まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

拙い縁の備忘として日中四方山話「梅屋庄吉と宮元利直、そして笠木良明」Ⅱ  10 12/3再

2018-11-23 21:13:03 | Weblog

                津軽 黒石




《人間学》

明治以降の学制にある点数主義と記誦、記問の学による選別と立身出世の風潮は地位、名誉、財をつくっても人物を養成しなかった。つまり真の教養人の養成である。
また、どのようにしたら欲望をコントロールして公私の間を弁えるかの学問なり倣いの方策は明治以降の文部省官制学校には存在しない。

また自己を律する習慣性や、その本となる前提を是と理解する社会も群れもない。
己も解らなくなり、当然座標軸の無い思索や観照は相手を理解することすらできなくなっている。つまり無意味な知の集積は真の学歴を単なる「学校歴」に置き換え、人々は愚問を乱発して鎮まりのない騒がしい民風を作り出している。

当ブログに多く記した「四患」や「五寒」に表れる現象はその動向と結末を警世言として述べているのである。

あの戦端を決した御前会議の決断の前提にある現地の認識と、その現状を意図的に作り、かつ日本人の性癖というべき四角四面と曖昧な合議を熟知した彼等の策動は、とくに高位高官、知識人の習いとする現状証拠のみに論を立てる指導部という位置におかれている人物特有の意志欠落である。あるいは惰性というべきものだった。

近代国家とはいえ負ければ虐殺、強姦、あるいは社会構造の強制的転換は当然起きることだ。その期に及んで合議や手順は合法といえ、覚悟と責任という前提が立っていない合議は責任分散に他ならない。日露戦争の統治コントロールの基には戊辰で戦った戦士の勇気と恐れ、そして国民に対する忠恕心があった。それゆえ脳髄を振り絞り智慧や頓智も発揮できた。何よりも普遍的な「人間」そのものを知っていた。

時代が違う、状況が異なる、あるいは野暮で古臭い観念と切り捨てられそうなことだが、指導者が「信」を失くし、単なる、゛窮屈で面倒なことはお任せ゛に陥った国民との関係は文明開化以降に染められたフランス革命の前段思想のような啓蒙主義にある。その唱える自由、平等、民権などという恣意的な統治コントロールの平準化を進捗させ、国論さえ調和連帯させることができなくなった。

終戦の御前会議に列席した阿部原基内務大臣は筆者に慙愧の念を吐露した。
それは杉並区和田の自宅において自著「昭和動乱の真相」について拝聴したいことがあったことと、氏の郷里山口仙崎の蒲鉾を呈したいと訪問したときのことである。
あのゾルゲ事件のときの特高課長でもあったと聞く。

「先の大戦は外国との戦いでもあったが、日本及び日本人が次の将来を問われる内なる省でもあった。何を得て何を失くしたか・・・」
かく乱、扇動などの治安維持に努め、民情、国風を俯瞰視する氏ならではの観察、ここでは日本人の変質、その因を、天井一点を見つめながら押しつぶれたような独特な声で語っていた。







                


             桂林の童



≪安易に誘引される人々≫

王の組織は、ゾルゲと連携し謀略によって混沌とした日中戦を誘引し、しかも奥地まで誘い込んで補給を分断し、かつ蒋介石率いる国民党の疲弊を導き共産党政権を樹立する目的があった。
周恩来は国交回復後、訪中団にこう述べている。
「日本のお陰で政権を得ることができた」

ここまでは専門家なら辿り着く内容だが、この先は秘事である。
この国際問題研究所の組織図には著名な日本人が適材として配置されている。
あくまで下部だが、青山和夫、野坂参三、加持、尾崎ホツミ、それらに連なる日本国内の人脈をたどれば別の見方が浮かんでくる。

そして重要なのは第一処(上層部)に関するものとして、英国情報部M16所属のパイル中佐が載っている。蒋介石直下でありながら多くは隠れ共産党員の組織であり、ゾルゲの謀略に協働するこの組織がパイル少佐を通じて英国が資金と情報を得るという相関がある。
まず日本人には理解できないだろう。あの田母神氏の論文でもコミンテルンと書くように、大方は表層考証も模倣で国際共産党の仕業として、中には一部の好戦的な軍人や冒険に走った官吏、アヘンの売買で秘密資金を得たもの、隠匿物資をドサクサで持ち帰った醜態までもがコミンテルンのお陰で邪魔されたと思っているのではないだろうか。

一方ではコミンテルンを作り、一方では自由と民主を煽り、互いの反目は其の実験として二十世紀を戦火の歴史に誘導した。

ことは日中の問題ではない。

観るべきは、その現象に翻弄され、いかに人間が変化したか、いや劣化したか、が重要な観点であり今の混迷の原点を押さえ、そこから思考を出発させることしか解決は無い。
作られた現象に稚拙な思惑で対処したところで劣化は止まらない。
あの近衛でさえ東條でさえ、゛いつの間にか踏み込んでしまった゛゛現状追認しか手が無い゛つまり手詰まりに陥り思索の巾を狭められた原因を、世界的な意図によって決断の選択肢まで狭められた我国の智の変質の由縁を、歴史を遡って観ることが必要だろう

残念ながら文明開化を謳ったころ国柄とは異質な啓蒙思想を基とした官製の学制は、その由縁を観照し思索することを忌諱してきた。そして立身出世と、いまは安定という食い扶持学に堕している。

現象はあげつらったり、反論したりする機会や道具ではない。現象を多面的、根本的、あるいは時空を超えて過去や未来に自身を「仮置き」して、まず自身の考察を拡大、柔軟化しながら現象の作り手である人間を観察することが必要なことだ。

故に経済動向、政局などの一過性に自身の意を発することの意味を、己の秘奥に問うたらいい。
怨嗟、嫉妬、反目、発散、いや心配の余り、人が可哀想だから、国が気になる、いろいろあるだろうが、先ずは自身の思考座標の在りどころと変化を考えることを優先すべきだろう。そして転んだことを論ずるより、転ばぬ先の杖の姿を想像したらどうだろうか。

アジアが未開や野蛮として白人のお節介が始まった頃、アジアは亡羊としていたが夫々の棲み分けられた地域の民族には定理があった。今どきの西洋合理思考では決して届くことのない「理(ことわり)」があった。

そこに金と物と宗教を用とする支配が侵入した。あの麻生総理の唱える繁栄の弧はインド洋を越えた英国のものだった。その英国は゛アラビアのローレンス゛と装飾されたM16の工作員よってイラクはクエートと分断された。あのタゴール、スバス、パルなど多くの知識人を輩出したベンガルをインドと切り離し、フランスはベトナムの南北分離、インドネシア、東チモールはオランダによって分離、朝鮮半島は承知の事情だ。





                

                  桂林




前章に重複するが、ならば負けたのはコミンテルンのせいならば、はじまったのは何れの企てなのか。
いまだ暴論だが筆者からみた二十世紀は、共産、独裁、自由各主義の実験期間だったようにみえる。ソビエト、中国、カンボジアは主義を掲げて粛清を行なった。知識人を面倒なことをいう理屈屋として抹殺した。台湾でも国民党の上陸では、2.29事件は多くの知識人は口を封じられた。
そしてすべからく専制を試みた。それは当に為政者からすれば民を支配するための方策だったが、大きくは実験だった。

独裁はイタリアとドイツなどだが、一次大戦の後の賠償などで苦しみを味わったドイツが再び大戦争を企てたことになっているが、あの軍備にかかる資金とヒットラー総統の成り立ちが余りにもスムーズに進む不可思議と、「国際金融資本との戦い」と考えたヒットラーの歴史の頚木が今なお力を増して継続している姿に先見の予言をみるようだ。

潮流として残ったのは自由と民主を掲げ資本を自在に運用できる市場の共通化と平準だ。
人を支配するには自由と民主と平等と人権がコスト的には容易だ。好き勝手に行動し、人の嫉妬を喚起し、争いを助長させる、つまり纏まらなく騒がしい国情の増殖だ

そして個々の人々は連帯を亡くし、調和の手立てを失い、より大きな力に寄り添い管理されるようになる。孤独を補う虚構な幸福や便利な情報と、財貨への欲求とに交換された管理だ。

その現象はモニター国家となったような我国の政党政治にみるように、群集に必然な「長(おさ)」の消滅から数多の首相の交代、争論騒がしくなった議員の狼狽、つまり国論の亡失であり官吏の腐敗堕落である。また家族も同様な乖離を現している。

その潮流を起こしコントロールする者たちの原資は情報と財力である。
その情報は平和や愛によって血の混交を善きものとして助長し、バーチャルな理想郷に色づけされる。

しかも、それを謳いながらも決して混交を行なわない民族種がある一方、表層の利便さと一過性の成功価値で飾りつつも絶対数を虚ろで怠惰で指示待ちの人間を作り出している。

それは神と精霊の志操を亡きものとして思索と観照の暇を与えないように多くの情報を降らし続け、その人々の嗜好は商工業(ビジネス)であり、パンとサーカスといわれる温泉、グルメ、旅行、イベントである。
それは被支配者を愚に誘導し集約(群れ化)する最も有効な手立てとしてギリシャ、ローマ、大英帝国の衰退に類似した社会融解の姿であろう。

アジアの西洋化はそれらの企てに色づけされ、「人が人でなくて、どうして国家が国家といえるのだろうか」と歎いた清末の読書人、梁巨川の慧眼にあるように、生命財産という「金と命」を守ると謳う民主国家の誘引に釜中の民のように飛び跳ねている。

※ 「釜中の民」釜の中にいる魚も火を炊かれれば死ぬ。その状況で水が冷たいうちは気持ちいいが徐々に熱くなるとうろたえ狂乱する譬え。

これがアジアといえるのか。
彼等はその危機への直感とそれのモトを為す人間の変質を憂慮して人物に賭けたのである。

そのように考えながら歴史の一部を切り取ってみたい


               


               童の散歩




≪資金≫

アジアの衰徴や復興期に異民族の地で活躍した梅谷と宮元を、なぜ取り上げるのかといえば、双方とも莫大な資金を孫文、蒋介石に援助しているが、その巨額な資金を果たして彼等の個人的経済活動によって賄えたのかに不思議感を抱いたからである。

宮元は湖南省出身の実直かつ純粋な俊英と映った王と大経綸を語り合っている。また信頼する老朋友でもある。宮元の公館は軍人、経済界、浪人が混在し多くの情報が入り混じり、状況を推考できる雰囲気が漂っていた。それは特務といわれたスパイの絶好の溜り場でもあった。宮元はそこを主宰し必要とあれば資金を提供した。ならばその資金はといえば大倉財閥だという。

当時、満州の頭目は張作霖軍閥。当時海外伸張、とくに大陸は三井財閥が深い縁を持っていた。その代表的なものは無順炭の採掘である。もちろん関東軍との深い関係の下おこなわれたものだが、あの孫文に援助と引き換えに満州買収計画を企てた森格や下田歌子の逸話でもその意図は推し量れる。
そこに大倉財閥の進出意図である。その計画として国民党軍閥の司令である蒋介石への資金援助である。ともあれ三井も大倉も異民族の地での市場争奪の姿であった。

宮元には愚直なる大義があった。その理想を推し進める為にグランドを広げなくてはならない、しかも相手に資金も与えなくてはならない。その日本人らしいジレンマも大陸の地における融通無碍で、かつ開けっ広げな欲望に無限の躍動感を覚えつつ大義を包み込む余裕を悟ったようだ。







              


                   桂林 小学校


《笠木良明》

あの頃大陸に渡った男子は活きていた。
満鉄の笠木良明は自治指導部を動かし多くの若者が単身異民族の中に入って様々な協働を行なった。あの児玉誉士夫も「国内にくすぶっていないで大陸に行ったらいい。君はそのほうが似合う」と笠木に諭され大陸に渡っている。(児玉の盟友五十嵐八郎氏談)

戦後、新橋の国際善隣会館で行なわれる30名ほどの笠木会は呉越同船の様相だった。
関東軍は片倉メモで有名な片倉衷氏、総務長官星野直樹氏、次長古海忠之氏、児玉氏の主宰する交風倶楽部からは奥戸氏、興亜塾の五十嵐八郎、その五十嵐氏から武さんと呼ばれていた思想家中村武彦氏、広島宮島競艇の岩田氏、そして中国研究の佐藤慎一郎氏など多くの満州人脈と称される人物が笠木を偲んで参集した。ちなみに戦後生まれは筆者のみであった。
もちろん商工省の岸信介氏や大同学院、建国大学、あるいは大陸浪人も満州同様はつらつとした姿があった。

敢えて伏せることも多い内容だが、巷間いわれている歴史の事績が臨場感溢れる秘めた史実として語られる。とくに裃を解いた呉越同船は、施策における暗闘や衝突があからさまになり、かつ嫉妬や面子、競争の腹の底が笠木の位牌の前で明かされる、まさに異民族の地での日本人の実像秘話が語られた。

このような気風は意外と身内は理解せず、ましてや親爺の思い出話など馬耳東風で聞くようだ。また覗きや自己納得の売文の徒は相関図を推測して意図を想像するが、ことのほか純粋で自然な彼等に驚かされるに違いない。笠木は満州においてそのグランドを提供した。
毎朝、観音経を唱え、滝で修行をしたと言えば「滝つぼの鯉は年がら年中修行している」と皮肉を飛ばし、各地に雄飛する青年の覚悟と融和を説き、関東軍との抗論は舌鋒火を噴く激しさもあった実践教育者でもある笠木であった。

あの頃、どこか日本人は外に向かって元気があった。内地では収まらなくなった自身の経綸と夢があった。そして宮元も笠木も小異を拘らず大同に可能性をみていた。それは立身出世主義に飽き足らず、しかもそれに拘ることがいかに己の本質を劣化させ矜持の在りようもオボロゲニなるような内地の現状を外地から俯瞰することでもあった

だから、まず行ってみることだった。しかも異民族に通ずるものを探しつつ、まさに烈行だった。そして貧しくとも遅れようとも黙々と、悠々と日々の営みを繰り返す彼等に忍耐ということで片付けられない「もの」をみた。加えてその「もの」を研究したり、工夫もした。それは人と社会と国では括れない人情の世だった。

幾分だが西洋文明という代物を理解し、便利さにつられた成功価値を倣いそれが近代的と思っていた日本人にとって一種の回帰でもあり、一方、民族に適した連帯と集約と生産を当時の地政的防衛の要として統制的経済の試みも行われた。それは国外という場においてインフォーマルにみる躍動と自由の能力回帰でもあった。現代の日本人の共通した欲求である「やりたいこと」ではなく、それぞれが自身にあった目的を設け「成すべきこと」グランドが満洲にあった。




              
 
              山田純三郎





《二兆円》

標題の梅屋もそのグランドの造成を孫文の為に行なっている。かれは専ら資金援助である。
写真館から活動写真と多面的な事業を東南アジアで展開し多くの財を得たという。
今流に言えば、どれくらいな売り上げと純利があったかは掴み資料では皆目判明しないが、巷間言われている現在邦貨にして2兆円というが、十年でいえば毎年2000億、彼の事業はそんなに大きく儲かっていたのだろうか。国際企業トヨタの収益純利を考えても摩訶不思議な記述である。

よく彼の地を白髪三千丈といって、歴史上ビックリするくらいの数字が並べられる。
たしかに万里の長城や紫禁城、天安門をみると納得はするものはあるが、こと政治上の餓死数や戦闘死者数、虐殺数といった現場検証のつかない数字は膨大な数字が用いられる。

翻って梅屋庄吉の資金援助の現在邦貨2兆円は日本側の出版物に多く散見する数字である。
昔は「何々をしてやった」ということは大声で語るものではなかった。それが「お互い様」を篤志とする日本人の風情だった。それは争論となっている歴史認識でもいえることだが、彼等に合わせて言わなければ損という気風は、゛目には目゛の西洋風の相対的な主張に似て薄弱な人情を作り上げてしまう。

2011年は辛亥革命百周年である。胡錦濤主席も縁者の経営する日比谷松本楼を訪問した。台湾政府当局者も革命に侠助した明治の日本人縁者のリストアップをしている。
その功績は当時の政府に反対された孫文への義援を行なった日本朝野の先覚者のものであり、そもそも現代日本人の功績ではない。

まず行なうのは哀悼と感謝であろう。そして彼等の敢闘精神を倣うことだ。
彼等は憧れではない、実態とそれを培った精神の涵養の仕方まで遺してくれている。
どう考え、どのように行動し、そのために何を棄て、どこに集中して、誰のために、自らの志操と生命まで賭したのか。
この手順なら誰でもできることだ



             






《華人について》

たとえ便宜上の思想でも、唯一共産主義大国として存在している中国だが、今の自由度は一点を除いて世界で一番だろう。その一点の屏風の季節替えが必然的に迫られている。その一点がいくら権力と財の拠り所だとしても内憂外患の兆しは圧力なって内外から押し寄せてくる。つまり騒がしくなるものを静かに押さえるのは強権ではなく、時宜を得たスローガンの顔の架け替えと経済分配の仕組みの再編でしかないことを知っている。

そのスローガンの顔、それが孫文的人物再来の必然なのだ。マルクス・レーニンがいまさらケインズではあるまい。中国流を推し進める他はないのである。形式的には孔孟を飾りながら厚黒学、賄賂学、という功利的な文化と、天下思想にある地球の表皮は吾が棲家という無尽かつ柔軟な思考と行動が、あの西洋のグローバルに便乗して、それをも凌駕するようになるだろう

そして膨らんだ蛙のように爆発点を伺いつつ突き進むようになる。そのとき砂に例えられるような纏まりもなく、国家連帯意識がない民族は取り付く島として歴史を懐古し孫文を発見し一息つけるだろう。

前記の革命資金にもどるが、世界の華僑からの革命援助資金は上海の山田純三郎の家に集まった。それを子供の乳母車に乗せて革命党の拠点に運んでいる。しかも孫文は金に触れなかった。「山田さんあのことはどうなった」と常に行動をともにしている山田に尋ねている。後継者指名を山田に尋ね、蒋介石を推挙したのも山田だ。(甥 佐藤慎一郎氏談)

近年アメリカの公文書館で発見された対支二十一か条に極似した日中盟約書の署名は、中国側は孫文、陳基美、日本側は山田純三郎、満鉄理事犬塚信太郎であり、起草は外務省の小池張造と秋山真之である。このように側近として終始帯同し、臨終に際し末期の水を注いだ山田は革命資金の出納の全容を知る唯一の日本人である。また兄良政は革命資金援助を請う為に台湾民政長官後藤新平を訪れている。

「後藤は海の物とも山のものとも判らない革命に資金は貸せない。しかしこと革命だ。奪ったらいい。アモイに台湾銀行がある。その地下に金がある」と、靴底で床を何回も叩いて ゛地下だよ゛と知らせている。

あの亡命中に頭山満家の隣家に官警が乗り込んだとき、柳ごうりが一つあった。開けてみると本がぎっしり入っていた。また妻慶玲に宛てた遺書に「上海の家を・・」とあったが、抵当がいくつもついていた。そんな人物だから明治人は賛同し命まで賭したのだ。

儲かるか否か、学歴は、地位は、それが安定しているか、そんなバカバカしいことに命まで賭して平然と死に赴いたのではない

ある共産党高官もそんな日本及び日本人を懐かしんでいた。
自身がしつらえた豪勢な料理に目もくれず他の客人に任せ、剥き身のニンニクをどんぶりに山盛りにして高粱酒を勧める高官は筆者に「国が亡くなっても人情は滅ばない」と呟いた。

一息ついた感じがした。


ひとまず終章・・・


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拙い縁の備忘として日中四方山話「梅屋庄吉と宮元利直、そして笠木良明」 その一 10 12/2 再

2018-11-21 03:20:21 | Weblog

 

 

部分を読めば脈略も前後して、支離滅裂のような拙い章ですが、ともあれご賢察いただければ考えるものです。文の整理も、頭の省きも世情の煩わしい小事に流されるなか、熱狂と偏見が漂う今の期にはそぐわない内容も含まれていますが、ゴマメの歯軋りと察して戴きたいと念ずるところです。

本文

ご存知だろうか・・・
梅屋庄吉は上海の写真館から東南アジアに写真館、映画産業をおこした実業家であり、孫文の革命資金を援助した人物として来年の辛亥革命百年を期に注目されている。

一方、宮元利直は北京に宮元公館を拠点に蒋介石の北伐を資金面で援助して、あの謀略機関である国際問題研究所所長の王ボン生(ボンは草冠に凡)とは義兄弟の契りを結んでいる。また安岡正篤氏の戦犯指名回避に動いている人物である。それは渋谷の東急アパートの自宅に宛てられた何通もの手紙にその状況をみることができる。

しかし宮元、安岡両氏の接点は数多の資料にもその痕跡はない。ただ敗戦後に蒋介石の招きで最初に南京に訪れたのは宮元氏であり、あの産経新聞の蒋介石秘録や映画の仲介をとったのも宮元氏である。また晩年は台湾新竹での開発に労をとったが、巷間いわれているファクサーの類ではない。ちなみに宮元は王が共産党工作員だとは戦後まで知らなかった。

一方、安岡氏は台湾断交時の特使椎名悦三郎に託された総理親書の筆を執り、「蒋介石が納得する内容だ」と言い添えているが、戦犯回避の本意である、゛利用でき得る人物゛としての留保の意図は判らないような脇の甘さは、形式納得による外交の祐筆のようにもみえる。

また終戦直前にアメリカの公文書で日本を終戦に導くために有効な人物の筆頭に安岡氏の名前が記されているが、裏面にグランドをもつ特務にとっても有用な人物として考えられていた証左である。

なぜなら戦後まもなく中華民国大使館の参事官として赴任していた王を「人物」として講演で述べているのをみても、王が影の共産党員でありながら蒋介石直下の情報機関である国際問題研究所の所長であったこと、加えてその組織の任務は日本の北進を南進に転化させ英米と衝突させ、ソ連の対独勝利のためソ満国境の精鋭をレニングラードに転戦させ、かつソ連の満州南下を企てる組織の責任者であったことは知る由もない。

安岡氏の事績を顕彰するために設立された埼玉県武蔵嵐山菅谷の安岡正篤記念館(財、郷学研修所内)には苗剣秋氏の大書が掲げられていた。筆者は硝子ケースのアメリカ公文書と軸書の撤去を促した。苗氏は張作霖に可愛がられ一高帝大、高等文官試験を経て張学良率いる東北軍の顧問となっている。また周恩来との親交もあり、あの西安事件の真の首謀者であり、国際問題研究所の日本駐在でもある。王ボン生もそうだが当時の中国エリートが容易に駆使する漢籍の文言なり学識は、我国の漢文学者にとって最も受容しやすい学の筋(スジ)だった。

それゆえ東アジアにおける漢文学は国籍をオボロゲにもできる、かつ人物観までも錯覚させるに充分な素地をもっていた。゛脇が甘い゛ということはそのようなことだろう。

講演後、佐藤慎一郎氏より「王は対日謀略の総責任者ですよ」と指摘され蒼白となり押し黙ったことでも、知らなかった、いや騙されたともいえる心中だったろう。
筆者は戦後東急アパートに住んでいた宮元氏との交流があった著述家木田紀夫から宮元氏と安岡氏の交換書簡について聴いたことがあった。木田氏はその関係する意味を知る由もなかったが王氏との関係は宮元氏の肉声として聴き、筆者に語った。それは新竹の病院建設について宮元氏の助力と木田氏の参入についての相談の合間のエピーソードの話だった。
そして宮元、王の関係を記述した「中国革命の舞台裏」を佐藤慎一郎氏に呈し、佐藤氏も王と宮元氏との関係を知った。

それによって国際問題研究所を舞台とした王、宮元、そして安岡氏の相関図を描くことができた。
また、佐藤氏の中国体験に綴られている各種の事件、孫文側近だった伯父の山田純三郎から聞いた経過などが一方は事実認識として、一方は推考としたものを繋ぎ合わせてより鮮明な構図が解き明かされた。

しかし佐藤氏も筆者も、この問題を単に明からさまにしたり、歴史の書き換えを促したりすることはしない。それは共に座標として抱いていた孫文と明治の日本人が描いた日中提携してアジアを興す、そのために人物を育成するという経綸と願目のための共感があったためだ。

 

               

 


真実を明かす、歴史の賞罰を確定する。そのようなことは考証を趣とする人々の生業だが、それぞれの当時の置かれた環境(政治的、心情的、家族)を斟酌し、互いの祖国なり衆を護るためにあらん限りの謀を絞った人間の、ある種互いの奮闘努力に共感し、理解するものであり、怨み辛みを残したり、力関係の駆け引きに使うような愚劣なる人物の登場を防ぐことでもある。

佐藤氏は中国人の民癖、人情、所作のすべてを含んだ上で登場人物をあげつらうことはなかった。自身も同時期における歴史の構成員としてその人々の止むにやまれぬ行動を理解している。そうせざるを得ない事情も熟知している。その関東軍、国民党や共産党特務の謀略も日本や中国というよりか、権力や一党一派にある人間の劣化として多くの指摘がある。その視点は将来のアジアの安寧に向けられ、つねにその志操を嗣ぐ人物の養成に懸けた。

それは安岡氏の、゛うかつ゛として王との関係を認めることとなり、安岡氏もその後の講演なり、朝野の人物足りうるものの養成に郷学を提唱して多くの事績を遺した

あの晩年を騒がせた細木氏との問題でも佐藤氏は「男でよかった、僕などは綺麗な女性を見れば漏電する。あの立場は大変だ・・」と酔談している。「公」における事情と結果については邪まなことには烈火のごとく憤慨するが、言葉は「いけないことだ」と察するように発する。

学識において佐藤氏は安岡氏を敬していた。人を褒めたことがない安岡氏も形式や器に納まることなく、衣冠財利に囚われない高潔な佐藤氏を畏敬していた

筆者も同席したときのこと、身を乗り出した両氏の懇談は余人の入る隙もなく、笑ったり、厳めしくなったり、うなずきあったり、大勢の参会者が注視する中で熱中していた。
虎ノ門教育会館や日光田茂沢行なわれていた師友会の講義も安岡氏の懇嘱で務めたりしている。あの、゛うかつ ゛な出来事が慙愧の念を共感したとしても、その厚誼は終生継続している。

筆者への多くの訓導は白山の安岡邸書斎、一方の佐藤氏は荻窪団地の三階ではあったが、通う途上の好奇な嬉しさと帰路の爽やかさはいつも変わらなかった。

佐藤氏はその ゛うかつ ゛について多くの想い出を中国体験を通じて語っている。

交流していた国民党の将官が共産党占領後、共産軍司令官になっていたという日本人なら考えられない事実の認識の、゛うかつ ゛さ。

だから国民党軍事委員会国際問題研究所のスタッフの多くとその責任者の王が共産党の謀略責任者だったことに「ありうること」と冷静に観察している。また戦後、朱徳の孫が台湾で反共新聞を作っていて、かつ共産党の重鎮である朱徳の使いで訪日して佐藤氏に日本政府高官とのつなぎを依頼している。

わけわからんょ」と何度も聴いたことか・・
だだ、日本人の中国問題研究家や知識人の理解のニュアンスとは異なる。
部分考証に囚われることなく、またそこに留まることなく異民族を体験的に熟知した上での、「なぜ」なのである。
また、その関係や経過において「人情」が重要な意味を持っているという。そして彼等の「人情は国法より重い」という日本人と思考の違いを押さえたうえで、日中相互の齟齬や錯誤がおこす謀りごとと争いの行く末を逆賭している。


「体験などあてにならない」とアカデミックな考証をする徒にすれば、対極にあるものだが、三十年続けた対中総理秘密報告の辞任を伝えたとき、「高名な学者や研究者は沢山いるが、中国人がこの問題をどのように考え、行動するかについて先生ほど的確な人はいない」といわれ「国のためなら・・」とその後暫く受任している
香港の海岸に泳ぎ着く逃亡者から中国人ですら日本人と分らない流暢な北京語で聴取したり、荻窪の団地に縁ある留学生を住まわせたり、訪ねてくる共産党高官を人情で迎え家族的に接する佐藤氏に優る人物はいないと国家の中枢は考えていた。

報告をどのように使うのかは尋ねなかったが、安岡さんと話していたときに福田(赳夫)さんが入ってきて、やぁ佐藤先生の報告書は読ませていただいています、といわれたので、そういうことか、とそのとき知った

「ただ、この報告書も全部手書きで七部作っているといったが、すぐ中国大使館に渡っていた。いゃ~参ったが、特務同士の選択した情報交換はあるようだ、しかし筒抜けとは驚いた」







                 





うかつ」について

かりにも国策決定の要にある大東亜省の顧問であり、アメリカからもそのような重要人物とみられていた安岡氏に取り付く工作員は、氏の弱点なり盲点、あるいは知識人特有の誘引される知の追及意欲を知り抜いていた。

つまり人物を見切ることについては彼等の前では童の純朴さと映っていた。
その後、安岡氏は著述に「謀略」「観人則」が多く記されるようになった。

あの岸信介氏が「このような背景があったのか・・」と嘆息した三田村氏のコミンテルン謀略論についても、これらの全貌やその背景にある英国情報機関の実態には辿り着いてはいない。すべてはコミンテルン謀略論で止まっている。

だから現在すら読み解けないのだ。説明明快と思わされているアカデミックな考証に囚われて人間、あるいは民癖の織り成す状況を数多の関係性から除外して基礎的な前提をつくり、組み立て、重ねる論証は、その方程式を提供され模倣した異文化の擬似知識人なり空想研究家には国家の紐帯は背負えない

あの孫文側近の山田純三郎の臨場感溢れる記述でも日時が違うと彼等の具にならず、ひどいときには虚偽と断定する。革命は記録のためにするものではないし、そのさなかに取れないものも、残してはいけないものがある。言葉や文にない仕草、癖、を忖度して行動することがある。

余談だが孫文は「ストマックが痛い」とあらぬところを杖の頭で指した。山田は「孫さん、ストマックはそこではないですよ」と部位を擦った。
孫さんは名医ということになっているが、医はからっきし、国家を治す名医だ
ところが記述では医者である。

人間の関係は数値やアカデミックには考えることはできるが、先には進めない。

物書きが残すものならまだしも、複雑な要因を以って人間が介在する社会なり国家は、土着的・伝承的教育(エスノペタゴジー)な考察がより重要な視点となる。再々指摘することだが、この手の人間を涵養する機会も指向もいまはない。教育機関から社会へ排出される学生に適応性を云々する前に、無駄な教科、無駄な法制、無駄な習慣を再考したらいいだろう。

しかも、流行のコンプライアンスという自縛など、人を信頼すれば解き放たれることをわかっていながら、人としての共通土台である人と人との擦り合わせを土着的に戻すことすら数値によって遮る官制学の限界を早く悟るべきだろう。

近頃でも政治主導と騒がれてはいるが、この点を当てはめてみれば混迷の度合いを深めることは当然と思われる。かつ社会の混迷と衰亡は必然である。

アメリカや中国がその原因ではない。
われわれ日本人自身に問われている問題だ。





                 








《秘話》

筆者も白山の安岡邸に訪問し初対面にて失礼をかえりみず一つだけお尋ねしたことが「宮元利直さんをご存知ですか」という問だった。聴くに達したと思われたが、一瞬の間をおいて同行の岡本氏に同友の話題を切り出していた。それは佐藤氏から件のことを伺う数年前のことだったが、前に記した宮元宅に出入りしていた著述家からの伝聞だった。筆者も思わず発した問だった。後日、事情を認識したときよくよく考えると大変な問だった。

その関連から推考し、あの新潟の岩室温泉で近衛文麿氏とのロシアを仲介とした終戦工作の秘密会談が、綿々亭で「蛍」を詠んだ漢詩のいわれから知り、まだ終戦直前の蛍の季節まで、゛其の認識だった゛、いや、゛其の認識に陥らせた゛外部からの意図にまんまと騙された、もう、゛一方゛があったと知ったと同時に、かくも易々と謀略意図に乗じたのか・・・

其の、゛一方゛とは、陸軍の意地と面子によって止められなくなった戦況を連合艦隊という虎の子が壊滅し、手足をもぎ取られた海軍大東亜省の、゛スマートエリート゛意識にある横目で陸軍を見るものと妙に意を重ね合わせた人々である。前記したが、安岡氏は戦時中に大東亜省顧問を懇嘱され受任している。

それが近衛を交えた人々の国維の護り方の陸軍との違いであり、近衛人脈に通じた上海東亜同文書院(近衛らによって創設)に連なる接点として尾崎、樺山、松本の動きであり、明治からの陸軍専横に国維大綱の変質を危惧し、別物としての改造を外部から試み、それが王ボン生、ゾルゲの謀略を装う大義と理想に誘引され、しかもこれを利用しようとして、逆に利用された結果があった。

騙されたといえば、日本では中国知識人の代表的な人物である郭末若氏だが、市川に住んでいたころにゾルゲに誘われている。理由は柔軟的人物にみるような、時の権力に風見鶏的態度をとるような、ある意味では一部知識人ありがちな狡知に期待したのであろう。

郭は、そのとおり体制が変われば反省文を書き連ねるようになった。それは時の粛清の恐ろしさは言語に絶する凄惨さと、友人や親族さえ信用を置けないような人情の破壊がソ連や後のカンボジア同様に試行され、その試験的支配形態、つまり問題意識や疑問を抱く知識人をターゲットに行い、当時の知識人は臭九老と身分十段階の下から二番目、乞食同様に扱われて下層労働者と同様な賃金に抑えられ、営みの危機さえ感じていたからでもある


《地球を俯瞰する企てに誘引される国々》

だが、これも部分現象でしかない。
実験思想であった共産という主義は、リーダーの資質やエピソードを検証することで集団化、粛清などの政策を見るようだが、スターリン、毛沢東、ポルポドは、知識人、つまり理屈、講釈を言うものを有無をいわず捕縛し粛清している。その数一億人を超える。もちろん怨嗟、反感、抵抗を誘い炙り出す手法は似ている。言いたいこと、言うべきことを問わず一過性の自由を装い、其のターゲットを一網打尽に捕縛する手法は同様だ。

理屈で考える知識人はそれにまんまと引っかかるが、もとより民癖を検証外に置き、あてにならぬ民風を民意として曲解して高邁な構想や企画を唱えても人々は、゛今日の実利゛を測って付和雷同しているのである。(民主主義)

また、そのような生き方になってしまうのも眺めなくてはならないだろうし、その泥水のような社会に蠢く人々が企てる謀略は、曲りなりに国家の存在を信じ、依頼するような清水に生きる日本人には到底理解の淵にも届かないような問題でもあろう。

相手側からすれば、あくまで防衛であり、力の無いものが力のある者を倒すのは騙し謀略であることは常であり、その連続として統治すべきスタイルを構成するのも当然なことだ。

それを認識し指導する人間。これは人物識見の問題ではない。

土壇場における人間の所作はあの満州崩壊の折、電話線まで切って居留民を置き去りにし、かつ黙って夜陰にまぎれて逃走した我国の高級軍人、高級官吏の醜態を見ても人ごととは思えない弱い部分だ。また、ことごとく肉体的衝撃に弱いのもこの部類の人たちの共通した姿でもある

 

次号に続く

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「生命」は民族種、「財産」は貨幣の価値

2018-11-19 13:22:01 | Weblog

  懐かしい異邦人 キャロル・スタンバーグ氏

 

生命は人間だけではない。おなじ環境に共生する動植物の「種」も守るべき国家の命題でもあろう。

 

政治家は、「国民の生命、財産を守る」と唱えるが、聴けば心地よく伝わるフレーズだ。

生命は命そのものだが、己の命の治癒や延命は医者の範疇だが、保険や扶助を税で補うのは確かに国家なるものだ。

なにも政治家に言われなくても、徴収された税で補うこと、そのことを突き詰めれば多少の差はあるが自己責任の範囲だ。

人間一人を(個々)考えれば、家族や社会、あるいは国家としてくくれば それぞれが部分を成している。

ならば夫々の小単位の家族など全体を構成すには、他の部分(個々)が必要であり、接合したり運動体として躍動するには共通意志も必要となるだろう。

人間は厄介なもので、生きるために喰うだけでなく、満たされれば美味く、楽しく、大量に喰うことを始める。

地球の表皮に縁あって棲みついた民族種とて縄張りをつくり、長を推戴して民族種を誇り、他を排除したりする、これは歴史の証左だ。

同化、混交、特に勝者(強者)は優勢とみなされ、男性種は他の民族の女性種と混交する。

現代の勝者は、賢い知識でも狡知でも財の所有多寡が勝者となり、また喩え仮装や偽装でも容姿が整っていれば優性とみなされ、この場合は群がるのは女性種の方だ。

     

 

いままでは勝者の収穫物のように女性は蹂躙され混交同化した。混血ゆえはじめは奇異にみられたが、優性遺伝ゆえか眉目秀麗な混血かもてはやされるようになった。平和になると商業マスコミやハリウッド(映像)は、愛と勇気を唱えで種の混交を当然如く促している。

しかし、決して混交しない民族も存在する。他に混交を奨励しても自らは混交しない。その出自をもつ物理学者は来日時に「連綿とした血筋を持つ御方を稀に見る存在として人々は畏敬の念をもつだろう」というような意味の言葉を天皇について述べている。

そう考えると種の価値、つまり地球の表皮に縁あって棲み分けられた人種が、気候環境に順化するために個々の形容、ここでは原種が変種することになるのだろう。

先の戦争でも日本人男子が多数亡くなることに、日本人種滅亡の危惧をいだいたことが終結の端になったという。

進駐軍とも多くの混交があった。満州崩壊のソ連侵攻、モンゴル軍のヨーロッパ侵攻、ベトナム戦争、セルビア、チベットやウイグルも勝者による混交が意図的、あるいは勝者の収穫として行われている。満州では男に負けじとソ連の女性兵による日本男児の捕獲も横行していた(佐藤慎一郎氏談)

つまり、「生命を守る」は延命やライフプランを描く平和時の夢想ではなく、有事に種を守ることなのだ。

ならば財産は、貯金通帳の数字や不動産ではなく、それを有効せしめる貨幣の価値と領土の専有使用になるだろう。

いまは為替や株の恣意的操作で容易に財は移動する。先の大戦の合計戦費も金融ショックで一瞬に消える世の中だ。それにより民族は金融奴隷になり、思索さえ衰える。それが自由と民主と人権や平等が名目では謳われる世界なのだ。

いくら敗者が平和憲法だと謳っても、それを盾として国を守るといっても、津々浦々に広大な土地を専有(領有)している他国の軍隊は、「いつどこにでも基地を作ることができる」「裁判権は第一義的には米軍が有する」「有事の際の指揮権は米軍に有する」を憲法外部ないし実効的には上位に明文化し、加えて基地上空の管轄空域に侵入すれば民間機でも排除される。インフラ(社会基盤整備)・教育・医療など、面倒で金のかかることは施政権として返還するが、占有している基地や関係施設は返還しない。

護られているのか、管理されているのか、まさに悲哀を感じる日本および日本人である。

これも阿諛迎合と、゛仕方ない゛に行き詰った戦後の諦観のようだ

ちなみに江戸の頃の借金証文は、「もし期日までに返せなければ満座の前でお笑いください」とある。農民から土地は取り上げなかったが、女子は年期で奉公なり働きに出された。同民族での栄枯盛衰は立場も逆転することもあるが、異国との戦争敗者は手も足も出ない。

どうにか政治体制を維持するためには、金を撒くか、詭弁をもちいるか、目を転じさせ、パンとサーカスに興味を持たせるしかない。

「国民の生命と財産を守る」

近ごろは厄介になったのか、自己責任論が目立つのはそのためなのだろうか。

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元号・・? 07 6/2 あの頃

2018-11-15 11:05:41 | Weblog


■元号に祈りを込めて

 明治以降は天皇陛下のご逝去によって新元号の制定がなされるようになったが、それ以前は一世一元ではなく、天災飢饉が起きると天皇の在位中、何度も改元している。
 それは忌まわしい現象が起きる世の中の新規復活、あるいは改新の意味を含めて天皇は新しい元号を制定して祈りを込めていた。
 

元号は国家のスローガンでもあり、時々の現象を向上、自制の意を含めてつくられ、その意味も中国の古典を引用した五穀豊穣や民生の安定といった農業社会にある、「天地に祈る」契約の意も含んだ言霊を司る姿であった。

 近代日本といわれる明治、大正、昭和、平成も、時々の国情や歴史の行く末を深く観察して、ときには警鐘として、また或るときは希望を込めて起草されていることが分かる。
 いまから十五年前にさかのぼるが、あの小渕元総理(当時、官房長官)が平成と書かれたパネルを掲げ元号を発表している。
 誰が起草したのかと騒がしい推論が横行したが、竹下総理は退任後しばらくたってから、先生を偲ぶ懇意な会合で「安岡先生に起草を依頼したものだ」と述べている。

 竹下氏の明かした安岡先生とは、いまでも多くの著作が書店の棚に並ぶ安岡正篤氏である。政財界の指南役、陽明学者など呼称されるが、いずれも真を得たものではない。
 昭和も終わろうとした頃、氏は筆者に「へいせい…」とつぶやいたことがある。
 今となっては「平成」を意味するものなのか、あるいは「平静」、もしくは悪政を意味する「弊政」なのかは判明しないが、どれも時世を観察したものであった。

 

      

       香港

 

 それは義父の碑文監修をお願いしたときのことであった。
 先生は三度精読し、丁寧な添削を終えた後こう述べている。
文章は上手、下手を問うものではない。また世情の流行ごとに迎合するものでもない。とくに頌徳文(徳を称える文)は、五十年、百年経っても起草するものの意思が、心ある人々の精神に唱えるものではなければならない。国は独りによって興き、独りによって滅びるものだ」

 天皇ご逝去の後、平成の意味として二通り出典が説かれた。
『地、平らかに天成る』『内、平らかに外成る』いずれも中国の古典である。
 前記は、天と地という絶えず調和して対(つい)となっている「絶対」離れることのないものが、地上に生息するものと自然界との不調和によって天災(現代風には大気汚染、オゾン現象)が必然的に起きるという「警鐘」とみることができる。

 後記は、家庭や内政、あるいは己の力量など「内」を養わず、外部の虚飾によって価値を測る事への自省の促しであり、民衆の嘆息をよそに外交にその評価を求めるような、歴史が説く、衰亡する国家に現われる為政者の象徴的な姿に、警鐘を与えたものと推察する。

 まさに『平成』への改元は、国家の安寧を祈り、歴史を直視して将来をも推考した安岡氏ならではの起草でもある。

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泥棒と売春婦から税金は徴収できる・?? 15 4/18 加筆

2018-11-08 09:26:59 | Weblog

長野県 鹿教湯


巷では「税金泥棒」が徘徊しているが、日本ではめったに捕まることはない。いやその仕組みになっている。
あるいは格差社会と貧困問題、くわえて男女の性文化の糜爛、もしくは若き女性の生活苦ゆえかグレーゾーン産業が盛んになっている。
以下は韓国の状況である。

ところが掲載から3年、日本はより酷くなった。「若き女性・」だけではなく、熟年と称された主婦や大学生が全国で数十万人、風俗に関わりのある闇(世間には秘密)の世界で生活をしている。なかには生活保護、母子家庭の扶養補助の補いもあれば、学費、遊興と様々だが、その供給は絶えることはない。(アンダーライン加筆)




ここでは税を取り上げて珍奇な拙論を記すが、細目に目を奪われず、韓国のみならず世界的な風潮となっている人心の動向や流れの停滞や劣情、とくにエリート層と云われる部分に顕著に表れている問題を考えてみたい。。

≪ソウル地方国税庁では、投稿された写真などから「脱税の可能性がある」と判断。現在、投稿者の身元を調べている。国税庁関係者は「この内容が事実であれば、警察を通じて売春女性の経費などを確認し、実際の所得に対する税金を納めてもらう」と話している。≫

さすがと言おうか、韓国の税制は面白い。
このことは或る女性が売春をよって得た貯金が日本円で1千万あるとネットに掲載したことによる騒ぎだ。大よその客は1000人に上るという。
日本でもバブルの頃には数千万貯めた泡姫もいたが、最後はヒモにタカラレたりホストクラブで散財してスッカラカンになった話をよく聞いた。
近ごろでは生活苦や好奇心でその世界を覗く女性もいるが、参入者(供給)が多くて選別が難しいとも聴く。その世界のことだと思っていたら何十万の女性が参入しているともいう。







金沢八景 野島



韓国では高齢者の自殺も多い。若い女性の売春従事者は海外にも飛躍して諸外国に比べても顕著だ。明け透けに売春と書くが、いっとき従事者が昼間にマスクで覆って待遇改善のデモをしていたことがあった。女ボスもいるだろうが総じて支配は男だ。
数年前は女優が性接待を強要されたと数人が自殺した。我が国でも芸能の世界にはありがちなことだと云われているが、昔は枕芸者といわれることもあった。芸者さんには気の毒だが男芸人や相撲取りもそんな言葉で揶揄された。


偽エリートの醜態

行儀の悪い成金タニマチや、世間知らずで野暮な政治家や官僚に酒を注いだり侍ったりするだけで小遣い銭をいただいていた力士や芸能人もいたが、普段は男を売る気質を演じていた。野暮と云えばノーパンシャブシャブもあった。彼らの思春期は受験で暗かった。しかも青春をスキップしたためか粋な遊びも知らない。横目でスカートを覗いたり、なかには手鏡や携帯で盗撮する者もいる。アキバでマスクをしたりダテ眼鏡をしているのは役人か教師だとおもっていれば間違いないと、その道の通はいう。

つい先ごろもタイで1万人超の少女を買春したと校長が捕まった。数値データーの集積に長けたのか、統計学でもあるまいに行為を集積していた。人生は見たり体験したりすることは多いが、ホドを弁えないとならないのは大人の世界だ。

ブラジルの日系富豪も暇にあかせて約800人の経験をノートに残した。陰毛を張り付け感想を書き記した。しかし、ある悲惨な生活をする住民を援けようと一念発起した時、一切を止めた。広大な不毛の大地に住み込み、土の匂いを嗅ぎ、舐めて味を探り、住民と困窮を共にして、その結果、不毛の大地は豊饒の大地となった。ブラジルも穀物輸出国として甦った。これも女好きだった男の転化だ。





江の島 児玉源太郎を祭神とする児玉神社


横道にそれたが、その韓国の女性を責められるのか。
一例がある。安岡正篤氏の長男が税務大学長をしていた頃、数値選別エリートが税務官僚の卵として入校した。官制学歴で部分教科のスペシャリストたちは課題を与えれば競走馬が真っすぐ走るための遮眼帯をはめたように、課題そのものに問題意識も持たず回答を探した。

要は、「売春婦と泥棒の所得徴税の算定は・・」という意地の悪い設問だった。
キャリアは懸命に思索した。売春婦の経費は「布団にコンドーム、テッシュ・・」、泥棒は「凶器の出刃包丁なり作業服に交通費・・」と様々だった。
これが税によって補助を受けた国立の学び舎の学徒である。情緒の薄い真面目さだが四角四面の理屈には易々と順応する愚かさがあった。

「もし、所得から経費をひいて納税したら売春婦や泥棒、あるいは詐欺師は社会認知ある職業になるか。子供の頃、物を盗んだり、人を騙してはいけないと教えられた。まして売春は一時の遊興であっても、政治が間違い、国民が困窮して売春が増えたら国家と言えるのか」
安岡氏はこう伝えて、
「これは罰金だ。しかも、行為の瑕疵を探し、この多寡を税収などとすれば社会は衰亡する。また政治との信頼もなくなる」
また「税はこの国への参加費だと思えばよい」
と。

つまり、勤労の結果における所得の一部を税として徴収することは社会の維持機能だが、錯覚したり、戸惑ったりした結果の触法にある罰金を、官吏のノルマ化などと多寡を数値化したり競ったりすれば、いずれ社会の信は乏しくなり、政治政策すら国民に届かなくなるという危惧だ。






逗子から江の島を


ここで標題に戻るが、韓国では売春婦から税金を徴収するというなら、認知された職業と認めることに相違ない。ならば買春も合法だ。
また、姦通罪もあったが、つい先ごろ法がなくなった。だからなのか男女の不倫が陰から這い出てきた。刑事法はなくなったが民事法は日本と同様にある。つまり出会い系のサイトや仕組みが蔓延ることだ。

民情とはそのようなものだ。
生活苦で稼いだ金が邦貨で1千万、ギャンブルやファッション、はたまたイケメンの追いかけに浪費する余裕もない。そのような若き女性に探し出して税をとる。
きっと嬉しくて人に話したかったのだろう。

安岡氏は「税と警察の姿勢で民情は好転も悪転もする」と説く。
権力に慎みもなく、国民に対して忠恕がなくなったら、富貴は他郷に逃避し貧者は奴隷化する。

まさに日本にとって他山の石のようにもみえる

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唐学と国学 (再掲載). 11. 7/4

2018-11-01 08:24:17 | Weblog

1998年天安門広場の敷石(いまは敷き変えてある)



イージス艦問題に揺れる衆議院予算委員会の質問で、元防衛庁長官の三原朝雄氏の長男が「信なくば立たず」を引用して石破防衛大臣に問うている。
両氏は世襲二世だが相感ずるところがあるようだ。

三原朝雄氏とは30年前に満州関係の席で懇談させていただいたことがある。
余談だが筆者は20代に唯一の戦後生まれとして珍しかったのか、日々多くの関係者から孫扱いで妙な戯れがあった。
当時は戦後日本を構成した満州人脈といわれ、岸,根本、十河、古海、片倉、児玉、岩田各氏は満州における政、官、軍が描いた史実の表裏を構成した方々であった。

辛口評論家の佐高信氏の著作にも「信なくば・・・」があるが、古書のためか著作権には触れないようだが、漢(唐)学の余りにも有名な一章である。
国会でもよく引用されるが、以前茨城選出の二見議員が宮沢総理に問うている。

それは日中国交交渉の折、周恩来総理から田中首相に贈った一枚の色紙に書かれた章を引用したときのことである。
二見議員は、この章を書いた周総理を讃えて、我国の政治指導者も此の様でなければならないと宮沢氏を諭している。

関連、以前のブログに有ります
2007.10.27「あの夜のこと」

ことさら目くじら立てることではないが、これは、゛してやられた゛戯れの遊び文であることは佐藤慎一郎氏や安岡正篤氏の指摘にあるが、それは翌日の中国高官から佐藤氏への伝言で色紙に書かれた文字が判り、旧知の安岡氏に伝えられたのである。

 

 

 


佐藤氏は二十年間にわたり中国、満州において市井に馴染み流暢な北京語を駆使する教育者であり歴史家でもある。またその学風は現地中国人の情緒をもとに、中国人から見た孔孟などの古典や、生活に裏づけされた俗諺などから思考形態を考察する、つまり身を浸して人と文化を学ぶ姿勢が一貫していた。そのためか、戦後は極秘の総理報告を数十年に亘り専任している。

世俗の研究者とは異なり、中国人の汗と血を知った数少ない日本人であり、何よりも民族を超えた普遍な人情は、国境を越えて口舌ではない「信なくば立たず」を地に這って実践している。周総理の色紙の内容をすぐ伝えた中国政府高官も、その人情に魅入られた人だった。

(佐藤氏について関連)
http://greendoor2.exblog.jp/
http://sunasia.exblog.jp/7292498/

 

 


一方安岡氏はいうまでもない碩学といわれる漢学者である。
色紙にある論語の一章は瞬時に解している。

ただ、佐藤氏は訪中前後の極秘情報からこの事態は想定していた。また瞬時に色紙の含まれて意味を将来の国家交流を考えるにあたって、異質な民族性癖に無自覚な日本人の姿に避けることの出来ない国家や民族の軋轢を危惧したのである。

それは政治教養にもなっている漢学素養について、またそれを鵜呑みに染まっている日本人に対して、本来養ってきた智の前提に在る情緒性と中国人のそれとの乖離を知らず、同一教典の観方を「似て非なる」ものとして認知しているかの憂慮である。

鎖国時代のように海外との交流が少なく、かつ難儀であったときの文化の良質選択とは異なり、面前応答が官民において頻繁になると、その唐学の解釈や恣意的理解に日本人が適正に応じていけるのか思案するところである。

今どきは安岡正篤氏の著書がもてはやされ、多くの人々が漢学古典にある一片一句を座右にしたり、処世の術にしたり、はたまた中国を理解するツールにしたり、なかにはロシア文学好きが、゛ロシア我が祖国゛とインターナショナルを歌ったように、巷の古典好き教養人の複雑な中国感情は、現実の口舌、行動と、古典の美章との整理もつかない軟弱な状態を作ってしまっている。政治家もそれに続く。

江戸の漢学者佐藤一斎は多くの知識人、武士階級に影響を及ぼしている。
その頃は善かったのだろう。
しかし、その漢学(唐学)に対して国学の重要性を柔軟に唱えた本居宣長も忘れてはなるまい。古事記、万葉集を判りやすく表わしたのも彼の技である。
それは日本の国土、環境によって培われ、涵養された情緒の問題としてその題材を捉え、そこから単なる教養知識や為政の具としての漢学素養でなく、日本人が「学ぶべきもの」を示唆している。

顧みれば、漢学(唐学)、蘭学などの洋学は当然のことながら外国から発生した学問である。それはその当時の問題意識と科学に対する好奇心などから多くの時の集積を経た貴重なものではあるが、もとは発生地の情緒や習慣なりに少なからず影響された論理の構成であろう。またそこには発生に必須な「負」も存在している筈だ。

ならば、邦人、および邦家はその固有なるものを座標として外来学を良機選択するべきだろう。とくに昨今の知の混積による思考の錯綜が、譬えは奇だが、゛小泉総理のワンフレーズ゛の如く、心地よい名言にその方向を委ねるとしたら児戯に等しい「無考の民」になってしまうだろう。

もし漢(唐)学が心地よいとしたなら、その情緒は発生地と「似て非なるもの」から
よく似たものになったと思うべきだろう。

確かに「色(性)」「食(グルメ)」「財」の欲望をダイレクトに求め、国家の「四患」という「偽、私、放、奢」に陥った為政者と取り巻き官吏をみると、彼の国の発生状態とよく似ている。

国学は何処か・・


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