まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

また産経が「バカ」をしでかした

2013-12-22 14:18:21 | Weblog


新聞は読者にとって教科書にもなる  バングラデッシュ




世にバカという意味は色々あるようだが、愚か者は「馬鹿」、人より優れているものは「莫過」だが、双方の音は同じだ。だだ、聴き様だ。

筆者はよく「バカ野郎」と言われた。だだ、それが聞きたくてその人物から離れることはなかった。そのうち「おまえは大バカだ」に変わった。しばらくすると「任せるからやってみろ」に変わり、あとは筆者の言いなりだった。
ガキだった頃、バカちから、バカに出来がいい,うちのバカ息子、と色々いわれた。もちろん、お前はバカか?とも言われたことがあったが、発する人間は、先輩、恩師、近所の親父だった。
その馬鹿と莫過の違いがあることも、発する人間の言葉の質や薫りを分別するようになってからは容易になった。

ただ、一方的にバカを「馬鹿」と愚か者あつかいしたと怒る人間の姿も見た。往々にして矮小に聴き興奮したものが、言質をとったと高飛車で応えるのもその類だが、ときに夫婦なら離婚、世間ではケンカ殺傷になることもあった。なかには小声の棄てぜりふを聴かれて再度怒り狂う夫婦ケンカもあった。











そのバカのことだが、瓦版屋の産経新聞がバカをしでかした。
その意味でいえば「馬鹿野郎」である。いつもは欣読紙として過ぎたるは莫しと感心していたが、12/22は愚かなオピニオンを露呈した。
腹が減れば食い扶持を探す、金がなくなれば頭を下げて無心する、それは浮俗の常だが、博打場の射幸心を煽るように12/22早朝のポストには競馬新聞が入っていた。いや大事な紙面が表裏全面競馬広告で覆われていた。
たしかに、「自分がやる」と昂揚していた邪魔者の知事を下ろし慢心して衣の下から鎧を見せたのかもしれないが、産経といえばお台場でカジノを設置するために政界まで動かし、自社傘下のマスコミを動員して誘致運動をしている元企業御用の産業経済新聞だ。

筆者は今朝の一面に期待があった。それは明日の天皇誕生日の事だった。
そして、今上陛下の誕生日に合わせるように12/23日に処刑された七氏の命日でもある。当日はそのような記事が書かれるのだろうが、誕生祝いと七氏の命日はどちらを優先するのではなく、そのような日に、この国の人々が歴史の宿りに覆われていなくてはならない状況をどのように考えるべきか、それを一過性の日時としてではなく、一時でも思索する時として提案すべき役目が瓦版の矜持として顕してほしいと考えていたからだ。

昨日の情報は、いや数分前の情報は古いと彼らは新たな報道を垂れ流している。それは鎮まりの中で考えるという個別の自由判断を促す、更生、覚醒の促しの材ではなく、扇動、流行りごとの先導になり下がった観のある当世のマスコミの姿であり、新聞の機能を無視した同化でしかない。



これでは産経に倣って読者がバカになってしまう。
筆者は現代の事象を過去の体験や人物とのエビソ―ドにその比をよく求めることがある。
新聞人、言論人という呼称が生まれたのは明治だが、その頃の代表的な人物に陸羯南がいる。あの司馬遼太郎氏が尊敬し自身も羯南の生地弘前の県立弘前高校に志願したが、あえなく失敗したエピソードがあるくらいだから、新聞記者だった氏はきっと陸羯南をその職種の手本としていたに違いない。あの「北のまほろば」への傾注もそうだ。筆者も羯南をはじめ多くの賢人、先覚者を生んだ教育の郷を訪ねはじめて30年にもなる。






津軽



余談だが、当時週刊新潮の副部長だった門脇護氏(門田隆将)が深夜、産経の文化部長だった上坂氏を同行して来訪したことがある。
酔った勢いで、「こちらは10数人の記者で完結主義、日夜地を這う取材をして記事を書き責任を持って誌面に載せる。それにひきかえ産経は60人もいるが、どうなっている」
応ずるに「いや、大きくなると上も色々と居る、若い記者も教育しなくてはならない、立場としては難しい問題だ。大きくなると色々ある」

要は産経にも登場している曽野綾子さんが他誌で、゛新聞の欠落している問題点は週刊誌が補っている。週刊誌は意味のある存在だ・・゛、とこの様な意味のことを書いている。

前に戻るが、新聞と週刊誌はステータスが違う。新聞の政治部長と週刊誌の記者では官吏や政治家の対応が違う。まして記者クラブにも出入りできない。
それが、センセーショナルな記事をもって政治家の辞任を誘い、官僚機構の矛盾を暴く、そして添えもののように女性の裸体を載せ(新潮、文春のほか)、是非はともかく誌面記事にに責任をもつ記者同士で、ときにゲンコツが飛ぶこともあるという。

一方はときに政治権力と結託して自社用地の払い下げに便宜を謀り、近頃の出版不況の折、容積率の緩和便宜によって不動産屋紛いに成り下がる新聞社や系列TVも散見する。
昔から第4権力といわれるが、木たく、公器と呼ばれいるうちはよいが、不純な動機での商業出版として世間を扇動したのでは国民はなすすべもない。とくに権力に迎合して便宜供与などを受けるようになると、販売店への大量押紙(強制買い取りと広告数の水増し)にみる犯罪的内部行為など企業の固陋な掟や習慣のような奴隷商売など、犯意としては押し売り、強要としてかわいい類だ。
しかも、食い扶持安定を命題とする言論貴族や売文の徒の賢文、義文にはその手の章は見ることはない。ことに、まやかしを装うことに長けた売文は言辞においても過大なる講演料で浮浪なる世間を惑わし、深層の情緒まで毀損堕落に誘引している。











標題に戻るが、国民の射幸心を煽る意味はどこにあるのか。
株や為替さえ国民の利殖手段として普遍化している。また今でも法制度ではゲームセンター同様の遊戯店となっているパチンコも以前は射幸心を煽ると,一台20000円を限度としていたが、今では数時間で数十万の出し入れが可能になった。これも御上の認可である。

一方の公営ギャンブルだが、競輪は経済産業省、競艇は国土交通省、競馬は農林省と管轄利権は整理されているが、それぞれの愛好者はその手の情報については驚くほど熟知している。逆に興味のないもの、特別な規範を持つ人は別世界の様相としてみている。あるいは忌避している己の観を持っている人も多い。
昨今の不景気の折、公営ギャンブルも売り上げが落ちたという。事業的にはいかに普遍的な娯楽として周知するために有名人を使って宣伝に勤しんでいる。だだ、博打は胴元と打ち手とカスリがあるが、このカスリは競馬ならJRAという体裁よく横文字にした団体の収益として、ときに公益に供するためと各種補助金になり、人が集まれば経済効果として数値化される。競艇の一部は船舶振興会、パチンコは警察協力団体や青少年育成団体の協賛金となる。もちろん、ギャンブルをしない人たちへの恩恵にもなっていることも事実だ。

しかし国民の動態や情緒の変節を都合よく誘導することはマスコミの姿ではない。
つまり、民主と自由を怠惰、放埒に向かうことを流行りごとの有効価値と煽ることは、慎重に取り扱わなければ国民の良質な規範をもととした社会の継続性を、財貨の欲望に追いたて、財貨を偶像視するようになる。
しかも、労費させることをプロパガンダとして従前の情緒に刷り込み、人びとの連帯を無意味なものとして軽薄な欲望をコントロールする手段に成り下がることは新聞の自殺行為のようにみえる。しかもあらゆる職種を検索して、自らを商業化の先導を謀るなどは社会悪といってもよい醜態だ。


ここへもってきてお台場カジノ構想が浮上し、立法化しようと議員が動き出した。なかには目ざとい人間もいるという。よく云われる言い出しっぺの利権だ。その例が立法によって永らく影響力を維持していた派閥もあるが、あの世界では利権に手を触れないのが鉄則らしい。つまり新規の利権は井戸を掘った人間の影響下に入るようだ。

昨今では7兆いわれるオリンピック予算の新規の主導権だ。それを「自分がやる」と言われれば排除するしかない。もちろんマスコミも賛同した。一蓮托生で、辞めさせれば(排除)さえすれば、あとは仲良く喰いつばめばいいだけだ。400万票超の欲望も屑になった。
あえて有権者の意志や声などは状況が変わって逆手に使えば下ろすことに有効利用したとうそぶくのもマスコミだ。






毎月3000部16ページ、すべて子供が取材して書く 費用は毎月6万円で無料配布 企業広告もなくすべて無名の篤志

目的は識字率の向上と問題意識の共有、そして国興し




なぜ産経はそんなことに手を染めるのか。
あらゆる権力を検証し、その成果を読者に示し、思索や観照を促し、かつ善良なる声を仰ぎ真摯に方向性を示すのが羯南ならずとも言論人の矜持ではないだろうか。
それとも、屋台が大きくなりすぎて問題意識すら通らない組織になったのだろうか。
成り金はステータスを飾り装いを付ける。いらぬ副業に手を出して本体が弛緩する。
家業ならず社会や国家もそれで滅ぶ。

筆者の「愛すれば産経」ではないが、むかし「愛すれば国賊」と烏合の衆に糾弾され命まで狙われた言論人がいた。そのとおりになって日本は惨禍にまみえた。当時の新聞も国民を誘導して戦後は頬被りした。
いくらか懐に余裕ができると、また悪い癖がもたげてきた。情緒の涵養などは死語と成り、人間の尊厳の護持などは意味もなく煩わしくなった。

ごまめの歯ぎしりだが、イベント博打のお先棒は、どうも馴染めない。
せめて君たちの喰い扶持は紙面の信頼と充実を以て、購読料で完結してほしいものだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

郷を離れてこそ・・・・・

2013-12-15 17:22:49 | Weblog


 ふるさとは遠きにありて想うもの、と室生犀星は詠ったが、郷と都会に戸惑う詩情の世界だ。
               
そして悲しくうたふものよしや  うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや  ひとり都のゆふぐれに  ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて  遠きみやこにかへらばや  遠きみやこにかへらばや
                               [小景異情] より


狭い範囲の掟や習慣によって構成されている地方の小社会において、若者ならずとも息苦しい矛盾に、小世界ゆえの問題意識の淡い解決法を、これまた多面的な矛盾がこすれあい、破壊しあう混沌とした社会に、これまた茫洋とした夢を求める宿命観がみえる。
その宿命が怠惰を誘い、アウトローさえ許容する妙な都会の包容力の都合のよさは、まさに「帰ろうか、留まろうか」と煩悶を繰り返し、おかしなことに自堕落な自己破壊さえ助長し、従前の都会者さえ、やれ新価値だ、流行りものだと、滑稽な表層文化を賛美している。











もともと、代表的大都会の東京は江戸湾の奥で葦が生い茂り、多くの河川がまじり合う汽水の湾岸地域だった。もののふ(武士)が覇を競った頃も風光に反して落ち着かない処だった。
徳川さんが来たころは全域が砦みたいなもで、本丸を囲んで多くの武家屋敷が取り囲み、五街道の通り筋に、これまた地方の流入商人が軒を構え、庶民といえば多くの公共事業(屋敷普請、道路河川の新設)などの職人もしくは商家の手代だった。約男子の70%は独身だった。
嫁は大名や商家のお下がりもいたが、地方からの年期奉公で流入する以外の供給は乏しかった。

当時から地方での田舎モンばかりで、室生氏の言う嘆きや丁寧な思索を通り越した、゛あけっぴろげ ゛な気性が醸成された。すると、それに慣れた江戸っ子は、つい先ごろまで食いはぐれていた田舎の次男坊などが、田舎者を忘れて新参者を田舎者と嘲るようになる。
つまり、慣れた田舎モンが江戸に慣れると、江戸っ子風情になり、後進の流入者を見下すのは年期順のほかに、都会モンが倣いとする仕草や口っぷりが必要だった。ある意味、気分だ。




も組 竹本


芝居や見世物の小屋掛けは丸太組みにゴザやムシロが使われたが、界隈が整理されると土工仕事から大工普請に代わるように、自ずと常設小屋が造られるようになるのは自然のながれだが、当初、江戸っ子の中には、「けちくさい」と思ったものもいた。
興行が掛かるたびに真新しい丸太にゴザやムシロの香るが気分として大事だった。
近ごろのオリンピックの莫大な資金を投じた興行など、まことにケチクサイ姿だと云われそうだが、加えてお上が大枚の税金をため込んで、これ見よがしに懐を摩る姿は、どこか吉原の座敷昇りに金を座敷にブリ撒く火事成金の材木屋に似ている。









川と原っぱがあれば、駆けっこも、泳ぎもできる。目の前にはヨットができる海もある。
金がからむとダサくなるのは当時と同じだが、所詮、田舎者の集まりゆえ仕方ないが、笑われることの恥は当時のほうが知っている。
借金証文も粋なもので、返せなければ満座(大勢の前で)でお笑い下さい、と書いてあった。

それが大きくなった雑多の江戸だったが、二本差しがウロウロしていたが殺しは年に数件有るか無しで、安全で街もきれいだった。大店の前には箒を持った丁稚が始終掃除していた。それはデズニーランドのようだった。
雑多の混在は礼儀仕草が発達した。アメリカ人が始終身内に愛を口走り、何かあればエクスキューズを繰り返すように、おはよう、こんにちわ、お元気ですか、が見知らぬ者との係わりに欠かせないものになった。

今では雑多ゆえ編み出された標準語と称するものも、当時は武士言葉、町人言葉が分別されていたが、地方下級武士の下剋上だった維新も、それらがお昇りすると江戸言葉を倣った。
地方の無頼は、まず吉原に汗かきに行く。商家、町人に下座民情視察など考えもしない連中は吉原大夫の廓言葉を上流言葉として流布し妻子にも使わせた。それがいつの間にか標準語になったものもある。
よほど出自を隠そうとしたのか、それとも西国の田舎風情を嫌ったのか、いつの間にか東京モンになり、地方を見下した。役人は官僚と呼ばれ、中央は地方官吏を蔑みも信用置けないと財布も握って離さない。地方官吏も慣れが諦めとなり、安定した粗餐が唯一の目標となり、地方の高額所得者としてタックスイーターに成り下がっている。
中央と地方とは言うか、田舎と都会に言い換えれば、とどのつまり人間選別の数値評価次第に帰結する。税官吏は庶民の懐をほじくり、些細な間違いを、゛ごまかし゛と目くじら立てるが、いつの時代も野暮は変わらない。

この野暮が紙っぺらに書かれた人情を、狡猾な言葉と普遍さを装った数値に変換すると、今のようになるのが、その答えだ。
詩情にひたれる余裕もほしいが、江戸っ子のおせっかいは野暮を笑い飛ばす知恵がある。
怠惰に明け暮れ、居酒屋で愚痴をこぼす種は尽きないが、庶世の野暮もいただけない。
せめて、「人情は国法より重し」くらいの矜持は必要だ。それがなければ、世界の田舎者に成り下がる。





ブラジル入植



郷とは生まれ故郷であり、離郷は国内異郷の地、拡大すれば海外でもある。
離郷といっても満州からの逃避離散や、封建社会の国変えは惨禍と悲哀をともなうものだが、野望を立てての海外飛躍は異なる問題意識の解決に希望の芽を生むことにるなる。
慣れていなかったせいか、あるいは遠大な経綸や、あるいは狡猾さもない純情だったのか、多くの日本人が飛躍した時代もあった。異民族との融和や自身の特徴の発揮と検証は、多くの日本人の気持ちを高揚させ、曲がりなりにも結果を残した。異郷の地でも残像として顕彰されているものもある。

その多くは、問題意識から生ずる、目的喚起と使命感の確立、そして我は何人(ナニヒト)という自己の覚醒と発見があった。その可能性をもっと知りたいという探究心だ。
金欲、女欲に昂進するとその探求も醜い強欲になるが、多くの日本人は他民族の同類の探求方法とは異なり、多くは利他の貢献として異民族の地に功績として残されている。あえて類を提示することは控えるが、今もってその残像は異民族の生活を潤している。

当時の官製進出は国策ではあったが人物の出来、不出来でその姿は大きく異なった。
人情に添うことに生活慣性として長けていた。それは人格として養われていた。つまり日本人の意志が矜持として、過ちは不特定多数への覚悟への恥として浸透していた。それは知った、覚えた、というような浅薄な数値習得学ではなく、先人からの継承された肉体浸透学として、異郷の環境にある肉体的衝撃を逃避することなしに、融和もしくは挑み調和させる人間力が備わっていた。しかも清廉で高潔が生活の倣いだった。それを援けたのは進取の精神をもった技術力と応用力だったが、多くは人間素養の基とした人格座標の確立が前提にあった。



「ふるさとは遠くにありておもうもの・・・・」
いっときの詩情に添ってはみたが、金なし、車なし、友もなし、異性もいない、いわんや語る体験もなく、学(校)歴もなく、もちろん算段する目的もない。あるのは経年劣化する肉体と残滓のように堆積する恥の多さだ。
ならば、それらがすべて充足して、思索が進み肉体が躍動したら何が変わるのか・・・
懐中の多寡を案じ、肉体の衰えに汲々として、死を恐れ、ときに他を排除するようになるのか。それが愛を語り、政治を語り、将来を弁ずる。そして過不足を敏感に論ずる。
あれば有るに越したことはないが、たかだか浮俗の欲だ。







水戸光圀は自身の号梅里として功文を遺している
「第宅器物その奇を用せず、あれば有るに随って愉しみ、なければ無きに任せて安ジョたり」
栄華ある副将軍の隠居はなしと思うのは勝手だが、なかなか妙がある。
豪邸や器物調度品はときに意味のないものだ。あれば有るで愉しみ、なければなくてもそれもいいものだ、と水戸郊外の茅葺の質素な庵に隠居して、田を耕し後の藩主に年貢を献上していた。

後年、黄門漫遊記という諸国漫遊の逸話が作られたが、真偽はともかく人生は旅の如し、郷から離れ異郷の見聞を促す教育者光圀の意に沿っている。

かわいい子に旅をさせる、近ごろでは旅をする若者もいなくなった。
野良犬は犬らしい顔をしているが、犬小屋の犬はよく吠える、たしかにその通りだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

孫文は云う   日本よ アジアの期待に、機を逸するな 2111 5/25再

2013-12-10 13:10:22 | Weblog



「請孫文再来」寶田時雄著 より抜粋



 佐藤は慚愧の気持ちをこめて資料をひもといた。それは伯父、純三郎と同様な見解をもつ孫文と鶴見祐輔の会見録である。

 大正12年2月21日、第三次広東政府の大総統に就任した直後の会談で鶴見はこう切り出した。

>「あなたが現在、支那においてやろうとしているプログラムはなんですか」

 孫文らしい駆け引きのみじんもない言葉で

「60年前のあなたの国の歴史を振り返って御覧になればいい。王政維新の歴史。それを

わたしたちが、今この支那で成就させようとしているのです。日本さえ邪魔しなければ支

那の革命はとうの昔に完成していたのです… 。過去20年の対支那外交はことごとく失

敗でした。日本はつねに支那の発展と、東洋の進運を邪魔するような外交政策を執ってい

たのです」


「それでは、日本はどうすれば良いとおっしゃるのですか」


 孫文は毅然として

「北京から撤去しなさい。日本の公使を北京から召喚しなさい。北京政府を支那

の中央政府(袁世凱)と認めるような、ばかげた(没理)ことをおやめなさい。北京政府

は不正統な、そして、なんら実力のない政府です。それを日本が認めて、支那政府である

として公使を送るというごときは明らかに支那に対する侮辱です。一刻も早く公使を撤退

しなさい。そうすれば支那政府は腐った樹のように倒れてしまうのです」



鶴見は問う。

「日本が他の列強と協調せずに、単独に撤退せよと、あなたはおっしゃるのですか」


「そのとおり、なんの遠慮がいりましょう。いったい、日本は列強の意向を迎え

すぎる。そのように列強の政策に追従しすぎるので、惜しいことに東洋の盟主としての地

位を放棄しつつあるのです。

私は日本の20年来の失敗外交のために辛酸をなめ尽くした。それにもかかわらず、私は

一度も日本を捨てたことがない。それはなぜか、日本を愛するからです。 私の亡命時

代、私をかばってくれた日本人に感謝します」



「また東洋の擁護者として日本を必要とする。それなのに日本は自分の責任と地位を自覚していないのです。自分がもし日本を愛していないものならば、日本を倒すことは簡単です…」
 (アメリカと組んでやったら日本を撃破することは易易たるものだ…と述べたうえで)














「私が日本の政策を憤りながらも、その方策に出ないのは、私は日本を愛するからです。私は日本を滅ぼすに忍びない。また、私はあくまで日本をもって東洋民族の盟主としようとする宿願を捨てることができないのです」



「しかしながら、打ち続く日本外交の失敗は、私をして最近、望みを日本に絶たしめたため支那の依るべき国は日本ではなくロシアであることを知ったのです」


 日本の対支那外交について問う


「それでは、あなたは日本が対支那外交において絶対不干渉の立場をとれば支那は統一されるとお考えになるのですか」


「それは必ず統一できます」


「しかし、その統一の可能性の証拠はどこにあるのでしょう」



 堰を切ったように孫文は意志を表明する


「その証拠はここにある。かく申す拙者(自分)です。 支那の混乱の原因はどこにあるか。みなこの私です。満州朝廷の威勢を恐れて天下何人も義を唱えなかったときに、敢然として革命を提唱したのは誰ですか。我輩です。袁世凱が全盛の日に第二革命の烽火を挙げたのは誰ですか。我輩です」


「第三革命、第四革命、あらゆる支那の革命は我輩と終始している。しかも我輩はいまだ一回も革命に成功していない。なぜですか。外国の干渉です。ことに日本の干渉です。外国は挙って我輩の努力に反対した。ところが一人の孫文をいかんともすることができなかったではないですか」


「それは我輩が真に支那の民衆の意向を代表しているからなのです。だから日本が絶対不干渉の態度をとるならば支那は必ず統一されます…」


「あなたが日本に帰られたら、日本の青年に伝えてください。日本民族は自分の位置を自覚しなければいけない。日本は黄金のような好機会を逃してしまった。今後、逃してはならない」











「それは日露戦争の勝利です。あの戦争のときの東洋民族全体の狂喜歓喜を、あなたは知っていますか。私は船で紅海をぬけてポートサイドに着きました。そのときロシアの負傷兵が船で通りかかりました。それを見てエジプト人、トルコ人、ペルシャ人たちがどんなに狂喜したことか」


「そして日本人に似ている私をつかまえて感極まって泣かんばかりでした。 “日本はロシアを打ち負かした。東洋人が西洋人を破った”。そう叫んで彼らは喜んだのです。日本の勝利はアジアの誇りだったのです。日本は一躍にして精神的にアジアの盟主となったのです。彼らは日本を覇王として東洋民族の復興ができると思ったのです」



「しかし、その後の日本の態度はどうだったのでしょう。あれほど慕った東洋民族の力になったでしょうか。いや、われわれ東洋人の相手になってくれたでしょうか。日本は、やれ日英同盟だ、日米協商だと、西洋の強国とだけ交わりを結んで、ついぞ東洋人の力になってくれなかったじゃないですか…」


日本は東洋民族の保護者として


「しかし、私たちはまだ日本に望みを絶ってはいない。ロシアと同盟することよりも、日本を盟主として東洋民族の復興を図ることが私たちの望みなのです。日本よ、西洋の友達にかぶれてはいけない。東洋の古い友達のほうに帰って来てください。北京政府援助の政策を捨てなさい。西洋かぶれの侵略主義を捨てなさい。そして満州から撤退し、虚心坦懐な心で東洋人の保護者になってください」



「東洋民族の保護者として、自分たちは日本を必要としている。そして今、自分たち同志が計画しているように“東亜総連盟”は日本を盟主として完成するのです。それには日本が従来の謬った侵略政策を、ことに誤った対支那政策を捨てなければなりません。それまでは、いかなる対支那政策も支那人の感謝をかち得ることはできないでしょう。支那人は深い疑いの念をもって日本を眺め続けるでしょう」


 だまされ、裏切られても信じられた日本および日本人は、はたしてどのような日本人を指しているのでしょうか。しかも遠大な志操のもと鶴見に託した“日本の青年に継ぐ”言葉の意味は、現代でも当てはまるような国家としての「分」の教訓でもある。
 

 苦難の中で自らの「分」を知り、その「分」によって自己を確立させ、暗雲が覆うアジアに一人決然として起こった孫文の意志は、まさにアジアの慈父といえる悠久の存在でもある
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする