まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

至る処 青山在り 07 5/31 あの頃

2016-10-30 11:20:26 | Weblog


 

人は生地は判っていても、死に場所までは解からない。ただ三島氏のように死に場所を決めて、その自裁する意味を最後の言葉として発する華々しさもあれば、一瞬な事故や他人から殺害されたり、あるいは、自宅の床や病院で死を待つ最期もある。

ここで記す革命家の死を想定した覚悟は、たとえ誰にも見取られない側溝泥水や異郷において斬首されることも想定しているが、彼らには肉体消滅に勝る覚悟が本懐となっている。死生観など望むべくもない昨今、説法や語りもの、あるいは医学的に骸となった死に意味合いを持たせ、知った、覚えた、類の知学と理解はしているが、生命や行為に死というすべてが無に帰す時と存在、あるいは生きた証を利他に提供する気概は、キナ臭くなった近未来に新たな課題として現代人に問いかけている。

謳われる平和や自由は、どこに、本当に在るかも知らず説や論として漂っている。理念や共同目標とするなら然りではあるが、虚構に近くなりつつある浮俗においては、みなが忌避する戦争だけでなく、善男善女の社会において競い、争い、急ぎ、成功価値を求める世界において淘汰という姿で現出している。そこには長命や死期をビジネスとして考える者も多くいる。

誰のせいでもない。互いに相乗、相関して舐めあい、ときに排している人の問題に帰結する。

以下の章は、不特定多数の人間の利他に自らを靖んじて献じた歴史の一コマではあるが、明治の日本人が隣国の近代化に挺身し、列強の植民地の頸木から解き放たれた暁には、国境を撤廃して協力してアジアを再興しようとする人々の逸話です。そのアジアの意志は決して偏狭にならず、西洋と協力して世界平和に導く大経綸でもありました。

世界の中のアジア、その地域の連帯と協調は歴史の縁として、現況の姿を別の切り口で考える糧ともなるのではないでしょうか。

 

         山田純三郎 孫文    

 

ブログ版「請孫文再来」 kindle版「天下為公」 寳田時雄著 より抜粋

■孫文が観た「真の日本人」

 中華民族から敬愛をもって国父と称される孫文は、近代中国の魁になった辛亥革命の先導者であり、植民地として抑圧されたアジアの解放に多くの日本人が賛同し革命に挺身している。その孫文は側近の山田純三郎に、「真の日本人がいなくなった」と嘆息している。

 唯一日本人として孫文の臨終に立会った純三郎、その兄良政もアジア諸民族の解放を求めて孫文に従っている。運動会で使うといって日本で作らせた革命党の旗を一番先に押し立てたのも良政である。
 革命当初の戦闘において恵州で亡くなり、その敢闘精神に感動した孫文は頌徳碑を建立して、その末尾に「東方において此の志 嗣ぐものあらんことを」と撰書している。

 孫文は側近純三郎に何度となく「満州は日本人の手でパラダイスを築いてロシアの南下を抑えたい。しかしシャッポ(帽子)は中国人だ。そして中日提携し西欧に蹂躙されたアジアの抑圧された民族を解放し、許されれば中日が国境を撤廃してでも未来永劫に仲良くしよう」そして、「そもそも辛亥革命の端緒は明治維新であり、辛亥革命はその後果である」とも述べている。純三郎の懐顧には必ず「大きい。だから孫さんに参ったんだ」と、続くのがつねであった。
事実、山田は石岡という日本名を装った蒋介石らとその孫文の意志通り満州工作に二度も向かっている。失敗して帰ると顔を真っ赤にして報告する蒋介石の真摯な態度を見て、秋山真之や満鉄理事の犬塚は「こんど何かあったら応援しよう」と約束している。


 当時、活躍した日本人の多くは今の官制学歴ではなく、塾、藩校、あるいは郷学において学び、その独立心と死生観、目的の確立といった学習成果は、草鞋、髷、二本差しが、三十数年を経てロシアの無敵バルチック艦隊を撃滅していることでも分かる。要は目的の共有、集中力、緊張、突破力を縦横無尽、臨機応変という「機略」を覚悟を添えて養う人物の養成だった。多くは数値評価の学歴ではなかった。共通意識は目的を貫徹する強い意志と大きな目的だった。
 それは抑圧されたアジアの光明であり、有色人種の勝利としてアジアの民衆は挙って歓喜した。孫文、アギナルド、ケマハパシャ、コンディ、オッタマ等が独立蜂起し、戦後インドネシア独立に参戦した残留日本兵の姿にもアジア全体を俯瞰した連帯をみることができる

 秋山真之、児玉源太郎の智謀もさることながら、乃木の敗者に対する労りの情、後年台湾施策における後藤新平の忠恕と胆力など、勤勉、正直、礼儀、忍耐に培われた平等互恵の精神は孫文をして、「真の日本人」と呼ぶにふさわしい人物の姿があった。
 援助を請う孫文に対して当時、台湾民生長官であった後藤は「孫さん、革命が成功するかしないか分からんものに借款はできない。対岸のアモイに台湾銀行がある。その地下には銀貨がある、革命なら奪ったらいい」といって、「ここにあるよ」とばかりに靴で床を何回も鳴らした。

 敗戦を迎えた日本の帰国者数百万を「怨みに報いるに徳をもって行う」と安全に日本に送り届けた蒋介石に、後日我が国の政治家が礼を述べたところ、
私はいい、君たちの先輩に感謝することだ」と叱責したという。ちなみに孫文から次の領袖を問われたとき「蒋介石君が適任かと・・」と純三郎と応えている。孫文側近の山田の許しがなければ蒋介石ですら孫文に会えなかった関係である。

 

最近、南西諸島(沖縄等)の領有について当時の新聞記事で蒋介石が断ったとあったが、それが本意だろう。その蒋介石と新聞記事の齟齬は、国民党の情報機関は国際問題研究所(構成員・コミンテルン)に操作されていた事実をまさに物語っているといってよい。

 孫文が信頼しアジアの光明として期待を持ち、辛亥革命を闘った同志である純三郎、良政、あるいは多くの明治人が顕した列強に蹂躙された異民族への死を賭けた熱情は、「真の日本人」への感謝として、革命同志蒋介石の言葉によって戦後の日本に問いかけているようだ。

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三笠宮崇仁親王殿下(若杉参謀)に倣う  憲法改正へ向かう前に

2016-10-27 15:32:47 | Weblog

 

13  5/7掲載


当ブログでも、十七条憲法は権力を構成するであろう人々の集団や、彼らが恣意的に行うであろう行為が人間の尊厳を毀損するであろうと危惧したため、それらの権力集団の権力行使の制御を抑えるために聖徳太子が制定したとされる矩であると度々書いた
そして改める意図と機会に際して、慎重な歴史の鎮考が求められるとも記した

安倍氏の歴史感覚と当面の対処は是とするが、改正後の人々の動向と民癖のように歴史に刻まれた日本人の変化を想定することも同時に推考しなくてはならないと考える
それは、ネガティブに足を引っ張ったり、種々な異論を糾合して徒な反対に応ずるのではなく、自らの良心と美しい国とかかげる政権理念を将来にも汚すことなく、かつ現実に対応する胆力を養うためにも一考を呈したい。

戦争には秘話がつきものだ。開戦秘話、謀略秘話、日中秘話など未だに秘匿や隠ぺいされた資料が多い中で、いの様々な軋轢を生んでいる日中の戦いで意義深い逸話がある。
それは、「どうも心配だ・・・」「よく解らないが・・」と流れに乗る国民議論の中で、日本人が蓋をするように当時は「聞かぬふり」をしている内容であり、この問題さえ解決しているなら憲法改正も然りとおもえる、同族である日本人に対する集団化の変化、現状看過の無責任な流れ、など、面前の人を信ずるという信義だけでは済まない特異な傾向が潜在する民癖のようなものだ。


最近も社会保険庁の醜態、行政改革のとん挫、治安機構の変容、政治の混迷など、日本には独特な問題が堆積している。さかのぼれば江戸の御家人、明治以後の軍官僚、戦後の官僚など熟すれば弛緩する制度と堕落など、国家の本綱や維にいわれる国民とスメラギの紐帯の導線を自らの充足と安定に利するために用いて、真の本綱の維持を希薄にさせ、あえて思索と観照の意を衰えさせ、かつ棲み分けれられた民族に必須な精霊の存在さえ無意味にさせるような面前権力や同胞への怨嗟が起こっている。

つまり改正は己も他人も心配なのだ。しかも言い尽くされてはいるが権力を制御する憲法を現世価値を追う議会の権力によって改正することへの危惧だ。
大方は任せているという。外敵が攻めてくれば自衛隊がいるという。しかし、国民の私権を制約しなければ戦うことも守ることもできないという。大方の国民は撃たれることも、女子が凌辱され、資産は没収され自由もなくなることなどは空事と思っている。

沖縄の戦いは沖縄の人が知っている。占領下の日本はその当時の人のことだと考えているが、もし米軍が日本軍占領下の中国大陸のような軍隊だったらと想像しても、今の感覚での想像でしかない。














昭和十九年一月、戦局は日本軍に不利だった。いや壊滅まじかだった。
支那派遣軍総司令部の若杉参謀は尉官将校に命令を下した。

「支那事変がいまに至るも解決せざる根本要因について思うところを述べよ。ただし三行三十字」

高級軍人も頭をひねりながら、得意の整理と論理的合理を思案しながら数値評価で出世した倣いで知恵を絞った。与えられた課題に対する部分考証はいかんなく発揮されたが若杉参謀の深慮には到底届くものではなかった。つまり、それら明治新政府がかぶれたように採用したフランス式啓蒙主義を土台にしたアカデミックな教育の成れの果てのように、歴史は残酷にも異郷の地において結果をさらした。それは戦略戦術の稚拙さや時流の流れなどではなく、日本人につきつけられた「日本及び日本人」への痛切な問いであり、猛省を促すものだった。

だが。後年それが仮の反省であり、問題意識すら抱くことのなかったことが、再び問題として、かつ国家の弊害として勢いを増している。まさに若杉参謀はそれを推考しているようだった。

彼らの答えはこうだった
「蒋介石の反日教育」  「ソ連の共産党への援助」  「英米の物的援助」  
「ビルマル―トの打通」 「中国大陸の広さ」 などだった。
その各々は現況の原因かもしれないが・・・と続け

「しかし、いずれにも本官は満足しない。諸君の回答は事変未解決の一つの回答だとしても、それは単に枝葉末節、あるいは部分的原因にすぎない。いずれも本官の考える根本的原因には程遠い。諸君の回答は落第である」

帝大や高等文官、陸大の数値評価では合格だろうが、若杉の意図にたいする答えは見いだせない立身出世の当時のエリートだった。

「ただし、この答えだけが本官の期待した唯一のものだ」と一通の答えをとりだした。

「沢井中尉前えっ、読みたまえ」

沢井は両手で答案用紙を前に掲げ大声で読んだ

「支那事変未解決の根本原因は、日本人が真の日本人に徹せざるなり」

当時は刑罰ものである。あの皇軍を汚す行為だと・・・・

若杉参謀は語気鋭く満場の兵士に迫った

「その通り、支那事変未解決の根本原因は日本人が真の日本人として行動していないからだ。略奪暴行していながら何が皇軍か。現地の一般住民を苦しめながら何が聖戦か。大陸における日本軍官民のこの様なあり方で、いったい陛下の大御心に沿っていると思っているのか・・」

満場は総司令官以下みな頭を垂れ沈黙した。若杉は続けた。
「我が日本軍にもっとも必要なことは、武器でもない、弾薬でもない、訓練でもない、これだ・・・」と後ろを振り返り黒板に大書した。

「自らを省み、自らを慎み、自らの一挙一動が大御心にもとることなきかを自らに問うことである」

若杉参謀は軍の倣慢、居留民の堕落を余すところなく衝いたうえで

、「今、この時、日本人が真の日本人に立ち直ることができないなら、支那事変は永久に解決しないであろう」、と断言した。

彼らは相変わらずだった。若杉が退出すると高級副官は
「只今のお言葉は,何ともその、恐れ多いお言葉だが、そのなんと言おうか、あまり、いやまぁ、なるべくだな、外部に口外せぬように」と無反省な戯言を吐いた。

若杉は日中事変そのものの不道徳性を衝いた。人間としての日本人の姿に我慢ならなかった。そして「日中間の事変が解決しないのは、中国人の心が読めないからだ」とも述べている。諸国間の意図や軋轢、世界的陰謀など混在する問題があるなかで、ここまで言い切る剛直さは、その世界に存する方ならではの威厳が言葉にもある。

その若杉参謀だが、一参謀が総司令官に頭を垂れさせ満場の幹部に訓導することは軍隊の階級ではありえないことだ。じつは天皇の弟君三笠宮崇仁親王殿下の陸軍での秘匿名なのだ。そしてこの言葉に関する記述資料は危険文書として総司令部は破棄を指令。

それよりもあの戦時下の現地において殿下の明快な現状俯瞰力と根本を衝く勇気と英明さは、内容が当然なこととはいえ、歴史をたどるものからすれば驚愕な姿だ。













そこで憲法に戻ろう。
むかしは軍人、いまは官僚といわれて久しいが、当時の政治も現状追認でややもすると軍人の行動を忖度して擁護する議員もいた。そして翼賛政治に向かった。異を唱えたのは齋藤隆夫や浜田国松が有名だが、みな官僚、いや軍人の便宜供与や肉体的衝撃を恐れる議員が地位保全を計って口をつぐんでいた。いま皇族は意志を発することは閉ざされている。まして若杉参謀(三笠宮殿下)のような英明さも活かされることはない。だだ、その意は議員諸氏の胆識にかかっている。あの三笠宮殿下が「真の日本人であるなら・・」と訓導した見識と勇気があるのならそれは可能だ。

振り返れば、あの現場はいまに置き換えるとよく解る。戦況と選挙、俸給担保と当選のための戦術、俯瞰力をなくした枝葉末節な議論、そんなことでは日本のみならずアジアの信頼さえ得ることができないと衝いた三笠宮殿下の見識。

省益や議員の便宜利権に模せば、三笠宮殿下は、現地軍が戦闘をはじめ、天皇に後始末を押し付けた、と統帥権の逸脱を記しているが、今の国会は議院内閣制とはいえ細々した省の諸問題を腹話術に罹ったかのように、自身には関係のない言い訳すら言わされているが、内容経過すら熟知せず更迭の憂き目にもあっている議員もいる。

そんな状態で、自らの権利を拡大することは三笠宮殿下ならずとも危惧するだろう。
孫文も側近の山田純三郎に呻吟している
「真の日本人がいなくなった」と。それは信じられなくなった日本人だ。

色目人(異邦人)でも宰相に登用する中国のこと、李鴻章は伊藤博文を支那の宰相にと語ったという。フビライは北京で二十歳の青年を見抜き、後の宰相にした。色目人である耶律楚材だ。つまり人間の能力を数値でないところで見抜く目を持っている。
民主主義制度の名のもと大衆が選んだ管首相は震災被災地で罵詈雑言をうけた。継続された皇室は膝を折り、海に祈り、人びとの感涙を誘った。

叶うなら、若杉参謀の言う「大御心」に沿った憲法をつくってほしいと願うのは、憲法によって制御される者ではなく、それらに真の自由と尊厳を毀損されかねない人々の思いだ。解っているなら大いに結構なことだが・・・


岩武光宏著 「日本人が知りたかった東洋史」より一部参考抜粋編
写真は宮内庁および関連サイトより転載

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石原東京賭政 「禁ずるところ利あり」  08/6 あの頃 再

2016-10-24 12:05:28 | Weblog

          大風呂敷も色々ある 東京市長 後藤新平

カジノにパチンコ・オリンピック…・博打とイベントはまさに賭政そのもの。

傍観する都民、弛緩する官吏、腐らないはずはない。



 禁欲から解き放れた終戦直後の生殖行動は、団塊の世代という世代集団を生み出した。
それは人類の本能がなせるエネルギッシュな人種の補充であった。さも傍観的だが、いま考えると少なくも、過剰生産の感がする熱狂でもあった。

当時、敗戦の惨禍にあって打ちひしがれた日本男子と異なって、女性の体温は37度と平常値より高温であったというデーターがある。生理的には妊娠が容易なコンディションであった。金銭数値では、あの大東亜戦争で消費し、消滅した金額総量が、原爆や空襲も無い現在、人為的とも思える為替変動や積層金利という魔物によって国内から消滅した平成惨禍のなかでも、元気の無いのは団塊中年をはじめとする男子諸君だが、女性軍は総じて活発である。

また、烈しい女性に引き回される浮俗の流行ごとも、小事に騒がしくなった日本男児の風潮にもなっている。
一時、濡れ落ち葉と揶揄されるように、はっきりしない、自主性の無いと、女房にまとわり付く亭主像が淑女の口からけたたましく発せられた時期があった。
いや、今も傾向は顕著である。年金分割を前にして離婚が保留され、食い扶持取り分のために伏して待機している状況があると聴く。

あの時、戦いに負けて男児の権威は吹っ飛び、悲哀さえ抱える敗戦直後の姿は、より強靭な子孫の生産を本能的に願う婦女子に移行したような感がある。
 それが団塊の世代の発生の要因のみに求めるものではないが、問題は、その頃の集中的な誕生が平成の世の、、大量退職の期に差し掛かっているために起きるさまざまな現象に起因しているのではないかと考えるからである。

それはまさに人口循環といわれるものではあるが、地球自然の要因と違って、人為的な戦禍の結末が半世紀後に訪れた問題としてクローズアップされている。これは政治政策上の対策では到底解決できないばかりか、人間の欲望のコントロールに多くの命題を示していることでもある。
ともあれ、「ほど」が肝要だろう。

 ひと昔前と違って男60歳、まだまだ欲もあり元気である。それに加えて家計の固定支出の増加と年金問題の不透明さが拍車をかけ、とくに公的機関のお手盛り再雇用確保が喫緊の問題となって浮上している。
キャリアと称されるものたちは監督、規制の権限をフル活用して、お手盛り素餐の確保に忙しいが、一般ノンキャリアにとってはパイを増やさない限り到底、賄えるものではない大量の退職者の数である。
 いままでは外郭団体や再雇用によくある相談員、指導員、検査員などで納まったが、近頃では人事担当も四苦八苦している様子がありありと観える。






郷学研修会



昭和に碩学といわれた御仁の子息で、当時の国税庁に勤務経験のある方が、とある勉強会でこう述べている。

『税と警察のあり方で国家はどのようにも変化する。とくに国民の怨嗟を集めやすい機関は、この事に留意しなければ国家の衰亡招くこと必然である』

中国でも沿岸地域と内陸の経済格差による賃金格差が大きな不満となり、各地で暴動が発生している。そのため政府は農民に納税の免除を内外に向けて発表している。
 このことは納税制度の形骸化であり、富めるものが先に富むという先富政策のよる国策の当然訪れる結果であり、壮大な国つなぎの経過でもある。

歴史マクロ観はさておき、国家の為政者にとっての税は恣意的なものである。
隣国の俗話に、「昔から役所は南を正面にして建っていた。そして扉はいつも開いている。理屈はあろうが、ともかく金をもってこい」これが、官吏と民衆の関係である。
また、どんな清廉な役人でも7年経てば黄金が降ってくる、とも揶揄している。

前記の国税任官時のことだった。それはどこから新税を捻出するか、と若い職員との問答に面白いエピソードである。
話が泥棒と売春婦から徴税できるか、となった。
浮世遊びも侭ならず、四角四面の官製学歴に汲々としてメデタク狡務、いや公務員になった若手官吏は、上司の洒脱な問いに対して、生真面目に脳髄を絞った。

「売春婦の所得に対して必要経費は、布団、避妊具、サクラ紙があり、泥棒のそれは、出刃包丁に逃走用の自転車、足跡のつかない足袋と軍手があるが・・・」
どこからでも税が出るようだが、それも血税で学んだ最高学府の知恵でもある。

上司は笑いながら設問の意図を話した。
「それは無理な考えだ。泥棒と売春婦の所得は捕捉できない、と言うよりかそれは罰金だ。本来、公序良俗に反するような公に認められない生業については、税は馴染まない。詐欺、背任についても罰金と脱税という一般の納税者と異なる対応がある。何でも税が存在すると思う前提では国家と国民との関係が、単なる怨嗟の対象になってしまうし、民生の助力にはならない。公務の意味すらオボロゲになってしまう」

 話題は飛んで、戦中戦後と活躍して昭和の怪物と称せられた八次一夫氏の洒脱な談に、「三取りに拘るとロクな人間にならない」とある。三取りとは給料取り、年金取り、借金取り、である。三取りは、四角四面で依頼心の強い人情のない人間を作り上げる、ということでる。上司に迎合し社費を冗費したり、計算も立たない人生を狭い枠に閉じ込めたり、金や物で人を量ったりする浮俗な人間が多いことを、氏特有な言い回しで世情を嘆いている。

また、三取りの優劣を男価値の基準に置く女性たちの存在もあるが、公務員までもがこの有様では国家の問題でもあるという危機感からでもある。










そういえば、射幸心を煽ると一台2万円が限度であった出球が、暴力追放の美名の下に換金所を管理し、商社、通信会社と連携したパチンコ専用カードによってパチンコ業界を支配管理下においた治安キャリアは、出玉制約を取り払い、遊戯店を官製賭博場に変化させた。遊戯台の製造、許可などの外郭産業または管理機関への天下り、警備、清掃業務への参画など、国家を超えた異民族とのシンジケートや闇社会との共生がある。

地方の遊戯店の駐車場には消費者金融のATMが設置され、射幸心を煽られた人たちを欲望の高揚ゆえか、多くを自滅の途に向かわしている。日本人の自己管理の秘匿性と実直性を熟知した心理を利に結び付けている巧妙な商いでもある。

ちなみに、遊戯店のトイレでの売春は一昔前のことだが、いまではトイレ内の自殺も枚挙がない。それは政治政策の根幹を為す民情視点ではあるが、取締りの警察の分別が不審死、事故死であれば政策情報にもならなければ対策にもならない。


一応に関係企業の株価も上昇している。管轄する都政も知事自ら税収を図って官製ギャンブルをあおり、まるで東京賭政の有様である。これも掟、陋習の類に棲み分けされた陋規を、強引に法令という禁令に取り込んだ官吏の狡猾な搾取である。
その結果、生活保護所帯は増加し扶養支出も増大し、怠惰な民情を生み、現代の棄民と称せられる一群を発生させている。下座観のない政治の典型的姿でもある。

しかも与野党問わず地方自治の票取り議員は、支持者の若者や偽装離婚家族を巧妙に保護所帯の認定をねじ込み、あるいは不況業種別枠信用保障資金や新銀行への口利きなど都政の根幹を蝕んでいる。





牧民官ならぬ、こちらは本物の牧民





【歴史に観る官吏】

隣国の首都北京には故宮、紫禁城がある。日本が取り入れなかった陋習には宦官、纏足、科挙があるが、紫禁城の運営には欠くことのできない陋規であり、総てが財を発生させるものである。

「宦官」は後宮女官数千人いる紫禁城に任官するために陰茎を切り取って応募する官吏である。建前は陰茎の根元で切断だが、そこは応用賄賂の社会ゆえ金次第で亀頭部、陰茎の一部もあった。もちろん性交が不可能な機能だが、勃起中枢は脊髄であるのと、敏感な亀頭切除のため長時間の情交が可能だった。

あるいは竹筒の底に蜂蜜を入れ、舌で舐め採る訓練を行い、徐々に竹筒を長くして五寸ぐらい掬い取るようになると、舌は自在筋のために陰茎を用いた情交より甘美な感応が発生するという、まともに記述するに憚る様態がある。余談だが切り取った陰茎は竹で編んだ升に焼き石膏を入れて屋根裏に吊っていた。死ぬときに棺桶に入れれば、再び人間として生まれてくるという迷信が添えられている。



その宦官が出仕する紫禁城の主は皇帝である。宦官は武人ではないが側近としての権力は絶大である。絶大といっても虎の衣を借りて、目隠し屏風としての狡猾な権力がある。 とくに官位が上がれば財を発するという「昇官発財」「一官、九族に繁える」と云われるように、一族の期待を負った任官である。またその財は総じて賄賂である。

賄賂といっても日本のように四角四面に背任や汚職と断定するものではなく、賄賂は「人情を贈る」類のものである。また、その交換が仲間の認定でもある。
ちなみに皇帝の権限は天地総てのものに及ぶので賄賂を必要としないし、蓄財も意味がない。

儀礼的に朝貢する各地の部族は貢物と称して土産物を持参する。その際、皇帝の一番近くの目に付くところに並べて貰うために宦官の力が必要となってくる。その際のお礼が賄賂である。もちろん朝見の順番もそうだろう。それは吉良と浅野のやり取りに似ているが、似て非なる儀礼対象がそこにはある。

通路の右か左を通行するか、どこで止まるか、どこで休むか、場内での従者と使節のしきたり、日本では規則を増やすことによって罰金が生じ、隣国では法を教えてもらうことによって宦官に利が生じている。「利は義(正しいこと)の総和」と教えるが、狡猾な官吏によって利が発生するのは共通しているようだ。









余談だが、あの水戸黄門(水戸光圀)の「黄門」は皇帝の色、黄色の門のことであり、それを守っているのは宦官であることから、あるとき「あれは宦官か?」と問われたことがある。

また、文献を検索する日本の学者から、宦官は何年まであったが、その後任官したその宦官は偽者であると四角四面の抗論があったが、亡くなった宦官名前で別人が入り込んでいる。それが知恵なのだ。また日本人は通常「俺」と自称するが、俺は「申」を上から押さえているため縦線が右に曲がっている、つまり男性性器が役に立たなくなっているということで、中国では使わないと古老はいう。陋習とともに如何様にでも理由付ける鷹揚さは四角四面な日本人には、到底理解に届かないことでもある。

少々、ビロウなことだが纏足にも触れておこう。
日本では、゛逃げられないように足を固定する゛あるいは、゛身のこなしがきれいに映る゛といわれているが、古老の話では幼児の頃から親指を除いた指を内側に折り曲げて、布で固く縛り、あまりの痛さに、何人もの幼児が、「痛い、痛い」と大きな水瓶に足を当てて冷やし、慣れてくると踵の高い小さな靴を普段使用する。それは花魁の重い衣装に高下駄と同様、バランスをとるために内股の筋肉が発達し、そのため女性器が発達して自在になるという。

性の享楽のために肉体改造する、つまり価値が上がるのである。また、宦官も然り、みな童顔でありホルモンバランスも変化するようだ。
一部では、子供の頃から小陰唇を老婆が吸うことによって肥大化させ、性的享楽の具にする陋習がある。いまどきの人権、性差別では到底おさまらない楽天的といわれる風習かとおもわれる。 

それは、宦官、纏足、科挙を受け入れなかった日本人には理解できないことだが、「色、食、財」の欲求に従順に、かつ知恵を振り絞るダイナミックな生きかは、近頃の開放政策を得て、形を変えた欲望として資源枯渇はなんのその、巨大な龍が動き出した

禁ずることは利、それは既成勢力の既得権力であったが、開放と自由は民衆に止め処もない欲望を生み出した。いまは収斂すべき国家権力から解き放たれた混沌の砂となって地球に吹き荒れている。それはダッチロールのようでもある。

それは孔子、孟子を代表とした道徳制御から、それが自然だと言い聞かせるような老子の道教世界の自然循環のようになってきた。

利は自己を制裁すると古人は記す。自然は潤いと渇きを与える。何によって自己を内観するか、あるいは孔孟が、欲望の利と対峙する意味のないものとして滅ぶのか。興味ある下座と俯瞰の行きつ、戻りつつの考察でもあろう。

利については似て非なる考え方をしている我国と隣国の問題だが、往々にして錯覚、または意味の理解が届かない隔たりがある。

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1989年5月27日 日本は負けると・・ 10 12/21 再

2016-10-22 10:44:16 | Weblog

権力との関わり方である・・


1989年5月15日 ソビエト連邦のゴルバチョフ書記長が訪中した。国内の特権階級の腐敗、米国との軍拡争いによる経済の停滞、国民の怨嗟に敢然と取り組み、その改革の端緒が開けつつあるときの訪中である。

そもそも両国は共産党とは名乗っているが政治体制はともかく民癖が大きく異なる。また実験国家の如く一連の共産主義的政治仕様の試みが一応のデーター結果を集積し、かつコミンテルンという不可思議な字句を掲げ様々な民族、地域に浸透させた。

一方は資本主義、自由、民主、人権、一方は解放、平等を謳ってつばぜり合いを行なってきたが、お陰で双方のお題目を食い扶持とする似非知識人を大量生産した。

それは学派となり兵隊ごっこ宜しく、覇を唱えつつ国家の連帯と調和を崩してきた。彼等も錯覚学説の実験材料でもあった。それは白人植民地の先兵であった宣教師の愛と許しを謳う美句を同様に添えていたのと似ている。

差別は階級闘争として人々をカテゴリーに囲い込み、詰まる所知識人に後押しされた運動家は食い扶持既得権に堕して、近頃では教師、公務員の世襲もまかり通っている。

自由と民主を謳う連中は都合のよい商基準や政治集約システムを最良なものとして影響圏に押し付け、それまで程よい掟、習慣で成り立っていた生業なり生活を煩雑な法規に囲い込み、これこそ法治だと隣国の人治を嘲った。

それは、どちらが繁栄し、もしくは衰退しているかをあげつらい、かつどちらの主義が人の幸せを獲得するのに佳いシステムなのかを問うものでもなく、たとえ貧しくとも、抑圧されていても人の人格の表す自尊なり、民族の矜持、正直で勤勉で忍耐強い人間を育てるグランドの有無如何かを冷静に見なければならないことではある。

群れとなって一方に押しやられた感のある思索と観照を失くした人々は「武」と「富」を駆使した双方のシステムによって第三局の選択肢を模索しつつある歴史の節でもあった。

それは、民を育てる、あるいは矜持を涵養するという主義にいう、根本的な正しいこと(義)を主(柱)とする精神を教授てきる環境を観るべきとの促しでもあった。

反面という説があるが、宦官、纏足、人食、作戯、圧政、は中国の歴史に赤裸々に記されている。そこに孔子、老子、孟子を始めとする儒家、道家が仁を説き、道を説く陰陽、表裏に戯れる柔軟性もある。

一方は戦火に明け暮れ、哺乳血を啜り、奴隷を使役し、植民地をつくる人々は救世主に「愛」と「許し」を請う掟と習性によって生きてきた。

俯瞰すれば我国も阿諛迎合性のある民に狡猾な官吏、放たれれば自尊心を亡くし人倫さえ自らの欲心で融解させてしまうところには、独り天皇は祷り、名利財物に恬淡として所有を拒んでいる。

いずれも必然性がある、孔孟、キリスト、天皇、言い換えれば懺悔のカウンターの様でもある。

駄考の拙論だが、いかなる言も彼等の精神の淵にも届かないだろう。
今を以てもあの頃の若者の表情を思い浮かべる。



             
      鉢巻きの「下台」は地位から降りろという意である


1989年、若者はその諦観を断ち切るように、また小欲を捨て、大欲に生命を懸けていた。掲げるプラカードには「官倒」と大書されていた。自らを民主化の救世主として行動を起した。北京大学、清華大学、我国の首校より難門である。一人っ子政策で九族(家族、親戚)の期待の星達が「生命」の使い方を知り、修学の試行として機会を逃さなかった。

長安街の横断は儘ならず、隊列は数時間に及んだ。ちなみに日本のデモのように待遇改善、賃上げなどはデモと呼ぶべきものではなくまさに闘うデモ・クラシーそのものであるが、我国のそれは意を変えてデモ・クレイジーと呼んだ師の言葉を実感させる。チラシが散乱し、薄い日当を懐に元気の無いスローガンを叫んでいるが、同じ呼称の主義にも色々あるようだ。



               
戒厳令下 5/24



北京駅には地方からの若者が列をなし、革命記念堂の石段には多くの若者が広場の様子を見守っている。

しかし、6月3日の未明、人民の尊敬を集めていた解放軍が水平発射をして鎮圧が始まった。多くの若者が広場に倒れた。事件後、指導者の一人紫玲は香港でそのときの様子を嗚咽しながら搾り出した。


【 9時ちょうど、全天安門広場にいた学生たちは、起ち上って
 「 私は宣誓する。祖国の民主化への行程を推進するために、祖国が本当に盛大に繁栄するために、偉大な祖国が、一つまみの陰謀家によって顛覆されないようにするために、11億の人民が、白色テロの恐怖の中で命を失うことが無いように するために、私は若い生命を賭け、死を誓って、天安門を守り、共和国を守るこ とを、宣誓する。首が斬り落されてもよい。血は流れてもよい。人民広場は棄てられない。私たちは若い生命を賭けて最後の一人となるまで戦う!」
と、右手を挙げて宣誓しました。

 10時ちょうど、広場の民主大学が正式に授業を開始しました。副総指揮の張徳利が、民主大学の校長になりました。
 各界の人々は、民主大学の成立に対して、熱烈な祝賀を表わしました
 当時の情況としては、指揮部の此処ではでは、続々と各方面からの緊急の知らせを受取っていました。情況は非常に緊張していました。
 しかしながら、広場の北部に於ては、私たちの民主大学の成立を祝う拍手の音が鳴り響いていました。民主大学は、自由の女神の像の附近に設立したのです。

 そして、その周囲の長安街では、すでに血が河のように、なっていたのでした。人殺したちーあの27軍の兵士たちは、戦車、機関銃、銃剣(催涙ガスは、その時には、すでに遅すぎた)が、勇敢に一句のスローガンを叫んだだけの人に、勇敢に一つの煉瓦を投げつけただけの人に対して、彼らは機関銃で、追い撃ちをかけてきたのです。 長安街のどの屍体にも、いずれも、その胸には、一片の血が流れていました。

 学生が指揮部に飛んで来ました。
 彼らの手に、胸に、そして彼らのももは、みな血で染まっていました。これ
らは同胞たちの命の最後の一滴の血だったのです。
 彼らは自分たちの胸に、これらの同胞を抱きしめて、やって来たのでした。
 10時すぎ、指揮部では、みんなに要求しました。

 一番大事なこととして、みんなに要求したことは、私たちが、この4月から学生を主体とした愛国民主運動を始めてから、5月に入って以来、全人民運動へと発展変化してきました。私たちの原則は、最初から最後まで平和的な請願をすることでした。 私たちの闘争の最高原則は、平和です。
 非常に多くの学生たちや、労働者、市民たちが、私たちの指揮部へやって来て、こんな事では、いけないのではないか、武器を取るべきではないのか、と言いました。 男子の学生たちも、やはり非常に憤激していました。

 しかし私たち指揮部の学生たちは、みんなに
 「私たちは平和的な請願をしているのです。平和の最高原則は犠牲です」】
・・・・・





・・・・・
【 一人の幼い王力という学生、彼はわずかに15才でした。その彼は辞世の遺書を書いたのです。
 私はすでに、その絶筆の具体的な内容については、はっきりと覚えてはおりません。 彼が私に次のような話をしたのを記憶しているだけです。
 「 人生というものは、非常に不思議なものです。生と死というのは、一瞬のことです。
   ある時、一匹の小さい虫が這い上って来たのを見ました。
   彼は足を動かして、その虫を踏み潰そうとしたのです。
   その小虫は、すぐさま動かなくなりました。 」と言ったのです。
 彼はたった15才になったばかりなのに、死ということは、どんな事なのかということを考えはじめていたのです。
 共和国よ、覚えておいて下さい、はっきりと覚えておいて下さい。これは共和国の為めに奮闘している子供たちなのです。(泣き声で、言葉にならない)

 おそらく早朝の2時か3時頃のこと。指揮部は、記念碑の下の放送センターを放棄せざるをえなくなり、上のもう一つの放送センターまで撤退して、全体を指揮しなくては、ならなくなりました。
 私は総指揮として、指揮部の学生たちと記念碑の周囲を取り囲み、学生たちの情況を見ながら、学生たちに対して、最後の動員をしました。
 学生たちは、黙々として地面に座っていました。彼らは
 「 私たちは、じっとして座っていよう。私たちのこの第一列は、一番確固として揺ぎのないものなのだ。」と言いました。
 私たちの後ろの学生たちも
 「 同じように、じっとして座っていよう。先頭の学生たちが殺されようと、敲かれようと、何も怖れることはない。私たちは静かに座っていよう。私たちは動か  ない。私たちは、絶対に人を殺すようなことは、ありえない」と言うのです。


 




私はみんなに少しばかりの話をしました。
 「 ある古い物語があります。恐らく、みんな知っておる事でしょう。一群の蟻、おそらく11億の蟻(注、中国大陸の人口は、いま11億を少し越している)がいました。
 ある日、山の上で火事が起きました。山上の蟻は、山を降りなくては、全家族を救うことができないのです。
 その時、これらの蟻たちは、一かたまり、一かたまりとなって、山を転り降りて行きました。外側にいた蟻は、焼け死んでしまいました。
 しかし、それよりも、もっと沢山の蟻たちは、生きながらえることが、できたのです。

   学生のみなさん、私たちは広場に居ます。
   私たちは、すでにこの民族の一番外側に立っています。
   私たちはいま、一人一人の血液は、私たちの犠牲によってこそ、はじめてこの共和国が、よみがえる事と取り換えることが、できるのだということを、みんな知っているからなのです」(泣き声で、言葉が途切れる)と語りました。

 学生たちは、インターナショナルを歌いはじめました。一回、そしてまた一回と歌いながら、彼らは、手と手を堅く握りあっていました。
 最後に、四人の断食をしていた同胞の侯徳健、 暁波、周舵などは、もはや、どうにも我慢し切れなくなって、 
 「子供たちよ、お前たちは、もうこれ以上、犠牲となっては、いけない」
と言いました。
 しかし、一人一人の学生たちは、みな揺ぎなく、しっかりしていました。
 彼らは、軍を探して、談判をしに行ったのです。いわゆる戒厳令に責任をもっている指揮部の軍人に、談判して
 「 私たちは、広場を撤退します。但し、あなた方は、学生たちの安全と、平和裡に撤退するのを保証してくれることを希望します」と言いました。
 その時、指揮部では、多くの学生たちの意見を聞いてから、撤退するか、それとも残留するかを話しあいました。
 そして全学生を撤退させることを決定したのです。
 しかし、この時、この死刑執行人たちは、約束したことを守りもせず、学生たちが撤退しようとしていた時、鉄カブトをかぶり、手に機関銃を持った兵士たちは、すでに記念碑の三階まで追って来たのです。


 指揮部が、この撤退の決定を、みんなに未だ知らせないうちに、私たちが記念碑の上に備えつけた、ラッパは、すでに蜂の巣のように破壊されてしまったのです。
 「これは人民の記念碑だよ。人民英雄の記念碑だぞ」
と叫びながら、彼らは意外にも、記念碑に向って発砲してきたのです。
 大多数の学生たちは、撤退しました。
 私たちは、泣きながら撤退したのです。市民たちは、みな
 「泣いちゃ、いけない」と言いました。学生たちは
 「私たちは、再び帰って来るでしょう。これは人民の広場だからです」と言いました。(泣き声で、途絶える)

 しかし、私たちは、後で始めて知ったのでしたが、一部の学生たちは、この政府に対して、この軍隊に対して、なおも希望を抱いていたのです。
 彼らは最悪の場合でも、軍隊は、みんなを強制的に拉致するだけだと思っていたのです。
 彼らは、あまりにも疲れていたのです。
 まだテントの中で熟睡していた時、戦車はすでに彼らを肉餅のように引き殺してしまったのです。(激しく泣き出す)
 ある者は、学生たちは200人あまり死んだと云えます。
 またある者は、この広場では、すでに、4000人以上が死んだと言います。
 具体的な数字は、今もって私には解りません。
 しかし、あの広場の一番外側にいた労働者の自治会の人々は、血を浴びながら奮戦していたのでしたが、彼らは全部みな死んでしまったのです。
 彼らは最小限2~30人はいました。

 聞くところによると、学生たちの大部分が撤退している時、戦車や装甲車は、テント……衣服にガソリンをかけ、さらに学生たちの屍体を全部焼きました。その後、水で地面を洗い流し、広場には、一点の痕跡も残さないようにしたと云うのです】
・・・・




指導部も苦悩した。いずれ若者の唱える世界が訪れるだろう、しかし歴史に観る大陸人民の民癖が拙速に自由に似た放埓、民主に似たエゴが「利」に向かったら法も整備されていない現在、未曾有の混乱を超えて混沌(カオス)に陥ってしまう。「衣食足りて・・」に倣えば、法を司る官吏の技量は民度に順じる。
「もう少し待て・・」固陋な既得権を保持する高官さえ煩いとなっている状況を解決するまで私も雌伏している。そんな声が中南海の旧居から聴こえてくるようだった。







当時の北京の六月は抜けるような青空が名物だった。騒乱のさなか小学校では普通どおりの授業があった。たしか東大紛争でも居酒屋やマージャンが学生で溢れかえっていた。新宿ではナンパ学生が屯していた。そして社会に出て一日千円亭主となり食い扶持に汲々として女房に追い立てられる男子の姿があった。

現在十万人余の中国留学生が滞在している。その多くはあの事件のことを知らない。いや知らされていない。あの若者の尊い血はその後の東欧の共産主義を崩壊させる原動力となった。ルーマニアの大統領宮殿前の広場での青年の一言「人殺し! 」はチャウシスクを驚愕させ人々は群動し政権は脆くも倒れた。

あの騒乱のさなか気高き精神の行く末を憂慮しつつも、「日本は負ける・・」そんな直感が沸き起こったことを鮮明に記憶している。

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゛やりたいこと゛とはいうが・・・ 09 6/14 あの頃

2016-10-16 13:31:38 | Weblog

    
              北京、戒厳令下の小学校





(感想余話)

構内は緊張感があり、PCデスクトップはまちまちの色(中古品)だが完璧に清掃して、使用しないときは白い布をかぶせていた。休み時間は机の上を整理整頓して騒ぎ立てる子供は少ない。教師は合間をみて図書館で教授案の作成、校庭の体育では
整列しした子供達が印象的だった。
帰国後この状況を伝えると「共産主義だから・・」との声。
天安門の騒擾、大学生活の怠惰、それとは異なる小学校の姿があった。
問題があれば欧米に視察に出かける教官吏、文教族政治家がいるが足元を知らないようだ。何を見るか・・知識技術のレベルではない。どう人間を育てるかだ。



本論


゛するべきこと゛ではなく、゛ヤリタイこと゛の世界である。
ことさら文字の意味を解釈すべきとは思わないが、筆者の周りにはその、゛ヤリタイことをやりたい゛という音が多くなった。

内容は「思い通りに好き勝手に出来れば・・・」という空想に似た願望である。
よく人間を容量や秤に譬えたりして、゛器量がある゛とか、゛重みがある゛と評するが、そのヤリタイこともその容量によって大きく変化する。また容量が多いもの、例えば地位や権限とした場合はノーブレス・オブリュージュ(地位、役割に応じた行い)などという自意識や客観的観念で「枠」がつくられ、その「・好き勝手・・」が叶わない。

また、それらは「するべきこと」の客観的要求に晒され、余計にヤリタイことへの欲望に誘惑される。それゆえの四角四面の知識の鎧とまとっている御仁もいるが、そのせいか隠れた「陰徳」変じて巨悪に転化する者もいるようだ。

それらは人の表裏、あるいは立場においては現役のフォーマル、インフォーマルの部類だが、昨今は若者を含め定年を迎えた団塊と揶揄された世代にもその、゛ヤリタイこと゛がよく聴こえる。




                


             満州 新京にて



ある教員だが、この手の職業には多い夫婦ともども教員である。あの田中総理の肝いりで地方公務員の俸給に特別待遇を設けた彼等の立場に、数年前さらに土曜休校と研究日を加えて、国民からすればうらやましいとも嫉妬される教官吏の姿である。国大のせいか一ヶ月に五時間で75万とカラオケの間奏でマイクに漏れて話していたが、これも彼等のヤリタイ職業だったのだろう。意外と慇懃でかつ行儀が悪いという特殊な態度をするのもこの手の似非日本人である。

『定年だから好きなことをするぞ』と吼えていたが、
『カカアはまだ教員なのでオレは留守番と猫の世話でのんびり暮らす』これから・・・

よほど嫌な職業だったのか、相当鬱積している。
「好きだ愉しくなければ、覚えない」とは孔子の意だが、嫌でつまらない職業は高給取りの好待遇でも我慢ならないらしい。走狗に入る知識人の心底はことのほかすさんでいた。



            
          
    丸くなった積み木の整理整頓(節約)の身体習慣   弘前養生幼稚園




小学校の教頭で定年を迎えた教官吏だが、これも夫婦教員である。
くだんの、゛ヤリタイ゛ことだが、問答したことがある。
「ヤリタイことは厭きませんか? まだ60だし、健康であればアト20年以上ですよ」
『いままでヤリタイことはたくさんあったが、時間もなく・・』
「ところで、やるべきことは・・・」
『・・・・・』




              

  今でも使用している木製遊具  驚くべき管理保全の習慣性



               







実はこの問答にも伏線があった。
筆者が教職課程の学生に拙い講義の感想を所望したとき、一番多かったのは「ヤリタイことよりやるべき事を探すこと・・・」が印象的だったと、特に女性からの感想が多かった。

それは、昨今の教師を取り巻く職場の環境に管理者と教員との関係、モンスターペアレントといわれる親との関係、落ち着かない子供との関係、またそれを解消する為に生ずる自身の苦悩、一部ではそこからすすむ遊興、サラ金、と教師の実態など、教官吏であるがゆえの妙な、゛縛り゛の自意識と立場への要求を伝えた現実の姿としての講話であったためだろう。

ある千葉の小学校の教師がサラ金問題で訪ねてきたことがある。
当時でも三件の裁判を抱えていた。一つは耳元で注意したら耳に障害が出たとの裁判だ。
アメリカでもピカチャウという映像漫画で視覚、脳障害が出たと問題になったが、テレビにしがみ付くように近寄って大音量と映像変化をみたらおかしくなるが、ここの学校では裁判になり教育委員会、学校、教師は敗け慰謝料を払うことになった。




           

    野にして粗にして卑ならず  清潔簡素  津軽弘前



その判決のとき傍聴していた母親から
『これならウチも貰える・』とのヒソヒソ声があった。
軽鬱になった教師はパチンコと同じ教職にある女房の浪費もあってサラ金に手を出した。公務員、特に地方公務員はサラ金の上客である。高給であり収入は間違いない。しかも低金利での融資も審査も甘く受けられる彼等の職域制度もある。つまり過剰貸し込みが出来る相手である。たしか8社で500万以上という。

またこの組織は隠蔽を常とする。それは管理職で校長の管理度の査定もあるようだが、同僚とのつながりも希薄で、問題解決能力と自己意思決定が弛緩しているのが原因である。
つまり、それを補うべき当たり前の人間関係にある「人情」の欠落であろう。係数を追いかけ、相互不干渉、恣意的な寡黙、上司の隠蔽、上部組織の無責任、自らもその思考に染まり、都合よい安住に暮らすことを生活の守りと錯覚する教官吏がことのほか多い。

しかも、健全育成、子供の成長と安全という美名に飾られ、まさに堕落の坂を錯覚した知識人像を掲げて国家の先頭に立ち転げ落ちているようだ。
もちろん『ウチも貰える・・』とほざく戦後婦女子の道義的な教養も、たとえ消費市場の競争と収穫、あるいは比較生活の慣性を、゛幸せ゛と馴らされてきたとしても、その風潮に問題意識を起こす思索や観照もなくなった姿が後押ししているといって過言ではない。




              

          バングラデッシュ  子供新聞発刊式




数十年前のことただが、ある私立高校では公私格差是正の恩典?なのか、憲法にも明記されている私組織にたいする公金拠出(私学助成をふくむ)や文教族議員との関係か、または箱物学校や流行カルチャー課程を売り物にした学校が多くなった頃、門前には教師のマイカーが競うように並べられるようになった。

もちろん時間の空いているときは車磨きであるが、いまどきのパソコン遊びと同様な状態であった。私教組のガンバリで待遇は改善されたが修学旅行を委託された旅行者から下見旅行の招待や、教科書会社から教科書に掲載されている書家や画家の小作品を販促として頂戴したり、運動具屋からは試供と称して当時流行ったブランと衣料をせしめる教員も増えてきた。

この頃の流行は地方の景勝地に研修所、宿泊施設など建てる学校が多くなり、物販、建設には地元選出の文教族が蠢いて、もちろん入試に下駄を履かせることも日常のこととなった。



                




『生徒はお客さんですので、あまり厳しいことは・・』
筆者が講義を依頼されたある有名大学でのことである。
理科系や文科系の修度の国別比較が官制学の競争範囲ではあるが、現在の教育制度は現世の繁栄と成長の基礎的条件といわれながら、裏側にあっては表層の成果を侵食し、かつ未来に残置され忌まわしい状態がある。

今年、北京や台北、タイの小学校の体験や、畏友のバングラデッシュの小学校の実態を聴いて再度、隣国桂林の施設を訪問する。
きっと、あの弘前の養生幼稚園を想い見るに違いない。

訪問の目的は、現在の収穫の基準となった官制学校歴の部分範囲の学問ではなく、永きにわたる人間の連続性(栄枯盛衰の歴史とも)に培われた生き方に観るような、人の成長に遵ったな方法や人物の配置活用について現世価値の座標から離れて、切り口の異なる観察をもう一度してみたいと思うからである。




               

   後段三行は今の時節には男子にとって必須の心根であろう




倣う、教える、遵う、を精神的、身体的にも成長過程の必須な問題を、人に習う前提として自然的尊敬もなしに、習わせる、教示する、従うといった捉え方は応答修得の関係に齟齬をきたすだろう。いくら労働者、食い扶持、教官吏と都合よくレッテルを変えても、あくまで人間としての長幼に置かれた場合は、人の師で在るべきだろう。対するに「経師」があるが、教科書を説明するだけの人である。
「教育とは魂の継承である」と師は繰り返していた。
遵う・・・(道理にしたがう)

縁ある生徒に説く「ヤリタイことより、やるべき事」の探求は、自らに課せられた命題でもあるようだ。

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アジアンセキュリティー?への理解 09 4/13 あの頃…

2016-10-14 09:44:59 | Weblog




理が合う「合理」と無限大の「無理」

いい加減、曖昧さ、とは今どきの合理主義との問題だが、規格化されて誰にでも納得する事柄は表層の納得事項については、ごく整合性のあるものとはなるが、異民族との関係における普遍性のある内面活性ともなる色、食、財の欲望の共通意識においては、表層をなぞるようで何とも的を得ない。

つまり、あるときは滅亡や死を共有し、かつ功利性において互いの欲を忖度して交換すら行うような、相互理解を読み解けない浅薄な人間関係しか構成できず、民族観すら読み解けず国家間において齟齬を起こし、その軋轢が戦争すら誘引してしまうことがある。

よく中国人は面子を重んじ、時として過剰反応を示し、日本人は四角四面で融通がきかない、歴史上柵封された朝鮮民族は好悪が烈しく激情する、など夫々が民族側面の特異について語られるときがある。民族性癖の表裏はときとして特性の優劣を問わず対象との、相性によって大まかな歴史として刻み込まれている。

゛どうしてだ゛と問われてもアカデミックな分析評価では納得した答えは導けないものであり、敢えてこじつけても無理を生ずるものである。また、そうそう明確には語ることも憚れているが、漏れ語られるからこそ土壇場には重要な部分にはなるのだろう。








満州崩壊の留置場での佐藤慎一郎氏の回顧としてではあるが、毎朝意味もなく朝鮮人を引き出して漢人がいたぶっていた。何故だか解らないが今どきの「虐め」のようなもので、同色民族での異質性や素朴に刷り込まれた看守の民族慣性の行為だったのだろう。普通は侵略者、支配者、偽満州官吏といわれた日本人がそうされると思うのだが、逆に引き上げ家族に「子供を置いていけ・・」と多くの日本人家族が促されている。混乱期の引き上げで多くの子供が中国人によって命が助けられ、自身の子供より大切に育てられた事実は肉親の情を超えた理屈のない、ある種の良質なバーバリズムにある素朴で純情な選択とも思えてくる。

趣は異なる余談として在日朝鮮の古老の呟きだが、いっとき我が国の好色男子に流行ったキーセンパーティで妓女を世話する俗称 ゛やりて女将゛は「日本人の種をもらえ」と、現地の男子より優先して日本人に世話をしていた。古老もあきれた口調だったが恐ろしきは巣を宿す女性の感覚である。

「この子は日本人だ」と自慢すらされた。これも語るに憚れる話だが在日の中国人の多くに聞くと嫌いな民族は「大鼻」と呼ぶロシア人、次に朝鮮、『日本人ではないのか・・』との問に「いゃ、日本人は中国人に合うし嫌いではない」と応える。面前にした応答だけだとは思えなかった。今とは違い、日本人はおとなしいとも思えるが、当時は従順で異なるものとの調和心があり勤勉だった。何よりも維新とロシア戦勝、真珠湾とアジア有色の先覚の歴史があったことも影響している。それは優しさと厳しさと怖さでもあろう。

一口に中国といっても多くは言葉の通じない人々だ。吉林と上海では通じない。共通語は北京語だ。一昔前は薩摩と津軽ではチンプンカンプン、共通言葉は謡曲にある「各々方(おのおのがた)」、やはり難儀した。

もちろん好き嫌いもあれば反目もあるが、参勤交代、伊勢参り、公家落ち、国替えなどが機能してどうにか調和を構成していた。東アジアでも国家を構成しているなかで些細な齟齬が大なり小なりある。とくに古代より出たり入ったりしていると刷り込まれたように滞留している民族感情がある。ことさら近代史のなかでの国家間の問題を問うまでもなく、偶然にも、あるいは必然的事情によって棲み別けられた人々の情緒から読み解かれる部分について興味ある応答を紹介したい。










趣を変えてあるテクノクラートに聴いてみた。

『アジアも植民地であったが、在日米軍があるのはおかしいと思わんか』

「日米安保も沖縄米軍も有ったほうがいい。無くなったらまた日本が軍事国家になる心配がある」

『中国の軍事力は増大しているが・・・』

「中国は幾ら強くても真珠湾はやらない。義には見習うべきものもあるが、実利がないものはやらないし、中国人には出来ない。政府は常に軍を背景にして成り立っている。革命当時もそうだが外国に対するものではなく、国内の談笑している仲間にするものだ。おかしな話だが軍の力は武力と金を産む組織だ。それぞれの軍区は貿易会社もあれば武器製造もしているしミサイルも夫々飛ばしている。昔は軍閥があり中央政府が出来たころは功名を競い、いまは経済の重要部分まで浸透している強大な軍に政府も配慮している。ここでも面子が重要な意味をもってくる」


『でも、中国と日本が拘りなく仲良くなって協力したらもっと良くなると・・』

「問題があるからこそ彼等(欧米)にはチャンスがある。資金も技術も人も入ってくる」

『手段、方法は違うがうし、財も職も人も普遍的な欲望だとは判るが、国家としては・・』

「その繰り返しだということも分かっている。でも信じられるのは身近な人情と金だけのようだ。中国と一概に言われても何も解らない。それは中国人といわれても何を指しても当てはまるし、当てはまらないことでもある」

『白髪三千丈とはいうが、蛙が空気を吸って身体を膨らまして破裂した俗諺があるが、膨らますエネルギーと、破裂を抑えるエネルギーはイコールゼロになるが・・・』

「商売は生活でもあり、戯れでもあり愉しみだ。財が幾らあっても余計に落ち着かないし、不安だ。大陸とアメリカと日本に三分割して、縁者は欧米の永住権を取らせているものもいる。もともと国家観はない。ばらばらで砂のような民を湿らして手に乗せる潤いは狭い範囲の人情と財だ。それを前提としての信用だ」











『人にも国家にも面子があるあるが・・』

「面子はたて合うものだ。その前に相手の面子を知ることだ。ぶつからず避ければいい。面子を聴こうとしても話すものではない。解かれば同じ物を食べて飲むだけだ。いまは説明しなければ判らない日本人が増えた、いや説明しても判らないようだ」

『欧米人と似て利のサイクルが早い』

「皆、上を見て様子を伺っている。いつでも、どこへでも行ける様にではあるが、商売は人を信じて出来ない。時と場所で実利を追うものだ。理想や空想は嘘のようなもの、悪党でも力のある者は善にもなる。これが力の論理だ。その意味では世界一自由な民族だ」

『実利が優先するのか』

「もちろんだ。偽満州の日本人官吏は賄賂も取らず清廉なことが多かった。たしかに懐かしくもなるが、下っ端には賄賂が流れてこない。これには参った。北京に進駐した日本軍にはみな面従腹背だった。或る将校が北京市内に百箇所の井戸を掘った。それでみんな落ち着いた。日本人を人間としてみた。実利優先のようだが一番人情を理解できるのも中国人だ」











『今の日本は・・』

「民衆が騒いでいないので良いと思っているのか、何ともいえないが、真の自由は中国人のほうがある。あの明治維新の頃は日本人も柔軟で目標があり、アジアの憧れだった。義理も人情もうらやましい。もっとも中国の良い文化が残っているのも日本だ。アメリカは強いかもしれないが日本は上手くやっている。中国はいくら軍備を大きくしても不安を抱え続ける民族だ。日本にアメリカ軍が居る内は安心している。可笑しいかもしれないがそれが中国だ。強いアメリカに逆らっても損するだけだ。だが入ってきたら同化する。元も清も溶けて同化した。誰でも色と食べ物と金は欲しい。中国は全部ある。みな誘われる」

「強ければぶつからず逃げれば良い、弱くなったら戻れば良い。土地まで持っていけまい。皇帝は舟で民衆は水だ。静かにしてれば浮かべるが、水が怒れば転覆する。でも泥水でも一生そこにと留まるし、渓流が小川になり大海になる。きれいな水も泥水も黙って受け入れる。そして国家を超えて天下、天と地の間に生きる。四角四面な歴史はともかく人は滅びない」

『国家は滅んでも人は滅びない。支配者の旗が代わるだけか・・・』

「身体でも硬いところから弱くなる。腰や膝も痛くなる。頭の固い人もそうだ(笑い)。でも柔らかい部分は衰えない。口と舌だ。政治も国も人から離れたり、人も自然から離れたら衰亡する。学歴の無い学習だ。学校へ行くと何かがなくなる。それが裁判官や政治家になったら国家も固くなる。衰える。日本人も中国人が好きなところがなくなりかけている。

日本人の善いところを思い出してくれるだけでいい。面子争いは戯れだ。仲良くなったら困る人もいる。その生き方ではあるが善なる規範を説く孔子も孟子もいるが、自然に生きる老子もいる。色々な主義を持ってきたり、入ってきたりしているが方便として慣れることが必要だ」

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男子の至誠、それは不特定多数への貢献かと 08 06/26 再

2016-10-12 11:16:21 | Weblog


国会図書館蔵   横井小南


その吟詠は明治天皇の感涙をよび、ながく侍講を務めた元田永孚は天皇の諭しの言葉を「聖諭記」として綴り、教育勅語の端緒となっている。

また、幕末の思想家で多くの志士に影響を与えた横井小南の言葉を筆録している。

我、誠意を尽くし、道理を明らかにして言わんのみ。聞くと聞かざるとは人に在り。また何ぞ人の聞かざることを知らん。予め計って言わざれば、その人を失う。言う聞かざるを強く是を強うるは、我が言を失うなり


《小南は至誠と道理のあるところを、先ず示すことが自分の行為であり、相手が聞くか聞かないかを案じたり、あるいは結果を想定して言わないのは、その人を失ってしまう。強引に聞かせようとすると言う事が無駄になってしまう。相手がどのように聞こうと、先ずは言を発しなければならない》という事です。

また、何故このように強烈な意志を発するのか・・・こう言っています。

将来のことを考える場合に、成るか成らないか(可能性)は解らないが、自分は唯正直に生きて、世の中の惰性や流行ごと、あるいは力ある者に阿ず、信念を確立しておけば後世の子々孫々に残るものだ。その外に行なうことはない》

食い扶持や家族環境に誠心誠意尽くすことは大切なことだ。それを捨て去って、或いは儘成らぬ嫌気が差して、逃避行動のように国家だの大義だの、似非政治論議が蔓延っているが、小南の至誠は不特定多数への貢献に透徹した未来像がある。

彼の時代は迫り来る西欧植民地主義への危機感と、それを鏡として、かつ自国への考察として、怠惰に陥った武士役人世界の革新にあった。
これは、古い、新しい、問題ではない。

その機会に臨んだ人間の処し方の問題である。

果たして、゛自身はどうか゛と筆者も常に考えている。
至誠の在り処と、それを不特定に活かす突破力と、その行く末だ。
無名の庶民がこんなことを考えなくてはならないほど、現代の政治は国民にそれを強いている。たしか与謝野晶子もそんな憂いを記している。
総評論家もその因だろう。

                         

         本田さんの突破力と将来観は横井と同様な気概がある

 

古代理想にある尭舜の時代の様に、庶民が経済や政治を語らずとも社会は太平に治まったように、あの時も庶民は天下の主(あるじ)であり、自由があった。
そして、「上善、水の如く」にある、水のように生きることを最善とした。そして庶民は「水」、皇帝は「舟」に譬え、庶民は皇帝を支え、一端怒れば舟を転覆させる、そんな共助と剛直さ、かつ柔軟さを持っていた。

水は、雨、渓流となり、小川となって大河になり、万物を潤おし、清水も濁水を受け入れ混じり、一生そこに留まることもある。それは大海となり舟を浮かべ、天と一緒に暴となり転覆もさせる。

この生き方を最善の方法として生き、皇帝もそれに随った。そんな理想のような時代があったと伝えられている。中国人が抱いている民主とはそのような理想を残像に抱えているのだろう。ただ、「邪魔をしないでくれ」、色にも染まるし、言うことも聞く、と。それでこそ為政者は立場の、゛面子゛を守護するのだろう。

冒頭に戻るが、我国はその政体ではない。権力を宰相に委ね、徳威をもって「所有しない」ことを矩として、「無用の用」の意に類した「無限の有力」を継続していた。

その継続した「無限の有力」は、我国の歴史の残像にある改新、改革、維新の期に威力を発揮してきた。小南の時代は当にその期だった。

外因、内因の有ることも知らず、また武士官吏に成り下がった権力機構から忘れ去られた「無限の有力」の在処を問い、あるべき国の方向の基礎的条件を説いたのである。つまり、聞こうが聞くまいが確信とした国の姿を古代からの歴史的経過に必然として存在する「無限の有力」を活かすことを当然の言葉として発しているのである。

現在、権力を構成する政治、経済、教育、宗教、は其の力を変質させ糜爛させている。それはく社会の理想像をオボロゲニさせ、国民の寄り付くものを融解させ、呆然とした国民は怨嗟のあてどころもなく自失の状態である。

さて、聞くも聞かないも、気にも掛けない事柄を、歴史の残像に随って再度「無限の有力」の威を考えなくてはならないだろう。もちろん、無駄になろうと、人を失おうと、「お前は生煮えの飯のようだ」と言われないよう不特定多数に問いかけるつもりだ。

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日本人はどこに  08 1/02 再

2016-10-11 14:09:25 | Weblog

 
【請孫文再来】寶田時雄著 より  (kindle版著名 天下為公)

≪日本人はどこに・・≫

 山田純三郎はことごとく曲解され,命まで狙われた純三郎の心には、そんな肉体的衝撃の危機にも増して,孫文に付き従い恵州で捕らえられ「日本人」だと告げれば死を免れたが、あくまで「支那人だ」と言い張り斬首された兄,良政の意志を、孫文に共鳴する独りの日本人の志操というだけではなく、独立した真の日本人としての矜持をもってアジアの将来に献じたものだと映っている。

 孫文は革命に殉死した兄・良政の志操を懐かしみ、終生、弟・純三郎を側近において、ときには叱り、あるときは激励して共に歓喜した孫文は、純三郎にとって革命の指導者であり、人生の師であり慈父のような存在であった。

 それゆえ、国際人となった純三郎なりの先見の推考で提言しても、日本に受け入れられないもどかしさは、とりもなおさず日本の衰亡への道筋でもあった。身を賭した諌言が国賊として身を襲撃にさらさなければならないとしても、あるいは国策の遂行やアジア解放の大義だとしても、山田にとって日本の将来起こりくるだろう惨禍の予測は無念となって重なった。
 “ 聞く耳持たず”とはこのようなことを言うのだろう。

 佐藤は慚愧の気持ちをこめて資料をひもといた。それは伯父、純三郎と同様な見解をもつ孫文と鶴見祐輔の会見録である。
 大正12年2月21日、第三次広東政府の大総統に就任した直後の会談で鶴見はこう切り出した。

「あなたが現在、支那においてやろうとしているプログラムはなんですか

 孫文らしい駆け引きのみじんもない言葉で
60年前のあなたの国の歴史を振り返って御覧になればいい。王政維新の歴史。それをわたしたちが、今この支那で成就させようとしているのです。日本さえ邪魔しなければ支那の革命はとうの昔に完成していたのです… 。過去20年の対支那外交はことごとく失敗でした。日本はつねに支那の発展と、東洋の進運を邪魔するような外交政策を執っていたのです」

「それでは、日本はどうすれば良いとおっしゃるのですか」

 孫文は毅然として
北京から撤去しなさい。日本の公使を北京から召喚しなさい。北京政府を支那の中央政府(袁世凱)と認めるような、ばかげた(没理)ことをおやめなさい。北京政府は不正統な、そして、なんら実力のない政府です。それを日本が認めて、支那政府であるとして公使を送るというごときは明らかに支那に対する侮辱です。一刻も早く公使を撤退しなさい。そうすれば支那政府は腐った樹のように倒れてしまうのです

 鶴見は問う。
「日本が他の列強と協調せずに、単独に撤退せよと、あなたはおっしゃるのですか」

そのとおり、なんの遠慮がいりましょう。いったい、日本は列強の意向を迎えすぎる。そのように列強の政策に追従しすぎるので、惜しいことに東洋の盟主としての地位を放棄しつつあるのです。
私は日本の20年来の失敗外交のために辛酸をなめ尽くした。それにもかかわらず、私は一度も日本を捨てたことがない。それはなぜか、日本を愛するからです。 私の亡命時代、私をかばってくれた日本人に感謝します」
「また東洋の擁護者として日本を必要とする。それなのに日本は自分の責任と地位を自覚していないのです。自分がもし日本を愛していないものならば、日本を倒すことは簡単です…」
 (アメリカと組んでやったら日本を撃破することは易易たるものだ…と述べたうえで)

私が日本の政策を憤りながらも、その方策に出ないのは、私は日本を愛するからです。私は日本を滅ぼすに忍びない。また、私はあくまで日本をもって東洋民族の盟主としようとする宿願を捨てることができないのです」

「しかしながら、打ち続く日本外交の失敗は、私をして最近、望みを日本に絶たしめたため支那の依るべき国は日本ではなくロシアであることを知ったのです

 日本の対支那外交について問う
「それでは、あなたは日本が対支那外交において絶対不干渉の立場をとれば支那は統一されるとお考えになるのですか」

それは必ず統一できます

                  

                     桂林

「しかし、その統一の可能性の証拠はどこにあるのでしょう」

 堰を切ったように孫文は意志を表明する
その証拠はここにある。かく申す拙者(自分)です。 支那の混乱の原因はどこにあるか。みなこの私です。満州朝廷の威勢を恐れて天下何人も義を唱えなかったときに、敢然として革命を提唱したのは誰ですか。我輩です。袁世凱が全盛の日に第二革命の烽火を挙げたのは誰ですか。我輩です

第三革命、第四革命、あらゆる支那の革命は我輩と終始している。しかも我輩はいまだ一回も革命に成功していない。なぜですか。外国の干渉です。ことに日本の干渉です。外国は挙って我輩の努力に反対した。ところが一人の孫文をいかんともすることができなかったではないですか」

「それは我輩が真に支那の民衆の意向を代表しているからなのです。だから日本が絶対不干渉の態度をとるならば支那は必ず統一されます…」

「あなたが日本に帰られたら、日本の青年に伝えてください。日本民族は自分の位置を自覚しなければいけない。日本は黄金のような好機会を逃してしまった。今後、逃してはならない」

それは日露戦争の勝利です。あの戦争のときの東洋民族全体の狂喜歓喜を、あなたは知っていますか。私は船で紅海をぬけてポートサイドに着きました。そのときロシアの負傷兵が船で通りかかりました。それを見てエジプト人、トルコ人、ペルシャ人たちがどんなに狂喜したことか

そして日本人に似ている私をつかまえて感極まって泣かんばかりでした。 “日本はロシアを打ち負かした。東洋人が西洋人を破った”。そう叫んで彼らは喜んだのです。日本の勝利はアジアの誇りだったのです。日本は一躍にして精神的にアジアの盟主となったのです。彼らは日本を覇王として東洋民族の復興ができると思ったのです

ところが、その後の日本の態度はどうだったのでしょう。あれほど慕った東洋民族の力になったでしょうか。いや、われわれ東洋人の相手になってくれたでしょうか。日本は、やれ日英同盟だ、日米協商だと、西洋の強国とだけ交わりを結んで、ついぞ東洋人の力になってくれなかったじゃないですか…」

「しかし、私たちはまだ日本に望みを絶ってはいない。ロシアと同盟することよりも、日本を盟主として東洋民族の復興を図ることが私たちの望みなのです。日本よ、西洋の友達にかぶれてはいけない。東洋の古い友達のほうに帰って来てください。北京政府援助の政策を捨てなさい。西洋かぶれの侵略主義を捨てなさい。そして満州から撤退し、虚心坦懐な心で東洋人の保護者になってください」

東洋民族の保護者として、自分たちは日本を必要としている。そして今、自分たち同志が計画しているように“東亜総連盟”は日本を盟主として完成するのです。それには日本が従来の謬った侵略政策を、ことに誤った対支那政策を捨てなければなりません。それまでは、いかなる対支那政策も支那人の感謝をかち得ることはできないでしょう。支那人は深い疑いの念をもって日本を眺め続けるでしょう」

 だまされ、裏切られても信じられた日本および日本人は、はたしてどのような日本人を指しているのでしょうか。しかも遠大な志操のもと鶴見に託した“日本の青年に継ぐ”言葉の意味は、現代でも当てはまるような国家としての「分」の教訓でもある。

 苦難の中で自らの「分」を知り、その「分」によって自己を確立させ、暗雲が覆うアジアに一人決然として起こった孫文の意志は、まさにアジアの慈父といえる悠久の存在でもある。




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バラック・オバマさんの眸   2008 11/6稿  あの頃

2016-10-10 08:04:38 | Weblog

2008 11/6に拙い章を本ブログで掲載した

昨日の連載ブログ「時節は儒を除けて墨を得る」は隔日として当稿を再掲載する

昨日のは、表現力の稚拙なためか文体整理もおぼつかなく意を連ねた。

拙い意としては、どの様な思想、宗教でも人物如何でその後が決まり、利用する者の栄枯盛衰もそこに帰すと思うからだ

一方、(学術的)に、とくに西洋合理主義を借用した我が国の官制学校制度とその修度(学校歴)価値は、それを学だとして求めるものの目的習性となり、ときに時節に対応できず、その形式修度を隠し屏風のように援用した政治。経済、宗教、教育等の分野に共通した問題を滞留させている。それは人間(人物)の問題である。
たかだか西欧近代化の模倣とした前記の数値選別価値は、その人間の分野にある意志や矜持と云った部分を体系化、分析、検証に基づくアカデミックな理解に落とし込むことで、より浸透するような理解から遠ざけているようだ。

ここで再掲載する「バラック・オバマさんの眸」は、分析した説明ではなく、かつ現代の通例としているアカデミックな考察価値を離れ、それらの人々からの納得性から忌避されるであろう、体験的感性と一過性の熱狂や偏見から離れた見方である。

ことさら氏の就任時に観察した拙い稿を再び掲載することで、現在のオバマシ氏の煩悶にみえる状況を予想したとの野暮な提示ではない。適うなら「時節は儒を除けて墨を得る」に関する拙い表現の補いとして参照していただければ、当時の備忘録が活きてくると考えることであり、過去の事象を有効的に積層する歴史の学びになるであろうと、ここに再掲載するものです。
 



以下、2008 11/6稿

゛目は口ほどにモノを言い゛昔の人は良く言い当てている。
なるほど、喜怒哀楽に表わす歓喜、怒り、悲しみ、あるいは悠々とした心は表情、とくに目と音声に表れる。

どうも目と音声は連動しているようで、「口角、泡を飛ばし眼は吊り上り・・」「声はわななき涙がほとばしる」「眸は中空を舞い、言葉はか細く・・・」など、多様な表現があるが、とくに昨今の政治家に必須?なパフォーマンス、つまり演ずる戯れのなかにも音声と目は単に顔面の部位の効果に留まらず、まるで意志表現の如く姿をみせつけている。

以前、気配り宰相とあだ名の付いた御仁は確かに目をキョロキョロして落ち着きが無かった。言語も明瞭、意味不明といわれていた。

ことに眼力に見る透明感は、己の秘奥から対象裏面の遠方まで見抜くかのような透徹した意志を含ませている。類似する眼として孫文、南方熊楠、児玉源太郎、東郷平八郎に見るマナコは世俗の欲心と離れた、ある意味では大欲を感じさせる。また共通していることは精神の鎮まりが、沈着冷静、義挙突破力、独自の智恵、あるいは洒脱な頓智に至る許容力と、責を我に受け止める許容があった。



           
               南方熊楠


                  

               孫文

            
               児玉源太郎

大欲から生ずる大業への使命感は彼等の墨跡にも表れている。
例えば大身のどんぐりマナコだった山岡鉄舟

「私することを忍び、以て大業を行なう」と揮毫している。

大西郷
もそうだ。彼は「敬天愛人」(天を敬い、人を愛す)と、自らの小欲を打ち払うことを行動を通じて精励している。

孫文は「天下為公」、熊楠は東西文化の融合を意図して曼荼羅世界を求めている。
かれらは民族国家に囚われない普遍的な基軸を様々な方法で表現した。革命、研究、戦火、義挙、あるいは維新を体現して、人々に、゛人とは゛゛国家とは゛を問い、行動を喚起している。

『イエス・ウイ・キャン』そして『チェンジ』とオバマ候補は絶叫した。

天邪鬼だが気になることがある。
眼と口の調和が取れていないことだ。

とくに冒頭に記したが、眼の動き、つまり意志と言葉の齟齬が観える。

それは権力と能力との関係に大きな因子となる、「時」のスピードとその刻み方、もしくはうつろいと戸惑いに表れる先見、それと同時に将来と現在を調和させ効あるものとする逆賭の考察が鎮まりの中の決断として可能かどうかの不安である。

口が発する夢や政策は熱狂が過ぎ去った後に人々の心に問えば、異なる観照に晒されるだろう。また我国の陣笠代議士が経年総理となって始めて感ずる宰相の責と孤独、それは閑居に感ずる孤独と重圧であろう。

余談だが、佐藤栄作総理はしばしば皇居に参内している。
普段は猟官、利権に囲まれて一心の安らぎすらない権力の任において、いっときの参内は心落ち着くものであり、顔相すら変化したという。佐藤総理は世俗宗教や走狗に入る知識人の言には到底及ばぬ境地に安心をみたのだろう。

翻って、米国でも宗教団体が支持勢力として彼を取り巻き、何れ我国同様に政策を狭めるだろう。それらの説く神の一面には、現世利益が大義というフレーズを整えて押し寄せるだろう。はたまた、あのセオドア・ルーズベルトでさえひれ伏したJPモルガンのような金融資本家が国家の懐を枯渇させるかもしれない。
これからは内なる戦いが待っているだろう

だが多くの為政者は内なる戦いを隠蔽して、外部の敵を模索し、宗教、資源、環境をフレーズに多くの戦いを自由競争の名の下に繰り広げてきた。
先ずは「内」に留まれるか。つぎはウイ・キャン忍耐と人の覚醒と新たな成功価値の創造だろう。

ムービーヒーローならぬ、テレビヒーローのような米国の大統領選挙は、スポーツ競技に熱中する国民の贔屓に似て、票や資金の数字確保が目の前のボードに映し出されることに一喜一憂する国民の正負ならぬ勝負意識を喚起して、よりその熱狂の度合いを高め、候補者は耳障りの良いフレーズと音量の変化でそのライブを盛り上げている。

音声は知性を表すと古人は説く。
また「知は大偽を生ず」(知識は往々にして自らを偽り、他に同ぜしむ)と、云う。
そして「小人は利に集い、利薄ければ散ず」と同調者の移ろいを読む。



いまどき隣国の古典を引き、駄論を理屈づけ、高邁にも米国大統領を語ろうと、それは引かれものの無名の凡人の洒落にもならない。むしろ野暮だろう。

ただ、兜の緒を締めるつもりで諫意を呈上したい。

【直にして礼無くば、則ち絞なり】

それは我国をはじめとする万国の権力負託者にも共通していることだ。








2014 10/4 追加章

直にして礼無くば、則ち絞なり

いくら時節に良いと思う政策でも、他(他民族、他国)との礼(礼とは他に譲る心 調和心)が無くては、いずれ己の身(自身、自国)の自由行動を絞めるようになる。とくに力のあるもの、威を恃む者が陥りやすい自ずから(否応なしに誘引する)の摂理だろう。
ここに、意地やメンツがからむと戦争になる。多くは臨機に起きる人間の問題でもある。


ときには豪雨のように降り注ぐ数多の情報を除けて、上記のような切り口で時の政権を見ることも必要です。

我が国に置き換えれば
予想屋的予見ではなく、安倍氏の責に堪えない状況が招来し、ときに転げ落ちるように事態は急変する。それは数多の大衆の欲望の因ではなく、自身に内在する感覚慣性によるものだ。循環性に遵った(道理)考察によるものだが、援けるのは深層の国力を支える部分に鎮まりを以て臨む「下座観」と、大内山の威を存在なさしめる「忠恕」の心の涵養が望まれる。

何よりも情報対応だけでなく、それを援ける人間の「観人則」が基となる

よって内外は信を基とした安定を取り戻すであろう、


イメージは関係サイトより転載

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「宮内庁ごとき」と吠える、モノ書きの浮俗事情 08 7/30 あの頃

2016-10-04 15:03:51 | Weblog

           東京市長 後藤新平に尋ねたい

 

やはりあの時の判断は明察だった。

浮俗の祀り(まつり)ならぬ、地球のドサ回り祭りの呼び屋の助っ人につかわれることに、斬然として拒っついる。まさに都政のゴタゴタを見事に推考している。また、その元にある利得権の争乱を逆睹した英明な判断でもあろう。

逆     睹………将来起きることを想定して事前に手をうつ                      

 


ある時は靖国神社参拝を請い、今度はオリンピック興行の誘致運動に国の結び目としての皇室にその助力を請う。しかし「ご遠慮」の意が宮内庁職員から伝わると、先の放言が発せられた。

それぞれ遠まわしにも、伝わるように要請しているが、正式に「ハレ」の場面においては要請してはいない。つまり「ケ」から「ハレ」の分別もなくモノを言い、「ハレ」も「ケ」を忖度配慮して「ご遠慮」しているものを「ごとき・・」とは、釈然としないものがある。

「ハレ」の威もあれば、譲り合う「ケ」の美徳もあるだろう。その調和を掌る礼には、その域内の陋規として「ハレ」に晴着を用いて、辞するときは「なおらい」が礼としてあることをこの国の人々なら、教えずとも倣い継いでいる。

それとも、万能な権力者として、あるいは秘奥なる威厳をコケオドシの用とし、かつ国家の繁栄を大義としてお出まし願おうとしたのだろうか・・・

ことさら皇室を補佐する宮内庁に愛着のようなものがある訳ではないが、モノ書きの物言いは同胞として理解に苦しむものであり、慎むべき精神が欲しい。

反対に「都知事ごときが・・・・」と、発言したら、民主主義を大上段に振り上げて天皇の君奸などと言いかねない軽さがある。カジノに尖閣に五輪、まことに騒がしい。


戦前の木戸内大臣のような振る舞いを見るようで、一方では政治が皇室を利用するという危惧があるが、それこそ、「政治家ごとき」と言われようと、凛として反駁するような人物も見当たらないのが今時の選良の姿だろう。

 

          



ことは「皇太子なり、天皇なりにその威をオリンピックに助力を・・」ということだろうが、以前にもモノ書きは商業ミスコミの元老院と期を同じくして天皇のお出ましを哀願している。今回はモノ書きの不埒な放言だが、「宮内庁ごとき・・」の言にあるものは、まさに「其の心底見たり」である。

就任時の都庁カジノから始まって森伊蔵の空箱に親子それぞれ一千万のお土産など高慢な行動がマスコミを騒がしたが、゛これぐらいは有るだろう゛と、モノ書きの珍しくも寡黙な姿にそれを忖度し、庶民は三文舞台の台詞回しを見るようで、其れはソレデ楽しめたものだ。

ともあれ威勢のいい時と、調子の合わないときの機嫌悪さといったら、このところ弱気な日本男子には頼れる男気とでも理解したのだろうが、明治人の気概から観たら、鹿鳴館の似合わん仮装までして先進国サロンに入りたがったのが、戦争に負けた後は、跳ねたり、駆けたり、水に潜ったりする西洋の運動興行を大枚かけて招いているように映るだろう。

だが、あの当時の勢いは日本人に異なるものを与えたようだ。
いまも「景気効用と日本人に元気を興す」ことがスローガンだが、モノ書きの情緒、いや情緒性を涵養する環境、風土について、いかに成功価値の変質と、其れに伴う諸般の煩雑な出来事について「政治家」としてのステーツが欠けているように思えるのだが・・・

前記の、なぜ不埒と観たか、「心底見たり」と関係することだが、靖国参拝問題についてモノ書きの章に、陛下の参拝を願い漂っている問題の風を変えようとする、願目だったと記憶する。時を変えた同紙のコラムでも論説元老院の長老がそのような意味を記していた。
「埒(らつ)」とは柵の意で、不埒は柵がない、つまりこの場合は「自制の範のあること」を示さず「勝って言い放題」の放埓状態である。

靖国問題だけに矮小化すると見過ごしがちだが、其のとき陛下は前立腺がんの切除で入院中であったが、平癒を祈る章も無く陛下の靖国参拝を切望していた。
立場はともかく一端の大人の礼とはいえないと、筆者も章を割いたことがあった。
何はともあれ、其れが一番の解決方法であり、人を平伏させることが出来る、と考えているのだろうか。

          

         

 

モノ書きは守るべきものの護り方を錯覚している。
もし、モノ書きの風情で筆者が願うとすれば、「政治家、官吏、教育者、公諸般に就く者は公明正大に業を執り行い、国民の信頼を得るため、誠心誠意に精励するように希望する」と、勅命を請うだろう。

想像するがいい、政治がどうの、憲法がどうの、と騒がしくなるが、日本人としての天皇が其の意志においてインタビューという法をとって語ることは歴史の則を超えることではないし、調和と連帯が欠け、民族固有の長(おさ)の在り様を俯瞰するとき、それは思いもよらない効果を発揮するだろう。

余談だが、赤尾敏氏は演説の最後に、天皇陛下万歳と唱えている。筆者がその理由を尋ねると、「ことさら天皇の健康や財産を護持するものではない。かといって日本国万歳といってもロクデモナない政治家どもに賛意を示すようなので、天皇が一番善いのでそう唱和している」また赤尾氏は「神社参りではあるまいし、世俗事情の解決を天皇に願うのは知恵の無いことだ」、とも語っている。

モノ書きの何を期待したのか・・
はたして「政治なるもの」を見せているのだろうか。
それとも「軍は竜眼のそでに隠れて・・」といったモノノフに似つかわしくない狡猾さで竜眼を押し立て、天皇の下、威を壟断するような維新の一派の残滓同様に、民を苦しの淵に落とすのか、それはモノ書きの空想する、゛格好の良さ゛とは似ても似つかない、゛みっともない姿゛を歴史に記すことは疑い無いことだ。

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付和雷同 09 8/26 あの頃

2016-10-02 09:21:13 | Weblog

  阿波、郡上と並ぶ流し踊り  青森県黒石市「よされまつり」




今どきのことだからと政局や流行に付和雷同しているとの考察ではない。

いつからか慣れ親しんだモノの中で、言葉も好いし,反駁するスベも無い「自由」と「民主」は、一時の自分探しではないが、分けのわからなくなった自分自身、つまり、そんなはずではないと思いつつも往く末の見えないままに、いまどきは欲望と放埓に入り込んだ自由と民主の主人公は、己そのものが分からないまま「己」そのものに付和雷同していると視るのである。

自己責任なとどという言葉にいちばん反発するのはそのためだろう。


以前、民主の「民」は目に矢が刺さって昏(くら)くなっている姿を表している文字だと記した。
それらが一人々の自由権利を唱え主なる人(主人)として民主主義体制を構成している。

以前、民主と自由を与える側のことも記した。
大衆に自由と民主を謳い、解放という自由を与える。つまり、゛群れ゛への恣意的提供だが、その後、大きな力を持つものは国家という権力をも壟断する。それは経済学者に国富による幸福価値をさも高邁な思想論理として宣伝させて国家に事業を強いて借金を背負わせる。

民が主人である以上、国家の借金は国民の借金である。
また、いつの間にか月賦借金がローンとなり、元手もなしに担保をとって家や車を買い、金利のサジ加減で破綻する。まだ国の場合は自給率よく借金は国民に買わせている。もしも外国に買われたら担保に関税権や租借地を要求され植民地当時に還ってしまう。
そこまでいかなくとも闘いたくなくて傭兵を雇えばサボタージュをほのめかされて、思いやり賃上げや毎年の待遇要求(対日年次要望書)を突きつけられる。
これも似合わぬ成功価値に踊る結果である。

江戸っ子からすれば野暮な格好付けの成り上がりと嘲笑われるだろう。




                  

            名山の元に名士いずると詠われた 岩木山





日本も明治の頃に国家とか国民という呼称が生まれた。そして他国から守るために皆徴兵が布かれた。伝聞だが、戊辰の戦いにおいて会津若松の市街の戦闘は激烈だった。そのときの会津側は戦闘集団であった武士のみならず老若男女が参戦した。

その惨禍を身に沁みて察したのは薩、長、土などで構成されていた官軍である。そのなかでペテンの利く先導者は国民皆兵でなければならないと、その前段で自由民権を声高に謳って、゛みんなの国゛゛みんなが兵隊になって国を守る゛と国民皆兵を先導した。

なかには、おんぶに抱っこの依頼心のある大衆の中で、官兵、つまり軍人を食い扶持として選択するものが出てきた。この食い扶持軍費も主人である国民持ちである。

当時の投資は西洋の植民地勢力が習い事のようにしていたように力による強奪が基礎的な前提だった。国力が増大してくれば販路の拡大や軍備の増強、そして国債という借金の増大がある。また偏った事業育成が顕著になる。それは国家の統制があってこそ成せることでもあるが、人と設備の増加はひとたび内外の変化があると余り溢れて外部に流れ出す。つまり国威伸張と呼ぶ海外進出である。また進出しやすいように他国の制度に圧力を加え強制転換させたりもする。

いまも何ら変わりが無いのである。先に記した毎年強圧される対日年次要望書なる日本改革提案もその類だ。







                

                 青森県 木村ヨシ作




きかない子供ではないが、小遣いが減らされれば不満を言うように、民は自らが主人たる身体を食いつくように、いや他人の身体と同化すべき共体を互いに痛みを感ずることなく食い尽くしている。

また、国家が民に応じられることが年々狭められている。金融投機とか作為的な戦闘による夫々の地域の資源なり産物の一過性の欠乏などによって、叶えられない国家への不満はより内向的な対応に追われ、諸外国の連携なり交渉のスタートラインにも立てなくなっている。

自由も民主もそうだが、欲望の増大と制御の不足は社会の調和や連帯を衰えさせ、国粋を超えた架空な連帯意識を平和、人権というスローガンを添えて盛んになってきた。

だが、それとて集約する前提は資金であり、人の多少、国家の力加減が左右する脆弱なものであり、あるものは悔悟や美意識の充足になっている場合もある。









                 




加えて民主と自由は人権平和の掛け声の下、騒々しくなっている。誰でも唱える権利があるという。近頃は環境という掛け声が多くなり利に転換して勤しむものも増えてきた。
この状態を俯瞰すると「右往左往」という文字が思い浮かぶ。人間や社会、いや世界中が騒々しい。

IT革命の一面の利便ではあるが゛易きに流れる゛とか、秘めたる欲望の喚起が密室というべき場面で踊っているようだが、匿名性にみる罵詈雑言やスキャンダルの暴露は芸能のみならず政治家や良質な知識人まで自身の範疇に落としこみ、ボーダレスな凡人に仕立て上げ、しかも一過性の如く忘れ去られている。

これらはあくまで世俗の世界である。一人ひとりが金なり地位なりで覇を追求し、珍奇な個性と呼ぶ異なりをひけらかしている現状である。また、或る者はそれらの嫉妬に駆られ徒な競争と虚飾に勤しんでいる。





                 





そこには神々や精霊の思想も無く、鎮まりの中での沈思や鎮考、あるいは観照もなく、単なる流行価値を成功価値と錯覚した付和雷同組が世に蔓延っている。一方、歎いたり、憂いたりするものも人々の連帯効果もなく、固陋な唯我独尊に陥り、爽やかな目標設定も無く悶々としているのが現状のようだ。

よく、行動突破力は色、食、財の三欲といわれる何れかを除くことにあるという。有るを知らずという境地になることもあれば、目標に愚直になり競馬の遮眼帯のようにわき目も振らずという状態に追い込むことが肝要だという。高杉晋作も維新回天の一鞭を入れたときの振り切りを、゛女房は敵と思え゛と喝破している。財利に目もくれず女性に優しい晋作も余程の覚悟であったに違いない。なにしろ町民や農民の寄せ集め兵を率いたことに勝てるとは思っていなかった傍観者には到底、出来無い覚悟だったのだろう。

「敵と思え」の心中を理解して察するのは「異なることを恐れない自己を養う学問の目的」を身を以って訓示した師である松陰の遺志だったのだろう。

その後の勝ち組に乗るような付和雷同組の維新政治の体たらくは西郷をして「こんな国を創るつもりではなかった・・」とも言わしめている。西洋近代化を模倣した、似て非なるアジアの近代国家の姿は、単に模倣、小手先の更新、あるいは立身出世のシステムに問題意識無く迎合した官吏、軍人の姿に顕著に現れ、それが食い扶持既得権として昭和20年8月15日を迎え、かつ戦後統制経済のなか残滓は再び芽を出し現在に至っている。





                




物珍しさ、好奇心、付和雷同、これに恣意的支配の美用句となった自由、民主、人権、平等を添加すると、無い物ねだり、おんぶに抱っこの世情になる。

政治の世界は変わるだろうが、易きに流れる人の世界は変わらない。

だが、これは嘆息の世界ではない。人の縁(よすが)の淵として考えたいと思うのである。

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佐藤慎一郎氏との酔譚  「満州崩壊と土壇場の日本人」 再20.9.15稿

2016-10-01 12:37:42 | Weblog

          佐藤慎一郎氏の叔父 山田良政(辛亥革命で殉死)

<寳田時雄氏とのある日の対談>
・・・・・・・

S : 僕の家を県人会本部 (会長・松野氏) にして、青森県人だけでもご飯を喰べさせようと思った。 高粱飯と豚汁で。 狭いから皆立って喰う。 便所に行くと、トイレット・ペーパーも電球も盗まれている。 靴も (苦笑)。 そして然し翌日、再び喰いに来る。 コレ (奥方)、二人も産婆役で取り揚げたよ。 或る時、桜田って奴が来て (自分の親戚を見付けて)

「あっ、オバさん!」、と謂うから

「君、我家にはこの通り家族や避難民だらけで満杯だから、オバさんを引き取ってくれないか? そうすれば、新しい人を一人入れられるから。 頼むよ」と云ったら

「家の女房が体弱いので駄目だ」って言い訳するものだから、僕、怒ってね
「犬畜生、返れ!」、と。
四~五日したら謝りに来て連れて帰った。

T : 満州にソ連が侵った後ですね。 悲惨な状況下で、其の様な生活も在った訳ですか。

S : 政府の連中は高い米を売っていたのだ。 其れに僕は憤慨したから、次男坊に 「其 奴(政府の手先) の店前で安い米を売ってやれ」、と云ってやった。

T : 北進論と謂う大政策の中で開拓団が満州へ征った訳ですが、〃王道楽土〃と謂う 国策の下で其う云う輩が在たのでは、崩壊するべくして崩壊したと云う事ですか。

国策以前の【人間】の問題ですね。 学者は 〝If〈 もしも ~ならば、 〉〟 を
遣って 「嗚呼だ、此うだ」、と曰くけれども。

S : 土壇場では国策も糞も無い、人間の問題だよ。 糞喰らえだよ、東大を卒た奴は皆駄目だ! (笑)。

 T : 満州の高級官僚、高級軍人が須く体たらくでしょう。


S : 勅任官が留置場で僕に
「ターバンの時計をやるから救けろ」、と。
全く情け無いよ。

T : この間、『教育勅語』の起草に関与した元田 永孚の『聖諭記』を読んでいたら、「東大は、知識・技術の学問は有るけれども、身を修める学問が無いでは無いか。 江 戸時代以来の藩校や塾を卒た重臣が在るから今は未だ良いけれども、果たして、東大卒つまり官制の学歴が国家指導者の任に堪え得るで或ろうか……」
と書いて有りましたが、 其の危惧が満州崩壊時に露呈してしまった訳ですね。

S : 〝記誦の学は学に非ず〟 だ。

 

           

  「聖諭記」明治天皇が視察の後、教育のいく末を憂慮して側近の元田に諭した記録


T : 矢っ張り志と云うか、何か一つの絶対的価値を持つと云う事でしょうね。 時節で価値が換わるのは善く無いですね。 全体の中の部分、【自分】を識る事ですか。 教師が注入すると云っても、其れを次世代に教えるには手段・方法では無く、〝感動・感激〟 が大切ですね。

S : 不言の教えだ。 言葉も大事だが、体で教える。 困難を乗り越えて人間が出来て創めて、歓びが有る。 先生が其れを実行しているから、昔は先生を尊敬していたのだ。 或る時、中学校で 「孔子は女房を放ったらかしにしてオカマばかりほって」、と悪口を云ったら、漢文の菊池 ペロー先生が

「お前何ンぞ死んでしまえ、去ってしまえ」、
と叱られた。 是う謂われたら本当に退学なのです 。 退学したく無いから

「卒業したら、孔子様のお墓の前でお詫びをしますから、赦して下さい」、
と云ったら赦してくれた。 今考えると、能くも巧い事云ったものだと思うのだけれども (苦笑)。 其れで北京留学の頃、本当にお詫びに行った。 孔子廟も何も判ら無いので、本当に難儀をしたよ (笑)。

T : 其処にいくまでの機会・試行錯誤・体験、其れが大事なのでしょうね。 僕も中国や台湾へ初めて行った時、言葉も何も解ら無いので不安でしたが、乗ってしまえばこっち占めたもので、感動・感激の体験でした。 此れが大切ですね。

S : 僕は人生の目標が無かった。 只、中国人が何を考えているのかだけを勉強した。

T : 人に接するのが好きだったのでは無いのですか?

S : 小学校五年生五十三人に何を教えても、直ぐ
「はい、解りました」
と答えるから一生懸命教えたのだけれども、試験前に何を訊いても誰も解ら無い訳、如何にも為らん (苦笑)。

T : 矢っ張り先生に注目されようと思うのじゃあ無いのでしょうか。

S : 其れで、中国の事は中国人に訊か無ければ解ら無いと思う様に成った。 学問の方向では無く、現実に引っ張られてコソコソと勉強した。 目標も体系も無い。 もう少し早く、人生の目標を持てば良かった。

T : でも目標に窮してくると、閉塞状態に陥ると云う事も有るでしょう。 僕が思うに、多寡が人間のやる事だ、と。


                                        

          王荊山の遺児と

          

 

S : 終戦後、中国人は皆、親切にしてくれた。 然も留置場だからね、極限の世界でしょう。 是の時初めて、中国人が解った。


T : 先生の様に、中国人社会に順っていても解ら無かったでのすか。

S : 迷惑が掛かるから本名は云え無いのだけれども、戦犯を管理する外事課長さんが僕を庇ってくれた。 僕は生徒と遊ぶのが好きで、子供が直ぐに僕に懐く。 其れを観ていた同じ小学校の先生が、其の外事課長さんです。

T : 俗世的で無い人の評価って有りますよね。 日本人は肩書き等、俗世的なもので人を観て、其れ以外は何も察得ない (察無い)。 中国人は観え無いものを察る能力が有りますね。 個人で人の価値観を察ると、〝好きか・嫌いか、善か・悪か〟 どち等で判断しますかね?

S : どち等かなあ……。 難しいが、命を救けてくれた中国人、この日本では (同じ種 類の人間は) 考えられ無いよ。

T : 協会の○さんはご存知ですか? この前、大連から来たお客さんと三人で食事をしたのです。 先方が立場上カチンと来るのを覚悟の上で、敢えて云ったのです。
「之う云う席では、〝東北三省〟と云う言葉を遣ってくれと謂いましたが、戦後生まれの僕は満州と云う教わった言葉しか遣えません」

云々と自分の考えを率直に陳べたら、大連から来たお客さんその場で怒っていたが、新宿から池袋のホテルに送っていく途中、あなたは嘘が無いと、
「今度大連に来たら、二人で良い商売をしましょう」
と迄謂ってくれました。共産党の幹部です。

S : 中国人の本性は其うなのだ。 皆向こうが救けてくれた。 逮捕されて却って良かった。 僕のリュックだけ差し入れで一杯。 看守は初め、威張っていたが、後に優しく為った。

T : 自然の三欲 〝食・艶・財〟 で表現されることが、自然の流れで正しいのでしょうね。 人間も自然で在るべきだ。 斯と云って、禽獣とは違うのだけれども。

S : だから中国では、天下・国家は所謂 〝お噺し〟 に為る。

T : 現在の改革開放路線で〃拝金主義〃に成り、其う謂う善い部分が消えて悪い部分だけが残ると云う恐れが。

S : 政治が良く無いからだ。 中国人は公の席で政治は語ら無い。 政治は不文律で、の席は公文書だからだ。



             


T : 六月三日の天安門事件で彼等学生は、日本人が考えて在る以上に命を懸けて在たと謂う事ですね。

S : 如何解釈したら良いのか、難しいな。 例えば紅衛兵のやった事でも、人を殺して喰っているし。 実態をレポートした本が此処に、未だ目次しか読んでい無いのだけれども。

T : 此う云う本、中共でも出せる様に? 嗚呼、台湾で。

S : 記録を持って、夫婦でアメリカに逃げたのだって。 其処で英文に成り、其れが日本語に成った。

T : 人を喰べる文化は中国だけでは無いのですよね?

S : 世界中至る処に、其の歴史は在る。

T : 変な話ですが、人って美味しいのですかね (笑) ?

S : 簡単な論理。 (自分の) 肝臓が悪ければ (健康な人の) 肝臓を喰えば、体には善いと謂う。 (話が変わって) この前、カジ園さんが来た。

T : 十二月十九日の或の件を訊きましたか、王 荊山さんの?

S : 少し訊いた。 高梁を百トン運び、塩・油を無償でくれたらしい。 総指揮者は劉 ショウケイ(?)が執って、其の物資を平山 (副知事) が受け取って横流しをした。

T : 平山が横流しを!?

S : 平山は留置場に唯の一回も、差し入れをした事が無い。 関東軍のやった事を僕は知っているから逮捕されても不平不満は無いが、奴等は見舞いも何も無い。 其れで栄養失調で皆死んでしまった。 終戦後、ソ連が侵って来て避難民が新京に集まって来た。 処が関東軍の奴等は 「露スケが来た!」、と聴いただけで、弾の一つも長春 (新京) に落ちて来ない内に、皆逃げてしまった。 僕らが長春に着くと、関東軍の宿舎には、誰独りも居無かった。

T : 高級将校がですか?

S : 兎に角、独りも居無いのだ。 其れで

「如何したのだ?」
と訊いたら

「ソ連が来ると謂うので、関東軍は皆逃げてしまった」
と訊いてやっと解った。 僕が憤慨して総務長官の処へ行って初めて

「関東軍の命令で電話線も三ヶ所切断した」
と謂う事も判った。 兎に角、酷い事をやったのだ、関東軍は。 ソ連が侵って来て、略奪と強姦で日本人は右往左往した。 憤慨して、総参謀長の処へ相談しに行ったら

「日本の女も悪いよ、ケバケバしいから捕まるのだ」、と。
もうお話になど、到底為らない (苦笑)。 公使は

「私は昨日迄は公使でしたが、今は唯の避難民です」、とほざいた。 僕の傍らに、カジ園さんが連れて来た横山さんが在て
「この野郎、殴り殺してやる!!」
物凄い剣幕だった。

・・・・・・

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