まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

人間考学  君は手を差し出して貰えるか  8 11/20  あの頃も

2022-05-25 16:28:22 | Weblog

孤立無援、国会で粛軍演説を行なった   斉藤隆夫


タダでくれるものには、意味がある。それが乗数効果という国民を相手にした投資なのだ

出したら回収することは銀行も同じ手法だ。以前、別枠信用保証があった。中小商工業者は競って借りた。借りた途端、金融機関は今までの負債と相殺した。数兆円の資金は真水といわれる使える資金ではなくなった。しかも金融機関は日銀に還流したが政府保障貸出金より多くの資金が日銀の金庫に回収された。エサを撒いて大魚を釣ったのだ。流動資金は枯渇してサラ金、商工ローンへ追いやることになった。この政策で助かったのは金融機関だ。だが貸借バランスは良くなったが、国債は買わされ、これもエサになった。


天邪鬼の屁理屈だが、金をくれると云われた時の人間の姿を考えてみた。
まずは、民主の時代の政府と国民の関係におかしいと思わないか。公僕が余ったからと主人が小遣いを貰うのか・・・
政治家はこんな芸当はできない。狡猾な官吏の意図を測れず徳政に似たエサをそそのかされたのだろう。なにしろ⒈⒉年でいなくなる総理だ。

標題でが・・・
政府与党の色々な事情があろうが、江戸の徳政令とは似ても似つかぬ給付金という貰い下げ金をアリガトウと言って手を差し出せるか・・・

巷間、売文の輩や伴食議員の仔細な争論はさておき、減税ならぬ給付という名の現金を貰うのか、いや君は貰うのか訊いてみたい。

なかには、旅行だの、デジカメ、あるいは借金返し、子供の小使いなど貰う前から思案している人も多いが、一方ではその手合いとは相容れない気分と、国家に対する怨嗟が少なからず巻き起こる。

「くれるものなら貰っておく」とは云うが、それが政策失敗や官吏の不作為のツケだとしても、よくよく考えると、゛ツケ回し゛であることがよく分かる。また、大多数の国民は分かっていても、「くれるものは貰っておく」算段は付いているし、期待もしている。そんな時のためなのか、民主・自由・平等・人権・国民の権利などが幅を利かし、政治家は手柄話をする。

財産家、知識人といわれる労働教員、お巡りさんに医者、生涯賃金を企図する狡猾官吏、もちろん善男善女も手を出す。勝手にくれるものは貰っておく、と。だが、数年後には新税で強制的に財布から金が流れ出す。振込先が判れば預金の捕捉もある。、


          
          明治の言論人 陸羯南

政治家、いや宰相たらん人物の修養は自ずと異なるものだ。生半可な言辞や先見性の無い行動は、近頃とみに多くなった世襲紛いの偏った血脈によって助長されている。
一口に世襲といっても、単なる既得権継承もあれば、「道」に表現される免許や伝承、あるいは秘伝もある。政治家、警察官、教員の縁故採用の食い扶持確保は秘伝ならず、秘匿すべき既得権益の保護の為にある狭い範囲の「掟」である。


           

           初代 川路大警視の顕彰像




それは彼等に限ったことではなく、ヤクザや夜盗盗賊にも厳然とした陋規というべき掟があり、しかも習慣化され、ことに公務に関わる組織においては公金搾取、横領などが名目を変え組織内規として現存し、今以て政治権力を以てしても是正されずにある。

彼等も一応に「税金を払っている国民である」というが、欧米ではタックスイーターとして一方の納税者であるタックスペイアーとは厳しく色分けされている。


実は今回の給付金はイーターとペイアーを問わず支払われるのである。
ならば、以前も宗教政党の立案に政府が支払った似寄りの金券があったが、分捕ってくれた分け前には謝金代わりの政治献金や選挙の労力提供によって成り立っている忌まわしい政治慣習からすれば、磨りガラスの向こうの意味合いは大方の国民が知るところだろう。

さて、それでも手を差し出して貰うのか・・・?

世情が混沌として目標がオボロゲになったとき、多くの賢者は数多の歴史事象に記載されている賢人や事績に懐かしい日本人の原像を辿ろうとするが、それらに遺っている正邪の行く末や、現象を支える時間経過と賢者、偉人の事績の集積を鑑みるとき、彼らだったらどうしただろうか。


           

自ら官位を降下してまで戦勝に導いた 児玉源太郎


あるいは父や母が、゛もらえる゛と嬉々とした笑顔を見せたとき、その気持ちを忖度したとしても己は世界の異なる問題として許容できるだろうか。

どうも、天邪鬼のような偏屈するのが倣いになったようだが、窮屈かといえば、そうでもない。やせ我慢ではない。
幸いにも手を差し出す先師、先輩の縁を知らなかったことが、これほど大衆流動と思える機会に際立った観察ができたことだ。

地位、名誉、学校歴、財力を唯一の成功価値とする多くの人々が、「さもしく」「卑しく」手を出す姿を想像は、少なくとも今まではしなかった。必要な方々には差し上げるべきだろう。だがさして意味もなく、労働対価でもない下げ降し金ゆえ、「譲る」「分ける」「断る」など様々な子供の自己判断の善導にも良い機会と捉えることもできるだろう

意味もなく他人から貰う金の意味をだ。

付け加えるが、とくに先人先師が説いた「観人則」がある。

それは人も国家も行く末が鮮明に観えるということだ

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人間考学の提唱  小学より「潜在するものを観る」 

2022-05-23 11:25:01 | Weblog

 

                    

  冠位褒章歴ナシ、記すべき官制学校歴ナシ、数多の成文あれど商業著作ナシ  世俗無名に座し、と教えられればそれに随い、貪るな、と諭されれば貧を悦こび、枯木寒岩を装いつつも、浮俗に浸ることを一片の学として朋と遊び、時として独り逍遥しつつ清風の至るを悦しみ、齢を重ねている処士なり。  頑迷の誹りあるも、学ぶ処、唯、先人万師の追隋なり  

                                                               寳田時雄著 「天下為公」自歴より

 

致知出版社 所沢木鶏倶楽部 依頼講話

https://www.youtube.com/watch?v=UO0lQkpPk94 

 

(財)郷学研修所 安岡正篤記念館 寳田時雄講話 

 https://www.youtube.com/watch?v=V-KOP9uItA8

 

 郷学研修会 当初の構成

 http://kyougakuken.wixsite.com/kyougaku/blank-1 

 

                

                       

  売文ではなく有為な方に贈呈                        

 

 

 

寶田教学随聴記

         

 ≪その志、嗣ぐものあらんことを≫

国策研究会元評議委員  村岡聡史

亜細亜大学における寶田時雄氏の特別講義の内容それ自体について、私が独言(論評)を展開することは極めて難しい。何となれば「屋上屋を架す」の恐れがあるからです。
それゆえ本稿では「何故に寶田時雄という日本人離れした大型の人物が形成され、皆さんの教壇の前に立つに至ったか?」という視点から寶田教学の本質と学問の方法論に就いて随聴記を編んでみました。

実相観入して神髄を極めるところ、寶田教学の本質と学問の方法論は、佐藤一斎(註①)の次の言葉に尽きる。
 「学は自得を貴ぶ。人徒らに目を以って有字の書を読む。故に字に曲し、通透することを得ず。当に心を以って無字の書を読むべし。乃ち洞して自得するところ有いん」


【言志四録】

問題はそこに至った寶田氏自身の学問上、教育上の形成過程にある。要諦は寶田氏が二人の歴史的人物と青年期に邂逅し、その薫陶を享け、これを自家薬籠中のものとして自らの人間形成に活かして現在に至っているということである。

一人は安岡正篤氏であり、その同友たちである。深沈重厚、精義入神たる昭和の碩学であり、戦前戦後にわたって要路にある人々に多くの影響を与えた教育者である。
また終戦の詔勅に朱筆を入れたことは、知る人ぞ知るエピソードでもあり、その学識の深奥は計り知れないものがある。寶田氏の説く、無名有力の奨めと郷学の作興は、官制学にはない人間学として安岡氏から直接、訓導され、その後の活動に顕示されている。

 

       

      安岡正篤氏

 

もう一人は、佐藤慎一郎氏である。明朗闊達、正言躬行たる昭和の国士であり、「拓大最後の教官」と評されていた。佐藤氏は辛亥革命を指導した孫文に終始帯同した山田良政、純三郎兄弟の甥に当たる方である。

満州某重大事件で開幕した昭和動乱の渦中、二十数年にわたる大陸生活の中で、山田兄弟同様に日中提携によるアジアの安寧を願い、これに全霊を傾け、献身した人物である。遺憾ながら、風雲に大是を定むることができなかったが、その驚嘆に値する行動の軌跡は、明治が生んだ「日本の快男児」の一人として歴史に刻印されている。
この佐藤氏の精神とその行動学は、永年にわたって行動をともにした寶田氏に継承され、脈々として生き続けている。

 

         

         佐藤慎一郎氏


斯様にして、寶田氏には二十代の青年期から両巨星【註②】と接し、人物的にも学問的にも多大な影響を受け乍、自己陶冶に努めてきた。つまり、寶田氏にとって両巨星が高等教育の場であったわけです。それは音声と触覚によって自身を供にした修学であった。

無論、寶田氏の学問や人物形成の背景の一つに膨大な読書【註③】による研鑽があっただろうことは想像に難くないが、根本的には両巨星との邂逅を契機にした素行自得にあったと思われる。

そのような来歴によるのか、寶田氏の教学や文章は難解であると感ずる人々が財界から言論界に至る各界に少なからず存在する。このたびの特別講義を通して、皆さんの中にもそう感じる人が居るかもしれない。
然らば、同情を禁じえません。実は私自身もそう感じている一人であるからです。

またそのように映ることは、氏の思考環境を支える座標にある、「無名有力」という浮俗の一般人からすれば頑なな自制心として映る名利に対する恬淡な行動があります。

それは公私を問わず、市井の観察や透徹した歴史観、あるいは異民族との間に横たわる現実の難問においても縦横無尽な応答を可能にしていることです。
それは官制学にない人と自然が活かしあうことによって生ずる直感力が、学術的な論から出される無機質な内容を有機的に転化させる柔軟な発想の基になっています。
氏は有名という現示的欲望は人間そのものを無力にさせると言います。
また「異なること」を恐れてはいけない、とも説いています。

然しながら、「ものは考え様」です。頭の表層で直ぐ理解できるようなコンビニ知識や、インフォメーション(情報誌)の類は、すぐ役立たなくなる、すぐ飽きてくる、応用が利かない、普遍性に乏しいという致命的欠陥を内包している、これは真理であります。
例えば、電車の時刻表、受験の参考書はスグ役立つという点では大変便利だが、これらが百年後に役立つとはどうしても思えない。

翻って寶田市の説く「小学」(註④)と「大学」(註⑤)は、その起源を遡及すれば中国春秋時代に至り、朱熹の大成した「朱子学」(註⑥)も、その基礎に「大学」が鎮座しているわけであります。人間の本性が根本的に変革されない限り、おそらく此の学問は百年後の二十二世紀社会においても十分通用するであろうと予見できます。

 

           

           1989 北京騒擾の臨場


此処まで読まれて、賢明な皆さんは既にお気づきのことと思います。
要するに、学問とは時代を超え、民族を超え、一般的、普遍的に通用する原理原則や、真理を追究する学為であって、学歴と称する官制学校歴とは似て非なるものである、ということです。
そして、教育にもっとも大切なことは、教育に関わる人自身が知りえた学問成果(原理原則、真理)を、現実に可能な範囲で率先垂範することであります。確かに、他者(生徒、聴衆)への訓導や説教は、必要不可欠な課題ではあるが、第二義的な意味しかも持ち得ない。

言うは易く、行なうは難し。率先垂範は困難な課題ではあるが、教育者足らんと欲するものは、これに努めなければならない。「大学」が人を説く所以は、教育が聖職であるという所以でも在る訳です。

 

              

              安岡正明講頭  郷学にて

 

次にごく簡単でありますが、特別講義に出席された皆さんの感想文と、ゲスト二人のスピーチに対する印象を徒然なるままに筆にします。
寶田教学に関する皆さんの感想文【註⑦】は総て精読いたしました。
素朴ではあるが、生き生きとした率直かつ真摯な意思と心情が私の心胆に津々として伝わり、久しぶりに感激を覚えました。

そして、皆さんの感想文を読みながら、私自身も学ぶことが多く、「教えることは学ぶこと」(教学一如)というテーゼ(定立)を改めて実感した次第です。
皆さんありがとう、心より感謝申し上げます。

また、ミスター・サキール・カーンと金沢明造氏のスピーチ、謹聴いたしました。即興とはいえ、短時間でテーマ(学問と教育)に適したトピックスを自己の体験(日本体験と法曹界の堕落)と結びつけ語られ、見事に要諦をスピーチに纏め上げました。私には百年河清を以ってしてもできない技量であり、お二人の手腕には本当に感心しました。

最後に、私の願望を一言述べて結びに代えたいとおもいます。
私は、寶田時雄氏と亜細亜大学の皆さんとの「対話と交流」が、近い将来、再び訪れんことを期待しています。何となれば、私の予感では是が日本人および日本の教育の現状に対して一石を投じることになる、と考えるからです。

確かに寶田氏と皆さんのコミュニケーションは、深刻な問題を抱えた日本の教育という巨大な社会現象に比肩すれば、微小な一石に過ぎないものかもしれない。然しながら、我々は次の佐藤一斎の言葉に鼓舞されて、前進できるのではないでしょうか。
   『一灯を提げて暗夜を行く 暗夜を憂う勿れ 只、一灯を頼め』
                        【言志四録】

寶田氏と皆さんとのコミュニケーションが日本の教育における一灯たらん事を、延いては21世紀のアジア世界の万燈たらんことを希求します。
教える人、学ぶ人、その志、大学において嗣ぐものあらんことを。
 

 

            

                                    寳田時雄 大学講話

【註①】
佐藤一斎 
江戸後期の儒学者 美濃岩村藩の家老の子
中山竹山に学び、朱子学を主としたが、後に陽明学に傾く。林家の塾長、昌平坂学問所教官。門下に渡辺崋山、佐久間象山など多数の人材を輩出。主著「言志四録」
        文献 井上正光全訳注 講談社学術文庫

【註②】
安岡正篤氏と佐藤慎一郎氏の人物や思想について、さらに精細を知りたい人は、寶田氏に問い合わせ願いたし。 ホームページ「郷学研修所」参照
文献 「運命を拓く」安岡正篤著 プレジデント社
   「佐藤慎一郎選集」佐藤慎一郎著 国際善隣協会
   ブログ「請孫文再来」寶田時雄著
   「荻窪酔譚」佐藤氏と寶田氏の師弟酔譚  郷学研修会編
   なお両氏は近しい交流関係がる。

【註③】
寶田氏の読書について想像を巡らしていたところ、南宋の黎靖徳が編纂した「朱子語録」の次の言葉を憶い出した。
『人が読書するのは、酒を飲むのに似ている。もしも、酒の好きな人であるなら、一杯飲み干せば、また一杯飲みたくなる。もしも嫌いであるなら、無理して一杯飲むと、もうそれでお終いだ』
多分、寶田氏は高級な美酒(古典の名著、現代の良書)を毎晩飲んでいるのでありましょう。老婆心ではありますが安い酒は身体や精神に悪い。

参考【朱子語類について】
1270年南宋の黎靖徳が朱熹とその門人との問答を部門別に集大成し、朱熹の思想、学問を体系化してた書。全140巻 鎌倉末期に日本に伝来した。
参照「朱子の自然学」 山田慶児著 岩波書店

【註④】小学について
12世紀末に成立。南宋の劉子澄が朱熹の指示で編纂。酒掃、応対、進退などの作法、嘉言、善行を古今の書から抜粋、収録し、中国小学(修身、道徳)の課目を示した書。内外二編 全六巻


【註⑤】大学について
春秋時代(紀元前五世紀)に成立。四書(大学、中庸、論語、孟子)の一つで、元々は五経(易経、詩経、書経、春秋、礼記)の一つの礼記の一編であったが、朱子学が重視されて以来、盛行した。最高の学問の理念について、三綱領(明徳、臣民、止至善)と八条目(格物、致知、誠意、誠心、修身、斉家、治国、平天下)を立てて説く。 後代、南宋の朱子学に多くの思想的影響を与えた。

【註⑥】「朱子学について」
南宋の朱熹が春秋以来の「大学」の人間哲学(修己治人)と、北宋以来の理気世界観とに基づいて大成した宇宙論から人間学に至る儒学の壮大な体系。
明代、清代を通じて体系強化のパラダイム(ある時代を特徴付ける思考や認識方法の基礎的枠組み)としての役割を果たし、李氏朝鮮や江戸時代の日本にも多くの影響を及ぼした。

参考
小学、大学および朱子学の歴史的沿革は、大雑把に言えば南宋時代に成立した「小学」の源流は、春秋時代に成立した「大学」の徳目の一つである修身に遡ることができる。また、南宋の朱熹によって大成した「朱子学」も、その骨格となった源流は「大学」である。但し、朱子学の宇宙論は北宋の世界理念と朱熹の創意工夫によるところが大であった。
大学には説かれていないことに要注意。要するに「小学」も「朱子学」も「大学」に遡るのである。「大学」が四書の一つに位置づけられている所以はそこにある。
朱熹と朱子学に関心のある方は次の基本文献を推薦する
  「人間の知的財産19 朱子」三浦国雄著 講談社

【註⑦】鳩首作業
学生たちの感想文の整理と検討があった。難解ではあったが真摯なコメントの中にも、抱腹絶倒する場面などに遭遇して疲れを癒す場面もあった。気がつくと終電間際、千葉から来訪した学友高野華門氏は慌てて出立、小生も学ばして頂いた次第。

 

        

       航空自衛隊 外部幹部講話

 

寳田氏とは

 在学中、司法ボランティアを志向 更生保護体験活動従事

 近在の古老より近代史を学び、明治の識者との邂逅を通じて日中史実を学ぶ

 安岡正篤・佐藤慎一郎・皇室関係者など国内外の識者らと郷学を通じて人間学を学ぶ。

 笠木会「満州事情」佐藤慎一郎「近代日中史」師友会「内外古典」

 安倍源基「民生治安」卜部亮吾「皇室関係」安岡正篤「人間学」

 督励によって郷学研修会を発足。

 TMS・China香港(IBM)副総経理を経て自営に従事。

 現、(財)国際平和協会主任研究員 郷学研修会代表世話人  槇の会

  sunwen@river.ocn.ne.jp

 

主な講話抜粋

(財)郷学研修所・松下政経塾・大学・専門学校・警視庁・地方郷学塾

三菱グループ筑波幹部研修 致知出版木鶏会 航空自衛隊目黒幹部学校

北部方面航空警戒管制団(三沢基地) など

講話趣旨「一人でも少なしといえず、千人でも多しといえず」真摯に学ぶ者あれば対価経費は必要なし

 

誓詞  「他と異なることを恐れない自己の立命

 

 

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政策停滞の因は官吏の「四患」にある 2016 あの頃も

2022-05-22 08:48:09 | Weblog

                       

 

国民にとっては安倍さんの繰りだす政策(対策?)は、目先を変える手段として慣れているのか、一部の口や筆を生業とする人たちを除いて興味が乏しい。゛いつの間にか゛だが、思索と観照力が衰えた人々は政策や対策の内容さえ的外れに評論を繰り広げている。

 

経済は株価と為替と物価とはいうが、安倍さんの対策で効果が有るかどうか、あるいは自分たちの生活にどんな利得や安心が頂けるかなど、欲望のコントロールが難しくなった強欲資本主義や人権や平等、そして民主と自由が加味されれば、まことに珍奇な味わいのある社会が姿を現したことへの戸惑いがあるようだ。

 

だから数値でしか語れない政治になったのだろうが、安倍さんに誰かが囁くその数値は、安倍さんそのものが検証するすべを持たない。つまり安倍政治は「口耳四寸型」の政治なのだ。

口耳四寸とは、耳から入った奇妙なフレーズを世相に当てはめて四寸しか離れていない口から出てくる軽妙な政治のことである。

 

人柄は舛添君のようにサモシイ、卑しいことは見せないが、怖れ意識とそれをカバーする周辺の「観人則」が、宰相が世相を登覧するような感性ではなく、政策効果を巧みに宣伝したり、批判に対応ずることに汲々とするような、いっとき流行った政策新人類の熟成した似非国家政策、いや対策集団のようにみえる。

 

歴代を見回しても稀な能力をもつ総理だが、対人反応においては度量や許容量がよく問題にされることもある。

それは総理の顔色をうかがい、耳ざわりのよいフレーズを提供することを有能だと思っている取り巻きの心底を観ることが乏しい、つまり観人則の在りようが気になることのようだ。

どこの派閥や大物議員も手を出していないが、清話会の既得利権である文教に属す学校認可と塾の参入にはお友達の下村議員を充て、あらたな臨時利権であるオリンピックも清話会の床の間の石である森元総理、オリンピック担当相に文科省の下村議員を兼任させていた。

森さんも目の上のたんこぶと薄々分っているのか、不祥事のごみ掃除をあてがわれ、下村さんも役不足で取りまとめに苦渋して逃避転職した。

ただ、観人則にある人を観る目がないためか、教育改革の一つとして塾の学校参入を期して全国の塾を取りまとめ会費を政治資金として吸収したことが露見し検察も動いたが、改選改造に形式をとり、現在は総理補佐官に納まって官邸に出入りしている。その意味では言い訳や場当たり的な繕(つくろい)には狡知が長けている。

 

成果は、招致は俺のお陰と鼻を膨らませた猪瀬知事を排除し、義理を貸した舛添君も頭が高く目障りになったために、愚衆をマスコミによって煽らせ、議員なら誰しも天に唾する所業で舛添叩きに功名争いをしている。それは暗闇からモグラをおびき出すように、中央地方を問わず我が身に降りかかる始末の悪い追及劇のようだが、口を拭うのは舛添君ばかりではあるまい。

 

                    

             台湾民生長官 満鉄総裁 東京府長

台湾着任時に先ず行ったことは、弛緩した不良日本人官吏の千人以上の更迭内地送還だった。

   

四患とは当ブログで再三掲載している「偽り、私利、放埓、奢侈」の「偽私放奢」の患いが公務に就く者に表れる状態だ。

隣国でも習近平氏が幹部の汚職腐敗を取り締まっているが、公務が汚れれば経済界も一過性でしかない数値の多寡に翻弄され、便宜を図って贈賄に勤しみ、受ける側も要求をするようになる構図だ。

 

些細なことでが、ある県の元福祉担当が福祉法人に天下っての戯言だが、「若いころはいくらか世のための、弱者のためにと意気込んだが、ローンを組んで、部下をもつようになると有能な部下が鬱陶しくなり遠ざけるようになる。後は生涯賃金を企図してマンネリに陥り上司の指示待ちになる。知事や議員は落ちればただの人、それこそ軽くてパーが好いといったが、その通りだ。

楽しみは一通の紙片で通達や調査依頼を出せば、みな頭を下げてくる。だいだいそれが中央・地方に関わらず役人の姿だ。考えようによっては面白く楽しい仕事だが、民間の人と話すときは注意しなくてはならない。それは待遇についての話題はタブーだ。

地方では大名と家臣と農民の関係だ。そのぐらいの格差があることは承知している。

親子三代役人で、教員や警察官も多い。多くは議員や郷のボスに押し込んでもらい、試験に落ちればアルバイトの臨時雇用で入ってそのまま潜り込むこともあれば、教員プロパーが多い教育委員会も似たり寄ったりで、夫婦親子で教員も多い。

 

夫婦が部長で天下りがあれば二人で生涯賃金六億円くらいになる。経済事情で停滞しても毎年上がる給料、年二回のボーナス、いくら積み立てているといっても政府負担を入れた共済年金やら視察と称したお手盛り旅行、とくに地方では格差が大きい。何よりも公務員住宅が安いし便利だ。宿泊も特別優遇がある。そして組合がしっかりしているので余程のことがない限り身は安定している。それでも不祥事が漏れるのは弛緩した組織の中でも愚かな落ちこぼれだ」

 

 

                

                 津軽 平川の朝

つまり四患いが蔓延しているのだ。

この出典は、後漢の荀悦が皇帝から宰相の任を請われたとき「四つの患いが蔓延していると、たとえ良い政策でも広がらず下々に届かない。この患いを除かない限り宰相は受けられない」とその弊害除去を条件としている。

 

あの舛添事件も、本人の愚かさもあろうが、今までの経緯を熟知しないため官吏が既存の前例をもとに作成した調整日程なり予算案だろう。昔よく揶揄された軽くてパーのような神輿の主は、提示された企画書に何の問題意識のないままにほくそえんだに違いない。

追及の舌の根も乾かないうちにリオデジャネイロ派遣の予算が新聞に出た。官吏も議員も恥ずかしくないのか、それとも当て馬で出して断念するという潔さを見せる田舎芝居なのか、ともあれ内藤新宿の猿芝居はネタが割れていて、さすがの江戸っ子も「性懲りもない野暮なやつ」と嘲るばかりだ。

 

ここでも官吏の責任にはどこ吹く風、元知事の猪瀬も石原も遠吠えしているが、地球のドサまわり興行の勧進元やカジノ博打の招致は宿場町内藤新宿の親分風情に似ている。しかも十手持ちの目明かしや岡っ引きまで雇っているので庶民も手が出ない。

 

            

                 

                 津軽黒石の ねぶた

                     

 

「内 平らかに 外 成る」まさに平成元号だが、外ばかり見ていると内は乱れる。

また、亡国の徴の五寒に表れる「内外」は内政に自信がなくなると外の危機を煽るようになる。ここのところ提灯新聞のような記事を書く産経はいまごろ元空将のネット記事で中国軍機とスクランブル発進した自衛隊機の接近を書いているが、そんなことは何年も前から云われてきたことで、当時は記事にすると国民が騒ぎその対応が面倒だと記事にはしなかった

選挙にリンクしたつもりだろうが、新聞人の気骨も衰えたものだ。

まさに産業経済新聞《産経》だが、経世済民をわすれ、「催眠」を図っている。

私事だが産経は長年の購読者だが、このところの変質は「恐れと迎合と食いぶち」が紙面に醸し出ている。 

通信社の貰い記事や大国への阿諛迎合によって実直な記者の更迭や配転、もちろん地に伏す調査報道ですら没記事にするデスクやイベント屋、不動産屋に成り下がった経営者が官営新聞になるのも遠い話ではない。なによりも食い扶持主体なのだろう。

 

どうもこの政府は、国民からみれば浅薄な手練手管で国民を納得させているつもりだろうが、知識はあっても教養と忠恕心がない、つまり深層の情緒が寄り何処とする大御心の共有がない人たちのようだ。

 

もちろん、その社会現象と歴史を俯瞰して観照し、その因を求めるような為政者も見ることはない。大御心を斟酌して座とするならば、「下は上に倣う」ようになるだろう。かつ上から下への導線の経年劣化と詰まりを除去すれば、多くは解決できる問題が多いだろう。

とりもなおさず、詰まりも劣化も病気でいえば生活習慣病、発病は梗塞という自由を失う病だ。いま詰まりから毒素が発生している。しかしそこに目がいかない、いや隠し屏風になって隠れている狡猾な人間の群れだ。

 

再度、鎮まりを以て脚下照顧を願いたい

 

上下交々(こもごも)利に交わる」  (利権)

 

小人 利に集い、利薄ければ散ず」 (オリンピック)

 

智は大偽を生ず」知識のあるもの己を偽る (舛添事件  マスコミ)

 

小人は利に殉じ、大人は義に殉ず

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台湾道中記 

2022-05-15 03:01:45 | Weblog

              

               側近 山田純三郎   孫文

             

                     台湾国旗

 

筆者の台湾渡航は足かけ三十年になります。

その訪台の駆け出しのころのことだが、まだ日本語世代も五十そこそこ、色々な話が現実の情景とトレースするかのように、実感として受け入れられた時代でもあった。

   

    後藤新平台湾民生長官

 

冗談も通じたが、「むかしの日本人はそんな行儀の悪い人はいなかった」と、日本人旅行者が遠慮なく叱られた頃でもあった。

その日本語世代を教えたのは明治の日本人だった。

いまでも九十代の元気盛りの古老にはその気風が残っている。その方々と再会するのも旅の目的ともなっている。

 前列二人目 90才 97才 87才の日本語世代 高雄「仁愛の家」

 

 

また、庶民は政治との間(ま)の取り方を熟知している。

「赤も青も政権に就けば同じだね」国民党。民進党の党色

そんな感想を聴けるのも夜市や朝市の雑踏のなかのことだが、邦人のような四角四面な迎合や、腹の内にはない大らかさがある。無意識に潤いの情を感じるのはそのせいかもしれない。

 

師から辛亥革命の逸話を聴き、数日後飛びだったのは成田発、中正国際空港、いまの桃園国際空港だった。当てはなかったが辛亥革命の領袖、孫文の国父記念館、戦史を祀る忠烈祠、蒋介石の中正記念堂、それが最初だった。

当時は蒋介石の子息蒋経国氏の治世だったのだ、彼の行きつけの理髪店がある統一飯店に泊った。妙な理由だが独り旅の思い付きはそのようなことだった。

その収穫は、世界史に記されている西安事件の真の首謀者と師が語っていた苗剣秋宅への訪問だった。

以下は旧稿だか、再読すると今とは異なる感慨がある。

 

 

   台湾外交部

 

備忘録 「張学良 鎮す」

 張学良といえば国民党、共産党合作の舞台となった西安事件が有名だが、戦後、氏の存在はベールに包まれている。

なぜ台湾に移ったのか、西安事件の秘密は?それらの多くは語られることのない問題として日中近代史に多くの興味を投げかけている。

NHK特別番組でのインタビューで語る氏の゛語り口゛は、歴史経過の及ぼす様々な事象への慙愧と無常感が入り混じったものであった。ときには昂じ、あるいは鎮まりをもった姿は、まさに世界史の出演者である氏の生涯そのものの観があった。

ここでは歴史研究や学問としての中国観とは別に、普通なら取り上げられる事も無く、さりとて゛まんざら゛でもない、関係者からの平常な生活会話の中からエピソードを辿って見ることにする。

 

    

      訪問者と右少年矯正施設院長

 

1988年といえば天安門事件の2年前の12月、なんとなく足を向けた台湾台北でのことだつた。 師の佐藤慎一郎氏から伺っていた西安事件の立役者 苗剣秋氏のことを思い出し、唐突にもホテル前を逍遥する古老に尋ねてみた。

゛おぅおぅ知っている゛とばかりに古老は懐かしそうに早速、居住をどこかに尋ねている。 こんな時で無ければ会う事のない苗氏の名は古老なら知っている。

 

心当たりが分ったのか、本人も興味深々のようで目の前のタクシーを呼びとめ、到着したばかりの台北の町をひた走る。

やたら狭い路地を走ると保育園の前の古い建物の三楼(3階)を指して、下車を促す。

治安上なのか、階段入り口と苗宅のドア前には横引きの鉄製シャッターがあり、ドアはステンレスの堅牢なものだ。

呼び鈴を押すと初老のお手伝いとおぼしき女性が応対に出たが、なにしろ突然の訪問のため要領を得ない。

佐藤先生の友人です」とっさのことだが友人とは大仰な態度だった。

招き入れられた応接間に苗夫人がソファに座っていた。

壁には苗夫妻の若かりし頃の写真と剣秋氏の軸装が掛けられていた。一方には安岡正篤とあるが、何時もと違った感の書風の掲額がある。

話といっても佐藤師からの聞きかじりばかりで中身が無いので、夫人の近況を伺う事にした。

夫人は苗氏を苗先生と呼び、現在、加療中であり重体であり、夫人も養護施設の入所考えているが、なかなか順番が回ってこない。しかし、「施設では時間が軍隊のように決まっていて年寄りには辛いだろう」との不安を抱いている。

お手伝いサンの子供に話が移り、お手伝いサンが事故で怪我をした見舞金を息子が遊興に費やしている苦言を吐露している。

初対面での会話だが、佐藤師と苗氏の交流の深さが垣間見える応対でもある。

 

   

       中山記念小学校 校内売店

 

2度目の訪台は日本の国会に当たる立法院の梁粛成院長との会見や、興味を持ち始めた孫文の記念する国父記念館と蒋介石総統が提唱した「新生活運動」の原本を拝観するための中正記念堂訪問である。観光コースの忠烈館の回廊に唯一日本人が掲げられていることに胸が熱くなるほどの強烈な印象を受けたが、後日、拙稿「請孫文再来」の端緒であったことは想像する事ではなかった。

 

  

   梁立法院院長   丘氏

それと、友人の訪台に再し苗夫人の様子伺いと好物であるケーキの持参を依頼した折、「もう、さびしくて死んでしまいたい」との言葉があり、急遽の訪台計画でもあった。

 

初回は佐藤師にも知らせ無かった旅だつたが,苗氏の消息を報告した小生の言葉に

「それなら七福という通じの良くなる薬を持参してください。たしか夫人の常備薬ったはずだ。それと満州の大同学院の教え子に丘昌河という実業家と梁粛成という政治家が居るので時間があったら会って来たらよい」

 何時もながらの簡単な会話だが、あとは現地でどうにかするということだ。

 

夫人は待ちかねたようにベットから起き上がって持参したケーキを食べた。

すると、「苗先生は西安事件には関係ないのです」突然の言葉である。

「その話を伺いたくて訪ねたのではないですよ」考えもなく応答する

「あのとき先生は天津にいたんです」

只,黙って口元を注目するしかなかった

西安事件の立役者である苗氏のことは佐藤師にも聞いている

北方の軍閥,張作霖の子として生まれた張学良の学友として張作霖に可愛がられ、持ち前の利発さから日本に留学。一高帝大 難関高等文官試験に合格。張学良率いる東北軍の顧問として活躍し、周恩来とも懇意で事件前後さまざまな想定問答があったことは以後の推移をみてもわかる事だ。

また、佐藤師とも懇意であった苗氏の状況をみても事件の大筋は吐露している事だろう。

 

小生は学者,研究者の類ではなく、ましてブン屋のごときのように話の整合性を詰問したりはしないが、縁と人情に裏打ちされた継続すべき人間関係の中での体験会話の集積から読み取る「語り」である。たとえ備忘記述でも秘すべきもの,約束事については関係,無関係の事象を問わず、ふとした言わずもののなかに、あるいは嘆息の中に忖度すべきものと考えている。

 

      

       蒋介石総統       毛沢東主席

 

   

      習主席       馬台湾総統

 

苗氏は張学良に言う

「おまえの親父は誰に殺された」

「おまえは今,誰と戦おうとしているのか」

一時は麻薬中毒となり,軍閥の腐敗を増長させた張学良を叱責した苗氏の激情は,蒋介石を監禁した折の「殺してしまえ」といつた言葉にも表れる。≪ソ連からの密電で殺害は免れる≫

東北軍しかり,国府軍もまたしかり。軍備や戦機、といった戦略戦術の類に勝敗の有無を問うものではなく、目的の明確さを鮮明にした上で将兵や民心の助力を本としたもので無ければ,単なる武装暴力の腐敗や権力に添う富の収奪闘争なってしまう。

張作霖,袁世凱にある軍閥の様相は,孔財閥を財政部長に置き諸外国の援助を腐敗の具とした国民党の敗北と同様に、抜けがたい権力性癖を表している。

 

「誰に殺されたか」という苗の言葉は日本軍に爆殺された父張作霖であるが、小生の元に河本大作大佐が大阪士官学校同期の磯貝廉輔に宛て決行27日前に出した書簡の末尾に「満蒙に血の雨を降らせる…」と記し、南方便衣隊の仕業に見せる為、金を渡して雇い入れた中国人を刺殺し決行している。

北京から同行していた日本人将校は前の駅で降車し,唯一、有賀とかいう将校だけが知らされなく激怒したという逸話が残っている。

爆殺に怒って東北軍が攻撃してくればしめたものと考えていたが,東北人の智将蔵式ギの機転で重傷発表を行い,虚偽に薬の購入までさせている。

肩透かしを食ったのは河本を始めとする日本軍だった。

中央の意図しない現地の謀略に、慌てふためいて追認する伴食軍人や官僚の姿は今も変わりがない。

しかも、官癖というべき現状追認と理屈の塗り固めは、将来起り得るであろう泥沼化した日中戦の初頭を゛飾る゛蛮行でもあつた。

 

 

   苗 夫人

西安事件以後の国民党軍の姿に疲弊と戦後の国共内戦経過を見ると、周恩来の意図が成功し、中華人民共和国成立となるが、成立の立役者である苗氏も張学良も台湾に居住している。

確かに,一時期日本に亡命した苗氏だが、田中総理の日中国交回復交渉の経緯と結果に憤慨して台湾に渡ったが、生活の問題は民国政府のそれと聞く。

しかし,筆者が垣間見た国民党の情報機関「国際問題研究所」、実はゾルゲの謀略機間でありイギリス情報機間のパイル中佐との連携のもと、日本の北進政策を南進に切り返させた組織の日本駐在者として苗氏の名がある。

組織のトップは後の中華民国駐日大使館の参事官,王大禎(梵生)であり、日本朝野の要人との交流で信頼を集め、あの安岡正篤氏をもって「大人の風格ある人物」と言わしめている。

また北京の交流拠点であり、大倉財閥の資金を北伐資金に投じていた宮本利直氏の主宰する宮本公館に出入りし「大志を共有する老朋友」と肝胆相照らす仲でもある。

有名な抗日事件であった129事件から始まった2年後の露構橋から西安事件と、その謀略の流れは破錠することなく中華人民共和国の成立から現在のアジアの分断混乱までつづいている。

国際問題研究所の組織図には、末端にあの満鉄調査部所属の朝日新聞の尾崎ホツ実や偽造紙幣の印刷担当に青山和夫、あるいは日本滞在の欄には苗剣秋氏がある。

 

西安は事変でも事件でもない。短期的には国際コミンテルンによる中華人民共和国の成立だが、イギリス情報部とチャーチル ゾルゲとスターリン 王大禎の真珠湾攻撃数週間前の決定情報とアメリカ情報部などを、地球儀を回転させた関係図から読み取ると戦争や事件の研究追跡というミクロ視点では汲み取れない、遠大な意図と目標に向かった謀略が潜んでいるように見える。

 

近年「文明の衝突」だとかの推考があるが、満州事変の確信的首謀者である石原莞爾の「世界最終戦論」や、中国近代革命の父孫文が終始唱えていた「日支提携してアジアを興す」、あるいは日本に対して「西洋覇道の狗となるか,東洋王道の干城となるか」が一層鮮明として今日の現状を考える上で重要なキーワードになっている。

 

張学良氏の慙愧とウメキに似た言葉は、゛了見が狭くわからずやな日本及び日本人゛に対して向けられている。

それは、゛真の日本人がいなくなった゛と嘆息した孫文の言葉と同様に聞こえるのは筆者だけではあるまい。

 

苗氏は台湾を切り捨て、中国になびく日本の政治家を称してこう言っている。

「三木は見限った 大平は真っ平だ 中曽根には根が無い 田中は一角の繁栄しか考えない」

そして「日本人は世界史に名を称えられるような民族にならなくてはならない」と

 

       

      蒋夫妻

余談だか

 佐藤師から,「西安事件の秘密資料はイングランド銀行の金庫にある」というが、蒋介石を迎えに行った宗美玲に同行したイギリスの美術商の奇怪な行動をみると理解が近くなる。

また事件をよく知る中華街の名のある古老に,蒋夫人が西安に乗りこみ蒋介石を連れ戻したのはどうしてか?との問いに

「張学良は美玲のボーイフレンドだからだ」

 

ソビエトの指令で死を免れた蒋介石だが張学良の台湾幽閉と生死、生活の保証は、たとえイングランド銀行の秘密文書があったとしても、中華街の古老の話のほうが真実味がある。

 

日本人には理解しずらい面白い逸話だがこんな事もある

共産党の重鎮である朱徳の甥が来日した。

要件は中曽根総理に会いたいと言う事だった。

「佐藤先生は中曽根さんを知っているはずだから取り持ってくれませんか」

「私は近頃,外出も不自由になって…・」

「それなら,秘書の方を紹介してください」

「よく知らない人だが拓大に居ったときに学長は中曽根さんだったので訪ねてみか」

 一国の総理に対して、いくら重鎮の朱徳の甥でも,しかも,何の用なのか

 ともかく議員会館を訪ねてみると、廊下の向こうで

「やぁ 佐藤先生ご無沙汰しております」

旧知の上和田秘書である。

「総理は多忙なので私、上和田がお聞きします」

話は秘書が引き取ったが,内容は、いわゆる゛個人的゛な付き合いをしましょうという事だ。

 この甥は普段、台湾で反共新聞を発行している人間で,台湾でも力のある部類でもある。 それが中国共産党の重鎮の使いとは,聞いているほうが混迷してしまうエピソードだが、左様に事象の見方は複雑で入り組んでいるが、『利』の潤いや゛人情を贈る゛という『賄賂』には国共や思想スローガンも存在しない。

まさに「禁ずるところ利を生ず」だ。〈規制を作れば、税金や罰金、ときに賄賂まで入る〉

 

          

       若き蒋介石と山田      張作霖爆殺

        

 

ともあれ,苗氏宅訪問が思いがけない歴史深訪になったが、筆者にとっては苗夫人の言葉に震え、それが自らの生涯に忘れ得ぬ一つの絵となって刻まれた。

「苗先生は自分を探す為に一生懸命忙しい人生だったのです」 

遠来の無名な若造の目を凝視して諭すように語り掛けた。

病床から起きあがり、ベットに両手を支え、さっきと違う声の力があつた。

次ぎの言葉を待った。刻が長い

「張サン〈学良〉はねェ お坊ちゃんですョ」

歴史は探求する事だけにあるものではない。

眺めるものだと考え始めたのもこの時からだ。

 

一部イメージは関係殺とより転載

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師弟の淡い交わりと烈行 08/2再

2022-05-10 17:23:37 | Weblog


老人の名は岡本義雄という。

奈良の石屋の大店に生まれたが、両親とは死別、兄弟も無く、遺された財産(店、営業権、工場)とともに親戚に預けられる。

 

       

岡本義男氏     

先ずは子守だった。まだ明け切らぬうちに起きて鞴(ふいご)作業である。石工に使う鉄製道具を手入れする火おこしである。

あるときかまどの傍にお金が落ちていた。子供ながら大金である。岡本は訳もわからず、いや辛苦ゆえの「マ」なのか少し離れた目印になる石の下に隠した。
毎朝、ふいご番をするたびに石の下を覗いていた。何か安心と不安が入り混じったという。

或る日、いつものように覗いたら隠してあったお金が無くなっていた。
そのとき、ホットしたという。そしてこれからは自分を欺かないことを誓った。その隠している苦しみは自身を不安にさせ、あるいは悪心に慣れさせてしまう一種の怠惰を感じたという。

己を欺かない、それが人生の指標ともなった童の体験だった。

預けられた先は、岡本の実家の財を得たことによって裕福な生活があった。
学年が上と、下に挟まれるように岡本は生活した。
雨が降れば先に授業を抜け出して傘を取りに帰宅し、親戚の子のために傘をもって学校に戻った。弁当も届けた。帰れば幼子を背に負って子守である。食事は二番席、残り物しかなかった。そして、冷たかった。

 

        

    子守っ子  イメージ


岡本とて強靭ではない。子守の順路は決まっていた。いつも小高い丘に登って生まれた家を眺め、親を懐かしみ、そして声を出さずに泣いた。背ではすやすやと眠る幼子の温もりが親の膝に抱かれたときと同じ暖かさだった。そして朝の釜焚きがやってくると、まだ明けきらぬ暗闇の中、今焚いた火の明かりを頼りに教科書を読んだ。

筆者は岡本の好物であったキンミヤ焼酎の紙パックを傾けながら、息を殺して聴くのが倣いになった。きっと安岡氏もそうだったのだろう。

面前で漢詩を詠みスラスラと筆を運ぶ岡本にも驚愕した。
「なぜ?・・」と下世話にも尋ねた。

岡本らしい答えだった。
「東京に出てきて生活も落ち着いた或る日のこと、みすぼらしい男がウロウロしていた。狭い家だったが招き入れて話を聴いた。すると心地いいんだ。その男は漢籍に詳しく、しかも至誠の塊のように見えた。それで泊まっていたが、自分も離れがたくなった。それから何年もいた。亡くなってから古本屋に行ったらその男の分厚い本が貴重本の棚に並べてあった。そんなことを聞きもしないし、男も話さなかった。

だが、その間、その男から教えてもらったお陰で、身についた。自己流だったが、男はいつもそれでいい、それでいい、と焼酎を飲んでいたょ・・
ついぞ、男の名前を聞くことを忘れていた、いや聞く必要も無かった」

以前にも記したが60数回の転居中、白山に住んでいた頃、当時の町会長だった安岡氏の下を尋ねている。
「先生! 先生は偉い人だと聴いているが、いま国は聖戦といいつつ多くの国民が死んでいる。勝つと判れば我慢もしよう。しかし多くの住民が家を焼かれ、死んでゆく。どうにかならないのですか・・・」

 

       

 

 

当時、安岡氏は大東亜省の顧問をしていた。
早朝、迎えの車が待っているところへ岡本の突然の訪問だ。
いかし安岡は「来客中!」と迎車を制して、岡本の話を出掛けに40分あまり費やしている。

後日、岡本の家に安岡の秘書が持参したものは一幅の漢詩だった。
゛春宵、夢を破って空襲を報ず゛から始まる安岡の答えだった。
訳すと
゛殺到する敵機は雲のようだ゛
゛一面を焼き尽くす炎が上がるが、君、歎くことはない゛
゛塵や芥のようなものを掃って、忌まわしい気が、これで絶えるだろう゛

【敵の攻撃は激烈だ、しかし、歎いてばかりではいけない。これを招いてしまった日本にも、その忌まわしいものがあった。それは変質した日本人に向けられるものでもある。この炎はそれを祓うものでもある。そしてその後、忌まわしい気は絶えるだろう】

初対面の岡本の至誠に疑いすらなく、反戦、あるいは見ようによっては財閥,軍官吏の堕落や腐敗から生じた欲望のコントロールの欠如が多くの国民を途端の苦しみに陥らせたと、心底考えていた。そのような漢詩である。しかも縁の薄い岡本にその真意を託しているのである。

また、それを汲み取る共通の意志と、敢えて淡くも緊張した両氏の「間(マ)」は人物の交誼と応答の妙を教えてくれる。

 

       

    毎朝のように届けていただいた    紙は広告チラシの裏面

 

     

 


幼少の「ふいご」と「子守」、そして放浪の男を招き入れた人情は、ことを処するときの烈行の座標となる「義の薫り」とともに、両氏に合まみえ、戯れた若輩の筆者にも懐かしい遺訓として己を走らせているようでもある。

試されている、辿り着くところに待っていてくれる、そんな明治の人たちだ。

 

 

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