まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

勝者は後になって反省する 「虫の魂」  08/12再

2014-03-30 13:42:34 | Weblog


防衛とは異なり戦争計画は平時に行なうものである。

そこには色々な想定があり、シタリ顔の評論家や研究者がいう「能力、意図、実績」など昨今の戦闘にはあまり用を成さないほど想定外が噴出する。

其の一つに民族には棲み分けられた文化圏での民癖がある。

アジア、アラブ、欧米、アフリカ、中南米、夫々には特異な民癖がある。

アジア圏でも中国、島礁列島、あるいは海洋に面した大陸周辺や内陸など、いざ土壇場になったときに現れる人々の侵攻なり防御の姿は、民族の誇りや矜持という形で語り継がれている。

つまり守るべきは我国の政治家のいう民族の「命」と「財」だけで表現されるものだけではなく、「命」有るを以て何を行なうのか、「財」が今どきの造幣、造貨のみではなく「財」を用として何を創造するのか、其の意志と、他と異なる情緒を繋げ、伝えるか、このことをして国家守護と謳うのである。

実は此の事には一つの大事な要件がある。これなくして守護なしと云えるものがある。それは死生観と犠牲である。またそれには精霊の存在が必須の条件となる。

此処までくると官制学のアカデミックな理解には到底届かないものだが、リアルに生死と犠牲を考えると、子を守る親が其の命を死守しても、命が絶ったことを確認すると様相は転換し食物としてその子を食する、動物界にはよくあることだ。

日露戦争の白兵戦で日本兵はロシア兵の両眼に指を刺し、ロシア兵は首に噛み付きそのまま絶命した逸話がある。大阪夏の陣では二万人余の町民が惨殺され壮若婦女子は拉致暴行され、男子は首を断たれ褒の具とされている。

伏して瞑するも,観てきたような口耳四寸を例に不礼を恐れるものだが、土壇場の民癖は、例を明とするも、暗とするも明確に表れるものである。

世に戦略、戦術、はたまた地政学という事前情報は有っても、戦闘者の死生観や精霊への情(こころ)まで忖度されるものは無い。それでは勝てない、商売なら儲からないハナシなのだ。


             

             真珠湾攻撃

                 
             マッカーサー将軍



「奢れる平家、久しからず」「勝って兜の緒を締める」

イラクのフセインは「空爆で負けても内戦で勝つ」と開戦前に述べている。
勝者の大国は其の都度、虫の魂によって脆弱となり衰亡する。

歴史の明暗は別として我国も虫の魂を刻印した。良し悪しを論ずるを置いて島礁列島の民癖を知らせ、内外の研究者をして異質かつ、人の生死に意志あることを認知させた。

一例だが、昨日、古老から女性を乗せた特攻機のことを知らされた。
軍人と妻、そして一人の女性。
これを「狂」とするか、あるいは「狂に至る」陽明行動学の極致なのかは、人を選ばざるを得ないだろうが、ここは今は失き愛郷への情なのだろうと聴いた。

その一人はお手伝いさんだという。

そういう夫婦も、命を献じたお手伝いさんも感嘆すべき「虫の魂」である。




東京都世田谷区世田谷観音


              


神州不滅特別攻撃隊之碑

碑文

第二次世界大戦も昭和二十年八月十五日祖国の敗戦という結末で終末を遂げたので

あるが、終戦後の八月十九日午後二時、当時満州派遣第六七五部隊に所属した今田

均少尉以下十名の青年将校が、国敗れて山河なし生きてかひなき生命なら死して護

国の鬼たらむ、と又大切な武器である飛行機をソ連軍に引渡すのを潔しとせず、谷

藤少尉の如きは結婚間もない新妻を後に乗せて、前日に二宮准尉の偵察した赤峰付

近に進駐し来るソ連戦車群に向けて、大虎山飛行場を発進前記戦車群に体当り全員

自爆を遂げたもので、その自己犠牲の精神こそ崇高にして永遠なるものなり此処に

此の壮挙を顕彰する為記念碑を建立し、英霊の御霊よ永久に安かれと祈るものなり

 


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ブラジル魂 横田尚武氏からの手紙

2014-03-19 19:15:06 | Weblog
ブラジル番長(サンパウロ新聞福岡市局長) 吉永氏 日・ブラジル議員連盟 麻生太郎会長


≪単身でブラジルに渡り、いっときは富豪になった。その後、不毛の大地と言われたセラード大地を、今では10億人の食料を生産可能になる豊饒の耕作地の開墾に没頭。それは土を舐め、噛み、匂いを嗅ぐことから始まる日本人の農民の確信だった。成功と継続は勤労と工夫だと考えていた農民だが、大国の恣意的金融などに翻弄され、ついに農業組合は解散した。≫








アマゾンの開拓

『日本の皆様
世界は今、知恵と団結心に恵まれた日本人の貢献を必要としています。
自然を愛し、自然と共生しようというスピリットを持ち、しかも辛抱強く、努力家であるという、その国民性はあらゆる地球環境問題に取り組む上で模範となるものです。
母なる大地への愛と慈しみをすべての人々にもう一度取り戻してもらうためにあなた方の言葉と実践は、とても大切な役割を果たすことでしょう。
あなた方の知恵と努力によって世界中の大地をよみがえらせて、この地球上の多くの民族に愛と調和と友情の風を強く送って欲しいのです。
私が「灰色の時代」と呼んでいる2013年から2043年にかけて自然環境は非常に悪化して行き、アマゾンのジャングルはこのままでは消滅して砂漠になってしまうでしょう。
しかし聡明な日本人の技術がこれを助けてくれます。
ブラジルと日本との結びつきはさらに強まり、兄弟と呼んでもいい関係になるでしょう。そして経済のみならずエネルギー開発の環境対策で有意義なパートナーシップを結び、世界的に重要な貢献を果たすことになります。』



この言葉は「ジュセリーノ・未来予知ノート」という表題で出版された本の中で主人公が語りかけておるのですが、この文言を読んだ瞬間、「あっ、これは俺達日系人の農業者のことを言っている!」と、何かこう背筋がゾワーとするような感動を覚えました。




中沢氏


何故ならこの主人公は中沢社長の住む観光都市アチバイヤのすぐ隣にある日系人が多く住む農業都市、イタチーバで少年時代を過ごし、(彼の両親は現在も同所に住まれている)日系農業者の生活様式を知り尽くされているからこそ、この様な発言になったのだということが実感として受け止めることが出来たからです。








この主人公「ジュセリーノ・ノーブレガ・ダ・ルース氏は、かの有名なノストラダムスやエドガーケイシーを超えるとされ、その的中率は90%。世紀の預言者として日本においても彼に関する本を6冊も出版されています。
 私は何故、この書籍の冒頭にジュセリーノさんの言葉を持ってきたのでしょうか?
それは自分自身に対する励ましの言葉であり、我が身を鞭打つ叱咤の言葉でもあったからです。
 実は先日のFAXでお知らせしたように、息子から「もう大きな夢を追うのはやめてブラジルに帰り、農場に入って好きなことをしてのんびり暮らせ!」と言われ、中沢や蛸井からも「とにかく一度ブラジルに戻って、バイヤの土地を外人に売って、資金を作ってからまた出直したほうがいいんじゃないか?」と言われ心がぐらぐらと揺れ続けていた時、このジュセリーノさんの言葉に出合って、頭を一発ガーンとやられたようなショックを受けたのでした。

 私が「オレは俺の命に賭けてもこの営農団地を守ってみせるぞ!」と心中深く決したのは22年前の平成元年のことでした。それから今日までに家族も、ほとんどの兄姉たちの縁も、財産も、地位も信用も台無しにしながらも、唯一私の心境を理解し、支えてくれた中沢、蛸井そして我社の役員の協力によってなんとか生きてきた私が今、全てをあきらめて引っ込んでしまうことは、それは自分自身の生き様の根源にもかかわる冒涜行為でもあり、彼等に対しての、そしてまた私という人間を信じてご支援、ご協力下さった日本の多くの方々に対する裏切り行為になるのだという事を気付かせて頂いたからです。

 『人はその人が生きた時点で自ら「出来ること」「すべきこと」がある。これを認識するかどうかで神にもなれば詐欺師にもなりえる』

これは評論家の曽野綾子さんの言葉ですが、私は危ういところで詐欺師になるところでした。何故なら、この世紀の大預言者が言われるように、私は確かにこの母なる大地への愛と慈しみを持ち、自然環境を良くするための技術と経験を持ち、それを多くの人々に伝える言葉と実践力を持っておりながら、その努力もせずに逃げようとしたのですから。
 私は、ここで改めて、たとえ今度のように一番安いうどんを茹でて、具がなにも入っていない味噌汁をぶっかけて喰い続けようと、俺は目的を達するまではブラジルに帰らないと心に誓いました。






横田氏


 『天がある人に大任を授けようとする時は必ず身も心も苦しめ、窮乏の境遇において、なおかつその人のしようとすることに逆らうような試練を与えるものだ。それに耐え抜いた時、初めて天はその人に成功という果実を与える。』

孟子のこの言葉を胸にいつも反芻しながらこれから歩いて行きたいと思っております。

 来年で私は70歳になります。唐の詩人、杜甫(とほ)が
『人生七十古来稀(まれ)なり』と詠じた年になります。今でこそ人生80年といわれますが、それでもあと10年しかありません。なんとかして次の世代に私の夢を受け継がせねばならないのです。私にはゆっくりと休んで英気を養う余裕はもうないのです。

 古代中国の三国志に出てくる劉備玄徳が
『蒼天に向かって吹き続けて来た大ボラを遂に大地の上に実らせる時が来た!』と叫んだその時が今、来ているのだという想いでいっぱいです。

貴台におかれましては、宜しく御指導、御鞭撻のほどをお願い申し上げます。

平成22年5月15日大安吉日
横田尚武拝
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台湾で学ぶ 人と語ることの大切さ

2014-03-17 13:26:05 | Weblog


20代のころ筆者は「明治に会え」と、後輩に檄を飛ばしていた。
いまは、さしずめ大正と昭和だろう。

もともと薄学だったためか明治人の書いた文章が難解だった。今のように説明責任もなく、邦人の普遍なる情緒性ゆえ、阿吽の理解が文章にも表れていた。
安岡先生も「文章は端的に・・」が総ての始まりだった。特に、人物の徳行を讃える頌徳表などは、余程の深慮と同感意識がなければ書けなかった。いわれてみれば確かに碑に刻んだりする文字は仮名ではしまらない。南帖北石とあるように紙に書き記す文字は流麗だが、石刻は剛毅な文字と文体が適している。

つまり、薄学の若僧には漢文調は苦手なものだったので、つい押しかけて語りを聴くことが普通だった。
意外なことに、聴く内容よりも、夫人の礼儀物腰などの作法、長幼の別を感じさせない応接、地位や学校歴などに頓着しない人物観など、その方に興味がすすんだ。
そのうち、旦那の長広舌に時を忘れ、夕飯時になると相伴にあずかることになり、今度は酔い語り(酔譚)に時を忘れる。気が付いてみれば一升瓶が横たわっている。



そこで何を知ったかというと

長幼の応答辞礼、つまり相手の見識に合わせた適切な内容と応答の間(マ)

年配者との応答は、まず相手の色に染まることで、穏やかなマ(タイミング)に慣れる


飲食の作法と身づくろい(清潔、簡易な服装)

飲食は相手に会わせ、失礼のない服装を心掛ける


酔うほどに浸透する真剣な応答と、酔うが、乱れない習慣性。


呑んでも飲まれるな、というように興味ある内容は聞きもらさない


異時代の教養を吸収するための許容と、追い込まれる倣いの順応性

単なる知力ではなく「識」の道理を備えた教養を積む。財利、名誉を追わず人格を追う。


定説にこだわらない多面性と利他に活かす知恵の倣い

覚醒や更新は安住や食い扶持を考えてはできない。こだわりを捨てる。


表裏を矛盾なきものとして消化する理解の柔軟性


善悪も時がたてば印象が変化する。枝葉末節ではなく根本的、将来的に考える。


まだ、いろいろ倣うことがあったが、数値選別に邁進する官制机上學では理解の淵にも届かないものだった。またそれは浸透学であり、活かす人間学で説く歴史や世相の観察であり、将来を推考するための筆者に合った学びでもあった。
そのために多くの明治人に会った。







美しい日本語で・・・・    台湾大学卒 元日本人




あるとき、自身の特徴に合ったその種の学びを安岡氏に伝えたところ、「布仁興義」と表紙に書いた和綴じの記帳冊子をいただいた。それは、会った人の名前を記帳して記録にするためだった。見開きには安岡正篤と記されていた。
当時は免許証のようなもので、体裁の善い身元保証のようなものだった。ただ、始めはどんな肩書で何者かも伝えず面会希望をした。

新聞のコラムで高邁な記事を書いていた某大名誉教授や高検の検事長、思想家、僧侶、民族主義運動家など多くの明治人に会った。なかにはどこの大学、どんな地位、などと聞いてくる人もいたが、総じてダメな明治だった。豪華なサロンを指定され身体が埋まりそうなソファーで、こちらが質問者になったようで話しは言うが、語りはない。つまり一期一会の真摯な応答がない。帰り間際に記帳本を差し出して「記念にお願いします」というと、面倒くさそうに身を乗り出してページをめくり、安岡氏の名が冒頭に記載されているのを見た途端、身を乗り出してこちらをまじまじ見つめ、震える手で氏名を記載していた。

なかには、何度連絡しても「忙しい」とケンモホロロ。「たとえご尊顔でも」と懇請しても、同じ応答。これが名僧と名高い人物だ。
「小便する暇もないのか!」
つい昂じてしまったが、禅僧なら小僧の本心が見えたと悦んで会うところだが、この偽名僧は後に女道楽の淫話にまみえてしまったと聴いた。

民族運動家の赤尾氏は多忙だったが時間を割き、興が乗り、終には好好爺になって思い出話を拝聴させていただいた。前にブログで記したが、これは安岡氏との若僧ころがしの悪戯のようなもので、赤尾氏もどうしてか安岡氏を罵った。こちらも是は是、非は非を論じると最後に「思うとおりおやりなさい」と怖い面容を大きく崩した。両人の親交を知ったのは両人が亡くなった後のことだった。多くの明治人はページをよけて記名するが、赤尾氏の記帳は
安岡氏の隣に大きく記名している。

先日、門田隆将(門脇護)氏と津軽に行った折のこと。
「一昔前はたとえ体験者でも人が聞いた話は当てにならないので記事にならないといわれていたが、今は証言録と称して前世代の高齢者から話を聞くことが多いが・・」
「検証されないものでも実体験のリアルさは、あいまいなら小説という書き方もある」

それがためか、永遠のゼロにしても若者が前世代の関係者の証言をたどる手法が多くなった。知らなかったことを知るためのストーリーが過去の歴史に向かうことは学びの質でも有効なものだが、知った覚えた類ではなく、自らも記述に触発されて己の耳で直接聞く行動が大切なことだ。それが今、新しい学習法として流行っている。女性の歴史巡りもその一つだ。

情緒の連帯と調和は世代を超えてスパイラルな連続線を作っている。それが現在観の面となるが、もともと人間の所作であることを忘れることはできない。

つまり、前に記した、人と会い、人に倣う、その成果はどこかに人の影響が善なる習慣性として蓄積されていることに気が付くときがある。
それは「師あって学ばず、知って教えず、学んで行わず」からの脱却を促す良い機会と考えることが始まる。「どうしたら、こうしたら」の閉塞感からの解放もそうだろう。


筆者は親に「親であって、親でない」と言って、嘆かれたことがある。
本当に親だと感じた時には親は亡くなっていた。
もっと、話を聞きたかったとも慚愧な思いに浸った時もある。

その点、明治は世間親、烏帽子親だった。その親は口が渇くのも忘れて自身を語り、促してくれた。こちらもオボロゲニ進駐軍がジープに乗っているのを知っている。世の碩学や明治、大正、昭和の歴史を飾った多くの人物の真実の人なりを実感している。なかには世俗の評価とは異なる人物もいた。もちろん、いまでも語れることも憚る歴史もある。
こちらも、明治人が伝えたことを再度、伝えたい気持ちがある。だから今でも人物を探している。
あの、天安門の騒乱に身を置いたことも実感として甦る。
忘却と再生、そして恩讐は縁と共に再び蘇える。






教わらずに先輩を倣う



先ごろの台湾訪問も多くの元日本人に会った。言葉、礼儀、仕草、情感、みな明治の香りがした

まだ遅くない。台湾の施設には多くの元日本人がいる。みな懐かしい日本語を話したくて仕方がないのだ。台湾に訪れる日本の若者を見て「昔の日本人はそんなことをしなかった」と嘆き、ときに叱責もする。

素直に首を垂れることに何の躊躇もいらない先輩たちの寛容と期待がある。
つまり、標記の「明治に聴く・・」とは、己の恥じない良心の発見に他ならない。
人に倣う、人間とはどのような生き方をするものなのか、そしてどのように消滅するのか。
先ずは遠慮せずに会い、聴くことだ。

もちろん、良心という手土産を忘れずに・・・
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愛おしき産経抄の分別はいかに

2014-03-01 13:33:25 | Weblog


子供も読んでいる新聞は、識字率を高め、見て、考えて、知らせ、自身でも書くようになる



勘違いする野暮はどこにでもいる
今朝の産経新聞一面の産経抄はまさに分別を知らない野暮記事だ。
為政者から鼻薬もしくは、鐘や太鼓の購入代をもらったような雰囲気だ。
対象はともかく、大新聞の一面から最終までを貫くセンターラインとしての品と気概がない。歴史的継続性もうかがうことのない、単なる時の権力や流れへの迎合だ。それも偏している。
なにもこの手のコラムを「粋」に書くべきとは言わないが、先代か先々代かの石井英夫氏の謦咳に接した書き手とは思えない粗雑さだ。

いゃ、この書き方でよい場合もある。
石黒敬七、開高健両氏のように人の印象が定まっているような書き手はそれなりの対象への見方はある。ただ、江戸の瓦版の人気書き手のような雰囲気はする。






中華民国台湾の新生活運動   国の維であるセンターラインを道徳律の甦りにみる




人を論(あげつら)ったり、皮肉を投げかけるにしても書き手の熟度がある。
昔は酒も女も袖の下もブンヤの倣いのようだった。だからと言って筆を曲げたりはしない。
それらの意味するもの、金の出どころを見透かしながらも按配がとれていた。
それをネタにするものはゴロ新聞か業界紙に流れるが、近ごろは安定食い扶持の新聞社より裸体なしの週刊誌の方が読み応えもあるし、記者の完結性がある。
つまり、問題意識を確認するために地を這う取材をして、記事を書き、編集会議で記事の位置を編集長と口論し、時に殴り合いまでする完結性だ。

ところが、商業新聞は重要なる取材元であり、木鐸の用をなす対象である為政者から、平然と供応を受けるようになった。社長をはじめ政治部長がその類だが、その都度手土産,心付けの金品を機密費から拠出していたのは、つい最近のことだ。
しかも、食事会とはシャレにもならない。大の男が食事会に誘い、誘われる意味すら解らずに嬉々として応ずる姿勢は、現場の記者、読者に対する背信である。
それは、暴力団が所轄のマル暴を接待して車や女を提供する代わりに、お目こぼしをもらうことと何ら変わりはない。

以前、元老石井氏の後、いっときは、候補者試し書きの様相に見えた、とこのブログでも書いた。もちろん毎日だと大変なので助っ人もいただろうが、新潮のヤンデンマンのような連結の巧みさはない。それは新幹線の発車と連結のスムーズさと連結路面電車のようで、車ならノッキングが激しくて、この場合は乗り心地でなく、読み心地が悪い。

しかも、なかには読者の反知半解で居酒屋談義にでもなろうものなら、グラスが飛んでくるような周知のいい加減さだ。
題材はいいが、書き手の野暮さによって、読者が、落ち着いて読み、鎮まりを以て考え、慎重に語るべきことが、逆に大向こうからヤジを飛ばすような環境を作り出してしまう。

書いてしまえば、紙面を埋めてしまえば、そんなアンチョコさは老境に入った元老石井氏にもなかった。かれの培った財を食いつぶし、あらたな囲いや運動場を作るならまだしも、産経抄の軒を借りて野暮を晒したいなら、己の食い扶持は己の力量で餌場を探すべきだろう。
 どうせ数値試験の入社組だろうが、言論人羯南に倣い正々堂々の署名記事を書き、それによって社会の不特定多数に問い、加え、商業新聞としてその経営まで俯瞰するような人間記者に成るべく、筆を執る前提を磨くことだ。





部数が足りないところは、壁新聞にもする



産業経済新聞(産経)とはいうが、経済は「経世済民」、(世を經(おさ)め、民を濟(すく)う)ことにある。
いまどきは、生命財産を守ると謳うが、命と財がある所以、在ることによって到達する目的、加え、何のために用とするのか、を伝えるのが新聞の一方の目的である。
ただ、長生きと金の増殖の方法伝授や守護では、人生は野暮になる。
邪魔者は批判し、金の儲け方を伝授し、長生きの秘訣を伝えたところで、新聞の意味はない。

あるいは、たかだか努力すれば経済や軍事の数値が上がるようなことを国力と錯誤することは、深層の国力である邦人の情緒性をいたずらに毀損する、いや煽るだけになってしまう。いわんや、全グループを挙げてお台場カジノの誘致と、なぜか徒労感や一過性の熱狂に紛れる地球のどさまわりオリンピックに狂騒する軽薄さに、問題意識を持つ記者は皆無なのだろうか。

なにも原発、オリンピックにやみくもに抗するわけではないが、思索と観照力を衰えさせるような扇動は控えてほしい。なにも偽装アンケートでなくても、50%位の投票率で構成される権力施政でなくても、国民意志は収斂される。だだ、為政者は待てないのだろう。
それを阻むように映るマスコミの姿勢は「釜中のぶんや」として実態を知らぬことでもある。




言論人、新聞日本を創刊  陸 羯南




羯南の生地 弘前市の冬


今年の東京の雪は多くの被害をもたらした。天然のダムでも人工都市には合わなくなった。そのなかでも早朝の新聞配達は難儀した。とくに土日にかけた降雪は広告読者のために大量の広告が出荷された。オートバイは使えない、さりとて車は道が狭くて入らない。配達員は懐かしい肩帯に新聞を挟んで深夜の雪道を運んだ。普段は二時間くらいだが、広告が多いため30部が限度だ。なかには昼ころまでかかった販売店もある。もちろん購読者からは叱責が厳しい。

そんな中、ぬくぬくと横目、覗き見で人の悪口を捨て書きする連中もいる。
政治家も、経営者も、もちろん新聞屋も下座観を失くしたら無意味な位置だ。
そんな記事を運ぶ配達員は落ち着いて新聞を見る時間もない。

それは、酷すぎないか。
書いているこちらも野暮になりそうだ。
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