まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

格差とは「官」と「民」の間(かん)に在り 2008  11/1 再

2022-08-31 12:08:12 | Weblog

怨嗟と嫉妬と反目の社会に今更といった内容だが、幾許の叛意を浴びることを思いながら敢えて記してみたい。



このところ蟹工船が流行っている。
流行りモノといっては恐縮だが、公害問題が騒がれていたときは、栃木県足尾の古河鉱山と下流の遊水地渡良瀬遊水地を舞台にした田中正造翁の義挙が映像化され各地で上映された。

ともに資本家と大衆の問題だが、金持ちの長(おさ)が富国強兵にともなう近代工業化によって経営者となり、隣国の近代化にもある先富方針の倣いにもなった金融、諸税などの優遇政策により資本集中から多くの財閥が形成され、曲がりなりにも西洋近代化の産業構造模倣が出来上がりつつあった。

この方法はなにも経済理論にともなう政策という代物ではなく、偏向的便宜供与もしくは国家資材の騙取のようなもので、販路開拓などそのための理屈立てに国威伸張を掲げ、かつ明治期に誕生した高学歴立身出世主義という、゛主義゛にもならない曲学阿世の学徒が論理という後付を弄し、かくも合理的発展と謳い上げたのである。

もちろん逆を唱えるものの出現もあるが、双方とも怪しい主義を掲げ政治的陣取りの利得に勤しんでいる様でもあった。


            


ことのほか乱暴な物言いだが、いまだかって良化することのない日本人の成功価値と繁栄の後に顕在する、゛人゛の有り様が、頭上に吠える如き左右主義者に阿諛迎合する姿と、その一派を構成する一群に、嘆息の域を超えて慙愧の念さえ起きるのである。

つまり果実を以てそれらの経過を良しとする成功価値が人々の観念に植え付けられたかのようになり、それに反して日本人の「人成り」が変化せざるを得ない状況があった。

近頃ではカニも正造翁も一方のプロパガンダに用いられるフシもあるが、筆者は現実の例題として以下を記してみたい。

それは名も無くも深層の国力というべき情緒を育む人々を観るに、第四権力に成り下がったマスコミの売文には馴染まないことゆえ、敢えてお知らせしたい。

社会が疲弊すると都市部から遠く離れた列島の外周がまず劣化し、徐々に都市部を取り囲むように状況は切迫してくる。とくに内外圧が直接影響されるエネルギーはイギリスの産業革命から炭化鉱物およびその油脂に変化し、それを以って先進工業国同志の軋轢を生んだ経過を見ても、人間の生活の節目に新たなハードルを構成するようになってきた。


             


昨今のエネルギー事情の狂変をみても、対価となる通貨単位(ドル等)の変動や、それに変わるべく単位(ユーロー、円、ルーブル等)の普遍性と信頼性の基となる実績経過と国家の確定した力がグローバルという、ある意味では統一管理に移行する経過での多様的流動性、単一国家の人と繋ぎの融解など、金融危機という部分的問題を越えて、通貨そのものの必然性まで問われる時代となってきている。


今までは国威に象徴される軍事力や、利便文化の浸透力によって自国の通貨単位の決済有効範囲の拡張が行なわれてきたが、それとて妙な金融工学とかいう「学」を背景とした過度な金利経済が制御不能な状態を起こし、通貨があるべき基礎的要因さえオボロゲになってきた。


日本もバブル崩壊後には制御(収拾)不能になり、あの昭和史に記された戦争における戦費の総量と同量の資金が一滴の血も流さず消滅した。まさに金融戦争だが、影響は倒産、自殺、政治混乱と大きいものがある。
ところが、今回は数百兆円を超える消滅である。

これとて、地球史では一過性の出来事ではあろうが、ハルマゲドンやマヤ暦の終焉、はたまたフォトンベルト(電磁波)の接近、温暖化などがそれらと並行するように人心を惑わしているが、心と実態生活の分別は、表裏の本音、建前を問うまでもなく、複合崩壊しつつあるような雰囲気になってきた。



           


恐れ、不安、孤独は自由と民主、そして平等の美句に誘引され取り付く島も無くさまよっている。もちろん政治、経済もだ。
2000年、暦の平準化は完成した。これからは制御管理、危機回避を名目に交換価値である単位の平準化が謳われるようになるだろう。まさに「時」と「金」の統一化が進むだろう。そしてその条件に沿える人間種のみが生存を許されるようになるだろう。

力のある者はそのように考えるのが一連の流れから観た自然の姿である。

蟹工船に戻るが、多喜二は成文化された出版物を遺した。しかしその当時の世相は、事あることも知られず多くの国民が辛苦の淵にあった。それは政治問題、文明観、あるいは民族の性癖など多岐にわたる要因が内外の経済事情や端境期にあった国内の社会構造が絡み合って、今の格差と呼ばれる状況が内包されている事情は異なるが、とくに地域間、業種別に顕著な姿で表れていた。

分野別に部分分析をしても接ぎはぎだらけの小論で終始するのも、全体像、つまり社会なり国家の眺めるような観点はみられない。
それは経国の座標ともなる理念、目標の立て方にもよるが、何よりも為政者の言行に関する「覚悟」の問題が横たわっている。

            




どうも那人の矜持に照れ、引っ込みにある遠慮が有るからだろうか、食い扶持俸給についての批判は、小ざかしい嫉妬心のようでナカナカ声が出にくい。
ただ、それさえも気が付かない人々の群行は、よりその既得権を強固にさせ、気がついた時には諦めにも似た状況に追い込まれるのは必然でもある。

それは各々の成功価値のみに言を指すものではないが、国家の富の偏在が眼前に現れないままに社会の底流として構成され、つい百年前に歴史の「維」を更新しなければならなかった状況と同様に誘引される危機感さえ想起させてしまう

それは武士道を矜持とした権力階級とそれを構成するサムライ官吏の怠惰にみる、゛切れの悪い゛武家御家人の世襲一群だった。

そこで起こったのは、矜持が気風や大義として謳われたサムライの、貰い扶持、食い扶持に堕した結果に起きた反目無頼とも揶揄された維新の一つの側面でもあろう。

下級武士問題解決能力の欠如や大局観の無い政策など、官位に甘んじ自己保身に汲々として士農工商の職分別や立場の矜持を無にした、゛官族゛が社会の根幹をバチルスのように侵食したために起きた「維」の更新だった。

今どきの意志の見えない四角四面のヒラメ官吏、官警の点数と罰金の道路利権、たしかに「国維」(国のセンターライン、中心的骨格)が歪んでいる。それを「内なる賊」と感知して歪みを正す(糺す)事ができなければ、社会は自ら滅ぶのは必然だろう。

その更新があの維新だとしたら、西郷が呟いた「こんな国にするつもりではなかった」を如何に聞くか・・・

今、懐かしくも想うと、当時の人達に比するにその経年劣化は、職責を踏まえた意欲と自制について放埓に近い状態に置かれているようで、当時の伴食サムライと何ら変わらない姿に見えてくるのは、彼等の止め処も無くスパイラルに上昇する俸給や奇妙な貰い扶持手当てが、庶民から陰湿に隠された特権の如く映るからだろう。


             


知人から聴く語るに落ちた話だが、自治体の課長給与の二人分が総理の俸給とは何とも情けない。イラクの俸給別の現地手当てが一日三万円、二年で二千万、そのほか退職金の億単位がゴロゴロしている。ある都税の徴収官は「貧乏人が多い地域は徴収事務が忙しくて・・」と慇懃にもホザク。

法の多くは彼らの不作為に苦情を訴る民への盾、つまりやらなくても良い理由だ。

禁止(規制)法は手数料、罰金を受け取る証、しかも取り締まり法運用官(警察官)の恣意的行為も中にはあり、国民の怨嗟の的になっている。

彼らの模範?になっているのは、税で賄った国立という学び舎で高位を得た人間の所業である。卑しい犯罪のみならず、隠蔽、改ざん、廃棄、にみならず、昔から横行している補助金詐欺、収賄など役得などがある。始末が悪いのは、それを摘発、裁判する職掌もタックスイーターなのだ。彼らは傷を舐め合い境遇を察する妙な同類意識がある。

 


今ほど怨嗟と嫉妬が渦巻く時代は無かった。夫々が職責の分を弁え、官民が調和していた頃と違い、いつの間にか肥大した官域は国家の行く末まで茫洋とさせている。

http://blog.goo.ne.jp/admin.php?fid=editentry&eid=4b53ff45dd58d4b6e9773d59468ae7e4
【当コラム 2007,11,20 昇官発財】


これを以て以前のコラムに記した「四患」の氾濫である。
「上下こもごも利を獲れば、国危うし」
まさに官域による、偽、私、放、奢、の増進である。


困った人達である・・・


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宰相の迷言に、言葉も無い 2007 10 あの頃もそうだった

2022-08-23 00:38:57 | Weblog

    角の取れた積み木を積む、童の無垢な労心 (弘前養生幼稚園)


総理就任後のメールマガジンの一章に

信頼を取り戻す名案がない」とある。

 ことさら今ばやりのコピー批評や冷やかし、あるいは氏を憎み、宰相を軽んじているのではない。

 最初のメッセージに名案が無いといわれると、なぜ手を挙げたのだろうか。

 せめて妙案がある、あるいは積齢、溜めていた理想の姿を具現する、と誠実な純情を見せて欲しいものだ。

 いまどきと冷笑されるだろうが、上に立つものは人倫の道を国民に自ら示すべきであり、ことに政治家の言葉は刃であり、成文は国家の義でなければならない。

 文は経国の大義にして・・と先人は説くが、大儀(おっくう、骨の折れる)では、しばしば門閥名家にみる白足袋風情に他ならない。

 もしも、これも歴代続く取り巻き茶坊主の見識だとしたら、国民は胸を張って世界を闊歩できまい。

 なによりも宮中参内の折、陛下からの御下問に「信頼を取り戻す名案はない」と平然と言い切るなら、日本国宰相の任は無いだろう

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「人間考学」人は先ず資格より「人格」を

2022-08-17 03:01:34 | Weblog

     

     バングラデシュ     新聞も教材

 

 

近年、資格ビジネスが繁盛している。

とくに介護は社会福祉系、保育は児童福祉系、ビジネスは英語系の資格認定のために多くの若者、とくに女性の男女雇用均等法の援用もあり、盛んになっている。

なかには漢字,漫画、歴史などの資格認定もあるが、その資格証発行元も、むかしは各省庁の天下り受け皿としての社団法人が主に行っていたが、内容はともかく、御上の威光なのか仮装信頼を仰ぎ戴いたものたが、最近はNPOの資格認定もある。

 

ビジネスにおいては技術系の技能や検査の認定資格だが、これも生産性と節約で端折るところもある。それも新米の資格持ちの検査より、熟練技術者の確認作業の方が検査も確実なのだが、資格証の所持如何で検査証の認証がとれる。先輩の熟練者は、日々技を磨くために現場に馴染み、習熟を高めて後輩に伝承するので、資格のための試験勉強などする暇もない。資格は無用ではないが、その持ち分をバリアーとして超えなければ安全性や品質保証がとれない訳ではない。

 

だだ、万が一問題が起きれば、監督官吏は資格者の責任として、かつ雇用者の責任として監督責任を回避できる。それは訴訟社会となった昨今の事情でもあろう。社外取締、有識者による第三者委員会、現場では検査士など、形式上つねに監視の目に晒されている。

ましてや、セクハラ・パワハラ、ワークライフバランス、雇用条件、と重なれば、現場は常に生産性を阻害しかねない緊張に晒され、加えてコンプライアンスの陋規(狭い範囲の掟や習慣性)を包囲するような自縛が、より企業内における自由度や柔軟性を狭め、単なる株主要件の数値利潤を唯一の指標として無機質な組織を構成している。

使役される側の論理は、身の安全と生涯賃金の企図となり、つまり資格は凡そ「食い扶持担保」、今では官吏に似たオイシイ職掌となっている。

 

 

        

 「松下政経塾 」  資格は無いが、世俗ではブランド?    コレも人格とは違う。

 

資格には要件がある。

女子短大の二人の学生が、ファミレスで社会福祉の資格を得るために、何処かの教員の作成した資格に関する要件を記した書類の要点を抜き出してノートに切り張りしていた。

「何しているの?」

『理解の速い級友はこのようなことをしなくても覚えられるが、私は難しいので要点と思われるところを整理してノートに切り付けている』

「何の資格?」

『社会福祉士です』

「そんなに難しいの?」

『私たちにとってはよく解らないことばかりで・・・』

「ところで、勉強は楽しいの?」

『楽しいとは思ったことがないです‥』

「好きで楽しいことなら、すぐ覚えるのにね」

『授業も覚えることばかりで、考えたり、想像したり、感動したりするような授業はないですよ。ともかく資格をとらないと・・・』

「就職に有利なの? 資格が有ると無いとでは、そんなに違うの」

『福祉関係は、全ての採用基準が資格の有る無しが前提で、役所の仕事などはソレがないと仕事ももらえない』

「対象者への優しい気遣いとか、個人の奉仕的対応などは、すべてが時間とお金に換算される時代になって、お互いに法がバリアーのようになっているようですね」

『今、この短大で何をするかというと、それは資格、それも上位な資格を得るための生活ですね』

 

     

        

      こちらは命懸けの学び  空自指揮官対象 定期講話

 

数日して短大の教員で司法ボランティア(BBS)の後輩と会合で同席した。

『このあいだ、うちの生徒と会いましたよね』

「君が担任・・・?」

『何を話したんですか、あんな積極性をみたのは今までにないことですよ。どうすればアノようになるのでしょう』

「ファミレスの隣の席にいた生徒かな・・、こちらのオセッカイでしたが興味あったみたいですね」

『私のクラスの生徒で、普段と違う積極性で私に話しかけてきたのでビックリしました』

「普段と違う・・・」

『彼女たちは、勉強の必要性は分かっていますので、修得の方法を知れば理解は速いと思いますが、今はそこで戸惑いがあるようです』

 

「伝えたのは、出された課題と、本人の目的意識が整理つかないようなので、別の切り口で、学校は落第しても、人生を落第しない学びをしなさいと。それと世界で何十億人いる中で、あなたと同じ人はいない、すばらしい特徴を持っている。それを探して伸ばすことが勉強で、それが人のモノマネをしたり、やたらに数値の競争をしたりして、援け合い、補い合いの気持ちを失くしたら社会福祉の前提がおかしくなり、人に役立つための人間としての勉強の前提がなくなってしまう」

 

『いまの教育現場の情況では難しい対応です』

「いや、生徒を好きになることです。真剣になることです。○○女子大に講話依頼されたとき、行儀のなってない生徒に注意し、かつ自分を大切にと伝えたら、専任教員が小声で、゛生徒を叱らないでください、大事なお客様ですから・・゛と云われました。教育ビジネスの堕落の典型ですが、学校は落第しても人生は落第してはいけないというのはその為です」

『・・・・』

「それと、自己紹介してもらいました。お決まりの出身と経過、現状の経歴紹介でした。

そこで、一番よく知っているアナタはどのような人なのか自己を語ってください、といったら戸惑っていました。自分が分からなければ仕事も恋愛もヤリタイことばかりで、自分の特徴が分かれば、ヤルベキことが解りますと伝えましたが、目の色が変わり、意欲が膨らむのが分かりました。その疑問を解くことの方が、まずおこなう勉強だといったら、゛そんなことは今まで教えられなかった゛と言っていましたが、変化は楽しみでね」

   

    

     1989 北京  落ち着いて利発な生徒 (外は戒厳令時)

 

もともとBBSの後輩で生徒にも好評な教員である。

鉄は熱いうちに打て

「ところで以前、オリエンテーリングでBBSのことを学長の依頼で話す機会がありましたが、あなたの授業の一コマ(90分)を預けてもらえば、彼女たちに伝えることができますよ」

『ぜひ、お願いします』

「その時は、あの可能性が大きい二人の問題生徒にお手伝い願えれば・・・」

戸惑いながらも不思議感をいだいた教員が承引したのは、あの生徒のお陰かと、内心「無用の用」の効用を覚えた次第。

 「無」は用が立たないことではなく、無限大の可能性を想像させ、役立つ人格として育てる醍醐味でもある

それは、意欲としても拙者の老成だけではあるまいと思う次第。

 

 

 

 

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人間考学   機略の縦横無尽を養う郷学講座

2022-08-12 02:44:13 | Weblog

津輕弘前 昨冬

 

≪以下はある組織の指導的立場の人材養成についての講話録である≫

 

それは長時間微動だにしない真剣な講話でした。

巷の礼賛や激励ではない。彼らが志を願って(志願)した職域で縁を以て結ばれた人間の気概に応えたものだった。

それは誰にでもある誕生と辿りつく死への意義を、人生観として伝える、時に修める(自修)の機会でもあった。

後刻送達された「所感」には、紅心に中(あたる)る真剣な内容が綴られていた。

 

 

 標題に添えて・・・

 

機略とは事に臨んで臨機応変、縦横無尽に思考をめぐらすことではあるが、その要は人間(人物)そのものにある

それは状況に応じて、瞬時な対応を考案することであり、たとえ集団内においても、全体の一部分において発揮できる己の特徴を鑑みて、連帯の調和をいかに維持するか、また、各々の部分をいかに連結統合できるかという、多面的かつ根本的で、さらには連結統合の効果となる他に対する許容量を拡げ、高めるような習得が必要となってくる。

特に、瞬時の機略判断は技術や知識の習得だけではなく、直感性を養う浸透学的な要素が必要となる。また、如何なる状況においても判断基準となる座標軸を確信し、かつ己が柔軟に運用するような感覚も必要となる。

こういった感覚は、己に立ち戻ってみれば、まさに生死の観、不特定に対する責任感が混在するなかでの突破力となる覚悟や、怯み、怖れを祓う勇気の源泉を、自然にかつ容易に発生させるすべともなる。

しかしながら、このような人間考学は官制学カリキュラムにはない。

「本立って道生ず」

いわば学びの「本(もと)」となるものであるが、この「本」のあることの認識し、その「本」を伸ばす学びや人間関係の柔軟さを習得することは、生死自己完結の自由を担保し、慈しみをもつものに靖んじて献ずる(靖献)精神を維持涵養することにもなると考える。

また、己の生死の間(人生)想像することは、不特定多数の安寧を任務として集団の高位に就き、責務ある立場のものとして平常心で職責を遂行するために必要な、溌剌とした自己の躍動でもあり、かつ志願発起に希求した自身の姿を想い起こすことにもなるだろう。(自己更新)

この度は、この官制学カリキュラムにはない機略の臨機応変。縦横無尽を養う人間考学を、明治初頭の残像にみる学問を振り返って眺め考えてみる。   

 

              

        学びの負荷を悦ぶ気概があった

 

 

◎講話レジュメ

Ⅰ 明治初頭の学制と、それ以前の学問について

1.藩校、塾から数値選別の立身出世 「聖諭記」

2.自己の特徴を発見して伸ばす 「小学と大学」

 

Ⅱ時代は違えても児玉源太郎や秋山真之が注目されるこ

1.人を観て登用する 「観人則」

2.後藤新平の「超数的効果」とは

 

Ⅲ現代の実相を人間から俯瞰視する

1.「衰亡の徴」 荀子

2.「四端」   孟子

3.「四患」   荀悦

4.「五寒」

 

次後は季節を変えて、その機略を容易にする「浸透学」を講じ、余話として「謀略」について知見をお伝えして数次にわたる講話を終了した。

 

寳田時雄 人間考学講話より

一部イメージは関係サイトより転載

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安岡正篤の呻吟  吉田茂の銅像と国葬 2007/6

2022-08-09 15:30:01 | 郷学

 

いまは金と地位が自由になると、畏れ多い、謙譲の美徳、不特定多数の国人への忠恕など死語になった。昨今はとくに中央、地方問わず、政治、官界にその姿は顕著に表れている。

「美しい国」があるかどうか解らないが、本来は、「清く、正しく、美しく」が本来の唱和だが、その「清く」と「正しく」が無ければ、当然、美しい国は目の前には現れない。

吉田茂は天皇を畏敬し書簡の末尾に臣茂(吉田茂は天皇の臣下の意味)と記すくらい、輔弼の使命意識がつよかった。つまり国民統合の象徴である天皇の存在意義を自らが体現しているのだ。

それゆえに、もしも存命中に銅像や、天皇と格式上であれ同位になる国葬などもっての外と激怒したに違いない。遺族とて畏れ多いと丁重に遠慮したはずだが、取り巻きには別の理由があったようだ。

吉田氏が歳上でありながら老子と敬して意見を請うた安岡正篤氏も同様な気概がある。官位褒賞の類とは縁はなく、宮中の侍講懇嘱も断っている。染井の墓石は何処にでもあるような自然石だ。

以下は吉田氏の周りに募った代議士が、さぞ吉田先生も喜ぶだろうと、親の心 小知らずの児戯のような内容だが、吉田、安岡両氏のような気概もなく、国家を経営し政治が整うのか暗澹となる。

 

 『慙愧の念にたえない』岡本義男の舌鋒は鋭かった。弟子といっても「看板弟子」ではない。義友である。

 


岡本は戦前、安岡邸のある白山に在住していた。何かあると先生!と足繁く通い,安岡も寸暇を惜しまず無名の烈行哲人に応対した。また利他の善行に及ぶと「憂国の士、差し向ける」と、自身の名刺に書き込み送り出している。

ことは吉田茂の銅像の頌徳撰文を安岡が懇嘱されたときだった。
岡本は言う

>>「先生! この銅像はどこに建てるかご存知ですか? 皇居ですよ。あの臣茂と末尾に記す吉田の銅像が皇居の苑(北の丸)に建てられます。果たして吉田氏は草葉の陰でなんと思うか。吉田学校の馬鹿共が、親の心子知らずとはこのようなことです。あのシャイな吉田氏の心中を察すれば高知の桂浜から仰ぎ見る方が・・・いや、その前に銅像なんて、と議員どもを叱り飛ばすはずですが・・」

安岡は『建立する場所までは・・・慙愧の念にたえない』と。

戦後まもなく岡本は札幌に居た。その地域の当麻神社の宮司から相談されたことがある。
>「岡本さんは東京で偉い人を知っているそうだが、此処札幌も戦禍に打ちひしがれ精神までも衰えている。どうでしょう、日本精神の作興のために近じか伊勢の遷宮があるので、解体された御神木を分けてもらえないだろうか。それを以って郷里を復興させたいのだが」

翌日、岡本は東京に向かい安岡邸を尋ねるが埼玉県菅谷に疎開しているという
仔細を聴いた安岡は「戦火で連絡先を無くしてしまったが、たしか総代は吉田氏だ。紹介状を認めるから伺ったらよい」

その足で吉田総代を訪ねて書生に『安岡先生からの使いです』と告げると、しばらくして紋付羽織袴の正装で玄関に現れた。
宮司の願件を告げると
「今までそのような事は無かったが、仰る意図は判った。ついてはお願いがあります。皆さんで神域を清掃してそのお礼にと神木を分けるということでどうでしょう」

まもなく当麻神社に御神木が掲げられた。
ちなみに伊勢神宮内に掛札をつけたイチイの樹が岡本の手で植樹されている。これも稀なことであろう。

 


無名であるがその義烈の行為は安岡を愉しませた。取り巻きは「困ったものだ」と陰口をいうが岡本は意に介さない。
岡本との談義中に政権担当者や重役が連絡が入るが、「来客中!」と応答せず無名の哲人との談義に真摯に向きあっている。

また、長期出張の時は「何日から何日まで留守をしています」と直接連絡がある。

>>「あなたのほうが若さは上だが、頭は飛びぬけて鋭い人が居る。よかったら弟子になったらよい」と、場所も名前も知らされず連れて行かれたのが筆者と安岡先生との縁だったが、安岡師の紅心に中る数少ない人物としてこそ冒頭の言があったのである。

岡本の座右は、【貪らざるを以って寶と為す】である


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パルさん縁で、懐かしきことへの寄り道です  あの頃

2022-08-08 04:15:33 | Weblog

   下中  パル博士

ビール仲間だった平凡社の下中邦彦(社長)に誘われて箱根のパル・下中記念館に行ったおり、パンフレットに見覚えのある書風の碑文が載っていた。

記念館は邦彦さんの父、当時の出版界の大立者、下中弥三郎氏と極東軍事裁判(東京裁判)のインド選出判事、ラダビノード、パル博士との厚誼を記念して建てられたものです。

パンフには広島市本照寺院内に1952年に建立されたとある。【大亜細亜悲願の碑】と刻まれた石版には、住職筧義章師の求めに応じて揮毫されたパル博士の言葉が同様に刻まれている。
「大東亜悲願の碑」は宮島詠士(大八)氏の筆によるものである

 じつは以前、筆者が毎年招かれた鎮海観音会という法要があった
世田谷の豪徳寺という名刹で催される会の主催者は宮島家の当主である。
本堂の読経は住職と僧四名で迫力ある観音経を唱和する。その後、縁ある方々の霊を読み上げるのだが、昭和史を飾る軍人、政治家、思想家など百人余りにのぼる。

 観音像は韓国の鎮海にあったものとの来歴があるが、戦前の法要には内外の要人が多く集い荘厳な法要だった。その主唱者が宮島大八氏だが、氏を有名にしたものがもう一つある。それは、「書は東へ行った」と中国書壇から畏怖を込めて賞賛されるぐらいの名筆家でもあることだ。またその風貌は素朴な学者風であり、大言壮語を吐く壮士でもない。

あの中野正剛をして、こんな人物が日本に居たのかと心酔されている。

1943年(昭和18)に亡くなっているが、故人の銘筆を刻む筧住職も、さぞ縁の持つ偉大さを想起したことだろう。

パル博士の縁で、また一つ備忘のための残像が懐かしさをもって蘇ったことに感謝しなければならない。


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真の国力に憑依する軍と財への誘惑  09 9/19 再

2022-08-06 11:57:40 | Weblog




[憑依]は弱っているものにとり付くことである

現実の生活にある嗜好の基礎的条件を否定するものではない。ただ将来を見つめるための座標軸と欲求充足のホドを弁えることが必要だと考えるからだ。

異民族の賢人、孫文は「真の日本人がいなくなった」と歎くが、゛あの時は存在した゛ということだ。その意味で真の国力を考えたみたい。



               





国力のバロメーターは経済力と軍事力だという。またそれがために他国の事情が気になり、ついつい知った時点から意味の無いものになるような一過性のかつ、たかだか努力次第で変化する数字に翻弄されるのが近頃の人の倣いになった。

加えて世界に普遍的であるとグローバリズムの基準に沿って、より俯瞰した考察からすれば、たかだか人間のみの要件を引き合いに狭い範囲のルール「掟」によって国内事情までが混乱し、政府は重い荷を背負って泥足を引きずる状態に落ち込み、しかも他の比較するべきあやふやで流行じみた欲望を謳歌する自由と偏平等の意識は、より社会の調和を失くし、曲がりなりにも国家として維持されてきた民族固有の連体さえ衰えさせてきた。

その国内事情とは、アメリカのギャンブル経済と、そこに蠢(うごめ)く不埒な人間による彼らの仕組みやルールに合った市場という賭場の拡大と、至るところに埋められた地雷の傍に人間の餌というべき金を散らせ、身の程知らずの懐が淋しくなると胴元の貸し金よろしく、金融と称して金利を掠め取る。どちらにしても借りるのも、博打を打つのも、換金(為替)もサジ加減で、働かされるのは財による成功価値を植えつけられた人たちである。

それは「上下交々(こもごも)利をとれば国、危うし」の古語を例え、かつ古のギリシャ、ローマ、大英帝国、そして先進国といわれる財を産み出す国々の人間の嗜好は、温泉、グルメ、旅行、イベント等に共通した価値観、いやそんな観などにも及ばない糜爛した怠惰な欲望の習慣性に社会の衰えをみるのである。

その一見平和的とも思える環境を維持するのに経済、そして護るに軍事、はたまた国内のパイが飽和すると外を確保したり、行動域の自由化を促すための虚偽美辞麗句となった自由と民主を唱えながらも衣の下は軍事力を用いるようになってきた。

大義を唱えながらも、その建前大義にがんじがらめになり閉塞状態になる国内事情は、外の収穫が無ければ持ち堪えられなくなる。さして肥沃でもなく薄い表土の下は岩盤のヨーロッパにおいては尚更のこと其の傾向が強い。






                    





異なるものを悪と言いつのり、゛それを看過するものは同罪である゛それは、どうしても解らなかったあの湾岸戦争のアメリカの行動が、ふと彼等が言う聖書なるものの一章に合点がいったことと、それを日曜日に唱和し誓いを立てている人たちの行動であると、あの時は寂しい理解をしたものだ。


このところ我々はつねに数値の多少を根拠として事象を見るようになってきた
軍事力、経済力も他国の比較について其の量を問題視してきた。それは努力次第でどうにでもなる数字だ。よく危険度を探るに兵器の性能をみるが、過去の実績、占領運搬への船舶数と渡洋能力、侵攻意図のなかで最も重要なのは軽薄な欲望を充足させるような夜盗、海賊の類ではなく、自国のシステムや習慣への隷属を含めた、血の支配、つまり混交による種の拡大が根本にある。

軍の勝敗や祖国の興亡が戦争なら、その後の婦女子陵辱による血の汚れであり、殺戮による民族浄化や、血の系統の抹殺にみる本能的な行為は国内の部族、あるいは近隣家族といった部分から、宗教、思想を背景とした排他行為、経済利敵など多岐にわたる要因を観ることができる。

また動物のように環境に則して凶暴さを宿す種もあれば、柔和な姿をみせる種もある。
あくまで人間から見た姿だが、柔和な弱者の凶変や凶暴さを宿しながら泰然としている各々の種は指導者なり精霊を戴き、民族という名で営みを継続させている。

誘惑とは誘い惑わす、あるいは惑わされることであるが、経済軍事の多少、大小、ことに其の数値を基とした他国との比較は前章に表れる人間の一方を際立たせて、その姿として戦渦を招来させている。
とくに、経済のしがらみから大が小を呑むといったことが顕著になり、たかだか人間の大義を謳うという理屈の付回しで、国際間でも付和雷同を起こしている。





                 

     孫文をして真の日本人と言わしめた後藤新平




遠い過去から大量の生き血を吸い込んだ大地は腐葉土のように各々の種の営みを支えている。そこから精励への畏れと生命への感謝が芽生え情感として人の心の糧となっている。
回顧や恩顧も時を得て甦り、あるときには無常と儚さを抱かせスパイラルのように人の歴史を繰言のように繰り返している。それはアカデミックな検証とは異なる、人の科学ともいうべき姿をもって、茫洋ではあるが、゛人生゛という名で人間種を成り立たせている。

現世のみに埋没し、生死で表される肉体的問題と一方の本能的要求として、かつ非生産的と遮断されもする、人間としての本性の在り処を自得して、その甦りに期待するには、潜在するであろう、様々な因子を含む力を知ることだ。





                


            津軽の夏



余談だか、巣鴨拘置所の教誨師であった仏僧の花山信勝氏は筆者に秘話を伝えた。
「東條氏はエリートで地位もあった。ただ、私の語りに、゛其のことを早く知りたかった゛と慙愧の念を持っていた・・」

国民の生命財産を守るために軍事を増大させ紛争も解決し、財産を増やすために経済を拡大させた、これが国家の繁栄であり、国威の伸張であると国民を鼓舞した当時の政府の言は、字句を変えれば今とどこか似ている。いや現世はそう流れるのだろう。

ただ、゛早く知りたかった゛ということに含まれる、もう一方の人の心に潜在する力、連帯すれば国力の在り様を疎かにしてはならない。

これを忘却したとき国内の施策は浸透せず外交は混迷する。諸般の因は表層をなぞっては分からない。

潜在する真の国力に目覚めるべきだろう。

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「人間考学」 荀子 「衰亡の徴(しるし)」から観る日本は 08・6再

2022-08-05 02:21:18 | Weblog


            
佐藤慎一郎先生 寄託資料をもとに  
  「現代生活における利と義について」筆者挿入編 抜粋



さて、日本は・・・

今から二千三百年も前に亡くなった苟子が、「乱世の徴(しるし)」として、次のような「徴(しるし)」が現われてくれば、その国家は「衰亡」に傾くと警告しています。


「その服は組」

ー人々の服装がはですぎて、不調和となってくる。個性的なオシャレとは言いえて妙な
考えですが、不調和を楽しむ、あるいはそれを競うことに意識が集まると、内容がおろそかになるということでしょう。


「その容(かたち)は婦(ふ)」

 男は女性のまねをしはじめ、その容貌態度は婦人のように、なまめかしく軟弱になってくる。 ところが国が亡ぶ時には、女までも堕落する。女性は、そのような男か女かわからんようなニヤケタ男を好きになる。また逆に女性が烈しくなるようです。

そして女はついに
「両親を棄てて、その男の所へ走る」
と、苟子は書いている。
 

「その俗は淫」 

その風俗は淫乱となってくる。とくに婦女子の風俗が乱れ、それに誘引されるように男子の志は衰え、そのような状態が影から表層に現れ、至極当然な文化として認知され、大人は競って子供たちを、そのような文化に送り出します。
 

「その志は利」 

人間の志すところは、すべて自分の利益だけ。しかも健康を売り、環境を売り、自然を売る行為が流行りだすのもこの傾向です。また国立大学のエリートがビジネス、つまり、゛食い扶持学゛に志向するのもこの傾向でしょう。゛世のため、人のため゛は、野暮で古いこととして意識外におかれ、「知は大偽を生ず」喩えどおり言い訳、繕いの利学に埋没します。


 まさしく「小人は身を以て利に殉ず」(荘子)です。

利のためなら死んでも悔いがないのです。
身を以て天下に殉ずる日本人は、少なくなりました。

その次は


「その行は雑」 


その行為は乱雑で統一を欠いている。喫茶店で音楽を聞きコーヒーを飲みながら、勉強したり、一つのことに専念できなくなっている。携帯電話がもつ選択と多様性の仕組みは、伝達手段を超え、大海の釣り人や砂漠の砂絵のように、その感性はより個性という名において連帯の鎖を融解させています。集中と継続が欠けた人間関係の姿です。


「その声楽は険」
 

音楽が下鄙(げび)て、淫(みだ)らとなり、しかも雑音なのか、騒音なのか、笑っているのか、泣いているのか、とにかく変態となる。音楽を聞けば、その民族興亡の状態が分るのです。
近頃はリズムが早く、付いてゆくためにのリズムが通常生活の調和リズムを壊し、「早く、ハヤク」が母親の一番多い言葉だと国立附属小学校の子供アンケートにある。
落ち着いた情感のあるメロディーが少なくなったようだ。

苟子の言葉はまだ続くのですが、結局、

「亡国に至りて、而る後に亡を知り、死に至りて然る後に死を知る」

これが本当の亡国だと警告しています。
つまり、亡国になって、はじめてこれが亡国か・・と知ることです。また亡国の瀬戸際は宴も楽しく、その趣向は、温泉、グルメ、旅行、イベントが代表的な楽しみで、あの陽は沈まないと享楽に走ったローマ帝国、大英帝国も同様な楽しみの後、堕落、怠惰に抗しきれず衰退しました。
 


現在の日本の国情と比べてください。

まさしく「驕りて亡びざるものは、未だこれあらざるなり」(左伝)です

漁夫は屈原に問うています、「なぜあなたは世の中から遠ざけられたか」と。

「世を挙げてみな濁(にご)る、我独り清(す)む」

と答えて、ベキラの淵に身を投じて死んでいます。

日本の現状も諸君が分かりかけているが、゛どうしたら゛と、ベキラの淵に波騒ぐ状態です。
しかも、私たちは屈原のように、自殺して苦難を避けることはできないのです。


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