まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

仰ぎみる佐藤慎一郎先生の「総理秘密報告」・?   終章

2022-12-28 08:09:29 | Weblog

 

 

                

    叔父山田と革命の同志寥沖凱の子息 寥承志中日友好協会初代責任者と田中総理

 

「息子の承志が来日すると、まずは叔父の家に来た。子供の頃、叔父の腕でいつも抱かれていた」佐藤談

「あの、幻となった蒋介石、毛沢東会談も叔父の仲介で、寥のお母さんが迎えに来ることになっていた」(請孫文再来より)

 

《その一より》 

゛満州一の大悪党゛と新聞に書かれたが監獄では唯一自由に行動した。多くの民衆は名を隠して差し入れした。衣類はもちろん三日三晩歩いて卵を持ってきた人もいた。金はリックサックに入りきらないほど集まった。

上海で叔父がその新聞を見て,国民党湯恩伯将軍を呼び記事を見せた。将軍は黙って「佐藤慎一郎を釈放して長官官邸にひきとれ」と電報を打ち釈放した。

 

金は使えなくなった満州紙幣だが、公文書をつけて米ドルに換えると云われたが、もともと洗面道具一つで来たので、それも断った。それは監獄での会話だった。『桃太郎を知っているだろう。鬼征伐までは好いが、金銀財宝を大八車に乗せて犬や猿やキジにまで曳かせて持ってくるなど略奪民族ではないか』その言葉は染みついた。

 

崩壊後の最後の重臣会議で甘粕もいた。しかし彼らは右往左往するだけで結論が出ない。

勅任官や高級軍人官僚だが国内でもそうだが、五族協和と謳った満州でも威張り、何も満州のことも民衆のことは知らなかった。自分が呼ばれた。そしてこう言った。

「満洲のことはここに棲んでいる人たちに任せなさい」

彼らはその通りするしか道はなかった。

 

              

 辛亥革命 恵州殉難 山田良政 佐藤先生の叔父

 

ソ連が国境に近づいたと彼らは知った。まだ国境まで数百キロ。国境地帯には彼らが夢の国だと煽って内地から集めた開拓民が大勢いた。その一報が入った翌日、新京の官舎は家族ともどもぬけの空だった。高級官僚、高級軍人、勅任官は我先に電話線まで切って遁走した。

 満州国の財産は内地にもあった。土地、建物、資金など満洲国政府名義の莫大な財産だ。

蒋介石は『山田先生にお任せしなさい』と厳命。しかし日本人の某公使は偽書類を作って売り払ったり、なかには解らなくなったものがある。もちろん軍関係者か結託した商売人や満州ゴロといわれた後の運動家もいただろう。この事がGHQに分りそうになっとき、公使は叔父の家の玄関で土下座して「助けてください」と謝っている。どさくさで膨大な満州国財産は掠め取られている。それが五族協和の成れの果てだ。(佐藤氏談)

≪ちなみに孫文から後継者を相談されたとき、山田は蒋介石を推挙した。その後宋美齢との結婚を反対疎遠になるが、敗戦後「山田先生をお守りせよ」と命令。「怨みには徳を以て・・・」は、孫文の意志を守り、日本と協働して亜細亜を興す気概を示し、山田もそれに賛同している。その後度々訪台して蒋介石も知らなかった革命秘話を語っている。蒋介石の実直な気概は秋山真之も認めている≫ 請孫文再来に関連記載

 

土地は銀座や大手町界隈にもあった。その一つだが三井の手に渡っている。不可思議だっので、笠木良明氏と五十嵐八郎氏が真相を調べに三井に行った。出てきたのは番頭の江戸、傍に控えていたのは全生庵の大森住職。谷中の全生庵は血盟団の四元氏や中曽根康弘氏等、三井グルーブの禅庵と称するところだ。露天堀りで有名な撫順炭鉱も三井なら、孫文に満州買収計画を持ち掛けたのは三井の森格、三井と満州の関係は深い。(五十嵐氏談・元吉林興亜塾長)

 

            

五十嵐八郎氏(鎮海観音会・豪徳寺)

            

佐藤、五十嵐同席 小会にて

 

関東軍恒吉副官から作戦第一号から見せてもらった。すべて嘘だった

満洲の人々にお詫びしなくてはならない。遺書を書こうと日本刀で腕を切った。血書は指だが、何も知らなくて血が大量に出て遺書どころではなくなった。

自分は満洲で死ぬつもりだったが、女房と子供だけは内地に返そうと汽車に乗せた。しかし、家族は鉄嶺まで行ったとき、死ぬことを察知したのかお父さんと一緒と、また新京まで戻ってきた。ソ連侵攻、国民党占領と満州は混乱し、その中で生活が始まった。

 いつも助けられたのは現地の人たちの人情だった。

商売はしたことがないが、顔見知りの中国人が品物を分けてくれた。儲けを出すことはできない。そこで「仕入れ値いくら、売値いくら」と書いて一割だけもらって、多くの避難民を家で寝泊まりさせた。入りきれなくて玄関でも寝ていた。差別ではないが、主に青森県人だけはと懸命だった。でも土壇場の人間の醜態はひどかった。電球やトイレの紙まで盗んだ。

なかには大八車で盗みに来るものもいる。そんなことをしても帰国して青森県の重役になった者もいる。

 

                   新京にて 写真は先生寄託

 

日本人会の会長の平山は人の女房や娘を騙して集め、占領軍(中国)に提供した。操が汚されれば帰ってこれない。今の貞操観念とは全然違う。戦後、帰ってきたらいいではないかと政府も云うが、名乗り出ることすらはばかる境遇で、それが日本女性の矜持なのだ。なかには恥として懐刀で胸を突いた女性もいた。

 

ソ連占領時、ロシアの女の兵隊はトラックで男狩りをした。やせ細った日本人の男の襟首をつかみ、トラックの荷台に引き上げて連れて行ってしまう。

やってることは陰部を強引に舐めさせることだ。断れば銃殺だ。帰ってきても恥ずかしいので話すこともできない。そのうち口がただれて膿が出てくる。鼻もなくなる。言えばロクロクの注射を打てば治るのだが、やせても日本男児なのだろう、犠牲者も多かった。女は坊主にして男のようになる。判れば亭主と娘の前で、しかも真っ昼間、玄関先で輪姦だ。

 

シベリアには戦闘捕虜ならまだしも、民間人まで供出した。この交渉も対ソ誓約書を書いたのも高級参謀だ。一目散に家族を連れて逃げたのも高級官僚と高級軍人、勅任官だ。戦後は財界の要職に就き国政まで参画している者もいる。

 

 帰国しても引き上げ寮で極貧のなか多くの中国人を援けた。

国務省の高官が荻窪団地に訪ね相談した。朱徳の甥、小平の近い縁者も来た。

鄧小平の縁者は『鄧小平の力のあるうちなら大使館は言うことを聞く、とアメリカに渡った。米ドルが百ドルくらいあったので渡した。よく米国から手紙が来た』

あるいは青班の親分が来た。「なんで逃げているのか」と、聴くと、金塊の密輸だという。

「なぜ金塊か・・・」『共産党の正規軍が朝鮮国境に向かっている。これは戦争だと』

渋谷の中華料理屋でバカ話をしていたらGHQに伝わったらしい。朝鮮戦争のあとGHQに呼ばれてこう言われた「佐藤さん、あなたの情報が一番有効だった」と。情報などではない、呑み屋のバカ話しだが、何処でも妙な耳がある時代だった。

 いつ頃からか尾行が付いたり、公安が訪ねてきた。中国人を援けるために柏村長官や神戸の秦野章さんなどを訪ねた。あのラストボロス事件などでも長官に聴かれた。よく長官の車に同乗したが、途中で秘書役だった川島廣守(後のプロ野球コミッショナー)氏が阿佐ヶ谷あたりで乗り込んだ。

公安の職員は家に上がり込んで昵懇になった。いろいろな顛末を話すと「ははぁ、だから佐藤先生はか尾行がつくんだ・・」と吐露した。これが日本の公安調査庁だ。

 

 

                      

                    

              小会にて

 

北進を南進策に誘導するために謀略をした組織の幹部も来た。

ゾルゲ、国民党、蒋介石指揮下の軍事委員会国際問題研究所、イギリスのM16、そして日本国内組織があらん限りの謀略を行い、現在の国際情勢にも通底する隠れた事実だった。

しかも、その主要幹部の本人からの自発的供述だ。

 渋谷の料理屋のオヤジが嘆くに『女房がスパイ容疑で捕まってしまったと・・』後で聞けば日本に女がいて、それがばれるといけないのでオヤジが密告して女房を退去させる手はずだった。佐藤先生は四方八方手を尽くしたが叶わず、強制出国になり横浜港まで見送りに行った。

オヤジもその佐藤さんの人情に居た堪れなかったのだろう、事情を吐露した。そして、言わなければ解らなかったことだが、実は国際問題研究所の幹部です、と。

内容は日中史に記載されている国内外の定説がひっくり返る内容だった。

 

ある日、筆者に茶封筒が数束手紙を添えて送られてきた。劣化して割れそうなワラ半紙には口述時の走り書、方眼紙には組織図、先生の取りまとめ原稿など入っていた。

ワラ半紙の分らない字は飛ばしてワープロに打ち込み、取りまとめ原稿との正誤を確かめた。この未完成の取りまとめ原稿をあたかも真実だとマスコミら載せた輩もいたが、対論したどこかの教授も、先生でさえ未完と云う資料に耳を傾けていた。このマスコミに売り込んだ輩は先生の心を知らず、こんなことがあった。

「彼は研究者としては一流になるだろう。しかし一人で抱え込んでは難しい。異なる人の意見を聞きながら合理を求めることが「分」を活かすことだ。つい先ごろも母校に食い扶持職を頼みに同行した。専門的な話題になると自説を曲げないで相手を追い込めてしまう。仕事を頼みに行ったのだが、無理だった。惜しい人間だ。」と。

これは方眼紙の組織図とそこに記されている構成員の関係を解きほぐさなければ解るものではない。しかも構成員は名前を幾つも持っている。後になってこの世界では一人者と云われた関西の教授に一部を見せたら、いつまで経っても連絡なし。こちらから連絡したら「いゃ、名前を検索しても出てこない」。「特務は名前を幾つも持っていますよ」と伝え連絡を絶った。

それも大手新聞の解説員のとりなしで一部の資料を提供したことだが、その世界での第一人者のお墨付きを得なければ新聞に載せられないという商売人の責任回避の担保だ。

佐藤先生は『日本の学者は現地の民情とその仕組みを体験せずに机で勉強している。とくにこの手の謀略機関の解明は飛び込んだものしか理解できない。やはり日本のエリートは肉体的衝撃に弱い』と嘆いていた。

 かといって、解ったからと云って非難を言い募り、歴史を書き換える愚はするべきではないともいう。離れることのできない隣の国といつまでも言いあい、競い合いをしていても意味のないことだ。しかも商業出版のグランドに持ち込んで数と食い扶持を企図したところで、当時の血肉飛び散る現実と脳髄を絞った謀略理解の、淵にも届かないし、かえって本質の安寧希求への目的意識や小異大同の協働のこころを離反させるだけだとも語る。

 資料そのものは、叔父は孫文の側近、本人は反日で有名なデモ「五・四事件」や「一二九事件」に直接参加しているためか、その後の日中の背景にある動きが改めて明らかになる内容であり、まさに目から鱗云々の内容だった。

                  

学者の習性なのか、このような事もある。 宦官についても、現地で多くの宦官に直接会って聴取している。聴くと宦官募集を取りやめた後に宮中に入っている。理由は「死んだ宦官の名前で入った」とのことだった。ところがこの話を日本の研究者に話すと、「そんなことはない募集が終わった時期と異なるために当てにならない内容だ」と。死人の名前で入っている宦官は大勢いるが現地にも行かず、行っても書物検索ではわかるわけもない。しかも通訳付きでは嘘の網を通過した話だ。

同様に、台湾で反共新聞を作っている朱徳(革命第一世代、幹部将官)の甥がいる。それが朱徳の遣いで中曽根総理に会いに来る。どこから聴いたか、地方講議に行った旅館に電話があった。良く調べたもので、「総理を紹介してください。先生ならよく知っているので・・」。たしかに拓大の頃は彼は学長、秘書の上和田氏は息子の知人、そのくらいだが、彼らの周到な人物観察に驚いた。

            

              

        安岡正篤氏

 

さりとて、彼の国や国内権力に迎合することなく、浮俗の走狗に入ル学徒を忌避し、超然として精神を歪めることもなかった。安岡正篤氏も佐藤先生の体験に裏打ちされた学識に自身の不足を委ねていた。そして、その内容も秘して伝達している。

その後、安岡氏は様々な所で「謀略」について語っているが、戦犯回避の事情や、その組織の責任者と知らず古典談議をしていたことは、後に佐藤先生の指摘によって分ったことだ。

 

その仮称「総理秘密報告」だが、総理もその一人でしかない。7部だが、時を措くことなく中国大使館に届けられているという。たとえ秘密でも、諜報員の倣いか、互いに機密情報を交換することがある。2重3重と国策使命を複合する情報工作員もいる。持っていけば、お返しもある。官吏なら情報、代議士なら利権だ。

しかも、情報は生きている。聞けば嘘が出る。自然に話し始めれば真実もある。金に絡めば尚更のことだ。

 

この資料は自宅の居間つづきの長押に30センチの棚を設けて、菓子箱に入れてあった

いつもこれを差して、「死ぬまでに焼いてしまう」と云っていた。某氏との鼎談だけでなく、了解を得て録音した大量なテープの随所にその言葉が出てくる。

筆者はそのつど「いずれどんな意図を持った人間が現われるかもしれない、」と、意を合わせていた。

以前、実直な教え子が「満州大観園」について新刊として出版した。素晴らしい畏敬する人物だった。それ以前に、どこから手に入れたか大観園についての本を出したものがいた。先生に詫びを入れに来たが、金品は断った。もとより先生は部数・著作権だとさもしいことは考えない。講演を依頼されても交通費のみで、商売人(企業)から依頼されても多くは断っている。些少なら生徒たちと呑んで終わりだ。

「なぜ・・」と聴くと、『シナでは断るということは、少ないということだ。だから貰わないのだ(笑) 自分は机で学んだものは少ない。すべて体験だ。しなかったのは死んだ女を死姦することと、逃げたのはソ連の女の兵士だけだ。だから自分の話は90年掛かるんだ(笑)』

         

        

       新京 満州事情報告

 

突然の逝去によって、主のいなくなった荻窪団地の自宅は、研究資料に興味の湧かなかった縁者の代わりに、いっとき教師時代の教え子が出入りしていた。

師恩の果たし方は様々だが、単なる探求心のみで師の体験浸透を徒に縁の効用として使うことに戸惑いはある。「佐藤慎一郎選集」が発刊されたとき、嬉しさと戸惑いが先生にはあった。

本に署名すら断っていた先生は、あの安岡正篤氏の没後記念著書にも文を添えることを断っている。しかしお世話になった人には自著を購入し、不自由な身体で5部づつ束ね、奥様と郵便局まで度々通っている。

 

周囲は先生を世に知らしめようと、度々資料の出版をすすめるが、筆者は逆に師がつねづね言っていた『学問は行為によって完結する』ことを念頭に、後に輩出するであろう人物に期待して、「ご無理をなさらずに、お身体の方が大切です」と、護るべき御方の守り方を提唱していた。

なぜなら、満州崩壊の重臣会議で思いついた『物知りのバカは無学のバカより始末が悪い

そして『吾、汝らほど書を読まず、されど汝らほど愚かならず』という言葉に、師の意を忖度していたからだ。

 

             

その間、度々長文を添えたさまざまな資料が茶封筒で小宅に送達された。錯学の徒は、それを、゛持ち去った゛と、喧伝するものもいた。

また、古典を現代の事象に合わせて挿入し、飲みながら楽しく共著として歴史の先賢を顕し、先生の縁者とともに残像とした「明治の日本人と中国革命」を主題とした拙書、「請孫文再来」(後に「天下為公」に改名)を著し、縁ある方々に配布した。

年代を入れたらいいね、まだ資料はある』と愉しんでいた。原稿をお持ちすると一晩熟読した翌朝再訪、すると拙書を前にして『嗚呼、日本は終わってしまう・・』と、突然涙を流した。奥様も驚いて目の前に正座した。

いつものかすれた声で『ありがとう、ありがとう』と、未だかってない御姿だった。辞すときには必ず辺りを見回して、『ばあちゃんが具合悪いので、ちっとも勉強が手につかないが、持って行ってください』と、資料封筒を渡された。少なくはない数だ。そして寒気、暑気にもかかわらず一階まで不自由な足を運び、車がみえなくなるまで見送りして戴いた。この姿は白山の安岡宅訪問でも同様だ。それが明治生まれの一期一会の厳しい習わしなのだろう。それ以降、こちらも振り向くことが多くなったが、両氏はいつもそのままで立たれていた。

『これは、燃やしっちまう』と津軽弁で長押の上の政府機関宛ての資料控えを指さすのもしばしばだった。

 

                   

 

筆者が20代のころ、あの新橋の善隣協会で行われた「笠木良明を偲ぶ会」の邂逅から、教育会館での安岡正篤氏の師友会の佐藤先生講義で、目ざとく見つけてくれて名刺をいただき、『いつでも来てください』とお誘いを受け、ぶしつけにも我が家に上がり込むごとく家族ぐるみの縁だった。講演には何度もお伴させていただいた。

安岡氏から督励されて作った小会のおり、参加者が少なかったことを嘆くと、いつも柔和な先生が怒気を含んで、『そんな弱気ではいけない、陽明でも一人でも少なしといえず、千人でも多しといえず、と云っている。一人でも国は興き、一人でも国は亡ぶ。少ないからと云って嘆くことはない。私は一人でも真剣に聴くものがいれば、いつでも来ます。もっと自分の行いに自信を持って頑張ってください』

 

筆者が王荊山の遺子を同行した満洲大同学院の二世の会では『日本は悪いことをしてしまった』と、号泣された。

 

 白山の安岡宅の書斎では佐藤先生の近況を伝え、荻窪では正篤氏やご子息の正明氏の話題もあった。『安岡先生は裃(かみしも)だが、息子さんの文章は活きているね』と。

晩年細木女史との問題が出たとき『いゃ、安岡先生は男でよかったね。自分は満洲で好きでもない女に漏電した。死ぬつもりだったが義兄(竹内民生長官)に云われて北京に留学した。お陰でこの人生だ…』と。

世上、師父だ、神様のようだと云われた安岡氏でも、一端問題が起きると弟子と威張り、胸を張っていた者たちが青菜に塩の状態で、なかには失望して非難するものも出てきた。貴重な蔵書ですら率先して手を差し伸べる者もなく、細木女史は韓国の大学に寄贈した。

                   

              義兄竹内氏と佐藤氏の実姉

 

そんな手合いが、落ち着くとモグラのように顔を出して、本人さえ弟子と称するものはいないと言う「安岡の弟子」と称して、珍奇な勉強会や安易な言論を世間に広め、食い扶持や自身を飾る屏風として活学ならぬ利学利殖に用いている。

 

ご両人に共通していることは「貪らざるを以て寶と為す」だ。また真実や真理を知るために人を嘲り、貶めることの周知を是としなかったことだ。

佐藤先生の葬儀会場でわざわざ連絡した安岡氏の関係者の前で、安岡氏を嘲る挨拶をしたものもいた。師が「人情は宝、国法より重し」と唱えて異民族との交誼につとめた至情の精神を、忠恕なき浅学徒として自らを晒す愚は、両師の利他の交換による厚誼を理解の淵に追いやった忘恩の醜態だった。それは「学問は行いによって完結する」と、学びの本(もと)を説いた先生への冒涜でもあった。

                

           

    後列右 佐藤先生 前 頭山満氏

 

標題だが、もし総理云々と読者の耳目を集める手法で、邪まな意図で漏えいされたとした場合、商業出版の糧にしてどのような使い方をされ、先生の人物像さえ偽作され、歴史の歪曲に使われるかもしれない。

そもそも資料は作成提出された控えであり、要は国策に用いられたものである。内容はどうであれ、記載された人物も知らず知らずに利用された者もいる。それを一方のあら捜しや、事後に起きる現象を強引に想像し、理屈付けすることは売文の輩の常套手段でもある。

しかも、知った、覚えたようなことを得とする浮俗の読者は、難なく錯誤の知学に陥ってしまうだろう。

 まして歴史上の有名人なり資料を、゛秘密資料゛としてコピーペーパー宜しく貼つけようものなら、商業的成果は益々上がり、遊惰な執筆生活に供することも適うだろう。

それを先生は学問の堕落として、社会変質の大きな現象として視ていた。

 「護るべき恩師の守り方」

叶うなら鎮まりを以て師恩を拝受してほしい。

 

 

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仰ぎみる佐藤慎一郎先生の「総理秘密報告」・?  その一

2022-12-27 14:40:18 | Weblog

               王荊山の遺子と孫  大同学院の子弟の会

王荊山・・・ 満州の実力者で引き揚げ者に大量の食糧を供出「困っているときはお互いさま、日本人のお蔭で満州は発展した」と、平然としていたが、共産軍によって敵を援けた罪で銃殺

 

 

<前掲載 「佐藤先生に観る機密費という銭」と重複する個所もありますが、期日を違えて掲載された荻窪酔譚録音を参考に、二部に分けて掲載します>

先生が自ら言を発し、了解を得て録音され、いずれ利他に用となることを共感したものと、政府機関から委嘱され、秘密報告として七部作成された政府資料が商業出版に漏洩されたことは、国益損傷といえる行為である。

 

いま、これを種に、゛新しい発見゛として、かつそんな名称もない「総理秘密報告書」として巷の売文の利に用いられると聴く。要は、本人が焼却を最後の念としていたものが、盗まれたか、もしくは政府関係者から漏洩したものである。

一端提出したものは政府の管理物だが、本人の念じた国家のために用されるのならまだしも、売文の輩の食い扶持の種にされたのでは本人も無念のはず。

しかも、焼却の意にある、実存の人物の名誉、ご家族への憂慮を身近で感じたなら、なおさら、慙愧に堪えない状況だ。また、曲がりなりにも死後に居室検索した関係者でなければ、とことさら念ずる次第。

 

だれが名付けたのか32年3カ月にわたる口述聴取されたのが「総理秘密報告書」と称して独り歩きしている。書類の名称は以下に記すが、「総理秘密報告書」なるものはもともと無いものだ。後で7部の内の一部を総理も読んでいただけだ。もし総理にまとめて提出して、総理が要路を選択して配布したなら、この資料は別の問題を含み、以後の歴代総理の言辞や行動に少なからず影響を与えたはずだが、事実は見えてこない。

だだ、長期にわたる毎月の聴取に高齢の身体が堪えられなくなり、辞退を申し出た。世上には中国問題を研究している方々が沢山いるはず、そちらの方にお任せ願いたいと添えた。しかし聴取員は「いや、表に出して善いものを書いたり言ったりする方はいるが、問題が起きたら中国人や当事者がどの様な意図をもっているのか、また真相について分る方は佐藤先生をおいておりません」と云われ、国のためと継続している。

 

中国大使館への漏えい事実が判明してからは、この報告書とは別に佐藤総理以降の一部を除く歴代総理の中国問題の諮問は佐藤慎一郎先生にその多くを懇請していた。しかし権力に近寄れば先生にとって煩いとなる地位や名誉や財には近寄らず、その多くは荻窪団地の一室で端座し、訪問者と酔譚を愉しんでいた。

 

        

        郷里 津軽岩木山

 

台湾断交以降、多くの学術交流が行われたが、学者にも大陸には親中派、台湾には親台派がいた。多くはアゴ足付の土産(謝礼、便宜供与)で行われ、マスコミ記者や政治家もその類に漏れない。

ある親台派の集まりの時、最終日に現地で謝礼の提供があった。日本側の親方は学者K氏、佐藤氏は『学者が訪問国、とくに断交している国からの学術招待ならまだしも、土産まで貰うべきではない・・・』と断った。すると次年から招かれることはなかった。

その後のボス学者はN氏だが、いっときはその名声で新設大学の学長になっている。通信社OBの者が訪ねたとき、机の引き出しを差して外国政府からの供与金だと平然として語っている。面白いことに、双方、産業経済新聞(産経)の常連執筆者として台湾の提灯記事を晒している。台湾の心を汚していることにも気が付かない。あの後藤新平なら一顧だにしない売文の輩・言論貴族のようだ。

 

『親台派と云われた議員も多く訪ねてきたが、みな続かない。いろいろと土産も渡したが、何の有効性もなかった。まだ民間の方々の方が真面目なことをしている・・』とは、以後、台湾側交流窓口の責任者に就任したS氏の嘆きだ。

 

その土産は貿易利権や便宜供与だが、ODAをはじめ国内法の適用範囲外で行われる便宜と云う賄賂や利権の提供は、今もって貧困、環境、エネルギー、交通基盤整備、などの美名を大義につかって正々堂々??横行して懐を肥やしている。

 

            

               叔父山田純三郎と孫文   デンバー号上海帰路にて

 

1985年の某日、筆者と週刊誌記者門脇氏と佐藤先生の鼎談があった。

佐藤氏はその時91才、この書類についての扱いについて、『焼却しなくてはならない資料だ』と言明している。

理由は、余りにも多くの実在の人物名が記されている。また存命の方々もいるとのことだ。

それは、某氏の『無くなってしまったのでは惜しい資料だ』との言葉に応えた強い意志だった。

           

      日中史・台湾への理解の深い門脇護氏(ペンネーム門田隆将)

 

満州崩壊後、避難民救護活動などをしたのち、葫蘆島から帰朝、荻窪の引き上げ寮では極貧の生活をしていた頃、見も知らぬ調査関係の人物から、折り入ってお話を聞きたいとの連絡があった。電車賃さえ難渋していた頃だが、赤坂の料理屋での聴取がきっかけだった。

いゃ、料理屋など初めてなものだが、料理が小鉢に少しずつ、こっちは帰りの電車賃を心配していたが、送ってくれたので助かりましたが、あまりにも貧乏所帯でビックリしていた』

どこに出す資料かわからなかったが、すべて手書きでつくっていた。

他には、ソ連、アメリカ、などの主要国などの研究者数人がいて、それぞれ7部作って主要な部署に提出していたという。それも分ったのはずっと後のことだ。

 

その提出先が判ったのは、安岡正篤氏と懇談していたら福田総理が入ってきて、『やぁ、佐藤先生、いつも拝見しています』と、片手を上げたいつものポーズで鼎談した時、ははぁ、あれが総理にいっているのかと、はじめて知った。

 

調べたいことがあれば香港に飛んで、海岸で大陸から泳いで逃げてくる人からも聴取した。あの中国人でも、日本人だとはわからない流ちょうな北京語を駆使した聴取だ。

余談だが、津軽弁は北京語やフランス語に適したイントネーションのようだ。

 

    

     新京にて 先生寄託資料

 

その後,たっての懇嘱で内閣調査室でも中共の法規の翻訳をやっていた。部下も何人もいた。

その頃、池田総理の朝飯会で数回話をした。側近の某氏が遣いに来て中国問題の研究をしてもらいたいと懇請してきた。何度来ても断った。すると池田本人から電話があり、信濃町の自宅に行った。池田は『どうしてもだめか、いまは170万しかないが必要なだけ増やしていく』「いや、金の問題ではない、あなたが寄越した人はソ連のスパイではないか」池田は怒ったが、佐藤は事実経過を2つだけ列挙した。池田は押し黙った。『大平に任せる』と。

しばらくすると大平から呼び出され『佐藤さん、誰にも言っていないか』「知らせていない」

『彼は政策も資金も大きく関係している。今辞めさせると政府が混乱する。任せてください』

 この人物は池田の親友で戦後シベリアに抑留され、帰国する条件で対ソ誓約書を書いてしまい、帰国して金を受け取ってしまった。この人物が収容所で某氏にそのことを相談した顛末を佐藤先生が聴取してそのことが分った。

 

 福田さんの意向なのか、田中龍夫文部大臣から電話があって『会わせたい人がいる』とのことで案内された人が玉置和夫代議士だった。この玉置氏が資金を出すので中国問題の研究組織を作ってくれ、とのことだったが、これも断った。

 

佐藤先生は資金と組織は必要なことは分っていた。中国では国家を挙げて日本の瑕疵を調べている。しかもこの結果はいずれ歴史問題として反論しにくい煩いとして日本を苦しめることも分っていた。

しかし、日本人は組織と金において、とくに官僚組織の慣性となる弛緩と堕落は歴史問題に無責任な態度を取りかねないと危惧していた。くわえ、それを看過し、現状追認して、反論には腹話術の人形のようになる閣僚の問題意識の欠如と不勉強も憂慮していた。

孫文側近の叔父山田純三郎の薫陶もあり、世上の感性とはことなる観察眼はあった。

また、中国研究については、国境・民族を超えた普遍な精神は衰え、看板思想の争いや経済の熱狂が烈しくなるなか、偏見が将来の思索を閉ざす昨今、手前勝手な歴史観で争いの種を軽薄な研究として育てる愚に危惧さえ感じていた。

       

 

          

         大同学院の生徒  梁立法院院長と実業家 丘氏  

 

安岡氏との臨機の懇談においても、双方、多くの刻を費やして国家の行末を逆賭していた。

それは隣国の栄枯盛衰を譬えとした応用活学と人間学であり、いくら科学が発展し生活がそれに順化しても、自然界の一隅における禍福の循環には、普遍な定理があるとの感覚だ。

 

旅順水師営の中国人小学校が始まった中国体験は、満州崩壊とともに終わった。その間20数年、つねに中国民衆とあった。国民党に捕まり処刑前に自分の埋められる墓穴も掘った。 

内地の教員の時「墓穴は掘るような人間にはなるな」と、教えていた時を想起して笑った。

それも、子供が⒋人いたことで、看守から『逃げろ』といわれ救われた。男は⒋人で机を支える足となる縁起ある人間だとの諺ゆえだ。

川島芳子の博打場にも遊びに行ったが、中国人の知り合いに必ず勝つ方法を教えた。簡単な数学だ。引き上げ船で帰った時、下船する前にGHQに呼び止められた、「川島芳子を知っているだろう」と。芳子が粛親王の娘で信州の川島浪速の養女になり、結婚した時、房中で困ったことになり、青森出身の医者に処置してもらったことは知っていた。男装の麗人、いな立派な女だが、その房中のことが原因だったのだろう。たしかに松本高等女学校に白馬に乗って通っていたこともある故のこともある。

 以下次号

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おんぶと抱っこの 「戦争が無ければ平和という欺瞞」  2015あの頃

2022-12-23 01:37:02 | Weblog

               内緒・??、いや「言わないでください」・??   習さん、馬さんの国共合作

 

無いに越したことはないが、地球の表皮で、いつも、どこかで起きているのが戦争だ。

その理由は意地とメンツと食い物と金が大きな理由だが、こうも続くと人間種の遺伝的特徴のようにもみえる。

「平和」は戦争と戦争の争いのない間を意味するというが、恒久平和は「安寧」によって表わされる。戦いは無いに越したことはないが、無いからと云って平和だとは限らない。

平和で困るものもある。かといって平和が反戦同義のスローガンだと、すべての冠につけられ唱えられても理解に苦しむことがある

 和して平になる(平等なり落ちついた状況)で、それが本当の実現なら理屈では文句はないが、もともと身体や労働量や質、年齢など異なる七十億の人間が同じ分け前では、逆に不平が出る。

「平ならず(不平)を、平すれば(平均すれば)、平ならず(不平が出る)」

それは、古典や諺にある隣国の平和に対する考え方であり、真理でもあろう。つまり、あり得ない、意味のない言葉なのだろう

 平和時には幸せがある、戦争もない、といわれても、問題はあっても受験戦争や格差貧困、官民格差など、既得権益の増長は是正されることはない。

先の戦争には様々な後付けの理屈がある。亜細亜は解放された、軍国主義を断ち切った、平和な自由と民主が到来した、愛国心がなくなった、などさまざまだが、その前の戊辰戦争も幕府の封建制が倒れた、薩長の藩閥政治が横行した、近代化した、涵養した情緒が融解した、など、これもさまざまだ。

 戦いは個別の勢力が権力を奪い合う、あるいは別の派や種を駆逐することだが、負ければ従属の徒となって、異なる習慣や掟に拘束される。民族の場合は暦を変えて慣習をも変える。

国対国の戦時には国民も緊張する。敗ければ奴隷だ。

 ローマは奴隷がいたが、宗教や慣習には寛容だった、ゆえに異民族でも支配地ではコアとなる情緒を除いて同化した。アメリカもその意味では似ていた。有史以来と云われた先の敗戦と占領は、弱体化政策とはいえ大方の日本国民は真の敗戦の意味と亡国の悲哀は、多くの歴史に見る国や民族間の争いの後に記述された悲惨さは少なかった。だから負けるとはこのような事なのかと、惨禍は忘却の彼方に追いやった。

アフリカの民族間の虐殺、中東での宗教派別の戦闘、漢民族による満族・チベット族の駆逐、いつ果てるとも解らない迫害と惨劇が続いている。

 平和が熟れ.慣れてくると言葉と行動の自由度が増す。そして、湧き出る数多の欲望が人々の間で衝突する。その一つである選択の自由は、個々が協調性を失くして競い合い、嫉妬や怨嗟を自ずから招来する。

経済戦争、受験戦争、交通惨禍、これも平時の戦争だ。

 

 

           

             蔣さん  毛さん

 

また平和は人生観や成功価値を歪めることがある。いや歪められた価値が現世の唯一の価値として人々に浸透してその追及に埋没するようだ。

一つは肉体的衝撃だ。その端緒は肉体的負荷のかかる労働への怨嗟だ。それは「好きなことをやりたい」というなかに、いかに楽して、自由に生きたいという欲求だ。

労働対価の価値よりも、金はホドホド、人の関係も希薄でもいい、ひとり夢想したような世界で干渉されずに生活したいという青年が増えてきた。

 それは、一昔前の立身出世、そのための附属性価値を高めるための学校歴や資格、名誉に財力、はたまた容易に目的に近づくすべである縁戚などは無意味な人生観となり、ときに無価値となるか、諦めの環境に安逸となる生活となっている。

 これを良しとするか、嫉妬や怨嗟に進むかは各々だが、その俯瞰した世界の姿に問題意識をもつわけでもなく、突破したくても気力は萎え、あれもない、これもないと親や他人を怨み、偏狭な世界に陥る人たちもいる。

戦争は不自由だ、とはいうが集団での階級は役割の持ち分として当然ある。しかし一面では局地戦ならまだしも、総力戦は外に敵を排し、内に世代や人間そのものの更新を促す環境がある。敗け方、勝ち方にもよるが、多くは逃げるか、向かうか、責任を追うか、結末は没落と新興が訪れる。

 

           

           台北の小学校

 

                                   

                                    生徒が自主運営する朝礼の国旗掲揚

 

平成元号は「内、平らかに、外、成る」の意がある。戦争でも銃後の守りがあり、外交でも内政の充実がなければ成り立たない。舞台の背後には楽屋もある。

世俗では、部屋が散らかり、習慣的な清掃もなく、出かけるときは華美に言葉遣いまで変化させて見栄的散財をする女房なら家庭も教育もままならない。反面教育もあるが、それは社会の一部の現象であるべきだ。これを内政と外交に当てはめれば、政治も近いところをたどっている。

 

もちろん「地、平らかに、天、成る」ともなれば、震災地で陛下が海側にお進みになり、低頭する行為は、天に対する寛怒を請うことであったと読み取るべきだろう。どこかの元知事が「人間の行為に天が罰を与えた・・」つまり,バチが当たったという浅薄な戯言とはことなる姿だ。

天は、罰は与えない。「天」それは各々が希求する理想的な空間なのだ。居心地がよいと安住したり、悪いと恨んでも、もともと空間をコントロールするのは己そのものだからだ。

なにも、天に神様やエンジェルが都合よく存在しているわけではない。

 今は一世一代の元号となっているが、明治以前は天変地異や疫病などが流行ると,改元した。一代で何度も元号を改元したこともある。その意は「祷りが足りなかった」だ。

 

         

               中正記念堂

 

陽明の言を借りれば「外の賊、破るは易し、内の賊、破るは難し」と説く。

平和もそうだ。内の安定は、外の平和よりはるかに難しい。だから為政者は外で気勢を上げる。比較し、脅し、金を配り、非難する、ときに武器を以て攻め立てるのがそれだ。しかし、前記したような内となる国内問題には戸惑っている。確かに内の賊は難敵だ。

その多くは、欲望の多様化と滞貨した浪費が原因だ。

 どうだろう、真に平和と感ずるものを難しくしているの要因はどこにあるのか、一つの切り口が出来たのではないだろうか。

平和は求めるより、自作したほうが満足感はある。

勝手な妄想も自由だ。人に同調を求め、相手の責だと仲間を募ってデモをするのもいいだろう。それが平和なら、その空間に入るものもいれば、入らないものもいる。

 戦争は負ければ他人の空間で息をしなくてはならない。ニンニクやラード、バターの臭いもある。記憶力が乏しく、競争も得意ではない、身体能力もなく、まして財もない。それは安易な宿命論や社会の怨嗟として堆積する。やはり死ぬのは怖いのか。

 平和ならばこその敗者はある。戦争のグランドと、平和と称するグランドにも弱肉強食はある。各々の成功価値も異なる。勤労と怠惰、緊張と散漫、無礼と礼儀、虚偽と正直、どちらを選択するかで達成感も異なるだろう。しかも、それが軋轢として人々は争い、ときに闘う。

 それが美しい国を標榜する国内の実相だ。

ちなみに、それも掲げる平和論と同じで、「清く、正しく、美しい国」でなければ、スローガンでしかない。 安倍君の唱える「美しい日本」は、清く、正しい人びとがいる社会だが、これとて片腹が痛くて口ごもる。

先ずは国内の平和感覚への思索、つまり人の動向をつかさどる成功価値(人心)の更新に目を向けなくてはならないと考える。そこから戦争も平和にも新たな観点が生まれるはずだ。

残念ながら政治にも教育にもその機能はない。それは与えられた課題を偏狭に解いたり、人が代わりに為してくれるものではなく、己の責として考え、行うべきことだと云うこを忘れているかのようだ。

 だっこの仕方が悪い、おんぶの背負い方が悪いと泣く赤子ではないが・・

 

イメージは一部、関係サイトより転載

 

 

 


 [寳田時雄1]ンクはな

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時節は儒を除けて墨を得る  終章 2014 10/9

2022-12-18 02:22:31 | Weblog




官製学の教科にもない行きつ戻りつの奇説だが、「ゴマメの歯ぎしり」として拙書笑読を請うものです。


前号より

また、当時の儒を中心にした教養ついては、語りも学びも重宝する説のようだが、これを掲げられては生身の人間の欲望の企てには、殊のほか邪魔で厄介なものと考える人もいるだろう。まして、これを盾に抗されては現実の実利成果にはそぐわない事も出てくるようだ。儒を則や善なる習慣性とする学徒からすれば、向学には相容れない徒と切り捨てられるかもしれない。

まして、知った、覚えたような類の学びが、現実の生活の仕草、面前の欲望、とくに儒の説く人倫の際(きわ)に在る性欲、嗜好を凝らした食欲、貪欲な金銭欲が起こす競争、排他など、制約のある環境の中で他と譲り合うことなどは可能なのか、あるいは生活内観、自制心などの素行自得などできるのだろうか。利便性の知識や技術ならまだしも、なかなか通人にも理解しずらいことだろう。

遠い昔の説は東洋の孔孟をはじめとする儒、西洋の哲学や宗教においても、時はどの様に変化しようと有効だと数多の場面で記されている。
天邪鬼は、もし、キリストや孔子や仏陀がもう少しなが生きをして、「あの説は訂正する」と云わないとは限らないという。
なぜなら、世の中はその説に相反することで多くの惨禍を招いているからだ。聖人や賢者のメンツのためにもそう思わざるを得ない。

隣国ではややもすると四角四面に陥らないようにするためか、聖人に偏しないように生活の抜け道や実利のために「異句同音」と鷹揚に構え、腹が黒く面の皮が厚く生きる「厚黒学」など、たとえ戯言でも世間の歓迎賛同を集める儒との異説がある。智慧と云おうか絶妙なバランス感覚がある。聖人君子の説を四角四面に与えられても、却って窮屈になってしまう。面従腹背の狡智でもあろう

考える心、想う理想としての前置きならまだしも、生身の人間はそんな単純なものではない。まして複雑な要因を以て構成されている社会や国家を括るには、歴史に表れた事象を語るだけでは、おぼつかない。却って従うべき立場に置かれた人たちを茫洋な気分にさせてしまうだろう。



近世中国で流行った「厚黒学」は多くの庶民に歓迎され、孔子の説く「好きで楽しくなくては覚えない」を、まさにその状態だった。
その時も今も「儒はハナシであり看板だ」である

ところが朝鮮半島の人たちは宗主国の説を、より厳格にして祖師李退渓のもと「朱子学」を定着させた。帝位存続を担保とした宗主国への構え方であり誓詞ならぬ誓いの学のようでもある。

余談だが、筆者の畏友が京都の高麗博物館に足を運んだ折、当時の陶器に菊花紋が記されていたことを伝えてきた。
菊花は我が国の皇室のみならず、古代オリエント・中東にも散見するという。しかし、李朝に代わって五百年、抹殺されたように菊花紋は無くなった。高麗は元の先兵(傭兵)として日本を攻めた。モンゴル族の元が亡んだら漢民族の帝政に代わり、朝鮮は帝政の仕組みに沿い、従順として大なるものに寄り添った。

そして厳格に儒を推し戴いた。ならば、孔孟のいう理想郷となっただろうか。
まして本家の中国はどうだっただろうか。










以前、筆者は戯言を書いた。

四足(陸上動物)を喰い、岩盤台地で生産性のない地域は人口が増えたり、物が不足すると互いに他国へ侵入し、統治の為には宗教を使った。殺戮の罪科は「神は愛を以て赦す」と説いた。四足も計画生産として牧場を設け、羊飼いは物語を作った。だからその地域にはキリスト教が必然だった。

医食同源の国は何でも食べた。大書「本草綱目」には人を食べ、しかも嗜好を凝らして人食に励んだ、あの孔子の弟子、子路も戦禍の後、胃袋に収まった。政治はつねに混沌としてモンゴル族や満州族の支配におかれ、辛亥革命によって漢族は復した。

元の宰相は耶律楚材、色目人と云われたペルシャ系の登用だが、漢族はその鷹揚さに乏しい。
どうだろうか、その歴史は孔子の説く、仁や義、徳があっただろうか。だから逆に儒が必須の看板となったのだ。

ならば、孔孟に囚われ、それが朝鮮までではないが知識として、あるいは中国の三百代言のような交渉術を駆使した説家(知識人等)が位を占めた我が国はどうだろう。本居宣長は唐学(漢学)という異文化、異民族に必然的に発生した儒について異論感じていたのか国学を提唱した。

戦前でも教養人の多くは漢学の素養を基とした。しかし彼らの多くは武士道と云う修学を基として自身に浸透させた学びに漢学を添え、人格教養の顕れとして歴史の岐路に多くの功績を遺した。しかし肉体的衝撃の恐れや覚悟の要求は、数多の学問でも到底適わないものだった。それ故なのか民族分裂を避ける知恵として、推戴するもの、寄り添うものとして具体的な姿で長(おさ)天皇を推戴した。理由付けはその後だが、これも動物に模せば、群れの必然だ。

つまり、みな必然性があって、もとは自己愛の担保と云っても良いもののようだった。それは、たとえ栄枯盛衰を振り返るものでもよい、縁の為せる同種同族のしるし旗と見るもよい、切迫した死生観の緩衝としてもよい、つねに自己を登覧した位置で擁護してほしいと考える姿だ。






しかし、このような浅薄な学び方は、四角四面の日本人を、より硬直させ、本来古典に表れた柔軟な思考、他への許容量が単なる科目マニュアルとして、知った、覚えたという暗誦学であったために起きた、゛論語読みの論語知らず゛の現実であったようだ。

だからと言って、その是正を再度、儒に求めても屋上屋を重ねるだけだろう。
なぜなら、本(もと)が立たなければ道が生じない、とあるように、本を学ぶ機会が維新の成功と人の高揚にあるとき、耳もなければ心もない、あるいはそれらの規(のり)が無用と思われる状態では、さして効果もない。

それゆえ、無謀かと思われるが、已むにやまれぬ義侠の姿を記(具体化)すことで。体制ではなく精神の覚醒を求めたのだ。それは近代日本人の残像として語り継がれ、心あるものは土壇場における矜持の示し方として鎮魂を込めて自身に自得涵養した。

西洋かぶれや立身出世組みからは顧みられることはなかったが、西郷の義侠にどこか戦慄を覚え、おのずと共鳴する処世の人々は不可思議に展開する洋化合理に順いつつも、日本の歴史に消されることのない必須の情感として、愛児を抱くように深く鎮潜護持した。

西郷はその在りようを日本人の教養の素として自得していた。その表現は命を賭して行う大切な事だとも教えている。それは、教えない教育、背中学ともいえる行動からの学びであり、小欲を捨てた、大欲の大業と云えるものだった。

それは文字の表意ではあるが、「教養」は教えと養いではあるが、政治に当てはめると、国民を養うための予算が大衆的欲望の満足になり、上(政治家、官吏)に倣い随うことの(教え)が、怨嗟と失望の対象となっては、その教養も意味を成さない。
もちろん己を養い、教化することが前提だが、文字の顕わす意味を「当てはめて活かす」ことも知恵として考えるべきだろう。

世俗のことだが、論語の素読が流行っている。身分が確定し為政者にとっては平穏な江戸時代も興隆した。
幼少から意味は分からなくても素読する試みだが、歴史的にも効果ある教育法として継続している。それは「門前の小僧、習わぬ経を覚え」と喩にもあることだが、書けと言われても幼児では書けない。文字は伝達のツールといわれるが、ここでは習慣化から導く浸透学というべきものだ。

後々の成長過程の肉体的経験、知識の集積などの機会において、まるで紙幣の透かしのように浮上する効果があるというが、要はその肉体的衝撃に耐える経験や知識の「識」を表す道理が欠けた単なる「知」の、知った、覚えた類の集積では素読も意味を成さない。

まして、その体験や知の集積が数値評価され立身出世の愚態になっては、その素読も、内容の本意である利他の貢献や、社会の連帯、調和ではなく、我欲の競争や己の虚飾に用いられるようになる。

つまり知識の集積だけでは「智は大偽を生ず」(智は人物如何によって往々にして自己の防衛や偽りのために智を用いるようになる)に陥る。例としては、官吏の政府答弁にあるような善処、検討、調査などで嘘ではないが、逃げる、除ける用として智を用いることでも分る

「我、汝らほど書を読まず、されど汝らほど愚かならず」

「物知りの馬鹿は無学のバカより始末が悪い」

満州崩壊の土壇場では知を積み重ねた高位高官の官吏や軍人が居留民を置いて逃避している。しかも電話線まで切って逃げる狡知がある。
要は、土壇場では何の意味のなかった数値選別のための知の積み重ねなのだ









儒家の本家の隣国でも、科挙(公務員等試験)の科目は孔孟などが例題に出た。
その仁や義、あるいは礼楽を説くことが官吏の高等試験でも、賄賂は無くならず、戦乱で国内は疲弊した。このブログでもよく記載する「偽、私、放.奢」が為政者や官吏に蔓延すれば政策は末端には届くことはない。それは政治のない社会だ。
儒は、偽り、公私のわきまえ、規範の順守、節制を説くが、実態は逆行為だ 看板は邪まな行為を隠したり飾るものだった

もちろん、儒のみでは社会は動かないが、形式を重んじる為政者の権力は、たとえ「ハナシ」であっても屏風にはなる。
それを真似たか、国益、社の利益を追う我が国の政財界の責任者でさえ、身が落ち着つくと(地位が安定)、儒に記されている隣国のハナシを語り始める。挨拶には程のよい四字熟語なり、耳当たりのよい仏儒を交えた言葉を発するが、傲慢でケチで女好きが多いのはなぜだろうか。
安岡正篤氏の奥方はその姿をみて「アナタの回りに集まる方々は世間評では立派な方が多いが、下半身はいただけません」と。氏は突然の感想に「ウーン」と押し黙った逸話がある。

「一隅を照らす」も議員の流行り文句だが、本来は「皆さまの一灯を集めて、万灯にして社会を照らしましょう」と唱えるのが、議員の務めだろう。言葉通り困窮している社会の片隅に人を探し,日を当てる議員は少ないようだ
歴史的為政者もそうだが、如何に儒が反知半解で用いられているのか、あるいは自己の虚飾や統治の具として用いられてきたか、しかも隣国の「説」をだ。

前記したが、四足(動物)を家畜化して喰らい、絶えず他民族を侵略し、有色人種を奴隷して使役する白人は「神は許す」と愛を唱え、欲望のために人間の肉体を改造(宦官、纏足)し、人食すら行い、性、食、財の限りない欲望に邁進する民族は、仁、義、徳を唱え、人格徳性の涵養を求める説を掲げる。好奇心、阿諛迎合心、そして依頼心が多い民族は、勤勉、正直、忍耐、礼儀を特性として掲げ、忠恕ある一系に集う。
それは、儒の発生環境こそ違え、欲望なり、贖罪なり、足らざるもの補充の認知をしているからこそ、真逆な対象を宗なり旨として構成し、推戴しているのだろう。

地球上に分布している各宗教だが、以前の宗教侵略とは違い、現在では北欧では仏教が広がり、アジア・アフリカではキリスト教、イスラム教が広まっている。それは生活規範というより、宗教の持つ文化なりスタイルが異なる個性として受け入れられているようだ。
日本はどうか。仏教は檀家制度として墓地が提供されているが、既存寺院以外の新宗教は風光明媚な集団墓地に分譲墓地を造っている。あるいは散骨や自宅納骨も進んでいる。つれて、既存の檀家制度から離脱する信者?も増えている。

葬式宗教ではないが先祖供養は儒の色合いが強いようだ。教の発祥地では仏教は学問であり寺は学校である。墓は決して富の象徴ではなく、たんなる死者の怨霊を鎮める場所でもなければ遺骨の保管場所でもない。
孔子は「敬して近寄らず」と説くが、為政者の人別(戸籍)管理と郷からの逃散を防ぐために時の権力と野合した仏教が儒と混交し、勢力伸長、護持に変容した日本独特な形態でもあろう。

それは儒家が権力に用いられ、それが知識人の教養だとされて、社会が制度化され,弛緩し、諦観さえ抱かせる怠惰、堕落に向かった姿は、現在の数値偏重の学校歴によって以後の人生まで決定づけられる教育制度と同様な循環位置にあるとも考えられる。

人物を問う儒の学びが、隣国の科挙の例題のごとく、為政者の選別方便となり、宮中仕官が富と名誉、くわえ権力の背景となるに及んで、民衆はその試験の例題となる儒の高邁な理念を「あれはハナシ」「食い扶持の用学」と嘲笑するようになり、面従腹背、逢場作戯が権力と民衆の習慣的関係になってしまった。
民主主義、自由主義、平等、人権、あるいはマルクス・レーニン思想、など権力者が借用し引用する数多の大義名分についても上記の関係にあるといってもよいくらいな現状のようだ。

面白いことに儒を模倣する者は中国大好き人間となり、ロシア文学を好きなものは当時のソ連に共感を持った。






儒が盛んになったのは秦の統一と集権の頃だった。それ以前の春秋戦国期は墨家や郷の任侠が活躍し、儒家より墨家のほうが彼の国の実利感から歓迎された。
とくに道徳的な面での利他の貢献が儒なら、規範、行動として利他に増進に生命すら懸ける墨であるが、その実学が応用されず、却って忌避された学になっている不思議さに、現代の現象に同様な姿をみるのだ。現象とは政治、経済、人々の現状認識と転換への無関心さだ。

我が国の歴史における「儒」では、その効用は多とするところだが、現代に活かす学びとしては、あまりにも能天気な考えなのではないかとおもう。それは時節感に表れる、歴史の時と存在が流れに浮遊する現代だからこそ想う危惧でもある。いわんや墨家の説く行動原理は愛においてアメリカンファミリーには馴染まないし、邪まな権力に命がけで諫言や反抗をするような各々の独立と義侠が養われては、権力為政者もオチオチ寝ることもできない。その意味では「あなたの徳を高め、それが最良の人物としての生き方ですよ」と説く方が社会も安定する。

しかし、深い思索と時代観、将来観を歴史の盛衰を鑑としてみたとき、大人しい人格者や賢者ばかりでは、名目は立てても実質は茫洋とした観念に陥るような時節観である。
学ぶべき観点としては、掲げられた賢者より、真に尊敬する人物を各々の心の秘奥に持つことが求められ、その信頼たりうるような、例えば議員、官吏、教育者、知識人、宗教家などを対象としてみるのも一考となる。

墨家の唱える、我欲を制して、他のための貢献に適う人物観を、厳しい結果責務を通して観察すべきだろう。
尊敬の対象が、人格とは何ら関係のない附属性価値の地位や名誉、財力、学校歴では、社会の転換も躍動もないことは言うまでもない。

儒は社会に浸透しているといっても、今は前に書いたように「知った、覚えて、飾りになる」類に堕して、現況の諸問題に治癒に役立たない仮装教養となっている。なにも儒を盾に社会にリンクして教化することを妨げるのではないが、多くは伝える人間の問題なのだ。
それは、己の言辞、行動の習慣性あるいは己に課した掟などが融解し、現象に場当たり的に用いる「張り付け膏薬学」といってもいい。








居酒屋話だが、歴史上の諍いはともかくキリスト教は黒人奴隷と人身売買で解らなくなった。仏教は学問だと思っていたが葬式と博物館のような豪奢な寺院で意義を失った。
儒教は人倫と仁愛の徳を説くが、宦官や纏足、そして歴史上に数多ある虐政に教えは活かせなかった。
聖徳太子・秦河勝の頃、十七条の憲法は、権力を構成するであろう、豪族、宮廷官吏、宗教家が人間の尊厳を毀損することを危惧した。

仏教は「学」とか「教」となり、天国、地獄、怨念、仁義などの用語を駆使して民を集め、多くは時の権力と野合し、檀家制度をもって土地に定着させ戸籍を管理した。利する意味は、決して善なる増進ではない。

十七条の項目は官吏の職務規範だが、墨家の十項は不特定多数に向けた教化であり、至極簡易な唱えだ。何よりも社会的実利がある
共通することは、陥りやすい人間の姿を「省」なり「制」することで、善や正を生み出すことにある
「一利を興すは、一害を除くに如かず」と説く、元の宰相耶律楚材も同様だ。
それはハナシではなく、集団だ生活するために必要な自他の厳存に対する認知の徹底だ
己と他人の関係を司る「礼」にいう譲ることだけではなく、積極的な善行なり義侠心で関わりをもとうとすることでもある

よく、幸せは「受ける幸せと」「与える幸せ」が相関しているという。
他人の幸せを吾身の幸せと感ずるような、人知れず陰徳を行う本来の任侠気質は、孟子の生まれながらもつ善なる気質「四端」にもある


あの新大久保駅のホームで落ちた人を救おうと、瞬時に飛び降りて犠牲になった韓国の学生がいた。
なにも学び舎で教えられたものでもなく、いわんや親でさえ我が子に所作として強要はしない
孟子を用いれば、人間は生まれながらもち、誰に教わることのない善なる情(心」として「仁義礼智」を挙げている



惻隠の心 仁の端(はじまり)なり  (陰ながらでも心をおく)

羞悪の心 義の端なり       (羞悪を糾す意志)

辞譲の心 礼の端なり       (人に心を譲る)

是非之心 智の端なり       (良し悪しの分別)


これら善性は生まれながら保持していると説く

だが、その人格を衰えさせるのも人間である。

なんら人格を代表しない、地位、名誉、財力、学校歴の歪んだ評価獲得への競争は、もともと保持している善性を放心(心が放たれる)してしまう。









ならば、それを不特定多数の安寧に具体的に提示して行動に表わすと、墨家の十項のようになるが、為政者の管理下にある国家としては、いささか始末に悪い。西郷の云う「命もいらず、名もいらず」いや、そこに人生価値を認める人間が集団化したら、他の無関心,既得権者にとっては、敵であり、悪であろう。


武士道や任侠の逸話に事欠かない我が国にも墨家の説く十か条に似た規範がある。墨家が忽然として消滅し我が国に伝来したとの説もあるが、不思議と符合する義侠や仁愛など、隣国の伝来借用だが、あえて実用の学として、また現世の患いである効なき虚飾や錯覚の惰性を比する意味で墨家の考察を提案したい。

興隆を極め、民衆から歓迎された墨家とその教えは忽然と姿を消した。簡易には以下のような事情と推察する。
墨家は無政府状態(強固な政治基盤がなかったころ)のような環境に、任侠的行動によって信頼を得たが、社会が安定し、組織が定着すると、墨家のような考えは権力者にとって不都合になった。

その結果、孔子、孟子に代表される儒教が為政者に採り入れられ、形式的、教育的、あるいは権力者への頑な忠義が仁者、賢者、義者として讃えられ、権力も安定した。
しかし、権力は腐敗し欲望が昂進すると戦争が起き、大が小をのみ込むように肥大化し、官吏が増殖する。権力の象徴であり代用でもある財も偶像視された。

とくに隣国の風土において説く内容は醇なる情を持っているが、往々にして権力の風向きに敏感な気風がある
それは力のあるところに登用されてこそ意味を成す、つまり御上御用に似たものでもある。だから読書人(知識人とも)は龍(帝)に隠れた存在であり、理屈、モノ書き、として重宝されたものも多くいた。



現在、あえて墨家の学びを提案するのは、その時代観と世俗の人の動きからである。

権力者からすれば危険思想である。また安定した組織の高位を占める人たちにとっても厄介な考えではあるが、大群となって海に飛び込むような、目的を錯乱したネズミの狂乱の譬えがあるような時節には、最も適切な隣国の栄枯盛衰の範に活かす学びではないかと考える。

既得権者には不都合な学びだが、滞留した一害を除かない限り、国家も各組織同様に衰亡するようだ。それに気が付き、果敢な行動を以て転換してこそ、いま求められているリーダーではないだろうか。そのための自己を確信し、座標のぶれない姿を魅せなくてはならない。

墨家の気概は両刃の剣だが、堕落には自裁を促し、更新には弛緩を祓う、そんな効力のある学びでもある。
緊張、責任、突破力、死生を他に委ねることなく、自身が決定する、そんな内なる精神の独立こそ墨家任侠の誇りある生き方だ。
昨今は威を示す男が多いが、墨家の任侠気質は我が身を以て魅せる行為があった。
権力が確立して、なお増長し「はびこる」ようになり、権力の周囲で素餐を愉しむ従来の教化や、売文や鎮まりのない言論を苦々しく思う市井の人々は、黙して墨家のような気風を歓迎するだろう。

しかも墨家には、どこか日本人の歴史にある任侠、武士などの義侠の徒の行為にみるような、よく似た浸透性の高い学びに救いを覚えるのだ。




終章

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安岡正篤氏は「六然」と掲げるが・・・

2022-12-11 06:46:30 | Weblog



碩学と謳われた安岡正篤氏は古典を引用した数々の格言を提示した。
多くは著作権などない中国の古典にある昔話や逸話からだが、それを応用する「活学」もその一つだ。
※碩学・・・学問が広く深い

超然、泰然に代表される「六然」も先に付く文字によって「然り」が感覚で解る容易な処世の自覚ではあるが、浮俗時世にはマニュアル格言として挨拶や上司の訓話に用いるにはホドよい引用だ。

語る方も聴く側も何となく納得するが、どのような姿を具体的に表すのかは不明のようだ。手とり足とりで隣国の古典(昔話)をひいて説明しても、もともと国柄、民癖も似て非なる地域ゆえ、ときに錯誤珍奇な受け取り方をしてしまうこともある。

ただ、明治以降のフランス革命の前段仕込み思想のようだった啓蒙思想によって、これも我が国の民癖である好奇心、阿諛迎合でカブレ取り入れた官制教育制度の数値評価に馴染まないジャンルであったためか、或いは昨今の高官、サラリーマン社長には学ぶ機会もカリキュラムもなかった故か、学ぶ「本(もと)」の無理解ゆえのアンチョコマニュアルにもなっているのが現状だ。

それらの人々は人格とは何ら関係の無い附属性価値、つまり虚構の人格を功利価値とする者たちのヒーローとなり、それに雲霞のごとく取り付く軽薄不逞の学徒として、より安岡氏の「然」を、意に反する曲解としている。それでも無教養なエリート主義にみる迎合追従には手っ取り早い唱句でもあるようだ。

数字評価を追い求めて混然とする社内において超然や、泰然は馴染まない。いくら己に言い聞かせても妙な格好付で終わってしまい、滑稽でもある。

また、いくら心の持ちようだとしても、かえって自己陶酔に見られ、「異なることを恐れない」と威を張っても疎外感が増すばかりだ。






佐藤慎一郎先生



それは決して冷やかしでもなければ、たとえ虚構でも名利を得た者に対する怨嗟でもない。
安岡氏や隣国事情に詳しい佐藤慎一郎との邂逅と、厳しい諭しに添った筆者の憂慮として「六然」に添付したいことがある。なぜなら先哲のつたえる古典の引用と活用が自己の陶冶に導くものでなければ、真の学問ではないと諭す両氏への倣いからだ。

日中両文化だけでなく、多くの格言には冠として数字がある。
とりあげた「六然」もそうだが、当ブログで再三引用する「四患」「五寒」、あるいは三位(さんみ)、名園の「六義園」、モーゼの「十戒」など、人々が唱和しやすい数で表している。
もちろん、数には意味があるが、安岡氏は他に「六中観」も説いている。





岡本義雄氏の「五醫」 心の病は医者いらず

「欲を少なくして貧を医す(欲張らなければ貧しさも感じない)」

「正座して躁を医す(正座すれば心の騒ぎを鎮められる)」

「酒を温めて鬱を医す(鬱は身体が冷えるため)」など。

 



その「六然」の六だが、天、地、東、西、南、北、を表している。つまり平面の東西南北と天地で立体となり、円を形成する。逆に四角四面は円でなく、「ろく(六)でない」という。
この六は「六然」を含み、全体感は「自然」である。つまり「自ずから然り」だ。
ゆえに、人の心のありようは東西南北天地の全面から発している。

「自ずから(自然に)」と、「自ら(みずから、自発的)」という両意をふくむ己の精神のコントロールを六つの姿として「六然」を説いていると考える。だが、「本」となるものは「おのずから、みずから」に表れる精神の置き様であり、その「自」を失くしては総てが「茫然」となる。

つまり、「六然」を総覧して有効せしめるには、「自分」の探究が求められ、その「分」は全体の一部分という存在であり、その意志なり感覚をなくしたら「自」もなく、六然の説く効も不明となる。


ここで革めて「六然」に「自然」を加えて「七然」、もしくは「心の七則」として自己活学を表したい。

師は、苦笑いで好物の虎屋の羊羹とPeace缶を勧められるはずだ。

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人間考学  亡国に表れる学識と人格

2022-12-06 01:26:20 | Weblog

頭山満 タゴール



私論だが・・・

このところ起きる様々な事件、事象を歴史に記述するにあたって、その因果関係を考証するに、旧約聖書の預言に求めたり、地球が宇宙の構成要因として物体経年上避けてとおれない大気の変質や基盤変化などが、人間の所作である歴史の現象に深くかかわっているような論を聞くことがある。

分派、分裂してボスとその他一同を抱える学派にはみることはないが、これも人間の「識」の変遷とすることを歴史考証の成り立ちとして、また現代学徒そのものの考証としても面白いものがあるようだ。

彼らのいう珍奇、高邁な仮説のもとに西洋学にある科学的根拠の組み立てと分類を披瀝する苦労は、東洋にある変化する動態を俯瞰するような活論の透徹さと、将来に評価を委ねる余裕とは異なる学である。もちろんボス依存の食い扶持学、面子学のような類もそこに見え隠れする。

【分派した学派は統合できるが、分裂は滞留する】

あのドイツの碩学、ハイゼンベルグも部分の算術的総和は全体を表さないとその類論を述べているが、もう一歩踏み込むとするなら部分も全体も、時間や所在の「移動」を加味すれば、スパイラル的に上下左右に移動し、かつ人間の観察にある各々の座標の多様を加えたならば、諸学の一隅を占めている歴史学派にしてみれば百家争鳴の態を成すことは必然であろう。

 其処には、名声の有無、手駒である系列研究員の量によって定説化することもあるが、他の諸派との仮説争論によってより不明確な歴史考証を積み重ねているのが実情であろう。よく「壇」にたとえられる文学、絵画もその世界にしか通用しない屯を構築し、似たようなボスを戴き名利獲得に勤しんでいる。

それは人間の作為によってつくられた戦禍や、そこから生まれる悲哀に似た情緒の復活に必要な「活論」の欠乏ゆえ、単に成文化した出版界に位置する「売文の輩」もしくは「言論貴族」の類にに成り下がり、遂には知識人の堕落が亡国を進捗させたような、隣国の歴史に観る臭九老となって、鼻抓み学徒を形成してしまう。

 

黒石


【情理のない論】

当世の歴史学派でみれば、英雄や勳官の技だけの考証ではなく、知識人の堕落が歴史の集積に存在することを、まるで枕屏風に隠す遊女のような媚言論によって、「智は大偽を生ず」にあるような、作為の偽装という責任意識のない一群をなしているものもいる。

よく、゛あの人の研究なら゛とその信頼を高めるものに、宗教や陋規にある習慣、掟の範疇にある人間の規範に属するものがある。それを表裏一体とする、もしくはそれらから邪と考えられている欲望追求や獲得の知恵など、本来あるべき表裏、陰陽、正邪のハーモニーで集積された歴史を構成するものを欠落させ、初頭の部分から片肺考証に陥らしているようだ。

【思考と行動の溝を越えるもの】

それは、簡便に直観できる歴史の俯瞰(全体像を多角的に観察する)することをあえて矮小化して、明治以降、わが国が陥った記誦キ聞学によって、習い考えることが停止しているため、Shinkから Actionへ導くことの行動活学が、明治以降の官制学校歴にいう学歴に囚われ、なんら人格や勇気を涵養することのない「勉強」と称するものに陥り、歴史を糧に自己陶冶や利他の増進という目的に錯誤をきたしているのが実情である。

それは、歴史の考証を知学から活学に高める術(すべ)が欠落したため、食い扶持のための利学に浸り、肉体的衝撃を回避するあまりに臨場感ある実学をなくした我国知識人の無感性的堕落にもなっている。

畢竟すれば、明治の近代化、西洋化は、戦後の分派分裂した個性という賜物とともに、国民の情緒の変質を促し、国民の矜持すら茫洋とした大海に投じてしまったのである

酸ヶ湯

 

【机上の静止考証から動態活学へ】

財は、民族の特異な智学であるタルムードや厚黒学をもとに賄賂学や詐学、性は欲望甘美な高揚のために、隣国の房中の秘の性事学など、どのようなものでも学部にしてしまうことからすれば容易な流れでもあった。
つまり宗教の秘事や陋規を学の机上に上げる愚に反して、いかに動態活学の多面性が人間の歴史構築の上で有効性を支えたかを理解すべきだろう。

歴史のウラに女色、財貨、飽食があり、本(もと)を成しているか、またそれによって事象構成の必須な学として位置づけられるべき内容を含んでいる。

学に品性が亡くなるとの指摘もあろうが、それを学とする人間の人格の問題と考えるべきで、我国の漢文や古典の学を固陋なるものとしたのは、固陋なる人間の存在がそこにあると、側近の元田エイフに指摘した(聖喩記)明治天皇の炯眼にみることができる。

歴史学に厚みを持つことは、理解の淵を広くすることであり、歴史構成と我が身の残像を噛み合わせ、より有効な活学を提供するグランドができると考えるからである。

【「陋規」家庭、朋友、組織などの狭い範囲の掟、習慣に権力は介入すべきではない。まして官制学には馴染まないものだ】

余談だが、教育基本法に「国家愛」とか「祖先を大切に」との記述を挿入するかどうか権力負託者である議員の争論が世間をにぎわしている。
果たして祈りや陋習、あるいは情緒の積層にあるものを国家の遵守規範として成文化する愚は、より愚かな国民を生み出さないだろうか。

しかも親や祖先を守護するという家族、ここでいうのはアメリカンファミリーではなく「家」意識の中で醸成されるべき規範を国家の成文とすることは、官製教育のみならず、わけの分らない日本人を作り出してしまうだろう。

 

平川市 ランタン

文章ハ、経国ノ大業ニシテ、不朽(ふきゅう)ノ盛事(せいじ)ナリ

(文章とは、国家を経営していくのに役立つ重要な仕事であり、永遠に伝えられていく盛大な事業である)

いまさらながらその利功にすぎる国家の成文に、この国の社会と人を観るのである

まして、最高学府といわれ、これまたエリートとも称される東大出の国有財産を統括する官僚が、保存すべき資料を改竄、隠蔽、廃棄したり、国会で虚偽答弁をして政権を守ることを恥じることなく、かつそれが政権なり政治家を護った褒美として栄転させるような国には繁栄もなく、滅んで然るべきものだ。

 

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