東京市長 後藤新平に尋ねたい
旧稿ですが再考のため掲載します
やはりあの時の判断は明察だった。
浮俗の祀り(まつり)ならぬ、地球のドサ回り祭りの呼び屋の助っ人につかわれることに、斬然として拒っついる。まさに都政のゴタゴタを見事に推考している。また、その元にある利得権の争乱を逆睹した英明な判断でもあろう。
逆 睹………将来起きることを想定して事前に手をうつ
ある時は靖国神社参拝を請い、今度はオリンピック興行の誘致運動に国の結び目としての皇室にその助力を請う。しかし「ご遠慮」の意が宮内庁職員から伝わると、先の放言が発せられた。
それぞれ遠まわしにも、伝わるように要請しているが、正式に「ハレ」の場面においては要請してはいない。つまり「ケ」から「ハレ」の分別もなくモノを言い、「ハレ」も「ケ」を忖度配慮して「ご遠慮」しているものを「ごとき・・」とは、釈然としないものがある。
「ハレ」の威もあれば、譲り合う「ケ」の美徳もあるだろう。その調和を掌る礼には、その域内の陋規として「ハレ」に晴着を用いて、辞するときは「なおらい」が礼としてあることをこの国の人々なら、教えずとも倣い継いでいる。
それとも、万能な権力者として、あるいは秘奥なる威厳をコケオドシの用とし、かつ国家の繁栄を大義としてお出まし願おうとしたのだろうか・・・
ことさら皇室を補佐する宮内庁に愛着のようなものがある訳ではないが、モノ書きの物言いは同胞として理解に苦しむものであり、慎むべき精神が欲しい。
反対に「都知事ごときが・・・・」と、発言したら、民主主義を大上段に振り上げて天皇の君奸などと言いかねない軽さがある。カジノに尖閣に五輪、まことに騒がしい。
戦前の木戸内大臣のような振る舞いを見るようで、一方では政治が皇室を利用するという危惧があるが、それこそ、「政治家ごとき」と言われようと、凛として反駁するような人物も見当たらないのが今時の選良の姿だろう。
ことは「皇太子なり、天皇なりにその威をオリンピックに助力を・・」ということだろうが、以前にもモノ書きは商業ミスコミの元老院と期を同じくして天皇のお出ましを哀願している。今回はモノ書きの不埒な放言だが、「宮内庁ごとき・・」の言にあるものは、まさに「其の心底見たり」である。
就任時の都庁カジノから始まって森伊蔵の空箱に親子それぞれ一千万のお土産など高慢な行動がマスコミを騒がしたが、゛これぐらいは有るだろう゛と、モノ書きの珍しくも寡黙な姿にそれを忖度し、庶民は三文舞台の台詞回しを見るようで、其れはソレデ楽しめたものだ。
ともあれ威勢のいい時と、調子の合わないときの機嫌悪さといったら、このところ弱気な日本男子には頼れる男気とでも理解したのだろうが、明治人の気概から観たら、鹿鳴館の似合わん仮装までして先進国サロンに入りたがったのが、戦争に負けた後は、跳ねたり、駆けたり、水に潜ったりする西洋の運動興行を大枚かけて招いているように映るだろう。
だが、あの当時の勢いは日本人に異なるものを与えたようだ。
いまも「景気効用と日本人に元気を興す」ことがスローガンだが、モノ書きの情緒、いや情緒性を涵養する環境、風土について、いかに成功価値の変質と、其れに伴う諸般の煩雑な出来事について「政治家」としてのステーツが欠けているように思えるのだが・・・
前記の、なぜ不埒と観たか、「心底見たり」と関係することだが、靖国参拝問題についてモノ書きの章に、陛下の参拝を願い漂っている問題の風を変えようとする、願目だったと記憶する。時を変えた同紙のコラムでも論説元老院の長老がそのような意味を記していた。
「埒(らつ)」とは柵の意で、不埒は柵がない、つまりこの場合は「自制の範のあること」を示さず「勝って言い放題」の放埓状態である。
靖国問題だけに矮小化すると見過ごしがちだが、其のとき陛下は前立腺がんの切除で入院中であったが、平癒を祈る章も無く陛下の靖国参拝を切望していた。
立場はともかく一端の大人の礼とはいえないと、筆者も章を割いたことがあった。
何はともあれ、其れが一番の解決方法であり、人を平伏させることが出来る、と考えているのだろうか。
モノ書きは守るべきものの護り方を錯覚している。
もし、モノ書きの風情で筆者が願うとすれば、「政治家、官吏、教育者、公諸般に就く者は公明正大に業を執り行い、国民の信頼を得るため、誠心誠意に精励するように希望する」と、勅命を請うだろう。
想像するがいい、政治がどうの、憲法がどうの、と騒がしくなるが、日本人としての天皇が其の意志においてインタビューという法をとって語ることは歴史の則を超えることではないし、調和と連帯が欠け、民族固有の長(おさ)の在り様を俯瞰するとき、それは思いもよらない効果を発揮するだろう。
余談だが、赤尾敏氏は演説の最後に、天皇陛下万歳と唱えている。筆者がその理由を尋ねると、「ことさら天皇の健康や財産を護持するものではない。かといって日本国万歳といってもロクデモナない政治家どもに賛意を示すようなので、天皇が一番善いのでそう唱和している」また赤尾氏は「神社参りではあるまいし、世俗事情の解決を天皇に願うのは知恵の無いことだ」、とも語っている。
モノ書きの何を期待したのか・・
はたして「政治なるもの」を見せているのだろうか。
それとも「軍は竜眼のそでに隠れて・・」といったモノノフに似つかわしくない狡猾さで竜眼を押し立て、天皇の下、威を壟断するような維新の一派の残滓同様に、民を苦しの淵に落とすのか、それはモノ書きの空想する、゛格好の良さ゛とは似ても似つかない、゛みっともない姿゛を歴史に記すことは疑い無いことだ。