まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

侠客の生ずる時節    「禁ずるところ利を生ず」  其の一 09 7再

2012-12-12 18:12:12 | Weblog

先号では史記に記されている「任侠列伝」を書いた。
また、なぜ侠客は出現し庶民に敬されたのか、その気風を書いた。
そして、いかに権力に忌み嫌われる存在だったのか、昨今の官吏の懐算段事情を例に、面前権力に保護されつつ、狡猾に蝕まれる庶民にとって郷の侠客の存在を考えてみたい。

たしかに、平和な治安を脅かす荒くれ者もいる、また権力にしがみついて義侠を忘れ暴利をむさぼる徒もいる。
しかし、為政者が官吏のコントロールができず、人心が微かになると信頼を置き、あのような気概を持ちたいと憧れる人物、つまり侠客という男気をもった人間を待ち望むようになる。それは体制内革新や維新という名前で変革を唱える人物のグランドが出来上がるということであり、昨今の政治スローガンや橋下大阪市長に代表される姿だ。

ただ、既得権を持つものからはことのほか忌み嫌われる。そして大衆の怖いもの見たさ、様子眺め、覗きなどにさらされる。
まさに、史記にある任侠である。「政治家は人物二流にしかなれない」とは安岡氏の人物観としての洞察だ。
なにも仲間にならずとも、郷である大阪の人々に土壇場の人の処し方を魅せてあげれば全国に隆々として正気が広がるだろう。

学歴と称する官制学校歴の学びや政治家や官吏の都合でのみ、庶民の生活は成り立ってはいない。それらは複雑な要因を以て構成されている国家の一部分を成しているにすぎない。学校の知識で人物は成らないし、尊厳などは護られない。大部分は欲望のコントロール如何だ。困窮しながらも人助けや思いやりは生きている。それこそ郷の任侠であり侠客の出現の芽がある。

そこを育てれば、あえて大声を張り上げずとも、忸怩たる駆け引きをしなくとも、自然に郷は治まる。
「ふんわりとした民情」とはそんな世界の落ち着いた人々のことを指しているのだ。


大内山のあの御方はそのような社会を待ち望んでいるはずだ。

                               (12 12/12稿)






当ブログアーカイブス「昇官発財」を併読参照していただければ、よりご理解が深まるかと

【禁ずるところ利を生ず】   (09 7 稿)

 禁欲から解き放れた終戦直後の生殖行動は、団塊の世代という世代集団を生み出した。
それは人類の本能がなせるエネルギッシュな人種の補充であった。さも傍観的だが、いま考えると少なくも、過剰生産の感がする熱狂でもあった。

 当時、敗戦の惨禍にあって打ちひしがれた日本男子と異なって、女性の体温は37度と平常値より高温であったというデーターがある。生理的には妊娠が容易なコンディションであった。金銭数値では、あの大東亜戦争で消費し、消滅した金額総量が、原爆や空襲も無い現在、人為的とも思える為替変動や積層金利という魔物によって国内から消滅した平成惨禍のなかでも、元気の無いのは団塊中年をはじめとする男子諸君だが、女性軍は総じて活発である。
 また、烈しい女性に引き回される浮俗の流行ごとも、小事に騒がしくなった日本男児の風潮にもなっている。

 一時、濡れ落ち葉と揶揄されるように、はっきりしない、自主性の無いと、女房にまとわり付く亭主像が淑女の口からけたたましく発せられた時期があった。
いや、今も傾向は顕著である。年金分割を前にして離婚が保留され、食い扶持取り分のために伏して待機している状況があると聴く。

 あの時、戦いに負けて男児の権威は吹っ飛び、悲哀さえ抱える敗戦直後の姿は、より強靭な子孫の生産を本能的に願う婦女子に移行したような感がある。
 それが団塊の世代の発生の要因のみに求めるものではないが、問題は、その頃の集中的な誕生が平成の世の大量退職の期に差し掛かっているために起きるさまざまな現象に起因しているのではないかと考えるからである。

 それはまさに人口循環といわれるものではあるが、地球自然の要因と違って、人為的な戦禍の結末が半世紀後に訪れた問題としてクローズアップされている。これは政治政策上の対策では到底解決できないばかりか、人間の欲望のコントロールに多くの命題を示していることでもある。
ともあれ、「ほど」が肝要だろう。











 ひと昔前と違って男60歳、まだまだ欲もあり元気である。それに加えて家計の固定支出の増加と年金問題の不透明さが拍車をかけ、とくに公的機関のお手盛り再雇用確保が喫緊の問題となって浮上している。
キャリアと称されるものたちは監督、規制の権限をフル活用して、お手盛り素餐の確保に忙しいが、一般ノンキャリアにとってはパイを増やさない限り到底、賄えるものではない大量の退職者の数である。
 いままでは外郭団体や再雇用によくある相談員、指導員、検査員などで納まったが、近頃では人事担当も四苦八苦している様子がありありと観える。

 昭和に碩学といわれた御仁の子息で、当時の国税庁に勤務経験のある方が、とある勉強会でこう述べている。

『税と警察のあり方で国家はどのようにも変化する。とくに国民の怨嗟を集めやすい機関は、この事に留意しなければ国家の衰亡招くこと必然である』

中国でも沿岸地域と内陸の経済格差による賃金格差が大きな不満となり、各地で暴動が発生している。そのため政府は農民に納税の免除を内外に向けて発表している。
 このことは納税制度の形骸化であり、富めるものが先に富むという先富政策のよる国策の当然訪れる結果であり、壮大な国つなぎの経過でもある。

 歴史マクロ観はさておき、国家の為政者にとっての税は恣意的なものである。
隣国の俗話に、「昔から役所は南を正面にして建っていた。そして扉はいつも開いている。理屈はあろうが、ともかく金をもってこい」これが、官吏と民衆の関係である。
また、どんな清廉な役人でも7年経てば黄金が降ってくる、とも揶揄している。








こんな国にするつもりはなかった、と




 前記の国税任官時のことだった。それはどこから新税を捻出するか、と若い職員との問答に面白いエピソードである。
話が泥棒と売春婦から徴税できるか、となった。
浮世遊びも侭ならず、四角四面の官製学歴に汲々としてメデタク狡務、いや公務員になった若手官吏は、上司の洒脱な問いに対して、生真面目に脳髄を絞った。
「売春婦の所得に対して必要経費は、布団、避妊具、サクラ紙があり、泥棒のそれは、出刃包丁に逃走用の自転車、足跡のつかない足袋と軍手があるが・・・」
どこからでも税が出るようだが、それも血税で学んだ最高学府の知恵でもある。


 上司は笑いながら設問の意図を話した。
「それは無理な考えだ。泥棒と売春婦の所得は捕捉できない、と言うよりかそれは罰金だ。本来、公序良俗に反するような公に認められない生業については、税は馴染まない。詐欺、背任についても罰金と脱税という一般の納税者と異なる対応がある。何でも税が存在すると思う前提では国家と国民との関係が、単なる怨嗟の対象になってしまうし、民生の助力にはならない。公務の意味すらオボロゲになってしまう」


 話題は飛んで、戦中戦後と活躍して昭和の怪物と称せられた八次一夫氏の洒脱な談に、「三取りに拘るとロクな人間にならない」とある。三取りとは給料取り、年金取り、借金取り、である。三取りは、四角四面で依頼心の強い人情のない人間を作り上げる、ということでる。上司に迎合し社費を冗費したり、計算も立たない人生を狭い枠に閉じ込めたり、金や物で人を量ったりする浮俗な人間が多いことを、氏特有な言い回しで世情を嘆いている。
また、三取りの優劣を男価値の基準に置く女性たちの存在もあるが、公務員までもがこの有様では国家の問題でもあるという危機感からでもある。

以下次号

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