まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

敢えて再々読  出処進退   「あるボスの話」

2013-11-30 12:27:11 | Weblog
 
         国会の腹きり問答    浜田国松氏   
      《舌鋒火を噴くような議論は時の陸軍大臣に切腹を迫っている》         



平成6年、あの当時は、゛変わり者゛゛はじかれ者゛と世間から非難された意見文だが・・・・再度,問う】
震災後に海外ジャーナリスト達が集まっての懇談が放映されていた
要はこの「まほろばの泉」で読者にはくどいように映る人間(人物)の問題だった。制度・マニュアル・コンプライアンスなど人間を括る方策はあっても、土壇場では能力発揮の自由度と責任感がなければ役に立たない。
一人がこう述べていた。
「・・・原発や震災の現状をみると作業員の連帯と調和は世界でも驚嘆するの力がある。しかしそれを指揮し背後で支えるべきエリートの醜態は世界ても稀な非能力だ。日本の教育でのエリートの選別はそれほどひどい。どこで間違ったのだろう・・・」

さて、中央の政財官も然りだが、全国津々浦々にある中小諸団体、特に御上御用に成り下がったような集まりにこのような風潮は無いだろうか。そのために稚拙だが良質な問題意識を持つ若者や哲人の様な庶民の意志は覆い被されていないだろうか。
それゆえ、弛緩した社会を形成してはいないだろうか。以下の拙章をもって考えてみたい。





「キャッシュで4000億ある。だから安心・・・」軽々に金の話をする指導者は金で堕落する。



「出処進退」

 意味するところ官に仕えるか、民に退くか。また、現在の地位に、役職に止まるか、辞意するかの熟語である。

 名利位官という現在ではさほど本来の人格構成に必要ではない俗世価値に埋没してしまうと、まるで中毒やまいの如く抜け切れない世界を、無自覚のまま形成し、ときには世のため、人のため、あるいは弱者救済に名を借りて御上からの褒賞を待ち望む人々を称して社会悪といいます。

あるいは誰がその地位につくのか、誰が辞めるのか、などといとも高邁な理屈で予想屋的言動を並べる一群も同様と言えるでしょう。

出処進退は当事者の秘奥にあるものです。
世に言うところの当て職は能力、専門知識とは別の、床の間の季節変わりの掛け軸のようなものであり、一喜一憂すべき類いのものではありません。

その他一同があってこそ成り立つ貪りの舞台です。
天下りしかり、無意識に官に添う心しかり、創業、創成の意味なく、不特定多数の利福など望むべくもなく、単なる“兵隊ごっこ”の有り様が繰り広げられます。

一度この病にかかると終生治らないのもこの特徴です。
人集えば中央に位置し、出たとこ勝負で己を偽り相手に従うことの不可、強いて相手を己に従わせることの不可を、反省することのない状態です。

孔子は“六十にして耳に従い”七十にして心の欲するところに従えど矩をこえず”と言いますが、年齢とともに“分”の範囲を収斂し、なを且つ普遍な精神と、善悪一如というべき全て人間から生じた様々な現象を自然の生きざまとして認識し、たおやかな道に入境すべきです。

その中で、心あるもの、生命を継ぐべきものに普遍な精神と、忠恕な心での覚醒と決起を促すべきものです。

  「小富在勤 大富在天」
(小さな富は自らの意志の働きにあり、大きな富は天意に添った行いにあり)と、言います。

 また、孟子は「富貴も淫するあたわず、貧賎も移すあたわず、威武も屈するあたわず、これを大丈夫という」 富貴は浮雲のごとしです。

 明治の言論人、陸羯南は信じた道に人生をかける人間の少なくなった事を叱咤して、
「挙世滔々、勢い百川に東するが如きに当たり、独り毅然としてこれに逆らうものは、千百人中すなわち一人のみ。甚だしいかな。才多くして而うして気の少なきことを」と述べています。

我が国には各省認可による特殊法人がありますが、それに真似たのか地方自治体にも芸術、文化、国際交流、何々記念、等に名を借りておおく法人が創設されています。↑
構成事務の多くは自治体に委ね、役員は元首長を始め管理職以上の退職者のおこぼれ人事が大部分のようです。

中小自治体のことですから基本財産は少なく、金利低下の折り給与を支払ったら事業費が無いといった有り様が続いており、しかも自治体本体の経常経費の増大からか、にっちもさっちも行かない状態があります。 チェック機能としては議会があるはずですが質問事項さえ官吏の援助(指導)を受けているようでは望むべき効果はありません。

 しかも、リストラとか称して各種事業の委託、計画立案の外部コンサルタントへの膨大な支払いなど、一層の硬直化を助長し、なかには閉塞状態に陥っている自治体もあります。

審議会、協議会、あるいは外郭団体と称するもの、前記、特殊法人の委員、理事には民間人が多く任命されていますが、狭い範囲の自治体のこと、一人の人間が多くの役職につくことが多く、しかも貪りの民の役職病の如く、官位を貪る官吏とともに一層の深みに陥っているのが現状です。

会議でも意見開示もなく、通称“出面(ズラ)”と称する日当を頂戴しているのが地域の大もの(ボスまがい)であり、民間の“分”を忘れた社会悪の一団です。

゛一人ぐらいはまともに゛、とは思いますが“白い目”“はじかれ”の恐れか、あるいは元々、問題意識すらないのでしょう。

半世紀まえに亡国の瀬戸際にあった民が、いまはその繁栄と共に自らの手で自国を崩壊に追いやっていることに気が付かなければならないことです。

 「警鐘」すらしまい込んでしまった亡者に覚醒はあるのだろうか。

龍馬や西郷も憧れではない。「成りたい」より「成る」意志がなければ教育も意味がない。

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台湾という処  終章

2013-11-29 09:36:35 | Weblog
≪トヨタの「5S」は生産と組織 新生活運動は社会の習慣性、整理、清潔、簡素など、人間の覚醒と良質な習慣性はいずれも同様な方向性を目指している。それは狎れと弛緩が及ぼす組織なり社会の劣化、衰退を危惧したものだ。≫



蒋介石政権の頃、子息経国氏は「国民党が大陸から台湾に移るようになったのは、軍事力の問題ではない。国民党が堕落して民衆の支持がなくなったからだ。これからの中華民国(台湾)の大切なことは歴史に学ばなくてはならない。」
父である蒋介石の賛意を得て、「新生活運動」という国民運動を提唱している。
要旨は、国維の革新である。「維」は日本でも維新というように国の基軸(歴史的つながった支柱)の覚醒なり更新だった。
わかりやすく言えば官製の道徳喚起の運動だ。

封建から王政復古という当時の人があるべき姿に戻す「維」を新しく立て替えた明治維新も革命ではない。国民運動は近代化という西洋模倣と、それを支えた憲法と軍事化だった。教育制度もフランスだったからか、自由と人権、平等が押し込まれた。それは美しい文字だが、日本人の深層の情緒には未だ馴染まず大義やお題目となって口舌を飾り潤している。

まだ、民の倣いとなる道徳の具現者である権力者である、宮廷官吏、宗教家、知識人の綱目規範となる聖徳太子の十七条の方が善良なる権力を感知して安心し、生産に励むだろう。「仕事に精励する、いたずらに税を課すな、・・・」など、権力を構成するであろう、今で言えば政治家、官吏、宗教家、教育者、金融資本家にたいして在るべき律を太子は国の維や大綱として制定している。なにも官が民に向けて規律を掛けるより、権力者自らが更新、維新、あるいは自省すれば社会は平穏になることだろう。

つまり、それを素直に自覚することが学問だとか教育だとかいうものだが、生産競争を煽られると、忌まわしく、固陋な考えだと切り捨てられ、欲望に邁進し、ついには滅ぶ、それこそ歴史に記された栄枯盛衰にみる範だとは言えないだろうか。それも今を生きることと、遠大な明日を生きる僅かな違いなのだと、ゴマメの歯ぎしりのように思うのだ。











その意味から孔子の説話を引用する。
よく孔子は論語が有名だが、そのなかに「礼楽」がある。
よく権力為政者が民を従順にするためだといわれるが、されるも、するも、安心がある。
「自由な選択で好きなことをしたい、税金も払うし、いうことも聞くが、あまり邪魔はしないでくれ」といのが民の心情だ。
邪魔するものはどこにもいるが、余計なおせっかいは利を生ずる。それは「禁ずるところ利を生ず」といって、煩雑な法を作れば課税や罰金が生ずるのはどこの国でも一緒だ。
そんな日本人も倣った官吏の風が永い歴史に包まれた華人社会で、はたして民はどのように許容し日々を営んでいるのか。また社会や国家によくいわれる帰属意識はどのようなものなのか児童教育から考えてみたいとの訪問だった。

譬えはいろいろあるだろう。西洋理論で論ずる者もいるだろうが、ここは礼楽を比してみた。音は独りもあれば集団もある。形式的ではあるが、集団でまとまるには個々の意識とともに音を合わせる作業が必要だ。余談だが僧侶とて修行前と後では合唱が整い一つの音のようになるという。つまりハーモニーだ。いくら個性だ、キャリアだ、技量だといってもバラバラでは楽団にもならない。








端的に現れるのは簡易な旋律と連帯を誓う名文による国歌がある。また、建国の象徴であり歴史の集積を感じさせる国旗がある。もちろん校歌や社旗もあるが同様なことだ。
つまり、前に記述した生徒会長のコメントがそれだ。主体的に他に関連し、彼の歴史である父母、教師、朋友、それが構成する社会なり国家に心をリンクし、ときに没入する。
この行為なり作業ともいえる個の発露を全体に広げ、しかも習慣性として認知することは、自分の心を他に譲る行為でもあり、「譲る」ことの優しさ、自分と他人の分別、老若の別などが含まれている。
意識して、緊張して、会長の使命をもって、目的を達成する、大人でさえ容易には適わない子供の姿でもある。
その能力も意思もある子供たちが一方では隔離された施設で矯正教育を受ける。





《法務矯正署台北少年観護所》

日本からはこのような施設に訪問することはないという。
待ち望んだような応対だった。馬蹄形に並べられた机にはそれぞれの名札が置かれ、各自可動式のテーブルマイクを設置して台湾銘菓が用意されている。
挨拶は葉貞伶所長(女性)、通訳は岡山に留学経験のある周氏だ。
訪問者、職員の紹介から施設紹介の映像を見て、施設内見学がはじまった。
リングドアが三重になっている。職員定数の事情もあり集中管理は各所に設置された管理カメラで行っている。回廊のようになっている中庭を囲む廊下からは入所者たちの受講風景がみられる。教室に後部から入ると短髪(おかっぱ風)の少女が振り返る。
どうみても小学生高学年か中学生。笑顔で返されるとこちらも自然に微笑んでしまう。
聴くと薬物や窃盗、そして売春だという。お金のことで売春を強要されるという。

薬物は、日本でも流行った薬局でも売っている鎮痛剤の多量服用だ。よくラリるというが、覚せい剤は高いので手は出せない。いや、タバコならまだしも幼い児童が覚せい剤など想像もできない。やはり多くは貧困が為せることだという。
別の部屋では、やはり小学生か中学生とみられる男子がふざけ合っていた。女児同様に挨拶は返すし笑顔が自然で愛らしい。並んで遊戯部屋もあり、なにか住みづらい世間から離れて楽しんでいるようにも見える。高学年の部屋では各カリキュラムが行われているようだが、今回はコースにはなかった。










炊事場に案内された。入所者が盛りつけ担当をしていたが、白米とオカズは魚のアラだ。
アジくらいの大きさの頭だが、焼き魚を食べて背骨を除いで頭の骨が残っていると思えばいい。それが白米に添えられている。中山小学校では売店でジュースやスナック菓子まで売っていた。ここは観護署だが、ここで鑑別されて少年院に移送されると、どんな食事が出てくるのだろうか。
もっとも、見学させていただいた低学年はよほどのことがない限り社会内観察(処遇)といことで、すぐにでも食べたいものが得られるが、隔離という一種の「罰」に置かれた子供たちは非行犯罪の代償だとして、どのように受け入れるのだろうか。

「読み解く」というが、読むことさえ、読まれるのと、読むことは雲泥の差はある。
しかも、知っている、覚えている、なかには暗記していると暗誦学がはびこっているが、「解く」ことはままならない。とくに人間関係の複雑系の数学でも解けないような問題は、なるべく触れないようにするか、合理性すら認めない風潮がある。だからなのか、安易な数値選別がよりその劣化を深めているのが、政治家が施策とする制度やマニュアルの濫造を招く要因となっている。しかし、すればするほど混迷を深めていることの認知すらなく、人間の自由闊達な躍動や、そのことから導かれる自省から自照への誘いすら閉ざしている。







桂林


よく、後進国という。先進国は勝手な都合と希薄な目的で闇雲に進むが、あとに続けというのだろうか。便利さと効率性、そして市場のスケールが近代化なら、その強欲さも後進国の比ではない。その意味で台湾を見るとホドがある。地政学位置なのか、島礁列島の大らかさなのか、あるいは国土の大きさなのか程よい経国に引き際の巧さがある。そこが大陸の華人と違うようだ。
それは潜めていると見ることもあるが、近頃日本でも多くなったが、多くの面前で抗論もできない立場の人に罵声を浴びせ、強欲に列に入り込む愚か者は少ない。それは引くという利口さと、抑える巧さが、台北名物暴走タクシー(日本と比べてだが)や、物産や飲食が混在している夜市の違和感のない雑踏となって訪れるものの好奇心を抱かせる。

それは日本にはない、いや出来なくなったあの頃の躍動が蘇ってくる。決して留まっているのでもなければ遅れているわけではない。たとえ台湾地震に援助したと逆な言い訳をしても、あの日本の震災援助は馬総統ですら図らずも驚愕する台湾人情として、かつ日本人は他国に比類なき温情として心に刻まれた。
あのとき若者は台湾に感謝してネットは台湾賛歌で溢れた。かれらはアカデミックな教育でセンチメンタルな情感は抱くことは少なかった。しかし、あの時は燃えた。そして、大国に遠慮して台湾に対する非礼を恥じない政府を糾弾した。






桂林の子供たち



じつは中国と国交正常化に急ぐあまり台湾と断交したとき、一番失望したのは大陸の人たちだった。戦後の引き揚げに際して「徳を以て恨みに報いる」と、満州からは開拓民、大陸からは無傷の兵士を大量の艦船を用いて送還し、あれほど世話になった当時の蒋介石率いる台湾を捨て、商売利益だと大陸政府に媚びた日本および日本人に、その人情のなさを嘆いたのだ。
台湾も捨てられたと思った。とくに老人施設で会った日本語を話し、当時の日本人に愛顧をもつ人たちだ。厳しくも優しかった警官や教師、真面目な医者や官吏も日本に帰った。
そして、日本は台湾を棄て大陸に入った。でも心配でたまらなかったという。
日本が失くならないかと・・・
。それは孫文が嘆息した真の日本人への愛顧でもある。

それは妄言ではない。
満州新京の魔窟といわれた大観園の亭主は道徳会の会長をしていた。大観園はアヘンと売春の一大巣窟で官警も近づけないところだった。
その亭主は唯一出入りしていた佐藤慎一郎にこう忠告した
「日本は早く負けて日本に帰ったほうがいい。そうでなければ日本そのものがなくなってしまう。我々は泥水に生きているから清水にも生きられる。しかし日本人は泥水には生きられない」と。また、副総理張恵景は「日本人は四角四面で融通が利かない、二三度戦争に負ければ角が取れるだろう」と。双方は日本人が嫌いではなかった。しかし集団行動する日本人は官吏のごとく融通が利かなくなる。人の世の生き方を知らなかったように。そんな心配だ。

そんな気持ちで日本人を見ている華人が多い。
耳を傾けなくてはならないのは日本人のような、そんな訪問だった。
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台湾という処  其のⅢ

2013-11-27 11:48:40 | Weblog
六士先生


午後は老人施設だ。場所は中山北路の繁華街のすぐそばで別仕様の施設を改造した六階建てのビルに設置されていた。新築の施設だと階段や廊下の幅、室内の仕様、入口の大きさまで規制の対象になるが、ここは大型デイケアの形式で上階は身体健常者の簡易収容施設となっている。建物所有、施設改造は国がおこない、管理は専門業者に委託運営されている。《台北市政府社会局委託経営管理 台北市中山老人住宅医服務中心(センター)》





台湾帝大出身


常駐している行政監督の林敏玉女史の説明には通訳がついたが、元気な老人が飛び入りで説明をかって出た。どうも日本語を話すことが楽しくて仕方がないのか、専門通訳者も笑いながら席を譲った。監督の先導で施設内を見学した。いろいろな嗜好を凝らした内容だが、多くは家庭生活を模したもの、昔の懐かしい道具や調度品、あるいはスタジオ形式で映画館の入口、売店など、まるで昭和の懐古がいたるところに設置されている。










食堂は各自の座るところに姓名や本人写真のカードが貼り付けてある。楽しみにしている食の時間を妙な錯覚でいさかいを起こさないようにしているのだろう。行動に無理のない人は食堂を利用するが、食器は各自運んで洗いも決められた担当が行っている。
見学途中に多くの老人に話しかけられる。みな綺麗な日本語を話す。中には台湾高等女学校だったという女性の雰囲気と語りは威厳すら感ずる物腰だ。挨拶の仕方も、よく慇懃さにある排他的な態度とは違い、自立した女性によくみる落ち着いた態度、会話の抑揚、頭を下げ挨拶を交わす速度など、当時の日本女性の実直な落ち着きがあった。
日本語を話す多くの老人は、遠方の訪問者を迎える態度と、二度と会えないかもしれない機会と対話を慈しむように記憶させようとしているのが分かる。







九十歳


女性は身繕いと仕草で教養がわかるというが、抑圧しているような感情の表現は当時の台湾の教育環境がよくわかる。だが、そこは女性である、薄化粧に装い、ときに眉毛を今流行りの入れ墨にしている老人も多い。その点、男性は化粧や装いもないが元気な頃の時の回顧が口舌の乾くことも忘れて語り続ける。日本時代のことは避けているが、日本語での会話に「話すのも十年ぶりだねぇ」といいながら、日本語独特な抑揚や律儀な雰囲気もあの頃を懐かしんでいるようだ。多くの会話があったが、なによりも丁寧な日本語だ。いまは異国となっているが、生まれた時は日本風、教育も情感も日本人的、それがいつの間にか台湾人として生活を営むようになった。

よく夜市の雑踏に行くと広東語、台湾語、北京語が飛び交うが、どれも甲高い声と気が短いのか話す速度が早い。問題対立で多勢を恃むときは「我々」だが、多くは「我」だ。
日本語には「自分」がある。「我」や「I・my・MIE」は「僕・私・己」となるが、「自分」とは言わない。「自」らは全体の一部「分」ということだが、その意思は他があってことその己であり、その中で生きる連帯や調和があるということだ。なにも国家に忠誠とかいうものではなく、他を意識して譲る、つまり「人と人との礼」が「自分」には表わされる。その「自分」ということが語られ、己の回顧を伝え、互いに分かり合おうとする会話がある。そこには言外の意も含まれているが、日本で言う「阿吽」と言霊を受けることで、少ない言葉で理解が通ずる人情の交換がある。
現代人はその交換理解を衰えさせてしまった。そして説明責任だ。

日本語を流暢に語る老人たちは、それを楽しんでいたのだ。それは人間の欲望の成果であり、なんら人格を代表しない附属性価値である、組織所属、地位、名誉、財力を儚いものとして察する老境ではあるが、単に長生きして、旨いものを食べる、好きなことをする、また、そのことを提供する政府なりの組織的関与では贖うことができない、まさに「無財の力」なのだろう。
それは一過性ではあるが、訪問者の表情にある緊張が笑顔に転化し、無条件な会話のなかで異国にあって母国語(日本語)を駆使する老人たちに敬愛の心を持つことでもあった。いや、「ご苦労をなさった」と言葉に出すことも辛くなるような、時を違えれば同胞の先輩に畏怖さえ覚えるものだった。








つまり、当時の状況は在台日本人だった。またそのように外省の人は見ていた。為政者が変わっただけなのだ。そこに、まさに日本人がいた。いや、日本的台湾(中華民国)人がいた。
現世利益を追う政治権力の交代だが、そもそも人間がいなくては、国家は経国すらできない。また言葉と精霊の存在を感ずる情緒性がなくては連帯も調和もない。
日本語を駆使する人々の目は生き活きしていた。どこか同胞を遠慮がちに接する態度が、語るにつれ堰を切ったように若輩に語りはじめる温かい人情に、抱きしめたくなることが適わない悲哀の関係のように刻まれた

「また、おいでください」丁寧に頭を下げる老人たち。
もう会えないかもしれない、これが最後かもしれない。
あの頃の日本人は一期一会を大切にした。そして門口まで送り、来客が見えなくなるまで送った。゛気をつけて、また会いましょう゛は言葉にはなかったが、それがあの頃の応接の際の情緒の「性」だった。
背をむけるのも辛い別れだった。

訪問は続く。3泊4日だったが外交部が設定してくれた施設は土、日は休み、よって木、金の2日間で5ヶ所の設定になった。
これらの施設訪問は連結した学びという仕組みがあった。
日本研究者との研修懇談事前設定なら、老人施設、小学校の朝礼訪問、国父記念館の表敬では今回の訪問者に縁が深い、孫文と青森出身者の側近ら日本人との関係を学ぶ機会とした。そして最後は少年の非行という社会現象に関わる政府の対応と施設の研修見学だ。






経済効果を数値的に換算するなら、老人や子供は非生産的世代としてどのように取り組んでいるのか考察することだった。
老人世代は社会や国の歴史的経過にみる恩顧という情緒的な見方から、先人に学び,倣おうとする現代人の在り様や、集積された歴史を抱える老人の教えや伝えがあるのか。もしくは、いずれ取り付く島や範を活かす存在としてどのように現代人は向き合っているのか、国際情勢に浮浪するかのようにバランスをとりつつ繁栄する中華民国台湾の未来を図る試みでもあった。
つまり、価値ある世代との触れあいの浸透学だった。それは小学校の見学にもあった。


先に記したが、子供を見れば社会がわかるという。もちろんわが国同様に受験選別、安定した収入は、知った、覚えた、類に堕した数値教育を前提として韓国や台湾のほうが厳しいようだ。台北駅前の路地は大小の塾がひしめき合っている。とくに財は力であり、官職にも付けば「昇官発財」「一官、九族に繁える」といって、官位が上がれば財は寄ってくるし、それは親類縁者も繁栄するという喩えだ。

それは、人間を育てる「教育」という部分に附属なり追随する一方のことだが、社会として、国家として、それだけでは経国はままならない。欲望のカオスを治めることは多くのエネルギーが必要となる。

つづく
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台湾という処  其のⅡ

2013-11-26 10:35:28 | Weblog


土木技師八田与一はダムをつくり豊饒の大地を、後藤新平は疫病を根絶して住民の健康と連帝を築いた。何よりも後藤は外地赴任で堕落した日本人官吏を一斉に帰国させ、気鋭の官吏を登用し住民の信任を得て多くの事業を成功させている。もちろん教育制度を整え高等女子・台湾大学を創設して内地(日本)に劣らない俊英を輩出している。

後藤は超数的効果を謳い、人を育て、人を活かし、その人物が資物を運用すれば計画数字以上の効果をあげ、無駄を出さない政策がとれると、至極、道理にかなった政策を定着させた
今どきの日本の官吏の慣性となっている乗数的効果などは知恵のない無能のなせることと後藤は喝破するに違いない。今の日本の窮状と騒然とした国情は当時の台湾の施政を学べば解決することは多いだろう。なによりも国民は歓迎し、信任によって多くの賛意や協働が生まれるに違いない。

その痕跡をたどって市内の教育施設を訪問した。そこは台北市を南北に貫く中山北路をそれたところに在る台北市中山区中山国民小学校だ。台北には中山を冠した道路や施設があるが、中山とは国父孫中山を記念したものだ。三年前の再訪だが、今回も新しい発見があった。じつはこの小学校の朝礼を視察に選んだのは訳があった。
前回、驚いたのは生徒たちが朝礼を仕切っていた(自主運営)ことだった。生徒自治会の会長は全校生徒の選挙で選ばれるが、そのために各教室で立候補の演説をする。選出された会長が、政治でいえば幹部会を組織して運営にあたっていた。新聞委員、校風委員など様々だが、その幹部を朝礼台に下に整列させて連絡事項や規範を伝達する。
前回の訪問では生徒会長みずからが私たちの訪問目的と歓迎の言葉を全生徒に紹介している。











まず、音楽とともに各教室から教師の先導で隊列を組んで生徒が整列する。脇の列には障害のある生徒が並ぶ。校歌斉唱からはじまり、会長は全員に背を向けて朝礼台の後ろに設置されている国旗掲揚台に向かって直立する。掲揚ポールの左右に女生徒がロープを持ち国家斉唱とともに国旗を掲揚する。斉唱が終わるころ青天白日満地紅旗がポールの先端でひるがえる。

以上を記すと懐古趣味、軍国などと日本でも一群は騒ぐが、この生徒たちの慣性行動は、なにもそこまでは考えていない。だだ、小学の習慣学習にある他を知り、己を知る、そのために礼(他に譲る心)を習慣化させ、社会の調和と連帯を考えてのことだ。
なによりも会長が応えたのは
「私たちが勉強できるのは先生や両親の援けがあるからです。そしてそのことは社会の大勢の人が関係しています。それは私たちのためによい環境を作ったり、守ったりしてくれる国のお陰です。だから私たちにとって国旗を掲げるのは感謝であり誇らしいことなのです

これは誰かに言わされたり、洗脳されたものではなく、幼いながら自得した意志だと感じたのは私だけでなく、同行の訪問者も羨ましくも同感した。
この習慣化された個人と国家、自己と他人の関係は民主化を促した西洋社会にすら微かになった連帯と使命、くわえてこの子供たちが将来にどのような社会を築き得るのかを容易に期待を持って推考できる訪問だったことを痛烈に記憶した。子供をみれば未来の社会が解る、かつ応援する大人の在り様を実感した。







父母の恩



国家の意志が教育に投影されることは数多の国にもある。だが、我が国のように省益と称する官吏の実態、現場の教職員と教育委員会の弛緩した関係、モンスターと揶揄されるPTAの実態、なによりも個に分別された生徒と教員の関係など、教育改革を謳いあげる政治家の施策が末端まで届かないもどかしさがある。

今回は実態と、実体なさしめる環境と風を再度、確認したいと考えての訪問だった。
その姿に涙した同行者がいた。「意味もなかったが自然に涙がでてきた」と。校内の施設を見学したが、その行動は我が身に浸透させる体験として格別な情感が積み重ねられたようだ。



日程が前後するが空港到着、ホテルチェクイン後、直ちに訪問予定の国立中央研究院近代史研究者で唯一の日本研究者である黄自進氏を訪問した。十数年前の再会だが玄関先まで迎えに来てくれた。
現在、博士は南京の学校でも教えているという。欧米帰りの研究者の多い中で慶応大学卒業の氏は近代史科のなかでは唯一の日本研究者で、前回の訪問では蒋介石研究の大著を頂いた。会議の途中、「日本の植民地の歴史について・・・」と、話題が出た。









そこで、こう応えた。
「植民地と称され欧米の植民地経営と類似するようですが、戦後六十年の結果として台湾の人々は世代を超えて我が国の未曾有の災害に多くの援助をしていただいた。なかには食事を割いても台湾全土の大勢の方が協力してくれた。この経年の結果として人々の情緒に日本との関係が凝縮されているようですが・・」

※〔多くの華人にとって財は命と同様なものだが、いくら総統がテレビでキャンペーンをはっても人々は自らの意に沿わないことはしない。金額の大小ではなく政府ですら考えもしなかった日本への情感は、その後の大陸に傾き気味だった台湾の政治動向すら慎重にならざるを得なくなった〕

「また、いつ頃からか台湾の家は窓に鉄格子をはめるようになった。むかし日本の警官がいた頃は窓を開け広げたままでも安心して夜は寝ることができたと聞いた。泥棒も少なく、人々は他人を信じて生活していた」

※[鉄格子が入ったのは国共内戦に敗れた国民党軍が台湾に進駐してきた頃からだ]

教授はそれを聞いてボードに「修身」と書いた。
「これが日本から学んだことです」
あえて「植民地」について問うことはなかった。


つづく
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台湾という処  其のⅠ

2013-11-25 17:56:59 | Weblog



遠い昔、沖を通る西洋人は美しくも麗しの島とよんだ。その美麗島だが大陸の古代人は仙人の住むところと蓬莱の地と呼んだ。しかし多くは関心を示さなかった。疫病が蔓延し匪賊が横行する、手に余る島だった、それは何をするにしても金がかかり、手数がかかる。いずれは、と思っていたのだろうか、歴史は皮肉なもので日本の役割は尽くして欲せず、施して求めず、と佛の道のように、諸事情はさておき外地ではインフラなど整備したあと内地に戻っている。
浮俗に倣いのように、さもしく手を出すことなく、当時は義理と人情と痩せ我慢があったようで、どうも四角四面と重なって国策もかしこまっている。国民党の領袖蒋介石さえ手つかずのままだったら台湾には来なかっただろう。
だからなのか、ほんの少し前までは疫病と匪族の島、西洋人からみれば未開で野蛮だと、得にもならない麗しの島には目もくれず東南アジアや中国、ビルマ、インドまで植民地にして近世には日本植民地化さえ窺がう強欲さがあった。

海上からみる島は自然豊かで常夏のようだが、頂には雪さえ積もる高嶺もあった。
中国の歴代帝とて版図には標されていたが見向きもしなかった。しかし華人は旺盛で躍動感があった。数百年前からは国内外を問わず飛躍の気概がある福建人が徐々に進出して、得意の商売を始めた。海に慣れたものは漁業もはじめた。よく内省人といわれる人々がいるが、その多くは渡来の福建人と高砂族など従来の原住の民だ。他は国共(国民党・共産党)内戦後、蒋介石と渡来した中国人が外省人とよばれている。
旗の色は国民党が赤、最大野党民進党が青だが、南方島礁に位置する人々の倣いのように政治を語ることは少ないが、多くの庶民は「赤も青も変わりはない」と妙に蘊蓄のある言葉を聴かせてくれる。権力を持てば共通した指向があるのだろう。


台湾名所の夜市や一時の日本のような爆走タクシーをみるとアジアの他の諸国にみる混沌、雑踏にも彼らなりの一定の理がある。それは税も払う、最低限の規則に従うが、生活の邪魔はしないでくれという為政者と大衆のホドの良い間合いがある。それは台湾人だが台湾国民ではないというようなしたたかさだ。
それは天地の間を住処にするという天下思想の悠々たる世界観でもある。
大陸の情景もそうだが、いつも旗(為政者)の色が代わる政情では無関心を装いつつも敏感に力の在り処を窺う慎重さが要求される、それが権力との間合いになっている。
それ以外は無頓着だ。金にまつわることと身近な人情以外は・・・・

一時期、日本が進出した。その時代の世界のスタンダードのようだった戦争賠償としての清国からの割譲だった。西洋勢力が利得にならないと見向きもしなかった島、清朝からも相手にされなかった金の掛かる蓬来の島だったが、当時の日本人は西洋なら搾取の対象だった取得地を日本内地と同じように扱った。いや日本の事情とて「おしん」や娘売りがあったころではあるが、莫大な資本を入れて蓬来の島を豊かな地域に作り替えた。

それはロシアの南下と清の柵封に困窮していた朝鮮にも同様な施策をとっている。つまり幾ら国家政策や海外伸張といわれても、異民族に直接施行する有能かつ、普遍な人情を人の在り様として具体化する人間がいなければ適うものではなかった。
いまは枯渇しているようだが、当時の日本人は余計なおせっかいにも映る行為を命懸けで行う人間がいた。またそれを人間の価値として共助、協働、を共に行う下座観が当たり前のようにあった。それは軍を背景にした力の行使とみる向きもあるだろう、あるいは小商人や財閥の利得追求もあろうが、実直な技術者や大同の理想を追う社会運動家、そして俊英で清廉な官吏が日本人としての矜持を添えて現地の開拓発展に邁進した。
しかも日本の為だ、大義の為だなどの大言壮語も語らず、心身ともに現地に浸透した。






前回は外務次官と会談




台湾に着くと先ず行くところは芝山厳の六士先生の墓参りだ。それは、なにも同胞意識などという浅薄な気持ちではない。異民族に普遍な精神で命の危険をかえりみず、しかも、当時としては遠い期待としての生産性や文化向上のすべとなる教育をする、いや学ぶものがあることを伝えるために渡来し、無知なのか誤解なのか惨殺された六人の教師の墓標である。
いまどき片腹が痛むのか教師は教員とよばれ、生徒には数値評価を与え、自らは俸給待遇、勤務環境の向上に勤しむ教育労働者とは異質な日本人がそこには刻まれている。
また、それに倣い、感動や感激を通じてその魂の継承を志す多くの教師が生まれ、現在でもそれが行動や逸話として継承されている。

そのためには、知った、覚えた類の数値学ではなく、あるいは六士の背景に国家的施策である順化への期待も語られるだろうが、生徒に真剣に向き合い、その使命に靖んじて吾が身を献ずる彼らの人格は、数多のカリキュラムの習得を超えた恩顧として現地の深層の歴史に刻まれている。

薄弱なお節介だが、隣人には良き考えのもと、善き繁栄をしていただきたいと考える。
それが宗教や形式的な教育で生まれることではなく、いづれかの心の動きを促す性根が幸せ感としてその行動を促すのかもしれない。受ける幸せ、差し上げる幸せは、物の交換など目に見えることの実利感覚と、一方、他の不特定の存在ら囲まれた己がそれぞれ戯れ、干渉し合うような童心の自然な回帰のようなものだろう。
どうも異民族にむける貧者、困惑に対する感性は同胞ながら特異な気質がある。だからこそ同胞が旅の恥はかき捨てとばかり異民族に対する不正や暴虐な行為が、台湾の古老をして「昔の日本人はそんなことをしなかった」と、権力への憂慮より数段も激しく叱責されるのが訪れた現代日本人でもある。

続く

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