まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

バブルの頃 銭湯の釜焚きから見た世 09 5/2 再

2016-03-28 14:40:22 | Weblog

天安門 転用


下(げ)座とは、下(しも)座に着くとか底辺に棲むことではない。
また、妙に謙遜(謙る、遜り)したり、上目遣いの動作を指すものではない。

多面的に縦横無尽に、あるいは俯瞰の対極として世俗を考察する上に必須の置き所として下座の観点が重要視されなくてはならない。

昔、釜焚きは、゛さんすけ゛さんの仕事だった。女湯も自由に出入り可能で、花街の女性の背中を流したり、ときには良からぬトコロを洗わされて駄賃を貰う輩もいて、職業的には下賤に見られたりするが、さんすけの意としてはこれは大間違い。たしかに筆者のところに遊びに来る、゛最後のさんすけ゛の弁には、その手の体験講釈に溢れているが、来歴までは解らないらしい。

昔、銭湯もなかった頃、名は失念したがある皇后が病弱の為に湯治に訪れた際に、それぞれ身の回りを世話した各「輔」の三職を「三輔」として褒め称えたことから由来している。したり話のようだが、筆者もさもあらんと納得した。
゛さんすけ゛は身分高貴にものの勤めのようである。

その釜焚きだが、焚きの按配も背流しのうまい人気さんすけは引っ張りだこだった。近頃では廃材から重油に転換し、かつ風呂付の文化住宅が多くなったせいか、俗にいう、゛渡りさんすけ゛はいなくなった。

「ふろや」も、湯や、銭湯、浴場、スパと呼び名を変え、秋田から上京した職人さんが仕事帰りに話していた「どさ」「ゆさ」(どこへ行くんだ、湯やへ行くんだ)という声も聞けなくなった。

前置きが長くなったが、その三ちゃん(父ちゃん、母ちゃん,アンちゃん)で切り盛りする浴場でのこと、その銭湯は息子が番台、父親が釜場を死守?する他とは持ち場が逆な銭湯だった。

ときおり建築廃材を届けにいくが、代価は風呂代ロハで裏から入るようになっている。釜にくべる廃材を眺めながらいつも独り言を言っている。
『こんな世の中続くわけがねぇ・・』

若かったせいか、゛難しいことを言っている゛、と気にかけなかったが、或るとき面と向かってその言葉がでた。
旦那はすぐに目線をそらして傍らの廃材をくべ始めたが、『おかしくなったなぁ』と呟きが続く。そして『世の中、転げるよ』と。

いま考えるとアノ小泉ばりのワンフレーズだが、当時の世情とその後の流れを観ると、確かに間違いはない。今どきは亡失した自己を振り返ることもなく、情報アサリが流行りだが、朝から晩まで廃材を切り、湯を沸かす釜焚きの旦那の呟きは、見えぬ客の程よい湯温を按配する、つまり今どきの言葉でいう銭湯のファンダメンタルの要として、浮かれた世俗を俯瞰できる素朴な座標が作られたに違いない。

それからは、洒落着を脱ぎ、作業着をはおった現場仕事の昼食で、日当たりのよい道路の縁石に座り、コンビに弁当を食べながら職方と世間話に興ずるのが価値ある座談になった。

その変化なのか、縁ある先哲、碩学も面白がって裃を脱いで吾が意を聴いてくれた。それは釜焚きの旦那と同じ香りがするものだった
そして同様な先見、逆賭がいくらか可能になった感のするものだった。

今どきの釜たきはさんは、世上に模せば江戸の瓦版屋から抜け切れないマスコミ、政府宣伝の煽りだろう。また沈着冷静さの乏しい彼らを揺らす、世の表層の浮欲でもあろう。

大衆は釜中の民となり、釜焚きの案配で、馴らされたヌル湯が熱湯に変化し、熱狂に我を亡くすようになる。

心なしかマキを釜に投げこむ手が速くなった。

「温度を上げなければ、菌が繁殖する」

そんなことは、客は知らない。

世の中も似たような(煮たような?)ものだ。いつの間にか熱くなり、釜中の魚のように息途絶えるのだろう。






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広告読者 13 8月13 再

2016-03-21 06:05:56 | Weblog

識字率の向上は手に触れる新聞が有効  バングラデッシュこども新聞



新聞の世界でも女性上位らしい
せめて、男女購読均等法はないものだろうか

ことは新聞発刊部数が減少している理由を販売店から聴いたことだ。
朝日、読売もふくめ多くの新聞社が押し紙含みの発行部数の水増しをしているが、いわゆる粉飾である。だだ、売り上げの水増しは税収に関わる問題だが、販売店ですら押し紙入りの部数を広告受注の基数にしているためか、あるいは本社の押し売りまがいの脅迫なのか、ここは成文法ではなく、掟や習慣の世界として問題にならない。
しかも、社会の矛盾をえぐり出し読者に周知することを主として、社説と称して高邁な理屈を、あたかもオピニオンリ―タ―の如く珍奇な地位を得ているその新聞でも、その詐欺的部数による架空売り上げについては何の言もない。

まだ、江戸の瓦版の方が、そのいかがわしさにおいては開けっ広げな素直さがある。
近ごろは物書き、文屋(ブンヤ)が文化人や教育者になぞらえる滑稽さもあるが、それが詐欺的基盤をもとに、あるいは隷属のような主従関係を迫られる販売店の辛苦は見て見ぬふりの冷淡さだ。

陸羯南は何と言うか・・・・

だからという訳ではないが、新聞の契約もそうだが紙名を選ぶのも世の奥方だという。
およそ、女性が読む、いや見る誌面は文化面と番組欄が相場だと配達員も拡張員も言う。
夫とて国内政治と事件や経済とおもいきや、近ごろではあまり見ない。テレビやPCも手段が広がったがそれだけではないらしい。一時流行ったミーイズムのように他に関心がなくなったようだと関係者はいう。

でも、なぜ新聞購読を契約するのか・・・
先に書いた契約主体が女性だということは、新聞の折り込み広告が多い新聞と契約する理由だという。それも一つのカルチャーだが、なによりも実利がある。
それとともに、以前は資源ゴミの収集には新聞紙が束になって出されていたが、それも少なくなった。ヒマな役人や企業重役ならいざ知らず、サラリーマンの朝は忙しい。駅売りのスポーツ紙かスマホが通勤の定番で、読み終えて荷棚におけば次の乗客が手に取る車内回覧くらいで、サラリーマンの多くは会話のない夕食時に読んでいるか、主にはテレビ相手に情報収集している。それも嗜好のような癖になっている。






部数が少なければ壁新聞で




妻という名のあるものは旦那が出かけた後にお茶でも飲みながら広告を熟読する、その会話も自然と「知っている?」という会話になる。主にスーパーの野菜や魚の値段か、へそくりを捻りだして密かに買う化粧品か健康食品、または、いかに飾り、楽するか、というインテリアか電気製品だ。夕食の付き合い会話もそれになる。

そこには尖閣もシリアも消費税もない。実利は「今を生きる」だ。それも世界は広告の中にある。なにしろ新聞の文章は難しく理解できないし、漢字も読めない字が多いという。
読み方を錯誤した麻生さんを嘲ったのも彼女たちなら、解読すらできないのもその人たちだ。確かにソファーに座って足を組み新聞を読む姿は画にならない。
余談だが、文筆家曽野綾子さんなら似合いそうだが、あの観察眼では書き手はたまったものではない。いや、その位の緊張感がないからこのあり様になったと言える。

ダイニングテーブルでルーぺを覗く広告には別世界がある。一応、マーケティングリサーチとのたまうが、新聞社にとっては貴重な広告読者でもある。
紙面より折り込み広告を充実せよ、とまでは云わんが・・・・

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