まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

10年前にはピンとこなかったようだが・・・ 08 1/1 元旦 再掲載

2015-06-26 09:25:26 | Weblog


戊 寅 の 独 り 言

  いつだったか青い目の悪戯っ子が耳元で囁いた。

「われわれはすべての信仰を破壊し、民衆の心から神と聖霊の思想を奪い、代わりに数字的打算と物質的欲望を与える。

思索と観照の暇を与えないためには民衆の関心を商工業に引き付ける。 

 そのようにしてすべての人々は自分の利益のみに没頭して共同の敵を見逃してしまう。

 自由と民主主義が社会を瓦解させてしまうためには商工業を投機的基盤におかなければならない。

 そして商工業が大地から取り出した富は民衆の手から投機家を通じてすべて我々の金庫に収まる。 

 経済的生活で優越を得るための激しい闘争と市場での絶えざる投機は人情薄弱な社会を作り出すだろう。 

そして、高尚な政治や宗教に対して嫌気がさし金儲けに対する執念だけが唯一の生き甲斐になるだろう。

民衆は金で得られる物質的快楽を求め、金を偶像視するようになるだろう。 そこで彼ら民衆の貧乏人どもは高邁な目的のため自ら財を蓄えるためでもなく、ただ錯覚した上流社会への嫉妬にかられ、われらに付き従い、われわれの競争者である特権的立場のものに反逆するだろう」



そういえば古事記に
国稚(わか)く、浮かべる脂(あぶら)のごとくして、くらげなす漂えるとき、葦牙(あしかび)のごと萌えあがる物によりて成れる …  と、ある。
古典や故事を引用するぐらいの知恵者にあやかるまえに、大地の表層に浮かぶ脂やクラゲのように浮遊し、葦の芽ぐらいだった原祖を思い浮かべ、 青い目の悪戯っ子の囁きに、黒い目を白黒することのない心の鎮まりを見つけたいものです。

尊台の御健勝とご家族の招福を御祈念もうしあげます。


                 戊 寅 睦 月 吉 日1998/1/1

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韓の国の産業経済(産経)瓦版 14 10/10 再

2015-06-07 15:05:10 | Weblog

こちらは子供が取材をして記事を書く、無料配布の子供新聞「キショロチェトロ」
識字率向上には新聞発行が効果がある

子供たちの発表掲載


永年の購読者として記事の真意はともかく、またその後のマスコミ同業者の批判はおいて、切り口を変えて奇説を記す


どこか開き直っている感のする産経だが、地球の裏側の大国のお墨付きがあると、こうも計算高くなるものなのだろうか。
韓の国の事情だが、船が沈んで関係者の首取りと逃亡自殺が世間を騒がしたが、今度は大統領が当日行方不明だってと騒いでいる。しかも7時間だと地元マスコミが書いたが、産経は「そう書いてあった」と伝聞を改稿している。
それが彼の国の習慣に合わないと(法より優先する大衆の意を忖度する法もある)起訴された。

想い出すのはハワイ沖で米海軍の原潜が海洋練習船愛媛丸と衝突したとの報に、当時の森総理がゴルフをしていたということが同じように非難されたことがあった。
もちろん側近には指示をしただろうが、ゴルフを継続していたために国会でも追及された。
韓国大統領は女性で男性関係の話しも湧かないためか、事故はともかく、隠すような場所に誰と七時間も居たのかという、どうも現地の記事もげすの下心が漂う。

開き直れば、社会の木鐸であるマスコミが未曾有の大事故に指示すべき大統領が七時間も不在なのはおかしいと大義を繕うだろうが、看板はそうでも実態は違うと誰でも感じている。思うのは勝手だが、「我々の使命は・・・」といまさら言われても読者はこそばゆい。
更なる手は、「民主主義国家において国民は知る権利がある・・」と、同類国家を巻き込んで「あの国でも・・」「あの高名な学者も・・」と騒ぎ立てる。
それに乗って、我が国の国会議員も「民主主義云々・・」と相伴にあずかっている。








以前、北京特派員柴田記者の記事で中国は産経を出入り禁止にした。
時事,共同の貰い記事(購入)でおおかた事足りるが、柴田記者の稿がなくなって愛読者として寂しい気分がした。出禁か解かれて今は総局が置かれているが、あの台湾はその支局扱いで、台湾の大使館にあたる台北駐日経済文化代表處の代表コメントは日本の新聞では寄稿扱いだ。あの蒋介石秘録をつくり国慶節には特集記事をのせる産経でもその扱いだ。

中国では腰の引ける各社は担当機関との約束事があると聞くが、韓国とはそのような取り決めごとはなかったのだろうか。よく疑獄事件があるとネタ元の警察や検察と発表時限などの取り決めがあり、侵すと記者クラブ出入り禁止になる。あるいはリークと称して、「捜査機関も関心を持っている」とか、検察も世情の批判を深慮するのか捜査情報を小出しにして世論を誘導する。ときおり裁判官も人の子ゆえ狡知を働かせて右へ倣いする。

余談だが、国交前の招待外交に各社が招かれた。香港までは自前だがあとはアゴ足つきだ。
一通り周って北京で周恩来首相と会った。周は風呂敷に現金を包んできて「土産」だという。彼の国は当たり前のことだ。
新聞社の連中は別室で議論した。貰うか、貰わないかと。
話し合うことすら可笑しいが、真面目に議論した。一人だけ手を付けてはいけないと拒否したのは毎日のタチバナという人物だ。
記者や議員が行けば必ず便宜があるのは常だが、この経過を書く者はいない。おおかた貰っているようだ。
だから機密費で随行記者はなにがしかの便宜を貰う。なかには官邸に貰いに行く猛者もいるという。
そのタチバナ氏の意見を伝えると周は四角四面な記者に何かを感じた。
彼はその清廉な気概に良き時代の日本人を見た。だが中国の慣習では金を贈ることは「人情を贈る」ことだ。断れば仲間ではなく非礼なのだ。タチバナ氏はそれを承知で断った。ほかの同行者は貰うかどうか要らぬ相談までした。周は新聞人たちの卑小さを知った。
かれらは脅しに弱い、金にもぐらつく、と。



巷間さわがれている朝日新聞もそうだが、生業は商業新聞だ。仕事に文句はつけても商売の邪魔はしなように昔からできている。
だから関連テレビ局や新聞社が不動産紛いの商売をしても、互いに舐めあうように関係機関にもすり寄っている。
とくにサンケイグループは大手町に豪華ビルを建て、お台場には横文字の博打場の設置をもくろんでいる。江戸時代の職分でいえば瓦版屋と金貸し、博打打ちの胴元と将軍が結託して洋物の博打場を作ることと同じこと、ここには職分の分別と極みがない。

これが、民主主義の成立要員は国民が等しく情報を共有することであり、新聞は社会の公器として言論や表現の自由を担保するなど勇ましく唱えるが、こと食い扶持が絡むとからっきしだらしがない。しかもコラムには自社の主張に沿う売文の輩や言論貴族を配して高邁にも木鐸を気取っているが、瓦版屋の太鼓持ちだと賢い庶民は見ている。


なぜなら人格とは何ら関係のない単なる附属性価値である、地位や肩書をもつ有名人の言を掲載して体裁をとり、読者を錯覚した価値に追い込み、久しく言われてきた販売店への部数二割増しの押し紙(押し売り)は広告主への永年の詐欺慣行として社員の食い扶持を購っていた。木鐸を気取るが誰一人問題意識を喚起する者はいなかった。もともとそれが我が国のオピニオンリーダーの姿だった。
そんな連中だから与太記事、嘘記事、捏造など朝飯前だった。だれも朝日を嗤えない。
逆に、明日は我が身と慰め合う同世界の仲間なのだ。



それらが韓国を批判している。
朝鮮戦争停戦中の韓国において、果たして民主や自由を他の類似国と同様に嗤えるのだろうか。もちろん北朝鮮も停戦中の当事国である。国情や民癖は過去からの経過によって培われる。昨今、嫌韓、呆韓などと嘲る風潮がある。明治のころには脱亜があった。
どんな事情にせよ、軋轢のある大国に追いやることはすべきではない。「勝手に・・・」「事大主義・・・」「ひがみ妬み・・」「もともとあの民族は・・」と、色々と物書きが騒がしいが、忠恕と寛容と許容は文明人の証だっのではないか









そこへきて、女性の独身大統領が7時間も行先が分からず・・、と相乗り記事を書き、漢字の意味とりが異なるとはいえどんな理屈をつけても居酒屋話ならまだしも、産経の有力記者が書く筆とは思えない。少数完結主義をとる週刊新潮なら、おなじ題材でも地を這う取材をしただろう。どこか瓦版屋は体裁をとり得てして各社横並びの記事を書く。
その矜持である独自の取材方法を他にして、地元紙のコピペに色合いを加えた記事は、大上段に民主主義や表現自由を盾にすり替え批判は、記者の真意をオボロゲニしてしまい、掲載を捨て石に世論を喚起した、あるいは起こるべき騒ぎによって表現の使命は達したと、まさか格好良く逃げ切るつもりはないだろう。

支局長は有能と聴くが、周りはその慣性がある。言や文を操るものが陥る己自身への大偽であり、そのための知恵は充分ある。朝日もそれが出た。

ことは、停戦状態にある国家に派遣された日本の瓦版屋の記者である。
ここでは、「大統領は公職者。我が国は・・」などと云うが、韓国は異国なのだ。新聞記者は自由と民主の国に行けばそれも通用するだろうが。中国でそのような際どい琴線に触れることを書けるだろうか。地元の記事や噂をコピペして体裁よく紙面を埋めるだろう。
昔は書けたが、今は書けない、その逆もあるだろう。駐在閉鎖になれば書くこともできない。再開した後の記事はどこか腰の引けたものになるのも常だ。

臨戦国には戦時法もある。平和国家は韓流ドラマや焼き肉グルメで騒いでいるが、底流では政治家や官吏の醜態や異形の犯罪でそれどころではない現状だ。
いわんや、ただならぬ仲となった韓国おいて敢えて筆を起こす問題でもあるまい。
まして、公職、公人、危機管理に民主と自由を添えれば、喰うには困らない記事も、探さずとも飛び込んでくる。
女性大統領の隠された時間となれば、韓国ならずとも我が国でもよからぬ事を想起する浮俗はある。とくに我が国に送れば、飛んで火に入る売文や言論貴族がごまんといる。
この手のネタの土俵は夕刊フジではなかったのか。

産経たるもの、なぜそんなところに目を付けるのか。
いくら深層を探求するといっても、大義を盾に大むこうの援軍を恃む気質は、ペンは剣よりもつよし、といった美句の使命感は薄い。
明治の頃、薄給の教師が女給の尻を触ったことを、教育の荒廃と書いた記者がいた。
明治の言論人、新聞日本を主宰した陸羯南は、その様な視点で公に良からぬものと書きなぐる記者を叱責した。薄給にあえぐ教師とはいえ一人の人間、それが教育の荒廃とは飛躍しすぎだと。つまり、そのぐらいのことはお前も分からないか、ということだ。



どうも物書きはネタがなくなると突飛なことを書く。朝日でないが江戸の仇は長崎で討つような騒ぎだが、たしか明治の頃かたき討ちは廃止と瓦版には書いてあった。
なにも仇討は命を取るだけではない。恥をかかされたり、食い扶持を無くすこともある。

このところ討つことに懸命なあの世界のこと、こちらもこの辺で筆をおくこととする。
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視察などもってのほか、見学が先だ

2015-06-04 18:38:09 | Weblog


ゴマメの言いがかりだが、今どきは見に行って学ぶ(見学)こともない。

視て察する、これは相当熟達した教養がなければ難しい。
文部省の官製学校歴を幾ら積もうと、いや、積めばつむほど判らなくなる。
ただ察するのではない。「明察」に達しなければ単なる暗愚のそぞろ歩きである。


あのとき菅総理が災害被災地に視察に行った。遅いも早いも問題にする方もおかしいが、察することができるなら音声や映像視覚でも用が足りることだ。現地の実態視察によって用が足りるのは別の意味からだろう。流行りのパフォーマンスもあろう。

ちなみに菅総理が行ったときヤジや罵声が飛んだ。あくまで国民の感覚的印象の一声が飛んだが、仮にも選挙で選んだ総理である。逆に小泉議員が行くと黄色い嬌声が巻き起こるが、これとて政治なるものでない。

両者の好き嫌いはともあれ、陛下が膝を折ると鎮まりの中でその忠恕心に涙する。権力はともかく威力がある。それはとてつもなく大きい。
しかも過不足を哀願したり、批判することはないが、被災者のあてどころもなくも、やりきれない心に慰めとともに自省や自立心を抱かせる威力だ。

つまり政治とは、金や資材の提供だけではなく、自立心と努力に相応した成果なり価値観をつくるための自由を担保・護持するものだという心の喚起を援け、それによって人々は「分」を得心する作用なのだろう。

事件の証拠集めではないが現場を見なければならないことも多々ある。
匂い、感触、感動、など言葉や文章で説明しきれないものがある。たしかに高給取りが持ってくる多種多様な情報が錯綜し、四角四面な成文法に縛られていては用が足りないことも斟酌できるが、先ずは総理がしたことは「見学」が適当である。

目で見て学び、その後、推察、洞察することである。
なにか文字にすると軽薄に感ずるような「見学」だが、いい加減に言葉の意味を解釈すると解釈がスキップして妙なところに着地することになる。やたら、゛文句付け゛を食い扶持の種にしている輩に気をとられていると沈着冷静な判断ができなくなる。
もともと荷が重いことも知らずに背負った立場だが、せめて松戸市の「すぐやる課」なみのフットワークで現場を見学して欲しい。

もともと元気ある行動に「士気」がいわれる。
総理の政治経歴もそうだが、政権内外には、゛いまさら゛という気分が立ちこめている。
内には自衛隊違憲、大企業の横暴、米軍への感情的嫌悪を党是としていた群れがあり、一種の逡巡と衒いがある。
外には卑小な阿諛迎合と現世利益を当て込んでいた民情の流れがあった。その圏外には儘っ子扱いされた自衛隊や現業職員が被災地の前線で辛労している。その解けない気分の方が辛い。

民情の流れの中には真摯に可能性を探りながら自活と自制を心がけるものがいる。陛下のお暮らしとメッセージはそれを後押しした。一方、鬼気せまる形相で買占めに走る、多くは戦後生まれの婦女子の大群がいる。落ち着いたが、それも反省ではなく飽きたのである。

まともな人間はそれを見学した。愚かさの反面教師である。そして彼女達は社会熱となった義捐募金に乗り遅れまいと参加し溜飲を下げて、その貢献の多少を語り合っている。
今こそ己の内と外を学ぶ良機だ。その点、家庭も学ぶべき場だろう。先ずは童に傾聴することだ。学校は何を学び、社会は何を教えてくれたのか。そして言志をなくした雄の子はどう学び、覚醒するのか。

そして「察する」こと、つまり他の忖度から忠恕に高めることが促がされるだろう。
文献や考証学、はたまた他に説明できるものに意味をおく知学の土壇場の無力を、人の倣いとして察することだ。それは潜在する能力や情緒の確認であり、己の再発見となるだろう。

徒な批判、右往左往する行動、それは先ず「見学」、そして「観察」が大切なことだ。
「目で視る」から「観る」、そして察する。この順序が狂うと結論が逆になる。

「陛下、今年は涼しくて何よりで・・・」
『東北は冷害で大変だろう』
「陛下、雑草を刈り取りました・・」
『名もない草木でもそこで生きている。やたら刈り取らないように』

察する、思いを寄せる、倣うべきは学び舎の数値ではなく人物から倣う。
ここに棲み分けられ、日本人として呼称されている人々の情緒は、その倣いを許容し理解する器量が矜持だったはずだ。



イメージは関係サイトより転載
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