まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

都民は、次はどうなるか解っている   13 12/4あの頃

2017-03-24 09:59:51 | Weblog

若杉参謀こと三笠宮親王殿下

支那事変の泥沼化は「日本人が日本人であることを忘れたからだ」と応える兵士の言を用いて、現地における一部の軍人の暴虐さは大御心に沿う皇軍の姿か、と幹部将校に質す。


都は、青少年健全育成には殊のほか熱心だというが・・・・・・

猪瀬氏の徳州会徳田氏からの借金だが、都知事としては担ぐには軽かったが都合の良い演者に史上最高の得票を与えた都民もあの頃のお祭り騒ぎを忘れている。
与党だった、と過去形になった自民、民主、公明も然り、ほかの野党もうち揃って猪瀬おろしに勤しんでいる。それに悪乗りしているのがマスコミだが、弱いと見ればカサになって切るのは彼らの常套手段だ。

以前のブログではオリンピック招致に勤しむ猪瀬氏の軽はずみの言動と、たどるであろう行く末を憂慮した。しかし、待ってましたとばかり仕組まれたようなカネの問題に、これまた準備していたかのようにマスコミ、議員が追求する。
それは招致決定に踊る後任の姿に、言うも言われぬ戸惑いと苦いものを飲み込んだような前任者の当初の姿に、妙な感覚を察知した都民は多かった。
一方は思惑通りの夢は見られず、一方はのぼせた様に胸をそり返す、見ている方が虚しくなる光景だった。

あの頃前知事の石原氏は維新の橋下知事の勢いに乗って、あわよくば国政を担おうと夢見た、あとは誰に任せてもよかった。それが猪瀬氏だ。石原氏と徳田虎雄氏の縁は古い。
本来なら裏に隠れる資金で、選挙と理由をつければ何に使っても自由な金、小遣いのようなものだ。もちろん手を出したさもしい者たちは数知れず、いつもながらの検察の思惑がなければ捜査二課の選挙事案と絡めた贈收賄で一網打尽になり、津々浦々の徳州会病院も事後整理の天下りが確保できたはずだ。

石原氏も余計な土産を置いていったもので、恩を着せたつもりだがとんだオツリがついてきた。猪瀬氏も誰も知られることがなければ貰ったようなものだが、風態の賎しさは要らぬことまで暴き立てられる。わざわざ金の入った紙袋を見えるところに置いていたことも不思議だが、捜査員を招き入れ、彼らの手柄功名をくすぐってリークさせる影の思惑が、猪瀬排除だとしたら、猪瀬氏以外は皆、演者だ。これだけのキャストを使えるのは限られた人間だが、しばらくしたらスグ解る類だ。こうなったら都議風情は裏に隠れた親分の気持ちを最大限に忖度して功名争いに勤しみ、マスコミは辞めた結果に訪れるであろう図柄を承知で都民を煽る。
陛下の留守中にもかかわらず民度の低さを世界に発信して、数十年ぶりの日印訪問に泥を塗っている。総理の動向は1面でも陛下の動向は26面という扱いの産経も同様である。

総理が小遣いを抱えて海外を飛び回り配っている記事と、お元気になられた両陛下が歴史的にも縁が深く、外交的にも親密さを増すインド訪問に国家の顔として訪問される陛下の行動意義の報道すらできない、つまり秤の軽重すら分別できなくなった政官財とマスコミの姿は表層の国力より深層の情緒を抱く国民の方向意思とは異なるものだ









国民の多くは、次がどうなるか分かっている。だからどうでもいいのだ。権力者や近頃では治安機関までもがマスコミの煽る騒然とした捕物ごっこや嫉妬を世俗の流れと勝手に錯覚して、久しぶりの活躍を見せているようだが、落ち着きのない騒がしさは一層のウツロイさえ感じさせる。どんな態度で陛下の帰国をお迎えするのだろうか。

岡っ引きは小者を捕まえて政権に媚を売り、税官吏とて虎視眈々と徴収を考えている。省益とやらを描く群れはハイエナのごとく餌場を拡大し、今まで甘い汁を吸っていた政治家はいっときは沈殿する。副知事の頃に補助金を出したというが、徳田氏と懇意な石原都知事の専権事項である。小遣いをもらいに鼻面引かれて行ったのは小物の迂闊さだが、同じ釜から飯(金)を食えば仲間だ。与党でさえオリンピック招致ができて知事が安定すれば、もみ手で擦り寄る連中だ。前知事が強健で徴収した果実や今度想定できる莫大な予算を、あの小者の自由にされたら適わないとおもう連中もいただろう。

よく、独りよがりの欲得や過大な妄想は浮俗な国民から見れば面白い舞台である。だが思惑通りに行かないと滑稽な笑いを誘うが、いたって真面目な演者は興奮すると見栄きりやオチを忘れて終演後に悲哀をかこうことがある。とくに政治舞台はその類が多い。
じっと洞が峠を決めて眺めているのは狡猾な官吏だが、負い目になるとカサにかかるのもその群れだ。つまり相手にしなくなるのだ。

また、床の間の石のようなどうでも良い人間がその席を占めるだろうが、お飾りには違いない。あの世界のオリンピックに巣を作るハゲタカの前で公言した「キャッシュで4000億用意している・・」税金は外のハゲタカと内のシロアリの餌になるだろう。
世間は結婚式でさえジミ婚、いまだにアベノミクスは庶民には届かない、いや届かないのは中間搾取と温室規制に能力をなくした金融機関だという。もっと探れば省益の枝に分かれた別宅の宴となって、裏備蓄の増大に功をなしているとも言われる。

心がけの問題だが、あの三度の飯を二度にしても震災地に援助するといっていた台湾の人たち、戦後補償や援助もなく高らかに生きている元日本人に、今の日本人はどう映るのだろうか。もう、喉元は過ぎたのか・・・・

もともと下座観の乏しい青年宰相だが、その突破力と政策の躍動に期待したが、深層の国力の涵養には届くすべも持ち合わせてはいないようだ。数値で見る経済、軍事力は権力者の成果だが、マスコミもそこに群がっているゆえか、国民は掲げられたボードしか興味がなくなってきている。しかも、たかだか努力結果で上下する数値を他国との比較目標とする現世利益の細切れ政策は、一方での人間の尊厳護持と継続性を願う「輔弼」としての任務の有り様さえ無理解にして忌避しているようにも見える。


よって、次の起きること、そして招来するその姿が国民賢者に解るのだ。
よく、胸に手を当てて考えるべきだ。
そして、「留守中は変わりなかったか」と、仰せられても堂々と応えられるような政権受任者であって欲しい。

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安倍君は国家に憑依する魔物を見たか   14   12/7再

2017-03-22 09:17:37 | Weblog


公僕を看板にして、或るときは軍の僕(しもべ)として装い、或るときは民の下僕として無謬性を仮装し、あらゆる思想形態さえもその身を偽装して主となる民もしくは推戴された為政者でさえも翻弄する一群がある。それはバチルスの如く増殖しながら時の政体に寄生する。
それは骨付き筋肉のように弛緩と硬直を繰り返し、ときに刺激や麻痺を注入しつつ老化の自覚さえオボロゲニさせている。

しかも彼らの所有物ではない財をあたかも使用専用権の如く恣意的に乱費し、その政策瑕疵や推定効果の誤りを四角四面の成文法規に隠れつつもグランドに放置して、その責任を我が身に憂うることもなく、浮俗の民に選任された職業政治家の陰に隠れ、しかも政治家の無知無理解をよいことに、その責任まで彼らに放置する。
名利衣冠に汲々とする政治家は、票田に伏し貪官に媚びて社会の安寧を大声で偽装し、大義ですらその口舌の具になっている。

政治家の頓首や反省は一過性の姿態となり、彼ら茫洋とした一群の起こした瑕疵の陳謝に腹話術のように明け暮れる。そこには責任の受任意識などなく、唯、成文法規のグランドに立ちすくみ彼らが経験と呼ぶ経年の残滓を積み重ねるだけだ。

小人(小者)は利に集い、利が薄くなれば散ず」の譬えあり、分党、分派の離合集散は恒例となり、「小人の学は利にすすみ」その目的は政党助成金と己の失業対策となり腰の落ち着きのなさは甚だしい。

民は無関心を装いつつも嫉妬と怨嗟は、一方の不特定多数への忠恕心をよそに際限のない淵に達している。為政者の政策は中抜き、骨抜きのごとく、かつ隣国の公司の倣い、彼らの仮倉庫である独立行政組織に吸い込まれ天下りの数多の桃源郷を構成している。

「上下交々(こもごも)利をとれば国危うし」隣国の古典の浅智慧でさえ容易に模すことができるが、昨今はそれが堂々と鮮明になってきた。彼ら群れの醜態はお手盛り政治家のつくる法の便宜的粗製では直ることではない。いや煩雑となった法は社会とのバランスを失い、より彼らの恣意的な偏向理解によって増殖するだろう。








どこか明治の残滓のように国家の暗雲となった軍および軍官吏や財閥の伸張に似ていないだろうか。これをこの国の組成された官癖だとしたら、その脱却こそ戦後レジームに唯々諾々として順応し、増殖している群れの実態だろう。為政者はスローガンの前に腐った根を断ち切らなければ、国家は内壊すること必然だ。

それは議会でのパワーを背景にした安倍君でも難しいだろう。避ける、除けるは論外だが、この点に問題意識がなければ、憲法も、自衛も教育も枝葉末節な争論で終始するだろう。
政権さえ思うがまゝに支配する姿なき巨大な魔物は、すでに国家に憑依し、隅々まで浸透している。

自浄なき国家の弛緩や怠惰は堕落にすすみ衰亡する。
側近は人目を気にして商業マスコミを懐柔しているという。彼らとてその伴食を願う売文の徒だ。うら若き女性やイケメン、横文字経歴を並べて飼育しているが、そんなバナナの叩き売り選挙のような指定選択はろくな人材はいないと有権者も感じている。
ただ、いつの間にか・・・、この行き着くところの憂慮に対する感度がなくなっている

どうだろう。安倍君も巨大になった群れのつくる蜘蛛の巣から脱出できるだろうか。
これを知らしめることこそ為政者の務めであり輔弼としての責務だ。

これを大声で言えるようになれば投票率は上がること請け合いだ。
そして、国家にとって真の勝利は自ずと訪れる。

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生活の為の、゛食い扶持゛

2017-03-07 11:30:38 | Weblog



前三篇の「田母神インテリジス・・」については、筆者の備忘録を騒擾とした世情に当てはめたものだが臨場感あふれる実行者のオーラルヒストリーや外地の未公開資料の表層を記した。

それさえも難解なものであろう。とくに偏って刷り込まれた知識ならず基礎的観察座標は多くの歴史的観察を惑わしている。しかも時を経て其の都度書き直しの愚を起している。

とは申せ「それがどうした・・」という見方もある。
実利を追求していると思っている、゛食い扶持゛至上の見方だ。






              ヤマウチ・タツオ


何を隠そう、地を這うような労働に歎き、運命論に囚われ怠惰になった一時の筆者の心地だが、精霊からの恩恵意志まで前提食い扶持に落ち込まなかったのは、多くの縁の訪れによって運ばれた喜怒哀楽を同感する人々の恩恵だった。それは転化を促すとともに利他への貢献を教えるものだった。

それは「思い込み」を溶かすように多面的、将来的、根本的な思索への誘導のようだった。いまだ性根も弱いが「ホド」は弁えいてるつもりだ。それも安岡老が耳タコのように「無名かつ有力」という下座観、俯瞰視の涵養の勧めと、多岐にわたる先哲、先覚者の回顧にみる矜持の持ち様だった。

それを座標として国家なり人なりを観察しながら逆賭することが我を客観視し意志なり主義なりを構成する精神を、ある意味では柔軟に自身を運行(躍動)させることを習いとするようになった。



              





頑なで、偏屈とも映る向きもあろうが、己の潜在意思を恐怖に似た境地で解き明かすと数多の歴史先哲が述べた「我、何人ぞ」に行き着くのが解るようだ。

゛情報という狡知にがんじがらめになって己の実態すら認知できなくなったら、田舎に入って自然と戯れなさい゛と学生に伝えるのだが、ふと思い出すのは毛沢東やポルポトやスターリンが行なった下放政策である。

糜爛した都会の知識人を農村で従事させる、たしかに虐政でもあるが覚醒の体験としては下座観と世界観の肉体的、精神的な更新には役立つだろう。

中国の歴史では儒者(知識人、読書人)は十階級の下から九番目として九儒として蔑み、毛沢東は臭九老として扱い、当時はタクシードライバーと同じ俸給である。

日本では有名な学者でも本国では「あいつは政権が代わるごとに反省文を書き擦り寄っている」といわれている。また「姿は文化人だが著書の部数やノーベル賞のために翻訳と書評の下駄はきを懇願する、それが彼等の言う文化の世界だ」とも辛辣な知識人評が定着している。

なかには中国情感の好きな人間には孔孟を説き、八百よろずの茫洋な自然観を説くインドの民のヒューマニティー論?や、ロシア文学に傾倒して共産主義に共感を持つものも出てくるような、ある意味では融通無碍、無為無策ならず「借策」にをいともアカデミック的(学術的)な形式を装うことを勘違いしている知識人が多い。

それらの知識人、教育者とは言われるが、゛食い扶持゛をもっぱらとしている稼業知識人、つまり政治、経済、マスコミ、商業出版、教育産業の素餐として走狗に入る一群である。


「檀」とか「界」を構成し親分子分の契りを結んで「権」を為し、商売人に其のカスリの集金を任せて自らの手を汚さないような合理的かつ科学的なシステムを階級構成している文化とはなんなのだろうか。

平らに言う「評」などはなく、また吾を言う「語り」を失くし、舌の上下に終始する舌が言う「話」を磨き、食い扶持に堕した者の戯言に一喜一憂する政治家、軽?済人が蠢く国柄に永く続いた歴史はない。

コメント (2)
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