まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

安岡家の焚書 冒険ダン吉

2023-07-14 13:30:47 | 郷学

郷学研修会にて



縁あって高名な父のもとに生まれ、あるいは家系に偉業の残像を積み重ねた生活環境に育くまれると、何かと人知れぬ苦労もするが、突破する、いや此処では超然といった境に至ると、俗人には思いもつかない洒脱な言辞を発することがある。
訊く側の思惑や妙なステータス意識を差し引いても、重厚さの背景にある

人懐っこさは、時折、童心に導いてくれるような魅力がある。
 孟子の「四端」にある誰にも教えられなくても備わった本性、惻隠、辞譲、羞悪、是非、を想起させ、人間の無垢で生まれながらの意識に引きずり込まれてしまう「安心」の境地がそこにある。

 そこには独律の厳しさと児戯に似た残酷な意図も隠されているが、単なるニヒリズムとは異なる芳醇な情の香りが、かえって訊くものの魂に新たな蘇りを覚えさせてくれることがある。

 

「父は教育者 。政財界の黒幕とか御意見番とかいわれたが、人格とは何ら関わりの無い附属性呼称ですね」

 

 或る日の弊会(郷学研修会)で「青雲の志」と題して安岡正明先生に講話を依頼したときのことがある。それ以来講頭として、御尊父の提唱督励によって発足した郷学研修会を支えて戴きました。当時は大蔵省を退官、長野銀行の会長をされていた。


 「学者の家に生まれて、小学校、中学校の当時は幼心に描いた青雲の志に謂う青空の向こうに夢あるとばかり、当時人気のあった冒険ダン吉を夢中になって読んだが、ある日、母親が庭で漫画を焼いてしまった。 まさに目の前の焚書であった・・・
 その後、何時でも東洋の古典に接する機会があろうかと、始めはドイツ哲学を読み漁った。それはどう生きるかという命題の探求だった・・・


東洋の古典に囲まれつつも、当時流行ったマルキシズムや西洋的教養に触れ、そして古典を回顧するといった経過の中、一方、大蔵省では税務査察という大衆にとっては疎ましい側から世俗を観察するリアリズムが、洒脱という他に直線的でない表現に顕れている。

 

        

        皇太后御用掛 卜部侍従講話の後に・・・

 


「あるとき税源について議論している若い税務職員が泥棒と売春婦から徴収したらどうか」と面白い設問があった。 

いわゆる所得に対する必要経費の問題だが、泥棒の凶器や売春婦の布団は必要経費かと議論になった。
徴収する税収財源について妙案を出すのが職員の習いのようなものだが、
『それは違法収入なので罰金』と、議論を終えたことがあった・・・
・・・本来、税は徴収されるものと考えているが、同じ地域に住む人々の参加費と考えるべきだろう

酒は召し上がらないということになっているが、熱海での一泊研修の折、女子会員の酌に幾度となく杯を傾けて、その都度面白い語りがほとばしる。
語り口は独り言のような小声だが、言わんとする単語になると妙にハイトーンになる。

「父が四柱推命で私を観たことがある。四十過ぎから運勢が善くなるが女難の相があると観た。 普通、女難とは女性に難をかけられるようだが自分の場合は女性に難を掛ける相のようだ」

何事かと聞き耳をたてて周りに集まった連中も、深刻な口調に笑っていいものやら、ただ頷くだけだったが、ニヤニヤと杯を差し出す風情に次はどんな話かと興味は募るばかり・・・

「東北の税務署長で赴任したとき、よく居酒屋で独り酒を飲むことがあったが、あるとき衝立の向こうで頻りに言い訳している声がした。 聞き耳をたててみると、 どうも愛妾に毎月の手当てを値切っている様子だったが、その言い訳の口上の中に『近ごろ税金の取立てが厳しくて・・・・』と聴こえた。何も税金のせいにしなくてもいいのに・・・・」

 

              

         卜部皇太后御用係    小会にて

 

御尊父を慕う政財界の弟子と称される人たちについて母のエピソードを語っている
あるとき母が父に問うていることがあった。あなたのお弟子さんと称する立派な人は多いけれど、どうして下半身に問題がある方が多いのですか・・・そんな母の問いに父は苦笑いで頷いて答えなかった」

時として潜在的剛毅がこぼれるときがある。
税(公平)と警察(正義)の姿勢によって国家は変質する」

郷学について
「田舎の学校と考えればいいと思います」それは田舎を単なる立ち遅れている野暮な場面としてではなく、清純かつ素朴であり感度が鋭いということであろう。
筆者も郷学作興の際、御尊父から『無名有力』を銘として諭されたことを想起します。

そして老若男女、内外職域を問わない小会の趣に
「難しいと思われる内容を難しく聴かせることは簡単ですが、楽しく好きになり、知って教え、行うことが容易になることが大事です。父の描いた郷学作興、無名有力はそんな意味があります。いろいろな見方や呼称はありますが、父は教育者です。父の実像を知ればそのことが分るし、このような集いが父の描いた地域郷学です

また世俗の患いを憂うる若者に
日本の各地域にこのような方々が集って語り合い、研鑽している。是があるから国は維持できている」とも述べています。

 

           

          熱海講話   中央 正明氏  

 

          

   佐藤慎一郎先生   講話の後の酔譚を愉しむ

 


 宿の就寝に天井を眺めながら止まらない会話が起床のもどかしさとなり、海風が心地よい早朝の茶話につい『安岡ブランドで喰っている連中が多い』と呟いた小生の一声に応えられた真摯な姿は、初対面にもかかわらず無名浅学な拙者に長時間に亘り対座された御尊父の威風がそのままの姿で蘇りました。 

朝食の呼びかけにも関らず学問の本義を語り続ける姿は、政府高官からの電話に『来客中!』と、取り合わず、ピースと羊羹を肴に、明治人特有な実直さで時折カン高い音調を取り混ぜた御尊父の熱中談話を彷彿とさせます。

是は面白いよ・・・と持参された本は、カメラマンの宮嶋茂樹氏が著したカンボジアPKOに派遣された自衛隊の随行記でした。
内容は『不肖、宮嶋は・・』から始まる緊張とコミカルが混在したものでした。手渡されたとき、楽しそうに語られる姿は庭先で母に焼かれた、焚書『冒険ダン吉』に描いた青雲の想いが蘇るようでした。

 

     

  奥様から、男だけの御茶の稽古

 


青雲が暗雲に移る時運の悪戯を、母の手によって焼かれていく青雲の夢と同様に眺めていた感のある人生のなかで、洒脱という幼子に似た照れ隠しが、折々に観える剛毅を包んでいました。

青雲の志を語るとき、常に自由な家風に育くまれた環境を感謝しています。
「何れは南洋のどこかの総督になりたいと思っていたのは、本当に当時の若者の夢だったのです。青い雲の向こうには大きな希望があり、それは男子の野望といったものでもありました」

佐藤慎一郎先生は郷学巻頭を楽しみにしていた。
そして、いつもこう述べています。

正明さんの文章は生きている。学問は生きていて活かすものだ。中国の古典は天地自然の循環の理(ことわり)の中で変化に対応している。つねに生きていなければ意味がない。真理があって事象だ。正明さんの文章は楽しく学べる深くて厚いものだ」

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天聴に達した「郷学」の淡交録   07,6 あの頃

2023-04-29 02:33:10 | 郷学

 

人はその力を数値評価に置き換えることがある。たかだか努力すれば上下したり、ときに嫉妬や怨嗟の対象になったり、まことに気の抜けない問題である。

しかし、たとえ2世であっても、あるいは独特の出自を以って恬淡に生き、その姿をして安心と鎮まりのある雰囲気を醸し出す人物が存在する。

写真の三方はいたって洒脱な粋人ではあるが、信念と目標の明確さは人後に落ちない。左は平凡社の邦さんこと下中邦彦氏、出版会の大立者であった父弥三郎の意を受け、あの東京裁判のインド判事パル博士と義兄弟であった縁でパル・下中記念館を運営している。隣は安岡正明氏 碩学と謳われた父正篤氏の意を継承して郷学作興に意志を添えている。一人置いて皇太后御用掛の卜部亮吾氏。入江侍従亡き後、皇室の語り部として、゛奥゛を切り盛りしている。つねに郷学に留意して、社会の真の力の涵養に心を砕いている。

古い言葉だが「天聴に達する」という。
天皇陛下にお伝えしているということだ。
小会の安岡講頭が園遊会の折、『かわらず勉強しておられますか』と、お声を掛けられた。もちろん侍従は「奥」を支える卜部氏である。
その卜部氏は横浜から拙宅に来訪されたり、節目には小会「郷学」の激励と期待を書簡にて御送達していただいた。

余談だが、御尊父正篤氏も園遊会で先帝陛下に『勉強されていますか・・』との御下問があった。親子二代にわたって「勉強していますか・・」とは昭和、平成二世にわたる稀有な期待でもある。


一時、鉄は国家なりと悲壮な国家観を抱いて経営に邁進した経済人は多かったが、近頃では流通、金融、通信、あるいはベンチャーといわれるような拙速とも見える経営は、市場の絶え間ぬ欲求から、一時の風雅を漂わすことの無い経営者が持て囃され、お上御用の委員に選任され御政道にも口ばしを入れている。

また大衆の人物観も一昔前の、゛大きいものはいいことだ゛から、゛目立つもの゛゛カッコいいもの゛と変化してより人間の流動性を高めているようだ。

郷学も三氏を始めとして多くの先輩に督励助力を戴いておりましたが、その出自や背景を口の端の看板にする政治家、経済人の輩の侵入に一時の休息を余儀なくされたことがあった。

君子の交わりは淡交とはいうが、利交、術交、詐交、熱交、の余りにも多いことか。『ゆっくり鎮まりを以って・・』言葉を同じくした三氏の意志を懐かしむ次第。






佐藤慎一郎先生




以下は発足時の「郷学研修会」の構成である
セミナーや人脈作り、はたまた看板知学の類ではない。
参会者は自由参加で、高校生、商店主、政治家志望、官僚、外国人など呉越同船の集いだった。

https://kyougakuken.wixsite.com/kyougaku/home 

※ 上記は更新されていませんが・・・

事務所 東京都港区元赤坂1-1-7-1103
    tel 03-3933-3475 fzx 03-5922-6400

 

郷学研修会 創立時構成

[顧問](発起督励)
     安 岡 正 篤    漢学者
     ト 部 亮 吾    皇太后御用掛り
     佐 藤 慎一郎     中国問題研究家
     安 倍 源 基     元内相
     五十嵐 八 郎     吉林興亜塾

[相談役]    下 中 邦 彦    平凡社相談役
        中 村 武 彦   古事記研究家
        岡 本 義 雄   思想家
       一 水 伝         環太平洋協会主宰

[講頭]     安 岡 正 明   長野銀行会長 郷学研修所理事長

[代表世話人]  寶 田 時 雄   (財)国際平和協会主任研究員 

主な講師、上記構成員(附属名称略)ほか

柳橋良雄 (安岡正篤記念館館長)   小関哲也  (時事通信内外情勢調査会)
ニック・エドワーズ (ジャーデンフレミング証券)  稲葉修  (憲法学者 法相)

ほか内外有識者


[規約等] それぞれの良識に任せる

[費用]  当日の必要経費の参加者分担 講師料は3万円を限度とする

[予算]  当日限りとして残金留保しない

「会場]  憲政記念館 渋沢別邸 瀬田大山クラプほか

[研修]  定例は毎月一回 一泊研修年1回

[会議]  総会等の組織会議は行わず運営は篤志世話人によって随時企画構成する



【郷学】きょうがく とは

〈 監修 安岡正篤〉


明治以来の富国強兵政策のための知識、技術のみに偏る官制学ではなく、地域、職域に基づく人間教育といった方が分かりやすいとおもいます。

 たとえば、学問や体験習得を生涯のことと考えた場合、官制大学へ入学する18歳までの知識修得で人生が決定され、しかも錯覚された地位、名誉、学校歴、それによる財力によって自動的に指導的立場におかれた場合、社会に妙な弊害を生じます。  

何のために知識が必要なのか、どのような場面で発揮すべきかが分からないまま、組織の一部分に安住していては、「何のために生まれたのか」「何を行おうとしているのか」「自分は社会(世界)のどの部分なのか」といった「自分」(全体の一部分の存在)が解らなくなり、ついつい地位や物によっての表現しかできない人間になってしまいます。

肩書のなくした退職後や、狭い組織や地域でしか通用しない地位、学校歴では世界に通用することもなければ、人生そのものを固定観念に置いてしまい、夢や希望といった爽やかで無垢な自分を発見することなく人生を終えてしまいます。

 偉人と称され、当時の列強の植民地化から日本を救った明治の賢人たちは今流の学校歴もなければ地位は下級武士、財もなければ肩書もありませんでした。

加えて、時代を見抜く見識と利他に貢献する勇気、そして何よりも日本および日本人として、またアジアと欧米の調和といった全体を考える許客と包容力を養い、そのために死をも恐れない献身がありました。

その根本は単に知識、技術の習得だけではなく感動、感激をつうじた人間教育の浸透的体験がありました。

それは、人と比較するものでなければ、中央に寄り添う迎合もなければ、財のみを日的にする行動ではありません。つまり修得の前提となる「本」となる精神の涵養でした。

そんな入間を育てた郷士の環境、歴史の恩恵にもう一度、価値を見いだす相互学習の場、それが「郷学」の楯唱でもあります。

                          



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いずれ、其の男のような人物の登場が必然となる   9 7/13再

2023-02-23 00:54:38 | 郷学

 ≪宣誓式は総統府の大ホールで行われ、蔡氏は国父・孫文の肖像画を前に、右手を挙げて「憲法を順守し、職務に忠誠を尽くし、国家を守る」と宣誓した。≫ 毎日新聞

https://www.youtube.com/watch?v=RoBIRF5aLQ0    Youtube

孫文は大陸の中華人民共和国と中華民国台湾の双方が国父と讃えている人物である。

中国は共産党の毛沢東が天安門に掲げられているが、台湾は国民党の蒋介石が辛亥革命の領袖として国父記念館を創建し、対立する民主進歩党の蔡英文氏も総統就任の宣誓では孫文の掲額に向かって宣誓している。孫文は対立していた国民党の創設者ではあるが、民主進歩党に政権が変わっても従来通りの形式を維持している。ここで一つの中国論はおいて台湾が孫文の存在を維持継続する由縁について、一つの切り口をもって記してみたい。

                                                           

 

台湾人の文筆家 黄文雄氏は日本において孫文の印象を「ペテン師」として批判した。自由な国、日本において様々に国の人たちが自国の権威もしくは権力者をあしざまに糾弾し、嘲る行動をすることがある。

日本人は「遠くにおいて思うもの・」と郷里を懐かしみ、過ぎ去った恩讐を自らの反省と共に心中に留めることを倣いとしている

あえて言うなら「ペテン師」その通りである。加えれば「女好き」「浪費家」「策略家」「妄想家」も付け加えたい。

ならば「中傷家」「曲解家」「細事批評家」もしくは曲学阿世のモノ書きもいるだろう。それらは往々にして肉体的衝撃を回避する自由と民主の防護壁の内にある。

孫文がそんないい加減なペテン師なら、それに協力した頭山満・犬養・宮崎滔天・萱野・梅屋・後藤新平・秋山真之ら、国内外で讃えられる人物は、みな人を観る目もない愚か者だったのか。国内において、たとえそのペテン師の言に騙され、塗炭の苦しみを味わう人々に沿って、肉体的衝撃をものともせず侠気を発揮して自己完結ですら適わない走狗には、更新の魁の意志すらないだろう。国が乱れるのは知識人の堕落からはじまる。それは売文の輩と言論貴族の食い扶持に走る姿だ。

たとえ異なることに挑戦し罵詈雑言を受けても、異民族が連帯し、アジアの不特定多数の利福のための行為は歴史の一章に刻まれている。

今どきの浮俗とは趣の変わった明治日本人有志の共鳴と命がけの貢献によって成し遂げた隣国の近代化の魁は、西欧植民地主義の頚木からの開放だった。

歴史は自らの行為に悲哀と反省を与えてくれる。我国もそれが頚木となって現在も続いている。しかし、それは商業出版のセンセーショナルな標題や陳腐な内容に一喜一憂する人々を覆っている頚木を抜くことにはならない。却って鎮まりの中での思索や観照を妨げ、意志のない一群を増殖させてしまうだろう。

将来のアジアの連帯と世界の調和を逆賭するとき、物書きの走狗に入るような一過性の戯言は、香りのない無味乾燥とした情緒を作り出してしまう危惧がある





 

山田の生地弘前に孫文選書 山田純三郎の顕彰碑
 




ブログ「請孫文再来」より (寳田時雄著)

◆天恵の潤い  

孫文は呼称、革命家である以前に『天恵の潤い』でもあったのである。終始、孫文の側近として同行した山田がその人柄を述べている。
 1924年 12月25日の深夜だった。神戸のオリエントホテルに頭山満さんたちと泊まった夜だった。夜中に廊下をウロウロしている不審な人物がいたので、だれかと思ったら孫さんだった。
「如何したのですか」と聞いてみたら 

頭山さんはベットに不慣れだろう。もしもベットから落ちて怪我でもしないだろうか。心配だ」と、人が寝静まった廊下を行ったり来りしていた。
 しかも食事といえば、日本食が苦手な孫さんだが頭山さんに合わせて和食を共にしていた。あの孫文さんがだ。だから皆、孫さんには参ったのだ。

 山田はお金にきれいな孫文についてもこう言っている。
日本に亡命して頭山さんの隣のカイヅマ邸に居を置いていたころだった。日本の警察が日常行動を監視していた。
 孫さんの荷物は大きな柳行李がひとつあった。
 あるとき開けて見ると本がぎっしり入っていた。中には金銭の出し入れをきちっと記録したノートもあった。しかも孫さんはお金には絶対触れることがなかった。地位が昇れば金(賄賂)を懐に入れる人間ばかりだが孫さんは決してそんなことをしなかった。革命資金は公(おおやけ)の為の資金ということが孫さんの考えだ。だから民族を越え世界中から革命資金が寄せられたのだ。
 
加えて笑い話のようにこう付け加えた。
 孫文先生の亡くなった日のことだ。遺言を残さなくてはならないだろう、ということになり孫文先生の病室の隣で話し合うことになった
 そのとき二通の遺言がつくられた。一つは「余は国民党を遺す…」といったもの。もう一つは家族に宛てたものだ。その中で「自宅を遺す…」と読み上げられた途端、皆から笑いがもれた。なかには涙顔で笑っているものもいた。皆はその上海の家がいくつもの抵当に入っていることを知っているので、そんなものを遺されてもしょうがない、というので孫さんらしい話だというのである。

 そもそも遺言そのものは書ける状態ではなかった。残された記録では慶齢夫人が抱き起こして云々とはあるが、そんな状態ではない。
 事実、そばにいた自分が知っている。 サイン(自署)はどうするか、ということになり長男の孫科が代筆することになった。孫科は「親父の字は癖があるからなぁ」と、幾度となく練習して“孫文”と署名している。
 
ところが翌日、新聞に発表された遺言は三通になっていた。その一通が『ソビエト革命同志諸君…』とあるものだ。
 当時、コミンテルンの代表として国民党の顧問として第一次国共合作に重要な役割を果たしたミハイルMボロジンと深い交流があり影響下にあった汪精衛が出したものだ。
 しかし、遺言は重要なものだし、だれがどんな意図で書かれたかは後の問題だ。その後の国共内戦を考えれば孫文の余命を計って練られたことは容易に推察できることだし事実だ。たとえ歴史がどのように評価し、あるいはそれが事実だとして定着しようが真実はひとつだ。裏の歴史ではない。真実の歴史だ。

 支那の数千年の歴史の中で刮目すべきは、孫文先生は潔癖だったということだ。名利に恬淡だということだ。西洋列強を追い払い、アジアの再興を願った孫文先生は施政の方法論ではなく指導者のもつ理念を発したのだ。我田引水な忖度ではあるが、そのことについていえば国共両者の遺言の活用方法には意味はある。

 大事なことはこの理念を忘れたことが今までのアジアの衰亡の原因でもあり、この精神を備えるものだけが再興を担える資格があるといっているんだ。
 孫文思想といわれるものは、そう難しいものではない。 公、私の分別と、正しいことへの当たり前な勇気、そしてアジアの安定と世界の平和。そのために日中提携して行こう、ということだ。遺言のことは蒋介石も知っている
 
佐藤は伯父から聞いた話として、台湾の国民党重臣に遺言にかかわる真実を伝えている。山田は一人歩きをした遺言についてこう語っている。

「孫文の精神が民衆のために活かされているなら、だれが作ろうが問題ではない」
また、

「孫文の正統を掲げられなければ民衆をまとめられないのなら大いに活用すればいいし、死して尚、その存在を民衆が認めている証左であり、諸外国がみとめる中国の理想的指導者像である」とも語っている。
 孫文の写真好きについても述べている。



上海に向かうデンバー号にて



「香港へ向かう船上でのことだった。“山田君、長い間日本を離れているとご両親は心配していることだろうから一緒に写真を撮って送ってさしあげよう”と、甲板に上がったら他に乗船している同志が集まって撮ったことがある。たしかデンバー号だった。みんないい顔をしている。」


 
そして…

「最後の船旅で揮毫をお願いした時のことだった。 『革命ならすぐにやれと言われればできるが字を書くのは苦手だなぁ』と、いいながら書いたものが、先生の絶筆になった『亜細亜復興会』だ。
そのとき孫さんは右手で『ストマックが痛い』と腹を押さえた。自分は “孫さんストマックは逆ですよ ”と言ったら『そうか…』といって黙っていた。孫さんは医者だが体を治す医者じゃない。天下を治す名医なんだ」

 佐藤に語るときの山田は記憶をたどりながら孫文との思い出に浸っている。とき折、瞳は潤いを増し虚空をさまよっている。
 それは猛々しい革命家の姿ではない。兄、良政と共に挺身した孫文への回顧とともに、師父に抱かれ育まれた志操の遠大さに、我が身をどのように兄と同様に無条件に靖献できるかを巡らしている弟、純三郎の姿である。



 靖献(せいけん)
   心安らかに身を捧げる



________________________________________
【ミニ解説】 孫文の遺言
 余、力を国民革命に致することおよそ40年、その目的は中国の自由平等を求むるにあった。40年の経験の結果、わかったことは、この目的を達するにはまず民衆を喚起し、また、世界中でわが民族を平等に遇してくれる諸民族と協力し、共同して奮闘せねばならないということである。
 現在、革命はなお未だ成功していない。わが同志は、余の著した『建国方略』「建国大綱』『三民主義』および第一次全国代表大会宣言によって、引き続いて努力し、その目的の貫徹に努めねばならぬ。最近われわれが主張している国民会議を開き、また不平等条約を廃除することは、できるだけ早い時期にその実現を期さねばならないことである。(要訳)

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いまどきの安岡学に集うこと 08.5 あの頃も

2022-11-16 08:22:49 | 郷学

数年前より安岡正篤という人物を取り上げた書籍が氾濫している
それも当人が亡くなられた後、弟子や有名人と称される者が金屏風を背に登場することが多く見られるようになった。

以前、御長男の正明氏と一夜投宿した早朝にこんな会話をした。

「ちかごろ安岡学という妙な学が流行っていますが・・」
『お弟子さんの中では父の説いたもの、あるいは臨機に遺した事績の背景となる学問ではなく、時の権力者との交流や人脈、はたまた増幅され偶像視する人たちがいますが、父は教育者です』

「偶像視する人は人脈を辿り利につなげたり、なかには安岡ブランドで食んでいる人もいます」
『父が存命なら出版させないものもあるし、そもそも名を遺すということに慎重であり、ある意味で遠ざける気風がありました。そういえば父が酒席で遅くなったとき『あなたのお弟子さんは名のある方が多いようですけど、下半身のほうは・・』と母から問われ、さすがの父も沈黙せざるを得なかった』

確かに脱税で収監された地方マスコミのオーナーや、人脈をつくることに勤しみ安岡ブランドのセミナーを利に繋げているマスコミ出身者、あるいは説かれたことをオウム返しに「解りました」といった途端、「そんな簡単に解るのか・・」と叱責された二世財界人もいるが、総じて安岡ブランドを吹聴して名利を貪っている。

昨今は細木女史との問題で女性の認知に端緒が開けたようだが、殿方の興味も奥方のそれに似て井戸端風の浮俗の話題が多くなっている。

ただ記憶すべきは名利に恬淡で、かつ洒脱な座談は人を区別せず義の香りをその是非の座標にしたことだ。義談、良酒に時を忘れ、ピースの両切りを好み、世俗の情勢に敏感でテレビも時代劇を好む方でした。

そして古の偉人賢人を手元に引き寄せ、人間を問う薫譲された学風がありました

ゆめゆめ挨拶代わりの借用や、金看板にするような詐学、利学の類に錯覚なきよう世の安岡学?に翻弄されないよう祈るばかりです。

それこそ存命なら『学問の堕落』と言われ、そもそも安岡学とは何ぞやと問われるはず。

まさに、
「小人の学は利に向かう」
「利は智を昏からしむ」
「小人、利に集い、利薄ければ散ず」
いずれ、飽きるたぐいの知学でしかない。

 

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安岡正篤の呻吟  吉田茂の銅像と国葬 2007/6

2022-08-09 15:30:01 | 郷学

 

いまは金と地位が自由になると、畏れ多い、謙譲の美徳、不特定多数の国人への忠恕など死語になった。昨今はとくに中央、地方問わず、政治、官界にその姿は顕著に表れている。

「美しい国」があるかどうか解らないが、本来は、「清く、正しく、美しく」が本来の唱和だが、その「清く」と「正しく」が無ければ、当然、美しい国は目の前には現れない。

吉田茂は天皇を畏敬し書簡の末尾に臣茂(吉田茂は天皇の臣下の意味)と記すくらい、輔弼の使命意識がつよかった。つまり国民統合の象徴である天皇の存在意義を自らが体現しているのだ。

それゆえに、もしも存命中に銅像や、天皇と格式上であれ同位になる国葬などもっての外と激怒したに違いない。遺族とて畏れ多いと丁重に遠慮したはずだが、取り巻きには別の理由があったようだ。

吉田氏が歳上でありながら老子と敬して意見を請うた安岡正篤氏も同様な気概がある。官位褒賞の類とは縁はなく、宮中の侍講懇嘱も断っている。染井の墓石は何処にでもあるような自然石だ。

以下は吉田氏の周りに募った代議士が、さぞ吉田先生も喜ぶだろうと、親の心 小知らずの児戯のような内容だが、吉田、安岡両氏のような気概もなく、国家を経営し政治が整うのか暗澹となる。

 

 『慙愧の念にたえない』岡本義男の舌鋒は鋭かった。弟子といっても「看板弟子」ではない。義友である。

 


岡本は戦前、安岡邸のある白山に在住していた。何かあると先生!と足繁く通い,安岡も寸暇を惜しまず無名の烈行哲人に応対した。また利他の善行に及ぶと「憂国の士、差し向ける」と、自身の名刺に書き込み送り出している。

ことは吉田茂の銅像の頌徳撰文を安岡が懇嘱されたときだった。
岡本は言う

>>「先生! この銅像はどこに建てるかご存知ですか? 皇居ですよ。あの臣茂と末尾に記す吉田の銅像が皇居の苑(北の丸)に建てられます。果たして吉田氏は草葉の陰でなんと思うか。吉田学校の馬鹿共が、親の心子知らずとはこのようなことです。あのシャイな吉田氏の心中を察すれば高知の桂浜から仰ぎ見る方が・・・いや、その前に銅像なんて、と議員どもを叱り飛ばすはずですが・・」

安岡は『建立する場所までは・・・慙愧の念にたえない』と。

戦後まもなく岡本は札幌に居た。その地域の当麻神社の宮司から相談されたことがある。
>「岡本さんは東京で偉い人を知っているそうだが、此処札幌も戦禍に打ちひしがれ精神までも衰えている。どうでしょう、日本精神の作興のために近じか伊勢の遷宮があるので、解体された御神木を分けてもらえないだろうか。それを以って郷里を復興させたいのだが」

翌日、岡本は東京に向かい安岡邸を尋ねるが埼玉県菅谷に疎開しているという
仔細を聴いた安岡は「戦火で連絡先を無くしてしまったが、たしか総代は吉田氏だ。紹介状を認めるから伺ったらよい」

その足で吉田総代を訪ねて書生に『安岡先生からの使いです』と告げると、しばらくして紋付羽織袴の正装で玄関に現れた。
宮司の願件を告げると
「今までそのような事は無かったが、仰る意図は判った。ついてはお願いがあります。皆さんで神域を清掃してそのお礼にと神木を分けるということでどうでしょう」

まもなく当麻神社に御神木が掲げられた。
ちなみに伊勢神宮内に掛札をつけたイチイの樹が岡本の手で植樹されている。これも稀なことであろう。

 


無名であるがその義烈の行為は安岡を愉しませた。取り巻きは「困ったものだ」と陰口をいうが岡本は意に介さない。
岡本との談義中に政権担当者や重役が連絡が入るが、「来客中!」と応答せず無名の哲人との談義に真摯に向きあっている。

また、長期出張の時は「何日から何日まで留守をしています」と直接連絡がある。

>>「あなたのほうが若さは上だが、頭は飛びぬけて鋭い人が居る。よかったら弟子になったらよい」と、場所も名前も知らされず連れて行かれたのが筆者と安岡先生との縁だったが、安岡師の紅心に中る数少ない人物としてこそ冒頭の言があったのである。

岡本の座右は、【貪らざるを以って寶と為す】である


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安岡正篤と佐藤慎一郎、そして景嘉   2008 稿

2022-07-24 04:40:45 | 郷学

 佐藤慎一郎氏に誘われたある会でのこと・・・

 壇上から一段下がったところの席に佐藤氏は誰かと談笑していた。真剣さに近寄れない雰囲気だが、ときおり間を置くように破顔一笑している。臨席の老人は斜め横からなので、どなたなのか判らない。

 筆者に気がついて右手を高々挙げて起立した。

 するとその間を突いて白髪の紳士が隣席の老人に恭しく挨拶した。
 紹介していたのは見覚えのある碩学の秘書だった。

 近寄ると慇懃に頭を下げ応答しているのは安岡正篤氏であった。
 傍に近づいたその白髪の紳士を正面から見て会釈した。見覚えがあった。
柳川次郎氏である。もう引退をしてしばらく経っていたが、山口組の創成期に活躍し、そのときは亜細亜民族同盟という組織の後見のようなことをしていた。

 安岡氏の秘書とは入魂の間柄なのだろう、もともと安岡氏は目の前に現れる人物には分け隔てなく丁寧に接する。
 そのためか秘書は自らの関係筋を連れてきては安岡氏に紹介していた。

 佐藤氏は安岡氏の晩年は代講を務め、関係者周知の人物ではあるが面白いエピソードがある。
 毎年、日光の田母沢での研修の晩、安岡氏を囲んで懇親がある。
 通常だと神のようにも慕う取り巻きは氏の言の端を聞き漏らさぬよう聴き入っている。つまり安岡氏の座談独演の様相である。
 たまたま客講を委嘱された佐藤氏が座談に入ると、こんどは佐藤氏の独演になる。安岡氏も興味津々笑ったり、首をひねったり、頷いたりしながら聞き耳を立てる。

 佐藤氏のそれは古典の実利と大陸の古典事情や人間のあけすけな欲望に関連する俗諺などを交えた実体験なのである。なにしろ20年の大陸生活である。
 
 筆者も最後の別れに「頼みましたよ」と後ろ背に投げかけられた言葉に応えようと無恥にも当ブログにも多くの関係文を載せているが、安岡氏の学風とは異なることが多くある。明治の気骨を前提にしたものだが、それぞれが陰陽を交互に携えている。

 佐藤氏は社会的には無名、これを陰(地)とするならば、行動あるいは言語表現は陽である。安岡氏は逆である。
 また佐藤氏は「ありがたい」という言葉が印象的だが、安岡氏は無言でそれを説く。

 それは世俗構成された人間像に対する自己律が言葉を選ぶこともあろうが、佐藤氏は大陸経験の中でも、とある人との過ちについて、゛漏電゛と称しているが、曰く、安岡さんは「枯木寒岩(極寒の岩山に立つ枯木)」のようだと形容し、晩年の占い師の件も「人間であってよかった」慶んでいる。また時折脇の甘い部分についても本人に密かに呈することがあったようだ。

 その佐藤氏だが晩年になって易経を学んでいる。しかも授業料を払って景嘉という清朝の縁にある方に通っている。
「難しい・・」
 流暢な北京語は現地人すら日本人とは判らず、古典を暗誦し、地に伏し、戦禍にまみえた佐藤氏であっても景嘉氏の説く「易経」の深遠な意は引き込まれるものがあったのだろう。

 その景嘉氏だが道教の養生術にも長けていた。
 あるとき、「佐藤さん、これはイイよ」と見せてくれたことがあった。
 見ると人が入るほどの隙間に机を寄せて身体を両手で支えて浮かせ、下腹部を露出して陰部に重りをぶら下げていた。佐藤氏は「そういえば・・」と続ける。
「以前、玄洋社の末永さんを尋ねたら褌もつけず素っ裸で庭を掃除していた」
驚きもするが、゛さもありなん゛と納得するものが佐藤氏の大陸生活にはあった。

 その景嘉氏は安岡氏との交流もある。形の上では授業料は無いだろうが、ここでも教えを請うている。
 だが、その景嘉氏も中国人にはない人間の姿、つまり明治の日本人の矜持を佐藤、安岡両氏から無形のものとして受けている。

「景嘉文選」や清末の哲人、梁巨川を記した「一読書人の節操」などは民族を超えた亜細亜の意志を表わしている。

 それは偶然 佐藤、安岡両氏からも薦められたものでもある。

 なかなか間(ま)を観た各氏の交流だが、この意志は現在在日中国人によって大陸に還流され多くの反響を起こしていることを明記しておく。


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安岡氏は、学問に一子相伝はない、あるは堕落だと。

2022-02-26 01:13:12 | 郷学

 

 

吉川英治氏が著書「宮本武蔵」の現世モデルに安岡正篤氏を模想したのは理由がある。

安岡氏は剣道を好み、事実、技能も優れていた。それは正眼で、「目でみるな、観の眼でみる」との記述でもわかる。それと同様なことを吉川氏は書中で武蔵に云わせている。

互いに酒談を好んだが、安岡氏の「童心残筆」に牡丹焚きの情景が記されている。

筆者も真似して牡丹の枯枝を燃やしたが、煙くて様にならなかった。ついぞ焚き方を伺う機会もあったが、諸事清話に紛れて聴くことはできなかった。

その場面では、挿絵画家の新井洞厳氏と吉川、安岡両氏の三方だが、実は新井氏の子息は住友生命の名誉会長の新井正明氏、その道縁で新宿の住友ビルに伺った折に聴いてみたが、酒席の牡丹焚きまで相伝はなかった。

 

香りまでは聴いてみなかったが、若木ならなおさらいぶい。枯枝でも同じだった。

ちなみにご長男で小会の講頭をしていた正明氏に尋ねたが、その種の会話は親子ならなおさらなかったという。自宅二階の書斎での会話では饒舌だった。真に迫ると小生の紅心に中(あたる)ことばはキツカッタが、家族とは食事中でも懇ろな会話はなかったという。

なにしろ、テレビを見ながら食事する、゛ながら飯゛だったようで、会話どころではない。

奥さんが突然テレビの電源を切ることもあった。

父から直接学んだことはない、ただ背中の学だったと正明氏はいう。

ある試験に落ちたとき「試験は落ちるものか」と皮肉を言われたが、きつい話だ。

 

倫理御進講草案 杉浦重剛

 

縁者のことで母が「あの子は計算が立つ、心配もある」と。父は黙って頷いていた。

今どきの生き馬の目を抜くような世俗では、かえって計算もできる方が何かと楽だが、ただ計算も、゛計算高い゛となると、欲張りと陰口を叩かれたりするものだ。

安岡氏も「人生に五計あり」と語っているが、身計、生計から死計まで見通しながら現在を活かすことだと、その特徴を伸ばし活かす学びを促している。

あの位に名を立てると揮毫の依頼が多い。それも懇意なふりして御用聞きに走る輩もいる。

墨を摺り乍ら「霞を食べていると思っているのか・・・」と呻吟めいたことを吐くことがあった。これはと察した人物とか、清話酔譚に興がのると好んで揮毫したが、「あの社長が・・」「あの政治家が・・・」と秘書が云ってくると、誰でもそうだがうんざりすることもある。

 

鉄舟ばりに善意の浄財のために弟子が紙を差し替えるのが忙しいほど,日に数百も書くことは別格として、意を練る刻の墨すりが、そう万たびでは嘆きも増すはずだ。

そもそも売るものでなければ、歓心や迎合のために書くものではない。しかも無償だ。

 

ところが、近ごろでは売れるようだ。あの昭和の碩学、終戦の詔勅に朱を入れ、平成元号の起草者、歴代総理の指南番、などと謳い文句が飛び交うと、愚か者はみな欲しがる。

これを学問の堕落と忠告していた。

このブログでもよく記すが、師から弟子などといわれる御仁はいない、みな自称だ。

没後の著作物とて、著者の了解も得ずに陳腐なマニュアル本に仕上げているが、存命なら「本質を弁えない書き物」だと了とはしなかったはずだ。

 

なぜなら、たとえ縁者でも学問に一子相伝はないと云っていた氏のこと、ヤスオカというブランドが金になると,その性名をもて囃す商業出版や、いかがわしいセミナーと称する勉強会を催すような、世の寂しがり屋や,氏を金屏風に高説を垂れ流す忘恩の徒は決して同縁の学徒とは呼べない輩だ。しかも雨後の筍のように群れとなっている。

 

佐藤慎一郎氏 小会にて

 

ある意味では氏は形をとらざるを得ない処に置かれていた。

だから、反知半解の学徒は、飲み屋で知り合った聴きかじりの口耳四寸の女に、これまた興味の古典の話題を悦ぶ氏の脇の甘さを絶好の噂話として楽しむのだ。

「賢人にも欲情あり」とは,氏も畏敬する佐藤慎一郎氏だが、゛男でよかった゛と喜んでいる。

息抜きは筆者のような無名な薄学な小僧や、世俗から遊離した人間との応答だった。

その人間たちは氏の依って立つグランドにはなかなか乗らなかった。難字は読めず、アカデミックに分析をすることなく、高邁な論理を立て無闇に随うことも無く、遵わせる道理がなくとも、氏の潜在する紅心に感応する無邪気な童心があった。

 

農士学校  現 郷学研修所

 

氏は、それをよく好み、戯れた。

日光の田母沢で催す全国師友会の夕は氏を囲んだ酔譚となる。

氏の言葉に聞き耳を立てる参加者だが、招請された佐藤慎一郎氏がシナの猥談を語ると、本場の古典が生活の利学、活學として驚愕の実態を伝える。猥談と云えば笑話だが、氏の話題は古典の発生した民族の欲望や万象に抗したり、歓喜したりする真の人間学がみえてくる。

学は学び舎や書中にあるものではなく、路傍にも認める許容や辛辣な体験を通じてこそ、自身を知り、その特徴を生かし、伸ばす、生命を謳歌するものでなくてはならない。

その場は佐藤氏の独壇場となり、安岡氏も聞き耳を立てている。

 

その古典だが、過去に起きたこと、考えたことの記述だが、いわゆる昔話だ。

後生はいろいろ脚色して金看板にもなるが、いくら引用しても、どう解釈しても、今どきの著作権はない。だが、これを応用し、様々な切り口を加えて商業出版にした途端、著作権となり金が発生する。子孫はこれを相続として相伝する。まさに金の面では一子相伝だ。

そうなると、縁者は群がり、他人はブランドを使い、一面だが堕落する。

茶道宗家の箱書きではないが、ブランド姓のサインでも入れば寳ものとなる。

安岡氏は「貪らざるを以て寶となす」と。また、「伝えるのは自分で学ぶ者はあなた」と添える。小生の容像体を見抜いて「無名は有力ですよ」「郷学を興しなさい」「政治家は人物二流でなければ大成しない」「大学へ行くのかね」と、当時は戸惑った言葉だったが、確かに「頭のよいということは、直観力が優れているかどうかだ」と加えられれば、小生の将来に起こりうる禍福を観透していたのだろう。

 

講頭 安岡正明氏 中央

 小会にて

その意識と目の前の人物に倣おうとしていた学びだった。

また、いかに世俗の評価のいかがわしさも見えてきた。

修学の夜は枕を並べて漆黒の闇に首をめぐらせた会話が弾んだ。

「津々浦々の無名の方々の学びが国を支えているんですね」

「有力とは、何に添える力でしょうか」

「父は世俗の評価ではなく、単なる教育学者だったのですが・・・」

目の前の朝茶で乾杯しそうになった正明氏の回顧だ。

 

イメージは関係サイトより転載しました

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安岡正篤が親しんだ郷学

2021-01-13 03:17:31 | 郷学

      佐藤慎一郎氏  新京にて

以下は郷学作興の提唱者である教育者安岡正篤氏の生地である地域の郷学の形態である。

現在の郷学研修所の前身であった日本農士学校の趣にあるアカデミックな学問とは異なり、しかも志願、推薦の類ではなく普遍的かつ地域特性を活かした場面であった。

その後の師範学校にある官制学校の硬直性と比べると、まずはその教育過程において人を選別の具にしない、つまり時習学(情報、知識)の習得優劣によって人物の評価はしない、あくまで人格の涵養に重きをおき、その後の必然的欲求による科目志願の本(もと)としての本質学(人間学)が行われていた。

なるほど、陸カツ南、児玉源太郎、後藤新平、南方熊楠、らの英傑が輩出された驚嘆する当時の教育である。 

以下参考に掲載する田原小学校では秋山好古も教師に名を残している


【以下、田原小学校の資料より】

 明治期郷学の多くは地方有志あるいは村落連合出資の庶民教育機関を意味していた。
文部省報記載する堺県下54郷学の一として、学制発布に先立つ事2ケ月寝屋川市堀溝に郷学が誕生する。

  設立について堀溝小学沿革誌が「明治5年壬申6月、旧堺県下始めて郷学校設立の時は、管区区画の制に依り1区1校地也」と記するごとく、堺県の行政区画は、明治5年2月の区制施行により和泉国25区、河内国29区の計54区からなり、1区1郷学の計画が立てられた。

 明治5年6月13日開設の堀溝郷学は、3月段階にその計画に入っており
先の文部省報となったものであろう。
 1区1郷学であるから、当堀溝郷学は行政区画の名称そのままに、堺県管内河内第3区郷学校と称した。
 その校区には河内国第3区たる18ケ村が所属することになる。

すなわち、この18ケ村とは堀溝、蔀屋、河北、南野、中野、上郷逢坂、岡山、砂、小路、高宮、木屋、萱島新田、秦村、太秦村、国松村、上田原、下田原であるが、茨田郡の平地村も加わって19ケ村が第3区=堀溝郷学を構成する。

 開校の明治5年6月には「布施萬、主席教員として学校長の事務を執り」
翌6年には「高橋恕首席教員として学校長の事務を執る。
千田一十郎、秋山好古、青柳慈雲寺等の教員在職」して、3、4名の教師により「明治5年6月15日、郷学校の際、句読、暗誦、算術、習字の4科」を教授する。 読み、書き、そろばん、記憶の寺子屋式教授法で出発する。

 こうして大念寺、本覚寺に開学した堀溝郷学は「数村の生徒、二堂に満て教授不便なるをもって同年(明5)7月16日中野村正法寺に本校を移し、本覚寺の校舎を止め、大念寺をもって出張校となす。

 猶又各村附属の内、山間遠隔等不便により明治6年1月、又一変して堀溝を本校となし、中野を出張校として、中野、同上郷、逢坂郷、岡山、南野等の5ケ村を付属し、下田原法元寺をもって田原出張校とし上田原を付属し、秦村、大恩寺をもって秦出張校とす。之に太秦国松の2村を付属して4ケ所に分別し、以て堀溝郷学本校の所轄たり。」(古沿革史)とあり、生徒過多なる理由で、大寺院たる中野正法寺に本校を移した事もあった。

 堀溝小学は明治6年3月、「第三大学区18中学区58番小学」として誕生する
ここに於て、58番小学本校(堀溝、河北、小路、高宮、木田、萱島新田、平池、蔀屋、砂)と中野出張校(中野・上郷・逢坂・岡山・南野5ケ村、正法寺) 田原小出張校(上下田原2ケ村、正法型)秦出張校(秦・太秦・国松3ケ村)の1本校、3出張校よりなり、分校は「58番小学○○出張校又は○○支校」と称された模様で、○○分校なる名称は明治10年代後半から固定するものと考えられる。

 田原校の成立については明治6年5月10日の創立に係り
法元寺本堂を仮用し、58番小学田原出張校と称することになる。
   
<四條畷市誌より>   

  

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側近が語る吾が師 安岡正篤  終章 2008 2

2020-11-10 20:51:13 | 郷学

《照心講座と『師と友』について》

 師友会の創立以来、人気のあった照心講座は長い間、聴講無料でした。昭和50何年でしたか、ある同人が先生に「タダでは良くない、いくらかお金を取った方がいいですよ」と申しましたら、先生は同意されたので、事務局では
聴講料150円として受付に貼り出したのですが、それを先生が見とがめられて、「聴講料? 僕は自分の講義を切り売りした覚えはない、会場費かテキスト代とするなら良かろう」と言うことで改めたことがありました。

 機関誌の『師と友』、これも先生は毎月の照心講座で聴講者にみな、タダで配る。先生の著書などでも、師友会は甘いというか気前がよいというか、片ツ端からやってしまいます。

講演会でも会費はとらず、その中なんとかなるだろうと先生は仰っておられました。無頓着というか、われわれ自身もそうであってはならないのですが、林さんも私も先生に倣ってどうもルーズなところがありました。
先生のスケールが余りに大きいむのですから、大きい渦に巻き込まれるのですね。

先生の本にしても百部や二百部は各方面に寄贈してしまうのですから。こういう仕方でいくと、やはり赤字になりますね。しかし、そうは言っても「日計足らず歳計余りあり」で何とかやってまいりました。『師と友』の発行部数はおしなべて1万2千部でした。亡くなる人もありますから急激には増えもしませんが、大した増減はありませんでした。もっとも、協会の台所をまかなう林常務は、あちこち奔走して大変でしたが:・:・。

 
《昭和初期の時局と老荘思想》
 
私はときどき、先生が老荘思想に傾斜されたのはいつ頃であろうか、と思うのです。先生は24、5歳の頃から瓠堂という雅号を使っておられ、老荘関係は勿論、仏教関係のものも驚くほど広く読み込んでおられます。この頃、先生は猶存社などを通じて右翼の人だちと活勤した時期があり、やがて彼らと袂を分かって金難学院を創立し、人材養成に没頭されます。

そのうちに満州事変、上海事変のあと血盟団事件が起こります(昭和7年)。これは財界の有力者を相次いて暗殺したいわゆる「一人一殺」事件ですが、その関係者の中に、かつて金難学院の院生であった四元義隆氏なども入っていた。これには先生も大変驚いて、「金難会報」にはっきりと、こうしたことは断じて私の素志ではないと書いておられる(4・29「近懐雑録」、6・30「青年同志に告ぐ」)。
 
このあと満州建国、五・一五事件と、世の中は急速に戦争への道を辿るのですが、こうした事件をめぐって、一部の人から「安岡は口では立派なことを言うが、行動が伴わないではないか」という批難も受けている。しかし、これはそうではありません。たとえば当時のことについて先生は後漢の歴史を講じた時に次のように論じておられます。

 『性急な人間や軽燥な人間は、何でもかんでも自分一存で爆弾を投げたり、匕首(あいくち、小刀)をひらめかしたり、あるいは喧々囂々(きょうきょう)と天下を論じなければだめなように、誰をつかまえてもそういうことを望んだり、自分の意にみたなければ悪罵したりしますが、それではだめです。

興隆する時代というものは、必ず人材が多種多様で、しかも表面に表れるところよりは、内に潜む、隠れるところにゆかしい人物かおる。
そういう肥沃な精神的土壌から、次の時代の多彩な人柄や文化が興るので、ダイヴァーシティdiversity(多様化)の有無が民族の運命を卜知(ぼくち)する一つの秘鍵でもある」(『三国志と人間学』より)

 こういうわけで、満州事変でも支那事変でも、一部の軍人や右翼の功名心、あるいは中国の歴史に対する無知のために、思わざる方向に逸れて行ったとも言えるでしょう。

 これに関連して、国雄会についても先生は、『私の考えは、国雄会の会員が揃って内閣を作る。つまり閣僚全員を国維会のメンバーが占めることが当初の目的であった。これなら流血の犠牲をともなわないで国政を革新できると考えたのだ。ところが国維会のメンバーの中から、あるいは文部大臣、あるいは農林大臣というふうに各個人バラバラに大臣になる人が出た。これは私の素志ではなかった。そこで終に私は国雄会を解散したのだ』と語られたことかあります。

 それやこれや、こうした事件を通じて考えられることは日本の内外情勢は、先生の意に満たないことが相次ぎ、また世間の心ない批判や誹膀に遭って、当時の先生がしばしば不快な思いをされたであろうことは想像に難くないことです。それにもかかわらず、この時期に先生が健康もそこなわず、世間の風霜に堪えてこられたのは、老荘や詩歌の世界に遊ぶ、いわゆる壷中の天を胸中に抱いておられたからではないかと思うのです。

 かつて「関西師友」に連載させていただいた安岡先生の古いノートの中に「老荘録」かあり、その中の「快楽と老荘思想」という章の冒頭に記された、゛告白゛に『余ハ最後二快楽ト老荘思想ニツイテ述ベントス。告白スレバ此ノ度ノ老荘思想論も、実ハ当世二対する私の鬱勃タル不満不快ガソノ基調トナリ居レリ、云々』とあるのも、先生が老荘を愛されるにいたった重要な証左の一つではないかと思います。


 《偉大とは方向を示すことである》先覚者の道

とにかく先生の考えは限りなく広大です。目先のことに捉われないで、広い視野で国と民族の前途を見通す。そして民族の在り方と進むべき方向を指し示す、それが先生の本領であると私は思います。
先生の、゛実践゛は、日本の将来、進むべき方向を指し示すこと、これが先生の偉大なる役割であろうと信ずるのであります。殷の湯王の宰相であった伊尹のことばを孟子が挙げておりますね、それは『孟子』万章篇にあります。

「天の此の民を生ずるや、先知をして後知を覚さしめ、先覚をして後覚を覚さしむ。予は天民の先覚者なり。予将に斯の道を以て斯の民を覚さんとす。予之を覚すにあらざれば、而ち誰ぞやと………」 伊尹はこう言っております。

安岡先生という人は、人に先んじて、自分の覚ったところを人々に指し示す。いわゆる「暁の鐘」を撞き鳴らす人です。そこに先生の偉大さがある、私はそう思います。
 
《横井小楠のこと》

横井小楠のことばを先生が照心講座で話されたことがあります。それは、横井小楠が語ったことばを、明治天皇の侍講であった、元田永孚(えいふ)が筆録したものであります。それは
 「我れ誠意を尽し、道理を明かにして言わんのみ。聞くと聞かざるとは人に在り。亦安(なん)ぞその人の聞かざることを知らん。予(あらかじ)め計って言わざれば、その人を失う。言うて聞かざるを強く是れを強うるは、我が言を失うなり」
 道理のあるところをはっきりと指し示すのが私の仕事である。相手が聞くか聞かんかは、我が知るところではない、と横井小楠は言っておるのです。

「私は言うべきことを言うだけである。相手が聞かないだろうと思って言わないと、その人を夫ってしまう。ところが、聞きたくないというのを無理に強いると、私の言うところが無駄になるから、相手が聞こうと聞くまいと、私の言うべきところを言うまでである」こう横井小楠は言っている。

 先生と政財界の指導者との関係はまさにその通りだと思うのであります。歴代の総理から政治について諮問を受けた事情についても、『論語』にありますように「夫子のこの邦に至るや、必ずその政を聞く」です。
「これを求めたるか、そもそもこれを与えたるか」という子禽の問いに対して、子貢は「夫子は温良恭倹譲、以てこれを得たり、夫子のこれを求むるや、それこれ人のこれを求むるに異なるか」と答えておりますが、先生と政治との関係も、まさにこの通り、ごく自然な在り方であったと思います。小楠はまたこう言っております。
 「後世に処しては、成るも成らざるも、唯々正直を立て、世の形勢に倚る(かたよる)べからず。道さえ立て置けば、後世子孫残 るべきなり。その外、他言なし」
 「道」というものに対するこの小楠の信念は、これまた安岡先生の一貫して喩らぬ信念でありました。  

※倚(かたよる)調子を合せる 
倚伏(いふく) 内に潜む禍と福が交差してその原因となる(老子)

一例を挙げますと、終戦の詔勅の刪修(さんしゅう)にあたって、先生は「万世の為に 太平を開かんと欲す」という張横渠(きょ)の名言を献じ、また道義の命ずるところ、良心の至上命令にしたがって戦争を止めるのだという意味で、「義命の存する所」という一句を入れるように力説されましたが、義命という言葉が閣議において理解されず、これが「時運の趨(おもむ)く所」、つまり「風の吹き回し」ということになってしまいました。先生はこれを千載の恨事であると申しておられましたが、ともかく安岡先生の道に対する信念は、横井小楠の信念とピタリー致します。まさに先聖・後聖、その軌一なりです。

 以上、縷々(るる)申し述べましたが、話に前後の脈絡もなく、内心忸怩(じくじ)たるものがございます。若い頃、私の話を聞かれた先生から、『君の話は半煮えの飯のようだな』と言われたことかあります。今でも先生がその辺に居られて、「小僧、やりおるな、あまりつまらんことを喋るなよ」と苦笑いしながら耳を傾けておられる姿が目に見えるようです。長時間ご静聴いただき有難うございました。

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安岡正篤と参議院選挙 10 5/31再

2019-07-05 05:47:03 | 郷学

このコラムに多くの読者が訪れている



一人は『君、議員になるのか?」と訊かれ、もう一人は『安岡が入れるからおやりなさい」と・・・

衆議員議員の秘書を永年勤め郷学研修所々長であった柳橋由雄氏の笑談だった。
「先生には参った・・、あるとき議員に立候補しようと慎重にも機会を見つけ先生にお話したら、「君、議員になるのかね…?」でやめた。それから新しい気持ちで学問したものですよ」

もう一人は前ブログに登場した岡本義雄である
 或る時、近所の在日韓国人が『近頃の日本人はおかしくなった。選挙公約だって守られたことなど無い。国民はだまされているのに怒らない。岡本さん出たらいい』

地盤、看板、かばん(資金)もない岡本だが頭には百万の援軍を思い描いた。
世情では宰相のご意見番として持てはやされているが、岡本にとっては公憤の烈行を思い切りぶつけられる相手でもある。

世間では変わり者といわれる岡本だが、安岡の眼には童心のような素朴さで漢詩を詠み、つねに下座において利他の増進に励む岡本の姿に愛着さえ抱いていた。

遠方に赴くときは「暫く留守にする」と直接安岡氏から電話を架けてくる心遣いのある間柄でもあった






                    







早速、安岡氏に訴えた
『先生! 参議院全国区に出ます。ついては全国師友会の推薦を得たい』
いつものこと結論が先だ。

岡本の烈行に師はこう応えた
『師友会は私の会ではない、学友同志の会だ。先日も荒木さんが来られたがお断りしている』
  ※ 荒木・・・荒木文相

岡本は引き下がらない
『選挙は国民の票を騙し取っている。私はこんな奴等に投票するな!と訴えます』

師は微笑をもってこう応えた
『おやりなさい。安岡家にも票はある。私が入れるからおやりなさい。』

岡本にとってまさに百万の援軍であった。

地位名誉や高邁な理屈にも「義」の香りに人物を観る安岡らしい厳命であった。岡本の烈行を掃き溜めの鶴声のように観聴したのであった。

当時はA3形のポスターと葉書とラジオ演説である。
岡本は躊躇無く言い放った

『貪官(官吏)に鼻面を引き回される議員に票を騙し取られる! 投票所に行くな!』

開票すると全国から30,000余票が岡本に投じられた




令和ならぬ、「令色 」




安岡は呟いた
『一部を除いて、人物二流しか議員にはなれない・・・』

今時の虚飾重層された安岡像には描かれることのない激しい心情は、岡本をして、
「落選を、゛恥ずかしい゛゛結果が心配゛といった我欲を破棄させるほど真摯で暖かい厳命だった」と述べている。

日を置かず安岡師より長文の手紙が送達された。
それは公理、情理を整えた人間の有り様を含むものであったことは言うまでもない。

ちなみに現在政界には松下政経塾出身者が多いが、松下幸之助を心服させ塾の創立を促したのも安岡氏である。自宅の茶道具には松下氏からの寄贈の茶碗があるが、都度に妙縁を感じさせてくれる。

「いまはデモクラシーは亡くなり、゛デモクレージー゛ですな」
文章添削の折、とくに低音で語った言葉が妙に想いだす。

また選挙の季節になった。

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安岡家  復た縁は蘇える   2007 10/21再

2018-12-08 15:35:14 | 郷学



園遊会には多くの著名人や功労者がお招きにあずかるようだ。
歴史の有る催しだが、なかには親子ニ代にわたって招待されることもある。

時を超え、昭和,平成と親子で同様なお言葉に接しられた稀な御仁は父、安岡正篤の長男,正明という人物である。

父は昭和の碩学と謳われ、陽明学者 政財界の指南役 また終戦の詔勅や歴代首相の施政方針演説草稿など歴史的文書に朱(シュ 監修)を懇嘱され、平成の元号起草者として知られ、市井においては氏のライフワークである『郷学作興』を提唱し、今もってその道を辿るものは絶える事がない。
長男 正明氏は大蔵省,地方銀行会長を経て、父の提唱した『郷学作興』の志操を継承している。

招待の事情は異なるが、ともに親しく拝謁し、父は昭和天皇に「相変わらず勉強していますか…・」と問われ,御代がかわった平成になって陛下は長男の正明氏に、
今でも、お勉強をなさっていらっしゃるのですか…・」と,お言葉をかけられた。

世上、安岡正篤氏に「相変わらず勉強……」とはなかなか言いきれない言葉だが、その子息と判っていたかは伺い知ることができないが、同様なお言葉をお掛けになったことは縁の回帰であり,蘇える魂の継承にもおもえる。

もしか、として思い当たるのは、筆者の催す「郷学研修会」に昭和天皇の侍従を勤め、皇太后陛下の御用掛に任ぜられた卜部侍従を講師にお招きした折、安岡正明氏にご紹介したことがある。 卜部氏よりは各季に頂戴する書簡に「郷学,激励」が必ず文末に記されている。

 

   

         卜部亮吾氏  

 

  

        中央 安岡正明講頭


場末の田舎学が陛下のお耳に届いたかは想像するしかないが、正明氏がいう「父が望んでいたのはこのような場面と学風です」との継承意志は卜部氏も共感している。

津々浦々には有意な学びと人物がいる。無名ではあるがそのような有為な方々が維持、涵養している情緒性こそ国を支える基となるものだとの認識だ。

また,陛下の中国歴訪の折、元号「平成」の出典である史記ゆかりに触れ、皇后陛下に「これが平成元号の本となったもの…」とご説明なされたという。

 当日は暑く、陛下が御通りになる道筋から離れたところに車椅子で参列していた。
 両陛下が近づき,失礼かと立ちあがり杖をついてお待ちしていた。通常,お声掛は道端だが、奥まったところに立っていた正明氏にお陛下は目ざとくお声を掛けた。
 恐縮する事に三笠宮妃殿下がわざわざ車椅子を添えて着席を助けた。

 パーキンソンという病のため,言葉が不自由にもかかわらず熱心にお耳を傾けられる両陛下。 

 

 

    津軽 出張講話



 これも奇縁だが三笠宮妃殿下は故吉田首相の孫にあたり、その吉田首相は父,正篤氏を年下にもかかわらず「老師」と敬称、その後、吉田学校の生徒「歴代総理」は正篤氏の生徒として時世の岐路に活躍している。

筆者もよく諭された。
学問していますか・・・

 

参照

郷学会員の志村卓哉氏の編集による郷学出張講話 「木鶏倶楽部」にて。

「潜在するものを観る」

https://search.yahoo.co.jp/video/search;_ylt=A2RiVcpgZgtcV3cA3f6JBtF7?p=%E5%AF%B3%E7%94%B0%E6%99%82%E9%9B%84&fr=top_ga1_sa&ei=UTF-8

 

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人間考学  無名かつ有力であれ    2007.7月稿再掲載

2018-06-07 11:41:15 | 郷学


あれが「郷学研修会」の端緒だった。

一期一会の緊張感は時として鎮まりのなかに訪れるものだ

それは前記の岡本翁からの促しであった
初対面の老人に唐突にも義父の頌徳文の原案を差し出した
それはワープロも無い時だったので、レポート用紙3枚の自筆横書きの稚拙な文章だった

老人は丁寧にも3回読み直して
『なおして宜しいですか』と、傍らの赤鉛筆で添削している。
老人は黙って面前に差し出し岡本翁に何事か話している。それは一部岡本翁の好む座右の銘文を挿入した箇所だった

『尽くして欲せず、施して求めず、だが、求めずは動きが良くない、受けずに直したほうが・・』

確かに読んでいてもオンが良い、つまり流れる。そして謂わんとする意味が明確になる。

感心していると老人は正対してこう語った






              






『文は巧い、下手ではない。あなたの義父を讃える誠意が普遍なものとなって、何十年、何

百年先にも人間を感動させるものでなくてはならない。またいつの世でも人物はおる。その

人物によって国も変わる。時流に迎合したり無理に簡略したりするものではない。文という

ものはそうゆうものだ。』


老人は初対面の若僧に何を観たのだろう

『君は無名でいなさい。無名は有力でもある。有名無力ではいかん。郷学を興してみたら・・』

岡本翁が言葉を挟んだ

『君が自発的にやっている勉強会の延長と思えばいい』

世の中に出て少々増長気味だった若僧には初めて聴く言葉だった
「無名有力」と「郷学」

老人はおもむろにピースに火をつけると、お茶を勧め、岡本翁に語りかけた

『宜しいですか』

好々爺のように応答を眺めていた岡本翁は老人に向かって慇懃に頭を垂れた

2時間ばかりの応接だったが玄関先から道路まで、振り返ると老人は玄関の上がり框に立って見送っている

『勉強になりました、いゃ・』言葉が選べない

『あの人が安岡先生だ。いゃ良かった、良かった』

何が良かったのか、解るまで時を要したのは謂うまでもない

もちろん安岡という名もそのとき知った。





                某大学講話






それはホンの序章だった。

小生は自称も通称も弟子と称するものではない、かつ取り巻きでもない。
だから、感心した、勉強になった、との簡単な得心はしない。
また、体裁のいい挨拶借用や美文麗句に飾られた政治家の偽装や屏風に用することもない。

ただ、愉しくもしんどい「行」のようなものだった。

機をみて、指示、督励、促し、それは全て読み取ってのことだった。
郷学の作興、地方の道縁への遣い、世間では妙な道に迷い込んだとおもわれた。

その意味の説明は、いつも岡本老と佐藤慎一郎先生だった。

紋付羽織袴風、つまり白足袋風の安岡先生の日常、烈行の岡本老、悠々とした佐藤慎一郎先生との厳しくも男子の真の優しさに包まれた厚誼だった。


いま、同じことを有為ある若者に促している。

゛あの人達ならきっと解かってくれる゛という支えが、堪えきれない精神高まりとなっている。

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質問の行方は・・ 再

2018-01-16 10:08:55 | 郷学

 

JCといわれてもピンと来ない人が多いだろう。
日本語では日本青年会議所、各市町村に支部があり県単位から千代田区平河町の社団法人日本青年会議所本部に統括されている。
組織は各委員会を構成し各々、教育、経済、国防、領土領海、国家主権、セフティーネット、あるいは理想国家「日本」創造会議など厳めしい委員会が存在している。

6/15日 畏友の縁で知り合ったメンバーから講義の懇請を受けた
内容は教育ということなので「観人則」を表題に官制学校歴カリキュラムに欠落した人間学を通じて時を経させてもらった。

委員長の合同ミーティングのようだったが出身は東京以外の方々で、円形テーブルに夫々がパソコンを置いてのミーティングのようだったが、講義中もメールなどパソコン操作に勤しむ者もいたが、2時間の講義に就寝するものはいなかったようだ。

弘前城公園

 

質問者は2名。紹介者と某君だ。
拙講でもあり聞きなれない単語が多くある内容のため、つかむ所に向かう意志が見えない部分があったようだが、誠に真摯な質問であった。

真摯な質問には真剣かつ厳しい応対が常だが、とくにフォーマルな立場における質問は意を共通な処に置く回答者の立場でもある。
某君の問いは、自らに問いかけるような若者らしい実直な内容であった。
また創業から後継へとわたる連続性の自覚と、他の世情環境への戸惑いと、茫洋に感ずるグローバルの流れに対する戸惑いが見受けられた。

方法論ではなく自立意志の置き所を模索しているようでもあった。
このことは質問趣旨にある日本経済の観察点と生業の不安が混在していたが、利他に用とする観点には狂いは無い。

世界の強者が金と武力を背景に、彼らの云う資本主義と自由と民主があたかも無謬性のある理想として宣伝され、半知半解のまま受け入れているが、今若者の切り口としては当然と思われているベースに問題意識を持つべきだろう。

あの米国の大統領候補として衆目を集めているヒラリー・クリントンでさえ、あのダボス会議でその疑念をスピーチしている。このような内容だった。

いま推し進めている消費資本主義というものによって様々な問題が発生している。そのことによって悪影響を受けるのは女性と子供であるということは、いま置かれているこの経済の姿を考え直さなければならない時期に差し掛かっているいるのではないか・・」(覚え書きだが趣旨は同)

キリスト教圏から発する問題意識だが、イスラム圏、アジア圏に永い歴史にもとずく道徳規範や商習慣をもつ人たちにとっては彼女より強い問題意識と「人間」の変容に対する不安は有ってしかるべきことだろう。
また、固有の文化を保持し他との共生を心がける指導者、知識人の真摯な問いであろう。

いつの間にか融解してしまう危機に真剣に向き合い、問題の在り処を探求する某君の青年らしい姿に小生の学びを再考した次第。
いずれの機を得て某君の故郷の忍び探訪がしたくなった。それは小生への自問でもある。

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十年前の「瞳と音声」   07 6/19の稿改

2016-11-04 10:47:56 | 郷学

先ごろ、巷では元職だが高級官僚といわれる御人の呟きで風変りな座談が行われた
切っかけは十年前と同じ銀座のライオンビヤホールだった。
以後、月に一回筆者も交えて5.6人で準備会を始めている。
何の準備かと云えば、勉強会である。
もちろん官学制度にはないカリキュラムだが、以前、安岡正篤氏からの督励作興した会のようなものだ。
当時は中央官庁の現職や高校生や自営業者など多士が参集してもその中から代議士もでた。
安岡氏は和綴じの芳名帳表紙に「布仁興義」と記し、初ページに自署して、「これはと思う人物がいたら面会を請うて、最後に署名してもらったらよい」と渡された。

面会のあとに芳名帳を差し出すと、態度豹変して迎合する者、女房に硯を用意させ堂々と記す者、色々だったが、薄学の小僧が差し出す芳名帳の威力は絶大だった。多くは安岡氏が学問の堕落と称した附属価値に装われている老生学徒だった。まさか小僧が安岡氏の名刺代わりの身元保証?を持参するとは考えてはいなかったようだ。

そのつど情景をお伝えすると、「人物観を養うには・・」と平気な顔で微笑んでいた。
それからは同縁をたどって地方に出向くときも「あそこは豪傑が多い、気を付けるように」と云われたが、要は酒豪のことだ。
大学に行くのか??」と云った手前、社会の下座観から虚飾のエリートを眺める独特な教科を促されたようだ。

そして「郷学を作興しなさい」「それには無名の観察だ、有名は無力だ」「デモクラシー変じてデモクレージーだ」など、厳命と妙意など、先ずは附属性価値にとらわれない人物観を養うことを諭された。傍らには愛煙ピースと虎屋の羊羹だった。

その「郷学」を再復する機会が今回訪れた。
招来したのではなく、某エリートの呟きに感応した変わり者が集ったのだ。
規約は、「それぞれの良識に任せる」のみだが、掲げる名称も決まってはいない。
これが伝来した高麗の種(米)のように、津々浦々の変わり者に活かされればと思っている。

なによりも参加者は眸と音声にあの頃と同様な薫りがする。


※ ちなみに、変わり者参集窓口は、当ブログコメント欄に連絡先を記入してください。







2007 6 19 掲載ブログ

6/18 銀座酔譚が行われた

老舗ライオンビヤホールの入母屋という小座敷での無名な若者との酔譚だった。
合理を求める世の中で、一見不合理と思われる座談だったが、既存の合理性と謳われている制度や生活の繰り方の問題意識を仮作して、かつ人間に非合理な部分を今までの思考外(気がつかなかった可能性の意識)を表現した。

此の手の座談は一風特殊で、言い方を変えれば雄の子の童心を披瀝するものでなくてはならない。ことさら既存の問題を批判するだけでなく、潜在している無垢な良心によって世俗を観察するところにある。

ともあれ縁ある人間が、その縁の及ぼす触れ合いを愉しむことでもあった。
また、普段の生活において、ふと想い起こす顔と言葉の実感は、復の再会と縁の拡張を呼び起こすだろう。

集いの名称なし、さしたる取り決めも無い悠々とした集まりだが、独立した気概は何れの蘇りに功あることを予感させる。

なぜかって? 瞳と音声が心地よいハーモニーを奏でているからだ。

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安岡正篤氏の至誠とその実像 7 12/28 再

2016-02-19 09:57:28 | 郷学

 

               序

 千歳恩讐両ながら存せず。風雲長く為に忠魂を弔ふと、幕末菅石山が楠公墓畔で詠じましたが、戦後、時が経つほど、折に触れ、縁に随って、見聞きする殉国の壮烈な人々の遺事に純浄な感激を覚えます。

 このたび全国戦争犠牲者援護会の方々並に芙蓉書房が、広く関係各団体と遺族の人々の協力を得て、五百六十八柱に上る自決烈士の中、百四十四柱の人々の尊い不朽の文献を集めてこの「世紀の自決」を刊行されたことは誠に肝銘すべきものであります。
 
 世の軽薄な人々の中には、戦争を憎むのあまり、自らの国家を否定し、殉国の士にも一向関心を持たず、無責任な利己的平和と享楽ばかりを求めてやまぬ者が多い。それは最も恥づべき堕落であります。
 
 祖国はその懐かしい山河と共に、民族の生命と伝統を顕現してをるものであり、地球は幾十億年もかかって、生命を創り、人間を生み、心霊を高め、民族を育て、国家 を拓いて、人類文明を発達させてきました。

 その自然と生命と人間精神に共通する進歩の原理原則は、常に試練と犠牲と無くしては行はれないことを、科学によっても明らかにされてをります。書経に所謂「自ら靖んじ自ら献ずる」このことによって、人も、家も、国も、人類も、文明も進歩発達してきたのであります。

 明治維新の偉大な一人の先覚浅見絅斎が「靖献遺言」を著したのも、自ら靖献して殉義殉国した人々を世に表彰したのですが、この一巻の「世紀の自決」も亦新たな一つの「靖献遺言」と言ふことができませう。
 
 このごろの世は甚だしい背徳と忘恩の横行する軽薄時代ですが、これをどうして救ふことができるでせうか。その一つの原理は、たしかに論語に所謂、「終を慎み、遠を追へば、民の俗、厚きに帰す」といふ教にあると信じます。

 この書は、この意味において尊い「追遠」の一つの事業であります。
微々たる花粉が太平洋を越えてアメリカ大陸に育つこともあり、ヨーロッパの地層に沈んで、不滅の跡を留めてゐることを科学者は発見してをります。私は敬しんで英霊に心香を献じてこの一文を呈する次第であります。
  

昭和四十三年六月六日

             安岡正篤 撰

昭和45年8月1日発行
世紀の自決   序




頌徳表


明治維新の大業は吉田松陰先生の指導に因って成就す、蓋し過言に非ず、先生は夙に国難を憂ひ日夜肝胆を砕き有能なる子弟育成に心血を注げり。憂国の忠魂今尚長州に脹る。

 村本忠言翁は明治三十年八月九日長州に生れ五十一年三月三十日長州に鎮す。翁は幼にして憂国の志厚く長じて学び順って忠魂の気概益々旺んなり  秋恰も昭和二十年八月十五日終戦の詔勅降るや我国古来の道義 美風 荒廃せり、翁は憂慮し決然と起つ

 抑々翁は笠木良明先生の知遇を享け爾来国一を憂うる同志相集いて諮ること婁々なリ  時節到来日本再建法案大綱の編纂に当りその発起人に名を列ね国家の発展に貢献する処実に少なからず、然も尚翁の志操の遠大を遺さんと欲すれば則ち奮って翁の記された言辞を以ってその極みとす

 曰く 草莽の一声は天下に隆々として鳴り響くと、翁は争いを避けて和を尊び終始、尽而不欲、施而不受の気節に富み、又先人言う所の第宅器物その奇を要せず、有れば即ち有るに従って楽しみ無ければ無きに任せて晏如たり  
而して黙て語らず薀蓄を啓いては裨益すること太だ多し  

 俊英の志行半ばにして七十八才を以って長ず、児孫等日夜其の遺風を懐い慎んで その遺徳を肝に銘じ競々として其の志操を忘れず、翁の生前を偲び永くその功を敬ひ謹んでその徳を頌し以って紀念と為す

  寶田時雄 撰文 安岡正篤 監修


【頌徳表】

 人物の功績と意志を永く継承する為に石碑や書状に遺すものだが、この撰文は石に刻むことを前提にして記したものです。
 それゆえ章を短縮する意味もあり、多くの内意と音(オン)を考えて構成したものである。もちろん頌徳の大意を基に故人の事跡と次世への期待が過去、現在、未来と続く精神の継承としての現世撰者の勤めがあると記したものである。

 安岡師は筆者の手書きの文章を三回熟読して,『直してよろしいですか・・』と筆者を凝視した。そして傍らの赤鉛筆で添削した。直すところは二字だったが、読み直してみると文章がよく流れた。オンもよくなった。

そして『文章は巧い下手ではない。また現代の浮俗に迎合するものではない。君の至誠が百年経っても、偶然見るものにとっても記された内容とその至情を悟り、国家に有為な人材としてなることがある。頌徳とはそのために表わすものだ』

 同時に『この意志を遺して伝播するには、君、無名が肝心だ。今どきは有名でも、歴史に対しては有名無力だ。この至誠は無名だが有力だ。それを遂げるには郷学を興しなさい。』

 両切りのピースと羊羹での初対面だった。また初めて知った安岡という名前だった。その後様々な事跡を聞き及んだが、筆者にとっては世俗にまみえた安岡像の欺瞞は当人にとっても厄介な偽装と観えた事だろう。
 とくに名利の具にする政治家や経済人、あるいは種々の井戸端論評は学問、教育に多くの錯覚した社会的災いを興している。

 玄関に立ち、姿が見えなくなるまで見送られる明治人の一期一会の緊迫感と応答の厳しさと優しさは、その後の人物観の座標になった。

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