人災・・・
知って教えず 師あって学ばず 学んで行なわず
岡本義雄氏
ちかごろ余り騒がれないが問題に、体罰、しごき、がある。それらは教師とか先輩の倣いとして伝えられた訓導に伴う行為、または生理学的にも覚醒の意味が含まれている行為であった。受けるほうも一時的には恨む者がいたが、かえって其れゆえの交感ストーリーとして想い出に刻まれることでもあった。総てではないが、その含みは、゛愛の鞭゛つまり「御鞭撻をいただいた」という理解だからだろう。体育会系では「無理ヘンにゲンコツ」とも称して代々後輩に引き継がれていた。
文部省官制下における私学校も時が代わって各々特有の建学の精神も忘れ、偏差値と経営こそが教育の下支えというべき考えのもとに就職を想定した就学歴(学校歴)の条件となり、最近の少子化事情では、゛学生はお客様゛に成り下がってしまった。それも憲法にわざわざ附記されている、私業ではあるが御上の制約下を条件に私学補助金を貰い、建学の魂を売り渡す食い扶持経営を由縁としている。
加えて、教育とは魂の継承であり、それは感動と感激を通じた人格の涵養などという考えは、野暮で古臭いものとして切り捨てられた。
つまり管轄下、保護なりを名目とした法人化であり、税制優遇を糧とした学校経営が教育という美名に隠れて治外法権の様相をきたしている。それは官域と教育機関が巧妙に囲った屏風のようなもので、官の天下りは大学のチョイの間の床の間教授が近頃の指定席のようになっていることでも解かる。
江戸城
ちなみに江戸の藩校や塾には武士そのものが講頭となり、その中でも藩主の援助で江戸や長崎に遊学し、かつ他藩の預かりとして藩政補佐役の活躍をする者もいたが,明治以降の中央集権国家での専門知識人、あるいは出身母体の官域からの転出は知識技術の切り売りが横行して食い扶持教授の乱造となった。また補助金拠出と引き換えに財務省を始めとした官吏再雇用のアテガイ場所として、より教育そのものを形骸化させている。
省庁管轄の専門学校、自治体管轄、またマス化した大型大学の専門分化による大学増設など、箱モノ建設などを含めた地域活性化の美名のもと、集積情緒である卒業生、地域住民などから構成される門前町ならぬ教育環境域が、一過性のしかも偏差値,就職率という数値基準の過度な価値観によって顧客である生徒の流行り価値にさらされ、なかには郊外のゴースト要塞のようになった施設も散見するようになった。
駅近、コンビニ、施設充実、安易な単位取得など、まるでカルチャー講座のチョイスのような大学が法人化され補助金をせしめている。
人物を作らない学び舎、つまり偏差値をベースに固定化された生徒の生産施設として、なんらマンモス塾と変わらない形態が問題意識を抱えつつも、親も生徒も「仕方がない」と続くのである。
上賀茂
あの時代はどうだったのか。
幕府の形式化した儒学、それに問題意識をもった地方の藩政は各所に藩校を創設し、細分化した地域には寺子屋や有志による塾という郷学が作興し、文化糜爛して政治も弛緩したような中央に対抗するようになった。いや雌伏しつつ共通意識の連帯を図った。
それは教育が中央に取り込まれなかったというより、隣国の毛沢東が臭九老と蔑んだ知識人と同様に、武士の世界でも知識人を公務である藩政に任用する際に、あくまで武士との分在(役分)を明確にしたことにより、かえって自由な行動と創造が可能だったからだろう。それは藩(当時の国)を超えた認識となり、外(植民地勢力、外国事情)の要因を敏感に汲み取り、中央政府(幕府)を国家として俯瞰することによって過去の律令なり王政を検証し、かつ「公」の概念を幕府の姿から、新しい形の国体(国の在り様)として思考形成し推し進められたのだった。
そこに将来への先見と行動のもととなる志操が志士といわれる人たちに涵養された。それは口先の思想ではなく肉体化された志への覚悟でもあり、彼らはそれを至誠の学問とよんで人物から倣った。人として、そのように成りたいと。
しかし時移って、その志操堅固であり、歴史を俯瞰視して民族の倣いとなる知識人なりうる教育者は、以前の幕府同様に中央集権の普遍性からすると、ある意味では疎ましい部類の人間たちである。今でこそ何処かの教授だの、横文字留学組が政治に参画しているが、あくまで臭九老なのである。そのため教育を立身出世のステータスとして食い扶持や、管轄下にある地位を授けて、その九番目の臭い地位に置かしめているのである。
なぜなら、「人がなんと言おうと、聴くまいと我は発するのみ」と維新の先駆となった横井小南のように、そもそも在るべき新たな「公」など喧伝されたら、今どきの既得権に汲々とした食い扶持組には恐れる存在となる。また松陰のように学問とは「他と異なることを恐れない自己をつくること」などと真の個の発揮を命懸けで行動されたら、中央集権の囲いに素餐を貪る官吏、既得権者はたまったものではない。
以下次号
http://blog.goo.ne.jp/greendoor-t/d/20160207 二章 終章