津軽 黒石
《人間学》
明治以降の学制にある点数主義と記誦、記問の学による選別と立身出世の風潮は地位、名誉、財をつくっても人物を養成しなかった。つまり真の教養人の養成である。
また、どのようにしたら欲望をコントロールして公私の間を弁えるかの学問なり倣いの方策は明治以降の文部省官制学校には存在しない。
また自己を律する習慣性や、その本となる前提を是と理解する社会も群れもない。
己も解らなくなり、当然座標軸の無い思索や観照は相手を理解することすらできなくなっている。つまり無意味な知の集積は真の学歴を単なる「学校歴」に置き換え、人々は愚問を乱発して鎮まりのない騒がしい民風を作り出している。
当ブログに多く記した「四患」や「五寒」に表れる現象はその動向と結末を警世言として述べているのである。
あの戦端を決した御前会議の決断の前提にある現地の認識と、その現状を意図的に作り、かつ日本人の性癖というべき四角四面と曖昧な合議を熟知した彼等の策動は、とくに高位高官、知識人の習いとする現状証拠のみに論を立てる指導部という位置におかれている人物特有の意志欠落である。あるいは惰性というべきものだった。
近代国家とはいえ負ければ虐殺、強姦、あるいは社会構造の強制的転換は当然起きることだ。その期に及んで合議や手順は合法といえ、覚悟と責任という前提が立っていない合議は責任分散に他ならない。日露戦争の統治コントロールの基には戊辰で戦った戦士の勇気と恐れ、そして国民に対する忠恕心があった。それゆえ脳髄を振り絞り智慧や頓智も発揮できた。何よりも普遍的な「人間」そのものを知っていた。
時代が違う、状況が異なる、あるいは野暮で古臭い観念と切り捨てられそうなことだが、指導者が「信」を失くし、単なる、゛窮屈で面倒なことはお任せ゛に陥った国民との関係は文明開化以降に染められたフランス革命の前段思想のような啓蒙主義にある。その唱える自由、平等、民権などという恣意的な統治コントロールの平準化を進捗させ、国論さえ調和連帯させることができなくなった。
終戦の御前会議に列席した阿部原基内務大臣は筆者に慙愧の念を吐露した。
それは杉並区和田の自宅において自著「昭和動乱の真相」について拝聴したいことがあったことと、氏の郷里山口仙崎の蒲鉾を呈したいと訪問したときのことである。
あのゾルゲ事件のときの特高課長でもあったと聞く。
「先の大戦は外国との戦いでもあったが、日本及び日本人が次の将来を問われる内なる省でもあった。何を得て何を失くしたか・・・」
かく乱、扇動などの治安維持に努め、民情、国風を俯瞰視する氏ならではの観察、ここでは日本人の変質、その因を、天井一点を見つめながら押しつぶれたような独特な声で語っていた。
桂林の童
≪安易に誘引される人々≫
王の組織は、ゾルゲと連携し謀略によって混沌とした日中戦を誘引し、しかも奥地まで誘い込んで補給を分断し、かつ蒋介石率いる国民党の疲弊を導き共産党政権を樹立する目的があった。
周恩来は国交回復後、訪中団にこう述べている。
「日本のお陰で政権を得ることができた」
ここまでは専門家なら辿り着く内容だが、この先は秘事である。
この国際問題研究所の組織図には著名な日本人が適材として配置されている。
あくまで下部だが、青山和夫、野坂参三、加持、尾崎ホツミ、それらに連なる日本国内の人脈をたどれば別の見方が浮かんでくる。
そして重要なのは第一処(上層部)に関するものとして、英国情報部M16所属のパイル中佐が載っている。蒋介石直下でありながら多くは隠れ共産党員の組織であり、ゾルゲの謀略に協働するこの組織がパイル少佐を通じて英国が資金と情報を得るという相関がある。
まず日本人には理解できないだろう。あの田母神氏の論文でもコミンテルンと書くように、大方は表層考証も模倣で国際共産党の仕業として、中には一部の好戦的な軍人や冒険に走った官吏、アヘンの売買で秘密資金を得たもの、隠匿物資をドサクサで持ち帰った醜態までもがコミンテルンのお陰で邪魔されたと思っているのではないだろうか。
一方ではコミンテルンを作り、一方では自由と民主を煽り、互いの反目は其の実験として二十世紀を戦火の歴史に誘導した。
ことは日中の問題ではない。
観るべきは、その現象に翻弄され、いかに人間が変化したか、いや劣化したか、が重要な観点であり今の混迷の原点を押さえ、そこから思考を出発させることしか解決は無い。
作られた現象に稚拙な思惑で対処したところで劣化は止まらない。
あの近衛でさえ東條でさえ、゛いつの間にか踏み込んでしまった゛゛現状追認しか手が無い゛つまり手詰まりに陥り思索の巾を狭められた原因を、世界的な意図によって決断の選択肢まで狭められた我国の智の変質の由縁を、歴史を遡って観ることが必要だろう。
残念ながら文明開化を謳ったころ国柄とは異質な啓蒙思想を基とした官製の学制は、その由縁を観照し思索することを忌諱してきた。そして立身出世と、いまは安定という食い扶持学に堕している。
現象はあげつらったり、反論したりする機会や道具ではない。現象を多面的、根本的、あるいは時空を超えて過去や未来に自身を「仮置き」して、まず自身の考察を拡大、柔軟化しながら現象の作り手である人間を観察することが必要なことだ。
故に経済動向、政局などの一過性に自身の意を発することの意味を、己の秘奥に問うたらいい。
怨嗟、嫉妬、反目、発散、いや心配の余り、人が可哀想だから、国が気になる、いろいろあるだろうが、先ずは自身の思考座標の在りどころと変化を考えることを優先すべきだろう。そして転んだことを論ずるより、転ばぬ先の杖の姿を想像したらどうだろうか。
アジアが未開や野蛮として白人のお節介が始まった頃、アジアは亡羊としていたが夫々の棲み分けられた地域の民族には定理があった。今どきの西洋合理思考では決して届くことのない「理(ことわり)」があった。
そこに金と物と宗教を用とする支配が侵入した。あの麻生総理の唱える繁栄の弧はインド洋を越えた英国のものだった。その英国は゛アラビアのローレンス゛と装飾されたM16の工作員よってイラクはクエートと分断された。あのタゴール、スバス、パルなど多くの知識人を輩出したベンガルをインドと切り離し、フランスはベトナムの南北分離、インドネシア、東チモールはオランダによって分離、朝鮮半島は承知の事情だ。
桂林
前章に重複するが、ならば負けたのはコミンテルンのせいならば、はじまったのは何れの企てなのか。
いまだ暴論だが筆者からみた二十世紀は、共産、独裁、自由各主義の実験期間だったようにみえる。ソビエト、中国、カンボジアは主義を掲げて粛清を行なった。知識人を面倒なことをいう理屈屋として抹殺した。台湾でも国民党の上陸では、2.29事件は多くの知識人は口を封じられた。
そしてすべからく専制を試みた。それは当に為政者からすれば民を支配するための方策だったが、大きくは実験だった。
独裁はイタリアとドイツなどだが、一次大戦の後の賠償などで苦しみを味わったドイツが再び大戦争を企てたことになっているが、あの軍備にかかる資金とヒットラー総統の成り立ちが余りにもスムーズに進む不可思議と、「国際金融資本との戦い」と考えたヒットラーの歴史の頚木が今なお力を増して継続している姿に先見の予言をみるようだ。
潮流として残ったのは自由と民主を掲げ資本を自在に運用できる市場の共通化と平準だ。
人を支配するには自由と民主と平等と人権がコスト的には容易だ。好き勝手に行動し、人の嫉妬を喚起し、争いを助長させる、つまり纏まらなく騒がしい国情の増殖だ。
そして個々の人々は連帯を亡くし、調和の手立てを失い、より大きな力に寄り添い管理されるようになる。孤独を補う虚構な幸福や便利な情報と、財貨への欲求とに交換された管理だ。
その現象はモニター国家となったような我国の政党政治にみるように、群集に必然な「長(おさ)」の消滅から数多の首相の交代、争論騒がしくなった議員の狼狽、つまり国論の亡失であり官吏の腐敗堕落である。また家族も同様な乖離を現している。
その潮流を起こしコントロールする者たちの原資は情報と財力である。
その情報は平和や愛によって血の混交を善きものとして助長し、バーチャルな理想郷に色づけされる。
しかも、それを謳いながらも決して混交を行なわない民族種がある一方、表層の利便さと一過性の成功価値で飾りつつも絶対数を虚ろで怠惰で指示待ちの人間を作り出している。
それは神と精霊の志操を亡きものとして思索と観照の暇を与えないように多くの情報を降らし続け、その人々の嗜好は商工業(ビジネス)であり、パンとサーカスといわれる温泉、グルメ、旅行、イベントである。
それは被支配者を愚に誘導し集約(群れ化)する最も有効な手立てとしてギリシャ、ローマ、大英帝国の衰退に類似した社会融解の姿であろう。
アジアの西洋化はそれらの企てに色づけされ、「人が人でなくて、どうして国家が国家といえるのだろうか」と歎いた清末の読書人、梁巨川の慧眼にあるように、生命財産という「金と命」を守ると謳う民主国家の誘引に釜中の民のように飛び跳ねている。
※ 「釜中の民」釜の中にいる魚も火を炊かれれば死ぬ。その状況で水が冷たいうちは気持ちいいが徐々に熱くなるとうろたえ狂乱する譬え。
これがアジアといえるのか。
彼等はその危機への直感とそれのモトを為す人間の変質を憂慮して人物に賭けたのである。
そのように考えながら歴史の一部を切り取ってみたい
童の散歩
≪資金≫
アジアの衰徴や復興期に異民族の地で活躍した梅谷と宮元を、なぜ取り上げるのかといえば、双方とも莫大な資金を孫文、蒋介石に援助しているが、その巨額な資金を果たして彼等の個人的経済活動によって賄えたのかに不思議感を抱いたからである。
宮元は湖南省出身の実直かつ純粋な俊英と映った王と大経綸を語り合っている。また信頼する老朋友でもある。宮元の公館は軍人、経済界、浪人が混在し多くの情報が入り混じり、状況を推考できる雰囲気が漂っていた。それは特務といわれたスパイの絶好の溜り場でもあった。宮元はそこを主宰し必要とあれば資金を提供した。ならばその資金はといえば大倉財閥だという。
当時、満州の頭目は張作霖軍閥。当時海外伸張、とくに大陸は三井財閥が深い縁を持っていた。その代表的なものは無順炭の採掘である。もちろん関東軍との深い関係の下おこなわれたものだが、あの孫文に援助と引き換えに満州買収計画を企てた森格や下田歌子の逸話でもその意図は推し量れる。
そこに大倉財閥の進出意図である。その計画として国民党軍閥の司令である蒋介石への資金援助である。ともあれ三井も大倉も異民族の地での市場争奪の姿であった。
宮元には愚直なる大義があった。その理想を推し進める為にグランドを広げなくてはならない、しかも相手に資金も与えなくてはならない。その日本人らしいジレンマも大陸の地における融通無碍で、かつ開けっ広げな欲望に無限の躍動感を覚えつつ大義を包み込む余裕を悟ったようだ。
桂林 小学校
《笠木良明》
あの頃大陸に渡った男子は活きていた。
満鉄の笠木良明は自治指導部を動かし多くの若者が単身異民族の中に入って様々な協働を行なった。あの児玉誉士夫も「国内にくすぶっていないで大陸に行ったらいい。君はそのほうが似合う」と笠木に諭され大陸に渡っている。(児玉の盟友五十嵐八郎氏談)
戦後、新橋の国際善隣会館で行なわれる30名ほどの笠木会は呉越同船の様相だった。
関東軍は片倉メモで有名な片倉衷氏、総務長官星野直樹氏、次長古海忠之氏、児玉氏の主宰する交風倶楽部からは奥戸氏、興亜塾の五十嵐八郎、その五十嵐氏から武さんと呼ばれていた思想家中村武彦氏、広島宮島競艇の岩田氏、そして中国研究の佐藤慎一郎氏など多くの満州人脈と称される人物が笠木を偲んで参集した。ちなみに戦後生まれは筆者のみであった。
もちろん商工省の岸信介氏や大同学院、建国大学、あるいは大陸浪人も満州同様はつらつとした姿があった。
敢えて伏せることも多い内容だが、巷間いわれている歴史の事績が臨場感溢れる秘めた史実として語られる。とくに裃を解いた呉越同船は、施策における暗闘や衝突があからさまになり、かつ嫉妬や面子、競争の腹の底が笠木の位牌の前で明かされる、まさに異民族の地での日本人の実像秘話が語られた。
このような気風は意外と身内は理解せず、ましてや親爺の思い出話など馬耳東風で聞くようだ。また覗きや自己納得の売文の徒は相関図を推測して意図を想像するが、ことのほか純粋で自然な彼等に驚かされるに違いない。笠木は満州においてそのグランドを提供した。
毎朝、観音経を唱え、滝で修行をしたと言えば「滝つぼの鯉は年がら年中修行している」と皮肉を飛ばし、各地に雄飛する青年の覚悟と融和を説き、関東軍との抗論は舌鋒火を噴く激しさもあった実践教育者でもある笠木であった。
あの頃、どこか日本人は外に向かって元気があった。内地では収まらなくなった自身の経綸と夢があった。そして宮元も笠木も小異を拘らず大同に可能性をみていた。それは立身出世主義に飽き足らず、しかもそれに拘ることがいかに己の本質を劣化させ矜持の在りようもオボロゲニなるような内地の現状を外地から俯瞰することでもあった。
だから、まず行ってみることだった。しかも異民族に通ずるものを探しつつ、まさに烈行だった。そして貧しくとも遅れようとも黙々と、悠々と日々の営みを繰り返す彼等に忍耐ということで片付けられない「もの」をみた。加えてその「もの」を研究したり、工夫もした。それは人と社会と国では括れない人情の世だった。
幾分だが西洋文明という代物を理解し、便利さにつられた成功価値を倣いそれが近代的と思っていた日本人にとって一種の回帰でもあり、一方、民族に適した連帯と集約と生産を当時の地政的防衛の要として統制的経済の試みも行われた。それは国外という場においてインフォーマルにみる躍動と自由の能力回帰でもあった。現代の日本人の共通した欲求である「やりたいこと」ではなく、それぞれが自身にあった目的を設け「成すべきこと」グランドが満洲にあった。
山田純三郎
《二兆円》
標題の梅屋もそのグランドの造成を孫文の為に行なっている。かれは専ら資金援助である。
写真館から活動写真と多面的な事業を東南アジアで展開し多くの財を得たという。
今流に言えば、どれくらいな売り上げと純利があったかは掴み資料では皆目判明しないが、巷間言われている現在邦貨にして2兆円というが、十年でいえば毎年2000億、彼の事業はそんなに大きく儲かっていたのだろうか。国際企業トヨタの収益純利を考えても摩訶不思議な記述である。
よく彼の地を白髪三千丈といって、歴史上ビックリするくらいの数字が並べられる。
たしかに万里の長城や紫禁城、天安門をみると納得はするものはあるが、こと政治上の餓死数や戦闘死者数、虐殺数といった現場検証のつかない数字は膨大な数字が用いられる。
翻って梅屋庄吉の資金援助の現在邦貨2兆円は日本側の出版物に多く散見する数字である。
昔は「何々をしてやった」ということは大声で語るものではなかった。それが「お互い様」を篤志とする日本人の風情だった。それは争論となっている歴史認識でもいえることだが、彼等に合わせて言わなければ損という気風は、゛目には目゛の西洋風の相対的な主張に似て薄弱な人情を作り上げてしまう。
2011年は辛亥革命百周年である。胡錦濤主席も縁者の経営する日比谷松本楼を訪問した。台湾政府当局者も革命に侠助した明治の日本人縁者のリストアップをしている。
その功績は当時の政府に反対された孫文への義援を行なった日本朝野の先覚者のものであり、そもそも現代日本人の功績ではない。
まず行なうのは哀悼と感謝であろう。そして彼等の敢闘精神を倣うことだ。
彼等は憧れではない、実態とそれを培った精神の涵養の仕方まで遺してくれている。
どう考え、どのように行動し、そのために何を棄て、どこに集中して、誰のために、自らの志操と生命まで賭したのか。
この手順なら誰でもできることだ。
《華人について》
たとえ便宜上の思想でも、唯一共産主義大国として存在している中国だが、今の自由度は一点を除いて世界で一番だろう。その一点の屏風の季節替えが必然的に迫られている。その一点がいくら権力と財の拠り所だとしても内憂外患の兆しは圧力なって内外から押し寄せてくる。つまり騒がしくなるものを静かに押さえるのは強権ではなく、時宜を得たスローガンの顔の架け替えと経済分配の仕組みの再編でしかないことを知っている。
そのスローガンの顔、それが孫文的人物再来の必然なのだ。マルクス・レーニンがいまさらケインズではあるまい。中国流を推し進める他はないのである。形式的には孔孟を飾りながら厚黒学、賄賂学、という功利的な文化と、天下思想にある地球の表皮は吾が棲家という無尽かつ柔軟な思考と行動が、あの西洋のグローバルに便乗して、それをも凌駕するようになるだろう。
そして膨らんだ蛙のように爆発点を伺いつつ突き進むようになる。そのとき砂に例えられるような纏まりもなく、国家連帯意識がない民族は取り付く島として歴史を懐古し孫文を発見し一息つけるだろう。
前記の革命資金にもどるが、世界の華僑からの革命援助資金は上海の山田純三郎の家に集まった。それを子供の乳母車に乗せて革命党の拠点に運んでいる。しかも孫文は金に触れなかった。「山田さんあのことはどうなった」と常に行動をともにしている山田に尋ねている。後継者指名を山田に尋ね、蒋介石を推挙したのも山田だ。(甥 佐藤慎一郎氏談)
近年アメリカの公文書館で発見された対支二十一か条に極似した日中盟約書の署名は、中国側は孫文、陳基美、日本側は山田純三郎、満鉄理事犬塚信太郎であり、起草は外務省の小池張造と秋山真之である。このように側近として終始帯同し、臨終に際し末期の水を注いだ山田は革命資金の出納の全容を知る唯一の日本人である。また兄良政は革命資金援助を請う為に台湾民政長官後藤新平を訪れている。
「後藤は海の物とも山のものとも判らない革命に資金は貸せない。しかしこと革命だ。奪ったらいい。アモイに台湾銀行がある。その地下に金がある」と、靴底で床を何回も叩いて ゛地下だよ゛と知らせている。
あの亡命中に頭山満家の隣家に官警が乗り込んだとき、柳ごうりが一つあった。開けてみると本がぎっしり入っていた。また妻慶玲に宛てた遺書に「上海の家を・・」とあったが、抵当がいくつもついていた。そんな人物だから明治人は賛同し命まで賭したのだ。
儲かるか否か、学歴は、地位は、それが安定しているか、そんなバカバカしいことに命まで賭して平然と死に赴いたのではない。
ある共産党高官もそんな日本及び日本人を懐かしんでいた。
自身がしつらえた豪勢な料理に目もくれず他の客人に任せ、剥き身のニンニクをどんぶりに山盛りにして高粱酒を勧める高官は筆者に「国が亡くなっても人情は滅ばない」と呟いた。
一息ついた感じがした。
ひとまず終章・・・