まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

小学に観る 習慣学習と、その活学 Ⅳ 07 12/20再

2014-12-29 10:33:53 | Weblog

【成長に沿った学問】

先生でも経師と人師がいます 経はお経のケイです 人師は人の師です
人間の成長を追うと、幼児期から思春期に移ると肉体も変化しますね すると精神的にも社会とリンクし始めます たとえば宗教だって小さな集団のときは目的のために修行をしたり教義の勉強をしますが、大きくなると社会に認知してもらいたくなって教えを人に進めたり、しまいには大きくなった組織を維持するためにお金儲けしたり、政治にコミットしたりして、これと同じで分かってもらいたい欲望が生まれ、互いに衝突さえ起こします まさに人間でいえば思春期の姿です いつまでもその躍動は維持できませんが、ともかく問題意識が発生します 異性やお金に興味を持つのもこの頃です
あのエロ本やアダルトも幼児期には興味ありませんが、思春期に異性に興味を持つ頃ですね これは自然の姿ですが、いまは人為的に過激になっています

そんなときお父さんに相談できますか、 自分の欲望を話せますか  昔は16歳の元服のときに被る烏帽子にちなんで、烏帽子親といって親以外の相談人がいました     
さしずめ今では先輩やアルバイト先の上司がそうですが、親では解決不可能な問題の解決ができるし、社会を知ることができますね  親は何にも分からない、うちの親は興味がない、当たり前です  成長とはそういうことを言うんです  夢精もあれば生理もある、あの人とセックスをしたい、親が答えを出せるわけがない  お爺さんなら、子供ができないように注意しなとか、友達なら合ったアドバイスがあるはずです
つまり親から離れる、巣立つ年代なのです パラサイトではありません

そのうち世代を超え、環境を変えたりしながら自分の特徴が判ってきますね、また目標を持ちます  昔だったら政治家、電車の運転手 看護婦さんなどありましたが、職業の選択は別として外国に行きたい、旅行をしたいなど自分の特技、能力に応じた目標を選択します  そのとき必要な語学などの知識やカーレーサーになりたければ技術、人のためになると決心したら弁護士や医者、あるいは教師もあります  そのために必要な勉強をするために大学を選択するわけです 

ただ大学いけば就職して、いい給料もらって車買って、という人もいますが、お金や地位ではない人生の夢や目標、あるいは覚悟のために、自分はこうゆう人間です、と表現する、明らかにするのが大学の意味であり、大学校の本当の姿なんです



【宿命の怠惰から、立命へ】

いまは多くの疑問を持ってください 他に持つことも大切ですが、自分にも持ってください 肉体的、家族 これはある意味で宿命ですが、ある意味で宿命は怠惰です
金がないから、コネがないから、車がないから彼女ができない、この怠惰から脱却するのが立命といいます 知恵と工夫と縁を信じる、集まるような自分を創る、あるいは変化させる  眠ければ顔を洗うようなものです  このときに冒頭に言いました大学が無機質ではダメ、有機的でなくてはなりません  先生ができなければ自分が有機的に動くことです だめなら大卒に拘らずに辞めればいい 大学という学問は大学校だけにあるものではありません  

国だってそうです 日本は狭いから、借金があるから、それなら逃げようか  キリストや明治の志士たちは大学に入っていません 大学という学問をしたんです アレだけの偉業を成し遂げた人でさえ、あのころは大学校はなかった  環境や時代が違うといったって同じ人間の行為なんです あのころは人の先生、人師が大勢いた また総ての人や現象を師として学んできた もちろん反面教師といわれるものもあったでしょう ひとの感謝や怒りも受けたでしょう  ただ文章を説明する経師もいましたが、感動感激をつうじて魂を伝える人の師がたくさんいました  




【古典を尋ねる】

ではどんな勉強をしていたか、古典を引用しますが、孟子の教えに四端という言葉があります 四つの端です  一つは陰ながら人を優しくおもう心、惻隠の情、仁の端なり
 二つ目は 邪なことを正す勇気、羞悪の情、義の端なり  三つ目は 人に譲る心
、辞譲の情 礼の端なり  四つ目は 区別、分別する知恵 是非の情、智の端なり
 これを四端といいますが、この心は誰にも教わらなくても生まれながらもっていると言っています 優しさ、勇気、分ける、本能的智慧は考えずに瞬時に出るときがあります  たとえば目の前でホームから幼児が落ちそうになったら、悪人善人問わず瞬時に手が出ます、

しかしこのような人間の資質も競争の中での地位、名誉、学校歴、財力を追い求めると微かになります  優しい心がなくなり、花を見ても感じなくなり、悪いことを見ても、いいんじゃない、となります その誰でも元々有ったすばらしい心を欲望のために心が放たれてします、放心といいますが、これを素のように取り戻すために学問が必要だといっています つまり幼児のような無垢に良心を持続することが学問であり、放たれたものを取り戻すことが大切なことだと説いています  ある歳とった有名な画家が子供のように描いた花を見たとき、画商は到達したと説明しました でも私は循環したんだと考えました  よく年取って子供のようになるといいますが、これは自然の循環です

ですから単位をとれば、時間を経過すれば、という学校でも自分なりに工夫したり、古典の知恵を借りたりしながら有機的なものにできるのではないかな、そんな気がします




【ある企ての警告】

それではいまの時代はどうかな、どうなっているのかな、もっと大きく自分たちの環境と仕組みを見たらどうかな、ということを考えてみます
じつは私が10年以上前の正月の挨拶代わりに書いたものです  これはあくまで独り言と称して送りました  もしこれが皆さんの生活の枠組みに当てはまっているかなぁと思ったら、次の時代が予見できます  これはプロトコールといってある人たちが何百年前に書かれたもので、計画書でもあります  これは偽物、本物と色々言われますが、私はどちらにも組しません ただ内容がいまの日本の現状に合っていると考えました 人の心の動きだなぁと考えました 政治も経済もこのようになっています  智慧として参考にしてください



 【戊 寅 の 独 り 言】  参考資料 戌寅年の新年に送付

  いつだったか青い目の悪戯っ子が耳元で囁いた。



「われわれはすべての信仰を破壊し、民衆の心から神と聖霊の思想を奪い、代わりに数字的打算と物質的欲望を与える。

思索と観照の暇を与えないためには民衆の関心を商工業に引き付ける。 

そのようにしてすべての人々は自分の利益のみに没頭して共同の敵を見逃してしまう。

自由と民主主義が社会を瓦解させてしまうためには商工業を投機的基盤におかなければならない。

そして商工業が大地から取り出した富は民衆の手から投機家を通じてすべて我々の金庫に収まる。 

経済的生活で優越を得るための激しい闘争と市場での絶えざる投機は人情薄弱な社会を作り出すだろう。 

そして、高尚な政治や宗教に対して嫌気がさし金儲けに対する執念だけが唯一の生き甲斐になるだろう。

民衆は金で得られる物質的快楽を求め、金を偶像視するようになるだろう。 

そこで彼ら民衆の貧乏人どもは高邁な目的のため自ら財を蓄えるためでもなく、ただ錯覚した上流社会への嫉妬にかられ、われらに付き従

い、われわれの競争者である特権的立場のものに反逆するだろう」



そういえば古事記に
国稚(わか)く、浮かべる脂(あぶら)のごとくして、くらげなす漂えるとき、葦牙(あしかび)のごと萌えあがる物によりて成れる …  と、ある。
古典や故事を引用するぐらいの知恵者にあやかるまえに、大地の表層に浮かぶ脂やクラゲのように浮遊し、葦の芽ぐらいだった原祖を思い浮かべ、 青い目の悪戯っ子の囁きに、黒い目を白黒することのない心の鎮まりを見つけたいものです。
尊台の御健勝とご家族の招福を御祈念もうしあげます。
          戊 寅 睦 月 吉 日




いま世界を見回すとこのようになっていますね 気がつくこともあります、問題意識を持つかは別として考えなくてはいけないし、行動しなければなりませんね  それは私たちは地球人であり、アジア人であり、日本人であり、いま亜細亜の学生です それを逆に考えてもいいですが多面的、根本的、将来的に考えなくてはなりません  

卒業証書をもって就職できる、教員の免許も取れるだろう、安定した生活もあるだろう、これも一つの生き方かもしれませんが、小学から大学にわたる教育の中で、ほんとうに問題意識をもって君たちを教えていたか疑問です 君たちはそうでないかもしれませんが、大部分がその状況におかれている、いやそれさえも分かっていないかもしれない  

3時限の最後にスピーチしてくれたインドのサキール・カーンさんの観察ですが、ここの雰囲気は日本のようではなかったと述べていました自由を違った形で見ているね、アジア人はそんな形は無かったねと、感想があった たいへんウザッタイ話かもしれない、でもこの独り言にある人たちの思うような世の中になっていることも注意しなければならないね  

10年前にこうなる、と考えたら、そのようになった、いまは事実として私たちの生活に影響している  大きなタライ中でうごめいている私たちだが、タライには地位や学歴やお金、名誉を取り合う人間がいます そのタライをある方向に流す力があることを認識しなければならない  それは私たちの欲望がそうさせていることもあれば、その人間の欲望の行き着くところを観察している人もいるということです 

観察ですが、大きな観かたとして地球は東西南北天地で六つの座標がありますね これが調和すると○、円になるわけです ですから一面的か多面的か、枝葉末節か根本的か、現実価値か将来価値か、同じものでも結論が逆になってしまいます  たとえば将来を観察する場合そのスパンと同じ長さの過去の歴史を考察すればバランスが取れます
また、よく歴史は鏡といいまして現在と将来を映しています だからよく総理大臣のことを首相といいますが、首は一番大事な人 相は高い木の上に目をのせて遠くを見通せる人のことを言うのです  同時に過去の歴史も俯瞰できるような人のことを言うのです 宣伝カーの上で大声で訴えているのが首相ではないのです

以下次号
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小学に観る 習慣学習と、その活学 Ⅲ    7 12/19 再

2014-12-26 09:24:03 | Weblog

2003 9/24  イラク開戦直前のメール交換
中野 有 様

 故郷は遠くで想うもの。いいですね
 ところで,ブッシュさんは、『直にして礼なくば則ち絞ず』になりつつあります。その後は弛緩するでしょう。
 そして『謀弛』といって,謀(はかりごと)が弛(ゆるむ)でしょう。 密な政策が内部から露呈します。
 いわゆる米国の座標がおぼろげになり、軸の再構築の必要が迫られます。いや,回転のスピードによって支えられた軸が揺れ出すと言ってもいい。
 なにか仙人の戯言のようですが、アメリカは自らを絞めつつあるようです。世界の動きを俯瞰しながら鎮まりをもって考えれば打開します。
 妙な謀は逆効果です。 
 かといってデーターや情報の理解だけでは動きません
 こんな時こそ中野さんの直感を胆識をもって披瀝する機会です。
 安岡師は「真に頭の善いという事は直観力であり、どう使えるかだ」と。
                            ゴマメの歯軋りより

返信内容の解説
『直にして礼なくば、すなわち絞なり』

いくら事情があり、理由が付けられていても、全体に及ぼす影響があるときは、たとえ義戦と考えていても、全体の調和(時間軸、存在)が必要である。「礼」とは調和のために一歩譲ることと、環境準備が必要になってきます。
そのまま戦闘に突き進むことは、勝利の増長、敗者の怨嗟、他国の嫉妬を巻き起こし、増長は国家の箍(たが)を緩ませ、(弛緩) 国内統制が取れなくなり、人々が信じられなくなります。国家機能への信頼は揺らぎ、民意は怠惰になり、大切な情報も守れなくなり漏洩し、戦争の意味を問われかねなくなり、戦意も失墜し戦後の混迷が続きます。
力のあるうちはよいが、無くなれば誰も従わなくなり、国際社会は混乱します。

勝利の後、アメリカ国内では高官の便宜供与、秘密情報の漏洩、共同参加した英国政治の混迷と不信などが起こり、いまなおイラクの政情は安定しておらず、米国の民情も落ち着きません。毎回のこと大統領選挙は接戦を繰り返し、そのため国民におもねる政治が、より顕著になってきました



以上は開戦直前の交感メール〉


【今はない、明治復興のカリキュラム】

先ほどの小学ですが小学校ではありません 小学という学問です 大学もそうです、大学という学問です では小学とはどんなものかといいますと、明治の初頭にいままで藩校、塾、寺子屋が修得場所でしたが、幼年教育のそれが尋常小学校に統一されました  尋常は常を尋ねるです 常は平常心です あわてず、騒がず、が基本で、今様にコントロールが効かない小学校とは比べ物になりません また先生、友達、親などとの関係で自分の存在を知り、挨拶や約束事、尊敬心からくる励みの心などを習慣性のあることとして修得しています  そして早寝早起きや親の手伝い、整理、清掃などの躾を身につけています そこから連帯があり、調和ができたのです どうですか古い話ですね 君たちのお爺ちゃんの頃のことですが、聴いたことありますか  

明治以降はこのようなカリキュラムはありません 古典の分類では知っていても修得体験は不可能になっています 人権やゆとり教育、はたまた点数になりません
これは邪魔なんですね  じつはよく考えてみてください たとえば君たちが国を経営する指導者だったら、個性的とか皆がしっかりした考えで意見を述べたら経営はやりにくいね あるいはウルサクてまとまらないね  小学は本当に独立した人間をつくる勉強なんです 




【憲法は権力制御】


話はそれますが、憲法でもそうです、一番大事なことは人間の尊厳を守ることです
生命財産ではありません その尊厳を守るために経済も政治もあるんですね 

ところが人間を括って崩そうとする人がいるんです お金や欲望を目の前にぶら下げてね 権力者です  当時聖徳太子は権力者の類を、政治家、官吏、宗教家、あるいは知識人、学校の先生もそうかもしれない これらが大きくなる欲望、人を従わせる欲望などで尊厳を崩してしまう  巨大化しようとか、自分のマニュアルに合わせようとか、連帯は大切ですが人間の尊厳を崩すことで目的を達成させる、いわゆる盲目にしてしまうことへの危険性ですね ですが小学を習慣化した人間は独立した考えを持っている、判断基準を持っている、これは権力者はやりにくい、嘘が見抜かれてしまう この弱いところを守ろうとしたもの、あるいは権力者の企てや横暴を制御しようとしたものが17条の憲法であり冠位12階という制度でした

本来は人間は自由なものだけど、動物と違って理性によって制御するものですよ、そして、それぞれの特徴を調和させて躍動するものですよ、というのが小学にある躾と習慣学習でなんです その前提に立って知識や技術を習い学ぶんです そうすると知識や環境に問題意識を持ちますね 指導者は困りますね だから民主は国がまとまらない

本来は信頼する国の方向を指し示すリーダーと、環境に応じたあり方を変らぬ姿で表している存在があれば、人々は特徴を発揮した自由な行動ができますよね 政治なんか気にせずに もっと日本を知ることが日本らしい民主のあり方を発見できるとおもいますよ 働けなくてもおじいさんがコタツに居るだけで落ち着きますよ いま外国ではやっているモッタイナイという言葉も年寄りから聞いている小学ですよ 郷里へ帰って山や川が懐かしく感じる、それは昔愉しい環境と思い出があったからですよね これは自然からの小学です あなただけの特徴感覚、フィーリングです
 
近代化の官制学校にはそれを感じたり、それに価値を置く勉強はありません  近頃では制服のままでゲーム喫茶に入たり、道路に座ってタバコを吸ったり、聞いてみると生徒手帳の規則には書いてありません、学校では習いません、と個性化といわれながら既成化ですね 自由を狭めています


【小学にみる習慣学習と躾】

小学は人間の成長に沿った習い方と発見が大切です 自分で発見できるようにするんです そのためには人間と動物の違いを知ることがはじめですね  人間は人間とおもっていますが、ときおり動物みたいなことをはじめます 食べることとか、性的なこと、だんだん動物的になってきます だから人間的に生きるのですよ、あるいはこの環境では外国から日本人と識別される特徴で生きるのですよ、と教えるわけです いや習わせるといったほうがいいでしょう これは自由に生きるためのパスポートです
 好き勝手な放埓ではいつか自分を不自由になりますよ、といろいろな手段と喩えを使って伝えるんです 先生もその一人です そのためには色々なデーター資料、実証が必要です、だから歴史があり、家族ではお爺さん、お婆さんの話もデーターになるんです

玄関に靴が散らかっていたら、履くのが大変だよね だから子供の頃に習慣付けるんです 高校生になって親から靴をそろえなさい、と言われ、うるさいなぁ、とは言わなくなる のど乾いたら水を欲しがるように、当たり前に心と体が動く とくに大勢で生活するとその方が合理的だし、チームの力が出るよね これ自然だよね


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小学に観る 習慣学習と、その活学 Ⅱ

2014-12-25 10:05:45 | Weblog



【満州崩壊 土壇場の学問】

ここに一つの事例があります 60年前のことですが、日本は大陸に進出して満州という国を創りました 当時多くの若者が夢を抱いて渡りました そして大地を耕し、現地の人とも五族協和のスローガンのもと、理想国家実現を目指しました  それは国の崩壊の土壇場の人間の姿と、彼らの学問についてのエピソードです 

ソ連が国境を越えて攻撃してきました そこには多くの開拓者たちがいました もちろん軍や官吏もたくさんいました その軍や官吏は開拓民を守るために存在します しかし彼らは、いち早く情報を察知し、侵入したその日の朝に逃走しています しかも電話線まで切って逃げています 彼らのなかには高学歴な高級官僚、高級軍人といわれた人もたくさんいました 当時の高学歴者は尊敬され、高い俸給をもらっていた人たちです 何のために尊敬され、どうして高給を貰えるのか、それはいざとなったら国民の犠牲になる志をもっていると認められているからです 

いまの政治家、官僚、教師、宗教家もそれが存在の意義なのです  何のために役人になったの、何のために軍人になったの、悲しくなるね
こんなこと日本の歴史に刻むの はじめて大陸に国家を創った 色々批判はあるし、真実は勝者に改ざんされたり、破棄されたものもあるが、この土壇場の日本人の醜態は消すことができない 負けたら関係なくなるからと言い訳している人も居たといっています
高学歴とはナンなのですか 私はどうか、と聞かれれば分からない だけどそうなりたくないとおもって勉強しています  残された開拓民は悲惨な状態だった テレビドラマになったり本にも書かれています たとえ負けるとおもっていても最後まで守って欲しかった あの司馬遼太郎さんの坂之上の雲の書かれている壮絶な戦争にも色々なエピソードがありますが、あの頃の人たち、明治はそうではなかったように見えます 異民族のなかにあって日本人がはじめて経験した国づくりだったとおもいます いまでも研究すれば日本および日本人が鏡として映るはずです

ここにその状態を赤裸々に残している文章があります 佐藤慎一郎という人が学生におこなった講義の抜粋です
「私も敗戦によって共産軍に捕らえられ死刑の判決を受けること2回、2回とも中国人に助けられました 3回目は国民党軍に捕らえられ九分どおり死刑であると内示を受けたのですが、判決直後釈放されました 私は死刑執行場で、自分で自分が入る墓穴を掘りました 本当の学問とは書物以外により多くあることを体験しました 『吾、汝らほど書を読まず、しかるが故に吾、汝らほど愚かならず』『物知りの馬鹿は、無学の漠過よりもっと馬鹿だ』ということの意味を本当に知ったのは、日本の敗戦によってでした いかにすばらしい言葉であっても、それが信念と化し、行為と化すまでは無価値だと知ったのです」

いわゆる無価値なんですょ 知ったら教える、学んだら行なう 行って責任が発生します
喜んで責任を受けますという人間の学問ですね この佐藤先生がどんな学問をしたのかな、という興味が湧いてきました  このような学問は大学校には無いんじゃないかな
そこまでいくと今の親御さんは子供を入れません  この学校でも元の衛藤学長さんや、シベリアの収容所から最後の帰国者、伊東六十次郎先生をはじめ、多くの満州関係者がおりました  みな怖いけど、元気で愉しい先生でした  


たとえば本の読み方でも、読まれる、と読む形があります 面白いなぁ すごいなぁ、これは読まれていますね  読む、はたとえ拙い体験でも自分に照らしてみることが必要です  小説、漫画ならともかく、古典などは特にその傾向があります つまり古教照心と照心古教の違いですね 

 冒頭に言いましたが教育の仕方は覚えても、使い方を知らないということと同じです  大学の教職もそうでしょう たしかに産業構造では安定した職業ですね  つい間違ったことを話しても訂正がききます めんどくさければ「これ、覚えておけ、試験に出るから」という先生が多いようです ある学校へ行ったら、生徒はお客さんだから、寝てても、遅刻しても大事にしなければ、という先生もいました 入学金、授業料を払ってくれれば経営が成り立ちます この学校でも産業人などを呼んで特別講義をしていますよね 傾向か流行か判りませんが新しい学校の概念としては素晴らしいことです



【トヨタ 小学の活用と継承】

産業といえばトヨタのお話ですが、ある衰退した企業の建て直しのために助力したことがあります あの一兆円の利益を上げた企業のエキスです それは5Sというキャッチフレーズでした トヨタを成功に導いたのもそれを習慣として受け入れたからです 5Sって横文字でかっこいいですね でも内容は今の学校では教えないが、昔のカリキュラムにはあったし、それは知識技術を学ぶための大前提なのです これがあったことが特殊な国民として映ったり、明治の躍動、戦後の復興が容易になったのです  これが日本の国力の源泉であり、人間に備わった習慣だったのです  

でも近頃はこれが崩れてきました トヨタはただ価値を知り持続しただけなのです 何も難しいことではない 子供でも出来ることです 無駄な知識や情報を重ねる必要はなかったのです それがトヨタの工夫となり社風となったのです 日本のトヨタなんです 日本人の知恵を事業の根幹において、世界に通用するように普遍な行いとしただけなのです SINKとACTIONを繋げるものが車両であった、それだけで価値があり、トヨタ存続の意義があるのです  もう一度思い出してごらん、とい提案が5Sという再生案なのです 同じ日本人ならの飲み込みが早いのは 当然です 

でもいまの経済人は気がつかなかった 学校、つまり官製学校歴のエリートは習わなかったろうし、価値が無いものだと棄ててしまった学問であり、それは歴史から与えられた恵みだったのです  5Sとはなにか 清潔、整頓、整理、清掃などの頭文字Sです
子供でもできる、いや大人にはでき難くなったといったほうがいいでしょう トヨタは日本人の知恵と習慣にあったものに真の合理性を発見し、また、それを行なう人間の問題が重要だと着目した経営者の人間観察が優れていたわけです 資本が無い、情報が無い、販路が無い、でも本当に必要なのは人間の直感とそれを見抜く経営者の姿なのです
この合理性は科学的根拠となります 何のことはない古典は合理的なもので、人間によって科学にもなるのです  これが「小学」という学問です 習慣学習と躾です

部屋が乱雑になっていると探し物も大変です 教室が汚れていたら勉強する気にもなれません 学校が経営に偏向すると学生に情緒は育ちません 点取り、クイズ試験になるのは仕方ありません このようにして良い習慣は乱れ、悪い習慣が安易な権利意識に変質してしまいます 新しいマニュアルを作るのではなくも想い出せばいいことなのです
一利を興すは 一害を除くに如かず、という格言がありますが、まさにそのことを指しています  政府の何々省とありますが、あれも省くことが大切だといっているのですね    
いつの間にか増殖してモンスターのようになり、制御の聞かなくなった組織は戦争に行き着いたあの頃の組織です  政治家はそれが分からなくてはいけませんね




【吾を活かす青年】

ここで素晴らしい青年のお話をいたします
中野有という京都出身の若者です 彼は私立大学を出て大手の土木会社に入りました そこで前々から海外に出たいとおもっていたので海外赴任を希望し、誰も行かないような中東へ行きました ちょうどイランにいたとき、イスラエルの戦闘機がイランの施設を爆撃するところを目撃しました  世界の現実に驚き、興味を持ちました 

その後、国連職員にパスし、南アフリカの人種差別政策を体験したり、子供たちへの援助活動を行ないました その印象は、子供たちの目が輝いている 透きとおっている、それは彼の人生の座標軸になったのです 政治、経済、戦争の行き着く果ては人間の問題です

人の優しさ、異なる国、民族、風習を理解する多面的な観察が大切なことだと気がつきました これは彼の実践学ですが、気がつくともともと日本人のDNAにそのような考えが習慣的にあることが気付きました、またお母さんから何気なく言われた言葉の中にその意味があることが気付いたそうです  

また英語が苦手だから、食べ物が合わないから、ということで自己を閉鎖している若者がいますが、かれは英語科でもなければ、サバイバルな肉体派でもありませんが、熱情はモンスターです 私のところへ尋ねてきても聴きたいことは、小さな店を追い掛け回すほど熱心です  陽明学は知識と行動が重なり狂になるといいますが、そんな時、かれは狂です 狂は学問上のことで熱中すると、そのように見えるのだとおもいます  

その彼がワシントンのシンクタンク、ブルッキング研究所に招請されたときのことです  アメリカの政策に影響あるところですから、日本からも多くの外交官や大物といわれる政治家が来るそうです  彼は研究所の側から聴くんですが、たとえば問題になっている北朝鮮問題について日本の考え方、対応を聴いても、アメリカが、中国が、韓国が、と一向に日本の意思を述べません  いや、意見がないのです

 彼らは国立大学を出て難解な試験をパスした外交官や、国民から彼らの言う、生命財産を預けられた政治家です  それが周りを気にして意見すらおぼつかない かれらの学問は何のためにあるのか  中野君は学歴は信用していません  あの満州崩壊土壇場に見せた高級官僚、軍人、政治家となんら変りはありません  

中野君は国際フリーターを名乗って本まで出しています 国際フリーター世界を翔る、という本です  彼が日本に戻って講演会に臨んだとき、前日、応答辞令について教えて欲しい、と訪ねてきました  君たちにお話したことを伝えました  ビデオを見ましたが素晴らしい講演でした 彼は世界中を飛び回って日本の心、アジアの心、地球軸から考えた世界の平和を唱えています  その心を生み、支えているのは、あの貧困の中で見た子供たちの瞳なのです そして母親の優しさなんです。これが彼の学問です 世界に通用する学問の心なのです

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小学に観る 習慣学習と、その活学    其の一  07 12/17再

2014-12-24 10:35:46 | Weblog






無機質な教育を有機的な学問に
              (官制学校歴と真の学問歴)

亜細亜大学   教職専攻課程 226号
1st 12:30   2st 2:50


①有機的に教えるということ          ⑩成長に沿った学問
②自と分について               ⑪古典を尋ねる
③活き方を探す                ⑫ある警告
④満州崩壊と土壇場の学問           ⑬鬼平犯科帳の頃
⑤トヨタの小学の活用と継承          ⑭亡国の後、その亡国を知る
⑥吾を活かす青年               ⑮世代の調和と礼
⑦今に無い明治復興のカリキュラム       ⑯トヨタの合理と歴史の科学
⑧憲法は権力制御
⑨小学に観る習慣学習と躾


ゲストスピーチ
金沢明造       弁護士の堕落と学問
サキール・カーン   日本における大学というところ

村岡聡史       教学随聴記





寳田時雄 特別講義を終えて

今回はゲストとして金沢明造、サキール・カーン、村岡聡史の各氏を招請し、サキール・カーン氏には日本の学生への率直な感想を英語のスピーチで、金沢明造氏には裁判官、弁護士という司法にかかわる一部の人々の腐敗の醜態と、学問の意味についてそれぞれスピーチ願った。
また、村岡氏からは小学と大学が、官制学校の小学校、中学校と混同、錯誤してしまうのではないかとの、ヤラセ?質問が突然飛び出し、氏なりの学生への細やかな斟酌があった。

後日、女子学生から、小生のホームページ「請孫文再来」を見て興味を抱き、詳しい話を所望したいとの電話があり、いつでも、どこでも、何人でも、悦んで、と応答した

小生の体験で、研修会を開催した折、参加者が少ないことを憂いたところ、いつも柔和な老師は「一人でも小なしといえず、千人でも多しといえず」「国は一人をもって興り、一人を以って滅ぶ」と烈火のごとく喝破された。
まさにその時、その場における絶妙な教育であった  それ以来、独りでも真剣に聴講する学生の所望があれば、参ずるようにしている。

講義中はいつもそのことを念頭に駄弁を弄しているが、若者の清純なアタマに固陋で難論かと察するが、それゆえ古今東西の事例、あるいは拙い体験を駆使して彼らの紅心の的をめがけて奔走した。

ともあれ、たかだか人間が編み出し 、集積された論なりを踏襲するか、混ぜ合わせて自説、仮説を高邁にも論ずるのを学説としたり、また口舌を生業としているものが世の中に跳梁跋扈しているなかで、無学無名の学を提供することは、気と勇と情に委ねることもあるが、これを観念的駄論と称すむきもあろう。
それも昭和に生を享け、明治大正の息づかいにふれ、平成に現存するものの役割であろう。

ともあれ、無機質なキャンパスを、真に意味ある有機運動体にすべく、がんばるのみであった。それは、小生にとっても有意義な活学でもあり、師への回顧報恩でもある。



【講義録本文】


 もっと前のほうへ座ってください 後ろは眠りのスペースではないですよ(笑)  最近は自由に座らせると後ろのほうに座りますよ(小曽根) それは日本人のDNAみたいなものですね 考えることはヨーロピアン 本当は近くでディベートができればいいね 

実は小曽根先生は私の母校の地理の先生です 担任を持っていまして、時折、子供を近所のお寺に連れて行って住職にお話を伺ったり、ベー駒の話題から川口の鋳物工場の見学など行っていますが、ところが考えすぎる人で、生徒が心配でいろいろと私のところへ来てお話されるのですが、ほかの先生からはやりすぎだ、とか、変わっていると言われるような、いまどきはあまりいない熱心な先生です 

社会に入って役立つ勉強、社会にリンクする内容を行動で示しているんですね でもプロの先生からすると、余計なこと、と思われたりします 君たちも教職志望なら分かるとおもいますが、たしかに日本人的な教職組織のようですけど、どこかおかしいですね 私は教職の世界ではないので、言いたいこと、では無く、言うべきことをお話します 今日は3,4時限ですが、90分が2回計3時間ですが、皆さんと相互学習のつもりで勉強させていただきます 



《有機的に教えるということ》


いま、皆さんは教育の仕方を学んでいます ここでは教育から得た知識技術の活かし方、使い方を学びたいとおもいます 教育の仕方は色々あります それぞれに教授案もありますし、アンチョコというものも有りましたが、「覚えておけよ、試験に出るから」が、大多数でしょう 
何年経っても同じ教科書なら同じ教え方をしている これでは機械がやっても同じことです 教授案というのは時と人、あるいはそのときの情緒に合わせて作るのです もちろん真理は変りませんが、人間が行い人間に伝えるものですから、世代や状況によって活かすものが変化するのです 17年の亜細亜の生徒と去年、一昨年とは違うのです ある意味では教授案は真理どう伝えるかという先生各々の工夫なのです 小学校や中学校ではそれぞれ異なる教科書が使われます、また小曽根先生のように体験を添えたものもあります 教え方、伝達方法が色々ある訳です 

前回、この学校の講義はアジア諸国の留学生でした アジアの留学生には日本人から観た、あるいは世代の異なる目からアジアを語る 日本の善いところ、悪いところも語る 気をつけなさい、と注意もする 同じ地理でも導入が違う それがいつも同じなら寝ていたほうがいい つまらない、生徒それぞれの目を視て、雰囲気を観て場面を変えていく、これを応答辞令といいますが、これが無機質な授業を有機的に動かすことになります これはテクニックではないですよ 習慣づけられた人間の情緒の交歓です ここに感動感激が発生する場面があります あくまで教える側の人間性が前提です 

先ほどの応答辞令というのは教室の対応とは別に、たとえば君は何が興味あるのだろう、ということを瞬時に観察して そして応答すると目を輝かせますね 直感力を養うことが大切です  そのマニュアルは自然界に沿ったシステムを考えることで、意外と容易になることがあります

じつは、さっき君の床に座っていた生徒がいるんですよ その生徒が階段を下りながら「恥ずかしかったですよ」というので、「何が、恥ずかしかった」じつは前の授業の中で人間の成長過程があったとき、「君、夢精があったろう、いつ頃だった」と尋ねたことだったでもね「正直言ってスッキリしましたよ」笑っていましたけれど 他の生徒に聞いたら「僕はなかったなぁ」というんです そういうことが無い子がいる、無くてもいい子がいる、君は真面目だからあったんだね、といったら「そうです、私も勉強になりました」 笑いながら別れました 

やはり一つの事柄を単に学術的に捕らえるか、過去の体験、皆さんは二十歳ぐらいですが、その共通したところを探しあうところに理解の淵、入り口があるんですね それが人間同士の理解の入り口を入りやすくすることでもあるんです
君たちは教職課程をとって、学校の先生になろうかなぁ、というところですね
成れる、なれないは別として、人を導くことは学校の先生でなくても教えることができます 




《自と分について》


そのためには学校の勉強は大事ですが、自分を知って欲しいということです  日本人は自分といいます 英語ではアイ、マイ、とか言います 中国では我といいますが、自分という意味が無い 皆さん簡単に使っていますが大変な意味があります 自はオノズカラ、とかミズカラと読みます オノズカラは自然にということです 自然に歳をとる 自然に四季が訪れる ミズカラは自発的ですね 私はこうするとか、人間のなかに人為と無為が同居しているんです 人為は考えたり見たりすることができますが、無為自然は計算できない部分です こんなこともあるんだなぁ、と知ることも自分探しなのです
分ですが、これは何分の何ですね 教室に30人いたら僕は30分の1です みんなが集まって全体、つまり1になります ですから自分はどの位置かなぁ 背が低いかなぁ、走るのが速いかなぁ、さまざまな特徴があります、その特徴ある一人一人が補い合い、調和しあって全体になるわけです 社会も教室も一緒です あるときは僕が先生、あるときは君たちの誰かが先生になって教室を有機的にする




《活かしかたを探すこと》

 国も同じです 学問の究極は「ワレ、ナニビト、ゾ」といいまして、自分はナンなんだろうということを探求することが学問です 特徴を探求すれば、科学、文学、体育、分派すれば色々あります 農業、工業、政治家、それも特徴の発揮で他に貢献します 一生掛かっても難しいことです 

たとえば、松尾芭蕉が追い求めてものが道端のぺんぺん草を観て開眼したという話もあります  文字からそれが解けることがあります  玆(クロ)という文字ですが、玄が二つです  この玄という奥深いものを求めていくと、玆になる  暗黒ですね  玄のマタ玄といってどこまで行っても玆(黒)なのです それほど難しいものですが、前を探さなくても、すぐ後ろに在るといことですね  見えるものばかりではありませんね  後ろに大事なものが付いている、あるいは探していたものが自分自身の中にあることが気がつかない、ということがあるということです  
昔、お爺さん、お婆さんに聴いたことがある、あるいはそんな体験があったと思います  親はうるさいことばかり言っていたけど、あの言葉は忘れないな、と想うことがあります  またトラウマになっていると感じている人もいますね

逆に、新しい知識を、新しいものを取り入れているのが、今の状況ですが、却って煩雑になって混乱しています 振り向けば身近にあった、あるいは鎮まりをもって考えると自分自身の心の奥に在った、ということもあります ですから探求も前ばかり突き進むのではなく、命も考えも東洋的な考え方では循環している、と考えると容易に発見できるものです そこには感動や感激も湧き出てきます 

だから学問は知識技術を唯一、有用なものだと考えるのではなく、感動感激という心の躍動をつねに感ずる、ある意味では魂の継承が無ければ本当の学問とはいえません  また循環ですが、悪いことがあったら善いことの前兆かな、あるいは勝手な話ですが、夏には冬が恋しいし、冬は夏が恋しい、これは四季循環からくる習慣思考です

一つ古典ですが、中国では一番よい生き方は、水のように生きることだといいます
水は気体、固体にもなる 雲となり山に水を降らせ、小川となって中流では万物に潤いを与える また四角でも丸でも器に納まり、一生そこに留まることもあり、濁水は綺麗な水を受け入れ、きれいな水は泥水をも無条件で受け入れる そして大海に注いで船を浮かべ、いったん怒ると船を転覆させる、すごいですね  ここでいう水は人民、船は皇帝ですいつでもひっくり返すよ、ということです  

あの「上善水の如し」という日本酒がありますが、これは老子の教えです ある意味では中国は儒教ではなく、道教ですね  支配、制御は儒教、実利、生活の工夫は道教です  よく、くだらない人間といいますが、水は上から下に、しかし人間は地位、名誉、お金、みんな上に昇りたがる 昔は馬鹿ほど上に昇りたがると言いましたが、これをクダラナイ人間というのです ちょっとコジツケかも知れませんが、当たっていますね 

 無いよりかは、幾らか有ったほうがマシくらいで、なんら人格を代表しないものを求めるのですね そこには争い、裏切り、など多くの問題を招きます 智は大偽を生ず、といって智を己を偽るために使い出すといっています 終いには欲望を制御できなくなる  これを制御するのが勉強の一つなんです 知識人の堕落は国をも滅ぼすことは数々の歴史に現れています

ここでも学んだものを、どのように活かすかが問題になります そのためには無機質な勉強を有機的に使わなくてはなりません 単位とって合格しても、それだけでは人生は落第するかもしれません もう一つ異なった視点が必要です  たとえは゛学問全体が10だとしたら官制学校の勉強は2か3ぐらいしか占めていません  大学校へ行ったからって一人前のパスポートがある、そんな問題ではない ある意味でははかないものかもしれない  

以下次号
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霞山会の広報誌となったThink Asia

2014-12-02 11:01:20 | Weblog
台湾外交部次長 表敬  左から伴、大塚、



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伴 武澄

 Think Asiaというタイトルは国際平和協会が開催するシンポジウムの名称でした。アジアをこれからどうするという議論の中から「アジアの意思」という発想が生まれました。評議員をしている宝田時雄さんが台湾の日本代表部の人たちと議論している最中でした。それを英語で「Think Asia」にしようと言い出したのは同じく評議員の大塚寿昭さんでした。大塚さんはIBMでシステムエンジニアをしていて、IBMがパソコンに「Think Pad」と命名したことから「Think Asia」というフレーズがひらめいたのでした。僕はとてもいい表現だといまでも思っています。

 かつてアジアの四龍といわれた韓国、台湾、香港、シンガポールがありました。その後にASEANが続き、中国とアジアの国々が経済成長のトレンドに乗りました。アジアは経済的に確実に豊かになったのです。しかし豊かになった結果、何が起きたかといえば、対立です。何のために豊かになったのか分からなくなりました。

 ヨーロッパは第二次大戦を境になんとか国家間の対立を押さえようとしました。その叡智の結果、欧州連合が誕生したのです。アジアがこのまま対立していてはいけない、そんな発想から「アジアの意思」という概念が生まれました。まだ人口に膾炙されているとはいえません。

 三年前、財団法人霞山会が広報誌をつくるということである会合に呼ばれ、広報誌の名前をどうしたらいいか議論になりました。結果、僕が提案した「Think Asia」が選ばれました。国際平和協会で使っている言葉が初めて外部の組織で使われたのは嬉しいことでした。霞山会の「Think Asia」は季刊発行ですでに一〇号まで発行されています。アジアの現在、過去、未来を語る雑誌となっています。発行部数は四〇〇〇部ですから、なかなか影響力があります。

 あるシンポジウムで元自民党幹事長の加藤紘一さんが「大東亜共栄圏の代わる新たな言葉が必要だ」と言っていました。アジア各国で「Think Asia」が共通語となる日を願っています。(伴 武澄)







馬総統




「宝田「アジアの意思」が台湾外交部次長と会談」
  


萬晩報主宰 伴 武澄

国際平和協会のアジアの意思研究会(会長・宝田時雄)のメンバーが9月20日から4日の日程で台湾を訪問し、22日、欧陽瑞雄外交部常務次長と会談した。台湾側は外交部の呉嘉雄台日関係執行秘書が同席、協会からは宝田特別研究員のほか大塚寿昭評議員、伴武澄専務理事が参加した。

本来は、陳唐山外交部長との会談が予定されていたが、急きょ外国出張の日程が入ったため、次官との会談となった。会談の中で欧陽次官が強調したのは、台湾の生存のためにアジアの国々に対して「主権の概念」を変えることを求めたことであった。主権国家でないことを理由に多くの国際機関に加盟できないでいる台湾の苦悩を示したものだ。


欧陽
ようこそいらっしゃいました。宝田という名前を聞いてハンサムな日本の俳優の名を思い浮かべました。大塚さんの塚で宝塚を思い出しました。国際平和協会はこれまで国際平和のために多面的な活躍をしてきたと聞いています。環境面でも高い関心を持っているそうですね。私の名の欧陽は欧陽菲菲の欧陽です。五千年前は親せきだったかもしれません。

宝田
われわれは「アジアの意思」ということで人物を求めて台湾にきました。人が人でなくて、どうして国家が国家として成りえようか、という先人の言があります。台湾ではさまざまな問題を考えました。それを解く要点は歴史を多面的に俯瞰して、民情を下座観することが大切と考えます

欧陽
アジアからみて日本は規律があり、団結があり、秩序がある国柄であり民族です。ハイテクレベルは世界トップクラス。アジアのリーダーの資格があります。雁行(がんこう)経済理論でもリーダーで、親分でもあります。きれいな景勝地も多く環境にも力を入れている。素晴らしい国です。現在、経済的に難問を抱えていますが、発展のプロセスの中でどこでも起きるようなことです。中国は現在、一〇%を超える成長を続けていますが、経済力が低い時代に台湾にもそういう時代がありました。
人材の育成は非常に大切です。人材なしには国をたてることができない。台湾は現在、三六カ国と国交があります。中南米や太平洋の国々が多いのですが、そういった国々でも同じです。わたしは昨年までシンガポールにいましたが、同国では国を挙げて人材の育成に努力していました。資源がなく小さな国土ではなおさら人材が必要です。
台湾でも人材にスカウトや留学生の帰国を促すなど全力をあげてやってきました。蒋介石の時代、九年間の義務教育を推進したことが、その後の経済発展に役立ちました。一九九八年のアジア通貨危機で台湾の衝撃が比較的小さかったのも人材がいたからです。外国に行った留学生たちはITとかの発展に役立っています。

宝田
古いものと新しいものの調和が必要だと思います。日本は明治維新、第二次大戦の後、次々と古いものを捨ててきましたが、はたして良かったのかどうか。 
欧陽 アドバイスがあればどんどん言ってほしい。シンガポールのリー・シエロン副首相がこの間、台湾に来ました。その時もいろいろ助言をもらいました。欠点があれば素直に直す精神は大切です。新しいものと古いものとの調和はおっしゃるように重要です。古いものは発展の礎なのです。
一九八八年、台湾は(民主化という)外国が三〇年でやるべきことを一度にやりました。それから二〇年、徐々に軌道に乗りました。古いもののよい部分は残さなければなりません。「古い幹に新しい枝をつける」という宋美齢の言葉があります。

大塚
きょうは二つのお礼を言いたい。ひとつはわれわれに貴重なお時間をいただいたこと。二つ目は、一九日に芝山巌の六氏先生碑を訪ねたのですが、あの六人の中にわたしの曾おじいさんがいます。楫取道明といいます。碑を整備していただいた上、お墓まできれいになっていました。

欧陽
芝山巌はよくハイキングで行きます。今度行ったときにお参りしたいと思います。
大塚 ひとつ考えてもらいたいこと、一緒に考えたいことがあります。台湾は対米、対日、台中のことを考えていると思いますが、アジアの中の台湾についても考えてほしい。私は国際平和協会の評議員をやっていますが、将来、シンクタンクをつくりたいと思っています。シンク・アジアというテーマです。台湾のアジアの中の位置についてうかがいたい。また一緒に考えたいと思います。

欧陽
確かに台湾にとって米日中のウエイトは大きい。日米は外交部の仕事。中国は特別に大陸委員会という組織が処理しています。ASEANは裏庭のような存在ですが、台湾には「南考政策」というものがあります。南アジアもまずます密接な関係になりつつあります。インドやバングラデシュには広いマーケットがあります。そういう国々にどういうサポートができるかという問題があります。われわれの五〇年の経験をインドやバングラデシュに伝えることができると思っています。
 アジアでは自由貿易地域(FTA)が盛んですが、台湾も力を入れています。アジアでFTAを締結するときに台湾を忘れてもらいたくないです。欧州連合(EU)では加盟国が一五から二五へと増えました。アジアにはまだそういうものはありませんが、重要なことは、そこで主権に対する概念が調整されてきたことです。従来、主権は分割できないということになっていましたが、EUはそうではない。EUの例をわれわれもシェアする、分かち合うことができると思います。
 衛生保健の領域で世界保健機関(WHO)がありますが、SARSの時、われわれは主権国家でないということで加盟できなかった。アジアの国々は今後、主権の概念は変えなければいけない。さきほど、シンクタンクの話がでましたが、そういうことが一緒にできるならば、アジア太平洋地域全体の統合にも役に立つと思います。共同体形成に向けて研究したらどうかと思います。またのお越しを心からお待ちしています。

宝田
10月10日は双十節ですが、日本ではこの日の意味を知らない人が多いです。双十は孫文の革命に挺身した日本人と貴国先達に対する感謝と哀悼の日なのです。日本でも式典が開かれますが、招待された日本の政治家は新幹線の話や儀礼的挨拶しかありません。台湾側からもぜひ歴史を語ってほしい。

欧陽
古い伝統は進歩のために必要です。社会の進歩のために違う意見を聞き入れることも必要です。

(編集責任:国際平和協会事務局)




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