まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

「人間考学」より 自己憲章のすすめ (再掲載)10/6

2017-06-19 12:46:01 | Weblog

「歴史は人から人への精神の流れ」東京工大 芳賀教授 産経正論欄より


「人間考学」

たかだか人間の問題である。

また、そう考えることが此処でいう「人間考学」の端緒でもある





聴き慣れないことだろうが筆者の奨めである。

とくに「伸ばす」「省く」を目標として掲げ習慣化することへの薦めである。

たとえば理想とすべき人物の座右を借用するもよし、感度とオンが馴染むと造語するもよし、それを自己流に、しかも能力の足らないところの目標でもよし、気の付くところへ掲げる薦めである。

よく心に銘記すればいいとはいうが、さしずめ携帯の待ちうけ画面に芸能人やペットを添付するように人生針路として活用したらどうだろう

安岡正篤氏の「六然訓」を借用して掲げる方もあるが、難しいことを簡易に自分勝手に解釈するより、「あがるな落ち着け」「怯むな」「競うな」「あげつらうな」のような、゛多くの不 ゛や、「無視しない」「深く考える」「知ったら教える」「学んだら行なう」といった、゛多くの善 ゛を多不、多善として銘記したらいい。

あるいは「無名かつ有力」「頭がいいことは直観力」など軌道修正に効果ある文言もいいだろう。


後藤新平は「自治三訣](ジチサンケツ)を自らのに課した


 人のお世話にならぬよう

 人のお世話するよう

 そして報いを求めぬよう


岡本哲人は

「尽くして欲せず、施して求めず」
    (安岡氏は「受けず」と添削)
また、「貪らざること宝と為す」


何ごとも対価にするような風潮に警鐘を鳴らしている。






               






誕生の頃、命名した半紙を貼り付けて期待を託した。近頃では格言カレンダーをトイレに掲げている宅もある。受験には必勝、合格、学業成就などと机の前に親が大書して貼り付けている。

さまざまな願目願望が溢れているが、なんとなく一過性で、回顧すると我欲のオンパレードで、、゛それからどうする゛゛どうなった゛と考えると何ともやりきれない。

よく「夢はなんだ」と問われるが、「恥ずかしくて口に出せない」と応えることにしている。
夢はそうゆうものだと考えているが、夢想も空想も「夢」には到底とどかない代物だ。
つまり想っているうちが夢だからだ。

筆者のような小人が考える憲章は、その想っていることの習慣性を銘としている。

夢想耐用に沿って、到底たどり着けないような、あるいは童心のような無限の夢を抱くようにしている。茶席の年初めの床の間の書は「夢」である。誰かが死の床で「夢のまた夢」と呟いたという。

死ぬまでもち続ける夢を探している。つまり自身に課すことに他ならない。
「己は何処から来て、何処へ行く、そして何者なのか」
ゴーギャンや毛沢東の言にもある。

自由は担保するためにさまざまな行為を課す。民主は己が主であることの継続を課す。

民主、自由が謳われる囲いの中で、バナナの叩き売りの如く「裏も表もバナナ」に誘われ、ひと房多いか少ないかに惑わされ、巧妙な口上に夢中する。これも夢だ。
いま世情は叩き売りの売り場確保で忙しい。

憲章は自身そのものが解りやすくするために銘とするものだ。

ひとは先ず自身に嘘をつく。実像に耐えられないのだ。
目覚ましのスヌーズのようなもので、まず己に負ける。
酒や異性や仕事の理由にして人生そのものをスヌーズしている。
起床するつもりの目覚ましも反抗はしないが、いつも反省という返りがある。

それが「オレだけではない」「誰かがやる」「別にいいんじゃん」の慣性に陥らないよう、かつ反省の悔しさを味合うことの無いよう、ささやかな自己憲章起草の薦めなのである。

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籠池・加計騒動  私人だとか公人だとか騒がしいが

2017-06-15 14:37:56 | Weblog

 

                                         

 

まさに議員たる公人が騒がしくも争っているが、どちらでも張り付け膏薬のごとく、どこにでも姿を変える論争だ。与野党問わず役人や弁護士あがりが多くなったせいか、まさに「智は大偽を生ず」ごとく、狡知を駆使して権力なり大向こうの大衆を屏風にして、しかも手前勝手な便法を使い言い争っている。「智は大偽を生ず」とは、「智」でなく単なる知った、覚えた、暗記した類の「知」であるが、使いようによっては「痴」になるものだ。

 

「忖度」が流行りだが阿諛迎合や曲学阿世を絵に書いたような議員だが、官僚の腹話術に陥っては、人物を得ないゆえの亡国は遠いことではない。

とくに、数字と法が踊る弁舌は、国民から揶揄された「代議士は人を騙して雄弁家」という野暮で古臭く人情のかけらもない様相を現わしている。これでは幾ら善い政策でも発する人物が愚かでは、国民は信用しない。崩壊学級に似て、互いに言葉尻をあげつらい罵声と居眠りを見せつけられる国民は面白がるが、後は徒労感とやるせなさしか残らない。

 

しかもその知の目的は正邪の分別ではなく、己を飾り、自らさえ欺いて権力に阿諛迎合する詭弁でしかなくなっている。とくに為政者ならずとも監督すべき官僚の顔色を窺い、見え透いた嘘で、真に国家に憑依しつつ暗雲となっている官僚社会主義と揶揄される彼らを隠し守っている。

一度は政権についた野党もしかり「お前たちだって」と、あげつらわれれば話題をすり替える。彼らは「論点を変えて・・」と、うそぶくように心根が定まらないのは選挙を我が身の失業対策運動と成り下がっている津々浦々の地方議員と何ら変わることはない。ゆえに狡知を搾りだす官僚の手のひらで踊るのは与野党問わず議員の実態であり、大多数の国民も承知している。

 

筆者はどちらでもよいことで対象が有効とするなら公私の分別もなく利用するものだ。要は使われることが不特定多数の利福を前提とするなら公人の行為、己や特定のことにその優位さを用いるのなら私人と考えればよいことだ。 

大切なことは、学びは行動に直観化し、しかも利他に用となって、真の学びとなるとの思いがある。

 

どちらについても後の言い訳はつくことだが、私人とて公的任務を帯びた行為をすることがある。ただ行政の便宜を図る場合でも運用者は人物を観る。高学歴無教養といわれる彼らだが、気になるのは人事昇給と生涯賃金のようだ。それは、このブログでも再三取り上げる「昇官発財」にある隣国の宦官のようになっている。どこでも似た者同士だが、隣国の明け透けでリアルな欲望追及とは異なり、煩雑で重層された便法によって、間違いさえなければ墓に入るまでの生活保証は担保している。亡国の使徒となっているような世の多くの母親は我が子に「公務員になりなさい」と、単なる俸給安定目的で盲従を勧めている。

 

つまり似て非なる「公人」になることを勧めているのだが、競争好きな母親の嫉妬は家庭の充実といわれる幸せ価値まで変容させ、国家なり社会の基礎的要素である家庭までうつろな状態においている。それは私的要件で「ニセ公人」を作り出す一方の教育システムではないだろうか。とりもなおさず国家が生活保障をしてくれる状態だが、前記した官僚社会主義が極まった姿として戦前の軍官吏の跋扈した暗雲の再考を促すだろう。

これらの情況に対して、あまりにも政治は無力だ。それは時の権力の風向きを眺めつつも、もともとその無知を侮られ、かつ操られる政官複合体ゆえの醜態なのだろう。

 

                                                  

                                  

 

筆者のことだが森友問題とは似て非なる国有地の払い下げをおこなったことがある。

こちらは私的要件ではなく、まして関係者以外は知らない逸話でもある。

板橋区内に筑波大学が使用していた広大な跡地があった。よく破損した鉄条網をくぐって高齢者がゲートボールをしていた。もちろん子供も遊んでいた。委託管理者である大学は禁止処置をとっていたが、それは立場のあるゆえのことだ。

お決まりのごとく住民は、近在の区議や代議士を通じて地域に跡地の有効活用を陳情した。

夫々がいずれ選挙名簿となる署名を集め、親分たる都議や代議士に渡し、代議士は大蔵省に出向いて平身低頭、ときに宴席で酒を注ぐこともあった。当時の力関係はそうだった。

しかし何年経過しても成就しなかった。

 

区の職員も動いていた。何度か国有財産統括課に訪れ、交渉ならずお伺いをたてたが2時間も机のわきで立ったままお茶もなく、まるで職員室の生徒と先生のような状態だった。

筆者からしてみれば身近な自治体の官吏だが、たとえ大蔵省といっても官吏には変わらない感覚はあった。交渉の可否はともかく、偉丈高な態度で対応することが気になった。

 

大蔵省には縁がなかったが、師と関係のあった愛知喜一元蔵相の秘書だった官僚が銀行局長をしていることを想い出した。師に相談したことではないが翌日には饅頭の土産を持参して霞が関の本省を訪ねた。当時はセキュリティが厳しくはなかったようで衛士に銀行局を尋ねた。何の問題もなく銀行局総務課長の扉を叩いた。C課長だったが不思議がらず要件と紹介者云々を聴かれた。紹介者もないが事情を話したら担当部署について説明を受け、隣室の女性に案内を指示してくれた。

 

課長と懇談中、多くの来客があった。みな慇懃に挨拶をして下がったが、聞いてみたが大手都銀の頭取や役員だった。護送船団と揶揄されていたが、職掌の威力を目のあたりにして見た。これでは陣笠代議士では近くに寄れない雰囲気だった。まさに大蔵は国家なりだ。

歩きながら女性の職掌を聴いたら銀行局の地銀担当の責任者だった。この若き女性官僚にも地銀の役員が頓首して挨拶に来るのかと想像したが、街中で会えば美麗な女性にしか見えない。

 

案内されたのは国有財産統括課長だった。話は伝わっていたのか、いちいち人定質問はしない。区の職員との対応は細事ゆえ後回しにして国有地払下げの現状と仕組みを伺い、板橋の跡地についての本題に入った。

現在の経過と今後の可能性についてだが、驚くことに代議士の運動や署名については多くの案件の一部としても上がっていなかった。ものごとは法に基づいた案件処理計画と事務処理だが、こちらとしてはその糸口とシステムが解からないと土俵にものらない。しかも闇雲に議員に頼むことで、かえって保留案件として滞留することがあるということだった。

それは大物議員の意向だとしても、当時の大蔵キャリアは、゛我こそ国家゛の意識があったのか、反応にも絶妙な時間差があるようだ。

 

つまり、゛やりずらく゛なる案件なのだ。当時は各省幹部の人事権は官邸にはなかった。ゆえに一歩間違えれば人物如何でノーパンシャブシャブ接待にキャリアも誘引されてしまう。もともと東大出の一種合格組は政治家とて面従腹背の上から目線が多いようだが、侮られる議員も選ぶ有権者も劣化の謗(そし)りは免れない。まさに、デモ・クラシー変じてデモ・クレージーだ。

 

                       

                            

 

あるとき安岡氏から「君は代議士になりたい思うかね」と唐突に聴かれた。世人がいない書斎なので「いや、考えたこともありません」と応えると、「議員は人物二流しかなれない」という。それでも当選の見込みがなくても、言いたいことではなく言うべきことは言う」といえば、あの岡本老のように「安岡が入れる(票)からおやりなさい」と意気に応えかねない妙な義侠がある師だ。それは師の訓導した「無名は有力です」に沿いつつも、利他(他への貢献)への侠気に動かざるは学びの自滅であると考えるからである。

総てではないにしても氏の周囲には多くの高位高官が集うなかで、これはといった人物がなかなか見当たらないという。まだ官僚の方に見るべき人材は散見する。

 

人間学的歴史観での見方だが、このまま進捗すると、法や制度は整っても人物が枯渇しては紙に書いた条文でしかなくなる。しかも問題が出ると新法を積層して煩雑になり法治の整理がつかなくなる。そこで現われるのが三百代言といわれるような法匪の群れだ。官僚は詭弁を使い、政治家は詐術を謀として国民を騙す。むかしは「政治家は人を騙して雄弁家という」世俗の戯言が流行った。

 

板橋の案件に戻るが、国有財産統括課長は見識があった。たかが饅頭を持参してアポイントのなく押し掛けた人間の青臭い話に耳を傾けた。共通するのは「国家として」だ。

それは個別問題に拘泥するものではない、不特定多数の安寧を求める意志と彼の専権する分野での効果的施策についての応答ゆえの姿だった。

 

当時、津々浦々の自治体では役所の景気?が良かったせいか箱物といわれる公共建築物がいたるところに計画されていた。いずれは管理費などで経常経費があがり、税収が乏しくなれば住民の借金である起債が起きる懸念があった。また、お決まりの利権が発生し腐敗汚職が頻発して自治体への住民怨嗟が起きて政策すら停滞する懸念があった。

 

板橋とて百億円庁舎といわれる建築に際して業者・政治家・職員を巻き込んだ問題が起きて、中心となった区議は病院に逃げ込んだはいいが新聞記者から追いかけられ頓死している。また、まじめな幹部職員も心労で亡くなっている。

しかも区議の支配する建築会社が談合に加わったが、大手建設会社とは規模が違いすぎるために、B談合といわれる工事はせず、分け前だけ頂戴して仲間の区議や関係機関の職員に渡している。気前がいいのか、区役所にちかい公園のトイレで連れションした近隣の治安機関の職員にも小遣いを渡していたが、この職員は退職すると区議の支配する建設会社の名刺をもって筆者のところにも挨拶にきていた。

 

                            

 

 

それゆえ、広大な土地の払下げには一定の縛りを掛ける必要があった

統括課長には全国的に憂慮される問題として、事情を説明し「憩いと防災」として一定期間箱物は建てない条件を申し入れた。今年29年に建築計画が発表されたとき幹部職員に「たしか縛りがあったようだが、期限は承知していないが調べた方がいい」と伝えると、早速調べなおした結果、10年の縛りがあったという。それも判らず設計までした後だったが、職員も安堵したようだ。大蔵省の面談では課長の約束言質はなかったが、金満自治体行政の緩みが住民の人心に及ぼす不信や怨嗟の広がりを恐れたのだろう。その点は政治家より世の中をよく見ている

 

前記した、゛お茶も出さずに立たせた゛件だが、課長は担当係長を呼んで当方の話を聴かせた。それ以来、板橋の職員に聞くと対応が変化したという。係長はその都度連絡をくれた。

直近の審議会を経て払下げが決定したが、政治家も絡まず、私的要件もなく、饅頭の箱を下げた無名な国民でも、人物に遭遇すれば胸襟を開いて意をくんでくれる。さすがエリート揃いの大蔵省だと感心もした。経費は饅頭ひと箱と電車賃、労務は半日だが佳い人物と応談できたことは何物にも代えられない。「何事も人物を得ることだ」と諭す師の言は実証された。学びの行脚は独悦に限る。

 

余談だが、その立たせて対応した係長から電話があり、「OBをどこか採用可能ですか」と。天下りではないらしい。

板橋に繋いでくれとのことではなかったが、こちらはそんな権限もないので、こんどは立たされた職員に伝えた。「私的依頼でしょう、便宜はないが、少しは庁内もビリっと緊張するので悪いことではない。上司に伝えてください」

しばらくして慇懃に「難しい」と返事が来た。たしかに大蔵OBでは不埒な議員や談合業者に歪められるような卑屈な自治体では採用しずらい難問でもあった。なによりもキャリアへの引け目があったのだろう。

 

                      

 

払下げだが、この場合の筆者は私人ではあるが、なによりも日本国民の共有財産である土地の活用の話だ。

たとえ板橋の公園でも北海道から沖縄の人まで訪れて憩いに活用してくれる。板橋だけのものではないのだ。まして誰から頼まれたことではない。だだ、気が付いたお節介なのだ。

彼等とて行政府の職掌事務係ゆえ、権限はあるが権利はない。筆者と同じ国民であり、理に沿った提案なら動くのは必然だ。よく恣意的運用などといわれる執行があるが、これは不埒(埒(柵」から外れた)な不良役人の行為だ。

 

区役所でさえ、どこかと違って関係書類の破棄はなかったので助かったが、何よりも籠池問題がそれを気付かせてくれた、まさに一助でもあった。きっと当時の大蔵省の気風なら佐川君とて威風堂々とそうしただろう。その意味では政権の三百代言に成り下がった佐川君がかわいそうだ。官吏としては及第ではあるが、官僚として、まして純情なる良心を汚した為政者は嘆かわしい。

 

まさに「上下こもごも利をとれば国、危うし」

それより、これからは「小人、利に集い、利、薄ければ散ず」と、解体現場から逃げ出すネズミが増えてくるだろう。

国民はネズミ捕りを用意しなくてはならない。

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(財)国際平和協会・・?

2017-06-12 18:32:41 | Weblog

今こそ憎悪を乗り越える時代/ 世界連邦運動の系譜を振り返って


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伴 武澄 (2014年12月 9日 21:13)

 国際平和協会との出会いは2001年12月だった。東京・元赤坂にある財団事務所を訪れ、戸棚にあった機関誌「世界国家」を読み始めたことがきっかけだった。賀川豊彦という希有の日本人の存在を知り、10年以上にわたり賀川研究が続いている。国際平和協会とその分身である世界連邦運動協会について一考を記したい。










 首相官邸で産声

 終戦から間もない1945年8月26日。終戦処理のため内閣総理大臣となった東久邇宮稔彦から賀川豊彦に「首相官邸までおいでを願う」という通知があった。「何事だろう」と出かけて行くと、東久邇宮は「内閣参与になってもらいたい」といい、そのわけを話した。

日本の道義は地におちてしまっています。日本再建のためには、まず日本人をこの道義の頽廃から振い起たせなければなりません。また日本が生まれ変わるためには、従来の外国人に対する敵愾心や憎悪の念を一掃し、世界平和を目指して進まねばなりません。この道義の振興と平和への切り替えのために、ぜひあなたの御協力を願いたいのです」
 つい昨日まで、反戦論者だの、売国奴だのと罵られ、軍部や官憲から白眼視されていた賀川が戦争で傷ついた日本再生のためのグランドデザインを描くことを要請されたのだった。


 賀川は内閣参与を承諾し、就任の2日目の8月30日に、読売新聞にマッカーサー元帥に宛てた長文のメッセージを読売新聞に発表した。日本の進むべき道を進駐軍の最高司令官の前に披瀝した。賀川はこう記している。
「総司令官閣下。戦勝国は広い心と思いやりがなければなりません。日本は今、詔書のお示し(万世に太平を開くとのお示し)のままにりっぱな世界国家として出発しようとしています、いたずらに、小さい枠の中に幽閉しておくことは、貴官らの理想とはるかに遠い結果を生むでしょう。日本人のこの心情と、人間としての実力とをもり育てるならば、日本の新世界奉仕の出発は、予想より強力に、早くなされるでしょう」

 賀川は日本再建の同標はこの「世界国家」のほかにないと考え、9月27日、首相官邸において財団法人国際平和協会を設立し、新聞は一斉に「国際平和協会」の誕生を報じた。設立の基本金5万円は東久邇宮のポケットマネーから出されたが、その後の活動は主として賀川理事長と同志会員の拠出金によって賄われた。国際平和協会は1946年4月13日に財団法人として正式に認可された。









 そうそうたる設立メンバー

 国際平和協会で驚くべきは創立時のメンバーだった。賀川理事長のもとに、鈴木文治常務理事、理事として有馬頼寧、徳川義親、岡部長景、田中耕太郎、関屋貞三郎、姉崎正浩、堀内謙介、安藤正純、荒川昌二、三井高雄、河上丈太郎が連なっていた。日本の労働組合の創設者、久留米藩、尾張徳川家の当主、著名な法学者、元宮内庁長官、外務省事務次官、三井家当主、元社会党委員長の衆院議員――そうそうたる顔ぶれだ。

 国際平和協会は定款に「国際間の戦争を絶滅し、恒久平和を図るをもって目的とす」とうたい、「宗教、社会、政治、経済、教育、文化その他万般の人間活動を通じて人類相愛互助の事業を行う」ことを定めた。当初、宗教部、社会部、政治部、経済部、教育部、文化部を設置した。宗教部はすべての宗教に世界国家の必要性を訴えるためにあったが、世界連邦運動宗教委員会として現在も活動が続いている。政治部の活動は超党派の議員による世界連邦運動国会委員会として今日に続いており、その一部が「世界連邦建設同盟」(現在の世界連邦運動協会)として開花した。1948年に綱領に「世界連邦を建設することを目的とする」ことを掲げ、運動体としての変身と遂げることになった。











 地球規模の世界連邦運動

賀川は当初、世界連邦建設同盟の総裁に推されたが、キリスト教者がトップになるわけにはいかないと固辞し、副総裁におさまった。総裁には尾崎行雄を据え、理事長に国際平和問題のベテランとして知られた稲垣守克氏が就任した。財団の機関誌「世界国家」は世界連邦建設同盟との合同編集となり、世界連邦運動を強力に引っ張る牽引車に生まれ変わった。

 賀川の運動の片腕の一人、村島歸之によれば、「従来の啓蒙宣伝本位のものから、実践運動の報告を主体としたものに変貌し、稲垣氏らの内外の世界連邦運動ニュースが精彩を放った。世界連邦運動は燎原の火のように日本各地に広がっていった」ということになる。

 第二次大戦後に世界連邦運動が地球的規模で強力に推進されていたことを知ったことは大きな驚きだった。世界連邦を単なる夢物語だと思っていた僕の目を驚きの次元へ次から次へと開かせてくれたのが機関誌「世界国家」だった。

 第二次大戦の反省、特に広島、長崎に落とされた原爆の悲惨さを契機に世界の有力者たちの多くが本気で世界連邦を考えていたのだ。世界本部がロンドンにあり、後にノーベル平和賞を受賞するロイド・ボアが会長を務め、シカゴ大学総長のハッチンスが世界連邦憲法草案を書き上げ、アメリカを含め世界各地に世界連邦宣言都市が相次いで誕生していた。その有力者の一人に日本の賀川豊彦という存在があったことも僕のインスピレーションを大いにかき立てた。

 「世界国家」の誌面には知らない終戦直後の歴史が次々と書かれてあった。フランス、イタリア、デンマークの新憲法は世界連邦への主権委譲を書き込んでいた。シューマン・プランなるものが欧州石炭鉄鋼共同体につながったという話は特に新鮮だった。戦勝国の外務大臣が欧州の戦争の大きな原因だったアルザス・ローレンヌの鉄と石炭を国際管理しようと言い出すのだから腰が抜けるほどの驚きである。

 賀川はこの機関誌に毎号、精力的に執筆した。特に1949年以降は筆が踊り始めていた。戦前にアメリカで出版した「Brotherhood Economics」は協同組合的経営で世界経済を再構築すれば、貧困が撲滅され、世界平和をもたらすことが出来るということを書いていた。賀川の政治経済社会論の集大成だが、まさにそのような世界を実現できる機運が生まれていたのだから当然である。

 賀川は生物学から原子物理学に到るまで知る限りの知識を駆使して、世界はダーウィンの『進化論』が描く弱肉強食の世界ではないことを繰り返し書いた。弱いものは弱いながらも力を合わせて生きてきた。タコが甲羅を脱ぎ捨てることで逆に億年を生きてきた「進化」の過程を書いた。賀川は「なぜ人類だけがそれをできないのだろうか」という思いだったに違いない。

 賀川は愛に生きたイエス・キリストはもちろん、アッシジのフランシスカン、戦争を拒否して流浪したメノナイトの人々、第一次大戦で敵をも愛した看護婦カベル、北氷洋の聖雄グレンフェルなど愛に生きた過去の人々の物語も多く紹介した。僕にとっては初めて知る物語だった。多分、多くの読者にとっても同様だろうと想像する。












 綾部市を皮切りに広がった運動


 国際平和協会は1947年から、同志も次第に増え、大阪、京都、郡山には支部が設立された。郡山支部では、雑誌「平和」の刊行を見た。本部でもこれにまけてはならじと、横田喜三郎博士や今中次麿氏らを聘して講演会を催したり、座談会を開いたりして、その筆記を誌上に載せた。

 1948年、米国では、ルクセンブルグで開かれる第二会世界連邦会議に提出するため、シカゴ大学総長のハッチンス博士らによる世界憲法の草案が稿脱した。国際平和協会は機関誌「世界国家」でいち早くこれを取り上げ、第2巻7号をその全文で特集した。同時にハッチンス博士の承諾を得て、日本版を刊行した。このことを東洋経済新報が詳しく紹介するなど、世界連邦運動は漸く日本の一部の識者の注目を惹くようになった。

 世界連邦運動の方も各地に広がっていった。京都府綾部市が世界連邦宣言をしたのを皮切りに数年の間に数百の自治体による宣言が相次いだ。自治体の宣言を後押ししたのは世界連邦運動の支部で、その教育宣伝を一手に引き受けたのは本部の小塩完次だった。現在の世界連邦運動にはいくつかの系統がある。まずはキリスト教。賀川豊彦が旗を振った影響は大きかった。次は宗教法人大本である。二代目教祖の出口王仁三郎が国境なき世界を説いたためである。綾部市が真っ先に世界連邦宣言をした背景には本社を綾部市に置く繊維会社グンゼがキリスト教精神で創業したことと大本が伝道の本拠を置いていた影響は決して小さくないはずだ。

 もう一つの系統は、湯川秀樹博士。ノーベル物理学賞を受賞する前年に渡米し、アインシュタインと出会い、湯川は直ちに世界連邦運動に加わる。湯川は国際的な運動で活躍し、第5代会長を務めるが、妻の湯川スミは京都を中心に近畿、山陽地方でその影響力を強め、特に婦人部の活動のリーダーとなった。

 また1951年末、終戦前後より世界はひとつを提唱していた平凡社の下中弥三郎が同盟に迎えられ、同盟の財政に力強い援軍となった。



 









広島アジア会議

 賀川の世界連邦運動のピークは1952年、広島で開催した世界連邦アジア大会前後であろうと想像している。ロンドン訪問中の賀川にロイド・ボア会長が「ぜひ広島で平和会議を開催するべきだ」と要請したことに日本が応えたもので、まだ英国統治下にあったマレーシアから、同国の初代首相となるラーマンら、アジア各国から影響力のある政治家や社会運動家が参加したことは忘れてはならない。被爆地、広島が世界平和の巡礼地になった瞬間である。1955年、インドネシアのバンドンで開催されたアジア・アフリカ会議は世界連邦運動の広島アジア会議の精神を引き継いだものだと信じている。

 こうして運動はいよいよ軌道に乗り、ゆるぎない運動としての基礎が固められた。各地の支部は拡大され、同志の数も著しく増加した。

 しかし、国際情勢の機運はアジアでの平和の動きとは逆行するものだった。米ソ対立が深まり、朝鮮戦争、ベトナム戦争と東西冷戦の時代に突入した。世界各地で広がっていた世界連邦運動は急速に下火となり、国内でも1960年に旗振り役の賀川豊彦が昇天するなど関係者の高齢化と逝去が相次いだことは残念なことであった。

 世界連邦運動の必要性が再認識されるようになったのは、たぶん2001年の9・11以降のことではないかと思う。宗教を中心とした地域紛争が各地で再燃し、地球規模で国境のあり方が見直されている。特に環境問題の解決には各国の協力が不可欠な時代になっており、国境の垣根を越えた発想が今こそ問われているのだと痛感している。

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