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まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

1989年6月3日 北京天安門広場の若者たち 其の二

2007-08-31 07:39:57 | Weblog
            将来の俊英 1989 5/26北京


  北京学生運動のリーダー柴玲の録音
  翻訳 佐藤慎一郎氏

1989年6月 4日    血の粛清
    
    6月 8日    学生運動の総指揮、柴玲が録音する(午後4時録音)
    
    6月10日於   香港テレビ 放送(10時20分)

   《 柴玲の経歴》
      1987年   北京大学心理学部卒業、
              北京師範大学児童心理大学院に入学(23才)

  柴玲の録音全文訳 (重複する点は、省略した)


【以下本文】

 私たちは、手と手を握り、肩と肩とを並べながら、インターナショナルの歌声の中を、ゆっくりと一人一人テントの中から出て来ました。
 手をつないで記念碑の北側、西側、南側までやって来ました。
 私たちは静かに、其処へ座りこみました。
 私たちの平和で物静かな目なざしを以て、殺し屋どもの用の刃ものを迎えたのです。
 
 私たちのすゝめているのは、愛と恨しみとの戦いで、武力と武力との戦いではないのだと云うことを、私たちは知っていたからです。
 私たちみんなが、もし私たちが平和を以て最高原則とする、この民主的な愛国運動の最後の結果が、もしも手に棒切れや、火炎瓶など、武器とは云えないような武器を持って、彼らのように手に機関銃を持ち、戦車をあやつり、すでに気狂いじみて理性を失ってしまっている兵士たちと、必死に格闘することになったならば、それは私たちのこの民主運動は、最大の悲哀ということになります。
 学生たちは、それで静かに其処に座りこんで、犠牲となるのを待ったのです。
 この時、指揮部のテントの中には、幾つかのマイクロフォンが有り、外部には、外側には幾つかのスピーカーが有り、テントの中では、「龍のような偉人」という歌曲が流れていました。
 学生たちは、その歌声に合わせて、歌っていました。目には涙をためて、みんなたがいに抱きあい、手を握りあいました。

 一人一人は、みな自分の生命の最後の一刻がやって来たのだ。
 この民主のために犠牲となる時刻がやって来たのだ、ということを知っていたからです。



 一人の幼い王力という学生、彼はわずかに15才でした。その彼は辞世の遺書を書いたのです。
 私はすでに、その絶筆の具体的な内容については、はっきりと覚えてはおりません。 彼が私に次のような話をしたのを記憶しているだけです。
 「 人生というものは、非常に不思議なものです。生と死というのは、一瞬のことです。
   ある時、一匹の小さい虫が這い上って来たのを見ました。
   彼は足を動かして、その虫を踏み潰そうとしたのです。
   その小虫は、すぐさま動かなくなりました。 」と言ったのです。
 彼はたった15才になったばかりなのに、死ということは、どんな事なのかということを考えはじめていたのです。
 共和国よ、覚えておいて下さい、はっきりと覚えておいて下さい。これは共和国の為めに奮闘している子供たちなのです。(泣き声で、言葉にならない)

 おそらく早朝の2時か3時頃のこと。指揮部は、記念碑の下の放送センターを放棄せざるをえなくなり、上のもう一つの放送センターまで撤退して、全体を指揮しなくては、ならなくなりました。
 私は総指揮として、指揮部の学生たちと記念碑の周囲を取り囲み、学生たちの情況を見ながら、学生たちに対して、最後の動員をしました。
 学生たちは、黙々として地面に座っていました。彼らは
 「 私たちは、じっとして座っていよう。私たちのこの第一列は、一番確固として揺ぎのないものなのだ。」と言いました。
 私たちの後ろの学生たちも
 「 同じように、じっとして座っていよう。先頭の学生たちが殺されようと、敲かれようと、何も怖れることはない。私たちは静かに座っていよう。私たちは動か  ない。私たちは、絶対に人を殺すようなことは、ありえない」と言うのです。



 私はみんなに少しばかりの話をしました。
 「 ある古い物語があります。恐らく、みんな知っておる事でしょう。一群の蟻、おそらく11億の蟻(注、中国大陸の人口は、いま11億を少し越している)がいました。
 ある日、山の上で火事が起きました。山上の蟻は、山を降りなくては、全家族を救うことができないのです。
 その時、これらの蟻たちは、一かたまり、一かたまりとなって、山を転り降りて行きました。外側にいた蟻は、焼け死んでしまいました。
 しかし、それよりも、もっと沢山の蟻たちは、生きながらえることが、できたのです。

   学生のみなさん、私たちは広場に居ます。
   私たちは、すでにこの民族の一番外側に立っています。
   私たちはいま、一人一人の血液は、私たちの犠牲によってこそ、はじめてこの共和国が、よみがえる事と取り換えることが、できるのだということを、みんな知っているからなのです」(泣き声で、言葉が途切れる)と語りました。

 学生たちは、インターナショナルを歌いはじめました。一回、そしてまた一回と歌いながら、彼らは、手と手を堅く握りあっていました。
 最後に、四人の断食をしていた同胞の侯徳健、 暁波、周舵などは、もはや、どうにも我慢し切れなくなって、 
 「子供たちよ、お前たちは、もうこれ以上、犠牲となっては、いけない」
と言いました。
 しかし、一人一人の学生たちは、みな揺ぎなく、しっかりしていました。
 彼らは、軍を探して、談判をしに行ったのです。いわゆる戒厳令に責任をもっている指揮部の軍人に、談判して
 「 私たちは、広場を撤退します。但し、あなた方は、学生たちの安全と、平和裡に撤退するのを保証してくれることを希望します」と言いました。
 その時、指揮部では、多くの学生たちの意見を聞いてから、撤退するか、それとも残留するかを話しあいました。
 そして全学生を撤退させることを決定したのです。
 しかし、この時、この死刑執行人たちは、約束したことを守りもせず、学生たちが撤退しようとしていた時、鉄カブトをかぶり、手に機関銃を持った兵士たちは、すでに記念碑の三階まで追って来たのです。


 指揮部が、この撤退の決定を、みんなに未だ知らせないうちに、私たちが記念碑の上に備えつけた、ラッパは、すでに蜂の巣のように破壊されてしまったのです。
 「これは人民の記念碑だよ。人民英雄の記念碑だぞ」
と叫びながら、彼らは意外にも、記念碑に向って発砲してきたのです。
 大多数の学生たちは、撤退しました。
 私たちは、泣きながら撤退したのです。市民たちは、みな
 「泣いちゃ、いけない」と言いました。学生たちは
 「私たちは、再び帰って来るでしょう。これは人民の広場だからです」と言いました。(泣き声で、途絶える)

 しかし、私たちは、後で始めて知ったのでしたが、一部の学生たちは、この政府に対して、この軍隊に対して、なおも希望を抱いていたのです。
 彼らは最悪の場合でも、軍隊は、みんなを強制的に拉致するだけだと思っていたのです。
 彼らは、あまりにも疲れていたのです。
 まだテントの中で熟睡していた時、戦車はすでに彼らを肉餅のように引き殺してしまったのです。(激しく泣き出す)
 ある者は、学生たちは200人あまり死んだと云えます。
 またある者は、この広場では、すでに、4000人以上が死んだと言います。
 具体的な数字は、今もって私には解りません。
 しかし、あの広場の一番外側にいた労働者の自治会の人々は、血を浴びながら奮戦していたのでしたが、彼らは全部みな死んでしまったのです。
 彼らは最小限2~30人はいました。

 聞くところによると、学生たちの大部分が撤退している時、戦車や装甲車は、テント……衣服にガソリンをかけ、さらに学生たちの屍体を全部焼きました。その後、水で地面を洗い流し、広場には、一点の痕跡も残さないようにしたと云うのです。

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1989年6月3日 北京天安門広場の若者たち 其の一

2007-08-30 16:58:59 | Weblog
 
       天安門広場の中央、彼らの背後に掲げられたのは国父孫文だった


美しい北京の6月、天安門に散華した若者の血は世俗の中国および中国人観を一変させた。砂民といわれ国家意識の纏まりも無く、色、食、財の本能的欲求に対してあけすけな動態の印象のある民族のエリートが、「官倒」(汚職腐敗を倒す)を掲げ、しかも無抵抗の行動を起こしたのである。

民衆の尊敬を集める人民解放軍の銃火に率先して身を向けたのである。

後日、天安門広場の敷石に頬を触れたとき、あのとき筆者の眼前で繰り広げられた彼らの至情の行為が浮かび、不覚にも哀涙を誘ったことを想いだす。
尊き若者の血は、その後の世界を転換させるに余りあるものだった。

それは、日本及び日本人に対して戸惑いの感を芽生えさせることでもあった。



 
【以下本文】

  北京学生運動のリーダー柴玲の録音
  翻訳 佐藤慎一郎氏

1989年6月 4日    血の粛清
    
    6月 8日    学生運動の総指揮、柴玲が録音する(午後4時録音)
    
    6月10日於   香港テレビ 放送(10時20分)

   《 柴玲の経歴》
      1987年   北京大学心理学部卒業、
              北京師範大学児童心理大学院に入学(23才)


  柴玲の録音全文訳 (重複する点は、省略した)


 今日は、西暦1989年6月8日、午後4時。私は柴玲です。天安門広場を守っている指揮部の総指揮です。
 私はまだ生きています。6月2日から6月4日までの、この間における全体としての広場の情況に関しては、自分が最も資格のある評論家であると思っています。
 私は事実の真相を、一人一人の同胞、一人一人の中国の公民に告げる責任が有ります。
 
 6月2日の晩、10時前後のことでした。最初の一つの信号は、1台のバトカーが、4人の罪もない人たちに向って、、だしぬけに突っこんで来たことです。その中の3人はすでに死亡しました。

 引き続いて来た第二の信号は、一部の兵士たちが、彼らの車輌一杯に積んでいた、彼らの銃器、軍服、その他の器材を放棄し、軍の車輌を阻んでいた一般の人々や学生たちに投げ与えたのです。
このような行為について、学生たちは非常に警戒し、ただちにこれらの品物を一ヵ所に集めて、公安局に引き渡しました。我々には証拠となる、その受取りが有りま
す。

 第三の信号は、6月3日午後2時10分。六部口と新華門において、同時に大量の軍警が出動して、私たち学生や市民を殴打したことです。当時学生たちは車輌の上に立って、メガホンで、彼らに対して
 「人民警察は、人民を愛せよ!」
 「人民警察は、人民を敲かない!」
と叫んでいました。
 一人の同級生が、最初の一句を叫ぶやいなや、一人の軍人が、まっしぐらに突進して来て、彼の腹部をけり上げ、彼に向って
 「この野郎、誰がお前みたいな奴を、愛するものか!」
と罵り、真正面から又もや棍棒で殴りつけたのです。この学生は、同時に倒れてしまいました。

 私は、私たちの位置を、お話しましょう。
 私は総指揮です。その当時、広場には、一つの放送センターが設けられており、この放送センターは断食団の放送センターと呼んでいました。
 私は、ずっと其処を堅く守っていたのです。放送を通じて、全会場の学生たち
の行動を指揮していました。………… 私たちは、しょっちゅう各方面からくる緊急を告げる消息を受取っていました。
 学生たちや、市民たちが、敲れたという消息や、殺害されたという消息が伝わって来ていました。

 その晩の8時か9時頃から、ずっと10時にかけて、情況はますます悪化してきており、そのような消息は、すでに10件を下らぬほど伝わって来ていました。
 当時、私たちの指揮部は、その晩の7時か8時前後のこと、緊急記者招待会を挙行し、私たちが知っている真相の全部を、その場にいた中外の記者たちに伝えたのです。

 外国の記者たちは、非常に少なかった。と云うのは、聞くところによると、一部の大きなホテル、外国人の泊っているホテルには軍隊が居て軍事管理に当っており、彼らの部屋までも、すべて捜査されたからだと云うことでした。
その日は、チラホラと一人の二人の外国人記者が、広場に来ただけでした。
 指揮部は、一つの声明を発表しました。
 私たちの提出した唯一のスローガンは、要するに
 「李鵬の偽政府を、打倒せよ!」でした。


9時ちょうど、全天安門広場にいた学生たちは、起ち上って
 「 私は宣誓する。祖国の民主化への行程を推進するために、祖国が本当に盛大に繁栄するために、偉大な祖国が、一つまみの陰謀家によって顛覆されないようにするために、11億の人民が、白色テロの恐怖の中で命を失うことが無いように するために、私は若い生命を賭け、死を誓って、天安門を守り、共和国を守るこ とを、宣誓する。首が斬り落されてもよい。血は流れてもよい。人民広場は棄てられない。私たちは若い生命を賭けて最後の一人となるまで戦う!」
と、右手を挙げて宣誓しました。

 10時ちょうど、広場の民主大学が正式に授業を開始しました。副総指揮の張徳利が、民主大学の校長になりました。
 各界の人々は、民主大学の成立に対して、熱烈な祝賀を表わしました
 当時の情況としては、指揮部の此処ではでは、続々と各方面からの緊急の知らせを受取っていました。情況は非常に緊張していました。
 しかしながら、広場の北部に於ては、私たちの民主大学の成立を祝う拍手の音が鳴り響いていました。民主大学は、自由の女神の像の附近に設立したのです。

 そして、その周囲の長安街では、すでに血が河のように、なっていたのでした。人殺したちーあの27軍の兵士たちは、戦車、機関銃、銃剣(催涙ガスは、その時には、すでに遅すぎた)が、勇敢に一句のスローガンを叫んだだけの人に、勇敢に一つの煉瓦を投げつけただけの人に対して、彼らは機関銃で、追い撃ちをかけてきたのです。 長安街のどの屍体にも、いずれも、その胸には、一片の血が流れていました。

 学生が指揮部に飛んで来ました。
 彼らの手に、胸に、そして彼らのももは、みな血で染まっていました。これ
らは同胞たちの命の最後の一滴の血だったのです。
 彼らは自分たちの胸に、これらの同胞を抱きしめて、やって来たのでした。
 10時すぎ、指揮部では、みんなに要求しました。

 一番大事なこととして、みんなに要求したことは、私たちが、この4月から学生を主体とした愛国民主運動を始めてから、5月に入って以来、全人民運動へと発展変化してきました。私たちの原則は、最初から最後まで平和的な請願をすることでした。 私たちの闘争の最高原則は、平和です。
 非常に多くの学生たちや、労働者、市民たちが、私たちの指揮部へやって来て、こんな事では、いけないのではないか、武器を取るべきではないのか、と言いました。 男子の学生たちも、やはり非常に憤激していました。

 しかし私たち指揮部の学生たちは、みんなに
 「私たちは平和的な請願をしているのです。平和の最高原則は犠牲です」
と告げました。


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今に見る、満州国 土壇場の醜態 終章

2007-08-20 07:12:52 | Weblog
 
              孫   佐藤慎一郎氏

  二十世紀 日本及び日本人は、どう融解したのか
王道楽土を求め、異民族の地で知った土壇場における日本人の姿に、明治以降日本及び日本人が追い求めた現実をみる。それはアジア諸外国に受け入れられる人格の普遍性を問うことでもあったと同時に、アジアの意思に応えうる任があるかの試金石でもあった。


【以下本文】

汪さんは
 「張県知事は、私たちの命の恩人だ。佐藤君、君はその張県知事と親友だ。私が自分の恩人の親友に対して、これ位の事をするのは、当然のことでしょう……」
 と言うのです。私ははじめて、汪さんの私に対する数々の温いもてなしの意味が分かりました。

 思いがけなくも、汪さんの部屋の壁に、私の家内の三味線がかかっているのが、目につきました。ここえ入所した日に奪われたものでした。
 私は汪さんに、つい甘えて“汪さん、実はこの三味線は、私の恋女房のものなんですが……”と言ったら、汪さんは慌てて、“おお、そうか。持ってゆけ、持ってゆけ”と、壁から三味線を下して、私に渡してくれました。

 私は汪さんの手を長い間、にぎりしめて、感謝のお別れをしました。

 最後に、汪さんは、私の釈放を悦びながらも、“君が無罪放免になったのは、どうしても分からない”と首をかしげていました。また、私が挨拶に行った所長さんも、その他の誰もが、悦んでくれながらも、私の釈放については、釈然としえないものがあった様子でした。事実、私自身としても、全く思いもすけず、日本へ引揚げて来たのでした。

 しばらくしてから、私の叔父山田純三郎が、上海から引揚げて来て、はしめて私が突然釈放された意味が分かりました。
 というのは、私は満洲では、大変な悪党として新聞に出たのだそうです。北京の新聞にも、上海の新聞にも、その悪党ぶりが大々的に報道されたのだそうです。そのため、当時上海に居た純三郎叔父が、その新聞を見て驚いた。それですぐさま上海にいた湯恩伯将軍を直接訪ねて、“この新聞に出ている佐藤慎一郎は、名前はたしかに私の甥だ。経歴も大体この通りだ。しかし甥は、こんな事をする人間ではない。調べて見てくれませんか”と頼んだのだそうです。

 黙って聞いていた湯恩伯将軍は、電報用紙を持って来させて、
 「佐藤慎一郎を、直ちに釈放して、長官官邸に引きとれ」
 と書いて、“山田さん、これで如何でしょうか”と言う。山田は“お願いします”と一礼して去った。それだけだと云うのです。

 その電報が満洲に打電されたのでした。そしてその電報が、私の命を救ってくれたのでした。
 私は、ここで再び
 「人情は、国法より重し」
 という中国の俗諺を思い出しました。 
                        
                    完


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greendoor@jcom.home.ne.jp

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今に見る、満州国 土壇場の醜態 其の十一

2007-08-20 07:05:37 | Weblog

  二十世紀 日本及び日本人は、どう融解したのか
王道楽土を求め、異民族の地で知った土壇場における日本人の姿に、明治以降日本及び日本人が追い求めた現実をみる。それはアジア諸外国に受け入れられる人格の普遍性を問うことでもあったと同時に、アジアの意思に応えうる任があるかの試金石でもあった。


【以下本文】


(12)私の古い友達だ、よろしく頼むよ

 長春警察局から移送されて来た私たち50数名を乗せた貨車は、奉天駅に着きました。国府軍の物々しい厳戒の中を、私たちは奉天の大通りを静かに歩み続けました。
 大通りの両側の人道には、満洲人の人山が築かれていました。戦犯収容所に着くまでの間、私たち日本人に対する、ただの一言の罵声すらも聞くことがありませんでした。私は、何かしら、ほっとしたものを感じました。

 収容所に到着。一同整列の上、私は代表して、将校らしい所長に対して敬礼。そして簡単な挨拶をしました。軍法官らしい軍人が、私たち一人一人に対して、その身元の確認などをしていました。

 私たちは三組ぐらいに分けられて、二階の収容室に移されました。部屋には、アンペラが敷かれていました。私はトッサに荷物の中から、満洲人から差入れられた札束を取り出して、アンペラの下にかくし、その上にあぐらをかきました。ここは中国政府の完全に軍事管理となっているのだから、満洲国の論理は通用するはずはないと感じとられたからでした。

 果して、暫くしてから、5~6名の兵士が入って来て、荷物を全部前に出せ、検査すると申し渡し、目ぼしい品は、全部取り上げて持って行ってしまいました。私は女房の愛用していた三味線を一つ取られただけでした。一同は、あっ気にとられて呆然としていました。私は、ここは国民党の軍事管理だから、手も足も出ないだろうと、最初から観念していましたから、別に驚きもしませんでした。

 この収容所には、全満各地から送られて来た計300余名の戦犯容疑者が、収容されていました。ここでは、排泄のため、毎日、朝一回、夕方一回、一日計二回だけ、大きな運動場に出されます。排泄といっても、便所が有るわけではない。収容所内になる大きな運動場を取り囲んでいる高塀の下に、ずらりと一列にしゃがんで、文字通り砲列をしいた形で、一斉に排便する異様な風景は、美事なものでした。

 建物の屋上数ヶ所には機関銃が据えつけられ、用便をしている私たちに照準を合わせています。さらに、用便をしている私たちに対して、20メートルおき位に配置された、中国兵は、私たちに直接銃を向けて、目を光らせています。

 私たちが奉天の収容所に着いた、その日の晩方のことでした。
 将校か、下士官か分からない一人の中国兵が、私の収容されている監房の入口のドアーの前に現われました。ドアーには、急ごしらえの鉄格子の小窓がついていました。
 「今日、長春から来た者の中で、代表して挨拶していた者が、おったろう、誰だ。」
 と言う。私は入口の小窓の前に出て、一礼しました。彼は私の経歴や逮捕された理由などを、一通り聞いていました。私は彼の温味のある東北なまりの言葉に、“この兵隊さんは、満洲人だな――”とすぐわかり、つい何気なしに
 「故郷は、どちらですか」
 と尋ねたら、即座に“依蘭県だ”と言う。私は、とっさに前後の考えもなく
 「依蘭県?張県長(張積珍県知事)さんは、どうなったか御存知ないでしょうか」
 と、うかつにも、口をすべらしてしまったのです。
 「何?お前、張県長を、どうして知っているのか。どんな関係だ」
 と、矢継ぎ早に問い詰めてきました。しまったとは思いましたが、観念して、私と張県長との関係を、正直に話しました。

 実は私は大正13年、青森師範の二部を出て、小学校の先生をしていましたが一年に二回首を斬られ、行く所も無くなって、満洲行となったのです。大正14年、4月、私は乃木大将とステッセル将軍が会見した旅順郊外の水師営会見所のすぐ近くにある満洲人の小学校の先生となったのです。
 その学校は張積珍という、私よりは少し年配の先生がいました。その人が、それから20年経った昭和20年の終戦の時には、北満の依蘭県の県知事をしていたのでした。
 その依蘭県が中共軍に包囲されたという消息を耳にしたまま、ようとして、音沙汰が無かったのでした。それで私は、その中国兵に対して
 「あの世に行く前に、心にかかるのは、張県長さんの事だけです」
 と言葉を結びました。

 黙って聞いていた彼は、突然衛兵に鍵を開けさせて
 「里は、お前、俺について来い……」
 と言う。私は観念して、彼の後に続きました。

 彼は階下のある一室のドアーを開けました。同僚らしい軍人たち5~6名が、円卓を囲んで豪華な夕食の最中でした。彼はみんなに向って
 「この佐藤は、俺の昔からの仲の良い友人だからな。よろしく頼むよ……」
 と私を一同に紹介してくれたのには、驚きました。
 彼らは、“さあ、おかけなさい”と私に椅子をすすめ、箸をとるように勧めてくれました。いったい、この依蘭県出身だという彼は、誰なんだろう。私には皆目見当もつきません。冗談がとび、爆笑がわき、私の存在すらも、その温い雰囲気の中で、完全に調和のとれた存在となっていました。分らない。全く分らない。

 暫くしてから、私は“消燈の時間ですから、部屋に帰らして下さい”と言いましたら
 「佐藤、君は明日から、朝晩、ここで食事をとれよ」
 と言うのです。

 私は丁寧に“それだけは、お許し下さい”とお断りしましたら、彼は、厳粛な顔付をして
 「命令、命令だ」
 と言い終って、ニッコリ笑ったのです。私は皆からの明るい声に送られて部屋に帰りました。私には、どう考えても分からない。全く分からない。

 その翌朝のことでした。私たちは昨日のように大運動場に出され、用便をさせられました。やがて整列の上、各自の監房の方へと歩みを移していました。その時、昨夜私を連れ出した中国兵が“佐藤は、おらんか――”と叫んでいます。私が飛んで行ったら、
 「君は、部屋に入らんでよろしい。外で自由にしておってよい。監視兵には、みな話してあるから……」
 と言うのです。
 結局、私はここへ着いた翌日から、収容所内での行動の自由を許されたのです。

 それにしても、あの依蘭県人だというあの中国兵――汪さん(仮名)とは、一体どのような人なのだろう。何のために、一面識もない私に対して、これほどまでに親身になり、自由を許してくれたのか、いくら聞いてみても、汪さんは、ただ微笑を以て、応えるだけでした。

 2~3ヵ月も経った頃だったでしょうか。私は軍事法廷で“無罪釋放”を申し渡されました。
 私は収容所の汪さんを訊ねて、“私が此処を出ると、恐らく二度とお会いすることは、できないかも知れません。あなたが縁もゆかりもない私に対して、なぜ、このように温くして下さったのか、お知らせ下さい”と懇願してみました。
 汪さんは、“そうだね、もう会えんだろうな”と言いながら、初めて、張県知事との関係を話してくれました。

 汪さんは、実は満洲国依蘭県の警察官だったのです。終戦後、間もなく、依蘭県は、中共軍に包囲されました。張積珍県知事は、職員一同を集め、分配できる現金とか品物は公平に分配した上で、“この県についての一切の責任は、私一人で負うから、皆さんは一刻も早く、身のふり方をつけて下さい”と言って、全職員を逃がしてくれました。
 そして張積珍県知事は、ただ一人共産党の人民裁判にかけられて銃殺となったのでした。

以下 次号

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今に見る、満州国 土壇場の醜態 其の十

2007-08-20 06:56:11 | Weblog
 二十世紀 日本及び日本人は、どう融解したのか
王道楽土を求め、異民族の地で知った土壇場における日本人の姿に、明治以降日本及び日本人が追い求めた現実をみる。それはアジア諸外国に受け入れられる人格の普遍性を問うことでもあったと同時に、アジアの意思に応えうる任があるかの試金石でもあった。


【以下本文】



(11)全員入院命令

 突然、高官から呼び出しがありました。
 「佐藤さん、君の顔色も、だいぶ悪くなっています。入院させることにしたから、仕度をしなさい」
 と言う。私は高官の思いもかけない言葉に、胸を締めつけられました。しかし、私は、それを丁寧にお断りしました。
 「いま日本人のほとんどは半病人の状態にあります。私一人入院するわけには、まいりません」
 と、きっぱりお断りしました。

 「佐藤さん、相変らずですね。しかし、人間というものは、最後の瞬間まで生きのびる希望を失ってはなりませんよ。生きている限り、自分を大切にすべきでしょう。頼むから、入院して下さい」
 と、諄々と私を説得する言葉に、私は中国民族の終りのない人情の深みと民族の生命の悠久さを感じました。

 彼は決して高遠な理念を解くようなことは、しませんでした。人間存在の平々凡々の在り方に、そして日常生活の中で、淡々として実践できることを実践しているだけのことでした。彼は諦めたらしく
 「久しぶりで、食事でもしてから、お帰りなさい」
 と言う。私は、笑って、それもお断りして監房に戻りました。

 何日かしてから、その高官は、再び私を呼び出しました。
 そこには長春日本人会平山復二郎会長が、来ていました。高官は、私たち二人に対して
 「戦犯容疑者(50数名)全員を入院させることにしたから、日本人会が保証するように……」
 と静かに申し渡しました。私は驚いた。夢にも考えられない事でした。

 日本人会長は
 「非常に有難い御処置ではありますが、私たちには、収容されている日本人の素性も解りませんし、戒厳令下では、保証することもできませんので……」
 と、保証することを、鄭重にお断りしました。

 物静かな高官は、初めてその声も荒々しく
 「日本民族を今日のように苦境に追い詰めたのも、お前のような日本民族のエゴイズムにあるのだ。この人たちは、戦犯容疑者と云っても、それは日本民族全体の歴史的な罪業を背負って、その身替りに収容されているだけの犠牲者じゃないか。それを保証できないとは、何事だ……」
 と低い声でどなった。平山会長は
 「戒厳令下ではありますし、私たちは責任をとりたくても、実際上できないのですから、お許し下さい」
 と、繰りかえすばかりでした。

 日本人会の保証がなければ、手続上、我々を一時保釈入院させることは、できないのです。三人の間には、かなり長い沈黙が続きました。しばらくして高官は、やっと口を開いて
 「実際上、佐藤君が保証したら、形の上で日本人会が保証できますか」
 と言う。平山日本人会長も、“それなら保証いたします”と言う。

 一番悦んだのは、その高官のようでした。高官は、改めて日本人会長にたいして
 「この戦犯容疑者に対して、毎日白いご飯と豚の味噌汁とお風呂だけは、保証してやってくれ。君たちは、今日までただの一回でも、この人たちに差入れをしたことが有るかね。それでも君たちは、日本人かね」
 と、厳しい調子で申し渡しました。そして
 「これは、命令だ」
 とつけ加えたのです。日本人会長も、それは当然お引きうけいたしますということに決まりました。

 数日して、全員の入院命令が出されました。日本人たちは相擁して、歓声を上げていました。看守の手に取りすがって“謝々、謝々”(ありがとう、ありがとう)と言いながら、泣いている人もいた。

 私たちは、長官室の前の廊下に整列した。高官は
 「私たちは満洲国時代のように、決して民族的な差別などはしていなかったのです。しかし、日本人だけが衰弱してしまうのです。ただ此処は国共争奪戦の最前線にあたるため、思うような待遇も、これ以上の待遇も、実際上できなかったのです。それだけは、諒解して下さい。今日、これから全員入院を命じます。一日も早く健康を取り戻して下さい」
 と、訓詞しました。高官は自ら部下を督令して、馬車を呼び集め、手を振って私たちを警察の門から送り出してくれました。

 入院といっても、そこは病院ではなく、私が住んでいた官舎のすぐ近くの官舎に、病院分室の看板を掛けて、そこえ私たちを分宿させただけのことでした。一人の監視者もつけず、私たちの行動は全く自由でした。私たちの健康は、目に見えて回復していきました。

 突然一人の脱走者が、現れました。
 それは、前に話をしたあの既決囚から未決囚に差戻しとなって、監獄から留置場へ送り返されて来た、あの小男でした。
私は愕然とした。私は八方手を尽くして探し廻りましたが、端緒は全然つかめませんでした。

 誰かが、あの小男は隣りの監房に収容されていた日本人の女と、壁越しに親しく話をしていたことがあると云う。その女を探し当てるまでには、相当の時間と苦労をしました。

 この小男は、やっぱりその女の所に居ました。
 「英雄難過美人関」(英雄も、美人という関所を越えることは容易でない)
 英雄か何か知らんが、本当にほっとしました。
 「酒不酔人、人自酔。色不迷人、人自迷」(酒が人を酔わすのでない、人自ら酔うのだ。色が人を迷わすのではない。人自ら迷うのだ)
 とにかく、問題の小男が見つかったのです。私はすぐさま警察局に高官を訪ねて、全員健康を取り戻しましたから、早急に奉天の軍事法廷に送って下さいと頼みました。

 私たちは、いよいよ奉天に送られることになりました。
 高官がやって来ました。私は全員を金輝路の細田さんの診療所の前の道路に整列させ、軍隊口調で高官に対して、“かしらーなか!”の礼を捧げました。

 高官は、みんなの健康の恢復を心から悦んでくれました。そして最後まで希望を失わず、無事帰国して、日本再建のために尽くして下さいと、言葉を結びました。
 高官と私だけが、ジープに乗りこみ、他の50余名の戦犯容疑者はトラックに乗りました。全員にかけられるはずの手錠は、麻袋に詰められたままトラックに積み上げられました。すべて高官独断での計らいでした。
 長春駅で私たち全員は、軍隊に引き渡され、貨車に積みこまれ、厳重な施錠がなされました。“ありがとう”私は心の底の底から、高官に手をあわせました。

 私たちが奉天の戦犯収容所に移されてからのこと。この問題の小男は、恐らく死刑を覚悟してのことではあったのでしょう。彼が今日まで犯した女性遍歴の数々、奔放淫蕩な生活の数々を、逐一私に語ってくれました。私はそれを「どたん場の人間の言葉」として、克明に書きとめておきました。

 彼が16才の3月11日に、「月丸」という24才になる女と「1円20銭」の玉代で関係したのを皮切りに、次々と犯した女性32名との関係が、私のノートに詳細に記録されています。
 彼が犯した女性は、親類の娘から、女学生、未亡人、三味線の師匠に至るまで、種々雑多でした。彼には良心の呵責というものは、ほとんど無いかのようでもあり、女を犯す悦びに生きがいを感じているようでもありました。

 彼の語るところによれば、彼は名門の出のようです。
 柔道をやるという彼は、大学時代から浅草の“与太者”の仲間に引きずりこまれ、喧嘩出入りにまで参加しています。彼がどうにもならなかった女は、26才になる「秀」という姐御だけでした。

 「秀姐さんの入墨は、背中には白粉彫りの大牡丹一輪。左脇下には桜の古木を化粧彫りにしている。酒を飲んだり、お風呂に入ると、うっすらと絵が浮き出てくるという。
 両肩は巻雲。胸には一匹の猿が彫られていて、その猿の片手は秀姐さんの肩にかけられ、他の片手は、陰部の方に伸びている。そうしたかっこうの猿が、秀姐さんのお乳に吸いつている構図だという。

 この秀姐さんは、女と関係した話をすると、絶対に機嫌が悪かった。私は、秀姐さんに賭場に連れて行かれて、百円貰ったことがある。綺麗な女だった」
 と、私のノートの記入されている。


以下 次号

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今に見る、満州国 土壇場の醜態 其の九

2007-08-20 06:43:26 | Weblog


 二十世紀 日本及び日本人は、どう融解したのか
王道楽土を求め、異民族の地で知った土壇場における日本人の姿に、明治以降日本及び日本人が追い求めた現実をみる。それはアジア諸外国に受け入れられる人格の普遍性を問うことでもあったと同時に、アジアの意思に応えうる任があるかの試金石でもあった。


【以下本文】



(10)監獄から留置場へ逆送されて来た男
 
或る日のこと、看守は突然、監房の鉄格子についている小さな、くくり戸を開けて、一人の中国服を身につけた、小肥りの小柄な青年を、突き放すように、中へ押しこんでよこしました。私たちは一斉に新参者に、目を注ぎました。娑婆の香りを運んで来るからです。

 この小男は、誰にともなく、ピョコンと軽く頭を下げて一礼しました。この所作で、この男は、日本人に違いないと直観されました。この男は、突っ走るようにして、便所へ向いました。便所といっても、部屋の一隅に、2~30センチぐらい一段高くなった所があり、そこが便所なのです。用便中の容疑者の一部始終が、鉄格子の外部から、まる見えにできるように、作られているのです。

 この小男は、豪快な音をたてて放尿していました。どうにも我慢がならなかった様子でした。私は放尿の音を聞きながら

 「道は、屎尿(しにょう)に在り」
 という荘子の言葉を思い出しました。真理は大小便の中にもある。つまりこの大宇宙の真理というものは、何処にでもあるのだという意味です。

 この小男は、小便がすんだと思ったら、今度は前かがみとなって、何かしている。両手を汚物のこびりついている便器に突っこんで、今自分がやったばかりの小便を両手で押し流しているのです。便器には水が絶えず流れ出るようには、なってはいましたが、一瞬にして汚物を流すほどの水勢は、なかったのです。彼は、今度は、便器の水を両手ですくって顔を洗いはじめました。

 その便所の上り口の所に、菅沼という、たしか仙台の人が、タオルを頭に巻きつけたまま坐っていました、便器の水で顔を洗い終ったこの小男は、その菅沼さんに対して
 「一寸、拝借させて頂きます」
 と云いながら、菅沼さんのタオルを勝手に取り上げて、湯上りの時にでもするかのような、しぐさで、丹念に顔や手を拭いていました。用便後の解放感と顔を洗った、のびのびとした爽快さが、さもたまらないと云った格好でした。

 小男は便所から降りて、菅沼さんに対して、いとも丁重に
 「どうも有りがとうございました」
 と云いつつ、タオルを返えしていました。一同、あっけにとられたまま、彼の所作の一つ一つに注目していたようでした。

 私は、私のすぐ隣に空席を作らして、この小男を、私と並んで坐らせることにしました。彼が私のわきに座るなり、私は彼に
 「君の小便の音は、万雷とどろいて、驟雨まさに到らんとすといった風情だったね。それにしても、君のあの小便の音は、たいしたものだ。君の逸物は、恐らく大器珍品だろうね」
 と、しゃれを飛ばした。

 彼は破顔一笑、
 「わしのは大器ではないが、確かに珍品だ。尿道は二本あるんだ。だから、二倍の音がするのさ。大風一過、ぶっ放したあとは、爽快だったね……」
 と、すましている。湿っぽい憂うつな留置場にも、久しぶりで笑い声が洩れました。すがすがしい、娑婆の笑いでした。
 「まさしく、大器小用だね。君の様子を見ていると、監獄だの留置場という所は、ずい分と居心地が良さそうだね」
 と私が言ったら、
 「いや、私は終戦後、初めてですよ。ここの留置場には、二~三ヵ月も居りましたかな。監獄に移されてから、四ヵ月ぐらいですよ。終戦前は、何時も、ぶちこむ方でしたが、こうして、ぶちこまれてみると、なかなか味の有るものですね。もう慣れましたよ」
 と、全く悠々たる、ただの世間話のようでした。


以下 次号

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今に見る、満州国 土壇場の醜態 其の八

2007-08-17 12:00:37 | Weblog
 
             北京 老朋友 1995y

【以下本文】

(9)獄中の忘年会
 
私たちの留置場にも、年末がやって来ました。
 零下20余度の厳寒に、火の気一つない監房です。二重窓と天井には、氷が張りつめ、外界とは完全に遮断された私たちには、文字通りの閉ざされた生活が続いていました。
 その頃私は、知らず知らずのうちに本格的な牢名主となっていました。年末に当って、私は日本人たちから“どうせ長くはない命なのだから、今生の別れに、一杯飲ませて下さい”と、せがまれたのです。
 私は、なんぼなんでも留置場の中での酒とは、ちと無理だろうとは、考えましたが、私はふと、
「今宵酒有れば今宵酔い、明日愁い来れば明日愁いる」(権審、絶句詩)
 という詩を思い出しました。そうだ今日は今日、明日は明日だ。それに生前の一杯の酒は、死後の一樽の酒にまさるはずだ。“一酔千愁を解かん。と云うじゃないか。よし、私の責任で飲ましてあげようと、決意しました。

 私が看守たちを説得するのには、それほど時間を要しませんでした。私は、各監房の日本人たちに、“絶対に静粛にすること”を条件としてそれぞれに酒、つまみなどを買わせました。衰弱しかけていた私の体には、久しぶりでの焼酎はこたえました。
 「酒に対しては当に歌うべし、人生幾ばくぞ」

 ほろ酔い機嫌の私は留置場の中央にある高台に立って、歌いました。
 「好花不常開、好景不常在、愁堆解笑眉、涙酒想思帯、
今宵離別後、何日君再来、喝完了這杯、請進的小菜
人生能得幾回酔、不歓更何待、来来来
喝完了這杯再説罷、今宵離別後、何日君再来」

一階、二階の各監房から、明るい物凄い拍手が沸いた。
私は、各監房から、のど自慢の者を一人ずつ出しては、中央の高台に立たせて歌わせました。芸人は、そろっていたようでした。

一人が歌い終る度に、酔いがひときわ廻っていったらしく、その都度、各監房のドヨメキも高揚していきました。
「花は半開を見、酒は微醺を飲む」どころではない。乱酔につぐ乱酔。私自身、ここは留置場であることなど、とうの昔に忘れてしまっていました。

 当時、われわれ戦犯とは無関係に、日本人女性三人が収監されていました。私は彼女らに声をかけてみたら、一人は唄う一人は踊るという。私は二人を一緒に出して。一人に唄わせ、一人に躍らしたのです。

 それが、いけなかった。全監房の日本人たちは、女性を見た途端、完全に爆発してしまったのです。頭の禿げかかった一人は、太い鉄格子にしがみついて、“アンコール、アンコール”と絶叫、いやむしろ泣きさけんでしました。

 それを境に全監房は、泣く、わめく、吐く、完全錯乱状態に変ってしまったのです。

 「食、色は性なり」
 食欲と、色欲は、人間の本性だとは知ってはいましたが、これほどまでに執拗、強烈なものであるとは知らなかったのです。

 私は収拾しがたい狂乱の修羅場を逃れ、留置場の大扉を開いて看守室に出ました。看守たちは、留置場の狂乱状態にオロオロしながらも、手の施すすべもなく、蒼白な顔をして、とまどっていました。

 私は看守たちの事務机の上にあがって、あぐらをかいて、
 「歳とりじゃないか、飲め、飲め……」
 と酒を勧めていました。

 暫くして、私のまうしろの廊下の方から、靴音が聞えて来ました。聞き耳を立てていた看守たちは、はっきりとオロオロしはじめました。一斉に直立不動の姿勢をとりました。監房の中からは、鉄の大扉を通して、狂乱の叫び声、怒号が、とめどもなく流れて来ています。
 私は、覚悟はできていましたから、靴音にふり向きもしませんでした。やって来たのは、高官でした。
 「佐藤に用事がある。一寸借りて行くよ。あとはよく気をつけて……」
と看守たちに申し渡しました。看守たちは、返事の声も出なかったようでした。

 私は高官の部屋に案内されたのです。
 そこには、4~5人の中国人の警察官が、私を待っていました。事務机の上には、日本料理家ででも使っていたかのような朱塗りの四つ脚のついたお膳の上に、日本料理と、日本酒の徳利が添えてありました。

 その高官は
 「佐藤さん、お力になって差上げられず、申訳ありません。これは私の家内が、見よう見まねで作った日本料理らしいものです。そのつもりで、ゆっくりと年を越して下さい」
 と、何気ない調子で言いました。

 私は、こみ上げてくる感動に、箸に手を触れたまま、声をかみ殺して泣きました。私が、たとえ、どのように悔恨の涙を流したとしても、日本民族が、いや私自身が、満洲人に対して、今日まで、ふるまって来たあの傲慢さを洗い流すとはできないでしょう。

 満洲国は、たしかに崩壊しました。しかし満洲人の私たち日本人に対する、暖い人情は、生き生きとして健在でした。それまで満洲国の色々な抑圧の中で、押し潰されていたかに見えた満洲人の温い人情は、いまこの生きるか死ぬかの危急の際に、公然とその健全な姿を現わしたのでした。

 人間のこうした、せっぱ詰った極限の世界において、彼らのほのぼのとした温い人情が、私たち敗残の日本人を温く々抱きかかえてくれたのです。

 私は監房へ帰ってから、人間関係の極限は、人間自然の「人情」なのだと、再び自分自身に言い聞かせながら、布団をかぶって泣き続けました。

 その日の留置場での年越しの狂乱の酒宴については、その後、何処からも、誰からも、ただの一言も、とり沙汰された話は聞きませんでした。

「○○さん、有りがとう」(佐藤氏の意向で不記載)



以下 次号

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今に見る、満州国 土壇場の醜態 其の七

2007-08-17 11:40:23 | Weblog
 
        佐藤氏の警護 満州馬賊頭目 白大人


(8)脱獄させてくれ

 ここは日本人の作った留置場で、収容されている全容疑者の一挙手、一投足、すべてが監視できるように設計されていました。
 しかも看守の靴音以外、音というものは、全然聞えて来ないのです。あまりにもシーンとした瞬間の連続でした。

 それを奈落の地獄の底にでも引きこまれるかのような冷たさとして感じとるか、それとも得難い永遠の静寂さとして、感銘の中で汲み取るかどうかは、人それぞれの心の持ち方一つにあるようです。

 病によって閑を得ることができるのは、とくに悪いことではないと言いますが、健康でありながら、動こうにも動くことができないと云うのは、たしかに辛いことです。しかも囚人――囲いの中に捉われている人間、そのうえ明日の生命の保証のない人間としての感じだけは、ひしひしとして伝わって来ることだけは事実です。

 しかし、どんなに苦しい時でも、平然として生き抜くこと、これもまた人生に関する一大事でありましょう。

 
孔子は
 「未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らんや」
 と言っています。とにかく、人生とは、生きてみなくては、分からないのです。分かるためには、生きることです。生き続けられるだけ、生きることです。そのためには、生きることを、忘れて何かに熱中することです。

 さて、この留置場には、110余名の日本人戦犯容疑者と、小数の中国人と韓国人が収監されていました。戦犯容疑者と言っても、そのほとんど大部分の者は、自分はなぜ容疑者なのか、自分でも分からない人たちが多かったのです。

 ただ何名かの者は、容疑事実をもっていました。
 例えば、大同学院4期の馬上匡さんです。彼は通河事件当時の通河県副県長でした。馬上さんは、私の監房のすぐ隣の部屋に収容されていました。

 ある日、その馬上さんから、私の手もとに
 「佐藤さん、私を脱獄させてくれ、頼む」
 と書いた小さい紙切れが届きました。

 私はその頃には、看守たちの私に対する信頼を逆用すれば、馬上さんを脱獄させてあげることぐらいは、いとも簡単な事でした。
 しかし、私は無情にも、ちゅうちょすることなく、それを断りました。
 日本人は、これ以上、中国人の信頼を裏切ってはいけない。満洲国は亡んでも五族協和の理念は、私にとっては、本物であり、今もって決して亡んではいない。それが私の信念でした。

 私たちが今こうして裁かれているのは、日本が、日本そのものが裁かれているのです。最少限度、明治維新以来の日本民族の行動そのものが、歴史的な角度から裁かれているのです。私たちは歴史に対して責任をもたなくては、ならないのです。

 さあ馬上さん、一緒に首の座にすわりましょう。私たちが満洲の土になることによって、満洲ははじめて、日本民族の墳墓の地となりうるのです。そのようにしてこそ、はじめて五族協和の新しい芽が萌え出づるのです。

 馬上さん。あなたは馬賊が首を斬られる、あの凄惨なそして厳粛な場面を見たことがあるでしょう。私は全身の血が氷ってしまい、2~3日の間は、食事も喉を通りませんでした。血の匂いが、つきまとっていて離れないのです。

 数日して落着きを取り戻してから、はじめて私の網膜に再現されたのは、あの一人一人の馬賊が首の座に座った時の、土壇場における姿でした。

 呼び出された一人一人の馬賊たちは、頭目の方へ、ちらりと目をやって、まるで“お先へ”と、目礼でもしているかのような軽い仕草のあと、淡々として首の座にすわるのです。青龍刀のあの鈍い音とともに、首がすっ飛ぶ。吹き出す血の塊り。天地は寂として、再び静寂さを取り戻す。

 馬賊たちは、仲間の一人一人の最期をじっと凝視していて、与えられた運命として甘受しているのか、少しも乱れない。淡々として、あくまでも自分自身を見失っては、いないようでした。大いなる肯定に生き続けて来た中国民族の、ふてぶてしいまでに強靭な生命力を感ずる。

 部下の一人一人の最期を心静かに見つめていた頭目は、“さあ、俺の番だね”と言って起ち上って、血糊の中に坐ったまま瞑目して動かない。
 「死を見ると、帰するが若し」
 とは、この事であろう。その晴々しい顔。まさしく死に臨んでの王者の風格。あまりにも粛然とした態度に、私は今もって身ぶるいを感じる。満場寂として声なし。

 ここまで来れば、これはもはや修業の限界を、はるかに乗り越えた世界。それは承け継がれて来た数千年来の中国民族のもつ、歴史の重みであるとしか言えない。
 「さあ、馬上さん、私たちも心静かに、首の座にすわりましょう」
 これが私の馬上さんに対する、詐りのない心境でした。私は、馬上さんの脱獄の願いを、無情にも拒否しました。私のこうした無情さが、その後の馬上さんの獄中死につながったのです。

 私は機会ある度に、馬上さんを必死に弁護しました。
 無罪の判決書が、奉天監獄に収監されていた馬上さんの手もとに届けられました。恐らく生死の緊張感が、馬上さんの生命を支えていたのでしょう。馬上さんは、無罪放免の判決書を手にしたまま、獄中で息を引き取ってしまったのでした。

 私は帰国してから、馬上さんの奥さんを名古屋の郊外にお訪ねしました。
 「お奥さん。お許し下さい」
 私には、それしか申上げる言葉は、ございませんでした。


以下 次号

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今に見る、満州国 土壇場の醜態 其の六

2007-08-17 11:34:23 | Weblog

 二十世紀 日本及び日本人は、どう融解したのか
王道楽土を求め、異民族の地で知った土壇場における日本人の姿に、明治以降日本及び日本人が追い求めた現実をみる。それはアジア諸外国に受け入れられる人格の普遍性を問うことでもあったと同時に、アジアの意思に応えうる任があるかの試金石でもあった。


【以下本文】

(7)餓鬼道

 留置場の中の日本人たちは、絶望的な瞬間々々を生き延びているかのような毎日のくり返しでした。

 私は何時も、“ここは留置場の中だ”鉄格子があるんだ。どうにもならないのだ。
 「天下を以て之れが籠となせば、則ち雀逃るる所無し」
 この宇宙全体を一つの鳥籠だと考えたなら、雀はその鳥籠の中から逃れられないのだと荘子は教えていますよ。だから、老荘は
 「忘の徳 ―― 是非を忘れ、恩讐を忘れ、生死老病を忘れなさい」
 と言ってるでしょう。……と勧めてみるのですが、さっぱり反応がない。

 お互い、何の関係もない知らなかった人たちばかりが、何かの因縁で、こうして、同じ条件で生活を強いられているのです。身分や、地位や、そして年令までも忘れあった人々が、たがいに同じ宿命の中で、触れあっているのです。
 「無形の交り」
 とは、この事でしょう。考えて見れば、なかなか得がたい人生経験です、考え方一つで、明るくも、暗くも、なるものです。そんなら、明るい毎日を送りましょうや……などと、勧めてもみたのでしたが、それも無駄なようでした。

 それで私は一転して「Y学」を始めたのです。
Y談じゃありません。Y学です。明日にでも首の座にすわる連中でも、このY学だけには興味を示したようでした。
 私のY学に、じっと聞き耳をたてていた彼らが、突然大声をあげて、ドッと笑った。看守は慌てて飛んで来る。“何してたか”と怒鳴る。私は“はい、私が今Y学をやったのです”“Y学とは、何だ”……と云うことで、結局、看守は、扉の鍵を開けて、私を看守室に連出したのです。
 24時間、全然用事のない、退屈さと根くらべをしながら勤めているのが看守たちです。
 “さあ、茶を飲めよ、今のY学とやらを、やってくれよ”
 ということで、私は一躍、看守たちに大もて。正直いって、私が文字通り牢名主になることができたのは、一つにはこのY学のおかげ。
 それにこの留置場で、一番差入れのとくに多かったのは、私だけでした。私は満洲一の悪質な奴だと新聞に出てからは(思想麻酔罪)、次から次へと現金やら品物が、私に届けられたのです。ほとんどすべて満洲人からでした。
 私が留置場の人々に少しでも、お手伝いすることができたのは、そのおかげでした。

 留置場の一日二食の食事は、あまりにも粗悪なものであったため、日本人たちは、日を追うて弱っていきました。

 かって、満洲国の最高級高官であったK氏(勅任官)は、自らの動揺を抑えるかのように、冷たい獄舎の壁に向って、坐禅を組みながら、お経を読んでいました。ところが彼は仏道の妙理を悟るどころか、絶望的な焦燥の中で、日に日に衰弱していきました。死に臨んで仏脚にすがり、つこうとして、必死にもがえて、いるかのようでした。

 見かねた私は、看守たちに医師の手配を乞うたが、そんなことは、できないという。
 それで私は“実は私が診断して貰いたいのだ”と言ったら、上司にも連絡せずして、こっそりと私の家内の妹婿の細田医師を、留置所の中まで連れて来てくれたのです。私は、その細田医師に、その日本人高官を引き受けて貰うことにしました。

 その高官は、金輝路の細田さんの勤める病院に引き取られてから、ますます錯乱状態がひどくなり、自らストーブの火を自分の衣物につけるなど、常軌を逸する状態だったそうですが、遂に文字通りの狂死してしまいました。

 彼は生への執着とその執念に苦悩し続けていたようでした。生を貪って死をもたらすとは、このような事なのでしょうか。

 ここの留置場では、水はもちろん、お湯もお茶も飲ましてはくれません。朝夕二回のぷんぷん臭い黒い高梁めし一椀と、野菜のほとんど入っていない塩汁、それに親指大のタクアン二本だけでした。

 私の隣室のF君。彼だけは独房でした。彼は食事の度に、塩汁が入って来るブリキの食器に、自分で小便をして、しかもそれを飲むのです。その小便をした食器は、ろくろく洗われもせずに、次の食事の時には、誰かの所に、まわっていくのです。これには困った。止める方法もないのです。

 「餓えては、食を擇ばず」
 餓えた者は、何でも食べるというが、それは余裕のある娑婆での話、とうとう、彼も狂死してしまいました。

 帰国後、彼の娘さんから、私の所へ、父の最期の状況を知らして欲しいと言ってきました。私は、“死の瞬間の状況などは、聞かない方が、よいものですよ。それよりも、日頃の優しかったお父さんの面影を思い出しなさい。それが何よりのお父さんへの供養ですよ”とだけ申上げて、真相については、お伝えしませんでした。

 私が、私に差入れられた油炒めのニンニク味噌を持って、何時もの通り、各官房に配っていました。

 ある一人の、これも名だたる勅任官、この人もまた生きのびたいという執念のためか、衰弱と同時に、文字通りの餓鬼道におち入ってしまっていたのです。

 私は油炒めのニンニク味噌を持って、その高官のいる監房の前にたちました。高官は真先に出て来て、鉄格子の中から、手を出しました。私は一匙の味噌を彼の掌にのせました。彼はその掌のニンニク味噌を、自分の内懐にこすりつけてから、掌に残っていた味噌をなめていました。

 私は、彼と同じ監房の他の方々にも、一匙ずつ分配していた時のことです。その高官は、またもや手を差し出したのです。私は、“たった今、差し上げたはずですが”と云うと、彼は“まだ貰ってはいない”と、半ベソをかいて、せがむのです。私は、彼の汚い恥知らずの強引さに、たまらない嫌悪を感じました。恥を忘れた人、無恥の人ほど恐ろしいものはない。

 「不潔面にあるは、人みな之を恥ず。不潔心にあるは、人肯えて媿(は)じず」(新論、心陰)
 と云う言葉を思い出して、私は寒ざむとした気持ちでした。

 その後の何日か経ってからのある日、彼は、私に一服の薬を要求しました。恐らく彼は、水を飲みたいためだったのでしょう。彼の欲しい薬は有りませんでした。私は“今度、差入れがあったら、差し上げます”と断りました。彼は私に
 「君はだいたい不公平な人間だ。何時も一号室の方から配って歩いている。だからわしの方へ来た時には、何時も無いのだ」
 と、くってかかるのです。
 彼は恐らく、薬が欲しいのではなくして、一杯の水が欲しかったものと、私には、分かりましたが、私は意地悪くも、彼に一杯の水すら、やりませんでした。

 その直後、その高官は、死刑になって、ついに帰って来ませんでした。私は「死刑」と聞いて、始めて、はっとしました。
 実は、私自身は、ほとんど毎日のように、科長に呼び出され、その都度真白い白米の御飯と、ご馳走を食べさせて貰っていたのでした。私は自ら腹一杯に食べているため、他人の飢えの苦しみを知らないほど傲慢になり、心眼が乱れてしまっていたのでした。私は、私自身の心の底にひそむ、偏見を通り越した、自らの残酷さ、冷酷さに、慄然としました。それも、“己を愛する心を以て、人をも愛せよ”などと、人にもお説教し、自らにも、言い聞かせていたはずの、私だったのです。

 彼は、おそらく、死に臨んで、末期の一杯の水を飲みたかったのでしょう。それがこの私のために阻まれて、一杯の水すら飲むこともできないまま、人生の終焉を告げたのです。

 彼はたしかに、自らの餓鬼道に、打ち克つことは、できませんでした。
 彼には、自分自身の命を守るという、さし迫った本能的な欲求の前には、善も悪も、醜も美も、恥も外聞も、なかったのでしょう。彼のこうした切実な現実的な欲求こそが、一切の価値を絶した真実そのものだったのでしょう。

 帰国後、私は彼の遺族を京都近くのお宅に訪ね、御主人は立派な最期でしたと、粉飾して、お伝えしました。家族の方々は勿論、集まった方々も、口々に彼の人となりの素晴らしさを誉め称え、追慕の涙にくれていました。

 私は今、この追憶の原稿を書きながら、中国の歴史が伝えている、いくつかの陰惨な記録を思い出しました。
「邯鄲の民、骨を炊き、子を易えて食ろう」(史記、平原君伝)
 邯鄲の人々は、人間の骨を燃やして、わが子を人の子とを取り換えて食べているというのです。
 「盗跖(とうせき)は、人の肝を膾(なます)にして之を餔(くら)う」(荘子、盗跖)
 と、荘子に書いてあります。また

 「子を蒸して、以て膳を君に為す」(韓非子、十過)
 春秋戦国時代、斉の桓公(前685~前643年)に仕えた易牙という宦官は、料理の方を担当していました。桓公が、おれはまだ人間の肉だけは食べたことがないよと云ったら、易牙は、さっそく自分の長男を蒸し焼にした料理を作って桓公にすゝめています。

 こんな記録は、中国の歴史には、ふんだんに有ります。ついでに現在の記録を一つ、つけ加えておきましょう。
 ここに、四川省の“文摘週報”の記事を、北東のAFPが伝えたニュースがあります。(91.4.22「中華週報」.P.15)
 「(四川省の)王光飯店では、数年前から、濃厚な調味料を加えた肉まんを売り出し、近所の評判になっていた。ところが、当局の捜査で、その肉まんが、人肉入りの饅頭だということが判明した。王光兄弟は、火葬場に忍び込んで死体から、腿肉などを盗み取り、それを持ち帰ってミンチにかけた後、濃い香辛料と調味料を加えて四川風の味にしていた

 兄弟は試してやってみたのが好評を得たので、常習的に火葬場に忍び込んで人肉を盗むようになり、近々数年のうちに6,000米ドル相当の荒稼ぎをしていた。これは大陸では数少ない成金長者のなかに入る。

 彼らのこの秘密非行が見つかったのは、ある一家が若くて死んだ娘の死体を火葬前に見ようとして、棺の蓋を開けた途端、大腿部の肉がえぐり取られているのに驚き、警察に届けたのだという……」

 餓えた虎でも、自分の子だけは食わないというのに、人間が人間を平気で食べている。
 「餓虎、児を食らわず、人、骨肉の恩無し」(通俗篇、獣畜)
 と記録されているが、それも当然のことであろう。

 鉄格子の中では、娑婆での一般の論理やお説教は、ほとんど通用しません。人間は自分の生涯を生き通して、みないかぎり、自分自身を確認する道はないでしょう。

 根本的には

 「人の禽獣に異なる所以のものは、幾(ほとん)ど希なり」(孟子、離婁下)

 人間の精神が、我欲にうち克つことが、できるか、どうか。これは人類永遠の課題なのかも知れません。


以下 次号

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今に見る、満州国 土壇場の醜態 其の五

2007-08-12 14:02:58 | Weblog
         偉人 王荊山の遺子と佐藤慎一郎氏

 二十世紀 日本及び日本人は、どう融解したのか
王道楽土を求め、異民族の地で知った土壇場における日本人の姿に、明治以降日本及び日本人が追い求めた現実をみる。それはアジア諸外国に受け入れられる人格の普遍性を問うことでもあったと同時に、アジアの意思に応えうる任があるかの試金石でもあった。


【以下本文】


(5)人情は、国法よりも上だ

敗戦の翌る年の10月、いよいよ日本人最後の引揚列車が出ることになりました。我も我もと、他人を押しのけてまでも、一歩でも先へ先へと日本へ急ぐ人々を、心温く送り出して、最後まで残っていた日本人たちの、日本引揚げの準備が始まっていました。

そんな或る日のこと、私は日本人会に、たち寄って見ました。
一人の中国人の役人(彼はもと満洲国の警察官、現在は、中国の警察官)が日本人をゆすっていました。
「中国の支配に変わった途端に、君たちは公然と、ゆすろうとでも云うのですか。“官児不打送礼的(官吏は、贈り物をする人を叩かない)”そんな中国の習慣は、いけないよ」
と、私は、やさしく忠告しました。

 その翌日、私は逮捕され、大同広場の、もと満洲国首都警察の留置場に放りこまれました。戦犯容疑者だそうです。その留置場には、130余名の日本人戦犯容疑者と、何十人かの中国人、朝鮮人が収容されていました。

 留置場……、それは、終戦以来、夜を徹して、かけずり廻っていた私にとっては、実に有り難い所でした。まして、心に反省はあっても、やましい所さえなければ、留置場生活というものも、仲々味わいのあるものです。
 悠々閑々、閑中更に閑有り。静を為さずして、静自ら生ず、といった有難い環境でした。私は敗戦以来、始めて、ぐっすり眠ることが、できました。

 同室の日本人たちと、ボツボツ語ってみると、この人たちは、このような静かな環境において、しかも静かな生活を強いられていながらも、その心中には、万感沸とうしていて、一寸した物音にすら、神経が極度に過敏となって、いたようでした。
 私は、ここは鉄格子の中だ。どうにも、ならないのだから、自然の理に委せてしまえば、それでいいじゃないのと、幾ら云っても、分かっては貰いないようでした。

 私が留置されて、二~三日目でしたか。私はある高官の前に連れて行かれました。驚いたことには、その高官は、私の二十年来の友人でした。(本名を語って、永遠に感謝の念を捧げたいが、今は中共統治下。それはできない)
 「佐藤さん、どうして、捉まったのですか」
 「分かりません、捕らえられたから、捕らえられただけです」
 「その通りです。全く申しわけない。しかし、君を逮捕した公文書は、もう上級に呈出してしまっている。どうにもならない。あとは一切引きうけるから、この場から逃げて下さい。胡蘆島で船が出るまでは、絶対に保証するから……」
 という思いもかけない言葉に、私は
 「有難い事ですが、貴君に御迷惑をおかけするようなことは、したくありません」
 と丁寧にお断りしました。

 彼は、もともと物静かな高官でしたが、毅然とした態度で
 「佐藤さん、君は長いこと中国にいて、中国人は、“人情は国法よりも上だ。”という真実に生きている事実を知らぬはずはないでしょう。国法とは、人間が抽象的に決めたことだ。しかし、人情は自然だ。人情には偽りがない。それに此処は今、国民党と共産党の対立している最前線だ。何時どのような大変事が起きないとも、限らない。つまらんことで、命を落とすものではない。さあ急ぎなさい……」
 と心をこめて、私を説得するのです。

 「有りがとう、しかし、あの留置場には、日本人が100何名かいます。私のような者でも、少しは役に立てるかも知れません。あの人たちを残したまま、私一人だけ日本へ帰ることは、できません。私の吾儘をお許し下さい」
 と、心から懇願してみました。

高官は、“佐藤さんは、強情っぱりだからなあー”と一言。やっとのことで、私を留置場へ帰してくれました。

 人間にとって、もし、生きた人間それ自体が目的であるとするならば、しかも、そうした生きた人間の心情を貫き通そうと、すればするほど、人情という自然律にこそ、本当に人間としての、生きがいを感ずることができる。これこそが中国人の本当の心情なのでしょう。

 私自身、今、死ぬか生きるか分からない。そうした瀬戸際に立っておったればこそ、初めて、人間の真心というものが、分かったような気がしました。
 「一死一生交情を知る」(史記)
 とは、このような事なのでしょう。生きるか死ぬかの、瀬戸際に立ってこそ、初めて人間の真情が分かります。

 人間自然のこの様な人情こそは、民族や人種を隔てている厚い壁を乗り越えて、交流することができる、基礎であるということを教えられたのはこの時でした。

以下 次号

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今に見る、満州国 土壇場の醜態 其の四

2007-08-12 13:52:23 | Weblog
          
            元吉林興亜塾 五十嵐八郎氏


 二十世紀 日本及び日本人は、どう融解したのか
王道楽土を求め、異民族の地で知った土壇場における日本人の姿に、明治以降日本及び日本人が追い求めた現実をみる。それはアジア諸外国に受け入れられる人格の普遍性を問うことでもあったと同時に、アジアの意思に応えうる任があるかの試金石でもあった。


【以下本文】

(4)民族を越えるもの

 昭和20年8月9日、日ソ不可侵条約を一方的に破って、突然進撃して来たソ連軍に、全満洲は、文字通り周章狼狽。

 昨日まで、全満洲に傲然と君臨していた関東軍は、全満の日本人を、おきざりにして、自分らの家族だけを引き連れて、その夜のうちに、さっさと撤退してしまったのです。満洲国は崩壊すべくして、自ら崩壊していたのでした。

 蒋介石が、あくまでも避けようとした、日中両民族の全面衝突も、思いあがった日本の一方的な進撃によって無視され、それが日本敗戦のその日まで続けられていたのでした。
 「驕りて亡びざるもの、未だこれにあらざるなり」(左伝)
 おごるものは、必ず滅ぶのです、しかも本当の
 「亡国は亡に至って、始めて亡をしる」
 私は、満洲国崩壊のその日まで、それを知らなかったのです。それこそ本当亡国でした。

 人為の空しさを痛むかのように、連日のように、どしゃ降りの愁雨が続く中を、虚脱したかのように長蛇の列を作った、日本人引揚者の疎開がはじまったのです。

 これは終戦直後、蒋介石総帥が示した、対日戦後処理の原則
 「怨みに報いるに、徳を以てす」(老子の言葉)
 の主旨に基いて、日本人の早期引揚げという形で、実現したものでした。

 昨日も今日も、どしゃ降りの中を、背負い切れないほどの荷物を背負い、持ち切れないほどの荷物を抱いた異様な姿をした疎開者の列が、長春停車場まで続いていました。子供を連れ、幼児を背負い、荷物をもて余してでもいるかのような、ずぶぬれになった婦人たちが、目立って多かったようです。そうだ、彼女たちの夫たちは、最後の応召で、行先さえも、しれないままなのです。

 それでも、日本へ、日本へ、祖国日本へと、どれだけが、たった一つの救いでもあるかのように、停車場を目ざして黙々と歩みを移していました。
 あまりにも、みじめな日本人たち姿に
 「敗戦の痛ましさを体験したことのない、日本民族は、よけいに不幸なのですね、可愛相に」
 と、満洲人は祈るように、つぶやいていました。

 そうした長蛇の隊列に、連れ添うかのように、一人の中国服を着た、初老の男の人が、とくに婦人たちの荷物を運んだり、子供を抱きかゝえたりしながら、何くれとなく、面倒を見てくれていました。この老中国人の姿は、毎日のように日本人引揚者の行列のそばに現われていました。彼は、曾ての満洲国の高官、勤労奉公局長官、曹肇元氏でした。満洲人注視の中で、彼は最後の最後まで、自らの行動を止めませんでした。

 いよいよ終戦の翌年の11月、長春最後の引揚列車が出る日が近づいていました。最後まで居残って、引揚げ業務、その他に奔走していた原さんや、吉井武繁さんたちが、一夜その曹さんを招いて、ささやかながら、お礼とお別れの宴を設けました。私はその直前、国民政府に逮捕されたため、その宴席には、参加できませんでしたが、後で、吉井さんから、その日の様子をお聞きしました。

 曹肇元さんは、少年時代、旅順の日本人中学校に、入学を許されました。当時、満洲人で、日本人中学校に入学することは、極めて稀な時代でした。
 ある日の放課後、曹さんは、校庭のポプラの樹に登り、小刀で何気ない、いたずらをして遊んでいました。折も折、頭のつるつる禿げ上がった体育の先生が、そのポプラの樹の真下を通りかかったのです。テカテカの禿につられたかのように、はっと気がついた時には、曹さんの持っていた小刀は、曹さんの手を放たれてしまっていたのでした。その小刀は、先生の頭に刺さったのです。
 
 先生は、さっと樹の上を見上げることは見上げたのでしたが、ふき出る血潮をおさえるようにして、校舎の方に、あたふたと駆けこんでしまいました。曹さんは、夢中になって、学校近くの裏山に逃れました。日も暮れたので、こわごわながらも帰宅してみたが、家族にはまだ知れている様子はなかった。曹さんは、一夜目をつぶることが、できませんでした。

 憔悴の夜は明けた。恐る恐る校門をくぐった時には、すでに全校の生徒たちは、校庭に集合を命ぜられており、異様な、ざわめきの中から曹さんは、昨日自分のやった事件のためであることは、すぐ分かったという。

 一学級ごとの厳しい詰問が開始された。いよいよ曹さんの学級の順番がやって来た。担任の先生は
 「もし、この学級の中に、昨日の酷い事をした学生が居るなら、正直に申し出なさい」
 と、厳しい調子で申し渡しました。
 その瞬間でした。今の今まで、どのように言い逃れようかと腐心していた曹さんは、どうした事なのか、自分にも分からない、気がついた時には、自分で一歩前に出て
 「私が、やりました」
 と思わず言ってしまっていたというのです。

曹さんは、校長室に連行されました。激昂した校長の身体をのり出しての叱責する言葉には、曹さんは胸に針をつき刺されたように、痛烈にこたえたそうです。
ところが、その負傷した体育の先生は、心静かに
「このような危険な、いたずらは二度とやってはいけない。しかし、この学校の校則の一つは“正直”という二文字です。この学生は、はっきりと、私がやりましたと正直に答えています。これは余程の勇気がなければ、できないことです。今回限り、この学生を許してやって下さい……」
と、曹さんを必死に庇ってくれたというのです。

 曹さんは、この体育の先生の思いもかけない言葉に、はっきりと仏心を感じたというのです。
曹さんは、はじめて声を上げて泣きに泣いた。おわびすることも忘れて、慟哭した。
「泣きじゃくる私の背を優しく撫でさすってくれた体育の先生の、その掌の暖さは、今もって忘れられないのです。満洲国は不幸にして終わりを告げました。皆さん方が帰国してしまえば、何時また日本の方々とお会いできるか、分かりません。この機会をはずしては、日本人に対して、お礼を申し上げる機会はまたと無いようです。せめて、荷物一つでも担がして頂ければ有り難いと、ただそれだけのことなのです……」と曹さんは、淡々と語っていたということです。

 その体育の先生は、すばらしい先生であったに、ちがいない。
「怒りを蔵(たくわ)えず、怨みを宿(とど)めず、ただこれを親愛するのみ」
そういったアジアの心をもった、心豊かな先生だったのでしょう。

それにしても、日本が破れたのは、曹さんのような巾広い中国人の心の深さに破れたのでしょう。日本は幾久しい間、曹さんのようなアジアの心を忘れていたのでしょう。

 アジアの諸民族にさきがけて、アジアの独立と防衛と建設に起ち上った日本は、アジアの諸民族に大いなる希望を与えたばかりでなしに、全世界の抑圧されていた諸民族にとっても、大いなる光明であったはず。

 そうした日本が、その自らの発展の途上において、アジアを忘れ、西欧と一緒になって、アジアを犯すという取りかえしのつかない、大きな過ちを犯していまっていたのでした。

 日本民族のエゴイズムは、空疎な権力の背景に、あのおおらかな日本自身を喪失しかけていた時に、この曹肇元という一人の中国人が、人間存在の根源を、人間相互の信頼と誠意と感謝とにおき、しかも民族の厚い壁を乗り越えて生きる道を暖かく示してくれたのです。

 日本は敗れるべくして破れた。満洲国は亡ぶべくして亡んだ。しかし満洲国は崩壊しても、日本は破れても、人間と人間の暖い関係は、民族の壁、運命の逆境すらものり越えて、ますます健全であることを、曹肇元さんは、淡々として実証してくれたのです。


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