盧溝橋
S・・・佐藤
T・・・筆者
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終戦の2・3年前、恒吉副官から関東軍の作 戦第一号極秘書類を見せて貰って、満州人に詫びる積りで死のうと思った。
発表した物全部嘘! 其れで終戦の時、家族皆を帰国させて自分だけ死ぬ積りでいたら、暫くしてコレ (佐藤モト奥様) が皆を連れ戻して来てしまった。
(鉄領から引き返している)
僕は一人でも多く の日本人を助けること、満州側に日本の文化財を引き渡して、其の二つだけ遺して死のうと思った。
終戦の時に最後に貰った給与の半分を、長い間気懸りで或り乍ら何 もして挙げられなかったリツさん (佐藤先生の恩人) に差し上げた。 そして、大同学院へ走って遺言を書こうと思って日本刀を使ったら斬れないのだよ。 死ぬ作法も出来ぬ (苦笑)。 人から 〝軽く斬れ〟 と謂われ、今度は上手くいったと思ったら、ブッと斬れて血が止まらくて大変な傷に成ってしまった。遺言処では無いよ (笑)。
T : 指先を切るのです、腕は斬らないで…… (苦笑)。
S : 何も知らぬで (苦笑)。 そして二・三日したらコレが子供達を連れて帰って来たのだ。 食って行かねば為ら無いから、外へ米や醤油を仕入れに行くでしょう。 米屋へ行ったら其処で
「あんた、吉林の田舎で中国人を救けた医者でしょう?」、
と謂われ
「否や、僕は医者じゃあ無い。 僕は大同学院で支那語を教えていたのだ」、と
答えたのだけれども 「否や、あんたは医者だ」、と謂う。
実は当時僕は、仁丹や 歯磨き、目薬等をバッグに詰めて吉林の田舎へ行った時、其処で重病のお婆ちゃん を本当に仁丹で治した事が有る。
六、七年経ってもお爺ちゃんが其れを覚えていて、吉林の田舎から新京迄卵を30個くらいも持って三・四日掛けて歩いて来て
「大同学院の佐藤 慎一郎と云うお医者はいないか」
と支那街を捜し廻り、其の米屋にも立ち寄ったらしい。 其れで米屋の親爺が僕を見て
「あんた、吉林で中国人を救けた医者でしょう」
と謂って米を気持ち良く分けてくれたのだ。 其れを自宅で売るのだが、僕は一割も儲けて売るのが心苦しくて、玄関に『仕入れ価格幾等、一割儲けます』 と貼紙して売った。 跳ぶ様に売れて生活の見通しが就く様に為ったでしょて、青森県人だけでも救けようと思った。
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己の在り処を探求するとき、それは些細な一章から発見できることがある
ことさら分析するつもりは無いが、そこには童心(わらべ心)、男女の別、禽獣との別が見て取れる。以下に紹介する文は世に繁茂する数多の論とは趣の違う俯瞰の洞察である。
《「西洋の哲学や地政学などの文献をいくら読んでも、生の人間が存在しているこ
とを感じない、安岡先生の言葉には人間がいます」
地政学を学んでいる友人が私に語ったことです。
分けて分けて細かく分けて分離し分析する、そこに理論や枠組みを作りそのいず
れかに分析したものを当て嵌める。
これが西洋流の思考パターンであります。
私は、博士論文は目方で決まる(文書量の多さ)と言ってからかうのですが、
東洋でたった一言で言えることを数百ページも使う。そんな西洋を見抜く人は少
なく、書物の分厚さに圧倒されてカブレて行った明治以降の日本人にも多く見ら
れる傾向です。
この方の文章はどうやら西洋流に当て嵌りますね。
官製学歴や地位名誉といったものだけでなく、思想・信条にも枠があることに気
づかない。多くの人は自分自身をその枠に当て嵌め、その枠の中で生涯を終える。
果たしてそれが不幸と云えるかどうか私にはわかりませんが・・・》