を切る兵士の戦闘は、動物的野生に還ったような戦い方をしている。たしか元も奪略、強姦を問わず、屠殺のごとく人間を劫火のなかで焼き尽くしている。阿鼻叫喚の様相とはかくなることを表すものだろう。
満州崩壊の新京では妻や姉妹が家族の前で強姦され、トラックで乗りつけるオンナ兵士は小作りの男子の襟を捕まえて荷台に吊り上げ兵舎に連れて行く。しばらくして戻されるが口唇梅毒になって顔面が融解してくる。男女の差はない戦渦の災いである。

世界史の中では、そんなおぞましい戦禍の様相がいたるところにある。
孫文が大書した「天下為公」という王道を謳っても、その経過には夫々の部分に種々の覇道が歴史に記載されている。かといって部分を取り出して、゛戦争反対゛といっても天下、つまり天と地の間の出来事を説明することは出来ないだろう。
時代背景や民族的性癖を踏まえ、あえて「公」を唱えなければならない孫文の意志は、まさに大向うを唸らせるに充分な革命大義でもあったようだ。

それは「大義を謳って利を貪る」ような、貪り官吏や失業対策事業の如くなった与野党問わず職業議員の選挙の言動とは異なり、それら権力を構成するであろう部位に存する人々に向けたものであり、類似した意志として聖徳太子の十七条に厳命する「公」に位置するものへの公徳心喚起と制御にあるようだ。

民衆の俗諺にみるように孔孟をはじめとする聖者、賢人の説は話(ハナシ)であり、逢場作戯の看板とするアジア特有の茫洋とした民智である。それは虐政、圧政のみに面従腹背を生ずるものではなく、彼等の云う天と地の間での真の自由を担保するものであった。
なぜなら天子様を舟に譬え、自らを水に例える、゛上善如水゛にいう水のような生き方を善なる方法として営みを愉しんできた。


             




水の性は、一滴の雫が渓流となり集合して大河となり、その間は万物に潤いを及ぼし、濁水は清水にも混じり、清水は濁水でも受け入れる。どんな容にも馴染み、そして大海に注ぎ、一端荒れ狂えば舟(皇帝)さえ転覆させる力を持ち、上気は雲となって雨を降らせる。つまり循環思想の倣いが水のような生き方の実利なのである。

ならば天然自然の世界にあって、人間という特殊性から導く「公」はどのようなことになのか、あるいはどのような姿を以って「公」を目的と出来るのか、もしくは反対に位置する「私」との調和を考えなければ、明確な「公」もしく現実的営みに於いての社会的公民の姿さえ想起できないだろう。

公とは人智を超えて創造主が描いただろう、天然自然と人間種の調和と連帯に必須な構成を表現する文字のように見受ける。譲る、分ける、つまり天然自然に対する「礼」のありようが成文化された公意の大局でもあろう。そこから振り分けられた多事多論はあろうが、それを基にすれば、゛人の情゛に潜在するであろう「他の厳存」を認知し、ときに自己を哀れむことこそ「公」の促す含意ではなかろうか。







孫文は純情で優しかった。肉体的衝撃を伴う革命戦火でも「私心」は無かった。そうでなければ賢明な明治の日本人が靖んじて吾が身を献ずることは無かっただろう。


「公」は稲を囲う「ム」(私)を「ハ」(分ける)、意もあるという
つまり国家なら集約した権力なり、自然の恩恵を民に分ける、ここでは革命なり国維の更新がその手段となるが、近頃は二分法のパブリック、プライベートと意味曖昧な解釈論が幅を効かせている。また曖昧な区分を近づけるために「セミ・・」も使うようになっている。これなどは私権優先に偏った知恵でもあるが、柔軟な応用性とは相容れない野暮な私見の類である。

孫文のそれは三民、五権を以って有効な経国を描く上で欠くことのできない、根本的あるいは基礎的条件である国の雰囲気を表す「風」の移風が念頭にあった。天地の間の潤いは「公」、つまり遍く行き渡ってこそ政策が遂行され、かつ差別があってはならないという政治の「理」(ことわり)を知らしめたメッセージでもあった。

それは単なる政治スローガンではなく、彼の生活態度、あるいは指導者としての矜持にも表れていた。つまり指導者が民を「養う」ことと、身を以て「教える」という、「教養一致」の姿勢にもよく表れている。

側近で仕えた山田純三郎はこのことについて、「いゃ・・孫さんには、皆参った・」と数々のエピソードを添えて語っている。

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一利を興すは、一害を除くに如かず 2011あの頃

2023-01-04 12:11:44 | Weblog

 「名山の元に名士在り」  明治の言論人 陸羯南



以下は謹読している産経新聞の過日の感想だが、記事に書かれている事象の真意も重要だが、その前段として拙意を記したことを想起し新風(オピニオン)の有無如何を考えてみたい。







           津軽の冬  岩木神社境内



わが国の出版界、新聞界、私学教育の各社各機関には隠然とした元老院的支配の類が存在しているが、近頃とみに顕在化して本来の使命を忘却し、怠惰にも自らの素餐の糧にしているような状態がある。
 
それは出版、私学校のもつ既得権の世襲に似た同族支配や、新聞を代表とするマスコミの一部に蔓延する錯覚した知的ステータス、あるいは大衆の中央思考や自己表現のための露出願望の対象としての視覚羨望の意識が、その世界を増長させている観がある。

 既得権といっても第四権力と揶揄されるような、物書きの中央権力志向や私学助成という公的資金の確保など、官側の天下り体質との相互補完による利益保護という、ある意味では教育、文化のかかわる精神にあるまじき既得権でもある。

 隣国では「走狗」といって、一過性の流行ごとに、高邁な論調で大衆を誘導する言論、売文の輩がもてはやされるように、知識人の堕落は国家の栄枯盛衰の端に現れる先導役のようなものである。

 経済、政治、国際問題、はたまた医事などに登場する「※説家」というべきものにも、それぞれの一派や閥が存在し、似非元老院のごとく滞留し垢まみれの濾過装置を経て、珍奇、高邁とみられる言辞が吐き出される。

※ 〔説家〕
<  隣国の歴史に登場する交渉役のようなもので、外交口舌によって自国を有利にしたり、戦時交渉などで活躍する。 「戦わずして勝つ」といつた状態を作り出していたのも彼らであり、お抱え説家が高官に召抱えられることもあった >
 

それは肉体的衝撃の回避や、釜の蓋の開き加減(食い扶持)を按配した装置であり、官製学歴という人格、知力とはなんら関係ない付属性価値のマニュアルに、唯一の知識ステータスをみる幼児性の抜け切らない我が国知識人の姿でもある。
 
その姿は、権力迎合や地位の保全の意を巧妙にも覆い隠す「大義の論」が横行し、いとも救世予言(予想)の如く鎮まりのない一時のシノギ論に現れる。
政治家の「大義を騙って利を貪る」類でもないが、国民のため、子供のため、と語りつつも浮俗の風向きには敏感なのも、その特徴である。
 
敗戦の影響か、深層の国力というべき地域環境に育まれた固有の情緒についても、端というべき神仏崇拝についての他国の干渉がおこなわれ、しかも見当違いの論調が紙上を賑わしている。
 




                
  
 ≪ 仏教寺院は自己修養のための学問所である、よって僧侶は畏敬すべき師である
  ベンガルの青年は日本の導師に正対して祷る
板橋区安養院 平井和成 導師

 

新聞は事象に対して正対しているか・・・。覗き、嘲りに偏してはいないか。≫

あるコラムだが、『中韓両国は例の如く反発してきたが、静かに聞き流したらよろしい・・・・ 教科書、歴史認識、靖国は対日圧力の三大カードだからである』
 

また、これを、告げ口しているのは左翼、進歩派、市民運動家であり、火元は日本なのだと人の言葉を借りて記している。
 なかなか元老院的サロン論調だが、論のような「話」のようなもので、老齢にありがちな「まあ、まあ」調の行司論に他ならない。
 「分からず屋だが、相手も立場もあるし、煽り立てるほうも悪い」
そんな気分のようだが、言論人の真摯な意思が見えない。
 
事象の観察は下座、鳥瞰の繰り返しと、座標軸の確定を明確に表す勇気ある意思だが、この表明する己自身の「徳」を明確にするという明々徳こそ、「大学」という学問を納めたものの役割である。
もし、不特定多数に貢献する役分を不明確にして、それによって地位、名誉、財を思い図っているとするなら、隣国にいつごろかある『小富在勤 大富在天』を観て、茫洋とした天の理(ことわり)を純粋な心で悟る「小学」を再度、習慣学習として学んだら宜しい。
 
今では昔話だが、荒木万寿夫文部大臣が、ある民族運動家がビルを建てた際に祝辞を依頼されたときのこと、こんな挨拶をしたという。
『ちかごろの反共を掲げている運動家は、内では反共を謳いながら隣国から資金提供を受けているものがいる』と。
 
また付け加えるように新聞記者について、こう述べている。
『招待外交というものが盛んだが、先般、新聞各社の訪中は、香港経由で列車で北京という旅程だったが、香港までは社費。 香港からは厚遇を受け最終日には人民大会堂で会食。
その際、周総理から風呂敷包みが届けられた。中身は隣国の人情というものだった。
一応、我が国の知識人といわれる新聞記者諸君は、形どおりの話し合いをした。
もちろん、貰うか断るかだ。 思案することのない問題だが、毎日のタチバナという記者が「受け取らず」と、断固言い放ったという。』
 
また、日本と台湾の学術交流の際、帰国時に「お土産」と称するものがあった。
それは佐藤慎一郎氏が桑原某氏を中心とした訪問団に招請された時のことだった。
『旅費まで支給され、最後に「お土産」とは、いくら貧乏な自分でも日本人の研究者としてそれだけは受け取れないといったら、それ以来、呼ばれることはなかった』という。

巷間、台湾派、大陸派と色分けされる言論人も、いつの間にか御招待ということで風光明媚な観光や特有の応接を受けて、いつのまにか同化され、漢文講釈の言うに言われぬおおらかさに、国家の風義さえ錯覚してしまうようだ。
 そういえば、隣国では賄賂を渡すことを、「人情を贈る」と言うらしい。

なかには、顎足付きの接待に妙なステータスをくすぐられるのか、簡略で切れがなくてはならないコラム文までユル褌表現になってしまう。
 疲れたからと、また大陸奇行?では、黄昏の拾得和尚のようなものであろう。
近頃では浮俗なパーティーで陳腐な時評を長広舌するのも、政治家を除いて言論人であることは多くの参会者の知るところであり、新聞界の元老院族に堕している人々の姿である。
 
 ある碩学はいう
「税と警察の姿勢如何によって国家は覚醒もするし堕落もする」と。
自らの作用のみでは自律、自制の難しい民が、他動的制約を集団の安住と引き換えに権力を委ねる、言ってみれば言を敬うという「警」。そして観察されることが、近頃では観察していなければオチオチ生活できない現状でもある。
 
また、応分の社会参加費としての税も梲(うだつ)が上がった場合のことだが、双方、梲という成果が上がることが微かなご時世では、いい加減な使い道に怨嗟の気分が蔓延するのは当然なことともいえる。
 しかも、政治家、裁判官、医師、教育者、検察、警察、自治体職員など、挙げれば枚挙もないほどの「みみっちい」醜態を晒し、あげつらうマスコミも然りの状態では、「どうすれば、どうしたら」はたまた、「あきらめ」に覆われているのが現状だろう。

いわゆる、組織、システム、教育論では語ることのできない人成り、「人格」の問題である。

『人が人でなくて、何で国家が国家として成り得ようか』とは、清末の哲人 梁巨川の言葉だが、『真の日本人がいなくなった』と、改革の先駆である日本を中心としたアジアの連帯を描いた孫文の嘆息は未だ継続している。

アジアの光明と謳われた頃、小、中、高、大学校という官製学歴も存在しない江戸の後期、寺子屋、塾、郷学、藩校においては、知識、技術の習得の大前提としての学問があった。

科学的といわれる高邁な論もなければ、内容はともかく在席を労した学歴もない。
ちょん髷、草鞋、籠が30数年で、大国ロシアのバルチック艦隊を殲滅した歴史が我国には存在する。

 あの下田に領事として多くの逸話をのこしたハリスは最初の日記にこう書き残している。
『はたして、われわれがこの国で行おうとしていることは、はたしてこの国の民にとって幸せなことだろうか』

 勤勉、正直、礼儀 忍耐という社会習慣と資質は、国家の有効資質として様々な場面の政策や経済活動の基幹となり信頼、連帯、安心を添えてきた。


                   

≪ベンガルこども新聞 「キシロシェットロ」  無料配布
日本の各社は購読をこども相手に拡販するため、こども新聞を創刊している
コマーシャルつきの大人が企画して、その大人も書く新聞である
「キシロシェットロ」は子供が取材し、問題意識を高め、自身が記事を書く。コマーシャルもない。創刊以来、教育資材として識字率を高め、大人社会の啓蒙にも役立っている≫



商業新聞のなかでは独特な風威のあると理解している産業経済新聞(産経)の一面コラムに産経抄という欄がある
 筆者は巷間、産経元老院と称されている解説委員諸中の雄、石井英夫氏と聞く。


元号はなく、西暦2002/11/22 と記されている初章に
「祖国を捨てた亡命者、あるいは祖国から逃れてきた亡命者の証言には、割引して聞かなければならないところがある。あやふやな伝聞や、針小棒大な情報も混じっていることだろう。こちらのウケをねらった誇張もあるだろうからだ」

そして「民社党が事情聴取した証言も例外ではない」と、章をつなげている。

商業マスコミの評点といってしまえばそれまでだか、情報を選択して広幡を生業としている業界は江戸の瓦版同様、脅し、覗き、予想が主風となるようだ。
 明治以降の国家の創生期には言論人というべき浮俗の民意とは別の諫言精神をもつ、陸羯南のような人物もいたが、資本の効用を普遍な価値として経世済民を唱える経言家の論がもてはやされ、さも知識人、文化人として利論に走狗している昨今の姿でもある。

 その意味で羯南は国家の縦軸の構成をふまえた「維論」の言論人といってもいいだろう。
 当時の日本は維新から日清、日露の戦勝を経て多くのアジア留学生が到来し、孫文の言を借りれば、゛アジアの光明゛というような時期であった。

 新聞人、羯南は明治38年、飛騨の山中で教員と酌女が心中したことを大新聞が二段抜きの記事に仕立てたことに触れ
「我が教育社会は腐敗に相違なきも、されば教育界のみにあらず、このような種は攻撃的ではなく、警戒的にしてもらいたい。 学校教員とてたかが薄給に甘んじて従事するものなり。 なにも聖賢の行いを責めるほどのものではなく、酌女と心中するものもあれば、女教員の袖を引くものもある。 これは普通の人情である。 このくらいの思いやりで記さねば新聞は彼らと同等の品位に陥る・・・・。 酌女と情死するは小学校教員の職掌とは何の関係もなし。 これを教員堕落の一証とは何事だ」と、警言を発している。 

 その羯南の住居があった弘前の在府町。
 真向かいの家は辛亥革命に挺身し、最初の犠牲者となった山田良政、その弟、純三郎は孫文の側近として仕え、唯一臨終に立ち会った日本人でもある。
 幼少の頃からの羯南の訓導は、孫文のいう「真の日本人」として、またアジア連帯の有為な同志として異民族に普遍な大経綸を描く根本の教えとなり、かつ利他への勇気となったその行動は、今日でもアジアの将来像を考える上で欠くことのできないエピソードとなっている。
 孫文も、わが国に鎮するスバス・チャンドラ・ボーズも見方を変えれば逃亡者であり亡命者という呼称される。

 あのアジアの光明として革命意思を確固たるものとした日本および日本人の姿は、頼られるものの事情を忖度した上で、目標に同化できる忠恕があった。
 むろん孫文と敵対する袁世凱、ボーズの国民軍は英国と、わが国にとっては厄介な国益意識との計算はあろうが、ある意味で利と義、公私分別の問題である。
当時の日本人は義に躊躇しないという人格、人物、あるいは、゛日本人とは何か゛という学問の主目的である「我、何人ゾ」という自問、自己探求の気概があったようだ。

 孫文が武器の援助を請いに台湾の民生長官 後藤新平を訪ねた折、後藤は「成功するかどうか判らない革命には援助はできない。 アモイに台湾銀行がある。革命なら奪ったらいい」と、靴で床をトントンと踏み鳴らしている。 
 ゛地下にあるよ゛ということだろう。

 あるいは自ら小船を操つって命がけで孫文の上陸を助けた、神戸造船所長の松方幸次郎がいる。
当時、松方は孫文の政敵、袁世凱から大量の造船受注を受けていたにもかかわらず、孫文を援け受け入れたのである。  もちろん犬養、頭山も大風呂敷といわれた孫文を援助している。 自他の厳存と義の香りが当時の人物にはある。
 
「利は義の和也」は、維論の存在如何によって理解されるものです。
官制学歴を唯一の学問マニュアルとして考え、人格を代表しない附属性価値の既得権から抜け出せない人々の論評は,アジアの中での日本の存在と他民族に対する惻隠というべき忠恕な仁情を希薄にさせている。
とくに知識人の幼児性と堕落は、よりその流れを速め、単に、゛中央に位置する、誣いて人を従わせる゛といった業欲によって大衆の群行群止を助長させているようだ。

せめて「祖国を離れざるを得なかった亡命者」と記して欲しい。
はたして選択の自由もない死か避難かの追い込みは、肉体的衝撃を回避し、瓦版界の論壇に滞座するものには到底わかる境地ではないのだろうか。

 ことは民主党という人情の観得ない政党だったからとも言えるが、加藤鉱一、管直人、田中真紀子を肌になじまない政治家として毛嫌いしているとおもわれる石井氏のこと、俎上に載せやすい材料だが、好き嫌いを奥歯に物の挟まった書き方ではなく、せめて「維論」を軸に正邪を「書ききる」気概が欲しいものだ。
 人権や訴訟ごとを思い図る組織倫理ガイドラインのハードルが高くなった大手新聞社だが、たかだか十数名の週刊新潮の完結編集の軍団の地を這う取材と事象の視点に追いつかないような編集稟議マニュアルの壁は、俊英な記者の社畜化を助長させている。
 
 産経を定期購読しているが、時折関西の紙面に目を通すことがある。
 気がつくことは社会、経済、政治にはそれぞれ特徴ある風儀が感じられる。
 とくに庶民(国民)が読まれる紙面でなく「読める記事」に感服することがあるが、よもや東京のそれは、御上の傍意識や瀟洒な社殿が創刊精神を融解させていないかを憂慮する。
 
 ある事柄だが一隅の民意がある。
石原都知事に対する傾倒は時節の読みごろとして理解できる。
そして、共鳴もするが、庁舎のカジノはどうだろうか。
世の中すべてが釜の蓋の開け閉めを心配している状況だが、また大衆に選任された官職ゆえ職責もあろうが、その位置は、自己の姿勢と矜持を具現する「教」、庁内予算を掌る「養」の教養一対のなかで、警察権、徴税権、はたまた日本人としての外交を行う首長でもある。  

しかし、発想、実行の直な経過は、江戸っ子の尺度である「ほど」の意と鎮まりを持って観察したいものだ。
 「直なれは絞ず」という言もあるが、わが国の行動性癖であり、まさにケセラセラの民意であるからこそ為政者の銘すべきところでもあろう。
 
 子悪党の首切り合戦やスクープ競争も業界の慣わしだが、阿諛迎合が効利実績と拝金に陥った国情の移風を、紙上一端の薫風にと願っている。

コメント
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師弟酔譚録   「荻窪酔譚抜粋」   終章

2023-01-01 13:43:13 | Weblog

至る処 青山あり」 佐藤先生の故郷 青森県津軽 岩木山

            

 

         

 

 

S 佐藤先生 Wモト夫人 M 某通信社上海  T 筆者

 

≪土壇場の人間学≫

S  よく分からんが、非常時は公が中心だね

T  その非常時に「私」が中心になるから問題です。関東軍が満州崩壊の折に居留民を残して、しかも電話線を切って逃げる これも「私」優先ですね

S  学生がね 大人が居ないからって米だの醤油だの持っていった 子供を騙して金もっていったことも僕知っている  だけど日本に帰ってきたとき何にも言わずに僕は仕事を与えたんだ

T  男が国家だとか社会を考えることが薄くなっている

S  今はね 地球とか宇宙を考えなければならなくなっているが、国家とかを大事に考えないと、また゛駄目だ  まだまだ駄目だ  やはり国に対する考え方は大事なんだ 歴史とか連帯とか排他的はいけないけどね

M  独りでは何も出来ないしね

T  リーダーは財や地位や名誉だけでは成り立つものではないですね 人を許し、公を考えるリーダーが居ないと、またあのような惨禍になってしまう 

 菊池九郎さんのお母さんが庄内藩に使者で赴く息子に、堂々と行ってきなさいと、死装束をさせるわけですよ  今時なら、どうしてうちの息子が、たとえ大勢のためとおもっても死ななければならないのかと、反発しますよね 誰だって息子を死なせたくはないですよ でも男文化の気概や覇気 優しさの忠恕は女性には理解しずらいところがありますね

S  お婆ちゃんね お婆ちゃんの謂う通りなの お婆ちゃん一つも間違ってないの

 ただね 人間っていうものはね皆死にたくないの だけど死んでもやらなくてはならないものは確かにあるんだ そうゆうものが人間にあるんだ ちょっと生き方が違ってくる

 お婆ちゃんの言うとおり 一つも間違ってない  お婆ちゃんのお陰で我が家は在る

M  給料がよくて 車もあって 3DK,4DKの部屋があって 息子は有名校に行って、会社は一流企業に入るというのが理想のパターンですよ

W  ハハハ(奥さん大笑い)

T  考える幅もいまの風潮を基本とした己の意思ではなく、歴史と将来の考察の基に考えるべきで、家でいえば先祖、現在の自分、将来に立つべきところの考察を総合した分別が必要になってくる  個人の範疇では解けない答えですよ。その意味で、目に見えない何かが家庭を維持しているとする  ならば、それに殉ずるのも男に与えられた仕事ですよ  

 いわゆる財や名誉の維持ではなく、家庭や国家のなかでの魂の継承が無ければ、何で国家や家庭と言えるんでしょうか

歴史の贖罪があったとしたら、現在の自分もそれを内在して自裁しているものでないからこそ、反発や怨嗟が他国からあると思うんです

S  ぼくが書いた終戦後のこと、宝田さんが活字にしてくれたんで安心しましたが、あのなかでね 僕の家に避難民が居たわけだよね そのなかでお産した女の人が居た  学生が来て、叔母さん、って言うんだ  なんだ君の叔母さんか、って言ったら僕の叔母ですというんだ  君、いまどうしている、と聞いたら、女房と二人っきりだというんだそれで、できたら この叔母ちゃん連れていって看てくれと言ったんだ  

 そうすれば困った人が大勢いるからまた看てあげられる、といったら、いゃ、うちの女房は身体が弱いから駄目です、と言うんだ  連れて行かないというんだ  それで僕は、犬畜生、帰れ!といったんだ  四、五日して彼はすみませんでした、と連れて行った  もっとひどいことがあるの・・日本負けた後の新京  もっとひどいことがある、惨憺たるものだ

W  どこに居たとき?

 

              

            天安門広場の敷石

              

             5月26日

 

≪高級軍人、官僚の土壇場の醜態≫

S  新京、満州の新京!

 監獄の中だって、僕は簡単に餓鬼道に陥ったと書いているけど もっと汚い・・ 死ぬまで嘘つくんだよ! 犬畜生とどう違うか、犬は嘘つかないよサルだって蛇だって嘘つかない 動物でも嘘つかない 人間は目を落とすまで嘘つくよ・

これね 僕、体験した話だけど書けない みんな満州国で有名な人だよ  半分は青森県人だから、なおさら書けない(笑い)  上っ面だけ書いたけど、あんなものではないょ 深刻だよ

T  私たちだって土壇場になってみなければ分からない

S  おれは自分で死んでみないからわからない 余計に書けない

   オレ、何やるか分からん

T  歴史の真実、異国での日本人の土壇場の姿を知らなければならない

 教科書の歴史では中国も半知半解だし錯覚もする  手本も無ければ人間は駄目ですね  人に習うことですね  かといって人格とは拘りのない附属性価値の欲望をまねてもいかぬことだし

M  明治、大正、昭和の断絶がすごいですね  同じ日本人とは思えないくらいですね  いまは気楽に愉しく生きることが目標みたいで・・・

T  生まれてくるときは一緒ですよ その後の環境、習慣学修によって大きく違いますね。 官製学歴を経て大人になったときに忌避され棄てられた人間学というカリキュラムの存在を知ります  いわゆる塾藩校にあった人物から学ぶ情緒を養うカリキュラムです  地位や名誉、はたまた財を求めるために亡くしてしまった純情を取り戻すことこそ学問なんです  元々あったものが放たれてしまう、これを元に復帰する、それが学びなのです  それは、いまの官製の学校教育には見られません

S  僕はね 旅順郊外の水師営というところで小学校の先生をしていたとき 言葉も何も分からなかったけど、乃木大将のことみんな知っていた  あのステッセルと会見したところの近所だった 僕の小学校は日本人といえば乃木大将だった

T  乃木さんが子供に言ったそうですね

 君たちの国で外国の軍隊同士が戦争をすることは悲しいことだ、と。 これは優しさです (武士の忠恕) 当時は併合までは考えてはいなかった  はじめから策略じゃない日露戦争では朝鮮の人たちが率先して武器弾薬を運んでいます  それは明治維新と日露におよぶ変革の中にアジア民族が共鳴するも のがあったからですよ

S  言葉も分からなかったが、料理屋にいくと店の人が乃木さんの話をするんだね  意味分からんけど、ホットするんだね

T  トルコにいくと東郷さんですよね フィンランドには東郷ビールがあります

S  その頃は本当の日本人が居ったんだ  僕、中国人好きになったのは乃木さんのお陰だよ  子供たちは皆なつくんだ よく子供たちと遊んだこともあった

W  どこで

S  水師営だよ

 

               孫文 宋慶齢

                

 

≪宗家の姉妹≫ 

 

T  そういえば、宋姉妹のテレビ見ましたか

S  僕の叔父(山田純三郎)は宋美齢のこと、あまり好きではなかった

   悪口も何も言わなかったんですが・・・

   蒋介石と僕の叔父はすごく親しかった  叔父は孫文の側近で蒋介石の革命の先輩に当たる  一時期、蒋介石とすごい喧嘩した 宋美齢との結婚式にも出なかった  叔父が、妾にせい! と言ったんだ 蒋介石は本妻を離縁して結婚すると言うんだ  宋美齢から出された条件が、クリスチャンであること、本妻であること、もう一つあった蒋介石は偽のクリスチャンになって本妻をアメリカに追い出して結婚した 叔父は終戦まで喧嘩していた  ところが僕の叔父は上海にいた、重慶から上海の司令官から、『山田先生を守れ』、と電報が来た  やはり蒋介石も分かることはあったんでしょう   宋美齢という人はそんな綺麗な人ではないね  そのあとつくった妾さんは綺麗な人だった

T  まともなのは宋慶齢でしたね  三姉妹は上から順に、金と国と権力ですね  出てきますね 人相が・・・。長女は孔財閥、慶齢さんが孫文夫人、その革命の正統性と金だけのために美齢と結婚する、それだけではないですね  非難はあったが孫文の意思を忠実に守ろうと言う深慮はありましたね  その後の日本への不抵抗が招いた西安監禁事件 戦後の報怨以徳の発令など純情なところがみえますね  アメリカの援助を得るために結婚したとも思えますが、国民党を腐敗させ没落させたのも宗家の長女と三女ですね

S  僕の叔父は悪口を言わなかったが、策略を警戒していた

   (山田は)孫文の奥さん 宋慶齢とはすごく親しかった

   長女と美齢は中国のお金、みなかっぱらうんだ

T  腐敗が無ければ共産党にはならなかった  台湾に着てから、新生活運動という整風運動を行っているし、息子の経国さんは、大陸から逃げなければならなかった理由は国民党の腐敗にある、と施政を注意していますね

   

                      

 

≪為政者≫

S  僕も伯父と一緒に蒋介石にお世話になったが、財産はアメリカでは寂しいね

T  サンフランシスコに住んで、ジャンボに故宮博物館のものを積んで還る まるで民族財産が自分の物みたいにね

W  そんなんじゃね みんな国民の物だといえばいいのにね

M  若い頃はいい顔していますね

T  古今東西 指導者は面構えがいい  蒋介石も貧相で小作りだったら成れなかったろう

S  そうかもしれないね

T  孫文もいい顔していた  北朝鮮の金日成もいい男ですね  身体も大きいし押し出しもいい でもヒーローは一代限りですね  近頃、日本の政治家や宗教者は財を貯めると外国に隠しますが、中国は共産党の党員が資本主義の牙城、アメリカに子供も財も送りますね   体面上の食い扶持は共産党ですね  権力者は権力がなくなれば財もない  そんなことで貯められるときに溜め込んでおくのでしょうね   中国、台湾もみんなアメリカに持っていくでしょ  

 S  僕の親父が蒋介石に呼ばれていったとき、政府要人が外国に送金しているリストを見せてもらった   叔父も僕も確かに見た  蒋介石に、あんたの部下はこうゆう人が居るんですよ、と見せた人がいた  不動産とか貯金とか、丁度叔父がいるときに報告に来た  みんな、蒋介石万歳やりながら金を移しているんだ  市場経済を始めてからは有るでしょう  でも、その前は毛沢東も周恩来も無かった 

僕が調べている  僕は、周恩来は好きでない 毛沢東の命令を実行するのが総理でしょ  周恩来が命一つ賭けたら数千万の民衆が殺されなくても済んだ  それを己の人生を全うするために諫言できなかった  僕は嫌いだ  中国の歴史であれだけ人を殺してしまったものはいない だけど金だけは溜め込んでない  もっとも国全体が己のものだから  林彪も劉少奇も貯めてない (当時の)中国共産党はそのところはいい  国民党はみんな溜め込んでいた  自分が働いている国を信用しない みな外国に送る  いつ敗れてもいいように   僕もアメリカに貯金しておくんだった(大笑い)

M  香港はどうですが

T  若い人は外国に行っている  とくに返還が間近になるとカナダやオーストラリアに行ってしまう  年寄りは、仕方がないといって残る  これが独特な諦観ですね。天安門事件が一番のネックだったんでしょうね   改革開放を謳う中国の人民解放軍の兵隊が若者に向かって水平乱射ですよ  でも台湾が控えているので、そう乱暴なことは出来ないでしょうね

S  日本に来た留学生、荷物を何十個も抱えて帰る  勉強はたいしたことはないが、秋葉原のことはよく知っている   税関はどうするんだ、ときいたら、この荷物の一部を官吏にやればいいんですよといっていた  賄賂社会だね  留学費用も稼げるというんだ

T  日本がこういう状態じゃ、そのぐらいなことしか考えられない  学ぶものと言ったって、教える日本の体たらく、以前、バングラディシュのダッカ国立大学出身の子の身元引き受けをした際、日本人の衰退する繁栄の経過を学ぶチャンスだ、と教えました 貧しくともバングラディシュのほうが人間に威厳がある 欧米に右顧左眄せず自国の教育がある  経済の成功は一過性なので、衰退する日本の日本人を観察して自国の国づくりに活かしてくださいと促したんです

 

                 

                 極東軍事裁判

                    

               東條家とラダ・ビノード・パル

 

≪亡国の徴≫

S  僕はいま死に際(ぎわ)に、日本は目標がないとおもう

   このままいったら滅ぶ  国在って人なしだ  残念で仕方がない

M  良い悪いは様々ですが、日本は滅びると・・・

T  僕は有り得ると思う  政府は目標を示していない 物的なこととか天変地異ではない、これは現象です  感性、情緒がもつ国力ですよ  人は人でなくて、何で国家が国家成りえようか、と清末の読書人、梁巨川が言っていたようなことですね。 民情の動きを大きな歴史のスパンで俯瞰することですよね  

江戸時代は二本差しでも殺人事件は稀だった いまは毎日のように殺人、詐欺、汚職  これが繁栄とともに理想とした国家社会だったのか、そうではないはずだ  また、国家目標ではない  軍事、経済の数値の多少は手段であって目標ではない  生命、財産を守るだけが政治ではなく、日本人の歴史の残像に培われた情緒、魂を嗣ぐことが目標にならなくてはならない

S  悪くなっていくのが目に見えるね  なんだか寂しくてしょうがない  非常に大きな苦しみにぶつかれば反省するのかなぁ  今日の毎日新聞だけど、戦時中の淫売婦がなんだか補償しろといっていたが、新京では日本人会の会長が日本の女性を騙して集めてロシアと中共に差し出したんだ  僕たちが留置場に入っても、一遍も来なかった 平山福次郎だ!

T  田中真紀子さんが帰国運動しているが、返して欲しい気持は今の気持だが、当時の婦人の誇りを引きちぎって売り飛ばした平山も悪いが、帰れない境遇におかれた御婦人の気持も忖度(ソンタク・・思いははかる)しなければならない  多くの日本人を救い、犠牲にもとに成り立った隠れた行為を静かに見守ることと、憐憫の情をあらわすことが大事ですね。語り継ぐことは必要だが、表立つたことは控えるのも、当時の女性に対する情でしょう  帰りたくても帰れないものを、政治家は、すぐそれなら帰そう、と深い考えがない

 

              

  大同学院の生徒   梁 立法院院長 筆者  丘昌河氏

 

S  とにかくね、ロシア兵はトラックで男をかっぱらってくんだ  女の兵隊は襟首捕まえて男をかっぱらって、帰ってきたら口唇梅毒だ 陰部を舐めさせる  ひどいもんだ  僕は心配しているが、日中友好で金貸しているけどみんなまやかしだ  鉄道、鉱山などに借款しているが、みな息の掛かった日本企業が仕事を取って政治家にキックバックなんだ  これでは貸しても帰ってこない 悪行を握られている  みな中国人 僕に知らせてくる

  もう三年ぐらい前かな 中曽根さんが北京に行って帰ってきたら、すぐ竹下が行ったんだ。何で行くんだ、といったら 関係会社の使いですよ、というんだ  中国側要人はいくら幾らと、ぜんぶ金だ  それ中国人から聞いてはじめて分かった (国務院の要人が佐藤宅に来訪している)

中曽根さんが始めて北京行くとき呼ばれてね 『あんた行っても相手にされませんよ』、といったら、北京は十何年も鳴らしたことのない礼砲を鳴らして迎えたんだって  公使が日本に帰ってきて講演してね、礼砲に感激したといっていた

オレ、ばかたれ 三年も四年も北京にいてなにも中国人の気持がわかってない、と怒った二十発鳴らさなければ金貸さないぞ、といえば二十発鳴らすのが中国人だ  困ったもんだょ 発表できないし 政治家も企業も汚いね 国を売っているよ  何千億だよ・・・

T  中国に役に立ってない・・

S  いゃいゃ 儲けそこなったやつが僕に知らせてくるんだ( 笑い)

   あいつらこんなことやっているんだ、ということだ

   儲けたやつは知らん顔している  いゃ、もう中国人が来て話聞くと本当に厭になってくる  国民の金を何千億かして、政治献金はオレですよ、ということだ  福田さんは綺麗なもんだった  取り巻きは色々いたが

M  色紙もありますね

S  偉い人は色紙など書かないよ   僕は偉いから書かない(大笑い)

T  賄賂の認識が違いますね しかし日本の場合は税金ですからね  中国では仲間意識と掟の確認で賄賂を人情として渡すが、日本の政治家は違う

S  発表すると日本の恥だし 僕ね 具体的なこと知っている

M  いままでどんな政治家が立派だと・・・

T  戦前は財閥のバックが無ければ総理もなれなかった  番頭みたいなものだからね  権力は情報と金がついてくる  孫文は私腹は肥やさなかったが、お金は集まった  孫文の周りにだって革命といいながら儲けに走ったものはいたが、本人は綺麗だった

S  孫文は死ぬまで自分では金に手を付けなかった  遺言を作るときも、山田さんちょっと、と宋慶齢に呼ばれて、一国の総理が亡くなったんだから遺言を作らなければ、となった

   

弘前市

 

王精衛が準備したものが読み上げられ、これでどうですかといったんだ孫文が署名している遺言書は、本当は息子が署名したんだ  孫科だ  孫文は意識不明で何も出来ない  僕の叔父はずっと見ているんだ  叔父が蒋介石に招待されて台湾行ったときに要人にそのことを説明した 僕が通訳した  そして署名は息子が、親父の字は癖があって難しいなぁ、と何回も練習して真似たんだ  

 そして奥さんに対する遺言を遺した みな慶齢にやる、と読んだんだ  そのなかに、上海の家は遺す、と書いてあったが、みんなで大笑いしたんだ   それは上海の自宅は借金の抵当に入っていてもらっても何もならん、貰ったほうが困る、と泣いていた人が孫さんらしいと笑ったんだ  何にも無かった 本も読むと人にやった  頭山さんにいたときも同じだった

T  大業をする人の特徴ですね 

S  頭山さんのところにいたときに会計やったのは僕の叔父だ  金に手を付けなかった  周囲は色々だ  世界中の華僑から送ってくる金は上海の叔父の家だった  弾薬もだ  それをすぐ近くに住んでいた蒋介石の家に叔母が乳母車で運んだ  そのときの蒋介石のお妾さんはとても綺麗な人だ   その後、本妻を離縁して美齢と一緒になったが、なぜ離縁したか、叔父に言い訳に来た  その理由は一寸言葉に出せない(肉体的なこと)  本妻の子が蒋経国

参考<同志 戴天仇と朝日館の日本人女性との間に産まれたのが蒋緯国。叔父が革命の先輩の戴さんの子だからと、蒋介石の養子にした。来日すると佐藤氏と会っていた。印象的だったのは、天安門事件の時、胸に喪章を付けていた。>

T  たしかロシアに・・・

S  留学して打倒蒋介石をやった  お母さんを離縁したから憤慨したんだ

   殺したのは重慶爆撃した日本だ   

   あまり詳しいことはしゃべらないほうがいい(笑い)

   明るい話がいい 

M  歴史の真実ですね  何年ぐらい前ですか、台北は

S  昭和二十七年だったか八年だ゛

M  その後は

S  何回も行っている  蒋介石に呼ばれたのがソレだ  そのときに色々な秘密を要人に話したからはじめて分かったのです  いろんな話があるよ 

    

 

荻窪酔譚抜粋を閉じる前に

 

 いやはや・・そんな嘆息が漏れそうな作業だった

 登場人物もよく語った 失念も錯誤もあろう

 総量はこの抜粋の数倍もある酔譚である。

 明治生まれの八十代と戦後うまれの四十代、奇客を交えての遊学であった

 涅槃(ネハン)に旅立つ直前まで足掛け七、八年の集大成だった。齢二十五より二十七年間の御厚誼ではありましたが、初対面の言葉は『今度、いらっしゃい』、 そして最後は病床で、『あとは頼みます』と、背で聴いた言葉があった。

 ゛あった゛というが、聴こえなかったのか、夢想のうち耳を塞いでいたのかは不明だつた。

 あの、満州崩壊の折、馬車百両に食料を満載して届けてくれた偉人、王荊山の長女が聴き逃さなかった言葉だった  太々(母)も齢七十を越している      

 

                 

                  王荊山の遺児と孫に挟まれて        

「私は聞こえた、寶田さんに伝えるように言っていたよ」

 病室にとって帰る騒々しさも無く、覚悟の哀別だった

 急転を聞き一夜、四股をさすり、指を絡ませるように過ごした二人だけの刻は、黙すれば鮮明に蘇る魂の継承だった。淡くも恬淡な風が薫る明治の雄の児との暫しの別れは、再復はそう遠くはないことを告げるようだ

 それは、つねに指呼の間にあるように添い、涅槃の酔譚を待つような心地である

 どこまで嗣ぐことができうるかは定かではないが、それまでは、あの孫文が山田良政に感謝をそえ、全中華人民を代表して頌徳碑(讃える石碑)の結びに記した、「日中友誼に敢闘したその精神を、東方に嗣もの、あらんことを」を、師弟の銘として、かつ誓いとして人生を求めたいと願っている

 多くの有志が酔譚の作成に関わってくれた。体験することの無かった歴史の残像を、臨場感を以って学んでくれた

 応答の妙や明治人の気骨、異民族の文化と生活、政治外交史の真実と未来の推察など、官製学校歴にうつつを抜かす現代知識人の幼児性が洞察できるようになった。

 恥ずかしげも無く紙面に躍らせている備忘録だが、いずれか利他の増進のために活用して頂きたい

 また、これは資料偏狭に基づくアカデミックな記述ではないために、学究的批判に耐えうるものでないことを承知している。然し、拙い文作ながら思索や観照には十分耐えうるものであると自負している。

 本稿「請孫文再来」(天下為公)の参考として酔譚の抜粋を添え、「話」ではなく、「語らい」の用にしていただければ幸いである

   願くば、 我欲の具に不用なることを念じる

そして、暫しの鎮まりと閑居の刻を戴きたい

 

          

 筆者自歴

冠位褒章歴ナシ、記すべき官制学校歴ナシ、数多の成文あれど商業著作ナシ 世俗無名に座し、と教えられればそれに随い、貪るな、と諭されれば貧を悦こび、枯木寒岩を装いつつも、浮俗に浸ることを一片の学として朋と遊び、時として独り逍遥しつつ清風の至るを悦しみ、齢を重ねている処士なり 頑迷の誹りあるも、学ぶ処、唯、先人万師の追隋なり

 

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師弟酔譚録  「荻窪酔譚抜粋」  その四

2023-01-01 01:07:06 | Weblog

 

 

≪豪傑 加藤三之輔≫

 

 T     そういえは北九州の加藤三之輔先生は箸をどこでも持参していますね

M  箸???

S  そういえば加藤さん、お金送ってきた お返した しょっちゅう連絡がくる 有り難いなぁ。  (北京の時は)困ったらアライさんのところへ連絡したらいい 日航か全日空の主任だから、北京の・・。そういえば、この前来た加藤(三之輔)さんの手紙に、宝田さんに宜しくと書いてあった

T  加藤先生は上京するとき私のところへ人を連れてきて、この人を頼むといってきた。だけど私より年上の人に学問させてくれ、と言われても・・・僕の郷学にはいつも案内を出している。  たしか静岡の池田篤紀さんの関係者だった

S  いゃ 加藤さんには色々と申し訳ないよ

T  加藤先生は大東塾の影山さんの関係です それと下関の赤間神宮の水野宮司の関係で玄洋社の頭山先生の縁です 赤間には大連神社が祀られています

  安岡先生に北九州に行ってきます、と云ったら、「豪傑がいるから注意するように」といわれたがその通りだった。会社の食堂で小倉の地酒に壱岐のウニ、そして興に乗ると自作の吟を大声で詠う。折角、東京から入らした安岡先生の関係者だ 倉光さんと八幡製鉄所の所長を呼びますかとか、薫醸(クンジョウ・・薫り重層されたような)の学はそのとき知ったものです いやはや豪傑でした。奥さんは浅草の姉御のような方でした

S  僕は加藤さんには何もしていないのに、申し訳ない心遣いだ。手紙が来たが返事も出していない、どうしてお詫びしたらいいか

T  これ二年前の手紙ですよ。そのあと私が加藤さんをお連れしたんですよ

S  そうだったかなぁ。社会党が君が代がいいとか、何が善いとか、総理の椅子のほうが良いんだね 。 社会党は手前(自分の意味)というのが何もないんだね

T  もともと自民党と同じ穴の狢(ムジナ)だということが露呈しただけですよ  国会劇場の役者ですよ  税金を木戸銭代わりに出しても大根議員ばかりじゃ・・同じ利権集団ですよ

S  自衛隊は合憲だとか(変節して)・・・ね もう、どうにもならないなぁ 厭(イヤ)になってくる

T  どこの政党もまともな人物がいなくなってしまいますね

S  さっき言った苗さん、社会党を斜めに解釈する斜解党 共産党は共に悲惨になる共惨党 公明党は混迷党 自民は官僚任せで自ら眠る自眠党とうまいこと言っていたよ

T  苗(ミョウ)さんは洒脱な人でしたね

S  あのね、党という字は黒を貴ぶと書くんです  今のように兄と書くのではないです。黒を貴ぶ人たちのグループだから当然、腹黒い人たちが集まるわけです。苗さんはね、三木には見切りをつけた 政治は善い人だけではいけない 決断なんだ。学者と違うんだ 中曽根には根が有るとは思えない 大平は真っ平だ 田中は一角の繁栄しか分からない 今の日本には日本人がいない 日本人が居ない日本なんて無い、といっていた

   

 

 

 

≪明治の女性≫               W・・・・モト夫人

 

T  明治の頃は女性ですら、つよくしっかりした考えを持っていた(社会、国家にたいして)

S  林君ね 僕は身体は弱くなったけど これ(ビール)は弱くない  内の婆ちゃんね、すごく怒るの僕が講演するから、味噌 醤油買ったことがない でも塩がないから二つ貰ってきたら婆ちゃんすごく怒るの 卑しい、ってすごく怒るの  

T  塩じゃなくて、女性が足りないといえばよかったのに(冗談)

S  いゃ いゃ、女性はもう要らない(笑い)

M  先生は授業でお話していましたよね  坊さんの前に裸の女性が居たらどうしたか 食べてしまうか食べないか、どうするかいわれた時、先生は僕はおいしく食べてしまうと、云っていました そして据え膳食わねば後悔するとか何とか・・・。先生はなんと正直な方なのかとおもいました{?}

S  あのね、僕の悪いのはみんな忘れちまった(笑い)  僕は嘘ばっか吐(ツ)いている。悪いのはたった一つだけ覚えている  弘前で結婚してね 東京に来たとき昔の彼女が迎えに来てね 女房と二人を東京案内してくれた  メシ食ったときその彼女、女房の前で「慎ちゃんの傍で死なせてね」そしたら僕は「あーいいよ、いいよ」と言ったそうだ。それから真っ直ぐ北京へ行った そしたら北京へ来ると彼女から手紙が来たわけだ

 これ(モトさん)、ずいぶん悩んだらしいんだ  でも、今日まで絶対一言もそのことに付いて言ったことがない  これね、彼女から手紙が来ると僕に内緒で、ちゃんと彼女にお金を送っている 一言も文句言ったことがない  僕の迷惑かけたこと全部忘れているんだが、この頃この事だけ僕に文句言っている 

  「彼女、慎ちゃんの傍で死んだの」(モト大笑い)

   やっぱり一番気にかけていたんだろうね

W  何で死んだの(モトさん少々忘却)

T  北京当時は女性に間違いはなかったんですか

 

 弘前禅林 長勝寺

 

 

≪結 婚≫

S  僕は女に間違って自殺しようとした 一番嫌いな女だった  旅順だった。そして死ぬつもりで義兄(民生長官)に謝りに行った  そしたらオレが解決するから北京に行きなさいと言われたんだ  自分はさっぱり分からない 死ぬ 死ぬと言っていた。お詫びしてその晩、死ぬつもりでいた  そしたら北京へ留学の話でしょ  気が抜けて、もう死ねない  そしてこれ(モト)貰って北京に行ったんだ。そのとき女が怖くてね  慎ちゃん誰か好きな人がいるか? というので、僕のために首になった女の人が居る(小学校の同僚教諭)

W  ナンもしないのに、本当ですよ(解雇された理由 モトさん大声で)

S  これ代用教員で、僕は本科正規の教員だ 本当だよ(笑い) 校長の奥さんも教員だったんだ それが佐藤先生は夜這いに行くって生徒に教えたんだ。何もないが、ともかくこれはクビになったんだ  それから僕は職員室をぶち壊したんだ。それで、堂々とこれを八戸の自宅へ送ったんだ  何もしてないんだから、コレのお母さんに謝るわけでもなしね。そうゆうこともあってね 気になる女が居るということになって兄に話した。

  僕の姉の夫で、旅順で一番偉い長官だから警察を使って調べたら、コレは十和田湖を開拓した名門の家ですということが分かってね  コレは八戸女子高の優等生でね そしたら貰いに行け、と言われたんだが、もう訳が分からなくなった 片方は死ぬと言っていて、翌日は貰いに行け(モト大笑い)と言うでしょう  僕、金が無いというと、下宿代を貯めていてくれて、それで東京まで来たんだ  そしたら、小さい頃遊んだ女の子と遭ってね それが慎ちゃんと死にたいと言った女だ  彼女がね、お母さんと喧嘩して何とかカンとか言うんで持っていた金を貸してしまった くれれば無くなるのは判んなかった(ハハハ) 結婚費用だよ

 青森の切符はあったんで、ともかく親父のところへ着いたら、親父は呆れてね  ともかく貰いに行け、ということで親父に手紙を書いてもって貰いに行ったわけだ  そしたら親は僕のこと分かっていたんで、呉れるといったんだそれでね、結婚式はいつ、と聞くから明日と言ったんだ  明日では親戚も何里も離れているんで、と言うんで、明後日と言ったんだ(モト大笑い)

                  

 弘前城の冬

 

 

≪教 員≫

S  青森でね僕は教員、二回クビになって、最後に水師営の中国人小学校の教師になって、女に間違ってこの話だ  コレの家、呆れてね、ところが東京で女に金呉れたんで満州に行く汽車賃がないんだ  だからコレに、君ちょっと座れといってね 君、僕と満州にいくつもり有るかと聞いたんだ 分かっているから結婚したでしょ、と言うから それならお父さんから三等の汽車賃でいいから、オレとお前の分貰ってくれって言ったら、ハイと言って貰ってきた。僕、花嫁というものはいいなぁと思ったよ(モト大笑い)

M  当時、満州は朝鮮の方から渡ったのですか

S  朝鮮もあるけど、神戸で船に乗って大連に行くんです 大連から天津に行く船に乗っていくんです

S  ともかく馬鹿話だなぁ。死んでくれと言った彼女は親戚でね お父さんは日本で一番早く理学博士になった人だ幼稚園までは遊んだ 彼女のお母さんは菊池九郎という人の娘だ。僕も菊池九郎の傍で育った

W  年も若かったでしょ 前から知っている人でしょ だから私の前で慎ちゃんと一緒に死なしてねって言ったら、あぁいいよって言ってるの(佐藤大笑い)

T  今では普通ですよね 

S  あーそうですか 年が若かったから

T  今の女性はもっと怖いですよ  安岡正篤先生が正明(長男)さんを四柱推命で占ったとき、女難があると言われたが、おまえは女性に難を掛ける側だと言われ参っていましたよ

S  でも掛けられたほうがいいねぇ(佐藤大笑) 僕は本当に困ったよ 一番嫌いな女を跨いでしまった しかも枕を跨いだらはらんでしまった キリストは聖霊の子というが本当だよ(大笑)

T  色食財は本能ですね 理性とは違う  安岡正篤先生の奥さんが、あなたの周りには立派な人が多く集まって孔子、孟子の道を学んでいますが、下半身はだらしのない人が多いようですね、と言ったら先生は苦笑いをして、それだけはチョッと黙ってしまったと正明さんは話していたが、正明さんも黙って観察していたんですね


 仁義の道を説いても妾がいたり、金儲けに夢中になったり

M  それは善いことですか、悪いことですか

S  僕はね、ホッとするね 気をつけもいいけど、間違って悩んでいるほうがいいね

W  それで間違ったの(強い口調で)

S  イヤイヤ、婆ちゃん居るからこの話は止めるけど、僕ならホットする

W  私はそんなこと触れなかったものね

S  今、歳とって呆けちまったら、これだけ覚えている ハハハ

W  私は潔癖ですよ

S  僕はね、小学校の五年のとき教壇に立って、孔子なんかカカァおっぽり出しておカマばっかり掘ってばかりいて、といったら、次の授業は孔子を神様みたいにおもっている漢文の先生なのよ またそんな話はとこからか聞いて覚えているんだね  悪いことにその先生が入り口に立って聞いているんだが、生徒の誰も教えてくれない  そしたらその先生言うに、お前のようなものは死んでしまえ、死んでもまだ足りない 見えなくなってしまえ、と叱るんだ。あの頃、先生が怒ると退学ですよ  でもオレは記憶力は悪いが頭は良かったようだ

 「先生申し訳ありません 学校卒業したら孔子様のお墓に参ってか詫びいたしますから許してください」、といったら、「お前本当にお詫びするか」と言うんだか、僕は孔子の墓が何処にあるのかナンも分からないが、それで許されたんだ

 ところが僕のような男でも満州に行ったときから、お墓参りをしなければ、ということが頭から離れない 本当に行ったよ孔子廟。僕は中国で色々なところを歩いたが、いちばん気持ち悪いところは孔子廟だったホントーに悪いところだった  全村土匪みたいなものだ  三日間か四日間だったが、生きて帰ってきたのが不思議なくらい苦しんだ  中国で苦しんだのは孔子廟に行なったときだけ  いまは観光地のようだけど、あの時は苦しかった ともかく僕は悪たれだった よく中学卒業できたょ.      君ね、僕を先生と言うけど、先に生まれたんだよ

W  あたしたちは手も握ったこともなかったよね(モトさん突然)

S  まだ僕はあの頃、色気なかったでも校長のカカァがね 生徒がコレ(モト夫人)に言ったというんだ コレは結婚してから僕に話した

M  中国に渡る最初のきっかけは

S  日本で一年に二回、首になった  師範は授業料がないが五年か六年の義務年限があるんで、どうしても働かなくてはいけないんだ  でもね払わなくてもいいから辞めてくれと言うんだ  

W  お父さん、何か悪いことしたの

S  悪いことしない 生徒と朝から晩まで遊んでいるんだ。教えることがないから毎日遊んだ 毎日宿直した 生徒はみんな遊びに来るんだ。僕が馬鹿話すると生徒は喜んで昼も夜も遊びに来るんだょ

M  宿直はもうないですね

S  あ、そー

T    だから弘前に帰るとね 半年しか教えないのに、五十、六十の教え子が今でも先生が来たーと寄ってくるんだ

 

 鶴田舞橋

 

≪故郷 津軽弘前≫

 

T  明治維新も鹿児島は私学校、萩は明倫と松下村塾 弘前にもあったが、みな辺境の地ですね 中央が腐敗すると地方の清新な学問が受け皿となって中央に押し寄せる。辺境は進取の気持ちに溢れていますね  松蔭も弘前に訪れています。高杉も西行に習って自分は東に行くと、東行と名乗っていますね。弘前も北前船で京文化の影響が強いところです

先生のおじさんの菊池九郎は戊辰の後、西郷に私淑して鹿児島まで行っていますよ 弘前出身者はかなりの数が外国に行っていることは事実ですね    山田兄弟もそうですね

S  そうです 伯父のところは、二人はアメリカに渡って行方不明

   後の二人は中国だ  僕の父もアメリカに行ってね

M  山田さんも辛亥革命と色々な関わりがありますね

T  たしかに、先生、あそこに学問がなければ何もないですよね あとはリンゴ

S  そう、何にも無い  リンゴもアメリカ人が持ってきた

T  十和田も開拓したのは?

S  アレは新渡戸稲造だが、実際やったのはコレ(モト夫人)のおじいさんだ

M  養殖は

S  虹鱒の養殖は和井内さんだ

   東京より透明感のある自然に育てられた文化がありますね

T  弘前は大陸に近いですよね  江戸より外国に触れることも多いし、津軽海峡はロシア船の航行が頻繁ですよ  明治五年の東奥義塾の外人教師招聘による英語教育や結氷を待って樺太から徒歩でロシアに渡り中国に行った人は多かったようです

S  卒業生の工藤忠という人が居るけど、この人は満州国皇帝の侍従長をやった人だ  溥儀を天津から満州に連れてきた人だ  これね、氷を渡ってハバロスクに行ったんだ  そこで監獄に入れられたんだ  それから満州に入って北京にいったんだ  それから南京から甘粛省まで行ったんだ  中学校卒業してだよ  それで一度目は苦しんだんで、それで朝鮮から満州、北京、甘粛省へ行ったんだ  とうとう甘粛省の省長と仲良くなって、それが満州皇帝と親戚なんだ  そして天津の溥儀のところに行った  一緒にご飯食べたんだ  あれは工藤忠でなく本当は工藤鉄三郎というのが本当の名前だ

   そのとき溥儀が、ちょっと飲み物がおかしい、とボーイを呼んだ  すると工藤は平然と飲み干した  それを見てみんなはあっけにとられたんだ  それから溥儀皇帝が工藤忠という名前を付けてくれたんだ  それ以来、関東軍が傀儡として溥儀を天津まで迎えにいったが、皇帝は頑として云うことをきかない  それで奉天に居た工藤忠が迎えに行った そして衛口に上陸したんだそしたら甘粕大尉が迎えに来た その晩にトウコウシという温泉に泊めたんだ   そしたら皇帝は、あんな人殺しを迎えによこすとはナンだ、帰ると言うんだ  一晩中、どうにもならなかった  これは工藤さんから直接、聴いたことだ

 工藤忠の先生は僕の父だ それで僕のことをまるで可愛がった  どうしても帰るというものだから、関東軍は旅順に監禁してしまった  そのあと色々と説得して満州に連れて行った。戦後、工藤さんと一週間旅館に閉じこもって録音テープをとった  工藤さんの家にある  整理するアレ(機会か・)なくなったけど、そんなこともあった

(溥儀にすれば)異民族だけど工藤忠の誠実な精神に参ってしまった  風俗習慣なんぞ小さな問題ではない 誠(真)は完全に通ずる  誠心誠意日本人として接触すれば、やり方なぞ違っても一向に差し支えない

 あくまで日本人でいることだ  死ぬまで可愛がられた  青森県は知らん顔しているけど、千葉県が土地と建物与えて(工藤)子供さんが無いんだ   養子もらってね 日本大学かどこかに勤めている子供さん あの記録複写してね・・

T  どちらにいらっしゃる

S  千葉のどこだったっけなぁ 調べりゃ分かる 言いたいのはね 昔の人がシナに行きたいと言ったら、その根気と努力 見てみなさい 歩いて行くんだよ  地図もないんだよ  ハバロスクで監獄はいってね 言葉はナンも分からなくて南京、甘粛省だよ  馬鹿と言えば馬鹿だよ だかいまの日本では根性が亡くなってしまった

T  松蔭も山口から弘前まで歩いているんですよ  竜飛岬まで歩いて海峡を通るロシア船を眺めているんですよ  十月ごろは萩に雪はないですが、弘前は雪ですよ 当時は今より多い。行くんだ、と思えば他のことは無頓着になるんです。江戸から弘前まで二十七日ですが、萩から何日掛かるのか

S  コレの弟の息子は親から金貰って、八、九年勉強していた  そしたらロンドンの大学に留学できるようになったわけだ  そしたら親に金を貸してくれといったんだ  それから息子は金が無ければ往けないと言うわけだ  これでは行ったってものにならないよ  僕は自分の息子を誉めるわけでもないが、日本に帰ってきて家も土地もない コレ独りで面倒見ていた オレは一つも家のこと構わなかった  コレ独りで四人の子供を大学までやっているんだ  コレ一言も文句を言わなかった  子供たちも働くばかりで勉強もできなかたが大学を出た  

次男坊は原子力を勉強していたが珍しい学科なので就職先が無かった あるとき新聞を見ていたら、 ある会社で原子力の関係で採用された名簿が載った  おとなしい子だったが、その会社行って、試験も終わっているのに採用してくれと談判に行ったんだ  ことしの採用は終わったと人事部に言われたが納得せず重役室に乗り込んだ  重役は暇なものだから子供の話を聞いたんだ  そのうち重役連中が集まって無理だ、無理だとからかったんだ   どうしても帰らなかったんで試験をしてみた   教授の話しをしたら、なんだ早くそのことを言え、と言われたんだ  この会社はその先生のお陰で出来たんだ  そしたら先生は関係ありません、私は私です そしてね、とうとう採用されたんだ   でも僕たちに一言も言わないんだ  しばらくしたらアメリカ行きます、と言うんだ  金はどうする、と言ったら、文部省の援助ですと言うんだ  

何で行くのだ、と言ったら、日本の原子力はまだ駄目です   もっと勉強しなければなりませんと言うんだ   そしてマサチューセッツ工科大学へ行って試験で万点取った そしたら大学へ残ってくれと言われ、会社にも手紙が来て残してくれと言う  

ところが僕は日本のために帰ると言って帰ってきた  メシも一緒に食ってやれない生活だったが精神は空腹ではなかったアメリカ政府が残ってくれと言われ、しかも給料は全然違う  でも帰ってきたんだ、日本の原子力のためにね  いまは学習塾に行っていい学校、いい会社 それも楽して金でしょ  日本が良くなるわけないよ  人間を一つも作ってないんだともかくコレ独りで育てた 

 

 

≪帰 国≫

W  お金なんも無かったからね(モト)

S  いやいや、オレやるんだという気力が無かったら駄目だね

   弘前に大きな家があったんだけれど、親戚がごまかして取ってしまった

   みんな悪いことを見逃してはいけないと言うが、僕は要らない

   取り返したら生活も楽だったろうけど、僕はそうゆうことはいやだ

   孫たちと仲良く暮らせたらそれでいい、僕はそれでいい

   家族は、お父さん馬鹿だと言うが、馬鹿でもしょうがない

W  お父さんいい気分ですけど、大変ですよ

S  お婆ちゃん、ごめん(大笑い)

   コレ(モト夫人)に迷惑かけたんで一生懸命めんどう看ているんだが、コレ分からないんだ(笑い)

W  気が弱いんですよ 本当なら自分の子供が学校に行っているんだから・・

S  そのとおり もうお婆ちゃんのいうとおり

T  僕らも同じことで悩む年頃で、人を理解しようとすると、最後に許してしまうのですよ  教育者は許すが、政治家や商売人は総じて白黒付けたがるどっちにしても後味が悪いことです 

W  子供の場合はチャンスがあるでしょ 後はないことがありますよ

S  はいはい お婆ちゃんにはごめんなさい(笑い)

W  なんでも自分の息子のことをやるのが悪いことだと思っている

T  それは確かにね・・・ (話をさえぎるように)

S  満州の大同学院の教え子が来てね、避難民と一緒にご飯食べていたんだ   そしたらね、僕が居ない留守だった   京都大学出た奴だ  大人が居なくて子供ばっかりだった  台所に誰かいたが、玄関に置いてあった、米、味噌、醤油をかっぱらって車で逃げたんだ   次男坊が怒ってね なんていう奴だ、と言う  それがね一昨日来てね、ちゃんと名前教えたんだ  僕はそいつを知っていたんだ  戦後、戻ってきて内閣調査室の依頼で中共の法規の翻訳をやる研究所をつくっていた  そしたらその盗んだ人がね  飯食えなくて困っていたんだ  そこで  僕知っていたけど  さあ、いらっしゃいといって彼を働かせたんだ。能力あるからね 僕は所長だよ 月給は僕が決めるんだよ  彼は三万円、僕は二万円  女の事務員は一万二千円か三千円だかね   

W  だけど味しめてまたやるのよ  他でもやるよ  そうゆう人はハッキリ教えてやらなければならないの  

S  僕できないの

W  それじゃ駄目だよね 先生

T  その方にそこまで面倒をみたと言うことは何かあるんですか

S  いや、僕は人間っていうのは、そうすべきだとおもうんだ

   不自然でもない、覚悟でもない  困っているなら丁度いいから、との気持だ 翻訳してください、という気持だけだ

 

 

≪良妻賢母≫

W  自分の家のものが苦しんだら・・(怒って)

S  (さえぎって) そのとおり ごめん ごめん お婆ちゃん、今晩大事にするから(笑い)

W  馬鹿みたい(笑い)

S  僕のできないことをやってくれる人だから、給料は僕が決める

W  遠慮したんでしょ

S  僕は遠慮しないよ

W  だって・・ね

S  お前にはかなわないよ  僕はね・・・、

W  順序というものがあるでしょ

T  その後その人は

S  やっぱり、最後まで良くなかったようだね  僕のところをやめた後でも・・・  お婆ちゃん、ごめんね ハハハ

 W  物はいいけど、そのときやらなければならない勉強があったのに、他のことばかりで、そのこと、ちゃんと考えて欲しかったの  あとでねお金はどうにでもなるけど

S  うちの子供らは三人来ているけど、みんなお婆ちゃん々で一生懸命やってくれる、だれもおじいちゃんって言わないよ ハハハ

W  気が弱くて駄目ですよ

S  いま思い出して文句言うけど、働いているときは一言も文句言わなかったよ  全然、言うたことない 生活苦しいとかね・・ ともかく不平不満は言うたことない  今、いうの 今

W  だって我侭(ワガママ)で言うとおり生きなければならないもの

S  コレに掛かるとオレもうどうにもならない

T  不平不満も生きている証拠

W  だけど、いいことではない

   はい (男全員で)

 

S  今度生まれてきたらちゃんと出来るように直します

W  なにも出来ないことをやれと言うんでない、ありのままでいいのよ 善いは善い 悪いのは悪い

S  はい ハハハ  ともかく絶対文句言わない 最近ね、用事なくなったから思い出してね言うんだ

M  先生も奥様に弱いんだと・・

S  だめだね これじゃ先生にならないよ ハハハ

T  女性はそうおもうけど、男のやっていることはいい格好しいに観えるんだね

 唯ですね、男が社会的な優しさと女性の家庭を切り盛りする厳しさは、なかなか分かり合えない  白黒より灰色がいいんでしょう  男も女も若いうちは妙な欲があって悪いこともします   ところが取り上げてやり込めても騒がしいし調和ですねそれが我慢とか愛情なんでしょうけど、昔の人間は違いますね

W  両方必要だね 

T  男が自由にやりたければ端から結婚してはいけないね 後から分かることだけど・・ でも、あなたが居たからここまで出来たということもありますね  感謝も制約があればこそ 独りなら感謝も起きない  感謝の心が芽生えるのも、迷惑かけた人が居たからですよね 先生

S  まいったなぁハハハ

T  当然、陰と陽だから、合わさって力が出ることだから

W  自分の子供に対して責任持つ必要があるね 一応・・ね 子供つくったら

T  たとえば赤紙(召集令状)持ってこられたら、いかなければ家族全員が非国民でしょ  そのとき、貴女と家族を守るために死地に赴くわけでしょ 悲惨ですよね  でも争いを避けるのは何も政治家や役人だけに任せるものではないでしょ  一般庶民が不特定多数の不幸の到来を予測して公に向かったとき、金ゃ仕事、ましてや家庭本位では済まないときがありますね  男の社会的責任は苦しい環境におかれますね

M  その時代の女性は、つよかった人が多かったですね

T  よい意味でつよかった  いまは烈しい 戦争になったら男は逃げる 女は離婚するでしょう  おかあさんみたいな女性なら、男は育ちますね

W  そうですかぁ (大笑い) お父さんみたいになってしまう ハハハ

T  昔の男が世間で優しかったというのは、そういうところでしょうね  例えば大事な話をしているのに、ちょっと女房が煩(ウルサイ)いので先に帰ります、ではまともな話は出来ません  子供の幼稚園の送り迎えが・・妙な理はあるが義や仁が微かだ  公私の私にあるマイホームもホドが大切です

M  出産に立ち会うのが流行みたいですね

W  へーそうなんですか 昔は男の人は寄せなかったですよ

T  男が子供を見て、女性がショッピング 女厲ですね (女厲・・女が烈しくなる)

S  家庭と外との生活が違いますからね やっばり 両方よくないとね

T  調和ですね

 

つづく

 

コメント
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