上善は水の如し 埼玉県名栗湖
「昇官発財」とは隣国の官吏のならいだが、官位が昇れば生活は安定し、俸給は担保され、退職後は天下りで民の労を貪る、まさに内なる賊だ。
「外の賊 破るは易し 内の賊 破るは難し」外敵は他国、「内」は国内や己の欲心のことだが、これが甚だしくなっている。
歴史上、多くの功績をあげた人物でも晩年を汚す者もいるが、人の愛顧として残像し語り継がれる人物もいる。
日露戦争では陸軍大臣で将来の宰相として謳われた児玉源太郎は、二階級降格して満州派遣軍総参謀長として乃木を援け、難攻不落の旅順陥落を智略した。人を観る眼も秀逸だった。
官界では変わり者の医官後藤新平を台湾民生長官に抜擢した。その縁はコレラが蔓延していた満州からの帰還兵二十万人の検疫を行い、国内感染を防いだことだ。
つまり、専門は医官だが台湾の民生向上にも役立つ人物として後藤をみたのだ。
左後藤と児玉
後藤の人物について孫文も愛顧している
以下は「天下為公」寳田時雄著より抜粋
≪後藤の胆力≫
山田良政は伯父、菊地九郎との縁を唯一の頼りに台湾民生長官であった後藤新平を訪ねた。孫文と山田は初対面にもかかわらず、こう切り出した。
「武器とお金を用立てて欲しい」
革命事情と人物の至誠を察知した後藤はとやかく言わなかった。
「借款というのは信用ある国と国が何なにを抵当としたうえで幾ら借りて、利子は幾らで、何年で返すということだろう。きみたち青年の志すところは正しく、意気壮とするといっても誰も知りはしない。また清朝を倒すといったっていつ倒れることやらわからない」
「私が君たちの革命を助けるのは、君たちの考えが正しいからだ。しかしそれが成功するかしないかは将来のことなんだ。あなたのような若僧にどこの国に金を貸す馬鹿があるか。それは無理ですよ」
「しかしなぁ。金が無かったら革命はできんだろう。武器のほうは児玉将軍が用意しようといっている。しかし資金のほうだが、事は革命だ。返済の保証もなければ革命成就の保証すらないものに金は貸せない」
「どうしてもというなら対岸の厦門(アモイ)に台湾銀行の支店がある。そこには2、300万の銀貨がある。革命なら奪い取ったらいいだろう。わしはしらんよ」
靴で床をトントンと踏んでいる。銀行の地下室に銀貨はある、という意味である。
物わかりがいいと言おうか、繊細さと図太さを合わせ持ったような後藤の姿は、官吏を逸脱するというか、常軌を超越した人物である。また、人間の付属価値である地位や名誉、あるいは革命成功の不可にかかわらず、しかも正邪を表裏にもつ人間の欲望を恬淡な意識で読み取れる人物でもある。
虚実を織り混ぜ、大河の濁流に現存する民族が希求しつつも、だからこそ、かすかではあるが読み取れる真の「人情」を孫文はみたのである。植民地として抑圧されたアジアの民衆が光明として仰いだ我が国の明治維新は、技術、知識を得る大前提としての「人間」の育成であったことを孫文は認めている。
それは異なる民族の文化伝統に普遍な精神で受容できる人間の養成こそ再びアジアを興す礎となると考え、そのような人格による国の経営こそ孫文の唱えた“西洋の覇道”に優越する“東洋の王道”であった。
晩年、孫文は純三郎にむかって
「後藤さんのような真の日本人がいなくなった」と、幾度となく話している。
それは錯覚した知識や、語るだけの見識を越え、万物の「用」を活かす胆力の発揮を、真の人間力の効用として、またそれを日本人に認めていた孫文の愛顧でした。
左山田純三郎と孫文
兄良政頌徳碑 谷中全生庵
本文
異民族に普遍な信頼に足る人物を登用した児玉だが、後藤も似たような人物観がある。満鉄総裁時代山田という社員が孫文の革命に奔走していることを知った後藤は山田に問うた。「満鉄社員でシナの革命に協力しているものは幾人いる」『私だけかと』。叱られると思った山田だが、その後給料は倍になった。そして兄良政とともに孫文に随い、後に孫文の最側近となり,臨終時、妻宋慶鈴とともに末期を看取った唯一の日本人である。また後継総統を尋ねられ蒋介石を推したのも山田である。
現在は中国・台湾でも国父として敬せられる孫文の中国近代化の魁は、このような日本人の協力があって今となっている。その一端を為したのは、児玉や後藤の胆力ある人物眼であったのは云うまでもない。
旅順遠景
秋山兄弟の兄好古も、゛くだること゛を知っている。当時の感覚だが、あろうことか郷里の小学校の校長先生に就任している。
日露戦争の分岐点は黒構台の戦闘だった。好古よって近代化された騎馬兵団を率い、圧倒的なロシア軍を押し止めなければ日本軍は総崩れしかねなかった。極寒の地では鉄製銃器に触れば肌か張り付くような状況での戦いである。軍司令立見や機略に富んだ好古がいなければこの分岐点は防げなかったとは後世の戦史家の語るところである。
その好古は東京にのこって勲章をぶら下げ、戦勲を餌にして人生を過ごす気持ちはさらさらなかった。しかも校長職は、゛下った゛職位ではなく、縁あって軍人になり、日露戦役に従軍し、敵とはいえ縁もない若者と戦い、運よく(天佑)勝利した好古ならでこその思いでもあった。
戦友や部下も失くしてしまった。当てがわれた人生ではなく、郷里の童子と戯れ、人物を育てる、それが好古の最良の人生だとしたら、哀も悼(哀悼)も体現した、自然体として到達した人生なのだろう。
弟の智将真之も戦後は神かがったと揶揄それるような風容だった。司令官の東郷も明治神宮参拝時は敗軍の将のようにうつむいて歩いていたという。
秋山真之
それは勲章をねだり飽食に明け暮れた戦勝気分とは異なっていた。真之は「この戦勝はアジアが植民地の頸木から解放され、再び日中相携えてアジアを興す機会だ」と孫文の革命に協力している。もちろん戦闘中の三笠の艦橋でも彼はそれを冷静に描いていた。勝つことは解っていた・・・、戦闘中その後の経綸を考えていた。
「人物」と成るものは、はみな地位や名誉に恬淡である。拘らない、欲しがらない、だから下ることを恥ずかしいとか、名誉が穢されたとは何とも思わない真の教養がある。孫文も「真の日本人」にそれをみたのだろう。
付記すれば、あの維新の功労者西郷も鹿児島に帰郷してからは晴耕雨読の生活だった。あるとき郷の村長選びで村民が右往左往していると、『それならワシがなってもいい』と。驚いたのは村民だ。維新の功労者が村長? 西郷にとっては官位(爵位)や名声などは何の価値もないものだった。
最後に児玉源太郎だが、戦後まもなく亡くなっている。人生は恬淡で洒脱だった。計略は大謀にして計らずだ。
遊里遊びに興を求めたが俗人と違い女色漁りではない。通い路で数人が立ち話していた。児玉は市井の話題に興味があって何かと思って聞き耳を立てた。戦争の話しだ。
「戦争は児玉将軍のお陰で勝ったようにものだ。たいしものだ。」児玉はその屯に首を突き出して『へ~、児玉ってそんなすごいのか?』まさか小づくりで着流しの男が児玉だとは知らない男たちは、とうとうと見てきたような話を繰りかえした。うしろ姿で聴きながら飄々と遊里に向かう児玉の足は軽かった。
東京という糜爛し巷では勲章待ちや、パーティーの挨拶役が黒塗りの車に乗って徘徊している。製造会社なら工場で職人と働いた本田のような経営者も少なくなった。長野の井出代議士は郷里に戻って小塾を設けて青年を教育している。
政界のヒラメ代議士からすれば偏屈な印象のある石破代議士は海自の事故遭遇した漁民の自宅に毎年2月、一人で訪問して焼香している。嘘つくこと、隠すことなく、国家の体裁を当時の責任者としてかなぐり捨てて誠実に対応している。意志に応じた家族や隣人は石破氏の選挙応援で選挙区まで行くようになった。どこか粛軍演説で有名な兵庫出石の斎藤代議士の薫りがする。
斎藤隆夫
翻って御上御用の小団体の幹部は上部団体の席を競い、町会やPTAも兵隊ゴッコの類でヒラメ官吏に迎合したり、仲間内では鼻を膨らましている。まともな学びが乏しいためか、あるいは士農工商の倣いなのか、妙な疑似階級意識が民癖として沁みついている。児玉のように二階級降格してまで国家を守る気概がない。よって国に靖献した戦士に対する哀悼もない。それが群れとなって雑駁な浮俗を闊歩している
倶楽部を冠とするゴルフ、ライオン、ロータリーも奉仕や貢献を謳うが会への帰属意識ならぬ貴族意識も垣間見える、その臭いがする。
それらは仮装の誇りがあるのか、下らない。
まさにクダラナイのだ。
イメージは一部関係サイトより転載させていただきした。