将来の俊英 1989 5/26北京
北京学生運動のリーダー柴玲の録音
翻訳 佐藤慎一郎氏
1989年6月 4日 血の粛清
6月 8日 学生運動の総指揮、柴玲が録音する(午後4時録音)
6月10日於 香港テレビ 放送(10時20分)
《 柴玲の経歴》
1987年 北京大学心理学部卒業、
北京師範大学児童心理大学院に入学(23才)
柴玲の録音全文訳 (重複する点は、省略した)
【以下本文】
私たちは、手と手を握り、肩と肩とを並べながら、インターナショナルの歌声の中を、ゆっくりと一人一人テントの中から出て来ました。
手をつないで記念碑の北側、西側、南側までやって来ました。
私たちは静かに、其処へ座りこみました。
私たちの平和で物静かな目なざしを以て、殺し屋どもの用の刃ものを迎えたのです。
私たちのすゝめているのは、愛と恨しみとの戦いで、武力と武力との戦いではないのだと云うことを、私たちは知っていたからです。
私たちみんなが、もし私たちが平和を以て最高原則とする、この民主的な愛国運動の最後の結果が、もしも手に棒切れや、火炎瓶など、武器とは云えないような武器を持って、彼らのように手に機関銃を持ち、戦車をあやつり、すでに気狂いじみて理性を失ってしまっている兵士たちと、必死に格闘することになったならば、それは私たちのこの民主運動は、最大の悲哀ということになります。
学生たちは、それで静かに其処に座りこんで、犠牲となるのを待ったのです。
この時、指揮部のテントの中には、幾つかのマイクロフォンが有り、外部には、外側には幾つかのスピーカーが有り、テントの中では、「龍のような偉人」という歌曲が流れていました。
学生たちは、その歌声に合わせて、歌っていました。目には涙をためて、みんなたがいに抱きあい、手を握りあいました。
一人一人は、みな自分の生命の最後の一刻がやって来たのだ。
この民主のために犠牲となる時刻がやって来たのだ、ということを知っていたからです。
一人の幼い王力という学生、彼はわずかに15才でした。その彼は辞世の遺書を書いたのです。
私はすでに、その絶筆の具体的な内容については、はっきりと覚えてはおりません。 彼が私に次のような話をしたのを記憶しているだけです。
「 人生というものは、非常に不思議なものです。生と死というのは、一瞬のことです。
ある時、一匹の小さい虫が這い上って来たのを見ました。
彼は足を動かして、その虫を踏み潰そうとしたのです。
その小虫は、すぐさま動かなくなりました。 」と言ったのです。
彼はたった15才になったばかりなのに、死ということは、どんな事なのかということを考えはじめていたのです。
共和国よ、覚えておいて下さい、はっきりと覚えておいて下さい。これは共和国の為めに奮闘している子供たちなのです。(泣き声で、言葉にならない)
おそらく早朝の2時か3時頃のこと。指揮部は、記念碑の下の放送センターを放棄せざるをえなくなり、上のもう一つの放送センターまで撤退して、全体を指揮しなくては、ならなくなりました。
私は総指揮として、指揮部の学生たちと記念碑の周囲を取り囲み、学生たちの情況を見ながら、学生たちに対して、最後の動員をしました。
学生たちは、黙々として地面に座っていました。彼らは
「 私たちは、じっとして座っていよう。私たちのこの第一列は、一番確固として揺ぎのないものなのだ。」と言いました。
私たちの後ろの学生たちも
「 同じように、じっとして座っていよう。先頭の学生たちが殺されようと、敲かれようと、何も怖れることはない。私たちは静かに座っていよう。私たちは動か ない。私たちは、絶対に人を殺すようなことは、ありえない」と言うのです。
私はみんなに少しばかりの話をしました。
「 ある古い物語があります。恐らく、みんな知っておる事でしょう。一群の蟻、おそらく11億の蟻(注、中国大陸の人口は、いま11億を少し越している)がいました。
ある日、山の上で火事が起きました。山上の蟻は、山を降りなくては、全家族を救うことができないのです。
その時、これらの蟻たちは、一かたまり、一かたまりとなって、山を転り降りて行きました。外側にいた蟻は、焼け死んでしまいました。
しかし、それよりも、もっと沢山の蟻たちは、生きながらえることが、できたのです。
学生のみなさん、私たちは広場に居ます。
私たちは、すでにこの民族の一番外側に立っています。
私たちはいま、一人一人の血液は、私たちの犠牲によってこそ、はじめてこの共和国が、よみがえる事と取り換えることが、できるのだということを、みんな知っているからなのです」(泣き声で、言葉が途切れる)と語りました。
学生たちは、インターナショナルを歌いはじめました。一回、そしてまた一回と歌いながら、彼らは、手と手を堅く握りあっていました。
最後に、四人の断食をしていた同胞の侯徳健、 暁波、周舵などは、もはや、どうにも我慢し切れなくなって、
「子供たちよ、お前たちは、もうこれ以上、犠牲となっては、いけない」
と言いました。
しかし、一人一人の学生たちは、みな揺ぎなく、しっかりしていました。
彼らは、軍を探して、談判をしに行ったのです。いわゆる戒厳令に責任をもっている指揮部の軍人に、談判して
「 私たちは、広場を撤退します。但し、あなた方は、学生たちの安全と、平和裡に撤退するのを保証してくれることを希望します」と言いました。
その時、指揮部では、多くの学生たちの意見を聞いてから、撤退するか、それとも残留するかを話しあいました。
そして全学生を撤退させることを決定したのです。
しかし、この時、この死刑執行人たちは、約束したことを守りもせず、学生たちが撤退しようとしていた時、鉄カブトをかぶり、手に機関銃を持った兵士たちは、すでに記念碑の三階まで追って来たのです。
指揮部が、この撤退の決定を、みんなに未だ知らせないうちに、私たちが記念碑の上に備えつけた、ラッパは、すでに蜂の巣のように破壊されてしまったのです。
「これは人民の記念碑だよ。人民英雄の記念碑だぞ」
と叫びながら、彼らは意外にも、記念碑に向って発砲してきたのです。
大多数の学生たちは、撤退しました。
私たちは、泣きながら撤退したのです。市民たちは、みな
「泣いちゃ、いけない」と言いました。学生たちは
「私たちは、再び帰って来るでしょう。これは人民の広場だからです」と言いました。(泣き声で、途絶える)
しかし、私たちは、後で始めて知ったのでしたが、一部の学生たちは、この政府に対して、この軍隊に対して、なおも希望を抱いていたのです。
彼らは最悪の場合でも、軍隊は、みんなを強制的に拉致するだけだと思っていたのです。
彼らは、あまりにも疲れていたのです。
まだテントの中で熟睡していた時、戦車はすでに彼らを肉餅のように引き殺してしまったのです。(激しく泣き出す)
ある者は、学生たちは200人あまり死んだと云えます。
またある者は、この広場では、すでに、4000人以上が死んだと言います。
具体的な数字は、今もって私には解りません。
しかし、あの広場の一番外側にいた労働者の自治会の人々は、血を浴びながら奮戦していたのでしたが、彼らは全部みな死んでしまったのです。
彼らは最小限2~30人はいました。
聞くところによると、学生たちの大部分が撤退している時、戦車や装甲車は、テント……衣服にガソリンをかけ、さらに学生たちの屍体を全部焼きました。その後、水で地面を洗い流し、広場には、一点の痕跡も残さないようにしたと云うのです。
以下次号
北京学生運動のリーダー柴玲の録音
翻訳 佐藤慎一郎氏
1989年6月 4日 血の粛清
6月 8日 学生運動の総指揮、柴玲が録音する(午後4時録音)
6月10日於 香港テレビ 放送(10時20分)
《 柴玲の経歴》
1987年 北京大学心理学部卒業、
北京師範大学児童心理大学院に入学(23才)
柴玲の録音全文訳 (重複する点は、省略した)
【以下本文】
私たちは、手と手を握り、肩と肩とを並べながら、インターナショナルの歌声の中を、ゆっくりと一人一人テントの中から出て来ました。
手をつないで記念碑の北側、西側、南側までやって来ました。
私たちは静かに、其処へ座りこみました。
私たちの平和で物静かな目なざしを以て、殺し屋どもの用の刃ものを迎えたのです。
私たちのすゝめているのは、愛と恨しみとの戦いで、武力と武力との戦いではないのだと云うことを、私たちは知っていたからです。
私たちみんなが、もし私たちが平和を以て最高原則とする、この民主的な愛国運動の最後の結果が、もしも手に棒切れや、火炎瓶など、武器とは云えないような武器を持って、彼らのように手に機関銃を持ち、戦車をあやつり、すでに気狂いじみて理性を失ってしまっている兵士たちと、必死に格闘することになったならば、それは私たちのこの民主運動は、最大の悲哀ということになります。
学生たちは、それで静かに其処に座りこんで、犠牲となるのを待ったのです。
この時、指揮部のテントの中には、幾つかのマイクロフォンが有り、外部には、外側には幾つかのスピーカーが有り、テントの中では、「龍のような偉人」という歌曲が流れていました。
学生たちは、その歌声に合わせて、歌っていました。目には涙をためて、みんなたがいに抱きあい、手を握りあいました。
一人一人は、みな自分の生命の最後の一刻がやって来たのだ。
この民主のために犠牲となる時刻がやって来たのだ、ということを知っていたからです。
一人の幼い王力という学生、彼はわずかに15才でした。その彼は辞世の遺書を書いたのです。
私はすでに、その絶筆の具体的な内容については、はっきりと覚えてはおりません。 彼が私に次のような話をしたのを記憶しているだけです。
「 人生というものは、非常に不思議なものです。生と死というのは、一瞬のことです。
ある時、一匹の小さい虫が這い上って来たのを見ました。
彼は足を動かして、その虫を踏み潰そうとしたのです。
その小虫は、すぐさま動かなくなりました。 」と言ったのです。
彼はたった15才になったばかりなのに、死ということは、どんな事なのかということを考えはじめていたのです。
共和国よ、覚えておいて下さい、はっきりと覚えておいて下さい。これは共和国の為めに奮闘している子供たちなのです。(泣き声で、言葉にならない)
おそらく早朝の2時か3時頃のこと。指揮部は、記念碑の下の放送センターを放棄せざるをえなくなり、上のもう一つの放送センターまで撤退して、全体を指揮しなくては、ならなくなりました。
私は総指揮として、指揮部の学生たちと記念碑の周囲を取り囲み、学生たちの情況を見ながら、学生たちに対して、最後の動員をしました。
学生たちは、黙々として地面に座っていました。彼らは
「 私たちは、じっとして座っていよう。私たちのこの第一列は、一番確固として揺ぎのないものなのだ。」と言いました。
私たちの後ろの学生たちも
「 同じように、じっとして座っていよう。先頭の学生たちが殺されようと、敲かれようと、何も怖れることはない。私たちは静かに座っていよう。私たちは動か ない。私たちは、絶対に人を殺すようなことは、ありえない」と言うのです。
私はみんなに少しばかりの話をしました。
「 ある古い物語があります。恐らく、みんな知っておる事でしょう。一群の蟻、おそらく11億の蟻(注、中国大陸の人口は、いま11億を少し越している)がいました。
ある日、山の上で火事が起きました。山上の蟻は、山を降りなくては、全家族を救うことができないのです。
その時、これらの蟻たちは、一かたまり、一かたまりとなって、山を転り降りて行きました。外側にいた蟻は、焼け死んでしまいました。
しかし、それよりも、もっと沢山の蟻たちは、生きながらえることが、できたのです。
学生のみなさん、私たちは広場に居ます。
私たちは、すでにこの民族の一番外側に立っています。
私たちはいま、一人一人の血液は、私たちの犠牲によってこそ、はじめてこの共和国が、よみがえる事と取り換えることが、できるのだということを、みんな知っているからなのです」(泣き声で、言葉が途切れる)と語りました。
学生たちは、インターナショナルを歌いはじめました。一回、そしてまた一回と歌いながら、彼らは、手と手を堅く握りあっていました。
最後に、四人の断食をしていた同胞の侯徳健、 暁波、周舵などは、もはや、どうにも我慢し切れなくなって、
「子供たちよ、お前たちは、もうこれ以上、犠牲となっては、いけない」
と言いました。
しかし、一人一人の学生たちは、みな揺ぎなく、しっかりしていました。
彼らは、軍を探して、談判をしに行ったのです。いわゆる戒厳令に責任をもっている指揮部の軍人に、談判して
「 私たちは、広場を撤退します。但し、あなた方は、学生たちの安全と、平和裡に撤退するのを保証してくれることを希望します」と言いました。
その時、指揮部では、多くの学生たちの意見を聞いてから、撤退するか、それとも残留するかを話しあいました。
そして全学生を撤退させることを決定したのです。
しかし、この時、この死刑執行人たちは、約束したことを守りもせず、学生たちが撤退しようとしていた時、鉄カブトをかぶり、手に機関銃を持った兵士たちは、すでに記念碑の三階まで追って来たのです。
指揮部が、この撤退の決定を、みんなに未だ知らせないうちに、私たちが記念碑の上に備えつけた、ラッパは、すでに蜂の巣のように破壊されてしまったのです。
「これは人民の記念碑だよ。人民英雄の記念碑だぞ」
と叫びながら、彼らは意外にも、記念碑に向って発砲してきたのです。
大多数の学生たちは、撤退しました。
私たちは、泣きながら撤退したのです。市民たちは、みな
「泣いちゃ、いけない」と言いました。学生たちは
「私たちは、再び帰って来るでしょう。これは人民の広場だからです」と言いました。(泣き声で、途絶える)
しかし、私たちは、後で始めて知ったのでしたが、一部の学生たちは、この政府に対して、この軍隊に対して、なおも希望を抱いていたのです。
彼らは最悪の場合でも、軍隊は、みんなを強制的に拉致するだけだと思っていたのです。
彼らは、あまりにも疲れていたのです。
まだテントの中で熟睡していた時、戦車はすでに彼らを肉餅のように引き殺してしまったのです。(激しく泣き出す)
ある者は、学生たちは200人あまり死んだと云えます。
またある者は、この広場では、すでに、4000人以上が死んだと言います。
具体的な数字は、今もって私には解りません。
しかし、あの広場の一番外側にいた労働者の自治会の人々は、血を浴びながら奮戦していたのでしたが、彼らは全部みな死んでしまったのです。
彼らは最小限2~30人はいました。
聞くところによると、学生たちの大部分が撤退している時、戦車や装甲車は、テント……衣服にガソリンをかけ、さらに学生たちの屍体を全部焼きました。その後、水で地面を洗い流し、広場には、一点の痕跡も残さないようにしたと云うのです。
以下次号