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人には色々な切り口がある。主観も客観もさまざまな観点がある
石原の言う政治、経済、民政、思想、願望を部分で切り取ることも大切なことだが、これらの探求されたものを全体として構成するために石原が表した、姿や言辞、そして歴史的行動をを支える心根や気概に筆者は興味が沸く。
それはアカデミックな心理学から行動理由を問うものではなく、「情」を元とした全体への促がし、そして突破力、身の処し方など、庶政にも身近な人物像として理解したいと考えている。
なぜ、石原なのか・・・
時を違えても問題意識はに変わりが無いのである
そして縁の誘引があった。弘前の養生会の文庫棚にある直筆の「戦争史大観」を手にとったとき、またそこの存在経路に連なる伊東六十郎氏、義弟鈴木忠雄氏、小笠原豊氏、また浦和の中川昇氏主宰の東亜連盟物故者慰霊への誘い、そこで対面した三浦周重氏、そして関東軍と衝突した満鉄自治指導部の笠木良明氏の縁者など、ことあるごとに不思議と縁が訪れた。
伊東六十郎氏
伊東氏の縁戚にあたる鈴木忠雄氏 孫文選書の拓本採取
酒田法廷において、あの東條氏の印象を聴きかかれたとき
「意見の無いものとは、意見の相違などもともと無い」と語った氏は、あの満州事変の首謀者として認知されていたに関わらず、戦争犯罪人にはならなかった。
人は石原を、変人、謀略家、と悪口はいうが、誰一人彼に面と向かって意見を言わない。
孫文の側近、山田純三郎は「国おもえば、国賊」と当時の指導者階級の大経綸のなさを歎いている。石原は多面的、根本的、将来的、そして日本人の慣性や民癖を理解していた。
見えないものからすれば、彼を予言的とも言った。秋山真之もそういわれた。
ことさら神かがりに成ったのではない。人より多く考え、真剣だったのだ。
分かりやすくいえば、今どきは落合監督のようで、マナコと風貌が似ている。
ストイックなほどの鎮考、浮俗から別世界へ遊離できる解脱力、ゆえに将来を推考できる能力と覚悟、いまほど必要な人物ではないかと筆者は考える。
もちろん、陸軍、海軍、球団を除いてもである。
あの、アップルのジョウブスも、アップルを除いても彼らと共通なコア(核)をもっている。
人を観る「観人則」が衰えた今、人物、人格を観る秤の目盛りは無くなった
「真の日本人はいなくなった」今、孫文の嘆きを聞くものはいない。
伊東六十郎氏に託した著書
http://blog.goo.ne.jp/greendoor-t/e/755b0539c9e7cf670e697fb5aafb51ca 前章参照
時代背景は異なるが、以下は、氏の遺文の抜粋である。
具体は異もあろうが、不特定多数の安寧を考える男の心根がみえる。
昭和24年8月10日
・・・統制は專制と自由を綜合開顯せる指導精神であり、個々の自由創意を最高度に發揚するため必要最小限度の專制を加えることである。今日自由主義を標榜して國家の運營に成功しているのは、世界にアメリカだけである。
かつて自由主義の王者たりしイギリスさえ、既にイデオロギーによる統制主義國家となっている。しかして今やアメリカにおいても、政府の議會にたいする政治的比重がづつと加わり、最大の成長を遂げたる自由主義は、進んで驚くべき能率高き統制主義に進みつゝある。國内におけるニユー・デイール、國際的にはマーシヤル・プラン、更に最近に到つては全世界にわたる未開發地域援助方策等は、それ自身が大なる統制主義の發現に他ならぬ。その掲げるデモクラシーも、既にソ連の共産主義、ドイツのナチズムと同じきイデオロギー的色彩を帶びている。
かくしてアメリカまた、ソ連と世界的に對抗しつつ、實質は統制主義國家に変貌し來たのである。專制から自由へ、自由から統制への歩みこそ、近代社會の發展において否定すべからざる世界共通の傾向ということができる。
・・・・・もしアメリカが日本を自由主義國家として立たしめんと欲するならば、日本の再建は遲々として進まず、アメリカの引上げはその希望に反して永く不可能となるであろう。しからば日本は結局、アメリカの部分的属領化せざるを得ず、兩國間の感情は著しく惡化する危險が多分にある。日本は今次の敗戰によって、世界に先驅けた平和憲法を制定したが、一歩獨立方式を誤れば、神聖なる新日本の意義は完全に失われてしまうであろう。
繰返して強調する、今日世界に自由主義國家はどこにもない。我等の尊敬するイギリスさえ統制主義國家となり、アメリカまた自由主義を標榜しつつ實質は大きく統制主義に飛躍しつつある。日本は世界の進運に從い、統制主義國家として新生してこそ過去に犯した世界平和攪亂の罪を正しく償い得るものである。
経済の原則として其の三に
第三。しかし創意や機略を必要とし、且つ經營的に危險の伴う仕事は、やはり有能なる個人の企業、自由競爭にまかすことが最も合理的である。特に今日の日本の困難なる状勢を突破して新日本の建設を計るには、機敏に活動し、最新の科学を驅使する個人的企業にまつべき分野の極めて多いことを考えねばならぬ。妙な嫉妬心から徒らに高率の税金を課し、活發なる企業心を削減せしめることは嚴に戒しむべきである。
生活革命
我等の組合國家においては、國民の大部分は農村に分散し、今日の部落程度の廣さを單位として農工一体の新農村を建設する。各農村は組合組織を紐帶として今日の家族のごとき一個の共同体となり、生産も消費もすべて村中心に行う。
これが新時代における國民生活の原則たるべきである。一村の戸數は、その村の採用する事業が何名の勞働力を必要とするかによつて決定される。概ね十數戸乃至數十戸というところであろう。
この体制が全國的に完成せらるれば、日本の經濟は一擧に今日の10倍の生産力を獲得することも至難ではないと信ずる。しかし農工一体の實現は、社會制度の革命なしには不可能である。日本の從來の家族は祖父母、父母、子、孫等の縱の系列をすべて抱擁し、これが經濟單位であり、且つ生活單位でもあつた。
この家族制度は日本の傳統的美風とされたが、一面非常な不合理をも含んでいた。我等の理想社會は、經濟單位と生活單位とを完全に分離するものである。即ちそこでは、衣食住や育兒等の所謂家事勞働のすべては、部落の完備せる共同施設において、誠心と優秀なる技術によつて行われる。勿論家庭單位で婦人のみで行う場合より遙かに僅少の勞働力をもつて遙かに高い能率を發揮できよう。
かくして合理的に節約される勞働力は、男女を問わずすべて村の生産に動員される。しかして各人の仕事は男女の性別によらず、各人の能力と関心によつてのみ決定する。生産の向上、生活の快適は期して待つべく、婦人開放の問題のごときも、かかる社會においてはじめて眞の解決を見るであろう。
かくのごとき集團生活にとり、最も重要なる施設は住宅である。私は現在のところ、村人の數だけの旅客を常に宿泊せしめ得る、完備した近代的ホテルのごとき共同建築物が住宅として理想的だと考えている。
農士学校の農園
最高の能率と衞生、各人の自由の尊重、規律ある共同的日常行動等も、この種の住宅ならば極めて好都合に實現し得るのではあるまいか。
新農村生活はまた、舊來の家族制度にまつわる、例えば姑と嫁との間におけるごとき、深刻なる精神問題をも根本的に解決する。
そこでは老人の扶養は直接若夫婦の任務ではない。また老人夫婦は若夫婦の上に何等の憂も懸念ももつ必要はない。それぞれの夫婦は、完全に隔離された別室をもち、常に自由なる人生を樂しむであろう。そこでは新民法の精神を生かした夫婦が新たなる社會生活の一單位となり、社會生活は東洋の高き個人主義の上に立ち、アメリカ以上の夫婦中心に徹底するのである。
親子の間を結ぶ孝行の道は、これによって却って純粹且つ素直に遵守されるものと思われる。この間、同族は單に精神的つながりのみを殘すこととなるであろう。眞に爭なき精神生活と、安定せる經濟生活とは、我等が血縁を超えて理想に生き、明日の農村を今日の家族のごとき運命共同体となし得た時、はじめて實現し得るものである。
ご報告が遅くなり申し訳ありません。ご都合が悪ければ削除させていただきます。ご意向をうかがいたく思います。
「他と異なることを恐れない自己の確立」
小生のごまめの歯軋りですが、そんな人物が時代の必然のように現れます。
とくに透徹した眸が事象を俯瞰視しているように思える。まさに眼で見るではなく、観ている言動だ。
孫文、南方熊楠、児玉源太郎も同様な眸に観える。
気概は目力となる、師からよく聴いた。
拙意の掲載、恐縮です。