陸羯南(クガ カツナン)の生地 津軽弘前の秋
わが国の出版界、新聞界、私学教育の各社各機関には隠然とした元老院的支配の類が存在しているが、近頃とみに顕在化して本来の使命を忘却し、怠惰にも自らの素餐の糧にしているような状態がある。
それは出版、私学校のもつ既得権の世襲に似た同族支配や、新聞を代表とするマスコミの一部に蔓延する錯覚した知的ステータス、あるいは大衆の中央思考や自己表現のための露出願望の対象としての視覚露出羨望の意識が、その世界を増長させている観がある。
既得権といっても第四権力と揶揄されるような、物書きの中央権力志向や私学助成という公的資金の確保など、官側の天下り体質との相互補完による利益保護という、ある意味では教育、文化のかかわる精神にあるまじき既得権でもある。
隣国では「走狗」といって、一過性の流行ごとに、高邁な論調で大衆を誘導する言論、売文の輩がもてはやされるように、知識人の堕落は国家の栄枯盛衰の端に現れる先導役のようなものである。
経済、政治、国際問題、はたまた医事などに登場する「説家」というべきものにも、それぞれの一派や閥が存在し、似非元老院のごとく滞留し垢まみれの濾過装置を経て、珍奇、高邁とみられる言辞が吐き出される。
〔説家〕
《隣国の歴史に登場する交渉役のようなもので、外交口舌によって自国を有利にしたり、戦時交渉などで活躍する。 「戦わずして勝つ」といつた状態を作り出していたのも彼らであり、お抱え説家が高官に召抱えられることもあった》
それは肉体的衝撃の回避や、釜の蓋の開き加減(食い扶持)を按配した装置であり、官製学歴という人格、知力とはなんら関係ない付属性価値のマニュアルに、唯一の知識ステータスをみる幼児性の抜け切らない我が国知識人の姿でもある。
その姿は、権力迎合や地位の保全の意を巧妙にも覆い隠す「大義の論」が横行し、いとも救世予言(予想)の如く鎮まりのない一時のシノギ論に現れる。
政治家の「大義を騙って利を貪る」類でもないが、国民のため、子供のため、と語りつつも浮俗の風向きには敏感なのも、その特徴である。
敗戦の影響か、深層の国力というべき地域環境に育まれた固有の情緒についても、端というべき神仏崇拝についての他国の干渉がおこなわれ、しかも見当違いの論調が紙上を賑わしている。
あるコラムだが、『中韓両国は例の如く反発してきたが、静かに聞き流したらよろしい・・・・ 教科書、歴史認識、靖国は対日圧力の三大カードだからである』
また、これを、告げ口しているのは左翼、進歩派、市民運動家であり、火元は日本なのだと人の言葉を借りて記している。
なかなか元老院的サロン論調だが、論のような「話」のようなもので、老齢にありがちな「まあ、まあ」調の行司論に他ならない。
「分からず屋だが、相手も立場もあるし、煽り立てるほうも悪い」
そんな気分のようだが、言論人の真摯な意思が見えない。
其の体で中国行脚の私感想を紙上拝借するとしたら・・
その後、しばらくして件の論説委員は欄を後輩に委ねたというが、一過性だろうか、その後の乱調は幾人もの記者が前任者のお気に入りに勤しむような邪気が感じられた。
執筆者は一人の人間ではないと筆者は推測した。
そうだとしたら、この方法は尋常ではない。
滋味の乏しい風情、妙に肩を怒らした迎筆、人物観が観人則の座標が定まらないまま紙面を埋め込んでいる状態が冷静に収まるのは時を要すことだろう。
つまり名利に恬淡、貪らざるを以って宝と為す気風は、官制学歴のみでは香るものではないが、せめて無名な下座観を心して欲しい。
事象の観察は下座、俯瞰の繰り返しと、座標軸の確定を明確に表す勇気ある意思だが、この表明する己自身の「徳」を明確にするという明々徳こそ、「大学」という学問を納めたものの役割である。
もし、不特定多数に貢献する役分を不明確にして、それによって地位、名誉、財を思い図っているとするなら、隣国にいつごろかある『小富在勤 大富在天』を観て、茫洋とした天の理(ことわり)を純粋な心で悟る「小学」を再度、習慣学習として学んだら宜しい。
今では昔話だが、荒木万寿夫文部大臣が、ある民族運動家がビルを建てた際に祝辞を依頼されたときのこと、こんな挨拶をしたという。
『ちかごろの反共を掲げている運動家は、内では反共を謳いながら隣国から資金提供を受けているものがいる』と。
また付け加えるように新聞記者について、こう述べている。
『招待外交というものが盛んだが、先般、新聞各社の訪中は、香港までは社費、そこを経由で列車で北京という旅程だった。 香港からは厚遇を受け最終日には人民大会堂で会食。その際、周総理から風呂敷包みが届けられた。中身は隣国の人情というものだった。
もちろん中身は熟知している。
一応、我が国の知識人といわれる新聞記者諸君は、かたどおりの話し合いをした。
もちろん、貰うか断るかだ。 思案することのない問題だが、毎日のタチバナという記者が「受け取らず」と、断固言い放ったという。』
また、日本と台湾の学術交流の際、帰国時に「お土産」と称するものがあった。
ある中国問題研究家は
『旅費まで支給され、最後に「お土産」とは、いくら貧乏な自分でも日本人の研究者としてそれだけは受け取れないといったら、それ以来、呼ばれることはなかった』という。
巷間、台湾派、大陸派と色分けされる言論人も、いつの間にか御招待ということで風光明媚な観光や特有の応接を受けて、いつのまにか同化され、漢文講釈の言うに言われぬおおらかさに、国家の風義さえ錯覚してしまうようだ。
そういえば、隣国では賄賂を渡すことを、「人情を贈る」と言う。
まさに「小人の学は利にすすむ」「利は智を昏からしむ」である。
なかには、顎足付きの接待に妙なステータスをくすぐられるのか、簡略で切れがなくてはならないコラム文までユル褌表現になってしまう。
疲れたからと、また大陸奇行?では、黄昏の拾得和尚のようなものであろう。
近頃では浮俗なパーティーで陳腐な時評を長広舌するのも、政治家を除いて言論人であることは多くの参会者の知るところであり、新聞界の元老院族に堕している人々の姿である。
以下次号