新聞は読者にとって教科書にもなる バングラデッシュ
世にバカという意味は色々あるようだが、愚か者は「馬鹿」、人より優れているものは「莫過」だが、双方の音は同じだ。だだ、聴き様だ。
筆者はよく「バカ野郎」と言われた。だだ、それが聞きたくてその人物から離れることはなかった。そのうち「おまえは大バカだ」に変わった。しばらくすると「任せるからやってみろ」に変わり、あとは筆者の言いなりだった。
ガキだった頃、バカちから、バカに出来がいい,うちのバカ息子、と色々いわれた。もちろん、お前はバカか?とも言われたことがあったが、発する人間は、先輩、恩師、近所の親父だった。
その馬鹿と莫過の違いがあることも、発する人間の言葉の質や薫りを分別するようになってからは容易になった。
ただ、一方的にバカを「馬鹿」と愚か者あつかいしたと怒る人間の姿も見た。往々にして矮小に聴き興奮したものが、言質をとったと高飛車で応えるのもその類だが、ときに夫婦なら離婚、世間ではケンカ殺傷になることもあった。なかには小声の棄てぜりふを聴かれて再度怒り狂う夫婦ケンカもあった。
そのバカのことだが、瓦版屋の産経新聞がバカをしでかした。
その意味でいえば「馬鹿野郎」である。いつもは欣読紙として過ぎたるは莫しと感心していたが、12/22は愚かなオピニオンを露呈した。
腹が減れば食い扶持を探す、金がなくなれば頭を下げて無心する、それは浮俗の常だが、博打場の射幸心を煽るように12/22早朝のポストには競馬新聞が入っていた。いや大事な紙面が表裏全面競馬広告で覆われていた。
たしかに、「自分がやる」と昂揚していた邪魔者の知事を下ろし慢心して衣の下から鎧を見せたのかもしれないが、産経といえばお台場でカジノを設置するために政界まで動かし、自社傘下のマスコミを動員して誘致運動をしている元企業御用の産業経済新聞だ。
筆者は今朝の一面に期待があった。それは明日の天皇誕生日の事だった。
そして、今上陛下の誕生日に合わせるように12/23日に処刑された七氏の命日でもある。当日はそのような記事が書かれるのだろうが、誕生祝いと七氏の命日はどちらを優先するのではなく、そのような日に、この国の人々が歴史の宿りに覆われていなくてはならない状況をどのように考えるべきか、それを一過性の日時としてではなく、一時でも思索する時として提案すべき役目が瓦版の矜持として顕してほしいと考えていたからだ。
昨日の情報は、いや数分前の情報は古いと彼らは新たな報道を垂れ流している。それは鎮まりの中で考えるという個別の自由判断を促す、更生、覚醒の促しの材ではなく、扇動、流行りごとの先導になり下がった観のある当世のマスコミの姿であり、新聞の機能を無視した同化でしかない。
これでは産経に倣って読者がバカになってしまう。
筆者は現代の事象を過去の体験や人物とのエビソ―ドにその比をよく求めることがある。
新聞人、言論人という呼称が生まれたのは明治だが、その頃の代表的な人物に陸羯南がいる。あの司馬遼太郎氏が尊敬し自身も羯南の生地弘前の県立弘前高校に志願したが、あえなく失敗したエピソードがあるくらいだから、新聞記者だった氏はきっと陸羯南をその職種の手本としていたに違いない。あの「北のまほろば」への傾注もそうだ。筆者も羯南をはじめ多くの賢人、先覚者を生んだ教育の郷を訪ねはじめて30年にもなる。
津軽
余談だが、当時週刊新潮の副部長だった門脇護氏(門田隆将)が深夜、産経の文化部長だった上坂氏を同行して来訪したことがある。
酔った勢いで、「こちらは10数人の記者で完結主義、日夜地を這う取材をして記事を書き責任を持って誌面に載せる。それにひきかえ産経は60人もいるが、どうなっている」
応ずるに「いや、大きくなると上も色々と居る、若い記者も教育しなくてはならない、立場としては難しい問題だ。大きくなると色々ある」
要は産経にも登場している曽野綾子さんが他誌で、゛新聞の欠落している問題点は週刊誌が補っている。週刊誌は意味のある存在だ・・゛、とこの様な意味のことを書いている。
前に戻るが、新聞と週刊誌はステータスが違う。新聞の政治部長と週刊誌の記者では官吏や政治家の対応が違う。まして記者クラブにも出入りできない。
それが、センセーショナルな記事をもって政治家の辞任を誘い、官僚機構の矛盾を暴く、そして添えもののように女性の裸体を載せ(新潮、文春のほか)、是非はともかく誌面記事にに責任をもつ記者同士で、ときにゲンコツが飛ぶこともあるという。
一方はときに政治権力と結託して自社用地の払い下げに便宜を謀り、近頃の出版不況の折、容積率の緩和便宜によって不動産屋紛いに成り下がる新聞社や系列TVも散見する。
昔から第4権力といわれるが、木たく、公器と呼ばれいるうちはよいが、不純な動機での商業出版として世間を扇動したのでは国民はなすすべもない。とくに権力に迎合して便宜供与などを受けるようになると、販売店への大量押紙(強制買い取りと広告数の水増し)にみる犯罪的内部行為など企業の固陋な掟や習慣のような奴隷商売など、犯意としては押し売り、強要としてかわいい類だ。
しかも、食い扶持安定を命題とする言論貴族や売文の徒の賢文、義文にはその手の章は見ることはない。ことに、まやかしを装うことに長けた売文は言辞においても過大なる講演料で浮浪なる世間を惑わし、深層の情緒まで毀損堕落に誘引している。
標題に戻るが、国民の射幸心を煽る意味はどこにあるのか。
株や為替さえ国民の利殖手段として普遍化している。また今でも法制度ではゲームセンター同様の遊戯店となっているパチンコも以前は射幸心を煽ると,一台20000円を限度としていたが、今では数時間で数十万の出し入れが可能になった。これも御上の認可である。
一方の公営ギャンブルだが、競輪は経済産業省、競艇は国土交通省、競馬は農林省と管轄利権は整理されているが、それぞれの愛好者はその手の情報については驚くほど熟知している。逆に興味のないもの、特別な規範を持つ人は別世界の様相としてみている。あるいは忌避している己の観を持っている人も多い。
昨今の不景気の折、公営ギャンブルも売り上げが落ちたという。事業的にはいかに普遍的な娯楽として周知するために有名人を使って宣伝に勤しんでいる。だだ、博打は胴元と打ち手とカスリがあるが、このカスリは競馬ならJRAという体裁よく横文字にした団体の収益として、ときに公益に供するためと各種補助金になり、人が集まれば経済効果として数値化される。競艇の一部は船舶振興会、パチンコは警察協力団体や青少年育成団体の協賛金となる。もちろん、ギャンブルをしない人たちへの恩恵にもなっていることも事実だ。
しかし国民の動態や情緒の変節を都合よく誘導することはマスコミの姿ではない。
つまり、民主と自由を怠惰、放埒に向かうことを流行りごとの有効価値と煽ることは、慎重に取り扱わなければ国民の良質な規範をもととした社会の継続性を、財貨の欲望に追いたて、財貨を偶像視するようになる。
しかも、労費させることをプロパガンダとして従前の情緒に刷り込み、人びとの連帯を無意味なものとして軽薄な欲望をコントロールする手段に成り下がることは新聞の自殺行為のようにみえる。しかもあらゆる職種を検索して、自らを商業化の先導を謀るなどは社会悪といってもよい醜態だ。
ここへもってきてお台場カジノ構想が浮上し、立法化しようと議員が動き出した。なかには目ざとい人間もいるという。よく云われる言い出しっぺの利権だ。その例が立法によって永らく影響力を維持していた派閥もあるが、あの世界では利権に手を触れないのが鉄則らしい。つまり新規の利権は井戸を掘った人間の影響下に入るようだ。
昨今では7兆いわれるオリンピック予算の新規の主導権だ。それを「自分がやる」と言われれば排除するしかない。もちろんマスコミも賛同した。一蓮托生で、辞めさせれば(排除)さえすれば、あとは仲良く喰いつばめばいいだけだ。400万票超の欲望も屑になった。
あえて有権者の意志や声などは状況が変わって逆手に使えば下ろすことに有効利用したとうそぶくのもマスコミだ。
毎月3000部16ページ、すべて子供が取材して書く 費用は毎月6万円で無料配布 企業広告もなくすべて無名の篤志
目的は識字率の向上と問題意識の共有、そして国興し
なぜ産経はそんなことに手を染めるのか。
あらゆる権力を検証し、その成果を読者に示し、思索や観照を促し、かつ善良なる声を仰ぎ真摯に方向性を示すのが羯南ならずとも言論人の矜持ではないだろうか。
それとも、屋台が大きくなりすぎて問題意識すら通らない組織になったのだろうか。
成り金はステータスを飾り装いを付ける。いらぬ副業に手を出して本体が弛緩する。
家業ならず社会や国家もそれで滅ぶ。
筆者の「愛すれば産経」ではないが、むかし「愛すれば国賊」と烏合の衆に糾弾され命まで狙われた言論人がいた。そのとおりになって日本は惨禍にまみえた。当時の新聞も国民を誘導して戦後は頬被りした。
いくらか懐に余裕ができると、また悪い癖がもたげてきた。情緒の涵養などは死語と成り、人間の尊厳の護持などは意味もなく煩わしくなった。
ごまめの歯ぎしりだが、イベント博打のお先棒は、どうも馴染めない。
せめて君たちの喰い扶持は紙面の信頼と充実を以て、購読料で完結してほしいものだ。