突然の訪問だった。持参したのは分厚い初稿からの拙章の複写だった。
訪問者は言葉少なかったが、恐縮したのは筆者の方だった。
記すのも手前味噌だが、「吾が意を共感する・・」とのことだった。
再訪にはコメントの寄稿だった。
今度は筆者が、゛吾が意を得たり゛の心境だった。
さて、どう行動したらよいか・・、突破するには・・・、言葉を交わした。
以下は読者の寄稿をご紹介いたします
《教育について》
私個人は戦後教育として官制学歴を得たが、人格の形成は家族によるところ大であった。当時は大家族であり、小学校低学年のころより、明治生まれの祖父毋に厳しく躾けられた。庭掃除にあたっては、『舌で舐めたように掃け』としかられ、朝から晩まで、畑仕事(雑草の除去、鍬入れ、種まき、収穫等)、掃除(家、庭、池、煙突、豚小屋等)、風呂焚き、便所の汲取、薪割り、砂利道への200メートルにわたる水まき、家畜への餌作り等の手伝いに追われていた。まるで、おしん並みで、とにかくつらかった。
だが、広い畑を耕し終えた時、あるいは何百本もの薪を作り終えた時の達成感は今でも鮮明に思い起こすことができるし、なにより土の感触、植物の心地よい匂い、麦畑をわたる風の涼しさの体感は貴重なクオリア(質感)として脳内に鮮明に定着している。
北京にて 1989
娘の子育てに際しては、自己の経験を追体験させたい思いが強く、農村部への転居を考えたが、諸事情がこれを許さなかった。そこで、可能な限り自然に近い環境に置いてやろうと判断し、学校を選定した。土埃をあげながら、園児服を泥まみれにして裸足で遊び回る幼稚園、教室の窓側に鶏小屋と小さな畑を構え、飼育と収穫の喜びを体感させ、菊を育て土の感触を学ばせる小学校、勉学と掃除を等価値とし、全人教育を押し進める自然環境に恵まれた高校である。
今、娘は高校生であるが、つい最近まで、冷暖房が整備されておらず、時には室内温度が40度近くに達した事もあったようである。今でも、教室内にゴキブリ、クモが乱入し、室外ではヤブ蚊にさされ、プールは鬱蒼とした樹木の落ち葉で埋め尽くされ、水泳部員による掃除が大変と聞く。生徒にとっては災難かもしれないが、同様の幼児体験をもつ私としては、思わずニヤリとしてしまう。
生徒が何十年後に再会した時、話題になるのは、携帯やメールのやり取りではなく、これらの自然との接触の場面に違いない。
ここで、少し風呂敷を広げ、多少無理があると感じつつも、教育の本質を考えてみたい。
やはり人間は自然の一部であり、科学技術の進歩により享受される利便、快適とも思える人工の空間を体感したとしても、自然界からみれば、あくまで人間が勝手に作り出した仮想の世界の出来事であり、永く記憶に定着することは無いと思われる。人工の教育環境と、人工の教育理念のみで、教育が成り立つとは思えない。
自然界の森羅万象と多様性より学び取る要素は無限である。自然は人間に向かって傲慢ではなく、嘘もつかない。枝を切られても、黙々として枝を再生する。殺された虫は復讐しない。
明治以降、教育のありようが混迷の度を深め、筆者が主張する小学の重要性が増すと認識するが、忍耐、謙虚を学び取る対象は自然であるべきと思われる。
明治以降の教育の衰退は、西欧の科学万能主義を模倣した結果として、都市化による自然世界の喪失、仮想世界の増殖と無縁ではなかろう。
《下座視と俯瞰視》
下座視とは、弱者を含めた現場観察(現場主義)に近い物の見方と定義できそうである。確かな下座視があって、正しい俯瞰視が可能になるのだろう。下座視不在の俯瞰視は人災を招くばかりである。
嘗て、陸軍参謀が机上演習による判断ミスにより、幾多の精鋭(戦争時では弱者)を戦闘以外で損失させた事実、また高級官僚の主導で日本の豊かな山林に、杉、檜を無造作に植林させ、人間介入に弱い森林の破壊を招いた事、海岸や河川の護岸工事で繊細な自然の生態系を破壊したことなどが、その典型ではないか。
私の学生時代で一番印象に残る授業は、宮脇 昭教授による『潜在自然植生』の講義であった。『潜在自然植生:植物生態学上の概念で、一切の人間の干渉を停止したと仮定したとき、現状の立地気候が支持し得る植生のこと。』
宮脇先生は、自ら日本全国を行脚し、森に分け入り、跪いて土壌を採取し、その土地が有史以来育んできた自然植生を分析し、日本全国の潜在自然植生の分布を、『日本植生誌全十巻』としてまとめあげた。この業績こそ、確かな下座視に基づく正しい俯瞰視の好例ではなかろうか。
下座視と俯瞰視を共有させる教育の実現に向け、教育の本質より見直しが為されない限り、政治家、官僚の腐敗が消える筈もなく、観心則を弁えた国民によるリーダの選出も期待できない。
《地位、財への飽くなき追求》
私は一介のサラリーマンとして、成人以降の人生の大半を過ごしてきたが、仕事中心主義で食い扶持稼ぎに終止するのみであった。生き様を少しでも変えたいとの思いで早期退職し、組織のしがらみより解放される道を選択した。しかし、家庭の維持のためには、他者と無縁でいられる筈もなく、時折、仕事を提供してもらい、現在に至っている。
多少、不自由ではあるものの、地位、名誉、組織と無縁の自由時間を堪能もしている。家内とは折り合っていないが、肩書きへの執着もなく、不要な財を得る意欲も無い。地位、財が無上の喜びを与えてくれる訳ではない。世は飽食の時代であるが、自然界の動物、昆虫達はどうなのか? メタボに悩み、減量目的のダンスやストレッチでもしているのだろうか?
戦後間もなき私の幼少期では、まだまだ食料事情は劣悪であって、空腹は常であったが、貧相であっても母親手作りの焼きパンの味は今でも忘れられない。午後のお茶時は、紅茶に菓子ケーキ類では無論なく、常に自家製の日本茶と白菜の漬け物であった。中学校や大学時代の運動部合宿でしごかれた後に飲む鉄管ビール(水道)の味も、ありありと思い出せる。
乾燥したサバンナを何十キロも横断し、限られたオアシスの水にありついた時、象が感じる水の味わいに少しばかり近いのだろう。衣食足りて礼節を知るとの教えに背き、なぜ人間の欲望には際限がないのか?
不自由の中にこそ、無限の自由があり、無そのものは、無限の広がりを見せる。
無と言えば、小津安二郎の墓碑銘は『無』である。何を持って無を選択したかは定かでないが、小津作品のほとんどは、ストーリが説明的ではなく、役者は演技をせず、台詞は『あー、そうかね』など、家庭内に起こり得る何の変哲も無い出来事の連続で終わる。
観客は、何も説明されないため、作品にどう対峙してよいか動揺するが、何回も鑑賞する過程で、自己の人生経験と照らし合わせ自分なりの解釈を作りだす事となる。その解釈は鑑賞者単位に無限の広がり見せる。
人間は、一度動植物の健気な生き方を学習する必要があるのではなかろうか?
生き延びるに最低限の所要量を把握し、自然の脅威に対する強靭な生命力、耐え忍ぶ耐性をどうしたら持ち得るかを。
《おわりに》
灯台下暗しではありませんが、私の所属する会社のある関係者に、ブログ『まほろばの泉』を紹介したところ、すでに孫文の生き様を独学し、人生の糧としており、早速ブログを精読させていただくとのメールが返信されました。著者の理念の波は、ブログや縁を通して、徐々にではあっても確実に伝わり続けるでしょう。その波が、個人より伝播し、大きな社会への対岸へと辿り着くことを願ってやみません。
以上