台北中山記念小学校 生徒会長 植樹
数十年も通い慣れた横浜中華街だが、これほど清々しく彼等の笑顔を見たことは無かった。それは台湾系だけでなく大陸系の華僑にも伝播した。
古老が亡くなれば誰からともなく知らせが届き、葬儀に参列したりして多くの縁があったつもりだが、この歓喜に近い故国への賛辞は懐かしくもうらやましい姿だ。
ことは災害に際しての台湾の援助のスピードと量についての驚きだった。
『聴いて、きいて・・すごいね台湾は。私は日本で生まれて此処の小学校を出て、ずっと中華街で暮らしているがこんな嬉しいことはないね』
普段は感情表現も少ない初老の女性店主である。生き字引のように人で、ある意味日本人のような視点で華人を見ているが、近頃の新華僑といわれる華南系との軋轢が目立ってきた旧華僑になる女性だが、日頃の鬱憤が一挙に吐き出されたようだ。
『国民党も民進党もないよ。今回の台湾のやり方はすごい。私は、政治は嫌いだが今の総統は偉い。善いことには人の顔色を見たら何もできない。困ったらお互い様だょ』
「本当に嬉しそうだね。今回のことは本当にありがたい。でもお詫びしなければならないのは、中国に遠慮して政府の対応が、始めはっきりしなくて迷惑をかけてしまった。日本人として恥ずかしい。先日も代表にお詫びを申し上げた」
『分かってるよ・・・』

台北駐日経済文化代表処 馮寄台代表
あの時日本政府は台湾と断交した。嬉々として日中友好に躍った。
台湾は日本を仁と義の国として歴史を積み重ねてきた。
今回、台湾は仁と義を日本に教え、行動した。また、名目と実情の曖昧さの中で両国は交流してきた。親中や和中と様々な繕いがあるが、親しくなってから和することは至極当然だ。日本の妙な危惧は、あの断交後の台湾の苦渋を未だに理解していない証左だろう。
日本人は米国以外に、しばらく頭を上げられない人々がいることを理解するだろう。
「ありがとう」しばし日本人が失くした言葉だ。
゛幾ら援助したのに礼もない‘、近頃よく聴く日本人の言葉だが、今度は利権キックバックもない仁と義の浄財だ。台湾国民の汗だ。
夫婦喧嘩でも都合のいい方に付くと、仲直りしたとき嘲られるのは人の常だ。
一過性の富財が無くなり、人心も怠惰薄情になったとき、国家も侮られる。
彼女は日本の政府対応は非難しなかった。彼女は筆者の難渋を理解していた。それが華人の生き方であり情なのだ。日本に帰化して故国の非難を悪しざまに書き連ね、それが軽薄な日本人の歓心をかうことを計算する文筆家もいるが、彼女には父の母国を非難する心はない。
政治は解らないというが、台湾のおかれている事情も熟知している。大陸との間を測る姿は、日本における華人の生き方に似て芯を包むような柔軟さがある。また笑顔に包まれた意味を知っている。
いま、震災の影響で横浜中華街は閑散としている。理由は中国人調理人やスタッフが帰国して店が運営できないこともある。それは都内のコンビニのアルバイトや東京で生活を営むファミリーも一斉に帰国したため、アパートマンションを引き払い不動産状況も激変したことも同様な影響を与えている。
理由は地震に仰天したこともあるが、福島原発の放射能に瞬間反応したことでの一斉帰国だ。
振り返ってみると外国人の流入が顕著になったのはイラン、パキスタン、バングラデッシュなどの若者達だった。景気が悪くなるとその流れは中東に向かった。次は韓国と中国、そしてインドになった。またフィリッピンの女性もホステス、ダンサーとして訪れた。彼等は技術知識を習得して母国に戻るもの、あるいは日本人と姻戚関係をもって永住している方々も多い。
異なるところは、彼女は台湾での当時の日本人を知っている。それは語り伝えられて生活に浸透している。中国の力を恐れて浮き足だして海外に逃避する台湾人も知っているが、祖国を捨てない人々がいることも知っている。
当時の日本人の愛顧は、今でも彼女の生活姿勢となって日本人と暮す中華街が好きだ。
だだ、商売になると近隣の挨拶など付き合いを大切にするあまり、新華僑の姿に苦情が出る。゛どうして、そうなんだ゛という煩いである。
彼女は、変わりない生活を続けている。景気が落ち込もうが、災難があっても、淡々と生活を営んでいる。そこに久々、祖国の感動を添えた行動が厳然と行なわれた。
『すごいね、台湾は』
何度となく繰り返された言葉だ。
≪すごいね、日本は≫
ついぞ、聴かれなくなった。
数十年も通い慣れた横浜中華街だが、これほど清々しく彼等の笑顔を見たことは無かった。それは台湾系だけでなく大陸系の華僑にも伝播した。
古老が亡くなれば誰からともなく知らせが届き、葬儀に参列したりして多くの縁があったつもりだが、この歓喜に近い故国への賛辞は懐かしくもうらやましい姿だ。
ことは災害に際しての台湾の援助のスピードと量についての驚きだった。
『聴いて、きいて・・すごいね台湾は。私は日本で生まれて此処の小学校を出て、ずっと中華街で暮らしているがこんな嬉しいことはないね』
普段は感情表現も少ない初老の女性店主である。生き字引のように人で、ある意味日本人のような視点で華人を見ているが、近頃の新華僑といわれる華南系との軋轢が目立ってきた旧華僑になる女性だが、日頃の鬱憤が一挙に吐き出されたようだ。
『国民党も民進党もないよ。今回の台湾のやり方はすごい。私は、政治は嫌いだが今の総統は偉い。善いことには人の顔色を見たら何もできない。困ったらお互い様だょ』
「本当に嬉しそうだね。今回のことは本当にありがたい。でもお詫びしなければならないのは、中国に遠慮して政府の対応が、始めはっきりしなくて迷惑をかけてしまった。日本人として恥ずかしい。先日も代表にお詫びを申し上げた」
『分かってるよ・・・』

台北駐日経済文化代表処 馮寄台代表
あの時日本政府は台湾と断交した。嬉々として日中友好に躍った。
台湾は日本を仁と義の国として歴史を積み重ねてきた。
今回、台湾は仁と義を日本に教え、行動した。また、名目と実情の曖昧さの中で両国は交流してきた。親中や和中と様々な繕いがあるが、親しくなってから和することは至極当然だ。日本の妙な危惧は、あの断交後の台湾の苦渋を未だに理解していない証左だろう。
日本人は米国以外に、しばらく頭を上げられない人々がいることを理解するだろう。
「ありがとう」しばし日本人が失くした言葉だ。
゛幾ら援助したのに礼もない‘、近頃よく聴く日本人の言葉だが、今度は利権キックバックもない仁と義の浄財だ。台湾国民の汗だ。
夫婦喧嘩でも都合のいい方に付くと、仲直りしたとき嘲られるのは人の常だ。
一過性の富財が無くなり、人心も怠惰薄情になったとき、国家も侮られる。
彼女は日本の政府対応は非難しなかった。彼女は筆者の難渋を理解していた。それが華人の生き方であり情なのだ。日本に帰化して故国の非難を悪しざまに書き連ね、それが軽薄な日本人の歓心をかうことを計算する文筆家もいるが、彼女には父の母国を非難する心はない。
政治は解らないというが、台湾のおかれている事情も熟知している。大陸との間を測る姿は、日本における華人の生き方に似て芯を包むような柔軟さがある。また笑顔に包まれた意味を知っている。
いま、震災の影響で横浜中華街は閑散としている。理由は中国人調理人やスタッフが帰国して店が運営できないこともある。それは都内のコンビニのアルバイトや東京で生活を営むファミリーも一斉に帰国したため、アパートマンションを引き払い不動産状況も激変したことも同様な影響を与えている。
理由は地震に仰天したこともあるが、福島原発の放射能に瞬間反応したことでの一斉帰国だ。
振り返ってみると外国人の流入が顕著になったのはイラン、パキスタン、バングラデッシュなどの若者達だった。景気が悪くなるとその流れは中東に向かった。次は韓国と中国、そしてインドになった。またフィリッピンの女性もホステス、ダンサーとして訪れた。彼等は技術知識を習得して母国に戻るもの、あるいは日本人と姻戚関係をもって永住している方々も多い。
異なるところは、彼女は台湾での当時の日本人を知っている。それは語り伝えられて生活に浸透している。中国の力を恐れて浮き足だして海外に逃避する台湾人も知っているが、祖国を捨てない人々がいることも知っている。
当時の日本人の愛顧は、今でも彼女の生活姿勢となって日本人と暮す中華街が好きだ。
だだ、商売になると近隣の挨拶など付き合いを大切にするあまり、新華僑の姿に苦情が出る。゛どうして、そうなんだ゛という煩いである。
彼女は、変わりない生活を続けている。景気が落ち込もうが、災難があっても、淡々と生活を営んでいる。そこに久々、祖国の感動を添えた行動が厳然と行なわれた。
『すごいね、台湾は』
何度となく繰り返された言葉だ。
≪すごいね、日本は≫
ついぞ、聴かれなくなった。