まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

辛亥革命百年 孫文の側近山田と蒋介石

2011-02-17 11:33:07 | Weblog
          山田純三郎   孫文


【請孫文再来】

◆陽明山

「慎ちゃん、蒋介石から招かれている。一緒に行こう」
 佐藤は山田から革命の同志であり、中華民国(現台湾)の蒋介石総統のことも聞いている。
 孫文の指示で山田、丁仁傑、そして日本名で石岡と名乗った蒋介石と満州工作に行ったこと、その結果、「だまされました」と、顔を真っ赤にして報告する真摯な蒋介石の態度に感銘したことや、宋一族の次女、美齢との結婚の折り、山田と大喧嘩したことなど、革命を通じた両氏のつながりは余人の挟む余地などないくらいの関係である。

 山田は宋美齢との結婚について相談に訪れた蒋介石にこう諌言した。あえて山田が諌言と称したのは当時、国民党の領袖としての立場を考えてのことである。

「君の功績は認める。しかし、いくら美齢が孫文先生の妻、慶齢の妹であり親戚になったとしても、あるいは宗家の財産が必要だとしても、あるいはそのことが国家統一の助力だとしてもそれは人の道に外れることだ。どうしても夫婦になりたければ妾にしろ」
 それ以来数年間、山田は絶交している。 

「結婚には条件があった。まずキリスト教でなければならない。本妻でなければならない。その他いくつかの条件が提示された。蒋介石は結婚していた女房をアメリカに追い出して美齢と盛大な結婚式を挙げたが自分は招待を断った」

 権力者となったが為に、より一層その権力を全支那において強固にするために考えた蒋介石の計略であり、民心掌握の置き所を錯誤した心のスキでもある美齢との結婚によって、いずれ招来するであろう権力の腐敗と堕落は、日本をはじめ列強の侵食を受けたように権力の腐敗によって衰亡した歴史の繰り返しを孫文の遺志をもって山田は説いたのである。

 権力者、蒋介石に疎まれようが、あるいは逆鱗に触れようが、山田の諌言はあの満州工作での真摯な態度に対する人間としての信頼と、辛亥革命の成果としての支那理想郷とアジア復興を希求した孫文の写し絵のような語りでもあった。
 終戦直後、それまで絶交状態であった山田を南京にいた蒋介石は部下に「山田先生を護れ」と打電している。

 余談だが「恨みに報いるに徳をもっておこなう」と全中国に号令し在支邦人を多数の船舶を用いて帰還せしめたのは当時の情勢を顧みても歴史上、特筆される政策であった。
 そのことで戦後日本の大物代議士一行が総統面会の折り、そのことについて感謝の意を表したとき蒋介石は威儀を正してこう述べた。

「わたしに感謝は必要ない。あなたがたが感謝すべきは、あなたがたの先輩に言ってください」
 満州国の日本国内にある財産問題が起こったときその時も蒋介石は「山田先生にお任せします」と担当者に指示している。

 戦後のどさくさに紛れて、ある名門財閥に勝手に処分してしまった満州国の日本人公使が山田に土下座までして許しを請うた場面を佐藤は目撃している。
 孫文は西洋の覇道に対して、東洋の王道の優越性を説いている。
 それは政治的な形態のみならず人格の問題をも含んでいる。
 辛亥革命の成功も物理的な武器、弾薬、策略のみで成功したものではなく革命に呼応した無垢なる民衆の犠牲と、その精神に畏怖の念を抱きつつ将来に継承しなければとうてい革命成功とはいえない。

 王道とは革命屋の破壊とは違い、いったん騒乱が平定した暁において、施政者が不特定多数の安寧をつねに憂慮することを革命をつうじて孫文が教えたと山田は理解している。
 
「革命は血が伴う。しかしそこには敵味方の区別はない。あるのは無常感を包み込む忠恕がある。それが王道というものだ」と、山田は言う。

 その蒋介石からの招待である。

「そろそろ俺たちも齢だ。思い出話でもしたいのだろう」

 山田は飄々とした調子で佐藤の顔をのぞき込んだ。
 台北に着いたその日、山田は佐藤を伴って蒋介石の“お妾さん”の所に向かった。佐藤の印象では、品のある奇麗な女性であったという。蒋介石の邸宅は台北郊外の陽明山である。

 宴会に招かれた佐藤は山田と別々に陽明山に向かった。途中、車が故障してしまった。通りすがりの車もなく、宴会の時間には間に合わない。途方に暮れているとようやく陽明山に向かう車があった。一旦は通り過ぎたが、気がついたのか路肩に停まった。
 窓を下ろしてかっぷくのいい紳士が身を乗り出して声をかけた。
「どうしたんだね」
「蒋総統に招かれて陽明山に行きたいのですが車が故障して困っています」
 紳士はほほ笑みながら言った。
「それなら私も行くところだ。こちらに乗りなさい」
 会場は佐藤と、そのおかげで遅れてしまった紳士を待っていたかのように開始された。招待者がそれぞれ着席した。蒋介石は隣の山田と談笑をはじめている。日本人は山田と佐藤だけだった。




             

      標記の写真の裏記述  山田の甥、佐藤慎一郎氏より寄贈






 見回すとさっきの恰幅のいい紳士が着席している。まずは出席者の紹介が始まった。国民党の重鎮、張群や軍人のなかにその紳士の名前が紹介された。
「何応欽将軍です」
 佐藤は驚きながらも軽い会釈をかわした。将軍は笑って返した。その後、佐藤は何応欽将軍を訪れ、近代日中史のさまざまな謎について聞いている。例えば西安事件前後の国民党内部の問題や、蒋介石がなぜ部下の要請にもかかわらず日本軍との衝突をためらったのか、など側近にしかうかがい知れない内容がある。

 宴会も佳境に入り中華宴席独特の乾杯が繰り広げられるなか、重臣も入り込めないような革命談義が山田と蒋介石の間で交わされている。それは革命同志のもつ独特の交歓であり世界でもあった。一瞬、会話が途切れ一同、山田の次の言葉に注目した。

「蒋さん、そろそろ私たちも齢だ。孫文先生に命令されて丁仁傑同志と三人で満州工作に行ったときのことを話してもいいだろう」

 蒋介石は即座に呼応した。


 このことは孫文の一方の側面として国民党体制の「利」や建前として解釈していればとうてい認知できる話ではないが、東洋と西洋、当時のロシアの南下と支那の情勢、日本の国内事情、そして何よりも目標とすべき革命の成功によって究極の大経綸というべき日支提携しアジアを再興するという孫文の大志を互いに理解してのことである。
 蒋介石にとっても国内外事情、とりわけ大陸との問題や援助国アメリカとの調整、後に発生する旧来から台湾に居住していた内省人と、自分とともに台湾に渡った外省人との軋轢など、総統としての内憂が寝食生死をともにした山田との旧交懇親によって、革命当時の真摯な精神を呼び起こし、再度、国父孫文の大経綸に思い致したのであろう。

 通常の賓客接待にない和やかな雰囲気の中、一人の青年が用件を伝えて退室した。
「あの青年は」
 山田は肩を傾けて蒋介石に尋ねた。
「息子の経国です」
 山田はそう大きくない声で
「ベンコか」
 蒋介石は含み笑いをしている。
「佐藤さんいま山田先生は何と言ったのですか」
 重臣たちは気になる様子で佐藤に尋ねた。同じ同郷人であってもはじめて聞く言葉だが佐藤も解らないため山田に聞いてみた。
「一発だ」
「エェ」  佐藤は何がなんだか解らない。
「何が一発なんですか」
 隣の蒋介石は自分のことを何から何まで知っている山田の言葉に、日ごろの威厳を忘れ楽しんでいる。
「一発でできた子だ」
 意味はわかったが、何と訳していいか困り果てた。「蒋介石は女にもてる」と、山田はいうが佐藤はよくわからない。何番目の奥さんかはわからないが、数日しかいっしょにいなかったこともあった。言葉にするのもはばかる内容だが、その理由は山田から聞いて知っている。
 聞いてはいたが伯父と蒋介石との関係は史実にない事実である。 そしてつねに孫文先生の回顧から始まり孫文先生に帰る。宴会も終わりに近づき蒋介石が発言する。
「山田先生ありがとう。よろしかったら家も生活も心配要らない。いつまでもここにいて下さい」

 重臣たちも山田によって語られた総統のエピソードや、国父の経綸にふれて国家経営の指針を思い描いたとともに、国家の礎を築いた革命同志の旧交を眼前に見て、地位や格式を秤としない人物の交歓を時の経つのを忘れ、堪能することができたようだ。
 




              

              佐藤慎一郎 氏



◆ 回   顧

 佐藤は筆者にこう述回している。
「伯父は僕なんかにはあまりしゃべりませんよ。要人に呼ばれた席で話していること。伯父は僕ばっかり連れて歩くんですよ。息子たちは連れて歩かなかったみたいだ。蒋経国さんだけど蒋介石がいちばんはじめの奥さんと結婚して一晩で逃げたんだ。そして生まれたのが経国さんだ。奥さんは日本軍の南京爆撃で亡くなっている」

「招待された件だけれど、蒋介石さんに招かれれば普通はホテルに泊まるのですが、伯父の場合は大きな一軒家にボーイや、お手伝いさんを用意して何年でも滞在して下さいといわれるんです。招待されたとしても他の人とは意味が違う」

「生活はね、朝からテーブルいっぱいの料理が出てくるので伯父さんは『なんだ、朝からこんな贅沢をして』と怒るので、『伯父さん、残ったものはあの人たちが食べるので怒ってはいけません。あらかじめ分かって作るんですよ』というと、『おーそうか』と納得したことがある。」

「革命当時の伯父と蒋介石の関係だが、上海の伯父の家は革命の秘密本部でね、全世界の華僑から革命資金を送ってくるようになっていた。それを伯母が弾薬などといっしょに乳母車に子供を乗せて蒋介石の家に運ぶんです。当時の蒋介石のお妾さんは女郎屋の人で、私も一度ご馳走になったことがある。きれいな人だ」

「その次は陳潔如さんというひとで、蒋介石とは非常に仲良くて6、7年いっしょにいたはずだが、お妾さんにも陳潔如さんにも子供ができなかった」

「蒋介石は陳潔如さんが好きでいながら孫文の奥さんの妹、宋美齢をもらうというので伯父とはじめて喧嘩した。本妻や親類がけしからん奴だと、たいへんな問題になった。そんな環境のなかで息子の蒋経国が育ったわけだ」

「それゆえモスクワの孫中山大学へ留学したときに『打倒、蒋介石』を叫んだのだ。それと弟の蒋緯国さんは戴天仇と日本の旅館の女性で美智子さんという人の間に生まれた子供で、はじめは伯父が引き取ったんです」








             


             若き蒋介石と山田


「当時、蒋介石とお妾さんの間に子供が無かったものだから伯父は『これはおまえの先輩の戴さんの子供だけれども養ってくれんか』といったら、『わかった』といって養子にしてくれた。陳潔如さんはたいした人で、時折、癇癪をおこす蒋介石を上手にとりなし、革命同志のなかでは末席というべき黄埔軍学校の校長だった蒋介石を国民党の領袖にまでになったのは奥さんのおかげでもあったんだ」

「蒋緯国さんは来日すると私と会ってお母さんの話を尋ねてきた。蒋さんの子供は他には判らない。緯国さんは政治家としてではなく軍人として立派な人だ。1989年の天安門事件後に来日したとき、いろいろと話をしたが、そのときワイシャツのポケットに哀悼の意で黒いリボンが縫い付けてあったのが印象に残っている」

「伯父は蒋介石とその時々の立場を尊重し、なにが孫文精神の継承になるかを根底に、あるときは指導者としての資質を問い、また或るときは諌言や激励をともないながら革命の目指した崇高な理想にむかって挺身する同志の存在であった」

「たしかに、財閥孔祥熙につらなる宗一族の資金と、孫文夫人の慶齢の妹となれば政治的にも財政的にも強固になる。あるいは孫文革命の継承者としての責務が、目的のための手段として非難を承知で利用したのかもしれない。信念があれば人生の演技もたやすいことは分かっている」

「あの満州工作失敗のおり、顔を真っ赤にして真摯に詫びた姿からすればそれもありうる。ともかくそのような選択をした蒋介石も、列強やその影響下において跳梁跋扈する侵入者の対策に追われ、国難というべき状況を国民党領袖としての責任として解決しなければならない使命を負った愛国者であったはずだ」

「宗一族と縁戚の財閥孔祥熙や米国との関係や、国内に拠点を築きつつあった国際コミンテルンとの戦いを考えれば、蒋介石の立場上、その意図が理解できないわけではない。しかし、連合国の援助にまつわる物資、資金の不正にともなう腐敗は、孫文の遺した国民党の土台を腐敗させ、ついには民心の離反を招いたことは革命後の新生中国にとっては痛恨事にはなるが、内外の多面的圧迫と歴史に培われた民情を考えればそのこと全てが蒋介石の政策意志として葬り去るにはまだ時間を必要とするだろう」

 その後、大陸は中華人民共和国を率いる毛沢東、台湾においては大陸進攻を掲げながらも中華民国、国民党の領袖として互いの権力基盤の一応の安定をみたとき、蒋介石の招請を承けた伯父の訪台をきっかけに、伯父と革命の同志である廖仲豈の息子、廖承志を仲介とした蒋介石と毛沢東の関係開始の動きが起きたのだ。 成功していたらアジアは変わっていたはずである」

 佐藤のしぼり出すような回顧は『革命未だ成功せず』と、死後の革命継承を希望した孫文と、それに挺身した良政、純三郎兄弟の志操の継承者としての言葉でもある。
________________________________________
 【ミニ解説】
 蒋介石(1887-1975)は中国浙江省奉化県生まれ。1906年に清朝政府が軍人養成のため設立した保定軍官学校に入学し、翌年、清朝の官費留学生として日本に渡っている。まず日本陸軍が清朝留学生のために創設した「振武学堂」で日本語を学ぶ、後に新潟にあった陸軍十三師団の高田連隊の野戦砲兵隊の将校となった。蒋介石もまた中国同盟会に名を連ねるのだが、軍人としての素養は日本で育まれたといってよい。
 生涯、4人の妻を娶った。最後の妻は宋美齡であることはあまりにも有名である。浙江財閥宋一族の三姉妹の長女靄齡はビジネスマンでもあった孔祥煕に嫁ぎ、二女慶齡は孫文と結婚し、未亡人となった。1927年の三女美齡との結婚には二つの意味があった。
 一つは1925年に亡くなった孫文の義理の弟として、国民党の直系閨閥につながるということだった。二番目は宋家が国民党のスポンサーになるという意味だった。結婚の翌年、蒋介石の北伐軍は北京に入城し、中国統一を宣言した。後に兄の宋子文は約束通り国民党の財政部長となった。
 最初の妻の毛福梅との結婚は蒋介石が15歳のときである。そのとき毛福梅は4つ年上だった。蒋介石は生涯2人の男児を持った。台湾の二代目総統となった長男の経国は毛福梅の子供として1910年に生まれた。
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日中酔譚  基地がなくては困るというが・・

2011-02-15 18:41:57 | Weblog
公共放送NHKには多くの外国人が在籍しているが、その中でも多くの中国人が翻訳、技術の職員として在籍している。なかには本国の政府関係を歴任した職員や嘱託が外郭機関なりに就職している。

そこで活躍する某氏と杯を傾ける機会があった。


「ところでアジアには以前、西欧諸外国の基地が点在していたが、フィリッピンのスービック米海軍基地、ベトナムカムラン湾のソ連海軍基地、昔はシンガポール、香港の英国駐屯などがあったが、現在では韓国と日本に多くの基地がある。冷戦時代はそれを指して傀儡政権、はたまた殖民地だと非難されたが、今の現況でも多くの基地が日本に存在するがアジアの一員としてどう思うか・・」

『日本の左翼勢力を支持基盤に持つ政党は基地の撤去と民族派顔負けのスローガンを謳っているが政権脆弱化の一翼を担っています。でも、私なりの気持ちを言うと、゛基地は置いていてほしい゛もっといえば、゛無くなったら困る゛という考えです。』

「でも軍備を増強する中国と北朝鮮はのどに刺さった骨のように思うし、いつまでもアジアの連帯が取れないのではないかと考えるが、これも現実を見ていないか、あるいは逆読みになれていない平和ボケした考えですか・・・」

『つまり日本に米軍の基地が無ければ日本はどうなりますか・・・。その方向性です。
それが心配です。また実利で考えるべきです。』

「軍備増強すると・・」

『そうです。日本は必ずそこにすすみます。』

「昔から中国は小心といおうか、過大な準備をしますね。万里の長城に北京城壁、自宅には高い塀と堅牢な門扉、一番奥に奥さん。台湾も日本統治時代は窓を開けていても泥棒がいなかったのに、中国人が入ってきたら言葉は通じないし、今ではビルの高層まで鉄格子と二重ドアだと古老が言っていたが、相互を信じられないことが前提で外交政策を執られたら、いつまでも混乱しますね。」

『国内にも様々な状況があります。群雄割拠と統一、そして割拠、また元や清、そして西洋と日本などの侵入もあり、どうしても軍を背景にしなくてはならないものがあります。
それが市場経済とともに民主、自由、平等、人権が入ってくると、その混乱を制するには「力」が必要になります。それが多くの民族が混在している場合、共和制をとなえた時期もありましたが、民主主義のように人の欲望を調和させようとすると混乱します。そのようになる歴史的な政治と民の関係が、考え方や動向の性癖のようになっています。だから、社会をまとめる為にも専制を選択せざるを得ないのですが、その姿も時代と共に様々です。』

「たしかに老子の説く上善如水のように生き方のなかの力の応用と敏感な感知力、そして鷹揚とした独特な諦観は、政治にも複雑な仕組みが必要ですが、一まとめにするには専制独裁を選択せざるを得ないですね。とくにスピード感のある世界の流れを実利に結びつけられるのも煩雑なものより、簡易な系統の方が有効です。その意味では、゛アナタの権力は認めるし随うが、俺達の商行為を邪魔しないでくれ゛といった姿ですね」








             




『成立期は人々も貧しかった。外圧もあった。人は外にも出られなかった。それが「力」の蓄積期だった。そして政府は握っていた権利を放った、それを開放政策といったが、もともと保持していた柔軟な商能力であり、天下思想で国家の帰属意識も薄い人たちが、天と地の間である地球の表皮に点在する外地に向かって流出した。地球が国家なのだ。ただ国家を背景として軍事経済を問う諸国にしては異質なものに映るが、中華民族からすれば不思議は無い。だだ、国の形式なり力を活用できるなら国家は意味がある。すべて実利の為の用になることが国家の意味だ』

「ある古老や一部の高官から、゛日本の弱い姿を見たくはない゛と言われることがある。そして、゛日本人はアジアに必要だが、今の姿には失望している゛と。そして国内では熱狂しているがその行き着くところは解らないが、人がどうなるかは解るという。金を持つと外に出る。住みやすいところに納まる。それは日本人がいる日本なのだと。日本人がいなくなった日本は意味が無い。日本人らしさがあるところだ。ただ力を持つと加減が判らなくなるのも日本だ。それを我々が一番よく知っている、と。」

『それも一つの本音です。その点では実利を考えると与し易いということです。そして能力よく解ります。少々四角四面で好奇心もあり、強いものに迎合する性癖もあります。それが闇雲に正義を掲げたり、新しいものに順応するあまり日本人の善さもなくしたり、敗戦を引きずって米国に随うことになるのでしょうが、もし、その善さをなくして純とも映る直なる意志で複雑な世界に突き進もうとしたら近隣はあの恐怖を思い出します。アジアは四角四面では計算できない茫洋さで歴史を積み重ねてきました。我国も一時の良機かもしれないことを知っています。だから急いでいるのかもしれません。日本もそれを経て今があると思います。』

「その制御のために沖縄の米軍が必要と・・・。中国が列強によってマカオや香港が割譲されたころ、沖縄も一時はペリー艦隊に占領された。でも南北戦争という国内事情でペリーは引き返しているが、また大戦で占領された。だが民政に金がかかるので民政施政権だけは返還という美名で日本に任せた。まだ日本のものではない。日本人のいない北方四島とは違う。その米軍の方向はいつも大陸だ。日本を制しながら中国との狭間を占拠している。たしかに力の応用は弱者の活き方だが、その頚木は永遠に続くようだ。なにも阿諛迎合ではないが日本人は米国風が好きだ。そうなってしまったのかもしれないが、カウンターとしてロシアよりいいかと思っている軟弱さだ。そして今は中国だ。どちらの側に付くのかとウロウロしているうちに国家は中米だが、実利の本質は漢民族とユダヤ金融資本だ。
その行き着くところは混沌と疲弊だと考える。協和共生はない。」








               
                桂林





『その意味は解っているが、行き着くところに何があるのか、だれもが気をつけながらも目の前の実利の競争から降りられないのだ。混沌と疲弊は国内だけではなく、関係する諸外国にも及ぶでしょう。先行きはチキンレースのようになるかもしれないが、中国のグランドは広く深い。その不思議さも人を誘引する。また没落や人の死にも鷹揚に構える諦観もある。ただ生死の間の出来事です。その間をどう生きるか、財に溺れるか、食と性の享楽に人生を愉しむか、運の問題もある。その運が招来したのだと考えているのだ。いまは国が運んできたと思っているので、今のところ実利は国にあると考えている。それが今流の愛国なのです』

「四角四面の愛国論は実利にはならない。つまり国家としての形式的理屈と庶民の愛国の理由は異質なものだということですね。その一方ではないことは解ります。たしかに孔孟の説をハナシとして、道教の医薬財の福運招来を祈願する庶民の姿はダイナミックな生活を生んでいます。いま、世界で一番自由なのは中国です。まさに邪魔しなければ奉る権力ですね。たしかに実利でいえば、日本はあの宦官同様に公務員になることが安定と実利です。なにしろ彼等の給与だけで34兆円という計算もあり、税収分が給与で後は借金で予算を作っています。タックスペイヤーはその場、その位置にしか自由は考えられないようにされています。共産独裁より躍動的な自由は乏しいというのが日本のようです。」

『幸せ感は同じではありませんね。国も様々です。いたるところで規制と税と手数料がある日本は今の経済には不向きです。別に商売人だけの利益で物価が高いわけではないようです。資源も無い、工場も無い、そんな国で日本より物も安く、自由に、幸せを感じている国もアジアにあります。それを失くした国の危機は軍事力や経済力では補えません。つまり日本人の善なる部分を考えれば活かし方はあります。それが不安だから基地も軍事力も気にかかるのではないですか。応じた力は相応しい精神にあるものです。宦官が跋扈したときは国も疲弊し侵略も受けました。あの時の世界に相応しい考えを生む精神が衰えていたのです。愛国心ではなく人間が堕落していたのです。弱かったのです。宦官は産むものはなかったことを知っています。だから汚職や腐敗に政府は厳しいのです』

「たしかに基地も無くては困ると考えているのは日本人だけではないようですね。意味合いは違いますが、それが双方の実利になっているのですね。だだ、世界の各地で版図の書き換えに近い経済支配がすすんでいます。また国益という言葉を頻繁に聴くようになり、今までの思想的枠組みや人種、経済ブロックなど互いに相反する勢力が新たに構成されています。喰う為にするのではなく、利便と繁栄を得るために強国の伸張が烈しくなりました。内なる賊の解決に目をつぶって外に気勢を上げる姿は、世界そのものが衰えていることでもあります。行き先が読めないのではなく、己の欲の器さえ見当も付かなくなり、栄枯盛衰の潮目さえ分からなくなってきています。」

『まるで抱き合い心中の関係になりそうです。その点、善き日本及び日本人の鏡がある日本は、まず内なる賊の退治が必要ですね。宦官と応用力の無くなった為政者は外国の侵入を許す土壌でもあります。複雑な要因によって構成された社会なり国家を偏狭にしか考えられない賊の跋扈は我国の清朝を鏡とすれば分かります。時代や国が違っても人間の欲望と精神の劣化は共通しています』









            


                桂林


「たしかに国民の尊厳を毀損するものは権力を構成するものの倣いです。いつの間にか権力を構成するものは政治家、官吏、知識人、宗教家、いまは金融資本家です。必須な職分であるからこそ厄介なものです。あのときも思い上がった軍人と官吏でした。抱き合いというのも面白いですが、中国も内なる賊、とくに止め処も無い欲望のコントロールが効かなくなると外圧は浸透しやすい状態となり清朝末期のようになりますね。国民は易旗革命といって誰が支配者になっても関係ないと庶民は内心の高みを悲哀の間断としていましたが、政権は代わっても官吏の住処は代わらない日本も易旗交代のように、国民は諦めて眺めるようになりました。知識人もマスコミも騒いでいますが、そろそろ国民も分かりかけてきたようです」

『外圧によって政権が代わることは、国民の欲望の強さによっても左右されるようですが、
政治権力との間の取り方と順応の仕方を熟知している国民の考える専制独裁の有効性は、庶民の使い勝手の良さとして見なければならないようです。つまり水のように生きるのが上善なら、水という庶民がまとまれば大海になり、船である皇帝さえ転覆させられるので、水が無ければ権力も無いという考え方です。そこに人権、民主、西洋的自由は中国人ですら、いまは不自由の種と考えています。コンプライアンスが自縛という不自由さを生んでGDP数値すら下げていることが、気がついても止められない日本を不思議に思っています。自由主義国家ですよ。』

「実利には敏感で早いが、柔軟で事に望んでは鷹揚な民族と、実直だが四角四面で事に際しては拙速な民族だか、異民族のみるような善なる部分を忘れた日本人は、その善なる部分の自由な発露を妨げている賊の退治が必要ですね、それは内なる欲望の賊と、宦官紛いの外の賊ですね。自由意志で選んだ権力が制御できないくらいに増殖した宦官紛いは、意外と己の内なる賊に似たものなのでしょう。だからといって留まっていると亡国です。互いに鏡となる関係になるべきですね、一国の栄枯よりアジアの盛衰を考えたいものです」

いつの間にか、紹興酒と日本酒が数本空いた。もちろん中国人の彼は日本酒の熱燗で、こちらは紹興酒だった

      

                      一部写真は関係サイトより転載
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河村たかし、善なる独裁は童心ゆえ

2011-02-07 12:39:36 | Weblog
              神は心の奥底に存在する


河村氏の名古屋市長再選は緊張感を伴った慶事である。
それは童(わらべ)の疑問を大人(おとな)に突きつけたようだが、大人とは議員や官吏に覚醒更新を促すと共に、阿諛迎合の如く看過してきた市民、あるいは嫉妬から怨嗟、そして他人任せにしてきた不特定多数の感情に厳しい要求を突きつけたようにもみえる。

なかには・・・
市長と議員が翼賛的になっては民主主義が問われる・・・
無責任な衆偶の欲望を知ることになる・・・
法の整備の無いまま遂行すれば立ち居かなくなり、市民は無力感を味わう・・・

よく政治は論理的だが選挙は感情で動くという。
一般庶民は難解になった法律や政治は疎い、いや疎くしているのではあるが、選挙は神輿選挙といって、そこに集う仲間意識が政治参加だと納得して、勝ち負けに一喜一憂して連帯の情を味わうのだが、津軽選挙のように負ければ仕事や御用役職が無くなる陋習もある。一方、終わったらエールを交わすセレモニーも民主党代表選の菅、小沢両氏にあったが、本人同士の器量を表すことによって応援議員の狂気を鎮めるため一種の儀式でもある。

日露戦争では敵将ステッセルに帯刀を許して会談に臨んだ乃木希典の矜持はあるが、それは日本人の忠恕心であり、異なる民族への普遍性でもあり賞賛されることでもあった。
乃木のそれは肉体化された学問であり、その当時の日本人のエリートに多くみた武人の情だった。

あの市川房江氏に大義を装って取り付き己の小欲を果たし、「菅は許せない」と言わしめた逸話がある総理だが、舞台のエールを繕った途端に相手を干し上げた。人を観る座標が無いのか、取り巻きには三百代言や名目エリートを配置して諫言すら無理解の内閣を作り上げた。浮俗では「墓参りする者もいなくなる」といわれる姿だ。
ここでも人の「人情」の如何が問われるようだ。

河村氏にもどるが、彼は形式的やアカデミックに偽装され、それを基にした考証にはおさまらないものがある。それは、魅せる、想い起こさせる、つまり土着的といってよいものだが、数値やアカデミック(学術)で証明しようとする官吏の土俵に乗った政治家に抗する、いやそれゆえに混迷の度合いを深めている社会の覚醒を「もともとの日本人の生活感」を想起するように、吾が身そのものを考える「糧」なり「具」として顕している。

「魅せる政治」と考えるのもそのことである。
また目標のきっかけにある覚醒や、善なる心の想起は通人ならドンキホーテだが、継続は畏敬に変化するのは青の洞門を掘った僧侶、足尾の田中正造、を見るまでもなく、代々続く商人、職人、匠、あるいは延々と営む家事を営みとしている人たちに、「そもそも」という前提に導くための目標とみるのだろう。

それが彼は政治という形において、不特定に問いかけたのだ。
そして「難しいことはわからないので任せる」という信頼を戸惑いながら委ねている。
中国古代の尭瞬の時代を東洋の理想政治と謳われているが、本来は政治が行なわれていることすら意識させない、つまり庶民は「皇帝と認めるので俺達の生活を邪魔しないでくれ」という棲み分けでもある。

ただ、妙な粉を振り掛けられ欲望を喚起させると、民は一夜にして変質する。
自由、民主、人権、平等、という当たり前なことを言葉として投げかけられると、他人より多く゛有るものだ ゛と欲望が喚起され、その充足を政治に求めるようになる。
いまさら「あなた次第であるもの」とはいえず、苦慮しているのが現状だ。

その戸惑いは、アテにならない民主といわれるが、その時々の現世政治の茫洋な疑問の基に、議員と官吏の既得権が存在すると彼は明確に声明し、それを国会議員からの一貫した行動によって大衆を諭している。

さて、その「自分次第」「有るもの」を誰にでもあると民主システムの選挙で宣伝された人々を、どのように転化していくのか。それは吾が身を投じて魅せる、倣わせなければならないのである。今まではバッチ付の議員、学歴、財力、がその錯覚手段となったが、その有れば在るに越しこしたことは無いが、何ら人格を代表しない附属性価値の効用が劣化し、「力」が衰えたと、薄々感じている庶民は河村氏に「そもそも」を見た。

政治の腐敗、無力混迷、官吏の怠惰、財のはかなさ、学歴と人間の整合は、より河村的な献身に向かうはずであり、時宜を得た彼の先見でもある。
多くの日本人の直感と覚りだが、これが大多数で委任すれば「独裁的」というが、狡知によって法を駆使した官製独裁を質すものは少ない。政権でさえ、同じ生簀の金魚と鰻の有様である。

巷間いわれている「独裁」ではない、独立した意識で不特定多数の将来のために裁くのである。ヒットラーやムッソリーニ、あるいはアフリカ諸侯を想起するが、今に構図は金融独裁、一極管理を防ぐには独裁体制も意味ある政治形態である。
繰り返すが専制独裁ではない、民主独裁なのだ。決断と行動は迷いの無い責任者の決断なのは群れのリーダーとしては当然のことだ。








                






そして童心だが、一例を記したい。
インドの東にバングラデッシュという国がある。あの詩人タゴール、インド革命の父スバス・チャンドラボーズ、東京裁判のパル判事もベンガル地方の出身である。日本とも深い繋がりがある国だが、昔は最貧国、いまはバブルに近い状態だ。ただ繁栄の山は高ければ谷も深い。賄賂、汚職が隅々まで蔓延し始めた。しかも人口構成は三角形の底辺が広い。つまり子供が多く識字率も低い。日本はその真逆だ。

その子供たちだが、あのハザマかんぺい氏が世界縦断マラソンで呟いた「子供たちは、みな笑顔で可愛い、でもなぜ銃を持ち悪いことをするようになるのか・・」と。
いま、筆者の友人とベンガルの仲間で子供新聞を発行している。それは読む興味から識字率を上げ三角の底辺である多くの子供たちの心を育てることでもある。
また「童心」にある、無垢な心でみる社会への疑問や自然の見方、将来の夢を子供たちが書いて、見て、知らせる、話し合うことを習慣化させることでもあった。

子供は残酷なことをする、ともいわれるが、素朴、自然、正邪の判断、下座から世を見る興味、それが稚拙な表現だと、厳しい、意味が無い、と大人社会からすれば残酷に映ることがある。その意味では「善なる残酷」の効用を期待することでもある。これを制御するのは親子、教師、政治家の緊張した姿であろうが、それが乱れ、無邪気の背にある稚拙な子供の騒乱となったら社会は日本に似てくる。

子供新聞といえば日本では毎日子供新聞があるが、漢字にルビをふっているが大人の記事という、似て非なる子供を装っている。そこでバングラでは子供が記事を書き、日本の子供も在日バングラ人が取材し、それを毎月集計して編集構成は在日篤志家シャカー氏が行ない、データー化したものを送って現地の子供たちの従事で印刷して学校に配布する。

もちろん無料である。自分の記事が出ていればもっと書くようになり、その子供も増える。
自分達が新しい興味を調べ、記事にして発表し、大人達が見る。多くの子供たちが参加するようになった。そして大人たちが子供の純真な聴き取りで答えを窮する場面が続発する。
それも記事になる。

政府から金を貰う日本の新聞社の記者とは違い真実がある。広告はもらわないので妙な自制することもない。ただ、反体制、反権力を屏風にした軽薄な市民運動家に陥らないのも、組織化しないで、子供たちの独自性の発露としてグランドを提供するという発行の主意を協力する大人たちに徹底している。

「子供は世の中の指標を作る」「無垢な良心の残像を維持する」
妙なことだが、読み物を渇望し電気も道路も整備されていない貧しい国の子供たちに、アジアが陥ろうとしている過度の財貨欲望ゆえの混沌の鏡になってもらいたいと思うのは、我国も同様な鏡として凝視することになるのだろう。

その子供心こそ河村氏の「童心」として映るのである。

少々、童心の残酷な独裁かもしれない。しかし放埓になった子供たち、官域の怠惰、政治家の無力感に「独裁者の渇望」と切り捨てるほど、人間の成りを知らない稚拙な評にみえる。これを妨げるのは玄人と自認しているマスコミと、人気者に阿諛迎合して集まる候補者と愚かな声だろう。

童心がある限り、河村氏の独りの戦いは善男善女に効あるものだ。
豪華な議員宿舎を嫌い、粗末なアパートの一室で政策を鎮考し、その合間に自炊、洗濯、清掃、鬼気迫る独行だが、だれも真似するものはいない。それを同僚は狂気といい、大多数は変わり者という。河村氏はそれを普通だといい、幸福感も高く意気軒昂である。

いつの世でも変わり者が世の中を変える。そのために王陽明の言葉を借りれば「狂」に達する境地がなければ成就しない。維新の志士の何人かは号に「狂」を用いている。
たしか、山県有朋も「狂介」だった。



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備忘録 「張学良 鎮す」    2007. 6/4掲載 改

2011-02-02 11:08:01 | 郷学
   張学良率いる東北軍顧問 苗剣秋氏と夫人


【歴史の部分から大局をみる。その大局を企てた流れは,今も止まることはない。】


備忘録 「張学良 鎮す」 抜粋

張学良といえば国民党、共産党合作の舞台となった西安事件が有名だが、戦後、氏の存在はベールに包まれている。
なぜ台湾に移ったのか、西安事件の秘密は?それらの多くは語られることのない問題として日中近代史に多くの興味を投げかけている。

NHK特別番組でのインタビューで語る氏の゛語り口゛は、歴史経過の及ぼす様々な事象への慙愧と無常感が入り混じったものであった。ときには昂じ、あるいは鎮まりをもった姿は、まさに世界史の出演者である氏の生涯そのものの観があった。
ここでは歴史研究や学問としての中国観とは別に、普通なら取り上げられる事も無く、さりとて゛まんざら゛でもない、関係者からの平常な生活会話の中からエピソードを辿って見ることにする。

1988年といえば天安門事件の2年前の12月、なんとなく足を向けた台湾台北でのことだった。 師の佐藤慎一郎氏から伺っていた西安事件の立役者 苗剣秋氏のことを思い出し、唐突にもホテル前を逍遥する古老に尋ねてみた。
゛おぅおぅ知っている゛とばかりに古老は懐かしそうに早速、居住をどこかに尋ねている。 こんな時で無ければ会う事のない苗氏の名は古老なら知っている。

心当たりが分ったのか、本人も興味津々のようで目の前のタクシーを呼びとめ、到着したばかりの台北の町をひた走る。
やたら狭い路地を走ると保育園の前の古い建物の三楼(3階)を指して、下車を促す。
治安上なのか、階段入り口と苗宅のドア前には横引きの鉄製シャッターがあり、ドアはスチールの堅牢なものだ。
呼び鈴を押すと初老のお手伝いとおぼしき女性が応対に出たが、なにしろ突然の訪問のため要領を得ない。


「佐藤先生の友人です」とっさのことだが友人とは大仰な態度だった。
招き入れられた応接間に苗夫人がソファに座っていた。
壁には苗夫妻の若かりし頃の写真と剣秋氏の軸装が掛けられていた。一方には安岡正篤とあるが、何時もと違った感の書風の掲額がある。
話といっても佐藤師からの聞きかじりばかりで中身が無いので、夫人の近況を伺う事にした。

夫人は苗氏を苗先生と呼び、現在、加療中であり、夫人も養護施設の入所考えているが、なかなか順番が回ってこない。しかし、「施設では時間が軍隊のように決まっていて年寄りには辛いだろう」との不安を抱いている。
お手伝いサンの子供に話が移り、お手伝いサンが事故で怪我をした見舞金を息子が遊興に費やしている苦言を吐露している。
初対面での会話だが、佐藤師と苗氏の交流の深さが垣間見える応対でもある。




              

               梁立法院院長       丘昌河氏




2度目の訪台は日本の国会に当たる立法院の梁粛成院長との会見や、興味を持ち始めた孫文の記念する国父記念館と蒋介石総統が提唱した「新生活運動」の原本を拝観するための中正記念堂訪問である。観光コースの忠烈館の回廊に唯一日本人が掲げられていることに胸が熱くなるほどの強烈な印象を受けた。
くわえ、友人の訪台に際し苗夫人の様子伺いにと好物であるケーキの持参を依頼した折、「もう、さびしくて死んでしまいたい」との言葉があり、急遽の訪台計画でもあった。

初回は佐藤先生にも伝えなかった旅だったが,今回は苗氏の消息を報告した小生の言葉に
 
「それなら七福という通じの良くなる薬を持参してください。たしか夫人の常備薬ったはずだ。それと満州の大同学院の教え子に丘昌河という実業家と梁粛成という政治家が居るので時間があったら会って来たらよい」
 何時もながらの簡単な会話だが、あとは現地でどうにかするということだ。

夫人は待ちかねたようにベットから起き上がって持参したケーキを食べた。
すると、
「苗先生は西安事件は関係無いんです」突然の言葉である。

「その話を伺いたくて訪ねたのではないですよ」考えもなく応答する

「あのとき先生は天津にいたんです」

ただ,黙って口元を注目するしかなかった
西安事件の立役者である苗氏のことは佐藤師にも聞いている
北方の軍閥,張作霖の子として生まれた張学良の学友として張作霖に可愛がられ、持ち前の利発さから日本に留学。一高帝大 難関高等文官試験に合格。張学良率いる東北軍の顧問として活躍し、周恩来とも懇意で事件前後さまざまな想定問答があったことは以後の推移をみてもわかる事だ。
また、佐藤師とも懇意であった苗氏の状況をみても事件の大筋は吐露している事だろう。

小生は学者,研究者の類ではなく、ましてブン屋のごときのように話の整合性を詰問したりはしないが、縁と人情に裏打ちされた継続すべき人間関係の中での体験会話の集積から読み取る「語り」である。たとえ備忘記述でも秘すべきもの,約束事については関係,無関係の事象を問わず、ふとした言わずもの、あるいは嘆息の中に忖度すべきものと考えている。

苗氏は張学良に言う

「おまえの親父は誰に殺された」

「おまえは今,誰と戦おうとしているのか」

一時は麻薬中毒となり,軍閥の腐敗を増長させた張学良を叱責した苗氏の激情は,蒋介石を監禁した折の「殺してしまえ」といった言葉にも表れる。
苗氏は周恩来とも旧知の間柄だった。学良の父であり満州軍閥の総帥である張作霖は、対立する国民党軍との関係で、一時は日本の援助を得ていた。苗氏は張学良と同級で張作霖の援助で日本に留学、帝大、高文に合格し、東北軍の軍事顧問になっていた。

その東北軍しかり,国府軍もまたしかり。軍備や戦機、といった戦略戦術の類に勝敗の有無を問うものではなく、単なる武装暴力の腐敗や権力に添う富の収奪闘争なっていた。そのため中国の歴史に登場する英雄が率いる諸侯、軍閥の合従連衡が、清朝後の中国に繰り返され、統一国家の意識を醸成するまでもなく、借款あるいは軍事力の後ろ盾による諸外国の介入を招いて、事後の混沌とした状況を作り出していた。

張作霖,袁世凱にある軍閥の様相は,孔財閥を財政部長に置き諸外国の援助を腐敗の具としたその後の国民党の敗北と同様に、抜けがたい中国の権力性癖を表していた。

「誰に殺されたか」という苗の言葉は日本軍に爆殺された父張作霖であるが、河本大作大佐が大阪士官学校同期の磯貝廉輔に宛て決行27日前に出した書簡の末尾に「満蒙に血の雨を降らせる…」と記し、南方便衣隊の仕業に見せる為、金を渡して雇い入れた中国人を刺殺し決行している。

北京から同行していた日本人将校は前の駅で降車し,唯一、有賀とかいう将校だけが知らされなく激怒したという逸話が残っている。
爆殺に怒って東北軍が攻撃してくればしめたものと考えていたが,東北人の智将蔵式ギの機転で重傷発表を行い,虚偽に薬の購入までさせている。
肩透かしを食ったのは河本を始めとする日本軍だった。
                     (佐藤氏談)

中央の意図しない現地の謀略に、慌てふためいて追認する伴食軍人や官僚の姿は今も変わりがない。
しかも、官癖というべき現状追認と理屈の塗り固めは、将来起り得るであろう泥沼化した日中戦の初頭を゛飾る゛蛮行でもあつた。


西安事件以後の国民党軍の姿に疲弊と戦後の国共内戦経過を見ると、周恩来の意図が成功し、中華人民共和国成立となるが、皮肉にも成立の立役者である苗氏も張学良も台湾に居住している。






               






確かに,一時期日本に亡命した苗氏だが、田中総理の日中国交回復交渉の経緯と結果に憤慨して台湾に渡ったが、生活の問題は民国政府のそれと聞く。
しかし,筆者が垣間見た国民党の情報機関「国際問題研究所」、実はゾルゲの謀略機間でありイギリス情報機間のパイル中佐との連携のもと、日本の北進政策を南進に切り返させた組織の日本駐在者として苗氏の名がある。

組織のトップは後の中華民国駐日大使館の参事官,王大禎(梵生)であり、日本朝野の要人との交流で信頼を集め、あの安岡正篤氏をもって「大人の風格ある人物」と言わしめている。
また北京の交流拠点であり、大倉財閥の資金を北伐資金に投じていた宮本利直氏の主宰する宮本公館に出入りし「大志を共有する老朋友」と肝胆相照らす仲でもある。
有名な抗日事件であった129事件から始まった2年後の露構橋から西安事件と、その謀略の流れは破錠することなく中華人民共和国の成立から現在のアジアの分断混乱までつづいている。

国際問題研究所の組織図には、末端にあの満鉄調査部所属の朝日新聞の尾崎ホツ実や偽造紙幣の印刷担当に青山和夫、あるいは日本滞在の欄には苗剣秋氏がある。

西安は事変でも事件でもない。短期的には国際コミンテルンによる中華人民共和国の成立だが、イギリス情報部とチャーチル ゾルゲとスターリン 王大禎の真珠湾攻撃数週間前の決定情報とアメリカ情報部などを、地球儀を回転させた関係図から読み取ると戦争や事件の研究追跡というミクロ視点では汲み取れない、遠大な意図と目標に向かった謀略が潜んでいるように見える。

近年「文明の衝突」だとかの推考があるが、満州事変の確信的首謀者である石原莞爾将軍の預言的「世界最終戦論」や、中国近代革命の父孫文が終始唱えていた「日支提携してアジアを興す」、あるいは日本に対して「西洋覇道の狗となるか,東洋王道の干城となるか」が今日の現状を考える上で重要なキーワードになっている。




              

            満州皇帝溥儀と側近 工藤忠(鉄三郎)





張学良氏の慙愧とウメキに似た言葉は、゛了見が狭くわからずやな日本及び日本人゛に対して向けられている。それは、゛真の日本人がいなくなった゛と嘆息した孫文の言葉と同様に聞こえるのは筆者だけではあるまい。
 
苗氏は台湾を切り捨て、中国になびく日本の政治家を称してこう言っている。
「三木は見限った 大平は真っ平だ 中曽根には根が無い 田中は一角の繁栄しか考えない」
そして「日本人は世界史に名を称えられるような民族にならなくてはならない」と

   【天下、公のため、その中に道あり】と色紙に揮毫して託してくれた


余談だか
 佐藤師から,「西安事件の秘密資料はイングランド銀行の金庫にある」というが、蒋介石を迎えに行った宗美玲に同行したイギリスの美術商の奇怪な行動をみると理解が近くなる。
秘密とは日本とは戦うな、という「不抵抗命令」であるというが、その心根は孫文の日本にたいする考え方の継承と、日本と戦ってどちらが負けてもアジアは復興しない、という意志だった。近衛も何かに誘い込まれるように泥沼に入り込む不思議さを語っている。
蒋介石もその状況に苦慮した。互いに「何故だ・・」というおもいだった。






              






近衛の取り巻きに朝日新聞の尾崎、蒋介石の情報機関である国際問題研究所のトップに王大偵,この二人とゾルゲを交えた謀略は日本の誘引と国民党の疲弊を企て、日本の南下によってソ満国境の精鋭をドイツに向けモスクワ戦にかろうじて勝利させ、国内では国民党、共産党の合作によって共産軍の温存と増大を謀り、構図として日本軍と共産軍の挟撃構図を企てた西安事件であった。


事件をよく知る中華街の名のある古老に,蒋美玲夫人が西安に乗りこみ蒋介石を連れ戻したのはどうして可能だったのか?との問いに

「張学良は美玲のボーイフレンドだからだ」

ソビエトの指令で死を免れた蒋介石だが張学良の台湾幽閉と生死、生活の保証は、たとえイングランド銀行の秘密文書があったとしても、中華街の古老の話のほうが真実味がある。

日本人には理解しずらい面白い逸話だがこんな事もある
共産党の重鎮である朱徳の甥が来日した。
要件は中曽根総理に会いたいと言う事だった。

「佐藤先生は中曽根さんを知っているはずだから取り持ってくれませんか」

「私は近頃,外出も不自由になって…・」

「それなら,秘書の方を紹介してください」

「よく知らない人だが拓大に居ったときに学長は中曽根さんだったので訪ねてみるか」

 一国の総理に対して、いくら重鎮の朱徳の甥でも,しかも,何の用なのか
 ともかく議員会館を訪ねてみると、廊下の向こうで

「やぁ 佐藤先生ご無沙汰しております」
旧知の上和田秘書である。
 
「総理は多忙なので私、上和田がお聞きします」

話は秘書が引き取ったが,内容は、いわゆる゛個人的゛な付き合いをしましょうという事だ。
 この甥は普段、台湾で反共新聞を発行している人間で,台湾でも力のある部類でもある。 それが中国共産党の重鎮の使いとは,聞いているほうが混迷してしまうエピソードだが、左様に事象の見方は複雑で入り組んでいるが、『利』の潤いや゛人情を贈る゛という『賄賂』には国共や思想スローガンも存在しない。



              





ともあれ,苗氏宅訪問が思いがけない歴史深訪になったが、筆者にとっては苗夫人の言葉に震え、それが自らの生涯に忘れ得ぬ一つの絵となって刻まれた。

「苗先生は自分を探す為に一生懸命忙しい人生だったのです」 

遠来の無名な若造の目を凝視して諭すように語り掛けた。
病床から起きあがり、ベットに両手を支え、さっきと違う声の力があつた。
次ぎの言葉を待った。刻が長い

「張サン(張学良)はねェ お坊ちゃんですョ」

歴史は探求する事だけにあるものではない。
眺めるものだと考え始めたのもこの時からだ。



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