まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

安岡正明の説く 税務署長の心得

2024-07-18 02:43:35 | Weblog

            

            郷学研修会 安岡正明 講頭 

ある日の講話

「税(公平)と警察(正義)が国民に表す姿によって、民情はいかようにも変化する。

 

 以下はご尊父安岡正篤氏の督励ではじめた小会(郷学研修会)の講頭を務めていただいたご長男の正明先生の国税勤務当時にご縁のあった五十目寿男氏のブログ「芋沢日記」よりご紹介させていただきます。

 

地方行政官(税務署長)の心得

 

 昭和天皇の終戦の詔勅を刪修(さんしゅう=手を入れて調える)したことで知られる思想家安岡正篤の長男安岡正明氏(1927~2003年)は、大蔵省入省後、国税の世界にも長く身を置かれた。税務署長は仙台国税局管内の水沢税務署(岩手県)で1年経験されている。
 
 筆者が初めて税務署長になった際に、何か署長の心の持ち方として参考になるようなものがないか探して行き着いたのが、この「地方行政官の心得」である。これを常に手元に置いて考えるよすがにした。

 不思議なことに国税組織には幹部向けにこうしたものはないと思う。元国税庁長官の講演録みたいなものは時々散見されるが、これはあまりあてにはならな い。

 なぜかというと、皮肉のように思われるかもしれないが、言行がまるっきり一致しない元長官を筆者は複数知っているからである。

 さて、安岡正明氏の心得はどのようなものか、概略を引用する。ただし、氏はこれを熟読したからといって、地方行政官として何ほどかの利益があることは保証できないと断っている。その上で、幾分か爽やかに世に棲むことだけは可能になると信じている、と結んでいる。

 

        

 民を救い,矯正もする 台湾民生長 官後藤新平

 

1 地方行政官とは、行政の第一線にあって国法を遂行する位にある者である。この地方行政官の誠実と勤勉が、国を支えていることは疑いを容れない。

2 地方行政官の職は聖なるものである、と心に固く信じていなければならない。それは地方行政官にとって密かな戒律と誇りの源泉である。運命共同体の僕(しもべ)であり、正義と公平を具現すべき国家倫理機能の一勢力であって、株主のために営々と働いて妻子を養う職ではない。

3 国民が、納税者が、行政官に要求するものは、潔癖と公平とやさしさである。行政官の処分に誤りがあったことは稀で、異議のほとんどが、やさしさの欠除に対する感情的なものだった。例えどれほどの才入を確保しようが、納税者に国家に対する怨恨を生じさせてしまっては無意味である。

4 行政官の、自分の立場に対する理解とは、【2】で述べたことのほかに、自分の行政官としての権限と、自己の人間としての力に対する、謙虚で正確な分別である。正義を背負ったものの驕りと尊大さは、不正を隠すための虚勢より、遙かに非人間的である。

5 地域単位の機関の長の立場は、主観的にはともかく、客観的にはまことに微妙なものである。一年くらいしかその職に居ない場合、一回の春秋は、定められたスケジュールに乗って、またたく間に過ぎ去ってしまう。そこから事が始るべきなのに、そこで事が終わってしまう。なまじな知識で総合調整を行使しようと欲しても、なかなか思うように行かないのではないか。時には、混乱の痕跡だけが残ることもある。鏡のように無私の心で対する外ないだろう。

6 人には、その心中の花の早く咲く型と遅く咲く型がある。行政官には早咲きが向いている。しかし、そのために早く枯れて、心豊かな晩年が送れぬ場合が多いように見受ける。

7 時折り、真面目な能吏と言われる人に、部下と全く等質な事務を熱心に行っている人を見ることがある。これでは、決裁の技術的ミスの発見に止まって、方向や理念の誤りを修正することはできない。管理者は指示し、質問し、決裁文書を読むこと以外にも大事な仕事がある。思うことである。

8 人の上に立つ者は、おおむね性急な性格がある。彼等は、限られた時間で、前後の脈絡なしに飛び込んでくる仕事を判断し指示しなければならない。判断に必要で十分なデータは、少なければ少ないほど良い。税務職員には、往々にして、これを勘違いして、データは多い程良いと思っている人がいる。

      

     郷学研修会 右2人目 安岡氏

       

9 法律の文章は、解釈が多岐に分かれないように、内容が限定された言葉を用いざるを得ない。勢い語数が多くなる。短い、解り易い文章で、エッセンスを表現し、全体の姿を浮き彫りにする、要約と表現の能力は、身につけておいて損はない。

10 上司から、あれは便利な男だ、と思われる人は、中間管理職に早くなれる。それ以上の地位に進む人は、あれは便利な男だが、どこか底知れない所がある、と思われる人である。人間的な力である。

11   若い時は、群れの中の個として見られている。群れの中から個が選ばれるのは、専ら、知識と性格の比較による。中年になると、個々の中から個が選ばれる。それは個性と人格の差によってである。

12   個性の差は、税務大学校が、ついにそのカリキュラムに組み入れることのできない無用の学の差から生じる。それは本から学び、人から学ぶ外ない。がんじ搦めの身分である行政官にとっては、友人を選ぶためには、厳しい選別能力が要る。自分独自の人相学を学ぶべきである。

13   他人が自分に下す評価と、自分が自分に下す評価には当然誤差がある。それは全くの誤認もないわけではなかろうが、評価の基準の差である場合が最も多い。人事は、その人のためではなく、組織のために能力を判定する。評価の基準の差の最も著しい点である。不遇を嘆く人の大部分が、この差に気づかない。

 また、いかに正しい能力判定が行われようとも、人間には運がつきものである。めぐり合わせ、というものから逃れられる筈はない。自ら不遇なりと思う人は、組織の要求する所と、自分を評価する人の能力と、自分自身の能力を冷眼をもって比較計量し、万止むを得ずと思ったら、肩をすくめて天を仰げばよい。雲の行末は誰も知らない。

引用:安岡正明「随想 苦笑い」1979年財務出版刊P59~69

 

 中央 安岡氏 右 卜部皇太后御用掛  

 

筆者随聴 オモシロ夜話

 水沢税務署の頃、小料理屋の座敷でひとり酒していた時、つい立越しに,つい聴き耳を立てたことがあった。それは人目を忍ぶ関係なのか、押し殺す声で連れの女性に手当のことだ頼んでいる状況だった。「じつは税務署の調査があって、手持ちが自由にならないんだ・・」と。仕事とはいえ聴きながら吞んでいるほうも切なくなった。

税務大学校長のころ、泥棒と売春婦の徴収について生徒に課題を出した。課題を出されれば何の疑問もなく答えを出そうとする、数値選別の学び舎習慣だったが、売り上げから経費を引いて課税の道筋を懸命に考えている。泥棒の経費は、売春婦の経費は、それぞれ交通費、衣装、布団に避妊具、いろいろだった。

泥棒売春婦は認めてない行為である。よって不法行為は治安当局の罰金か弁償金など処罰対象になる」

 日ごろ徴収額の多寡を考えるあまり、新税の在りどころを探索することに汲々とする吏員の慣性に、あらためて勤労成果物に対する税法運用職員としての心構えを説いたのでした。課題の考案がまさに安岡流であり心得の最確認ともいえる教え方でした。

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