まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

読者より

2008-08-31 16:37:54 | Weblog


突然の訪問だった。持参したのは分厚い初稿からの拙章の複写だった。
訪問者は言葉少なかったが、恐縮したのは筆者の方だった。
記すのも手前味噌だが、「吾が意を共感する・・」とのことだった。

再訪にはコメントの寄稿だった。
今度は筆者が、゛吾が意を得たり゛の心境だった。

さて、どう行動したらよいか・・、突破するには・・・、言葉を交わした。



以下は読者の寄稿をご紹介いたします

《教育について》

 私個人は戦後教育として官制学歴を得たが、人格の形成は家族によるところ大であった。当時は大家族であり、小学校低学年のころより、明治生まれの祖父毋に厳しく躾けられた。庭掃除にあたっては、『舌で舐めたように掃け』としかられ、朝から晩まで、畑仕事(雑草の除去、鍬入れ、種まき、収穫等)、掃除(家、庭、池、煙突、豚小屋等)、風呂焚き、便所の汲取、薪割り、砂利道への200メートルにわたる水まき、家畜への餌作り等の手伝いに追われていた。まるで、おしん並みで、とにかくつらかった。

だが、広い畑を耕し終えた時、あるいは何百本もの薪を作り終えた時の達成感は今でも鮮明に思い起こすことができるし、なにより土の感触、植物の心地よい匂い、麦畑をわたる風の涼しさの体感は貴重なクオリア(質感)として脳内に鮮明に定着している。


北京にて 1989

 娘の子育てに際しては、自己の経験を追体験させたい思いが強く、農村部への転居を考えたが、諸事情がこれを許さなかった。そこで、可能な限り自然に近い環境に置いてやろうと判断し、学校を選定した。土埃をあげながら、園児服を泥まみれにして裸足で遊び回る幼稚園、教室の窓側に鶏小屋と小さな畑を構え、飼育と収穫の喜びを体感させ、菊を育て土の感触を学ばせる小学校、勉学と掃除を等価値とし、全人教育を押し進める自然環境に恵まれた高校である。

今、娘は高校生であるが、つい最近まで、冷暖房が整備されておらず、時には室内温度が40度近くに達した事もあったようである。今でも、教室内にゴキブリ、クモが乱入し、室外ではヤブ蚊にさされ、プールは鬱蒼とした樹木の落ち葉で埋め尽くされ、水泳部員による掃除が大変と聞く。生徒にとっては災難かもしれないが、同様の幼児体験をもつ私としては、思わずニヤリとしてしまう。

生徒が何十年後に再会した時、話題になるのは、携帯やメールのやり取りではなく、これらの自然との接触の場面に違いない。

 ここで、少し風呂敷を広げ、多少無理があると感じつつも、教育の本質を考えてみたい。
やはり人間は自然の一部であり、科学技術の進歩により享受される利便、快適とも思える人工の空間を体感したとしても、自然界からみれば、あくまで人間が勝手に作り出した仮想の世界の出来事であり、永く記憶に定着することは無いと思われる。人工の教育環境と、人工の教育理念のみで、教育が成り立つとは思えない。

自然界の森羅万象と多様性より学び取る要素は無限である。自然は人間に向かって傲慢ではなく、嘘もつかない。枝を切られても、黙々として枝を再生する。殺された虫は復讐しない。
 
明治以降、教育のありようが混迷の度を深め、筆者が主張する小学の重要性が増すと認識するが、忍耐、謙虚を学び取る対象は自然であるべきと思われる。
 明治以降の教育の衰退は、西欧の科学万能主義を模倣した結果として、都市化による自然世界の喪失、仮想世界の増殖と無縁ではなかろう。


《下座視と俯瞰視》
 下座視とは、弱者を含めた現場観察(現場主義)に近い物の見方と定義できそうである。確かな下座視があって、正しい俯瞰視が可能になるのだろう。下座視不在の俯瞰視は人災を招くばかりである。

嘗て、陸軍参謀が机上演習による判断ミスにより、幾多の精鋭(戦争時では弱者)を戦闘以外で損失させた事実、また高級官僚の主導で日本の豊かな山林に、杉、檜を無造作に植林させ、人間介入に弱い森林の破壊を招いた事、海岸や河川の護岸工事で繊細な自然の生態系を破壊したことなどが、その典型ではないか。

私の学生時代で一番印象に残る授業は、宮脇 昭教授による『潜在自然植生』の講義であった。『潜在自然植生:植物生態学上の概念で、一切の人間の干渉を停止したと仮定したとき、現状の立地気候が支持し得る植生のこと。』
宮脇先生は、自ら日本全国を行脚し、森に分け入り、跪いて土壌を採取し、その土地が有史以来育んできた自然植生を分析し、日本全国の潜在自然植生の分布を、『日本植生誌全十巻』としてまとめあげた。この業績こそ、確かな下座視に基づく正しい俯瞰視の好例ではなかろうか。

下座視と俯瞰視を共有させる教育の実現に向け、教育の本質より見直しが為されない限り、政治家、官僚の腐敗が消える筈もなく、観心則を弁えた国民によるリーダの選出も期待できない。


《地位、財への飽くなき追求》

 私は一介のサラリーマンとして、成人以降の人生の大半を過ごしてきたが、仕事中心主義で食い扶持稼ぎに終止するのみであった。生き様を少しでも変えたいとの思いで早期退職し、組織のしがらみより解放される道を選択した。しかし、家庭の維持のためには、他者と無縁でいられる筈もなく、時折、仕事を提供してもらい、現在に至っている。

多少、不自由ではあるものの、地位、名誉、組織と無縁の自由時間を堪能もしている。家内とは折り合っていないが、肩書きへの執着もなく、不要な財を得る意欲も無い。地位、財が無上の喜びを与えてくれる訳ではない。世は飽食の時代であるが、自然界の動物、昆虫達はどうなのか? メタボに悩み、減量目的のダンスやストレッチでもしているのだろうか?



戦後間もなき私の幼少期では、まだまだ食料事情は劣悪であって、空腹は常であったが、貧相であっても母親手作りの焼きパンの味は今でも忘れられない。午後のお茶時は、紅茶に菓子ケーキ類では無論なく、常に自家製の日本茶と白菜の漬け物であった。中学校や大学時代の運動部合宿でしごかれた後に飲む鉄管ビール(水道)の味も、ありありと思い出せる。

乾燥したサバンナを何十キロも横断し、限られたオアシスの水にありついた時、象が感じる水の味わいに少しばかり近いのだろう。衣食足りて礼節を知るとの教えに背き、なぜ人間の欲望には際限がないのか?

不自由の中にこそ、無限の自由があり、無そのものは、無限の広がりを見せる。
無と言えば、小津安二郎の墓碑銘は『無』である。何を持って無を選択したかは定かでないが、小津作品のほとんどは、ストーリが説明的ではなく、役者は演技をせず、台詞は『あー、そうかね』など、家庭内に起こり得る何の変哲も無い出来事の連続で終わる。

観客は、何も説明されないため、作品にどう対峙してよいか動揺するが、何回も鑑賞する過程で、自己の人生経験と照らし合わせ自分なりの解釈を作りだす事となる。その解釈は鑑賞者単位に無限の広がり見せる。

 人間は、一度動植物の健気な生き方を学習する必要があるのではなかろうか?
生き延びるに最低限の所要量を把握し、自然の脅威に対する強靭な生命力、耐え忍ぶ耐性をどうしたら持ち得るかを。


《おわりに》

 灯台下暗しではありませんが、私の所属する会社のある関係者に、ブログ『まほろばの泉』を紹介したところ、すでに孫文の生き様を独学し、人生の糧としており、早速ブログを精読させていただくとのメールが返信されました。著者の理念の波は、ブログや縁を通して、徐々にではあっても確実に伝わり続けるでしょう。その波が、個人より伝播し、大きな社会への対岸へと辿り着くことを願ってやみません。


                            以上
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側近が語る孫文の「天下為公」

2008-08-30 13:30:32 | Weblog



中華民族から国父と仰がれている孫文が好んで揮毫した「天下、公に為す」、それは中華民族への訓語であり覚醒を促すものである。
「衣食足りて礼節を知る」とはあるが、当時の中国は英仏をはじめとする横暴なる干渉に唯々諾々と応じざるを得ない満州族(清朝)の衰退は、香港割譲や治外法権がまかり通る居留地、あるいは不平等条約など国権治世が風前の灯となっていた。

人々は衣食も足りず、悲惨と形容するくらい混沌とした状況にあった。それは易旗革命にある大陸の共生文化圏にある異民族とは異なり、白い色をした人間たちによる種の改良を含む、今までに味わったことが無いような危険な状態だった。

我国も同様な危機に直面した。
よく笑い話であるが、「近頃の若者は茶髪が好きで、色付きアイコンタクトまでしているが、日露戦争に負けていれば、今頃、爺さん婆さんまで金髪でマナコはブルーだ・・・」

昨今のチベットや新疆ウイグルの問題は、漢族との軋轢であり、漢族は常に大陸の中心にあるべき支配族であるという考えから起きる悶着である。
孫文とて、韃靼を駆逐して満州族を万里の長城以北に追い払う、これが辛亥革命の誓詞である。モンゴル族の元、満州族の清、みな北からやってきた。

「孫文は万里の長城以北は吾、関せず」とロシア革命家ゲルショニに伝え、ロシア革命の協力を断っている。

其の満州問題について桂太郎と東京駅の喫煙室で会談した折、「日本はこのまま人口が増えたら生きる道は何処に在るでしょう」と桂に問うている。
そしてこう続けた、「満州は日本の手でパラダイスを築いて欲しい。でもシャッポはシナ人だ。そして日本はロシアの南下を抑えて欲しい。いずれ許せるなら国境を撤廃して協力し、シナと日本が連携してアジアを興そう」、と経綸を語っている。

それが証拠に、孫文は其の約束を守るため、側近、山田純三郎、丁仁傑、蒋介石の三名を満州に派遣、しかも蒋介石は石岡という日本名で数回潜入して軍閥懐柔工作している。
顔を真っ赤にして「騙されました」と詫びる蒋介石の真摯な態度に打たれた、秋山真之、犬塚信太郎は「こんど何かあったら援助しよう」と応じている。



あの袁世凱に宛てた「二十一か条」の作成に関わったメンバーであり、秋山はその起草者といわれ、犬塚と山田は日本側で捺印している。

其の日中連携した辛亥革命だが、清朝が倒れとき孫文はハワイに滞在していた。
しかし成就したときの宣言文には満蒙も勢力圏に入っていたため、孫文は裏切ったという話が流れた。側近や山田は、「それは孫文の真意ではない、権を獲た人間の高揚した宣言であろう」と述べている。

「公」に戻るが、相対するのは「私」である。
佐藤慎一郎氏は、「私」は稲の「禾」を「ム」(囲む)、その囲んだもの「ム」を「ハ」(分ける)のが「公」と解説している。
つまり徴収した税を「私」することなく、「公」分配することが、゛おおやけ゛の意である。そしてその行動の要は、「公私の間」にあるという。

孫文の逸話だが、頭山満の隣家(かいづま邸)に匿われていた頃、官警の監視は厳しく、或る時、孫文の私物を探索したが柳コウリが一つだけだった。金目のものか重要書類があろうかと想像したが、本で埋め尽くされていた。

側近の山田純三郎は「そもそも孫さんは金に触れなかった。上海の我が家は革命本部のようだった。全世界の華僑から送られてくる資金や武器は我が家から乳母車や荷車で運んでいた」

側近として唯一臨終に立ち会った純三郎は遺言について語っている。
「慶玲さんに頼まれて遺言を見た。国民党と奥さんに宛てた二通あった。奥さんには、
゛上海の家を遺す ゛とあった。今まで泣きっ面していた重臣達は大笑いした。
「あんな多くの抵当に入った家を貰ったって・・」ということだった。




その遺言だが、゛奥さんに抱えられて署名した゛といっているが、そんな状態ではなかった。ただ慶玲さんと二人で臨終に立ち会った後、王精衛が「領袖が亡くなった。遺言を残さなければ・・」と起草して息子の孫化に「孫文」と書かせたものだ。
息子は「親爺の字は癖があって・・」と言いながら記していた。
二通だと思ったら翌日は三通になっていた。「ソビエト革命同志諸君・・」と始まるアノ遺書だ。そもそも、三通とも偽者だ。孫さんの遺書は「天下は公に為す」そして最後に揮毫した「亜細亜復興会」、そして最後の演説は神戸女子学校で行なった「大アジア・・」への思いだ。それしかない。


孫さんは素朴で,純情だった。僕はいつも叱られていた。そして良いアイディアが浮かぶと直ぐに実行にしようとする。それを孫さんの心変わり、ペテン、騙されたと云われてしまう。女性も好きだった。臨時大総統として北京に行く車中、玄洋社の末長節は大声で「孫さん万歳、染丸万歳」と、日の丸で孫さんを叩いて、孫文もそれに応じている。
染丸とは孫文が馴染みの女性である。
孫さんは革命の次は女性が好きだった、と山田は懐かしそうに回顧する。

頭山さんも犬養さんも、後藤さんも秋山さんも、また叔父良政、純三郎に共通していることは、「モノに着せず」だ。名利に囚われないことだ。それが異民族孫文の信頼関係の元になるものだ。
このような人物によって中国の近代化の魁となったのだ。
その心は、亜細亜の連帯に欠くことのできない人物像なのだ。
歴史問題、反日の軋轢、それを忘れた両国の人たちによって起される一過性の問題だ。
彼らとて「公私の間」に迷ったはずだ。家族、国益、しかしそれを超えた亜細亜安寧の経綸を唱えた孫文は、その迷いを振り払うきっかけになった。

「天下、公に為す」
孫文的人物の再来希求は民族を超えて湧き上がる、それが歴史の必然だろう



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それは、「RPH」と彫られていた

2008-08-24 08:44:22 | Weblog



東京裁判の教誨師であった花山信勝氏の述懐である。
教誨師は裁判判決から刑の執行までの間、話し相手や家族へ遺書の伝達など、受刑者の身近にいてその思いを聴き取ることもあり、とくに死刑判決を受けた受刑者にとってはかけがえの無い光明のような立場であり、法の執行者からの選任でもある

「誨」は教え導くという意でもあるが、花山氏の場合は、知らなかったことを教え諭すといった側面がある。
とはいっても敗戦責任を負ったといっても彼らはエリートである。
付け加えるが、官制学校歴である一高帝大もいれば、陸大、しかも現在と同様に高点数による選別され、かつ振り分けられた各任職である。

高官だからといっても維新の高官と違って、エリートゆえに肉体的衝撃を伴わない位置にあって、外国の戦術論を拙速に知力として修めたために軍政、ここでは国民に戦争の意味を説き、「相」の意味をも含んだ国家戦略、将来の推考に欠けた立身出世型の知識エリートが巾を利かせていた。

たとえば明治以降の学制に忌諱された人間学的要素、つまり全て知識の合理のみを求めると、戦術には長けても、国家戦略上に欠くことのできない大局を俯瞰すべき問題が、部分の小局の整合性のみに合理を見るという、分派、分裂が顕著になり、プロデュースと責任が乏しくなる。

明治軍閥の流れか、陸海の調和も無く、また統帥権問題に端を発した政治権力、ここでは議会の形骸化が外地における事件の現状追認という、まるで無政府状態化の様な軍統制が蔓延り、明治の残滓とも思えるエリート促成、偏った武士道精神、立身出世と系列主義が国家の方向性を茫洋の淵に追いやったかのようである。

それに国際謀略と国内間諜の動きは、苦々しくも抗す事の出来なかった国維の底流にいた人々を巻き込んで、一層その戦火を拡大させ、止め処も無い泥流に誘い込んでいる。

議会の形骸化と現状追認は、歴史に連綿と続く国際的謀りごとと相まって、軍の戦略を右往左往させ、しかも頑なな威信護持とモノノフの意地は終局に導くための追い風のようになっていた。

翻って、昔は軍隊いま役人と言われるような現状の中で、政治が公務員の不祥事や政策の誤り、あるいは不作為について手を拱いている姿を見ると、制度がシステム化されている議会において、議員の公僕意識の本となる素朴、真剣、忠恕心がことの外欠落しているのが判る。

とくに大国からの要望書なる「強制的経済要求書」を待ち望むような、あるいは国柄を変容させるようなものに拒否すら出来ない姿勢は、外地事変に徹底拒否できなかった当時の議会と同様な姿を映しているように思えるのは筆者のみだろうか。

そんなとき埒外にいるような国内の武装集団は、あの時と同様に立身出世と食い扶持に陥っていないだろうか・・・
また、彼らは当時の裁判にみる戦時指導者のような威を保てるのだろうか。




敗軍の将はその国柄に随った情緒があった。また責任の取り方があった。
巣鴨プリズンはことのほか静かだった。一部を除いて・・
一部は行儀も悪く、同僚を攻め立て罵詈雑言を発したりしている者もいた。
イベント裁判であったためか、後年は巣鴨アパートと化し、出入り自由で、中には外部で商売をしているものもいた。

花山師はそれを観察しつつ、七人の死刑囚の最後を考えていた。
東條氏は花山師の教誨に「早くそのことを知っていれば・・」と述べている。

http://blog.goo.ne.jp/admin.php?fid=editentry&eid=88f6ba5dcd087f30c75abd81a667ee7a

「RPH」東條氏の入れ歯にはそんな落書きがしてあった。
リメンバー・パール・ハーバー(真珠湾を忘れない)

「悪戯か・・」
死を臨む身には、そんな国と戦争をしたのか・・複雑な思いがよぎった。

彼らの願いは空しい。しかし、゛そんな国゛になってしまいそうな昨今である。

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いま、松下政経塾は

2008-08-21 16:47:52 | Weblog

神奈川県茅ヶ崎市に松下政経塾がある。松下電器の創立者であった松下幸之助氏が私財を投じて作った私塾である。安岡正篤氏の促しがあったと聴くが、塾内にはその影響が漂っている。

塾は二年制で一回生6人の有為な塾生の授業である。
前回は唐学古典の「中庸」で、学生が各々その標題を読み、自説を発表した。今回は「孟子」、しかも松陰の読み解く孟子論について市場に発刊されている書籍を読み解き、述べる授業だった。

塾長の古山氏は筆者の地元出身で小会(郷学研修会)に参加していた関係である。そこには実質的に社会党崩壊の端緒を作った渋谷修、安倍内閣の官房副長官下村氏も若い頃から参加していた。講頭は安岡正明氏、顧問は安岡正篤、卜部侍従、代表は筆者が務めたが、内外事情や隣国の古典、あるいは国学と多岐にわたり、老若男女が多く参集していた。

正明氏は「このような学問形態が父のいう郷学の姿です」と、筆者が御尊父から督励されて作った郷学への期待を述べていた。
ただ、留意しなければならない問題もあった。それは本質から逸れてしまう危惧を含んでいた。古山氏は松下政経塾出身、下村氏は早稲田雄弁会、また小会そのものが一時は政界本流の登竜門のように擬せられた安岡氏との深い縁のある処である。

いま政界にもブランドがある。
共産党は宮本顕治氏のお好みで東大法学部出身者が歴代党首、公明党は支持宗教団体の認知、社会党は大手の労組、民主党は労組と留学組、みな出生出自は雑多でも経歴出自?が巾を利かせ、総じて東大法学部が主流だが、一派を形成しているのが松下政経塾と早稲田雄弁会など、ちなみにポスターに刷り込まれている肩書きには必ずそれが載っている。

当初はその手の出身者の印象として、゛騒がしい゛゛落ち着きのない゛口がよく回る゛つまり「学」ではなく選挙のための「術」と、金屏風と想像していた。それは大方の大衆の印象でもあった。また、元気で若ければいいとばかり、スニーカーを履いて駅前演説、自転車行脚と、なんとも政治の、゛そもそも゛を錯覚した群れの製造元ではないかとも考えていた。

古山塾長の過去体験もそれに倣わざるを得ない浮俗の選挙事情もあった。しかし塾生に対する姿勢はそれと異なるものだった。
和室の壁に向かって座禅を組む、そして見台を前に正座して聴講する塾生、思いもよらぬ光景だった。しかも彼らの説に対する塾長の講評は暖かくも辛辣なものである。厳しさの混じった期待でもあるようだ。

基本は規則正しい生活と古典の活学、そして外部に出てのオーラルイヤー、つまり内外有識者との口と耳、そして感覚を使った応答辞令の修学である。
誰もが想像するだろう、選挙、政治、内外情勢の分析はことさら重要視するものでなく、それらに真剣に対峙する時の心構えと「本」の涵養にあった。

毎回筆者も「中庸」なり「孟子」なりで講評を請われるが、彼らの稚拙さは伺えるが、身を乗り出して聴く素朴で純情な姿勢は、何よりも大切な「本」の涵養に必要な部分を残している。

そして筆者はいつも彼らに語ることがある。
「異なることを恐れない人物になるべき学問をして下さい。そして全体の一部分として譲る大切さを学び、社会の連帯と調和を心がけてください」

古山氏の観照と模索、そして忍耐は続いている。

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「黒石よされ」は「世去れ」とも聞くが・・

2008-08-20 10:29:58 | Weblog


弘前から弘南鉄道で30分、終点は黒石である。
背後に八甲田山、面前には津軽平野を越えて岩木山を臨む小市である。

八甲田までの道すじにランプの湯で有名になった青荷温泉があり、近郊は温泉銀座と呼ばれるくらい多くの大小温泉をかかえている。
数年前もある外国高官を誘って源泉に浸ったことがあるが、心身の潤いには優しさのある温泉である。また紅葉があでやかで、その名も「中野のモミジ」として有名である。

その黒石に日本の三大流し踊り「よされ」がある。阿波踊り、郡上踊り、そして黒石よされ踊りである。掛け声は「エッチャホー、エッチャホー」と各連に分かれて街中を流すのである。起源は、男女の恋の掛け合い歌だが、盛んになったのは約二百年前(天明)の今で言う官制の「郷おこし」で、黒石藩の城下に人を集める為に家老が智恵を働かせたのが今に続いているのである。

今回は津軽歴史探訪と先覚者の墓参をかねた旅だったが、丁度、゛よされ゛にあたり、黒石の旧友と祭りと地酒を悦しんだ次第。

なぜ、江戸っ子が黒石に・・と毎度聴かれるが、じつは妙な縁からの回避行動が始まりだった。

それは師の縁をたどった孫文と明治の日本人、そしてアジアの意志の確認のために弘前出身の山田良政、純三郎兄弟の生地の環境、教育、を知りたくて毎年弘前に訪れ縁ある方々を訪ね歩いていた。しかし京都風の応答はどうも江戸っ子には馴染めなかった。弘前の人もそう見えたのだろう。

数年後、毎年の訪問であらかた表面的だったが弘前を知り、ねんごろに語る相手も増え、また東京からの同行者も多くなった。
あるときは中央官庁の各省幹部と通信社、世情研究家を強引に誘い、弘前市の幹部と県を越して直接「押しかけシンポ」を行なったことがある。理由は全国津々浦々にある人々の生活観ある歴史アーカイブスの提唱だった。また東京化への危惧だった。

その内、青森放送のニュースや地元紙の取材などが重なり、当時、盛況だった歓楽街に一献傾けに行くと、「そういえば朝のニュースで・・」と、江戸の色話などで煙に巻くことも出来ず、タクシーで30分の黒石に逃避する羽目となった。

どこにでも人の縁はあるもので、弘前初訪問で城内の桜を案内していただいた縁を辿ったものだが、弘前とは趣の異なる好誼が続いている。

今回は「よされ」との遭遇だが、どこかのパンフレットに「世去れ」と書いてあった。たしかに雪囲いの路がつづくこみせ通りの軒には子供達が描いた武者絵、美人絵の灯篭提灯が吊るされている。どこか幽玄な雰囲気のなか、流し踊りが終わって閑散とした道筋を小太鼓と笛の一群が風の如く通り過ぎる。






「世去れ」といえばその雰囲気が醸し出される。あの津軽じょんがらの「じょんがら」も黒石の上河原に入水した悲話から伝承されたものである。

たしかに冬の黒石はその風情が滲み出ている。
背丈に積もった雪のこみせ通り、秘湯と逸話、よされ、じょんがら、ねぶた、しかも酔い話で盛り上がったのは、女性が元気で後家が多い、と地元の名士は説く。18000と20000、合計38000 何年も変化のない人口比率である。もちろん多いのは女性のである。加えて名士は説く「美人が多い」。

そこで小生江戸っ子は混ぜ返した。「元気な後家で美人が多い? 銘酒と温泉と山の幸、男は先に逝く、外から人が集まりそうなものだが・・」

「それも困る、文句言いながらでもこのままでいい・・」

「世去れ」の郷の入郷証は確かに貴重なものだ。


津軽 つづく



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