まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

廖承志と日本  再

2015-04-03 12:40:41 | Weblog








右 田中総理

新橋の土橋口に東京華僑會館という建物がある。
弧を描く自然石の壁面には初代中日友好の責任者廖承志題と金文字で刻まれている。
廖は辛亥革命において活躍した廖仲の子息であり、後の共産党対日工作である招待外交の中心にあって孫平化とともに活躍した人物である。

文化大革命の頃は紅衛兵の迫害を察知した周恩来によって病院に心臓病と偽って避難もしている。そのとき周恩来は「君は日本に知遇がある。いずれ役に立つときが来る」と廖に告げている。




           



            





孫文側近であった山田純三郎にとっても廖は愛顧する人物でもある。
山田は革命同志であった廖の子息承志が泣くと、よく抱いてあやしていた。
その関係もあって廖が来日すると、まずは山田のオジサンを尋ねている。また山田の仲介による幻の蒋介石、毛沢東会談の中国側の立役者は廖であり、上海まで迎えに来ていたのも廖の母親、何香凝だった。    

請孫文再来】幻の蒋介石・毛会談に記述参照




http://blog.goo.ne.jp/greendoor-t/e/5cd73c5b1d2c3620be7cb5f0b03dfeee


またこんなエピソードがある。
大阪万国博に会場を訪れた折、中華民国(台湾)国旗が掲揚されていたときのこと、廖は立場の面子もあったのだろう、国旗を降ろせという。
主催者は困惑した。いまと同様な日本官吏の対応である。




             






このエピソードについて廖に諫言する文章が出た。
よほど寥自身の立場とその生い立ちを知る人物の筆だったのだろう、こう記している。

廖の父親が亡くなったとき革命同志は盛大な葬儀をあげた。もちろん棺には辛亥革命の領袖孫文が創設した国民党の青天白日満地紅旗である。息子承志はその棺にすがりつき大声で泣いていた。見ていた同志はみな慟哭していた。










万博会場に翻っている旗は、あのとき君がすがりついた棺を覆っていた旗だろう。
辛亥革命は共産党も国民党もない。いわんや毛沢東も蒋介石もない。国父孫文の唱えに賛同した中国人、そして同じ痛みを分かち合いアジアの復興を願った日本人有志の闘いだったのだ。




           




いまは台湾と大陸中国、昨今の政治権力は国民党と共産党と昔に戻ったような呼称だが、その廖の残像にある歴史を消すことはできない。しかも交渉当事者として廖を任用した意図の深さは共産党創設時をさかのぼる人情の蓄積を活かそうとしたものだろう。

廖は自身のおかれている位置と時の経過を熟知していた。ただ言葉で発しなければならない形式面子(メンツ)だったのだろう。

通りすがって見上げた廖氏の揮毫はことのほか達筆だった。
辛亥革命の日本人有志のエピソードが先輩の昔話とともに甦る。不思議なことに永い歴史ほど想起は一瞬であった。

そういえば嫌な話もこの場所にあった。
゛腐敗した゛と自民党を飛び出した数人の中での長老格だが、妙な歴史贖罪なのか、それとも噂に聞く穀物利権なのか国交のない大陸と妙なつながりがある議員である。
これが選挙になると華僑総会を訪れ、貰い扶持が出るまで居座っていたとエピソードがある。

これを日中友好と唱えていたが、ユウコウは誘い降ろしの「誘降」であり、そのように嘲笑されている瑞穂の国の選良と商売人の群れのようだ。




             





語ってくれた大人(たいじん)は、「昔の日本人は何処に言ったのだろう・・」と筆者に嘆息した。そういえば孫文は側近山田に「真の日本人がいなくなった・・」と静かに呟いた。

廖も面子を立ててはみたが、そんな日本人の気概を観たかったのではないかとおもう。




イメージは関係サイトより転載
コメント (1)
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